HOME | TOP | 目次 | BACK | NEXT

第9節 人が種々の感情によってキリスト教信仰に多くの時間を費やすようになり、外的な礼拝義務に熱心に打ち込みがちになったとしても、それが真のキリスト教信仰の性質を有しているかどうかを示す確かなしるしにはならない

 理不尽にも、最近、一部の人々の信仰的な感情に反対する論拠とみなされていることがある。それは、ある人々が、聖書を読み、祈り、賛美歌を歌い、説教を聴くなどすることに、あまりにも多く時間を費やしすぎる、ということである。だが、聖書からはっきり示されているように、真の恵みには、人をしてそうした種々の信仰的な義務の励行を非常に喜ばしく思わせる傾向がある。真の恵みは、女預言者アンナにこの効果を及ぼしていた。「彼女は宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていた」*(ルカ2:37)。また、恵みはこの効果を、エルサレムの初代教会のキリスト者たちにも及ぼしていた。「そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し……た」(使2:46、47)。恵みはダニエルをして祈りの義務を喜ばせ、一日に三度、その義務に厳粛に携わらせていた。それはダビデも同じであった。「夕、朝、真昼、私は祈る」(詩55:17 <英欽定訳>)。恵みは聖徒らに、神への賛美を歌うことを喜ばせる。「主の御名にほめ歌を歌え。その御名はいかにも麗しい」(詩135:3)。また、「ハレルヤ。まことに、われらの神にほめ歌を歌うのは良い。まことに楽しく、賛美は麗しい」(詩147:1)。それはまた、彼らをして神のことばの説教を聴くことも喜ぶようにさせる。それは、彼らにとって福音を喜びの叫びとし(詩89:15)、この良い知らせを告げ知らせる人々の足を美しくする。「良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ」、云々(イザ52:7)。それは、彼らをして神への公の礼拝を愛させる。「主よ。私は、あなたのおられる家と、あなたの栄光の住まう所を愛します」(詩26:8)。また、「私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために」(詩27:4)。「万軍の主。あなたのお住まいはなんと、慕わしいことでしょう。私のたましいは、主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。----雀さえも、住みかを見つけました。つばめも、ひなを入れる巣、あなたの祭壇を見つけました。万軍の主。私の王、私の神よ。なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。彼らは、いつも、あなたをほめたたえています。なんと幸いなことでしょう。……その心の中にシオンへの大路のある人は。----彼らは、力から力へと進み、シオンにおいて、神の御前に現われます。」(詩84:1、2以降)。----「まことに、あなたの大庭にいる一日は千日にまさります」(10節)。

 これが真の恵みの性質である。しかしやはりその一方で、人がキリスト教信仰の外的な義務に数限りなく携わり、それらに熱心に打ち込むようになり、多くの時間を費やしがちになったとしても、それは決して恵みの確かな証拠ではない。なぜなら、こうした傾向は、全く恵みを持たない多くの人々にも見受けられるからである。たとえば古のイスラエル人がそうであって、彼らの種々の奉仕は神にとって忌むべきものであった。彼らは新月の祭りと安息日に集い、会合の召集を行ない、手を差し伸べて祈っており、祈りを増し加えていた(イザ1:12-15)。またパリサイ人たちもそうであった。彼らは、長い祈りをし、週に二度断食していた。まがいもののキリスト教信仰は人をして声高に、また真剣に祈らせることがある。「あなたがたは今、断食をしているが、あなたがたの声はいと高き所に届かない」(イザ58:4)。そうした、霊的でも救いに至るものでもない信仰は、人をして種々の信仰的な義務や儀式を喜ばせることがある。「しかし、彼らは日ごとにわたしを求め、わたしの道を知ることを望んでいる。義を行ない、神の定めを捨てたことのない国のように、彼らはわたしの正しいさばきをわたしに求め、神に近づくことを望んでいる」(イザ58:2)。それは彼らをして、エゼキエルの言葉を聴きに来た者らのように、神のことばの説教を聴くことを喜ばせることがある。「彼らは群れをなしてあなたのもとに来、わたしの民はあなたの前にすわり、あなたのことばを聞く。しかし、それを実行しようとはしない。彼らは、口では恋をする者であるが、彼らの心は利得を追っている。あなたは彼らにとっては、音楽に合わせて美しく歌われる恋の歌のようだ。彼らはあなたのことばを聞くが、それを実行しようとはしない」(エゼ33:31、32)。ヘロデは、バプテスマのヨハネの教えに喜んで耳を傾けていたし(マコ6:20)、ヨハネのその他の聴衆らも、しばらくの間、その光の中で楽しむことを願った(ヨハネ5:35)。あの岩地のような聴衆たちも、みことばを喜んで聞いたのである。

 経験からもわかるように、人はまがいもののキリスト教信仰によっても、種々の外的な信仰的義務にさかんに励むことがありえる。しかり、そうした義務に専心し、自分の全時間をそれらにつぎ込むことがありえる。かつてローマカトリック教会には、隠遁者と呼ばれる種類の人々が非常に多く存在していた。それは、世を捨てて、人間社会との関わり合いを全く断ち切った人々のことである。彼らは自分を狭苦しい独房に閉じ込め、誓いを立てては、その中から決して出てこず、(病気になって訪問を受ける時の他は)他人の顔を見ず、自分の一生を、神への祈祷と、神との交わりの実行に費やしたのである。また、やはり昔の時代には、世捨て人や隠者と呼ばれるおびただしい数の人々がいて、世を出て行き、人里離れた荒野で一生を過ごしては、宗教的な瞑想と、種々の義務を果たすために一心に身をささげていた。彼らのある者は、山の洞窟や穴居以外の住まいを持たず、地面から自生したもの以外の食物を採ろうとしなかった。----私はかつて何箇月もの間、(住居が隣接していたために)あるユダヤ人と隣り合わせで住んでいたことがある。私には、彼を毎日つぶさに観察する機会があった。彼は、私が一生の間出会った中で最も敬虔な人物と思われた。彼は、私の窓に隣り合わせた、東向きの窓の側で多大な時間を費やし、真剣そのものようすで祈祷に励み、日中ばかりか、時には夜を徹して祈っていたのである。



HOME | TOP | 目次 | BACK | NEXT