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世におけるキリスト者の守り

NO. 2703

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1900年12月2日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於サザク区、ニューパーク街会堂
1855年某月、木曜夜の説教


「彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします」。――ヨハ17:15


 この聖句は、前回述べたように(『ニューパーク街会堂講壇』、No.47、「御民のためのキリストの祈り」参照)、2つの祈りを含んでいる。――否定的な祈りと、肯定的な祈りである。第一に、ここには否定的な祈りがある。「彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく」。彼らが地上に残されることによって、いくつかの賢明な目当てが果たされるのである。それは究極的には、天国における彼らの幸福を増すであろう。神に栄光を帰すであろう。他の人々の回心の手段となるであろう。それゆえ、「『彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく』、むしろ、わたしはこう祈ります」。――そして、ここに肯定的な祈りがやって来る。――「彼らがこの世にいる間に、あなたが彼らを『悪い者から守ってくださるようにお願いします』」、と。

 I. ではまず第一に、《御民が守られるようにとキリストが祈っておられる悪いものについて考察しよう》

 私たちは、何のためらいもなく宣言するが、ここで意図されている唯一の悪いものとは、罪の悪である。確かにイエス・キリストがその御父に、私たちを何らかの悲惨な患難――私たちの定命の身体では絶えがたいほどの患難――から守ってくださるように懇願したこともありえる。時として、敵の打撃や攻撃は、イエスのとりなしの御腕によって防がれているのかもしれない。《全能の神》の大盾がしばしば摂理という点で私たちの頭の上にかざされ、私たちが歩んでいるときに悪から守り、私たちの足が石に打ち当たることのないように[マタ4:6]しているのかもしれない。しかしながら、私たちの確信するところ、こうした事がらのいずれもここでは意図されていない。聖書の中で絶えず語られている「悪いもの」、ここでとりわけ意味されている悪とは、罪であり、それ以外の何物でもない。わたしは彼らを「悪い者から守ってくださるようにお願いします」。

 患難はしばしば恩恵をもたらす。それゆえ、キリストは、私たちがそうした種類の悪からことごとく守られるようには嘆願しておられない。試練は私たちを主の御足のもとへ至らせ、祈りに新しい《いのち》を吹き込む。それゆえ、キリストはこのほろ苦い甘みが私たちに与えられないようには願っておられない。死は悪と思われるが、それすら信仰者にとっては良いことである。それでキリストは私たちが死なないようには願っていない。主がここで御民のためにささげている祈願は、彼らを「悪い者から守ってくださるように」ということ、――特別な悪、著しい悪、罪という致命的な悪からの守りである。

 ここで指摘したいのは、罪が無条件の悪だということであった。この悪は、それを緩和するような善を全く内側に含んでいない。罪の中にはいかなる善もありえない。それは悪であり、悪だけであり、悪であり続ける。罪の最低の形は「悪いもの」であり、最高の形はより発展しきった「悪いもの」である。御使いのうちにある罪は「悪いもの」であった。それが彼を悪魔に変えたからである。エデンにおける罪は「悪いもの」であった。それが麗しい木々を根こそぎ引き抜き、そのすべての実をしなびさせ、アダムを追い出し、彼に自分がそこから取り出された土を耕すようにしたからである。罪は常に悪である。それは、いかなる者にも何の益ももたらさない。たとい全世界を得ても自分のたましいを損じたら、それは人に何の益ももたらさない[マコ8:36]。そして、特にキリスト者のうちにあるとき、それは悪であり、悪だけでしかない。罪は決してキリスト者の得にならない。悪であり、悪だけであり、強力な悪、致命的な悪である。それは純然たる悪である。「悪いもの」である。

 確かに神は、悪の中からも善をもたらしてくださる。時として神の民の罪でさえ、彼らをより大きな罪から守るものへと転じられることがある。だが、それは「悪いもの」を滅ぼしはしない。たとい神がご自分の指令を実行させるために森から二頭の熊を送り出し、それがあざけり笑う子どもたちを打ち殺すとしても[II列2:24]、熊はやはり熊である。また、たとい罪が時として神に誉れを帰すための手段とされるとしても、罪はやはり罪である。神がそれによっていかなる目的を成し遂げられるとしても関係ない。私たちは、いかなる偽りの説教を聞かされようと、罪に本来属する致命的な性格が取り除かれるというような教理を決して信じることはできない。それは常に有害で危険なものである。

 キリスト者である人が、何らかの罪によって困難を避けたり、困難から抜け出せたりできると思っていたら、すさまじい間違いである。そうしたことで善がもたらされることはありえない。あなたは云うであろう。「でも私は本当に困っているのです。債権者たちに攻め立てられているのです。私はどうすればよいのでしょう? もしあの融通手形を振り出せるとしたら、あるいは、あの銀行券を偽造できるとしたら、そこには、それなりに良いことがあるでしょう」。そこに良いことは決してありえない。罪は悪である。「悪いもの」である。みじんの善もない「悪いもの」である。全く何の軽減もない「悪いもの」である。別の人は云うであろう。「おゝ! たとい私がこれこれのことをしたとしても、それはちょっとした悪にすぎません。――そうすれば商売はうまく行くでしょう。そうしたら私は自分を神にささげることができ、より良く神にお仕えできます。そうすれば、悪から善をもたらされることになります。目的が手段を正当化するでしょう」。否。もし手段が悪ければ、それは悪い。手段が悪であれば、それは悪である。罪は罪であり、罪以外の何物でもない。時として一時的に得をするように思えても、やはりそれは悪であり、悪でしかない。有毒な一杯が時として人を元気づけ、体の調子を良くするように思えることがあろうと、実はそれはその人を弱くしており、最終的にはその人を破滅させるであろう。人は罪を良いものだと思うかもしれない。しばらくの間、それは人の世間体を取り繕い、世の子らの目に多少は好ましく見せるかもしれない。だが、そのように腐った材料で修繕された家は、いかにてこ入れしても倒壊するであろう。すべての罪は純然たる悪であり、それに私たちが与える唯一の名は「悪いもの」である。この怪物がどれほど平身低頭し、それを良いものと呼んでくれと頼んでも、私たちは、私たちの主を打ち殺したかどでそれを非難し、憎むべき悪、避けるべき悪としてそれを断罪する。蛇の中には、蠱惑的に美しい青色の鱗をしているものあるかもしれないが、それは、有害きわまりないものであって、叩きつぶすべきである。

 次に私たちが罪を「悪いもの」であると云いたいのは、それが比べもののない悪だからである。あなたはこの世に罪ほどの悪を何1つ見いだせない。この麗しい地球を罪ほど荒廃させたものはなかった。よしんば戦争がその何万、何十万という人を打ち殺してきたにせよ、地震が巨大な都市を揺さぶり倒してきたにせよ、疫病が何百万もの人々をむさぼり食ってきたにせよ、――諸元素が激動するにせよ、自然界がすさまじく咆哮するにせよ、それがいかに人間を打ちのめし、その手のわざを破壊するにせよ、――たといあなたが人間に降りかかった一切の恐ろしい物事の暗黒の一覧表を書き綴ったとしても、それでも私はあなたに云う。罪は悪の怪物として屹立し、それらすべてから、頭と肩1つ高く抜きん出た巨人であり、世に比べるものなき絶対的な悪である、と。あなたは私に、それほど多くの悪を罪がなしたのかと尋ねる。答えよう。――しかり。枯れしなびたエデンの園を見るがいい。全世界が水没し、山の頂までも覆われた姿を見るがいい[創7:20]。地が口を開き、コラと、ダタンと、アビラムがよみに下って行くのを見るがいい[民16:31-33]。ソドムとゴモラに火が降り注ぎ、低地の町々がその住民もろともに滅ぼされたのを見るがいい[創19]。しかし、罪はそれ以上のことをしてきた。それは、どこかに1つの地獄を掘ってきた。それがどこかはわからない。――地の洞窟にではない。一時は義人の住まいであったこの場所が、罪に定められた者たちの住みかとなるなどというのは、考えるだに陰惨なことであろう。もしそれよりも悪いことが何かあるとしたら、その咎をも罪は負っている。というのも、それはインマヌエルを屠殺したからである。それは、いのちと栄光の主を打ち殺した。罪は主を裏切り、鞭打ち、茨の冠をかぶらせ、十字架につけ、この呪われた木に御手と御足を釘づけた。罪はあぐらをかいて、主が死ぬまで眺めていた。そして、その瞬間――主の御名はほむべきかな!――主の民の一切の罪は抹消された。だが罪には比べるものがない。いかなる悪もそれとは比較にならない。あなたがどんな悪を挙げようとも、罪は「悪いもの」としていの一番に来る。

 また罪は、ある意味で、何の治療法もない悪である。そう云われると、あなたは吃驚するかもしれない。特に、私がひっきりなしに、キリストの死はキリスト者からその罪の咎そのものを取り除くのだ、それでその人は神の前で咎なく、キリストにあって受け入れられた者、その《救い主》の義をまとう者として立つのだ、そのときその人は、イエスによって自分に転嫁された功績を神の前で申し立てることが、否、主張することさえできるのだ、と私が云うのを聞かされてきたとしたら、なおのことである。それでも、いま私が云ったことは真実である。――罪のためには、いまだ何の治療法もない。キリスト者でさえ、罪を犯すとき、それを癒すすべはない。その人に関する限り、赦しという治療薬はある。だが、その罪そのものには何の治療法もない。例えば、私が語った罪深い言葉にいかなる治療法があるだろうか? 私が涙を流せばそれを取り戻し、それが私の同胞に危害を加えることをやめさせられるだろうか? たといキリストが私を赦してくださったとしても、私が他の人々に行なった不正を食い止めることはない。私が罪という小石を一個この宇宙に落とすとき、それは波紋に波紋を生み出し、それを広げていく。私は、自分の一生を通じて、熾天使にもまさる熱心をもって、キリストのような心をもって、自分の行なった悪を帳消しにしようと努めるかもしれない。だが、たとい永遠に働き続けることができたとしても、自分がゆわえた結び目を解くことも、自分が積み上げた山々を打ち砕くことも、自分の掘った川を干上がらせることもできないであろう。確かに、その罪はみな赦されている。それは決して私の責めに帰されない。だが、キリストが私を赦しておられても、私は、自分が主の御名に泥を塗り、そのほむべきご人格に恥辱をもたらしたいくつかのことについて、自分で自分を決して赦せない気がする。あなたがたの中のある人々は、かつては神を冒涜していた。その人は、地獄にいる人々の中に、自分を通して罪に定められた者たちがいることを思い起こすとき、自分が救われていることは神に感謝できても、不滅の魂に及ぼされたそうした破滅を帳消しにすることはできない。罪は悪である。イエスがご自分の民のために、「父よ。彼らを悪い者から守ってください」、と祈っておられるのも無理はない。それは悪であり、それ自体についての治療法はあっても、他者に対するその結果についての治療法は全くないからである。願わくは神が、私たちの作り出したかもしれないいかなる悪も、私たちの人生の今後の聖さによって可能な限り取り除けるようにしてくださるように!

 さらにまた、罪が最も弊害の多い悪であるのは、それに伴って他のあらゆる悪がもたらされるからである。私が思うに、罪が私に対して行なった最悪のことはこのことである。罪は私から、私のほむべき《主人》の臨在を奪ってしまったことがある。かつて何度か御霊が私から退かれた時期があった。かつて私が私の《愛する方》を求めたのに、見いだせないときがあった。その臨在を熱烈に願ったのに、それを見つけられないときがあった。私はただこう歌うしかなかった。――

   「いかに安けき 時のありしか、
    その追憶の いかに甘きか!
    されど今 そは 悲痛な空虚、
    この世は決して そを満たしえじ」

罪は、私と私の主との間に割り込む垂れ幕であった。親愛なる老ジョウゼフ・アイアンズはよく云っていたが、「キリストはしばしば、ご自分の子どもたちが蹴り上げた砂ぼこりの陰に御顔をお隠しになる」。それで、私たちは自分の罪によって土煙を舞い上げ、キリストはその陰にお隠れになるのである。私たちは自分のそむきの罪によって壁を築き、私たちの《愛する方》はその壁の陰にお隠れになるのである。あゝ、罪よ。お前はまさに悪である。というのも、お前は私から主との甘やかな交際を奪い、主とのほむべき交わりを取り去るからだ! お前は私の心の王座に座っており、主はそのような侮辱を甘んじてお受けにはならない。主は罪のあるところにはとどまらない。お前は私の魂の中に入ってきた。するとイエスは云われた。「わたしは罪があるところにはとどまらない。わたしの臨在が罪を追い出すか、罪がわたしの臨在を追い出すかなのだ」。「おゝ、罪よ。いかに多くのみじめさを私はお前を通して経験することか!」、とキリスト者は云えよう。あゝ、罪よ。いかに多くのあわれで、枷をかけられた信仰者たちが、まずお前によって鍛造された枷をかけられたことか。罪よ。お前という鉄床の上で、私たちの疑いは溶接されたのだ。罪よ。お前という火の中で、私たちの霊はしばしば悲しみへと溶解されるのだ。お前さえいなければ、私たちにはいかなることもできたであろう。おゝ、罪よ。お前は信仰の翼をちょん切り、愛の炎に冷水を浴びせかけ、熱心の活力をだいなしにする。お前は「悪い者」だ。私の《主人》はお前をそう呼ばれたし、事実お前はそうした者だ。お前が改名する必要はない。かつてお前に与えられた名前は永遠に変わらず、永遠を通じてお前は、蔑みのさらし台の上で、すべての聖徒らから、「悪い者」と指さされるであろう。キリストが御父に向かって、ご自分の子どもたちが世から取り去られるように願わなかった一方で、悪いものから守られるように願われたのも無理はない。

 私は命ずる。あなたがた、若い回心者たち。主イエス・キリストを身に着ようとしている人たち。罪が「悪いもの」であることを思い起こすがいい。あなたの今後の一生を通じて、あなたはこれがあなたの遠ざけるべき「悪いもの」であることを覚えていなくてはならない。患難を恐れてはならない。迫害を恐れてはならない。むしろ、あなたがそうした巡り合わせにあるとしたら、喜ぶがいい。喜び踊るがいい。天におけるあなたの報いは大きいからである[マタ5:12]。だが、私はあなたに命ずる。罪を恐れるがいい。私はあなたを、あらゆる恵みに満ちた神[Iペテ5:10]に託すものである。神はあなたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、栄光の御前に立たせることがおできになる[ユダ24]。だがしかし、罪そのものがあなたにとって「悪いもの」であることは常に思い起こしてほしい。それはあなたが生きている限り、あなたにとって常に悪であろうし、たとい赦されてはいても、なおもそれは赦された罪なのである。いかに小さな度合であれそれを避けるがいい。些細な罪に屈してはならない。そうすれば大きな罪に負けることはないであろう。「小銭を大事にすれば大金は自らたまる」、という格言を思い出すがいい。些細な罪を警戒すれば、大きな罪を犯すことはないであろう。私は命ずる。あなたの心を神の愛のうちに守るがいい。そして、願わくは神ご自身が、私たちの《救い主》の祈りに従って、あなたを保ってくださるように。「悪い者から守ってくださるようにお願いします」。

 II. 第二の点については、ごく僅かしか語ることができない。すなわち、《キリストの御民がさらされている危険》である。

 キリスト者である人々が罪に陥るような危険があるだろうか? イエスを信じた後の、また罪を赦された後の彼らが、再び罪を犯したりするだろうか? 神の家族に子として受け入れられた後で、彼らが罪を犯すだろうか? そうしたすべての後で彼らは罪を犯すだろうか、犯すことなどできるだろうか? おゝ、愛する方々! かつて私は、私の主が最初に私を赦してくださったとき、自分はもはや主に背いて罪を犯すことなど決してありえないだろうと思った。頭から爪先まで真っ黒かったとき、主はきよめのことばをお語りになり、私を白くしてくださった。主が私の襤褸服を取り去り、王服を着せ、その愛に満ちた御口で口づけし、その深く愛情のこもった心を私に示してくださったとき、私は思った。「おゝ、ほむべきイエスよ! 私はこれからあなたに背いて罪など犯せましょうか? 私が、赦された反逆者の私が、あなたがこれほどの赦しを与えてくださった私が、そのようなことをできましょうか?」 「いいえ、慕いまつるイエスよ」、と若い回心者は考える。「私は行ってあなたの御足を涙で洗い、私の頭の髪の毛でそれをぬぐうことができます。ですが罪を犯すことなどできません。犯しはしません」。あゝ! その美しい幻がいかにたちまち取り去られることか! いかにたちまちその理論が経験によって打ち砕かれることか!

 愛する方々。あなたは自分がいま罪を犯す危険にあることに気づいているだろうか? 私たちの中の若い人たち。――私たちは罪を犯すいかなる危険の中にあることか! 私たちの情動が強く、私たちの情欲が荒れ狂っている間は、私たちは神によって守られる必要がある。さもなければ、私たちは神に背いて罪を犯すであろう。 そして、あなたがた、中年の紳士たち。あなたにも私は一言か二言云うことがある。あなたは常に若い人々のために特に祈っているし、若い人々はあなたの恩義を非常にこうむっているが、彼らも常にあなたのために特に祈るつもりである。なぜなら、あなたは、最も危険な立場にあるからである。私はあなたに、以前告げたことを思い出させよう。聖書の中には、若い人が罪に陥った例は一箇所もなく、中年の人がそうなった事例が一度ならず記されているののである。

 あなたがた、白髪をいただく老人たち。齢を重ねて頭を白くした人たち。あなたは、あなたがたがなおも天来の守りを必要としており、それがなければ、あなたがたも倒れることを知っているだろうか? おゝ、あなたがた、主の軍隊の古強者たち。あなたは、もし主の恵みがあなたから退けられたら、あなたの心の中には十分に燃えやすい火口があることを認めないだろうか? というのも、あなたの魂はまだ完全にはきよめられていないからである。私が私の老いた兄弟たちに、罪がなおも彼らとともにあるかどうか尋ねるとき、彼らはめいめいが常に云う。「そうですな。私は自分が以前は悪い心をしていたと思っていましたが、私は今もそうであると知っています。私はかつてはよこしまであったと思っていましたが、今も自分がそうであると知っています。私は歳月が経つにつれて、なおさらよこしまになっていきます。そして、日増しによこしまになっていくのを見ています」。あなたもそうではないだろうか? おゝ! これからも変わらずあなたは、その通りの者ではないだろうか? そして、あなたはこう告白するではないだろうか? 自分は、神が守られるなら、最後の死の瞬間まで守られるだろうが、神が離れるならば失われるだろう、と。私は、若い人々にこう質問したときに返されたいくつかの良い答えを聞いて喜ばされた。「あなたは、最後までキリストに忠実であり続けるようにされたと思いますか?」 「はい。神の恵みによれば」、と彼らは答えた。「しかし、かりに神があなたをお離れになるとしたら?」、と私は次に尋ねた。そして、その答えの何とすぐれて適切であったことか! 「神は私をお離れになりません。ですから、それについて私は何とも云えません」。それは、その問いに対する実に甘やかな答えであった。神は、私たちを離れず、私たちを捨てないと約束しておられる[ヘブ13:5]。それで、キリスト者よ。私たちは、あなたに神があなたをお離れになるかもしれないと危険を警告する一方で、神はあなたをお離れにならないと告げることであなたを慰めるものである。

 あのあわれなアルミニウス主義者たちがぶちこわしにしている、恐ろしい脅かしに注目するがいい。恵みの諸教理について何も知らない人々は、罪人たちは堕落し、再び立ち戻り、また堕落しては、また立ち戻るのだと主張する。だが、これほど非聖書的な教理を口にすることはできない。というのも、神は厳粛にこう宣言しておられるからである。もしいったん新生し、聖められた人が信仰を捨てるようなことがありえるとしたら、その人はいかなる治療法をも越えて失われ、その人には何の望みも残されておらず、「ただ、さばきと……激しい火とを、恐れながら待つよりほかはない」[ヘブ10:27]、と。私はこのことを思い起こすようあなたに命ずる。もしあなたがこのように堕落することがありえるとしたら、あなたは断崖から落ちて行かざるをえない。そのような場合、あなたのためには何の賠償もない。もし真の回心が挫折するとしたら、神は決して二度は試みなさらない。もしいったん神がその御手をあなたの上に置かれ、しくじるとしたら、神はあなたとの関係を断たれるのである。しかし、そのようなことはありえない。御名に栄光のあらんことを! 神はこれまでにしくじったことがなく、これからも決してそのようなことはない。それでも、私たちはあなたに警告するし、聖書は私たちがそうするように告げている。私たちが守られるのは、ただ救いに至る信仰を通してであること、また、私たちの主イエス・キリストがこう云われたことを覚えておくがいい。「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません」[ヨハ10:27-29]。

 III. ここから私たちが第三に至らされるのは、《キリストの御民をだれが守るか》についてである。「彼らを……悪い者から守ってくださるようにお願いします」。

 私たちはしばしば自分で自分を守ろうとする。愛する方々。そして、そうするとき、ひどいへまをする。もしキリスト者である人が自分自身の心を神の助けを願いもせずに守ろうとするなら、その人はヘロデが使徒ペテロを見張らせておいたあの番兵たちも同然の見張り方しかできないであろう。彼らは、朝になって牢獄の扉を開けたとき、囚人が逃亡してしまっていることに気づいたのである。あなたは神を抜きに自分の心の番人となり、それを見張ることはできるであろうが、それにもかかわらず、それが抜け出し、罪を求めて去っていったことに気づくであろう。キリスト者は、自分が行なう守りに信頼してはならない。なぜなら、その人は時として眠り込み、知らぬまに敵がその人を捕えてしまうからである。ことわざに云うように、人々はしばしば馬が盗まれてから馬小屋の戸を鍵をかけることに熱を入れるものである。またキリスト者たちは時として、自分が罪を犯した後で非常に用心深くなる。あゝ! だが、なすべきことは馬が馬小屋にいる間に扉に鍵をかけ、罪を犯す前に用心することである。あなたの家が火事にならないように守っておく方が、火事になったらすぐに消し止めるよりもずっと良い。

 私たちはみな、このように神によって守られる必要がある。私たちは自分で自分を守れると思うが、それはできない。あわれな血肉は失敗するものである。心は燃えていても、肉体は弱い[マタ26:41]。また、たとい私たちがしばらくの間は自分を守ることが可能だったとしても、すぐに私たちは霊的惰眠に打ち負かされてしまう。そうすると、あなたも知るように、悪魔は真夜中に陣営の中に入り込んでは、警戒を怠って眠り込んでいる私たちをとらえ、神の許しさえあれば、大急ぎで破滅へと連れ去っていこうとするであろう。もしあなたが自分自身を神に預けるなら、神はあなたを保ってくださる。だが、もしあなたが自分自身を守ろうとするなら、あなたは失敗するであろう。人々はいかに多くの異なる計画を立てては、自分を罪から守ろうとすることか! なぜ彼らは行って神に自分をお守りくださいと願わないのだろうか? 自分の手足をあれこれの物事に縛りつけ、そうやって罪を避けようと考える代わりに。私たちの心を余すところなく神にささげようではないか。神はご自分の民を保ってくださるからである。おゝ! 主はご自分の葡萄畑について何と恵み深い約束を与えておられることか。「わたし、主は、それを見守る者。絶えずこれに水を注ぎ、だれも、それをそこなわないように、夜も昼もこれを見守っている」[イザ27:3]。これは尊い表現ではないだろうか? 「わたし、主は、それを見守る者」。主はご自分を弁護するかのように語っておられる。「彼らはわたしがそれを見守っていないと云う。だが、わたしは見守っている。彼らはわたしがわたしの民を転落し去るにまかせていると云う。だが、わたしはそうしてはいない。わたしの葡萄畑を見るがいい。『わたし、主は、それを見守っている』。彼らが何と云おうと、わたしは『絶えずこれに水を注ぎ、だれも、それをそこなわないように、夜も昼もこれを見守っている』」。これは、私たちの信頼の唯一の根拠である。神がご自分の聖徒たちの足を守り、神に頼る者はだれひとり見捨てられない。

 今しめくくりにあたり、私たちは主の民のため、神が彼らを守ってくださるように祈らなくてはならない。信仰者よ。思い起こすがいい。神があなたを守ってくださるという一方で、神はそれを手段によって行なわれる。あなたは互いに気をつけ合わなくてはならない。私はあなたに、あなたの兄弟姉妹について気をつけるようにさとすことを喜んでいる。何と、あなたがたの中のある人々は、ただ、たるき一本で隔てられて座っているだけだというのに、自分の脇の隣人を知らないのである。あなたがたの中のある人々が、時としてあまりにも喋りすぎることがあるのは私も知っている。だが、私はむしろあなたが、全く喋らないよりは喋りすぎるほどであってほしいと思う。おゝ、あなたがたの中のある人々は、いかにわずかしかキリスト者のようでないことか。隣合わせに座っていながら、それでも互いに知り合おうとしないのである! 教会は、私たちが、家の中の子どもたちのようになるための場所である。教会の中にやって来る、こうした若い友人たちに気をつけるがいい。彼らに気を遣うがいい。私たちには、彼らを正しい道に導いていく数人の父親たちが必要である。あわれな魂たち。彼らが多くを知っていることは期待できない。実際、そのうちの何人かは神の礼拝式に長く集っている。他の人々は、まさにキリスト者の競走を走り始めたばかりである。あなたは、若い人々に気遣わなくてはならない。そのとき、キリストの祈りは彼らの場合に成就するであろう。「彼らを……悪い者から守ってくださるようにお願いします」。最後に、聖徒たちの唯一の《守り主》は神であることを覚えておき、あなたの魂を日々その御手にゆだねるがいい。私は、キリストの愛によって、切に願う。私があなたに語ってきた、この聖なる祈りを忘れないでほしい。あなたを《救い主》の保護のもとに渡す恵みについて思い巡らすがいい。おゝ! あなたが永遠の昔から主のものであったこと、そのあなたが罪を犯すのはふさわしくないことを忘れてはならない。あなたがキリストにおいて選ばれたこと、そのあなたが、そむきの罪を犯すのは不面目なことであるのを忘れてはならない。あなたが宇宙の貴族のひとりであること、卑しい世俗の子らと入り混じってはならないことを思い起こすがいい。あなたの血管には、天の王族の血が流れていることを思い出すがいい。それゆえ、乞食においては大目に見られるかもしれないが、天の一族の王子たる品格にもとるような行為によって、自分に恥辱を加えてはならない。あなたの威厳を示し、自分の未来の栄光について考えるがいい。自分がどこに立っているか、いかなるお方のうちに立っているか――イエスというお方のうちに立っていること――を思い起こすがいい。その御足のもとに日々ひれ伏すがいい。こう叫んで、主の力を時々刻々つかむがいい。――

   「おゝ! これがため、われに力なし、
    わが力は 汝が御足もとにあり」。

 おゝ、あなたがた、主を愛していない人たち。私は神に、あなたがたを悪いものから守ってくださいと祈ることはできない。なぜなら、あなたはすでにその中にあるからである。だが私は、神があなたをそこから取り出してくださるように祈るものである。あなたがたの中のある人々は、罪が悪だとは感じていない。それがなぜか教えようか? あなたは今まで、水桶を井戸から引っ張り上げようとしたことがあるだろうか? 知っての通り、桶の中に水が満ちていても、それが水中にある限りは楽々と引っ張ることができる。だが、それが水面の上に出るとき、それがいかに重いかわかるのである。あなたがたもそれと全く同じである。あなたが罪の中にいる間、あなたはそれを重荷とは感じない。それを悪とは思わない。だが、もし主がいったんあなたを罪の中から引き出されると、あなたはそれが絶えがたいほどの、憎むべき悪であることに気づくのである。願わくは主が、今晩、あなたがたの中の幾人かを巻き揚げてくださるように! あなたがいかに奥底にいようと、主が罪の中から引っ張り揚げ、あなたを《愛する方》にあって受け入れてくださるように。願わくはあなたが、神の賜物でしかない新しい心とゆるがない霊を得られるように! 主イエスのことばを思い出すがいい。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます」[マタ7:7-8]。神があなたに、求める恵み、捜す恵み、叩く恵みを与えてくださるように。キリストのゆえに! アーメン。

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《C・H・スポルジョンによる講解》

イザ49:1-23

 

世におけるキリスト者の守り[了]

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