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御民のためのキリストの祈り

NO. 47

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1855年10月21日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於サザク区、ニューパーク街会堂


「彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします」。――ヨハ17:15


 このキリストの祈りは、あらゆる真の信仰者にとって、常に尊い箇所である。事実、そうした人々はひとりひとり、決して奪われることのない権利をこの祈りに有しているからである。愛する方々。私たちはみな、キリストのおことばを聞くとき、主が自分のために祈っておられることを思い起こすべきである。これは、主がご自分の選びの民全体のためにささげておられる祈りではある。彼らについて主は、この章と直前の章でとりなしをしておられる。だが、主がとりなしの祈りをささげておられるのは、個々の信仰者ひとりひとりのためでもある。私たちがいかに弱くとも、いかに貧しくとも、いかに信仰が薄くとも、いかに恵みが小さくとも、それでも私たちの名前は主のお心に書き記されているし、私たちがイエスの愛における自分の分を失うこともない。

 時間も限られているので、単刀直入にこの聖句の吟味に進みたいと思う。第一に、ここには否定的な祈りがある。「彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく」。第二に、ここには肯定的な祈りがある。「悪い者から守ってくださるようにお願いします」。

 さて、この節には否定的な祈りが1つある。「彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく」。さて、愛する方々。人々が神に回心させられるのを見るとき、また、人々が不義から義へと立ち返り、罪人から聖徒になるとき、私たちはこういう思いに打たれることがある。――彼らを今すぐ天国へ連れて行く方がよいではなかろうか。この罪の領土から、彼らを永遠の愛で愛された主の御胸へすぐさま移すとしたら素晴らしいではないだろうか。こうした苗木を、傷つけたり弱めたりしかねないこの世の寒気に当てておくよりも、永遠の平安と穏やかさの中で花を咲かせることのできる国へ今すぐ移し替えた方が、ずっと賢いではないだろうか、と。しかしながら、イエスはそのようには祈っておられない。ある人が悪霊を追い出していただいたとき、イエスにこう云った。「私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます」。しかし、イエスは彼に云われた。「あなたの友人や親族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったかを、知らせなさい」*[マコ5:19]。ある人々は、回心すると、すぐにも天国に行きたいと切望するが、まだ地上と縁が切れたわけではない。そうした人々は、十字架を負うことなく冠を戴きたいのである。走ることなく勝利を得たいのである。戦わずに征服したいのである。だが、そうした人々の気まぐれは、全くイエスの支持するところではない。主はこう喝破しておられるからである。「彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく」、と。

 まず最初に私が語りたいのは、この祈りの意味についてである。第二に、この祈りの理由についてである。第三に、私たちがここから引き出せる教理的な推論についてである。そして第四に、これが教えている実際的教訓についてである。それぞれの点について手短に語っていきたい。

 I. 第一に、《この祈りの使信》である。「彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく」。さて、この祈りは2つの意味に理解できよう。1つは、――主は彼らが、隠遁や孤立によって世から全く分離されることを願われたのではない。そして、二番目に、――主は彼らが、死によって取り去られることを願われたのではない。

 最初に、この世からの隠遁や孤立に関してである。あれやこれやの隠者たちの思い描くところ、私たちは、自分をこの世から締め出して孤独な生活を送れば、神に献身することも、神に仕えることもよりよくできるという。昔、多くの人々は砂漠に住み、決して人里に出ることなく、ひとりさまよい歩き、洞窟や森の中で祈り、一度でも人々と入り混じれば、自分が汚された、きよくない者になったと考えた。そのように今の時代のローマカトリック教徒のある人々も、隠者のようにふるまい、人々が普通出入りする場所から遠く離れて暮らし、そのようにすることによって神への大きな奉仕を行なっていると思いみなしている。また、ある種の修道会や女子修道会は、ほとんど孤絶した生活をし、自分たちの同輩としか顔を合わせず、引きこもることによって神に栄誉を帰し、自分たちの救いを獲得しつつあるのだと思い込んでいる。さて、私たちのうちのいかなる者であれ、今さら、修道院制度への反対論をぶっても意味はないであろう。修道院制度は、その過誤を自ら明らかにしてきた。このように社会と訣別した人々の中には、世の人々にまさって邪悪で厭わしい所業にふけり、世人以上に下卑た罪を犯している者らがいることが発見された。社会生活の慣習から離れて孤独に生きる者らの中で、自分の霊をきよく、汚されないまま保つことのできる者は、そう多くない。左様。兄弟たち。常識でもたちまちわかるように、孤独に生きることは神に仕える道ではない。それは自我に仕え、わが身に自己満足の衣をまとわせる道ではあるかもしれない。だが、神を真に礼拝する道ではありえない。たとい、こうした手段で、神の大いなる律法の片方を果たすことことが可能であるとしても、到底もう片方を――すなわち、私たちの隣人を自分自身のように愛する[マタ22:39]ことを――実行することはできない。というのも、そのとき私たちは、心の傷ついた者を癒すことも、迷い出た者を連れ戻すことも、死と罪から魂をかちとることもできなくなるからである。あらゆる悪は心から出て来るものであり[マタ15:19]、たとい隠遁しても私たちは罪を犯すはずである。なぜなら、いかに孤絶した場所にこもっても、そこに自分の心を連れて来るからである。もしもひとたび自分の心を取り除くことができさえしたら、もしも自分の性質を完璧にする手段が何かあるとしたら、そのときには私たちも孤独で生きられるかもしれない。だが、今のような私たちの有様である以上、悪魔を排除しておけるような扉は、よほど高く掲げられているに違いない。罪が入り込めないような独房はよほど人目につかないところにあるに違いない。聞いた話だが、ある人が、ひとり暮らしをすれば罪を犯さずに生きられるだろうと考えたという。それで彼は水差し一個と、ひとかかえのパンを持ち、ある程度の薪を用意して、孤独な小部屋に閉じこもって、こう云った。「さあ、これで平和に暮らせるぞ」。ところが彼は、たちまちその水差しを蹴り倒し、とたんに罵声を発してしまった。そこで彼は云った。「ひとりきりでも、癇癪を起こすってことがわかったよ」。そして、すぐさま人々の間で暮らす生活に戻ったという。

 しかし、この節は二番目の意味で理解することもできる。「彼らを」――死によって――「この世から取り去ってくださるようにというのではなく」、と。死は、私たちをこの世から取り去る甘やかで幸いな方法であり、私たち全員にほどなく起こるであろうことである。もう何年かすれば、火の戦車と火の馬[II列2:11]が主の兵士たちを連れ去って行くであろう。しかし、イエスは決して、ご自分の選びの民のだれかが早まって取り去られるように祈られなかった。ご自分に新しく生まれた魂たちが、時が来てもいないうちに、その翼を整え、天へ飛翔することを願いはしなかった。いかにしばしば、疲れ切った巡礼はこの祈りを口に上せることであろう。「ああ、私に鳩のように翼があったなら。そうしたら、飛び去って、休むものを」[詩55:6]。しかし、キリストはそのようには祈られなかった。主はそれを御父におまかせし、完全に熟した麦束のように、私たちひとりひとりが、自分の《主人》の倉に納められるのを待たれた。イエスは、私たちが死によって即座に取り去られるのをお求めにはならなかった。私たちがこの世で良い働きをすることは願われたが、決して完全に熟する前に集められるのを願われなかった。これで私は、この言葉の2つの意味を説明したことになる。それは、――生きて人々から隠遁することによってでも、死によって取り去られることによってでも――「彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく」、ということである。

 II. さて、第二の点は、《この祈願の理由》である。その理由は3つある。キリストは、私たちがこの世から取り去られるように願ってはおられない。それは、私たちがここにとどまっていることが、私たち自身にとって良いことであり、この世にとって益となり、ご自分のご栄光のためになるからである。

 1. 第一に、私たちがこの世から取り去られることは、私たち自身にとって良いことにならないであろう。私はこの聖句の最初の考え方を省き、死に関する考え方についてのみ語ることにする。私たちは、自分が神から受けうる最大の祝福は死ぬことだと思いみなす。だが、私たちが罪から逃れ出たとたんにこの世から出て行くとしたら、それは私たちにとって良いことにならないに違いない。しばらくとどまっている方が私たちにとって良いのである。はるかに良いのである。そして、その理由は、――まず、地上にしばしとどまっていれば、天国がそれだけ甘やかなものとなるからである。この世の何にもまして休息を甘美なものとするは、骨の折れる仕事である。何にもまして安泰さを心地よいものとするのは、不安や恐れや戦いに長いことさらされることである。そして何にもまして甘やかな天国とは、苦悶と苦痛の後でやって来る天国である。思うに私たちは、下界で苦悩を深々と飲み込めば飲み込むほど、やがて至福の黄金の鉢から永遠の栄光を受け取り、味わうことが甘やかになるであろう。地上でめった打ちにされ、傷つけられることが激しければ激しいほど、天上における私たちの勝利は栄光に富むものとなるであろう。そのときには、万の幾万倍もの数の御使いたち[黙5:11]の声が、私たちを御父の宮殿へと迎え入れるのである。試練があればあるほど至福も大きくなり、苦しめば苦しむほど喜悦も高まり、抑鬱が深ければ深いほど高揚は高まる。このように私たちは、この下界でくぐり抜ける苦しみによって、天国をいやまして自分のものとするのである。ならば、私の兄弟たち。試練を越えて進むのを恐れないようにしよう。それらは私たちにとって良いことなのである。しばらくここに止まっているのは、私たちの益となるのである。左様! もし私たちが語るに足るだけの試練や苦難を多少とも経ていないとしたら、また、喜びをもって繰り返すべき恵みによる解放の話を有していないとしたら、私たちは天国で会話するすべを知らないであろう。老水夫は、数々の難破や嵐をくぐり抜けてきたことを好むものである。それらがいかに危険なものであったにせよ、グリニッジ病院に錨を降ろせさえしたら、そこで同室の者たちに向かって、自分の危機一髪の脱出劇について大得意で吹聴できるからである。天国にも、自分たちの戦いについて物語る老兵士たちが何人かいるであろう。彼らは、いかに自分たちの《主人》が彼らを救出してくださったか、また、いかに彼が勝利をかちとり、いかに彼らのあらゆる敵を寄せつけなかったかを物語ることであろう。

 また、私たちは、この世に止まっていないとしたら、キリストとの交わりを持てないはずである。キリストとの交わりは非常に誉れあるものであり、それを享受できるとあらば、苦しむだけの価値はあるものである。あなたがたは何度か私が、[再臨時に]生き残っている者[Iテサ4:15]の数に入り、死を免れる者となりたいとの願いを云い表わすのを聞いてきた。だが、私の親しい友人のひとりは、こう云うのである。自分はむしろ死にたいと思う。そうすることで、自分の苦しみの中におけるキリストとの交わりを得たいと思う、と。そして、その考えは、私の胸の琴線に響くものがあるように思える。イエスとともに死ぬことは、死を完璧な宝とし、イエスとともに墓まで従うことは、死を喜びとする。さらに、あなたや私は、いずれ栄光における主との交わりを得ることになるにせよ、自分たちがくぐり抜けてきた苦しみを証明できる何の傷跡もなく、主の御名のために受けてきた何の傷口もないとしたら、臆病者とみなされるかもしれない。このようにして、やはりあなたは、地上にいることは私たちにとって良いことであると見てとるであろう。現世にしばらくとどまっていなければ、私たちは《救い主》との交わりを有さないのである。患難の嵐を経験することがないとしたら、決して私は《救い主》の愛を半分も知ることがないであろう。他のだれも私たちを愛そうとしないときに、《救い主》の愛を知るのは何と甘やかなことか! 友人たちが逃げ去るとき、《救い主》が私たちを捨てず、むしろ、なおも私たちを支え、私たちのそばに堅く立ち、私たちから離れず、私たちを離さないのを見てとることは、何とほむべきことであろう! おゝ、愛する兄弟姉妹たち。あなたがこの地上にとどまっているのは、あななたの永遠の益のためであると信ずるがいい。だからこそ、イエスは云われたのである。「彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく」、と。

 2. また、それは他の人々にとって良いことである。私たちはみな、他の人々にとって良いことのために地上にとどまっていたいと願うべきだと思う。なぜ聖徒たちは回心するや否や死んではならないのだろうか? この理由からである。神は、彼らがその兄弟たちの救いの手段となることを意図された。確かにあなたは、自分によって救われることになる魂が1つでもあるとしたら、この世から出て行きたいとは願わないはずである。私は、自分に割り当てられたすべての魂を回心させる前に栄光に入れたとしても、幸福にはならないと思う。だが、それは不可能であろう。神は、聖徒たちが定められた者たちの霊的父親とならないうちは、彼らを取り込みはしないからである。私たちは、自分の働きがなされるまで天国に入りたいとは思わない。というのも、私たちを通して救われるべき魂が1つでも残されているとしたら、自分の寝床の上で居心地悪く感ずるであろうからである。ならば、キリスト者よ。とどまるがいい。まだ火から取り出されるべき燃えさし[ゼカ3:2参照]がある。自分の罪から救われるべき罪人がいる。自分の迷いの道から[ヤコ5:20]立ち返るべき反逆者がいる。ことによると、その罪人はあなたの親族のひとりかもしれない! あわれなやもめよ。ことによると、あなたがこの世で生き長らえているのは、あなたの強情な息子がまだ救われておらず、彼を栄光に至らせる恵まれた器となるよう、神があなたを定めておられるからかもしれない。また、白髪頭のキリスト者よ。「あなたにとっては、いなごも重荷となって」*[伝12:5 <英欽定訳>]おり、あなたが世を去りたいと望んでいるのに、地上に残されているのは、あなたの子らのひとりが、あなたを媒介としてこれから救われるためかもしれない。ならば、あなたの腰から出たあなたの息子のために、とどまるがいい。あなたがいかにその子を愛しているかはわかっている。そして、その子のためとあらば、確かにあなたは地上にもう少し残されていても満足のはずである。息子を自分とともに栄光へと導き入れるならば最高だとみなすはずである。

 3. しかし、第三の理由として、それは神の栄光のためになるからである。よく練られた聖徒は、練られていない者よりも多くの栄光を神にもたらす。私自身、魂において真実と思うことだが、地下牢の中にいる信仰者は、パラダイスにいる信仰者よりも大きな栄光を自分の《造り主》にもたらし、燃える火の炉の中にいる神の子どもが、髪の毛を焦がされもせず、火の匂いを近づけもしない場合の方が、その人が頭に冠を載せて立ち、《永遠の》御座の前で絶えず賛美を歌っている場合よりも、ずっと大きな《神格》の栄光を現わすと思う。職人の栄誉を何にもまして現わすのは、その作品が試験を受けてそれに耐え抜く場合である。神もそれと同じである。ご自分の聖徒たちがその誠実を保つとき、それは神の誉れとなる。ペテロは、湖の上を歩いていたときの方が、陸に立っていたときよりも、ずっとキリストの誉れを現わした。彼が固い岸辺を歩いていても神には何の栄光ももたらされなかったが、彼が水の上を歩いたときには栄光がもたらされた。ペテロは、主が湖の上をやって来られるのを見て、主に云った。「『主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。』 イエスは『来なさい。』と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った」[マタ14:28-29]。キリスト者たち。主の命令があれば、私たちにやり抜けないことがあるだろうか? おゝ、私が思うに、イエスの御力によって私たちは、立ってアガグをずたずたに切り裂く[Iサム15:33]ことも、悪魔そのひとを切り倒し、その頭を砕くこともできよう。もしも私が塵の中に横たわることが一吋でもキリストを持ち上げるとしたら、私は云うであろう。「おゝ、私をとどまらせてください。これは甘やかだからです! ここに主のためにいることは」、と。そして、もし地上で永遠に生きることがキリストをより栄光に富ませるとしたら、私はここで永遠に生きることをより好ましく思うであろう。もし私たちが地上にとどまることでキリストの冠により多くの宝石を加えられるとしたら、なぜ私たちはこの世から取り去られることを願うべきだろうか? 私たちは云うべきである。「主の栄光を現わせるなら、どこにいようと幸いです」、と。

 III. 第三の点は、《この祈りから引き出すことのできる教理的な推論》である。

 第一の推論はこうである。――死は神が御民を世から取り去ることであり、私たちが死ぬときには、神によって取り移される。死は、独立した存在ではない。自らの意志によってやって来て、好きなときに私たちを連れ去っていくのではない。事実、死がキリスト者を取り去るというのは全然正しくない。神だけが、ご自分の子らをこの世から取り移すことがおできになるのである。卑しい農民であろうと、君臨する帝王であろうと、1つの手が彼らを空へ引き上げるのである。黙示録を参照すれば、このことが見てとれるであろう。そこでは、悪者のぶどう畑はひとりの御使いによって集められるのに、義人の収穫はキリストご自身によって刈り取られている。「また、もうひとりの御使いが、天の聖所から出て来たが、この御使いも、鋭いかまを持っていた。すると、火を支配する権威を持ったもうひとりの御使いが、祭壇から出て来て、鋭いかまを持つ御使いに大声で叫んで言った。『その鋭いかまを入れ、地のぶどうのふさを刈り集めよ。ぶどうはすでに熟しているのだから。』そこで御使いは地にかまを入れ、地のぶどうを刈り集めて、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ入れた」[黙14:17-19]。これらが悪者である。しかし、これに先立つ箇所を見ると、こう云われている。「また、私は見た。見よ。白い雲が起こり、その雲に人の子のような方が乗っておられた。頭には金の冠をかぶり、手には鋭いかまを持っておられた。すると、もうひとりの御使いが聖所から出て来て、雲に乗っておられる方に向かって大声で叫んだ。『かまを入れて刈り取ってください。地の穀物は実ったので、取り入れる時が来ましたから。』 そこで、雲に乗っておられる方が、地にかまを入れると地は刈り取られた」[黙14:14-16]。キリストこそ、ご自分の麦を刈られる刈り取り人である。主はそれを御使いにおまかせにはならない。神だけが生殺与奪の権を御手に握っておられるのである。

 次にこうである。死ぬことは、キリストのため生きることにくらべれば、半分も重要ではない。「彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく」。主は彼らが死ぬことを祈りの目的とはしておられない。「悪い者から守ってくださるようにお願いします」。主が願われたのは、彼らがいのちにあって守られることであった。むろん、彼らの死が後で確実に、正しくやって来ることをご存じであったからである。多くの人々は互いに云い交わすものである。「誰それが死んだって聞いたかい?」 「どんなふうに死んだんだ?」 だが彼らはむしろ、こう尋ねるべきである。「どんなふうに生きたんだ?」、と。ある人がどういう死に方をしたか――これは重要な質問かもしれない。だが、最も重要な質問は、ある人がどういう生き方をしたかである。人々は死について何と奇妙な考え方をしていることか! 彼らが尋ねるのは、人が主イエスにあって死んだかどうかではなく、「その人は安らかに死んだか? 大往生だったか?」、なのである。そういう死に方だったとすると、彼らは万事めでたしだと結論する。もし私が、「その人は少しでもキリストに頼る心を持っていましたか?」、と聞くと、おそらくその答えはこうであろう。「そうですねえ、いずれにせよ持ってたとは思いますよ。実に安らかな死に方でしたからね」。人々は、これほどまで安らかな死を迎えることを重んじているのである。もし死に何の苦痛もなく、何の障害もなく、他の人々のように苦しまないとしたら、人は万事めでたしと間違った結論を下すのである。しかし、たとい彼らが羊のように墓に横たえられ[詩49:14 <英欽定訳>]るとしても、朝には滅びへと目覚めるのである。私たちが安らかに死ぬのは、恵みのしるしではない。力の衰えた者が静かに死ぬのは自然なことである。悪逆の限りを尽くしてきた多くの人々は、自分のからだの力をそこなったあげくに、安らかで苦痛のない死を迎える。それは、死に反抗してあがく何物もないという事実からである。だが、確かに彼らは子羊のような死に方をしても、悲嘆とともに目を覚ますのである。私の愛する方々。臨終の床にいかなる信頼も置いてはならない。それをキリスト教の証拠とみなしてはならない。大いなる証拠は、ある人がいかに死ぬかではなく、いかに生きるかである。

 IV. この聖句のこの部分――「彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく」――から学べる実際的な教訓はこうである。私たちは決して、私を死なせてください、と神にだだをこねてはならない。キリスト者たちは常に、何か困難や試練に遭うと死にたいと思う。それがなぜか聞いてみようか? 「そうすれば、私たちは主とともにいられるからです」。おゝ、しかり。彼らは、困難や誘惑がふりかかるときには、主とともにいたがる。しかし、それは彼らが「主とともにいることをしたいあえぐ」からではなく、自分の困難を振り捨てたいからである。――さもなければ、ほとんど何の悩みもないときには、死にたいなどとはこれっぽっちも思わないであろう。彼らが家に帰りたがるのは、《救い主》とともにいられるためというよりは、ちょっとした難儀な仕事から逃げるためである。安閑としていられるときには、世を去りたいなどととは願わない。私たちの中のほとんどの者は怠け者であり、ちょっとでも苦労する羽目になると、家に帰らせてくれと泣き言を云うのである。時にはあなたが世を去りたいと願うことは全く正しい。あなたがエルサレムに行きたいと思わないとしたら、あなたが真のイスラエル人であることは証明できないであろう。だが、あなたが世を離れて家へ帰らせてほしいと願っても、キリストはその祈願をお取り上げにならないであろう。あなたの幾多の祈りが主のもとにやって来るとき、この小さな願いも中にまぎれこもうとするかもしれないが、キリストは云われるであろう。「わたしはお前のことを知らない。わたしが願うのは、『彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく』である」、と。あなたはそれを真摯に願い、本気で望んでいるかもしれないが、現時点では、あなたの《主人》が、あなたとともにそう願うことはないはずである。ならば、戦いから逃れさせてくれと泣いたり願ったりする代わりに、主の御名によって奮起するがいい。戦闘から逃げたいといういかなる願いも、自分の《主人》のもとから脱走することだとみなすがいい。休息のことを考えるよりは、こう思い出すがいい。たといあなたが、「天幕の中に引っ込ませてください」と泣こうが、勝利を報告するまではそれが許可されないであろうことを。それゆえ、ここに止まって、働き、労するがいい。

 私の愛する方々。私はこの節のもう半分からも説教しようと考えていたが、時間が取られすぎてしまったため、それは全く不可能である。どうあっても最初の部分を語ることしかできない。それで私は、当初の意図から離れなくてはならない。今からは本日の聖句の最初の部分について思い浮かんだいくつかのことに、話を限定したいと思う。

 「彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく」。ことによると、明日あなたはこう云っているかもしれない。「聖日が終わってしまってがっかりだ。また仕事に行かなくてはならない。毎日が日曜日だったらいいのに。そうすれば説教を聞くか、日曜学校に出るか、祈祷会に出るか、小冊子配付に行けるものを。そこなら世の支障は何も私を苦しめないし、そこなら霊が苛立たされることもない。この世にはもう飽き飽きだ。おゝ! もし世の中に出ることが二度となければどんなにいいことか!」 だが、ちょっとあなたの肘をつつかせてほしい。イエスはそう思っておられるだろうか? そのおことばを聞くがいい! 「彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく」。この病には、それが病だとしても、何の治療薬もないのである。それゆえ、それなりに毅然として耐え忍ぶがいい。しかり。むしろ、このようにあなたに与えられた機会を生かすことを求めるがいい。自分の同胞に祝福を授け、自分のためになることをするがいい。

 敬虔な精神は、罪の姿を見るだけでも、それを自らの聖化に役立てるしかたがわかるであろう。自分がそれと同じような過ちに陥らずにすんでいるのは、ただ抑制の恵みによってのみであることを思い起こすとき、謙遜を学ぶであろう。恵みによってのみ自分が異なる者とさせられている事実から、感謝と賞賛の種を集めるであろう。私たちがいかなる時にもまさって恵みを尊く思うのは、それによって自分が解放された悪を見るときであり、私たちがいかなる時にもまさって罪を忌み嫌うのは、その目に見える醜悪さを見きわめるときである。悪しき社会はそれ自体が毒性タピオカのようなものだが、恵みの火で焼けば、有用なものにさえすることができる。心の恵みは毒の流れに塩を振り、その後、それを渡渉せざるをえなくなったときには、そこにある汚濁が打ち壊されるのである。ならば、おゝ、兵士よ。労苦と戦闘の塹壕陣地にとどまるがいい。軍務の激しさはあなたにとって有益だからである。

 しかし、地上にいる間のあなたが、敵を攻撃するいかなる機会も失わないことを忘れてはならない。決して悪魔を狙い撃ちする機会を逸してはならない。あらゆる場合に、敵に損害を与える用意をしておくがいい。仕事中も、味わい深く油注ぎのある一言を漏らすがいい。人々とともにいるときには、会話の流れを天へと向けるがいい。自分ひとりでいるときには、御座のもとで格闘するがいい。もちろん私も、場違いなときにキリスト教信仰を押しつけることは勧めない。お客が勘定を払いにやって来たときに、事務所の中に入るよう求めて、三十分間その人と祈りの時を過ごすことがあなたの義務だとは思わないし、買い物客に向かって店頭で勧告することによつて、あなたの飾り紐や肩掛けを聖別することが必要だとも思わない。一部の人々は、口先だけのお説教屋という非難に対して、完全に無罪ではなかった。そうした人々は、自分たちの平硝子窓を使うのと同じようなしかたでキリスト教信仰を使って、客を引き寄せようとしているのである。キリスト教信仰について聞こえよがしに人前で語ってはならない。だが、都合のよい機会が訪れたなら、あなたの施条銃を取り出し、狙いを定めるがいい。クロムウェルがその兵士たちに与えた奇抜な忠言はこうであった。「わが友よ。神を信頼し、火薬を湿らせずにおけ」。より良い意味において、これは私の忠言でもある。なかんずく、聖い生活によって、敵の頭の上に絶えず火を燃やしておくがいい[ロマ12:20参照]。何にもまして罪を叱責するのはあなたの聖さである。たといあなたが杖に向かってそれがねじくれていると告げることはできなくても、それを証明するには、そのそばに真っ直ぐな杖をもう一本置くだけでいい。そのように、あなたのきよさを清くない物の前に置けば、彼らは手痛い叱責を受けるであろう。

 よろしい。さらにまた、善を施すために世に出て行くことを恐れてはならない。キリストがあなたを世の中に保っておられるのは、あなたの同胞たちの益とするためである。時として私はひどくねじけた思いになり、他のどこへ行こうと、もう二度と立って私の《主人》の福音を宣べ伝えることなどしたくないと考えることがある。ヨナのように私は、ニネベに立ち戻る代わりに、本気で船賃を払ってタルシシュへ運ばれて行きたいと思ったことがある[ヨナ1:3参照]。あなたがたの中のある人々も、説教しようとしたのに、願った通りにうまく行かなかった場合、そう思うであろう。しかし、私の兄弟よ。へこたれてはならない。キリスト者は決してへこたれるべきではない。たとい今日のあなたの聴衆がひとりしかいなくとも、ことによると、その次の時にはその人数は倍になるかもしれない。そして、そのようにして、数えきれないほどになるかもしれない。「こんな世は離れ去ってしまいたい」、とは決して云ってはならない。「これ以上生きても何の楽しみもない」、とつぶやいてはならない。自分にできることをするがいい。恐れなく人々の間に出て行くがいい。義務に直面するのを恥じてはならない。最初うまく行かなかったからといって、臆病風に吹かれて、自分の大砲のもとから逃げ出してはならない。私たちは自分にできることは何でもして、自分たちの大砲を、兄弟たちと一列にそろえ、私たちの敵によく狙いを定めるようにすべきである。自分の働きを放棄してはならない。たとい霊の苦悩を覚えながら帰宅しようと、たというまく行くきざしが全く見えず、何1つ成果がなくとも関係ない。思い起こすがいい。あなたは戦闘から尻に帆かけて逃げ出すことはできず、進み続けなくてはならず、この軍務から逃れるすべはない、と。ならば進み続けるがいい。そうすれば栄光はあなたのものである。

 さて、私の兄弟たち。本日の聖句は、不敬虔な人々にはいかなる関係があるだろうか? 私の愛する方々。私は時として、この場にいるある人々について、神よ彼らを世から取り去り給え、とほとんど祈りたくなる気がすることがある。なぜだか云おう。そうした人々は、あまりにも邪悪で――あまりもすさまじく邪悪で、極度にかたくなな、鉄のような魂をした無頼漢であるため、神に立ち返ることなど決してないように見受けられた。そして、その行く末は、自ら断罪された者となり、他の人々をも同じ状態に導く者となるように思われた。私の知っているある村には、ひとりの非常に不道徳な男がいた。あまりにも悪辣なために、私は彼がこの世から取り除かれるようにとほとんど祈りたい気がするほどであった。彼があまりにも極度に邪悪であるため、私が有望なキリスト者であると思っていた多くの人々が彼の手本から悪風になじんでしまった。実際、彼は、村の全住民を堕落させているように見受けられた。彼は、致命的に有毒なウパスの木が、その枝々を張り伸ばし、その地域全体を覆うように立っていた。彼は自分の回りにいるすべての者を食い尽くしつつあった。そして、彼にとっては地上にいることがあわれみである代わりに、取り去られた方があわれみであるように思えた。あなたがたの中のある人々は、この男のようではないだろうか? あなたは、あまりにも悪人であって、この世で自分にできる限りの悪さを行なっているではないだろうか? あなたはキリストの御国の進展のために何1つ行なってはいない。あなたは決して神の草の葉を、これまで何も育ったことのない土地に植えることをしない。あなたは何の役にも立っていない。だがしかし、あなたはまだ容赦されている。なぜなら、イエスはこう云っておられるからである。「彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく」、と。主は、あなたがこの世にもう少しとどまっていることを願っておられる。では主は、あなたを何から守っておられるだろうか? 第一に、熱病がやって来て、あなたを打ちのめすが、キリストは云われる。「まだ彼を去らせるな。おゝ、今は彼を勘弁してやれ」、と。それであなたは助かる。第二のとき、病があなたの間近にやって来て、非常な苦痛があなたを打ちのめす。再び主は願われる。「勘弁してやれ!」 それであなたはまだ無事である。三番目のとき、あなたは急速にあなたの末路に近づきつつある。さて死の御使いが光り輝く鋼を持ち上げ、その斧はほとんどあなたの上に振り下ろされんばかりとなる。だがキリストは云われる。「勘弁してやれ! 御使いよ。勘弁してやれ。――この男もまだわたしに心底から立ち返るかもしれない」。あなたが憎んでいるお方は、あなたを愛し、あなたのためにとりなしてこられた。だからこそあなたは、今まで容赦されてきたのである。しかしながら、覚えておくがいい。こうした執行猶予は永遠に続くものではない。最後には《正義》がこう叫ぶであろう。「彼を切り倒すがいい。土地をふさいでいるだけだ」、と[ルカ13:7参照]。あなたがたの中のある人々は、土地を六十年か七十年もふさいできた。――老いた罪人たち。この世で何の役にも立っていない。そうだろうか? 思った通りである! 土地を占めていて、他の木が育つ邪魔をしていて、何の役にも立っていない! あなたの家族は、あなたの手本によって断罪されている。近隣の人々全員が、あなたによって汚染されている。こういう荒々しい口のきき方をするなと云ってはならない。私はあなたに云うが、この頭に口がついている限り、あなたが私から甘い言葉をかけられることはない。もしあなたが失われるとしたら、それは歯に衣着せぬ物云いや正直な警告が欠けていたためではない。おゝ、あなたがた、土地ふさぎよ! あなたは主の御手によって、どれだけ回りを掘られ、どれだけ肥やしを注がれてきたことか[ルカ13:8]。だがしかし、あなたは実を結んでいない。じきに斧があなたの根元に置かれるであろう[マタ3:10]。そして、おゝ、あなたが投げ込まれるであろう火よ! 不敬虔な人よ。あなたが容赦されていられるのは、あなたの罪の満ち満ちた杯が復讐の炎の上に油のように滴り落ちるようになるまでのことである。そうなれば火勢を増した炎がすぐにあなたに達するであろう。射手が弓を引き絞れば引き絞るほど、矢の勢いは激しくなる。たとい復讐が遅れていても、その剣は研がれ、その腕はより悽愴な処刑のため力づけられているのである。おゝ、あなたがた、白髪の人々! もうしばらくすれば、その一撃が下るであろう。おののきつつ御子に口づけせよ。主が怒り、あなたがたが道で滅びないために。怒りは、いまにも燃えようとしている[詩2:12]。

 だがしかし、思うに、土地をふさいできたあなたがたの中のある人々は、心の底から神に仕えたいと願っている。あわれな罪人よ! 私はあなたが、自分を土地ふさぎだったと感じているのを喜んでいる。あなたは、自分が今まであわれなおどろやいばらであったと告白するだろうか? たとい主が自分を罪に定めていたとしても、主は正しくあられたと認めるだろうか? ならば、今のあなたのままやって来て、何の行ないも何の功績もないまま、イエスに身をゆだねるがいい。あなたは主に、自分を良いいちじくの木に変えてくださいと願うだろうか? もしあなたがそうするなら、主はそれをなさるであろう。というのも、主は祈りを聞くと宣言しておられるからである。

 ある小さな田舎村に、ひとりのあわれな男がいた。その男は普通人々が持っているようないかなる感覚も持っていなかったが、途方もない酔いどれとなり、神のお許しになるだけの悪態をつく者となるだけの感覚は有していた。その男がかつて、ひとりの貧しい女がこう歌っているのを聞いた。

   「われは罪人 無の無なれども
    イエス・キリスト すべてのすべて」。

その人は、その言葉を口ずさみながら家に帰り、十字架につけられた《救い主》に自分の信頼を置いて、本当に回心した。よろしい。彼はすぐに教会に行った。そして、行商人であって、常に旅をしていたにもかかわらず、「あっしはこの教会に入りてえです」、と云った。彼らは、彼の罪深い生き方を覚えていたため、彼を受け入れる前に、何か大きな変化の証拠を求めた。「おゝ!」、と彼は云った。「あっしはぜがひでも入りてえんです」。「だが、お前さんは、あんなにひどい罪人だったではないか。まだ回心してはおらんのだろう」、と長老たちは云い足した。「へえ」、とあわれなジャックは云った。「あっしは自分が回心していねえかどうかわかりませんし、自分がひでえ罪人なことは告白しやす。――ですが、

   『われは罪人 無の無なれども
    イエス・キリスト すべてのすべて』でやす」。

彼らは、この他の証しは何も彼から引き出せなかった。彼はただこう云うのだった。――

   「われは罪人 無の無なれども
    イエス・キリスト すべてのすべて」。

彼らには、彼を拒むことができず、それゆえ、会員として彼を受け入れた。その後、彼は常に幸せにしていた。あるキリスト者の人が彼に云った。「それにしても、あんたはいつだって幸せそうで、喜んでいるなあ、ジョン。どうしてなんだい?」 「へえ」、と彼は云った。「あっしは幸せでたまらねえんです。だって、――

   『われは罪人 無の無なれども
    イエス・キリスト すべてのすべて』でやすから」。

 「なるほど。だがね」、とこの紳士は云った。「私には、あんたがなんでそういつも幸せで、しっかり立っていられるのかがわからんのだよ。私は時々、自分の証拠を失ってしまうんでなあ」。「あっしは、なくしませんよ」、とジャックは云った。

   「われは罪人 無の無なれども
    イエス・キリスト すべてのすべて」。

「あゝ」、と友人は云った。「私は時としてみじめになるのだよ。回心の後でも続く私の悲しい罪深さを思い出すのでね」。「あゝ」、とジャックは云った。「あんたさんは、こう歌い始めなかったんですよ。

   『われは罪人 無の無なれども
    イエス・キリスト すべてのすべて』、とね」。

「おゝ!」、とこの友人は云った。「どうしてあんたは、自分の疑いや恐れを取り除くのだね? 私の信仰はしばしばくじけるし、私はキリストにある自分の確かな望みを見失うのだ。私の心待ちはしょっちゅう変わりやすいし、気分もちぐはぐなのだ。あんたはこれをどう考えるね」。「考えてもごらんなせえ」、とあわれなジャックは云った。「だって、旦那、あっしには、気にしなきゃいけねえ良いもんが1つもありゃしませんや。――

   『われは罪人 無の無なれども
    イエス・キリスト すべてのすべて』でやすよ」。

 よろしい。もしこの場にだれか、「哀れな罪人 無の無」である者がいるとしたら、――その人はどこにいるだろうか? 桟敷席だろうか、一階の席に座っているだろうか? もしその人がこのあわれな男が云ったすべてのことを云えないとしたら、もしその人がその第一行目を云えないとしたら、第二行目を云えないとしても、気に病む必要はない。もしその人がこう云えないとしても、気にすることはない。

   「イエス・キリスト すべてのすべて」

だが、もしその人が、

   「われは罪人 無の無なれども」

と云えるとしたら、この上もなく確かに、正しい路にあるのである。

 「おゝ! ですが」、とある人は云う。「私は罪深く、卑しく、無価値です」。それは結構! あなたは「哀れな罪人 無の無」なのであり、イエス・キリストは喜んであなたの「すべてのすべて」になろうとしておられる。「ですが私は神を冒涜しました。神の道から離れました。恐ろしいほどに、そむきの罪を犯しました」。よろしい。私はそれをすべて信ずるし、それよりずっとひどいことも信ずる。そして、そう聞けてたいへん嬉しく思う。というのも、それで私はあなたが、

   「罪人 無の無」

であるとわかるからである。私は、あなたが自分についてそういう意見をいだくならば、非常に嬉しい」。「あゝ! ですが私は罪を犯しすぎたのではと恐れています。何かをしようとしてもできないのです。生き方を改めようとしても、キリストを信じようとしても、私にはできないのです」。兄弟よ。私たちは嬉しく思う。非常に嬉しく思う。あなたは、

   「罪人 無の無」

なのである。もしあなたが、一粒でも善良さを有しており、あなたの小指の先をおおえるだけの善良さのかけらでも有しているとしたら、私たちは喜ばないであろう。しかし、もしあなたが、

   「罪人 無の無」であれば
   「イエス・キリスト すべてのすべて」である。

来るがいい! あなたはキリストを有したいだろうか? あなたは「無の無」である。あなたはキリストを有したいだろうか? ここにキリストは立っておられる。願うがいい。主はそれしか望んでおられない。というのも、あなたは主の好意の的だからである。そこには3つの段階しかない。1つはから自我から降りること。二番目はイエスの上にのぼること。三番目は天国に踏み込むことである。あなたは第一の段階に達している。その他の段階にも達するだろうと私は確信している。神があなたに、自分は

   「罪人 無の無」

であると感じさせられたならば、遅かれ早かれ、神は

   「イエス・キリスト すべてのすべて」

を与えてくださる。おゝ、あわれな罪人よ。私の《主人》の御力を疑ってはならない。ただ主の着物のふさに触れさえすれば、あなたは完全に健やかになるであろう。群衆の中にいた、あのあわれな女のように[ルカ8:43-44]、それに近づいて、そっと触れるがいい。そうすれば主は確かにあなたに云うであろう。「あなたは救われた」、と。もしあなたが主のもとに行って、

   「われは罪人 無の無なれども
    イエス・キリスト すべてのすべて」

と叫ぶなら、そのときあなたは、イエスがこのようにとりなされたほむべき理由を見てとるであろう。「彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく」。

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御民のためのキリストの祈り[了]

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