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宿営の外で苦しみを受ける

NO. 2660

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1900年2月4日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於サザク区、ニューパーク街会堂
1858年1月3日、主日夜の説教


「ですから、イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました」。――ヘブ13:12


 ある意味において、聖めは全く主イエス・キリストのみわざである。だがそこには、もう1つ、たいていの場合常にこの言葉に結びつけられている意味がある。その意味において聖めは、正当にも聖霊なる神のみわざであると述べられている。この教理に関して多くの議論が生じてきたのは、必ずしもすべての人が、この同一の言葉の2つの意味に区別をつけるとは限らないからである。ある種類の聖めは、取り分けることを意味する。この意味において、神の民は、永遠の昔から聖められていた。存在するようになる前から、選びにおいて聖められていた。というのも、そのときでさえ彼らは、主人にとって有益な尊い器[IIテモ2:21]となるべく、きよくない多数の者らから取り分けられていたからである。さらに、贖いには数多くの特性や特質があることを鑑みると、神の民はキリストの血によって聖められた、あるいは、取り分けられたとも云える。カルバリ山の上で主が、汚れも傷もないいけにえとしてご自分を御民のもろもろの罪ゆえにおささげになったときがそうである。このようにして、まことにイエスは、私たちにとって知恵と義とになられたばかりでなく、聖めにもなられたのである[Iコリ1:30]。

 あなたも思い出すように、私は先頃、「イエスだけで」という聖句から行なった説教において、聖化のためには「イエスだけ」でなくてはならない、と述べたし、その云い回しを撤回する理由は全くない。ある意味で聖化は、それが取り分けることを意味している限りにおいて、永遠のみわざであり、御父の選びおよびイエス・キリストの血潮によって全く完了されたみわざだからである。それでも聖化は、時として、また、大概の場合には、別のことを表わす。それは、私たちの内側における御霊のみわざを意味する。私たちが霊的に誕生した最初の瞬間から、天国へ取り去られる最後の瞬間に至るまで、聖霊なる神が継続しておられる1つのみわざがある。――このみわざによって、種々の腐敗は打ち負かされ、様々な情欲は抑制され、信仰は増し加えられ、愛は燃え上がらされ、希望は輝かされ、霊は天上で栄化された者たちとともに住むのにふさわしいものとされる。それは、聖霊なる神のみわざである。それでも私たちは覚えていなくてはならない。確かにそれは聖霊のみわざであるが、このことにおいてすらイエス・キリストはご自分の民を聖めておられるのである。というのも、聖霊は何によって彼らを聖めるのだろうか? 愛する方々。イエスの尊い血によって聖めるのである。私たちも知る通り、私たちの《救い主》が死なれたとき、そのいけにえには二重の目的があった。1つは赦すこと、もう1つはきよくすることである。そして、その血と水の双方が同じ源から流れ出た[ヨハ19:34]。それは、義認と聖めが両方とも、同じ天来の泉から生じることを示すためである。そして、確かに聖化は私たちのうちにおける御霊のみわざではあるが、それでも、この目的を成し遂げるために聖霊は、イエスの犠牲の血を、また、その贖罪の神聖な水をお用いになる。それらを私たちの心に塗り、私たちに振りかけては、死んだ行ないから離れさせ、悪い良心からきよめ、そのようにして私たちを何の障害もなく神に仕える者としてくださるのである[ヘブ9:14]。

 だとすれば、キリスト者よ。あなたの聖化において、イエスを仰ぎ見るがいい。御霊があなたを聖めること、だが、イエスによって聖めてくださることを思い出すがいい。御霊があなたを聖めるのは、律法の行ないを通してではなく、キリストの贖罪を通してである。ならばあなたは、このことを忘れないはずではなかろうか。あなたがイエスの十字架の間近で生きていればいるほど、いやまさる聖化と、成長と、あらゆる霊的祝福における増進とを、イエスの御霊はあなたに与えてくださるのである。だとすれば、聖めがいかなることを意味していようと、私たちはなおもこの聖句が真実であると見てとるのである。「イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました」。

 ここで私たちはしばし立ち止まり、ひとりひとりが新しい年を始めるに当たって、こう問いかけようではないか。――私自身の場合、私を聖なるものとするというキリストの目的はどのくらい達せられているだろうか? ある意味で、私が完全に聖められていることは承知している。だが、別の意味で私はなおも、自分の不完全さと弱さを感じている。去年一年間において私はどれだけ聖化において進歩しただろうか? この一年で私の信仰はどれだけ増し加わっただろうか? 私は自分の腐敗をどれだけ打ち負かしてきただろうか? 今の私は、昨年の最初の安息日よりもどれだけキリストに近く生きているだろうか! 《救い主》についてどれだけのことを知っているだろうか? その似姿にどれだけ近づいているだろうか? 祈りにはいやまさる力があるだろうか? 自分の生き方において、より注意深くなっているだろうか? 私の霊は、以前よりも愛に満ちているだろうか? 正しいことにおいて、かつてよりも断固たる者になっているだろうか? それと同時に、私は正しいことのために立ち上がることにおいて、より柔和になっているだろうか? 私はあらゆる点において、一年前よりも自分の《主人》に似た者となっているだろうか? それとも、それとは逆に退歩してきただろうか? 歩みを止めていただけということはありえない。恵みにおいては前進するか、後退するかのどちらかでしかない。過ぐる一年の間、私はどちらを行なってきただろうか? そして、おゝ、わが魂よ。私はお前に命ずる。こうした問いに対してお前がいかなる答えを返さなくてはならないにせよ、なおもこのことは覚えておくがいい。もしお前がこれまでにないほど聖められたとしても、お前はまだ完璧に達してはいない。私は切に願う。後ろのものは忘れ、前のものに向かって前進し[ピリ3:13]、その間、信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいるがいい[ヘブ12:2]。願わくは主があなたに、その恵みをふんだんに与えて、あなたが魂も霊も完全に聖められるように。また、願わくは神があなたを主の到来と栄光のときまで保ってくださるように。

 I. しかし、いま私が第一に語りたいと願っている主題は、《イエス・キリストは門の外で苦しみを受けられた》という事実である。

 知っての通り、大祭司が罪のためのいけにえをささげたとき、それは罪の象徴であったがゆえに、神にとって不快きわまりないものであった。それで、それは大祭壇の上で焼かれてはならず、常に宿営の外で焼かれた。それは罪に対する神の嫌悪を示し、罪をご自分から遠ざけるのみならず、ご自分の《教会》からも遠ざけようという神の決意を示すものであった。さて、私たちの主イエス・キリストが私たちの《罪のためのいけにえ》となるべく世に来られたとき、主もまた宿営の外側に出されなくてはならなかった。そして、注目すると非常に興味深いのは、《摂理》がいかに尋常ならざるしかたで、その象徴を成就なさったかということである。もしも私たちの主が暴動によって殺されたとしたら、まず間違いなく町の中で切り殺されたであろう。司法的に死に至らしめられなかったとしたら、主が通例の《判決の山》に連れて行かれることはなかった。そして尋常ならざることにローマ人たちは、町の外側にある1つの丘を選んで、そこを十字架刑と死刑を行なう通常の場所としていたのである。私たちは、彼らが町の中心にある何らかの山を選んでいただろうと考えたかもしれない。この町のニューゲートのように人目につく場所に彼らのさらし柱を据えつけて、群衆にとってより強烈な見せしめとしただろうと思ったかもしれない。しかし、神の摂理によって、それとは異なる取り決めがなされた。キリストは暴動によって切り殺されてはならなかったし、町中で死ぬことも許されなかった。そして、主がローマ人たちの手に引き渡されたとき、彼らが有していた処刑場は、町の内側にではなく、宿営の外にあったのである。それは、主が門の外で死ぬことによって、御民にとっての《罪のためのいけにえ》であると証明されるためであった。

 この偉大な真理に関して、私は、一二の注釈を手短に示したいと思う。第一に私はあなたに1つの問いかけをしたい。あなたは、門の外に住んでいたのがいかなる人々であったか知っているだろうか? もしあなたが、かの「イスラエルの大陣営」に行くことができたとしたら、すべての天幕が整然と配置されている姿を目にしたであろう。ダンの旗はそこ、ユダの旗はそこ、エフライムの旗はそこ――という具合に契約の箱は取り囲まれていたであろう。だがあなたには、宿営の外側の後ろの方にある、いくつかのみすぼらしい仮小屋が目にとまるであろう。そして、もしあなたが、「あそこには誰が住んでいるのですか? 親戚知己から遠のけられ、主の聖所に上って自分のいけにえをささげることも、その聖なる御名への賛美歌を合唱することもできない、あのあわれな人々は誰ですか?」、と尋ねたとしたら、――あなたの問いに対する答えはこうであったろう。「あそこにいるのは、らい病人や、その他の『汚れている連中』ですよ」。またもし、それよりも後代になって、あなたがエルサレムの町を取り巻く、昼なお暗い峡谷のいずれかを歩いて行くとしたら、あなたは遠くからでも、「汚れている! 汚れている! 汚れている!」、という叫びを耳にしたであろう。――絶望の歌のように響く苦々しい呻き、まるで、この地上を永遠に休むことなく歩くよう命ぜられた、どこかのあわれな亡霊から出てきたかのような呻きである。もしあなたが、そうした哀調を帯びた音を発していた不幸な存在に近づいたならば、あなたは彼がその上唇をおおい、再び、「汚れている! 汚れている!」、と叫ぶのが見えるであろう。――あなたに向かって、自分に近づきすぎてはならないと警告しているのである。風に乗って、そのらい性の皮膚からの感染源が吹き飛ばされてはいけないからである。もし少しの間でも、彼がその手を自分の口から動かしたなら、あなたがそこに見たのは、神が元々そこにつけてくださった血色の良い紅唇ではなく、すさまじい、歯の色とも区別がつかない白斑であろう。彼の唇は汚れていた。というのも、そこにらい病は巣くっていたからである。そして、すぐに彼はその白い病斑をつけた唇をおおい隠し、再び叫んだであろう。「汚れている! 汚れている! 汚れている!」、と。

 そのらい病人は誰の象徴だっただろうか? 私の兄弟たち。彼は、生まれながらの状態にあるあなたや私の象徴であった。そして、もし聖霊が私たちを生かしているとしたら、また、私たちに自分の滅びた有り様を知らせてくださったとしたら、私たちはこのらい病人の叫びが、自分の聖からざる唇に実にふさわしいものであると感じるであろう。ことによると、今この祈りの家の内側には、きょう全人類から切り離されている人が話を聞いているかもしれない。世俗の人々と、その人はもはや交際しようとはしない。遊女や他の者たち、かつては奔放な暮らしをともにしていた人々は、今やその人の仲間ではない。その人は、彼らの快楽に耐えられない。それには苦味が加わっているからである。神の子どもたちと、その人は歩むことができない。彼らは自分など宿営の外に追い出すだろうと感じている。というのも、その人には何の望みも、キリストも、信仰もないからである。その人は、キリストが自分のために死んでくださったなどとは云えない。キリストを信頼していない。希望のほのかな光一筋さえ、そのあわれな暗黒の心には射し込んでこない。そして今晩、今や覚醒したその人の霊の内側は、このように呻いている。――

   「汚れに! 汚れ! 汚れたり!
    汚れつつ かつ罪に満つ、
    余さずわれは、かくありき。
    陰険(よこしま)なるは わが心」。

らい病人よ、らい病人よ! しっかりするがいい。キリストは宿営の外で死なれた。それは、あなたがその血によって聖められるためである。私には今、砂漠の地をひっそりと越え行きつつあるらい病人が見える。彼は道沿いの清浄な流れを一すすりもしない。次に飲む人を感染させるといけないからである。むしろ、どこかの不潔な水たまりを探しては、喉の渇きを癒そうとしている。それなら、他の誰も飲もうとはしないであろうから。彼が自分の唇を覆っている姿が見える。たとい父親が彼に出会っても、彼の前からは急いで逃げ出すに違いない。最愛の妻が彼に目をとめたとしても、彼のそばにはとどまらないに違いない。彼の皮膚の下にも、その陽気な美点の下にも厭わしい病が巣くっているからである。そして、彼の口から出る吐息そのものの中にさえ死がある。よろしい。ひそやかに歩を進めている彼は、突然、十字架を目にする。そして、その上には、まさに死のうとしている《お方》が上げられている。彼は、驚愕してそこに立ち尽くす。そして、確かに自分はらい病人ではあるが、死にかけた人になら近づいて良いだろうと思う。生者に近づくことは許されていないが、死にかけた者になら新たな死をもたらすことはありえない。そこで十字架に近づいていくと、死にかけた人の唇が開き、その人は云うのである。「まことに、まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」*[ルカ23:43]。おゝ、何たる喜びと歓喜が彼のあわれな、らいに病む霊を駆けめぐることか! いかに彼の、長いこと重苦しかった、また身の裡で黒石炭のようにからからに焼き焦がされていた心が、再び柔らかに輝く光を強く感じることか! 彼は微笑みを浮かべる。というのも彼は、十字架上の驚くべき《人》が、自分のあらゆる罪を赦してくれたのを感じるからである。そして、彼がそれを感じ出すより先に、彼のらい病はきよめられており、すぐに彼は出発する。彼の肉は幼子の肉のようになり、彼はきよい者となっているからである。おゝ、らい病人のごとき罪人よ、これを聞くがいい。そして、これを自分のこととして信ずるがいい! 今晩、宿営の外で死なれたお方を仰ぎ見るがいい。それは、あわれな汚れた罪人が、そこで《救い主》を見いだせるようになるためだったのである。

 それがこの聖句から引き出す私の最初の教訓である。もし御霊なる主がこのことを恵み深くあなたの魂に適用してくださるとしたら、これは多くの罪に悩む心にとって非常に尊い教訓となるであろう。

 しかし、信仰者よ。あなたもまた、自分が汚れた者、宿営の外にいる者であるかのように感じたことが一度もなかっただろうか? 兄弟たち。私自身の心がどう感じているかをしばし語らせてほしい。そして、果たしてあなたがそのように感じたことがないかどうか考えてみてほしい。あなたはしばしば、自分が神の子どもであると知っていた。私自身も、大きな喜びをもって、確かに自分はキリストの恩恵にあずかっているとの確信を感じてきた。だが、突然、罪が私を驚かせ、何らかの不幸な性癖がむくむくと湧き起こり、私はまるで私の神に顔向けできない気がした。祈るため膝まずいていたときも祈れないように思われた。自分が宿営の外に出されなくてはならない汚れた者であるかのように感じた。――ミリアムが、ごく僅かな間しからい病にかかっていなかったにもかかわらず、それでも七日間汚れた者になったように。そして、神の家に来たときの私は、その場にいるいかに卑しいキリスト者たちであれ、自分などよりはるかにすぐれていると感じられ、彼らの足台にでもなれたら喜んだであろうほどであった。自分がキリストの群れの、最も卑しい子羊であると分かりさえするなら、囲いの中のどんな部分にでももぐりこんでいたであろう。私は執事を見た。教会員を見た。そして思った。「兄弟たち。あなたは幸福だ。だが、私の心は悲しんでいる。私は神の子と呼ばれるにふさわしくない者なのだから。父よ。私は罪を犯しました。はなはだしい行ないをし、あなたにそむく罪を犯しました」。しばらくの間、信仰は停滞し、希望は鈍重になり、罪意識がのしかかり、自分の主の臨在から全く押しのけられてしまったかのように思われた。聖書を読んでも、そこに何の慰めも得ることができなかった。天は私たちの上で青銅になったかのように思われた。いかなる恵みの雨も、私たちの渇いた魂の上に降り注がなかった。神も人も私たちを宿営の外に押し出したかに思われた。私の信ずるところ、キリスト者は、その体験の中で何度となく、いま私が述べてきたようなことを感じるに違いない。私は単に小物のキリスト者たちだけを意味しているのではなく、この上もなく偉大なキリスト者たち、自分の神に最も近く生きていた人々、主への奉仕において抜きんでていた人々――神のアロンやミリアムたち――のことを意味している。彼らも、時には宿営の外に出されなくてはならないのである。ならば、私たちの中で時として汚れた者とならない者などどこにいるだろうか? 確かにイスラエルの大いなる者のうち、ひとりとして、いかなる儀式的な汚れも受けることなく常にあることができた者はいなかった。というのも、あなたも知る通り、ユダヤ教の律法の下では、らい病人の寝床に腰掛けただけでも人は汚れた者とされ、人生に起こり来る多くの事がらによって彼らは七日間汚れた者とされたからである。そして、私たちのからだの様々な弱さゆえに、また、私たちが召されている種々の人間関係のゆえに、また、私たちの精神の種々のよこしまな考えのゆえに、私たちがしばしばあのユダヤ人たちのように汚れた者となるとしても、何の不思議があるだろうか? そして、時として主が私たちを、いわば宿営の外へしばし出されるようなことがあるとしても、当然ではないだろうか? 私たちがヒソプによって清められ、きよい者とされるまでそうされるのは当然ではないだろうか? みことばによって、水の洗いをもってきよめられるまで[エペ5:26]そうなるのが当然ではないだろうか?

 あゝ! だが、兄弟たち。これは何というあわれみであろう。私たちが門の外にいるとき、キリストもまた門の外におられるのである! おゝ、あわれな信仰後退者よ! あなたの良心はあなたを、きょう《教会》から閉め出しているだろうか? 思い出すがいい。キリストもご自身を閉め出されたのである。主は、「さげすまれ、人々からのけ者にされ」た[イザ53:3]。あなたは今晩、自分が聖餐卓の前にやって来ることができないかのように感じているだろうか?――あなたの《主人》がそこからあなたをはねつけるかのように感じているだろうか? 思い出すがいい。もしあなたが主のものであれば歓迎されるのである。というのも、主の聖餐卓は主の十字架がある所であり、主の十字架は門の外にあるからである。罪人よ! 来るがいい。信仰が後退している聖徒よ! 来て、迎(い)れられるがいい! 神はあなたを遠のけられたかと思われるかもしれないが、それは見かけだけである。というのも、私たちの知るところ、神は遠のけることを憎むと書かれているからである。来るがいい。そして、たといあなたが門の外にいるとしても、あなたの主を見つめるがいい。このお方こそ、「ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受け」てくださったお方なのである。

 II. 私は、もう1つの考えだけをあなたの注意の下に持ち出したいと思う。使徒は本日の聖句の次の節でこう云っている。「ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て行こうではありませんか」*。ならば、《キリストが門の外で苦しみを受けたように、私たちもそこで苦しみを受けることを恥じないようにしよう》

 私は、宿営の外に出されもしない人のキリスト教信仰を大して評価しない。もしあなたが悪人とともに住んでいられるとしたら、もしあなたが彼らのように生きることができ、不敬虔な者と「なれ合う」ことができるとしたら、もし彼らのならわしがあなたのならわしだとしたら、もし彼らの楽しみがあなたの楽しみだとしたら、彼らの神はあなたの神であり、あなたは彼らのひとりなのである。この世の宿営から閉め出されることなしにキリスト者であることはありえない。私にとって到底可能とは思えないこと、それは、誰かが真の聖徒であり、聖なる人であり、神のものとして取り分けられ、キリスト・イエスにあって聖なるものとされていながら、決して地上にある間、厳格すぎるとか、清教徒的すぎるとか、ことによると陰気すぎるとさえ非難されないでいる、ということである。キリスト者とこの世の人との間には、容易ならざる区別がなくてはならない。そして、そのような区別が全く、あるいは、かすかにしかない場合、そこには、問題がないわけではないと疑うべき、非常に厳粛な原因がある。私は、ある人が世俗の人々のような服を着ているのを見るとき、また、世俗の人々のような口のきき方をしているのを聞くとき、また、そうした人々の風采が世俗的な人のそれとそっくりであると分かるとき、また、そこに何の相違も認められないとき、また、主イエスの目印がその人の上に全く見られないとき、また、その人の話に「スィボレテ」と語る世から見分けられるべき何の「シボレテ」[士12:6]も聞きとれないとき、また、その人と他の人々との間に何の区別も発見できないとき、そのとき私には分かるのである。「神は侮られるような方ではありません」[ガラ6:7]。その人は肉のうちにあり、「肉から滅びを刈り取」ることになるであろう、と[ガラ6:8]。

 否。それよりも先へ進もう、この時代にあって、私には到底可能とは想像できないこと、それは、ある人が自分の《主人》に忠実に仕えていながら、時として《教会》そのものの中においてすら、宿営の外に閉め出されることがないということである。私が意味しているのは破門のことではない。――それとは、はるかに異なったことである。私が意味しているのは、自分の神に正しく仕えているある人が、しばしば《教会》の中においてさえ、少数派の中にあると感じるものだということである。その人は、決して他の人々をことさらに反発させるような行動や考え方をすべきではない。風変わりになることが正しい場合を除き、風変わりになるのは愚かなことである。だが、信仰を告白する《教会》はあまりにも放縦になってしまっており、その教理はあまりにも低劣なもの、その経験はあまりにも軽薄なもの、その生き方は時としてあまりにも聖ならざるものとなってしまっているがために、今キリスト者であるということは、私たちが選民の中の選民となること――この世から選び出された者であるのと同様に《教会》から選び出された者となること――でなくてはならないのである。一方では何たる高慢を、もう一方では何たる怠惰、何たる怒り、何たる不信、何たる貪欲、何たる世俗的な精神を、私たちは絶え間なく目にすることか! 私たちの中のほとんどの者は、あまりにもこの世と入り混じり合い、あまりにもエジプトに結びついている。それで信仰に堅固な者、自分の《主人》を本当に愛する者はまれなのである。愛に満ちた精神の人、大きな心の人、だがしかし、断固たる熱心の人、堅忍不抜の心構えの人――そうした人は宿営の外に出て行かざるをえないであろう。そして、今は苦しみを受けざるをえないであろう。それは、これまでも、のろのろと《小羊》に従う者たちに先んじて、あえて神の選民という神聖な軍勢の前面に出ようとしたすべての人々が苦しみを受けざるをえなかったのと全く同じである。もしキリストに仕える教役者の誰かが、普通の信仰告白者たちにとっては大胆すぎ、歯に衣着せなさすぎ、正直すぎることをあえて行なうとしたら、その人はそしりを予期しなくてはならない。その人は、それを当て込むがいい。喜んで宿営の外に出て行くがいい。それこそ、その人に先だって《主人》が出て行かれた場所だからである。

 もし私が歴史書の頁を繰って、この世に生を受けた人々の中で最上の人々を見いだそうとするとしたら、どこでそうした人々が見つかるか分かるだろうか? そうした人々は決して、その当時「体裁が良い」と呼ばれた人々の間には見つからない。そこには、歴史上の偉人たちの名前が見いだされる。エラスムスやその他の、主立った、学識ある人々である。だが、親指でめくりすぎて薄汚れた頁に私が見いだすのはルターの名前であり、それが、「犬、姦淫者、獣」その他の、ローマの悪意によって示唆されえた、あらゆる悪口に結びつけられていることである。そして私は云う。「あゝ! これこそ神がお選びになった人だ。彼は宿営の外に出て行ったのだから」。かの偉大な聖職者たち、学者たち、神学者たちの一覧表――それをあなたはきれいに拭い去ってほとんど悔やみはしないであろう。だが、宿営の外にいるこの人物、彼こそは大物である。嘘ではない。彼こそは神が祝福された人である。大主教たち、主教たち、聖堂参事会長たち、地方執事たち、教区牧師たち、副牧師たちが列挙してあるもう1つの一覧表に目を向けてみるがいい。そこに記されているのはみな、可能な限り体裁が良い人々であり、彼らの大冊をなす説教集は、近頃ではうずたかい埃に埋もれて書棚に並んでいるであろう。私は彼らの名前を読んでみる。そこにひとり、別の所にひとり、また別のひとり。だが、彼らのいずれにも、格段に特別なものは何もない。とうとう私は、ホガースの描いた一枚の絵を見いだす。――説教をしているひとりの人物の風刺画である。その口の中からは悪霊たちが飛び出しており、その下には、「火と硫黄」と記されている! 私はその似顔を眺めて、こう云う。「見よ。これはホイットフィールド氏だ」。あゝ! それこそ、時代の最高の人である。嘘ではない。この人物、冷酷で奇矯な風刺を浴びせかけられ、ソドムすら知らなかった罪悪の限りを非難されていたこの人こそ、その人である! 別の絵に描かれている副牧師ではない。それは眠りこけた全会衆に向かって説教していた。だが、ここにいる人物、悪口雑言を云われ、笑い者にされ、あざけられているこの人物、これこそ大人物である。

 そのようにしてあなたは、好きなだけ続けて行くことができる。そしてあなたが常に見いだすのは、一部の人々が呼ぶところの、「牧会職への闖入者たち」、教区牧師会が嫌う人々、大衆が拒絶し、あざ笑い、馬鹿にする人々、――そうした人々こそ、まさに神が祝福なさる当の人々だということである。それで、もしあなたが宿営の外に出て行くとしたら、あなたには非常にすぐれた仲間ができるであろう。過ぎにし昔の聖なる人々はみな宿営の外に出された。もし不敬虔な群衆が私たちの父祖たちを外に追い出し、「出て行くがいい。われわれはお前を必要としない」、と云ってきたとしたら、確かに、彼らの子どもたちはその墓を建て、それから私たちを追い出すであろう。そうだとしても、それが何だろうか? 私たちは満足して、これほど立派な血統の受ける分にあずかるであろう。私たちはその門から追い出されることを高い誉れと考える。その門の唯一の栄光は、かつて善良な人々がそれを通り抜けたということでしかなく、その門の大きな不名誉は善良な人々がそれを出口としたことにあるからである。――彼らはその中へではなく、その外へ出て行ったのである。それで、愛する方々。宿営から叩き出されることに満足するがいい。

 しかし、注意するがいい。宿営の外に出て行くことそのものは何にもならない。宿営の外で苦しみを受けることこそ大きなことである。自分を他の誰とも違った者にしても、何にもならない。真理のために苦しみを受けることこそ、真に高貴なことである。キリストとともに十字架上につけられることこそ名誉あることである。何らかの善となるのは、分派したり分離主義者になることではない。宿営の外に出て行くことではない。宿営の外で苦しみを受けることこそ、あなたが信仰者であることを証明するのである。おゝ、キリスト者たち。もしあなたがたが同じことをしなくてはならないとしたら、喜ぶがいい! そして今、あなたがこの聖餐卓の前に出てくるにあたり、私はあなたに命ずる。苦しみを受けられました、という言葉だけを思い起こすがいい。「イエスは、門の外で苦しみを受けられました」*。そして私は、あなたに求めたい。この聖餐卓に着くときには、この言葉を黙想してほしい。これを何度も何度も思い巡らし、主のからだと魂とのすべてが、いかにあなたのために苦しみを受けたかを考えるがいい。そして、この偉大な真理を黙想し終わったときあなたは、ご自分の血によってあなたを聖なるものとするために門の外で苦しみを受けられたお方と交わりを持つにふさわしい心持ちになっているであろう。

 願わくは慈愛の神が罪人たちに恵みを与えてくださり、彼らが、宿営の外にいたらい病人たちのように、自分たちのため十字架にかけられたイエスを仰ぎ見て、永遠のいのちを手に入れることができるように! アーメン。

 

宿営の外で苦しみを受ける[了]

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