HOME | TOP | 目次

「イエスだけ」――聖餐式前の瞑想

NO. 2634

----

----

1899年8月6日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於サザク区、ニューパーク街会堂
1857年8月2日、主日夜の説教


「イエスだけで」。――マコ9:8


 これは、弟子たちがその山の上で見た最後の光景であった。また私には、その最上の光景であると思われる。彼らは「イエスだけ」を見た。イエスはしばしばご自分の民とともにおられた。通常はご自分の弟子たちとともにおられた。だが弟子たちは、「イエスだけ」でおられる際の主に気づくことがめったになかった。この場合に彼らがそれに気づいたのは、おそらく、それまで主がふたりの偉大で注目に値する人物とともにおられたからであろう。だが、ふたりは突如として立ち去り、その後、「彼らといっしょにいるのはイエスだけで、そこにはもはやだれも見えなかった」*。弟子たちは、自分たちの主が変貌し、モーセとエリヤ――律法と預言者を代表する者――によって伴われるのを見た。突然、モーセとエリヤは彼らの視界から姿を消し、その後では、「彼らといっしょにいるのはイエスだけで、そこにはもはやだれも見えなかった」*。

 愛する方々。私たちも「イエスだけ」を見たければ、絶対にこの弟子たちのように、まずモーセとエリヤを見ていなくてはならない。いまだかつて「イエスだけ」を見た目のうち、それ以前にモーセを見ていなかったものは、ただの1つもない。私たちはまずシナイの厳格さと、律法の恐怖の下を通らなくてはならない。まず、かの凄まじい律法賦与者の恐ろしい顔つきを見つめなくてはならない。彼の言葉は雷であり、彼の語ることは火である。私たちは、神の御怒りの雷が私たちの頭上を越え行きつつある間、その天来の律法の告発の下で震えさせられ、恥じ入り、驚愕し、狼狽させられて立つのでなくてはならない。私たちはまずモーセを見なくてはならない。さもなければ、決して「イエスだけ」を見ることはないであろう。私たちは、自分で自分を義とすることにより頼み、何かをキリストと並び立たせ、――それを「キリストと自我」にしている。そこへモーセが立ち現われ、自己義を木っ端微塵に粉砕するのである。私たちはモーセによって破壊されなくてはならない。――その打ち砕く手を、律法が良心に持ち込む恐ろしい葛藤を受けなくてはならない。――さもなければ、決してイエスに完全により頼み、イエスだけに自分の信頼を置くという甘やかさを知ることはないであろう。

 また、よく聞くがいい。愛する方々。別の意味で、私たちが「イエスだけ」を見たければ、預言者たちについてある程度理解しなくてはならない。エリヤを見なくてはならない。さもなければ、「イエスだけ」を見ることはないであろう。ある人々は、まだエリヤを見たことがない。預言を理解していない。将来は文明の偉大な進歩を目の当たりにするだろうと考え、福音の伝播を期待する。数々の大きな機関が用いられ、おびただしい数の教役者が外地に出かけて行ってはみことばを宣べ伝え、世界が徐々にキリスト教信仰へと回心していくのを聞くだろうと期待する。だが、預言者を理解している人、また、エリヤを見たことのある人は、世界が即座に回心することも、万国に平和がもたらされることも信じない。その人は「イエスだけ」を信ずる。イエスがまずやって来ることを期待する。その人にとって、未来の大いなる希望は、人の子の来臨である。その人は云う。「私は知っている。神が世を転覆し、転覆し、転覆した果てに、統治する権利をお持ちのお方がやって来られるということを。私は知っている。数々の帝国がその土台の根幹までぐらつき、世界が恐怖と恐慌のため右往左往した末に、このお方が現われるということを。その方の名はメルキゼデク、義の《王》、平和の《王》であり、大水の上にその手を置き、川の上にご自分の帝国を据え、『その支配は海から海へ、大川から地の果てに至る』[ゼカ9:10]」。私たちが「イエスだけ」を、世界の大いなる《解放者》として、罪人たちの唯一の《贖い主》として、地の輝かしい《太陽》として、またその《明けの明星》として見たければ、預言者を学び、いかに彼らがみなイエスについて、すなわち、来たるべきお方について語っているかを見てとらなくてはならない。私たちは初めにモーセとエリヤを見るべきである。そして、彼らを見たとき、彼らの一致した証言に導かれて、「イエスだけ」を見させられるであろう。

 さて今、愛する神の子どもよ。私たちは聖餐式に集おうとしている。私は、その場であなたが瞑想する助けになるであろう二三の思想だけを告げることにしたい。聖餐式の卓子のもとに行くとき、私たちは「イエスだけ」について考えるべきである。今晩の私たちにとって用があるのは、他の何物でもない「イエスだけ」である。私たちは、自分に妻子があることを忘れるべきである。家や納屋があること、田畑や店があることを忘れるべきである。この場では、そうした事がらについて全く思い起こすべきではない。むしろ自分にできる限り、こう云うべきである。

    わが思いより 徒(あだ)し世、失せよ!
    わが敬虔(つつしめ)る 時を乱すな
    わが目は喜び 救主(きみ)を見んとす
    主よ、われ待てり、なが訪(おとな)いを。

    心は暖(あつ)し 聖(きよ)き火にて、
    また燃ゆるなり、きよい願いに。
    来たれ、わがイェス、上つかたより
    わが魂(たま)満たせ、天(あま)つ愛にて。

神の恵みにより、今晩のあなたは、天の下の他のいかなる集団とも全く関わりを持っていない。思い出すがいい。あなたは、ただ神の聖徒として聖餐式に集うのだということを。多くの信仰上の論争が世を揺るがしているが、今晩はそうしたものと一切関わりがない。聖餐式に集うとき、あなたはバプテスマが浸礼によるものか滴礼によるものかといった問題とは関係ない。教会政治は監督政であるべきか長老政であるべかきといった問題とは関係ない。世界中の誰か他の人が何を信じているかには関係ない。人々はアルミニウス主義者かもしれないし、別の場所でなら、あなたが彼らの過誤と争うのもよい。だが、ここではいけない。今晩あなたが考えなくてはならないのは、2つのことだけである。すなわち、あなた、罪人、が、恵み深い《救い主》によって愛されているということである。できるものなら、あなたの思いをこうした事実にひたと据えるがいい。「私は失われていた。自分自身の罪によって滅びつつあり、破滅していた。だが、神に栄光あれ。すべてを満ち足らす主イエス・キリストの贖罪が私を自由にし、天の世継ぎとしたのだ」。おゝ! 「イエスだけ」をあなたの思い、あなたの頼みの的とするがいい。そして、この聖餐式に、他のすべてを打ち捨てて集うがいい。そうするとき、それは真実に尊い主の晩餐となるであろう。

 私はあなたに「イエスだけ」について語ることとし、あなたにこう示そうと思う。すなわち、あなたの義認のためには「イエスだけ」でなくてはならず、あなたの聖化のためには「イエスだけけ」でなくてはならず、あなたの人生の目標としては「イエスだけ」でなくてはならず、あなたの天国の望みとしては「イエスだけ」でなくてはならない、と。

 I. 第一に、《あなたの義認のためには「イエスだけ」》でなくてはならない。

 私たちは愚か者として生まれ、天国に行き着くまで愚か者であり続ける。そして、私たちから常に発するであろう愚かな事がらの1つは、私たちが自分の義認という問題において、キリストと何か他のものを並び立たせようとしたがることである。あなたは私に、自分は決してそんなことをしていませんと云うが、私はあなたがそうしているものと確信している。あなたは、誰よりも啓発された聡明な聖徒かもしれない。だが、あなたでさえ、無意識のうちに、非常にしばしば何かをキリストに結びつけ、あなたの魂の中に反キリストを立て上げつつあるのである。いかにしばしば、最も正統的な説教者が口にする意見といえども、キリスト・イエスこそ私たちを義と認めさせる唯一の義であるとの偉大な真理を妨げるようなものであることか! 「イエスだけ」が、私たちの救いの岩であり基盤である。――だが、この偉大な根本的真理を固守するのは難しいことである。思い出すがいい。キリスト者よ。あなたの救いをもたらした功績は、これっぽっちもあなた自身にかかってはない。それは「イエスだけ」にかかっている。今やあなたの責任は、あなたに代わるキリストの、天来の責任に併合されている。主イエスはあなたのために、このような契約を結ばれたのである。――

    主はわが魂(たま)を
    しみなく 全き者として
    栄光(はえ)ある御顔の 前に現わし
    輝く喜び 大いに賜わん。

おゝ、愛する方々! あなたの信頼を常に、その的としてしかるべきところ、「イエスだけ」に置いておくがいい。そして、自分が罪と邪悪さに満ちていることに気づいたときには、そのことについて嘆くがいい。だが、そのためにあなたの希望の根拠が、これっぽっちでも不確かになったと思ってはならない。罪が蔓延し、咎が立ち起こるときには、こう思い出すがいい。あなたの義がいささかもキリストの義をよりすぐれたものにできないように、あなたの罪はキリストの義をいささかも劣ったものにできないのである。そして、主の義をまとったあなたは、罪で暗黒に染まった者ではあっても、深い悔い改めとともに、だが聖なる喜びをもって、こう叫べるのである。――

    死のちり払いて よみがえり
    天空(そら)の邸宅(やかた)を 得しときも
    こは我が唯一(ひとつ)の 主張(わけ)とならん。
    「主はわがために 生きて死す」。

    かの日も大胆(つよ)く われは立たん、
    そは誰(た)ぞわれを 非難(せ)めうべき。
    汝が血のまたく われ解(と)きたるに、
    罪のすさまじ 呪い、恥辱(はじ)より。

さらにまた、思い起こしてもらえるだろうか? あなたのいかなる良いわざも、あなたを少しも安全とはしないのである。人は、たとい信じた瞬間に死んでしまい、全く何の良いわざも行なわなかったとしても、長生きをして、魂を尽くし、力を尽くして自分の《造り主》を愛し、仕えた人と同じくらい確実に天国に行くであろう。覚えておくがいい。日々自分のすべてをキリストにささげつつ生き、《主人》への奉仕に財を費やし、自分自身をさえ使い尽くしている聖徒は、それほど愛に満ちていない聖徒にまさって幸福である。だが、決してそうした聖徒にまさって安全であるわけではない。活発に働けば幸せになるであろう。だが、活発に働けば安全になると思ってはならない。天国の相続人は、良いわざに満ちあふれ、神への奉仕に勤勉であるときも、その究極的な救いに関する限りは、信仰後退に陥り、神の御国の進展のためにはほとんど力を尽くさず弱くなっている場合とくらべて、いささかも安全さを増すわけではない。というのも、私たちの安全は、私たちが行なったり行なわなかったりする何かに存しているのではないからである。それは、ただ無代価で主権の恵みにのみ存している。そして、私たちの救いの唯一の土台は、私たちのために死んでくださった方、「いや、よみがえられた方、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださる」方、キリストなのである[ロマ8:34]。

 やはり私があなたに思い起こしてほしいのは、あなたのいかなる苦しみも、あなたを少しも安全にはしない、ということである。苦しみは、神の恵みによってあなたをより良い者とする。だが、あなたが天国に入るのを少しもより確実にはしない。その患難は、功績になるようなものではない。人々はしばしば自分の苦難について誤った判断を下す。彼らは、そうした苦難が罪への罰だと考えるのである。だが神の子どもは覚えておくがいい。神は決してご自分の子どもたちを罪のため罰することはなさらない。罪ゆえに子らを懲らしめることはあるが、決して律法賦与者が下すような懲罰によって懲らしめることはなさらない。神の民は、彼らの《アザゼルのための山羊》[レビ16:8]、かつ《保証人》であられるイエス・キリストというお方において、ただ一度限り罰を受けた。そして神は、決して同一の違反に対して二度罰を下すことはなさらない。神の摂理による懲らしめは、そのご愛による父親としての行為である。そうした懲らしめは、神の正義による憤りの行為ではない。義なる《審き主》として神は、もし私たちがキリストを信ずる者であるとしたら、あなたをも私をも罰することはおできにならない。義の王笏をお持ちのお方として神は、一個の信仰者に向かって剣を抜き放つことができない。神は私たちのもろもろの罪を主イエスの上ですでに罰された。そして、そうした罪は今やあなたの上にも私の上にもやって来ることができない。だが、御父として神は鞭をお用いになる。愛に満ちた優しい御父として、神は懲らしめをお用いになる。また親切な《医者》として、神は私たちに苦い薬を与えて服用させられる。

 しかし、あなた自身のためにも、キリストのためにも、愛する兄弟姉妹。あなた自身の苦しみを《救い主》の苦しみと混同してはならない。覚えておくがいい。たといあなたがいかに激しく苦しむとしても、あなたのすべての苦しみは、あなたのもろもろの罪にとっていかなる贖罪にもならず、そうした罪の罰にさえなることはないであろう。むろん、あなたが贖われていない人々のひとりであって、それゆえ、あなた自身の罪の罰を受けて、永遠に滅びるという場合は別である。しかし、神の子どもとして、また贖われ、選ばれた、あわれみの器として、あなたの苦しみは刑罰的なものではない。そして、苦しむにせよ、苦しまないにせよ、キリストの贖罪はあなたのために十分なのであり、あなたはこう云わなくてはならない。「イエスだけが、私の義認の根拠です。私はそこに安らい、その他のどこにも安らいません」、と。

 しかしいま私はあなたに尋ねたい。愛する方々。あなたはしばしばこういうことに気づかないだろうか? あなたが非常に健全な心持ちをしていたとき、また、祈祷会で非常に真摯な祈りをしてきたり、貧者を助けてきたとき、また、教役者があなたの背中を叩いて、あなたは何と模範的な人だろうと云ってくれたり、執事たちが暖かい目であなたを見つめ、あなたのおかげで本当に助かると云ったり、また、あなたの《日曜学校》の働きが祝され、メアリー・ジェームズから手紙を受け取ると、彼女があなたの教えを通して回心しましたと書いてあったりしたとき、あなたは気づかないだろうか? 家に帰ってからのあなたが、なぜかは知らず、一日か二日するうちに、不活発になり、低調になり、自分に何が起こったか分からなくなったのである。あなたは、何がその原因か一度も考えたことがないだろうか? あなたは、自分のすべての望みと確信を失ってしまい、咎ある罪人としてキリストのあわれみの足台のもとに来て、主の愛と血とをあなたの唯一の頼みとして受け取らざるをえなかったではないだろうか。あなたは自分がなぜそれほど霊的に低下したのか分からないだろうか? あなたは、自分でも無意識的に、あなた自身の良いわざに、少々より頼んでいたのである。自分自身に向かってこう云っていたのである。「よろしい。今や私は、自分が天国に入れることは確実だと本当に思えるようになってきた。見よ、こうした事がらは、御霊の実ではないだろうか? おゝ! 私は自信をもって喜んで良いではないだろうか? 私は今や安泰ではないだろうか? 確かに、今や私は安全なのだ! こないだの日も私は、いかに祈ったことか! 先日の晩も、密室の祈りにおいて私は、いかに幸いな時を過ごしたことか! 今や私は、自分がキリストにより頼めることが分かっている」。平たく云えば、そういうことである。そして、それからのあなたは長い間、重苦しく、鈍重な心持ちに陥ってしまう。それはただ、あなたにこの一言、「イエスだけ」、をはっきり云わせるためなのである。そして神は、あなたにこの言葉をはっきり云わせ続け、ついにあなたは、自分の心と良心の締めつけによって、毎日でも、こう云うことを余儀なくされることになるであろう。すなわち、あなたが自分の確信と信頼を置くことのできるのはそこであり、そこだけでしかありえない、と。

 それが、第一の点である。私たちの義認のためには「イエスだけ」なのである。

 II. 次に、《私たちを聖化するのもイエスだけ》でなくてはならない。ある信仰告白者たちはそうは云わないであろう。「私たちは神によって義と認められます」、と彼らは云う。「ですが、自分で自分を聖くしなくてはなりません」。彼らは、自分たちのいわゆる漸進的聖化を信じている。それは果たして聖書的だろうか? よろしい。私は常々、聖化は継続的であると考えてきたが、それが漸進的であるとは確信が持てない。多くの神学者たちは、確固たる真理としてこう書き記している。神の民は漸進的に聖化されているのであって、彼らが地上に長くいればいるほど、常にいやまさって聖化されつつあるのだ、と。彼らのうち誰か、老いた信仰者をつかまえて、果たして本当にそうかどうか尋ねた者がいるだろうか? 私は何度も尋ねた。そして、髪の毛が灰色を通り越して銀色になっているような高齢の聖徒がこう云うのを聞いてきた。「私の心は昔と同じくらい悪いと思います。たとい本当はそうでないとしても、私はそうだと確信して思っています。そして、それが私を、かつてよりも激しく悩ませているのです」、と。滑りやすい若気の通り道で若い人々を守らせ給え、と神に祈るのは世の習いである。何と、老年の通り道は、同じくらい滑りやすいのである。天国へ向かう通り道は、どれもこれも滑りやすい通り道である! 古い性質はなおも私たちの中に残っている。それは、変わることがなく、変わることがありえない。そして、新しい性質と古い性質、ダビデの家とサウルの家[IIサム3:1]との間には、長く戦いが続かざるをえないであろう。それは、ダビデの家が最終的に勝利をおさめ、私たちから罪が完全に払拭されるときまで続くであろう。愛する方々。あなたの聖化に関しては、大いなる進展が何かあるのを待ちわびてはならない。それが毎日継続されることは予期するがいい。だが、あなたの古い性質が日々聖くされていくと予期してはならない。そして、あなたの聖化においては、「イエスだけ」、というこのことをあなたの標語とするがいい。

 もしあなたが自分の祈りの中に、また、自分の良いわざの中にイエスを見てとれないとしたら、そんな祈りやわざなどやめてしまうがいい! あなたの良いわざは、そこにキリスト・イエスが存しておられない限り罪である。あなたが主を通して、また、主のために、また、主によって、自分のわざを行なうのでない限り、あなたの最上のわざも悪いわざである。覚えておくがいい。わざの外的なありさまではなく、内的な精神こそ、それを良いものとするのである。それゆえ、単に聖化されたような外的な見かけではなく、その内的な精神こそ、それを真の聖化とするのである。では、もしあなたが聖化を慕いあえいでいるとしたら、パウロの数ある美徳を慕いあえいではならない。あるいは、ある伝道者の種々の栄光を、あるいは、神の聖徒たちのある者らの卓越して素晴らしい性質のあれこれを慕いあえいではならない。むしろ、徹頭徹尾、イエスのご性質を、その高尚さと完璧さのすべてにおいて、慕いあえぐがいい。また、あなたを聖くするイエスの御霊を慕いあえぐがいい。というのも、聖化においては、「イエスだけ」で十分だからである。あなたが達すべき模範としても、また、その御霊によってあなたをご自分に似た者としてくださる《お方》としても十分だからである。あなたの悪いわざにおいて同様、あなたの良いわざにおいても、あなたの《救い主》から目を離さずにいるがいい。あなたが祈った後には、十字架を見上げるがいい。同様に、あなたが罪を犯した後には、また、聖餐式の後には、十字架を見上げるがいい。堕落した後と同様にするがいい。あなたが義認を求めて主を見上げるのと同じように、施し物をするときにも、聖書を読むときにも、説教するときにも、《救い主》を見上げるがいい。というのも、そうしない限り、あなたのもろもろの罪はやがてあなたを意気地なしにし、あなたを再び何らかの悲しい堕落で引き下ろし、あなたのこの標語、「イエスだけ」、の正しさを思い知らせるからである。

 III. さて、愛する方々。第三に私が語りたいのは、《私たちの人生の目標としての「イエスだけ」》である。

 今朝私は、あなたがたの中のほとんどの人々も出席していた集会において、この聖句から語る特権にあずかった。「わがたましいよ。ただ神を待ち望め」[詩62:5 <英欽定訳>]。さて、もし良ければ、今朝の講話のさわりを抜き出して、それをこの第三の項目に組み入れてみたい。「イエスだけ」を、あなたの人生の目標にするがいい。おゝ! 私は願う。聖霊が私たちの心に、知性に、良心に、識別力に、情愛に入ってくださり、あらゆる偶像崇拝的な愛、キリスト以外のあらゆるものに対する愛情のすべてを、主の家族全員の中から投げ出してくださるように。また、彼らがイエスを自分の心の王座につけ、あらゆる競敵を完全に粉砕するよう導かれるように。おゝ、兄弟たち。結局において私たちはそれほどイエス・キリストを愛してはいないのである! おゝ! もし私たちがキリストの愛という大海が私たちに向けて押し寄せているのを見、私たちの愛という小川がキリストに向けてちょろちょろ流れるのを見たとしたら、それは私たちの方で何と衝撃的な対比となったであろう。そこに主の愛がある。私にはそれを見渡すことができない。それは岸辺のない海である。想像の翼は、この果てなき海を越えていこうとしても、その前に疲労のあまりだらりと垂れ下がる。そこに主の愛がある。私にはその深さを測ることができない。測鉛線は役に立たない。しかし、おゝ! ここに私たちの愛がある。それはほとんど乾ききった小さなせせらぎである。世的な愛の熱が、時としてそれを吸収し、ついにはその小川の河床に転がっている岩が顔をのぞかせ、乾くことすらある。おゝ! 時としてそれは小さすぎて、主の貧しい家族に与える一杯の水をすくい上げるのに一時間もかかることさえある。ことによると、私たちは一週間ほどもかけなくては、私たちがキリストを愛しているという自覚すら得られないかもしれない。そして、私たちはともに何時間もこう歌っていることであろう。――

    こは わが切に知らんと欲し、
    しばしば不安をかき立てしこと。
    われ主を愛すか さにあらざるか、
    われ主のものなるか、さにあらざるか。

なぜかというと、私たちにはそれほど僅かしか愛がないからである。さもなければ、私たちは自分が主を愛しているかいないかが分かるはずである。もし私たちがもっと主を愛していたとしたら、そのことには何の疑いもなかったであろう。だが、私たちは主を愛することがあまりにも僅かなので、「ただ神を待ち」、こう叫ぶだけなのも無理はない。「イエスよ、われらを満たせや、愛にて。わが魂に入り 統べませ、永久に!」 私は切に願う。愛する方々。あなたがすでに有しているような、あわれで、小さな、取るに足らない愛で満足していてはならない。あなたが有する小さなものをお与えになったお方に、その一千倍もののものを下さるよう願うがいい。この賛美歌を歌うがいい。――

われに千もの舌のありせば そは声あわさん、この調べにぞ

あなたは、それほど多くの舌があれば良いと思うだろうか? こう云ってはならない。――

われに千の心のありせば、主よ、われささげん、汝れにそをみな。

あなたの有する1つを主にささげるようにするがいい。それであなたにとっては十分である。あなたの心全体が祭壇の上でささげられるよう願うがいい。そして、あなたの舌の全体が神に奉献され、あなたのからだ、魂、霊が、神に受け入れられる、聖い全焼のいけにえとなるようにするがいい。あなたの霊的な礼拝として[ロマ12:1]。「イエスだけ」。それをあなたの旗印に染め抜き、「イエスだけ」のために戦い続けるがいい。宗派や分派のために争ってはならない。自己や家族のために争ってはならない。あなた自身を大物にするために、あるいは富のために争ってはならない。むしろ、あなたの有するすべてを、聖なるものであれ世俗のものであれ、この標語によって聖別するがいい。「私はこれをイエスだけのために行ないます」。

 IV. そして、愛する方々。しめくくりに《「イエスだけ」は私たちが天国において望みとする唯一のことである》

 私は死んだとき何を有する希望があるだろうか? 本日の聖句によって答えることができよう。「イエスだけ」である。「天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません」[詩73:25]。詩人が夢見るような天国によって欺かれてはならない。詩人があなたに告げるのは、知性の天国、空想の天国である。子どものように、そうした嘘っぱちのパラダイスに心奪われてはならない。あなたの心の天国、また、それを満足させることができる唯一の天国は、「イエスだけ」である。主の抱擁に埋められ、主の胸に押しつけられ、主のくちびるで口づけされるのを感じ、主の永遠の愛という葡萄酒を飲み、主の恵みという大海原に永遠に没入し、主のお心を知り、主の顔だちを眺め、主の美しさを賞賛し、主の栄光に呑み込まれること、これが信仰者の最高の大望である。天国には、キリストに比すべき何物もない。パラダイスの中のいかなる花といえども、《シャロンの薔薇》ほど甘やかに咲き誇っているものはない。栄化された者たちの冠をいま飾っている宝石のどの1つといえども、キリストのまなざしの半分も輝いているものはない。パラダイスという領土のいかなる光輝であれ、それがいかに神に似た、神聖なものであっても、それは主のみ頭の半分も威光に富んではいない。その髪の毛はなつめやしの枝で、烏のように黒いのである[雅5:11]。私たちはこう歌えて当然である。――

    いつ我れ見んや 汝が笑む顔を
    かつてよく見し そのかんばせを
    立ち給え、主よ、義の太陽よ
    はだかる密雲(くも)を 散らし給えや。

また――

    おゝ、いつ我れは、神のみやこよ
    汝が宮廷(みやうち)に よくのぼらんや
    会衆(みたみ)のたえて 散ることぞなく
    安息日(みやすみ)の つゆ終わらざる場へ。

おゝ! いつ私は私の《救い主》のお目にかかり、その抱擁に埋められ、永遠に祝されるだろうか? それで、「イエスだけ」が私たちの唯一の天国の望みなのである。

 さて、貧しいキリスト者よ。あなたにはこの尊い宝があるではないか。私は、人がこの世には「イエスだけ」しか持っていないと云える場合、その人がどう感ずるだろうかと思う。あなたには分からないし、私にも分からない。あなたには、今そこそこの収入がある。あなたは、それなりの暮らしをしていられるし、頑健な五体を有している。働いて生計を立てることができる。しかし今、ある場合を考えてみるがいい。この地上のどこかに、ひとりの人がいて、こう云えるものとするのである。「さあ、いま私には一枚の襤褸服も、一片のパン屑もない。この広い世間で私の持ち物といえば、一厘の小銭も引き出せない。私には全く健康がなく、体中病んでいないところはない。私には何の名もなく、口汚い中傷が私の人格には浴びせかけられている。ひとりも友人はなく、家族はひとり残らず先立ってしまった。私には世間的な希望や見込みは全くない。私にあるのは、ただ『イエスだけ』だ!」 さて、私が想像するに、否、私は堅く信じてこう云い表わすことができる。イエスを有しているという自覚は、このあわれな乞食に途方もなく圧倒的な効果をもたらし、彼は自分の困窮を忘れ、自分の裸を忘れ、自分に親族がいないことを忘れ、自分の絶望的な状況を忘れるほどである、と。この1つの思いが、彼のみじめさすべてを呑み込んでしまうであろう。「私にはキリストがおられるのだ。ならば、主が私のものであるというのに、いかにして私は貧しいことがありえようか?」

 しかし、ここで、あなたが考えなくてはならないもう1つの場合がある。ことによると、そのような人が今晩ここにいるかもしれない。あなたには身代がある。あるいは、あなたの必要を満たすだけの金銭がある。あなたには妻子がある。持ち家や、土地、名声、誉れ、評判がある。あなたは何もかも有しているかのように見える。あなたにないものが何かあるだろうか? 私はあなたの食料品室に入ってみる。――そこには何もかも常備されている。あなたの居間に入ってみる。――そこには申し分のない家具が備え付けてある。あなたの蔵に入り、あなたの宝物箱を見てみる。それは満杯である。あなたの仕事場や、倉庫は物品ではち切れんばかりである。その場所全体では、最上階から地階に至るまで、盛んな働きがなされており、富の流れが日々あなたのもとに注ぎ込まれている。あなたには、心で願うことのできるすべてのものがある。ただ1つ、キリストを除いては。さて私は、いかに想像を逞しくしても、あなたを幸福な人と考えることはできない。私は、さほど無理をしなくとも、あの貧しく一文無しの乞食を、結局は幸せ者であると考えることができた。だが、もしあなたがキリストから離れているとはいかなることか分かっているとしたら、あなたが幸福な人になれるとは私には想像できない。考えてもみてほしい。今している通りの生き方を続けていった場合、あなたに何が起こるかを。あなたは死ぬであろう。そして、あなたの魂は地獄に追い込まれるであろう。ほんのしばらくすれば、あなたの富は「翼をつけて飛んで行く」*[箴23:5]であろう。あなたの家族は死ぬかもしれない。さもなくとも、あなたが死ぬであろう。あなたは自分の金銭を一緒に持っていくことはできない。たといあなたが黄金の棺で埋葬されても、それであなたが富まされるわけではない。あなたのすべての土地は、別の人のものとならざるをえない。誰か他の人の目があなたの麗しい畑地を見ざるをえない。誰か他の人手があなたの木々の実を摘み取るであろう。このことを考えるがいい。そして思い起こすがいい。その間ずっと、あなたは地獄にいるであろうことを――苦悶の中で! 私はあなたを幸福な人と考えることができない。家へ帰り、あなたの葡萄酒を飲み、その澱の中に永遠の断罪を見てとるがいい。家へ帰り、自分の農園を歩き回り、その土くれの中に死を、その牧草地の中に永遠の断罪を見てとるがいい。家へ帰り、自分の屋敷に入り、その最上階へと昇り、自分の地所を見渡しては、秋が来つつあるのを見るがいい。そして、思い出すがいい。「私たちはみな、木の葉のように枯れ」ること、また、もしキリストの中にいなければ、私たちのそむきの罪が、風のように私たちを連れ行くことを[イザ64:6]。家へ帰り、永遠の火焔のついての思いを、あなたの持てるすべての物と混じり合わせるがいい。あなたは何もかも持っているが、キリストだけは有していない。ならば、行って、あなたの最も喜ばしい快楽の中にあって、永遠の御怒りの見込みをかき立てるがいい。そして、もしあなたがそうした上でも幸福になれるというなら、あなたは人間ではありえない。人でなしの獣である。しかし、もしあなたが、「イエスよ」、と云えるとしたら、「イエスだけ」と云うのを恐れてはならない。もしあなたにすべてを失う見込みがあるとしたら、それをキリストのために喜んで放棄するがいい。もしあなたが、自分には十分なものがないのではないかと心配しているとしたら、このことだけは確かに思っているがいい。もしあなたがイエスを有しているとしたら、あなたは十分に有しているのである。そして、覚えているがいい。たとい最低最悪のことが起こり、あなたが牢獄に閉じこめられ、横たわる寝床もなく、食べるパン屑もないとしても、もしイエスがあなたのかたわらにおられるなら、あなたは自分の獄屋の中で御使いのように幸せにしていられるのである。だが、もしあなたがインドの富すべてを有してしようと、イエスがあなたのかたわらにおられなければ、あなたは悪鬼のようにみじめなのである。おゝ! この聖句を大切にしまっておき、これがあなたにとって真実であるようにするがいい。「イエスだけ」。

 そして、あなたがた、天国への道を慕いあえいでいるあわれな魂たち。覚えておくがいい。あなたをそこへ至らせることのできる梯子はたった1つしかない。その横木は主権の恵みによって作られている。その梯子はイエスと呼ばれている。その足は、イエスの人間性によって地上に安置されている。その天辺は、イエスの《神性》によって天に掛かっている。あわれな罪人よ。その桟を上るがいい! あなたは自分が重すぎて横木を折ってしまうと思うだろうか? おゝ、否! いま以前にもその梯子は、何人ものでっぷりとした老いた罪人たちが上っていったのである。多くの咎ある者たちがその梯子を駆け上がっていった。彼らが背負っていた罪の重みは、もし神がそれを天国で積み上げたとしたら、天国を地獄へと押し込めるほどであった。だが、その梯子はいまだかつて一度も壊れたことはないし、これからも決して壊れはしない! 頭を上げるがいい。罪人よ! もしあなたの足がはなはだしくどす黒くとも、それがその梯子を汚くすることはない。あなたの罪を、思い煩いを、悲哀をみなかかえたまま駆け上がるがいい! 主イエスのもとに行くがいい。そうすれば、主はあなたを投げ捨てはしないであろう。主はこう云われたからである。「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」[ヨハ6:37]。

 

「イエスだけ」――聖餐式前の瞑想[了]

----

HOME | TOP | 目次