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ただ神を待ち望む

NO. 144

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1857年8月2日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「わがたましいよ。ただ神を待ち望め」。――詩62:5 <英欽定訳>


 カルヴァンはこの節をこう訳している。「わがたましいよ。神の御前で黙(もだ)すがいい」。穏やかに安らぎ、心乱さずにいるがいい。敵たちはお前の回りの至る所から、激しくお前を攻め立てている。苦難はバシャンの強い雄牛のようにお前を囲んでいる[詩22:12]。だが、神のうちに安らぐがいい。わが魂よ。お前の敵たちは力強いが、《神は全能である》。あなたの苦難は苛酷だが、神はあなたの苦難よりも偉大であり、それらからあなたを救い出される。あなたの魂を騒がせてはならない。悪者どもは、荒れ狂う海のようだ[イザ57:20]。だが、あなたは彼らとは違う。穏やかにしているがいい。あなたの凪いだ霊を、さざ波1つによっても波立たされてはならない。「あなたの重荷を主にゆだね」[詩55:22]、主の御胸の上で眠るがいい。あなたの道をエホバにゆだね、確かで堅い信頼の中に安らぐがいい。というのも、

   「いずこにても 主は統べ給い
    ものみな御力(ちから)に 仕えなん。
    みわざはなべて 祝福(めぐみ)のみにて
    主の道はみな さやかな光」。

おゝ! そうした意味において、この聖句を実行できる恵みが私たちにあればどんなに良いことか! 苦難の日に穏やかにしているのは、難しいことである。だが、逆境の日に動かされることなく立てるとき、また、このように感じられるとき、それは天来の恵みが力強く発揮されている証拠である。

   「よし地の古き 支柱(はしら)も揺らぎ
    自然(あめつち)の車輪(わ)の みな壊るとも
    わが堅固(かた)き魂(たま) 恐れずあるは
    鉄壁の岩 波涛(なみ)砕くごと」。

それが実際、キリスト者であるということである。これほど甘やかなことはない。

   「御手に身(み)ゆだね
    みこころのみ知る」。

しかしながら、私は今朝、欽定訳聖書の訳に立とうと思う。「わがたましいよ。ただ神を待ち望め。私の望みは神から来るからだ」。ここには、第一に、1つの勧告があり、第二に、1つの期待がある。

 I. まず《勧告》から始めよう。詩篇作者は、一個の説教者であった。そして、彼が時として自分を自分の会衆とすることはきわめて正しかった。自分自身に説教することを怠る説教者は、自分の聞き手の非常に重要な部分を忘れているのである。ひとり静まって自分の魂に言葉を語ることを決してしない人は、自分の説教をどこから始めるべきかを分かっていない。私たちは、まず自分自身の魂に語りかけなくてはならない。それを、自分の口にする言葉で動かすことができるとしたら、他の人々の魂にも何がしかの力を振るえる見込みがあるであろう。

 また、ダビデが彼の勧告をどこから始めているかに注意するがいい。「わがたましいよ。ただ神を待ち望め」。彼は自分の存在の中心そのものに語りかけている。「わが魂よ。私はお前に説教する。というのも、もしお前が間違っていれば、すべての具合が悪くなるからだ。もしお前の具合が悪ければ、私の目はむなしいものを追いかけ、私の口はまやかしを発し、私の足は血を流すのに速くなり、私の手は放埒に手を出す。わが魂よ。私はお前に説教しよう。わが顔よ。私はお前には説教しない。ある人々は自分の顔に向かって説教し、自分がまるで感じてもいないような情緒をその顔つきに装わせる。否。顔つきよ。私はお前のことは放っておこう。お前は魂が正しくなれば十分に正しくなるであろう。おゝ、わが魂よ。私はお前に道を説こう。お前に説教を語ろう。お前が私のたったひとりの聞き手なのだ。私の云うことを聞くがいい」。「わがたましいよ。ただ神を待ち望め」。では、この勧告を説明していくことにしよう。

 1. 最初に、これによって詩篇作者が意味しているのはこういうことである。――わが魂よ。神を人生におけるお前の唯一の目標とするがいい。「わがたましいよ。ただ神を待ち望め」。神をお前の願望のきわみとし、お前の奮励の的とするがいい。おゝ! いかに多くの人々が、この気高く高貴な目当て――神に仕えること――以下のものを自らの存在目標として選んでしまったために、自分の全存在を恐るべき難船に陥らせてきたことか。私は、そうした人々の一千もの伝記を指さすことができるであろう。彼らは、この世で生き、偉大な事がらを成し遂げてきたが、それにもかかわらず、不幸な死に方をした。それは、彼らが神の国とその義とをまず第一に求めなかったからである。ことによると、この世に生を受けた中で最も巨大な精神を有していたのは、ウォルター・スコット卿だったかもしれない。彼の魂は、鍬を入れたばかりの黄金の国の土壌のように豊穣であった。この人は善良な人で、キリスト者であったと私は信ずる。だが、彼はその人生の目標において間違いを犯した。彼の目標は大地主になることであり、一家を構えること、来たるべき代々に高名な実を生み出す木となるべき先祖の根を植えることであった。彼の歓待は豪勢で、彼の性質は寛大で、その人生の目標を達成するための絶えざる苦闘において精励刻苦したが、それでも彼は、詰まるところ失望させられ、不成功に終わった人として死んだ。彼は大邸宅を建てた。富を蓄積した。そして、ある悲しい日、それが四散してしまうのを見た。彼は、人生の生き甲斐としてきたものを失っていたのである。彼がもし何か、大衆を喜ばせたり、富を蓄えたり、一家を構えたりすることよりもまともな目標に目を据えていたとしたら、彼は他の事がらをも手に入れ、かつ第一のことも失わなかったであろうに。おゝ! もし彼が、「さあ私は私の神に仕えよう。《いと高き方》にささげられた、私のこの力強い洋筆によって、私の素晴らしい物語の中に、人々を啓発し、罪を確信させ、イエスに導くものを織り込ませよう」、と云っていたとしたら、たとい一文無しとして死んだとしても、自分の願う目標を成し遂げて死んだであろう。――失望した者として死にはしなかったであろう。おゝ、もし私たちが神を私たちの唯一の目標とすることができたとしたら、私たちは悠然と安らぎ、何が起ころうとも、決して私たちについては、「自分の願いを果たすことなく死んだ人」と云われることがないであろう。きょうこの場にいるあなたがたの中には、それよりも小さな程度において、同じ間違いを犯しつつある人がどのくらいいるだろうか? あなたは商売のために生きている。ならば、あなたは失望するであろう。あなたは名声のために生きている。ならば、あなたは、いま生きているのと同じくらい確実に失望させられ、嘆かされ、心に悲しみを覚えることになるであろう。あなたは世間体を保つために生きている。ことによると、それがあなたの究極の願望かもしれない。あわれな目当てである! あなたは失望させられる。あるいは、たといそれを獲得したとしても、それは追い求めるだけの価値もない泡ぶくである。神をあなたの人生の唯一の目標とするがいい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられるであろう[マタ6:33]。「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です」[Iテモ6:6]。キリスト者であること、また、神を第一の目標とすることには何の損失もない。だが、それ以外の何かをあなたの目標とすれば、いかに懸命に走ろうとも、また、いかにすぐれた走り方をしようと、あなたはその目当てを得られずに終わるであろう。あるいは、得たとしても、冠もなく、誉れもない者として地に倒れるであろう。「わがたましいよ。ただ神を待ち望め」。云うがいい。「私は神に仕えることを愛します。神の御国を進展させ、神の利益となることを押し進め、神の福音の物語を告げ知らせることを愛します。そして、それが十分に成し遂げられるとき、『主よ。あなたは、あなたのしもべを、安らかに去らせてくださいます』*[ルカ2:29]」。

 2. しかし詩篇作者は、それとは別のことも意味して、こう云っていた。「わがたましいよ。ただ神を待ち望め」。彼の意味していたのは、こういうことである。わが魂よ。ただ神を喜ばせることだけを気遣え。ことによると、この世で最もみじめな人々とは、思い煩ってばかりいる人々かもしれない。あなたがた、明日何が起こるかについて不安に感ずるあまり、きょうの喜びを楽しめないという人たち。あなたがた、生まれながらに心配性で、あらゆる星が彗星ではないかと疑い、あらゆる緑なす牧草地には火山があるに違いないと想像する人たち。あなたがた、太陽そのものよりもその黒点に心引きつけられ、森全体の新緑よりも一枚の枯れ葉に思い惑う人たち。――あなたがた、自分の喜びについてよりも、自分の悩みについてくよくよ考える人たち。――私は云うが、あなたは人間の中で最もみじめな者に属している。ダビデは自分の魂に対してこう云っている。「わが魂よ。神のほか何にも気を遣うな。お前の思い煩いを、いっさい神にゆだねよ。神がお前のことを心配してくださるからだ[Iペテ5:7]。そして、神を愛し、神に仕えることを、お前の最大の関心事とせよ。そうすれば、お前は他の何についても全く思い煩う必要がないであろう」。おゝ! あなたがたの中の多くの人々は、この世の中をこわごわと進み、その一歩一歩について危険な目に遭うのではないかと恐れて心配している。もしあなたに、神に目を向けるだけの恵みがあるとしたら、あなたは自信をもってまっすぐに歩き、こう云えるであろう。「たとい私が次の一歩で地獄そのものを踏みつけるとしても、神がそれを踏むよう命じておられるならば、それは私にとって天国であろう」。思い煩いを神にゆだねて、神をお喜ばせすることだけを考える信仰ほど素晴らしいものはどこにもない。「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです」。「野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした」。「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか」などと云ってはならない。「こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます」[マタ6:26-32]。おゝ、こう云う人は幸いである。「私はただの庶民ですが、摂理の気前よさにより頼んでいます。神が私に送ってくださるものが僅かだとしたら、それで十分でしょう。神が送ってくださるものが多くあるとしても、多すぎはしません。私は自分の富を、私よりも持ち物が少ない人と分け合うでしょう。私は神に信頼します。神は云われました。『あなたのパンは与えられ、あなたの水は確保される』*[イザ33:16]、と。ならば、飢饉がやって来ようと私は飢えないでしょう。小川が涸れてしまっても、神が天のかめを開いて私に飲ませてくださるでしょう。この世に何が起ころうと、いかなる災難が降りかかろうと、私は揺らぎません」。ある人々は、自分が自主独立していると云う。私の知っているひとりの自主独立の人は、毎週三シリング六ペンスで暮らしている。その人は、教区手当と、友人たちの慈善のほか何も持っていない。だが、その人は病み疲れていても、エホバが与えてくださると云う。もし御父が私により多くのものが必要だとご存じなら、より多くを与えてくださるでしょう、と。そして、もし人がその人に、あなたの教区手当が取り上げられてしまうでしょうとほのめかしても、その人はただ微笑んで云うであろう。「それは、ある所から来なくとも、別の所から来るでしょう。神は私の大蔵大臣であり、決して私の手元資金が少なくなりすぎないようにしてくださるからです。私は乏しくなりません。神はこう云われたからです。『主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない』[詩34:10]」。これこそ、正しい種類の自主独立――神のほか何にも頼ることを知らない人の自主独立である。わが魂よ。このことをお前の気遣いとせよ。神に仕え、ただ神を待ち望むことを。

 3. さらにダビデはこのことをも意味していた。――わが魂よ。神をお前の唯一の頼りとし、それ以外の何物をも決して信頼しないようにせよ。素晴らしいことに、神の被造世界は本日の聖句を例証している。――ダビデは自分の魂に、神をその唯一の大黒柱とするよう命じている。あなたは、世界がいかに神の御力を表わしているか一度も気づいたことがないだろうか? 何の支えもなしに浮かんでいる空の迫持を見るがいい。それが、その巨大な梁間をいかに差し伸ばしていることか。だが、それは支柱や控え壁が何もなくとも落ちてこないのである。「神は世界を何もない上に掛けられる」*[ヨブ26:7]。いかなる鎖が星々を束ねて、落ちてこないようにしているのだろうか? 見よ。それらは虚空に浮いている。宇宙の基を据えられた神の全能の御腕に支えられているのである。一個のキリスト者は、神の宇宙の第二の見物である。キリスト者の信仰は、支柱のない信頼であり、過去を、また来たるべき永遠を、その迫持の堅固な基礎として、それらの上に安んじている。それは神の約束のほか何物にも寄りかかっておらず、それ以外のいかなる支えも有していない。そして、その人自身は星々のように信頼という虚空に浮かんでおり、自分を支えるものとして、すぐれて高い所の大能者[ヘブ1:3]の右の御手しか必要としていない。しかし、愚か者である私たちは、絶えず他の頼りを手に入れようとするものである。ある商人に、その取引を熟知した番頭がいたとする。あたかも事業全体がそのひとりの男にかかっているかのようで、もし彼が死んだり、職を辞したりしたら、商売はどうなるだろうか、と思うほどである。あゝ! 商人よ。もしあなたが敬虔な人だとしたら、あなたは自分が何を頼りとすべきか忘れているのである。それは、あなたの使用人にではなく、あなたの神に置かれるべきである。あなたの細君はしきりに云っている。「私は主を愛しています。ですが、もし主人が死んだら、私は何を頼りにすれば良いのでしょう?」 何と! あなたは全能者を、夫の愛という控え壁で支えていたのだろうか? 神に信頼し、神をあなたの唯一の慰めとするがいい。神はあなたの必要を、ご自分の満ち満ちた富の中から満たしてくださるであろう。おゝ、私たちは、全く神に頼り切って生きることを学ぶとしたら、半分も悩みはなくなるであろう。しかし、私たちはあまりも被造物を頼りとしている。私たちは互いに寄りかかって生きている。そして、自分の繰り言を耳に吹き込む親友が、自分の存在には欠かせないと思われるのである。ならば、用心するがいい。用心するがいい! あなたがたは、友に寄りかかっているとき、何のつっかい棒も必要としないものに支柱を施そうとしているのである。実際あなたは、自分の親友を喜びとし頼りとするとき、キリストに恥辱を加えているのである。そして、いつか嘆かわしい日に、あなたの友は打たれて地から断たれ、そのとき初めてあなたは、こう感じるであろう。自分は、天におられる《友》により頼み、神以外の何者も自分の力としたり支えとしたりしないでいた方がましだった、と。

 これは、講壇に立つ一部の人々にとって、健全な教訓である。寄らば大樹の陰といった風潮は、至る所に蔓延している。非国教徒の教役者は自分の支えを執事たちから得なくてはならず、国教徒の教職者も教会あるいは国家で要職につく、出世の手づるとなりそうな人々を大いに自分の支えとするものである。たとい福音が歯に衣着せずに語られるのを聞きたくても、次のように云う一団の人々がいなくては到底無理である。「私は、この世の何について全く頓着しない。たとい他に正しい者が誰ひとりいなくとも、自分が正しいと思えば、私は全地と戦うであろう。また、いかなる人の願いも、意志も、同意も求めはしないであろう。『たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです』[ロマ3:4]」。おゝ、私たちには、こうした、いかなる賛同者をも必要としない偉大な霊たちが何人か必要である。――たったひとりで有象無象をなぎ払い、信頼というその強大な大剣で彼らを打ち殺せる人々が必要である。そして、私たちがこうした何も思い煩わない人々、ただ神だけを気遣う人々を得たときこそ、地は再び御使いの喇叭の下で揺れ動き、神はかつてそうされたのと同じようにこの国を訪れてくださるであろう。

 4. さらに、愛する方々。「わがたましいよ。ただ神を待ち望め」。すなわち、神をお前の唯一の導き手とし、頼りとせよ。私たちが悩みに陥るとき、最初に私たちが行なうのは、隣人の扉を叩くことである。「困ったことが起こったのですが、ご存じでしょうか。うちに来て、どうすれば良いか教えてください」。もしあなたの隣人に思慮があれば、こう云うであろう。「兄弟。あなたはまず神のところに行きましたか? 私は、神がそのさとしをあなたに与えてくださるまでは、何の助言もするつもりはありません」。人が神から助言を受けるべきだというのは、狂信的な考えだとしてあざ笑われている。「おゝ」、とある人は云うであろう。「神が、現世的なことでその民に助言するなどと想像するのは迷信的ですよ」。ことによると、それはあなたにとっては迷信的かもしれない。だが、ダビデにとってそうではないし、神の他のどの子どもにとってもそうではない。彼は云う。「わがたましいよ。ただ神を待ち望め」。キリスト者よ。もしあなたがなすべき義務の道を知りたければ、神をあなたの羅針盤とするがいい。もしあなたが、暗い大波を通って自分の船を進めるべき方角を知りたければ、あなたの舵を《全能者》の御手にゆだねるがいい。もし私たちが神に舵輪を握っていただくとしたら、多くの岩礁を逃れられるであろう。もし神の主権の意志に選択と指揮をゆだねるとしたら、多くの浅瀬と流砂を悠々と避けられるであろう。古の清教徒たちは云った。「キリスト者が自分で肉を切り分けようとすれば、確実にわが指を切り刻むことになる」。そして、これは大いなる真理である。別の古の神学者はこう云っている。「神の摂理の雲に先立って出かける者は、無駄足を踏む」。その通りである。私たちは神の摂理が私たちを導くのを注目し、それから出かけなくてはならない。しかし、摂理の前に出発する者は、あわてて逃げ戻って来るであろう。あなたの悩み事を何であれ取り上げて、《いと高き方》の御座へと持って行き、膝まずいては、「主よ。私をお導きください」、と祈るがいい。そうすれば間違った方向には行かないであろう。しかし、それを一部の人がするように行なってはならない。多くの人々は私のもとにやって来てはこう云う。「先生。助言してくださいませんか。先生は私の教役者ですから、私が何をすべきか教えていただけるはずです」。時として、それは彼らの結婚についてである。何と、彼らは私に尋ねる前から自分の心を決めているのである。彼らはそれを知っている。そして、その後で私の所にやって来ては、私の助言を求めるのである。「先生、これこれのことは賢明なことだと思いますか? 私は職を替えるべきだと思いますか?」、といった具合である。さて、まず第一に私はこのことを知りたい。「あなたは自分の心を決めていますか?」 ほとんどの場合、彼らはすでに心を決めている。――そして、残念ながら私は、あなたが同じようにして神に仕えているのではないかと思う。私たちは自分が何をするか心を決める。それから、しばしば行って膝まずき、こう祈るのである。「主よ。私が何をすべきかお示しください」。そして、私たちは自分の意図していた通りに行ない、こう云うのである。「私は主の指示を求めました」。愛する方々。確かにあなたはそれを求めはしたが、それに従わなかった。あなたは、自分の命ずる通りに行なったのである。あなたが神の指示を好むのは、それがあなたの願う道を指し示している限りにおいてであって、もし神の指示が、自分の利益とあなたの考えるところと逆に導いている場合、よほど先になるまで、あなたがそれを実行に移すことはないかもしれない。しかし、もし私たちが真実まことに神とその導きを信頼するなら、私たちは大きな間違いを犯さない。私にはそう分かっている。

 5. さらにまた、わが魂よ。危険がある際の守りのためにただ神を待ち望め。ある海軍士官が、ネルソン卿の指揮したコペンハーゲン攻囲戦[1801]について、次のような珍しい物語を語っている。艦隊に所属していた一士官はこう云う。「私がことのほか感銘を受けたのは、同地に対するすさまじい砲撃の三日か四日後に見たことである。降伏の数日前の夜、暗闇が訪れたのは、大砲と臼砲との途方もない砲声、それに伴った、かの破壊的で強烈な兵器、コングリーブのロケットの甲高い飛翔音が鳴り響く中であった。その物凄い威力は、町からもれる赤々とした光で見てとれた。燃えさかる富者の家々、燃え上がる貧民のあばら家が、天空を赤く染めていた。そして、広がった火の手は海面に照り映えて、その町を破壊しようと包囲する林立する艦船を浮かび上がらせていた。この大火災の所行は幾晩も続き、とうとうデンマーク人も降伏した。その数日後に私は廃墟の中を歩いていた。貧民たちのあばら屋や、富者の家々、工場、高い尖塔、そして、粗末な集会所の残骸である。この荒廃した不毛の大地の真中で、私は一軒の無傷の家を見つけた。回り中が灰燼に帰している中で、この家だけは火焔の影響を受けておらず、あわれみの記念碑となっていた。『これは誰の家なのか?』、と私は尋ねた。通訳は云った。『これは、あるクエーカー教徒の持ち家です。彼は戦おうとも家から逃げ出そうともせず、あの砲撃の間中、家族とともに祈りながら中にとどまっていたのです』。私は思った。確かに、正しい者は幸いを得るのだ。神は本当に戦いの中であなたの盾となり、あなたを取り巻く火の城壁[ゼカ2:5]となり、窮するとき、そこにある助け[詩46:1]となられたのだ、と」。これは私の作り話に聞こえるかもしれないが、他のいかなる歴史的事実にも劣らない純正な事実にほかならない。このデンマーク戦争の折のことと似た、もう1つの話が告げられている。「コペンハーゲンが英国に降伏してから間もない1807年、兵員の分遣隊は、しばらくの間、近郊の村々に配備されていた。ある日たまたま、スコットランド高地連隊所属の三名の兵士が近隣の農場で食料の徴発を命ぜられた。彼らは数箇所を回ったが、いずれも略奪を受け、さびれ果てていた。とうとう彼らは、とある広大な庭園、あるいは果樹園にやって来た。そこには林檎の木がたくさんあり、果実が枝もたわわに実っていた。彼らが門から入り、通り道を辿るとこざっぱりとした農家に着いた。そのたたずまいは、全く穏やかで、安らかなものであった。だが彼らが正面玄関から中に入ると、その家の主婦と彼女の子どもたちは、叫び声をあげて裏口から逃げ去っていった。その家の内部は、そのような身分の人々、また、そうした田舎の習俗から予想されるものを越えてきちんとした、心慰められる様子を呈していた。暖炉のわきには時計が掛けられており、整然と本の並んだ本棚が年長の兵士の注意を惹いた。彼が一冊を手にとって見ると、それは彼の知らない言語で書かれていたが、イエス・キリストという名前がどの頁にも記されていた。ちょうどこのとき、この家の主人が、妻と子どもたちが逃げていったばかりの戸口から入ってきた。兵士のひとりが、威嚇するようなそぶりで、糧食を要求したが、その人物は動じることも、物怖じすることもなく立ったまま、かぶりを振った。本を手に持った兵士が彼に近づき、イエス・キリストという名前を指さし、自分の手を胸に当てて、天を見上げた。たちまち農夫は彼の手を握り、熱をこめて握手すると、部屋を飛び出していった。彼はすぐに妻子を連れて戻って来て、牛乳、卵、豚肉の塩漬け燻製などを山と積んでは、それを惜しみなく提供した。それに対して代金が差し出されると、それは最初は拒まれたが、この兵士たちのふたりは敬神の念に富んでいたため、もうひとりの兵士をひどく残念がらせたことに、どうしても受け取った品物すべてについての支払いをするといって聞かなかった。暇乞いをするとき、この敬虔な兵士たちはこの農夫に、彼の時計は隠しておいた方がよいと身振りで伝えた。すると彼は、この上もなく雄弁な仕草で彼らにこう理解させた。彼はいかなる悪も恐れてはいない。彼の信頼は神にあるからだ。彼の隣人たちは、右手の家からも左手の家からも逃げ出し、彼らが持って行けなかったものは徴発隊によって失われてしまったが、彼は髪の毛一本さえ損なわれなかったし、自分の木々の林檎一個さえ失わなかったのだ、と」。この人物は知っていたのである。「剣を取る者は剣で滅びる」*[マタ26:52]ということを。それで彼は、ただ無抵抗主義を実践していたのである。そして彼が無言の信頼を寄せていた神は、彼が傷つけられないようにされたのである。尋常ならざることだが、遠い昔にアイルランドで起こったプロテスタント教徒虐殺の最中、その国には数千人のクエーカー教徒たちがいたが、彼らの中のたったふたりしか殺されなかった。そしてそのふたりは、自分たちの主義に信を置いていなかった者たちだったのである。ひとりは逃げ出して砦に身を隠した者であり、もうひとりは自分の家に武器を隠し持っていた。だが、他の者たちは何の武装もしないまま、ローマカトリック教徒とプロテスタント教徒双方の激怒した兵士たちの間を歩いていたが、指一本触れられなかった。なぜなら、彼らはイスラエルの神の力を信ずる強い信仰を有しており、自分たちの剣をその鞘に納めたままにしていたからである。彼らは争い合うのが正しいことではありえないと知っていた。キリストはこう云われたからである。「悪い者に手向かってはいけません。あなたの片方の頬を打つような者には、ほかの頬も向けなさい」*[マタ5:39]。「恩を知る者だけでなく、恩知らずの悪人にも、あわれみ深くしなさい」*[ルカ6:35参照]。「あなたを憎む者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい」*[ルカ6:28]。しかし、私たちはそうすることを恥じている。それを好まない。神に信頼することを恐れている。そして、私たちがそうするまで、私たちは信仰の威光を知ることも、私たちを守る神の御力を証明することもないであろう。「わがたましいよ。ただ神を待ち望め。私の望みは神から来るからだ」。

 そして今、愛する兄弟姉妹。私は、あなたが陥っている状況のすべてを抜き出すことはできないが、疑いもなくこの場には、この聖句が当てはまる状況の人々が数多くいるに違いない。そこに、ひとりの貧しいキリスト者がいる。その人は、自分の次の食事がどこから来るかもおぼつかないでいる。兄弟よ。烏を養ってくださるお方[ルカ12:24]が、あなたを飢えさせることはないであろう。自分を慰めてくれる友人たちを捜そうと目を向ける前に、あなたの物語を神の耳に告げるがいい。聖書が真実であるのと同じくらい確実に神はあなたを離れはしないであろう。父親が、わが子をみすみす死なせるだろうか? 否。地の穀倉には、《全能者》の意志以外に何の鍵もない。「千の丘の家畜らは神のもの」*[詩50:10]。たとい神が飢えても、あなたには告げない[詩50:12]。神はそのいつくしみの豊かさの中から、あなたの必要を満たしてくださらないだろうか?

   「生けるものみな 主は養えり、
    その富める御手 必要(もとめ)を満たさん」。

野の草さえ装い[マタ6:30]、もろもろの谷を食物で喜ばせているお方[詩65:13]が、あなたをお忘れになるだろうか? しかし、あなたの心配は、あなたの人格に関するものだろうか? あなたを中傷し続ける者がいるだろうか? そして、あなたは自分の評判を失ってしまわないかと悩み、嘆いているだろうか? たとい誰かがあなたに、ありとあらゆる悪口雑言を云うとしても、相手と法廷で争ってはならない。「ただ神を待ち望め」。たといあらゆる新聞で悪し様に云われ、あらゆる雑誌で偽りの非難をされたとしても、決して反論してはならない。――放っておくがいい。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる」[ロマ12:19]。行為においてと同じく、言葉においても無抵抗主義を実践するがいい。ただ頭を垂れているがいい。そして、矢玉にあなたの頭上を越え行かせるがいい。立ち上がって抵抗してはならない。中傷に抵抗すれば、さらに事を悪化させることになる。罪人呼ばわりという刃を鈍らせるには、沈黙していることである。私たちがじっと黙っている分には何の害もなされえない。木のない所では火が消える。そして、もしあなたが反駁したり、口答えしたりしなければ、その火はひとりでに消えて行くであろう。放っておくがいい。「わがたましいよ。ただ神を待ち望め」。

 さて今、他に何があなたの危険だろうか? 他に何があなたの悩みだろうか? あなたは、あなたの愛し子を失うことを恐れているだろうか? あなたの夫が病気だろうか? あなたの細君が寝たきりで、次第に衰えつつあるだろうか? それらは、つらい苦難である。それらは私たちを痛切に切りつける。愛する者らが病んでいるのを目にしながら、彼らを助けることができないのは、まことに大きな苦難である。そのときには、強者の目も涙し、その心も重く脈打つ。なぜなら、彼の愛する者が病気だからである。しかし、「ただ神を待ち望め」。あなたの密室に行くがいい。あなたの愛する者が病気ですと主に告げるがいい。主の御前であなたの心を注ぎ出し、こう申し上げるがいい。「私の主よ。みこころでしたら、この苦難から私をお救いください。私の友を取り去らないでください。ですが、ご承知ください。おゝ、神よ。あなたが私を殺しても、私はあなたを待ち望みます[ヨブ13:15]。そうです。

   『よし汝れすべて 取らせ給えど
    なお我れ云わじ 逆らい言(ごと)を。
    それらわが手に わたる前には
    ことごとく汝が ものなれば。
    いざ、取り給え。御顔あおがば
    その見返りに あまりあらん』」。

おゝ! 私たちがこのように云えるとき、それは悲しみをなだらかにする幸いな道である。「私たちはただ神を待ち望みましょう」。おゝ、あなたがた、気も動転したキリスト者たち。年がら年中、思い煩う渋い顔をしていることで、あなたのキリスト教信仰に恥辱を加えてはならない。私は、あなたがたが重荷の下でよろめいているのが見えるが、神はそのような重荷を全く感じないであろう。あなたにとって背骨を折り砕くほどの重荷と思われるものは、神にとっては、秤の上のごみ[イザ40:15]のようなものにすぎない。見よ! 《全能者》がその肩をかがめて云っておられる。「さあ、あなたの苦難をここに載せるがいい。何と! 永遠の肩がそれをいつでも運ぼうとしているというのに、あなたはそれを自分でかつごうというのか?」 否。

   「四方(よも)に散らせよ、汝が恐れをば
    希望せよ、かつ、心乱すな
    主は汝が吐息(なげき)、涙を知りて
    汝が頭(こうべ)をば 持ち上げ給う」。

キリスト教信仰の力を何にもまして見事に表わすのは、苦悩のときにおけるキリスト者の信頼である。願わくは神が、そうした態度と物腰を、イエス・キリストを通して私たちに授けてくださるように!

 II. さていま私は、《期待》について語って、しめくることにする。この点については、ごく手短に語りたい。詩篇作者は、自分の魂に向かって、ただ神を待ち望むよう命じている。なぜなら、《真の》望みは、ただここにしかないからである。

 私は、あなたがたの中のある人々が追い求めているものを重々承知している。あなたには年老いた祖父、あるいは年老いた祖母、あるいは年老いた大伯母がいる。そして、あなたは彼らに対して猛烈に親切にしている。その愛想良さが鼻につくほどである! あなたは、愛情のこもった抱擁を何度となく繰り返すことで、ほとんど彼らをばらばらにしてしまいそうである。もしあなたの伯母上が、何のためあなたがそのようなことをしているか知らないとして、それを知りたがっているとしたら、私への手紙を書かせてほしい。私が彼女に教えてあげよう。彼女には数千ポンドの資産がある。私も、あなたがその数千ポンドに少しでも秋波を送っているなどとは云わない。だが、あなたが多少はそれを期待しているとしても私は驚かないし、それこそまさに、あなたが常に彼女の意を迎えている理由なのである。あなたが彼女に気を遣おうとしているのは、あなたが風向きを心得ているからである。そして、もしもし自分の帆を正しい位置に張っておきさえしたら、いつの日か、価値ある船荷があなたの港へともたらされるものと当てにしているのである。――もちろん、決してあなたの意図によってそうなるのではない。あなたは深く喪に服し、この老婦人の物故を悼む。だが、それと同時にあなたは、自分にとって素晴らしい慰藉となるものを感じている。引き起こされた苦痛と悲嘆をしのぎかねないほど大きな慰めである。それは、あなたが彼女の富の所有者となったということである。さて、世故に長けた人々は常に、自分たちの望みがある所で待ち望んでいる。ダビデは云う。「わが魂よ。この点において俗人の真似をするがいい。ただ神を待ち望め。というのも、私の望みは神から来るからだ」。それこそ、私が自分の有するすべてを得られると期待する所である。それゆえ、私はその扉の前で待っていよう。その扉は、いとも気前よく恵みの手で開かれると私は期待する。この世の中であなたが望みをかけるものが、神から以外に、何かあるだろうか? あなたはそれを得ないであろう。たとい得たとしても、あなたにとって呪いとなるであろう。唯一の正しい望み、それは神に目を向け、神だけに目を向ける望みである。「私の望みは神から来るからだ」。よろしい。あなたは、自分が死ぬときまでパンを食べ、衣を身にまといたいと望んでいるではないだろうか。あなたはそれをどこから手に入れようと期待しているだろうか? あなたの資産である六百ポンド、あるいは千二百ポンドから出る利息である。よろしい。もしそれがあなたの望みであり、神ではないとしたら、神はそのあなたの僅かな収入に何らかの苦味を混ぜ入れるであろうし、あなたは、それがあなたを維持するには十分であっても、あなたの慰安のためには十分でないことに気づくであろう。しかし、あなたの衣食は足りなくならないであろう。なぜなら、あなたは手広い商売を手がけているからである! よろしい。その製粉所は焼け落ちるかもしれない。取引は繁栄の流れを断ち切り、他人の膝の上に流れ込んでいくかもしれない。そして、あなたは、いま持っているあらゆるものにもかかわらず、もしそれがあなたの頼みだとしたら、これから町通りで乞食になるかもしれない。しかり。もしあなたがこの世から何かを得られると望んでいるとしたら、それは貧弱な望みである。私は死ぬまで衣食が足りていることを望む。だが、私は自分が死ぬまで信仰という銀行から引き出さなくてはならないことを望んでいる。また、私が必要とするすべてを、神のいつくしみという富みの中から得ることを望んでいる。そして、私はこのことを知っている。私は、この世に生を受けたいかなる人よりも神に私の銀行家になっていただきたいと思う。確かに、神は決してご自分の約束を破ることはないに違いない。そして、私たちがそうした約束の数々を御座へと持ち出すときに、決して返事もせずにそれを突き返すようなことはなさらない。あなたは神に希望をかけなくてはならない。現世的な必要の満足についてもそうである。そして、結局において、現世的な必要など、いかに小さなことであろう! 私たちはある王のことを聞いたことがある。この王はかつて、ある馬小屋の中に入り、馬丁が歌うのを聞いたという。王は彼に云った。「さてさて、ジョンや。お前は自分の仕事の報酬として何を得たいね?」 「もしよろしければ、旦那様」、と彼は云った。「あっしは、服と食べ物をいただきてえです」。「それこそわしが得ているものじゃ」、と《王》は云った。「わしの仕事の報酬としてな」。そして、それこそ、あらゆる人が得ているすべてなのである。それ以外に、あなたが得てきたすべてのものは、あなたのものではない。ただ眺めるだけ以外には。他の人々についても同じように云える。ある人に広い公園の所有権があるとき、私はその人と同じくらい自由にそこを馬車で通り抜けることができるし、それを整然としておく面倒はない。その人がその手入れをしてくれるかもしれず、私はそうしてくれることでその人に大いに感謝するものである。私は、ある貧しい支那人がとある大官の前でお辞儀をしたのと同じようにすることができる。その大官はたくさんの宝石を身につけていて、その支那人は云った。「あなた様の宝石にありがとうごぜえます」。その大官は驚いた。翌日、彼は再びその男から挨拶され、やはり同じように、「あなた様の宝石にありがとうごぜえます」、と云われた。「何と」、と大官は云った。「なぜお前はわしに礼を云うのだ?」 その支那人は云った。「あっしは、それらを毎日いつも見ておりやす。そしてそれは、あなた様がご覧になってるのと全く同じでやす。ただ、あなた様はそれを運ばなきゃいけねえ荷馬ですし、夜にはそれを大切に守っとく手間暇がありやす。あっしは、あなた様と同じくらい、それらを楽しんでおりやすが」。そのように、愛する方々。もし私たちが豊かでなくとも、満ち足りた心は私たちを豊かにできるのである。満ち足りた心は貧乏人に広大な地所を与える。満ち足りた心は彼に地上で大きな富を与え、自分の所有している比較的僅かなものに大きな楽しみを加える。「私の望みは神から来るからだ」。

 しかし、私たちにはそれよりもすぐれた望みがある。私たちはすぐに死ぬであろう。そしてそのとき、「私の望みは神から来る」。私たちは、病床に伏すときには、神が御使いの軍団を遣わし、ご自分の御胸に私たちを連れて行ってくださることを望むではないだろうか? 私たちの信ずるところ、脈がかすかでとぎれがちになるとき、また、心臓が苦しげに上下するとき、そのときには、真昼の太陽よりも輝かしい何らかの霊が、私たちの寝床の帷を引き開け、愛に満ちたまなざしで私たちを見下ろして、こう囁く。「妹よ、霊よ。出て来なさい!」 そして、私たちはこう望んではいないだろうか。そのとき、一台の戦車が引き具され、それは地上の征服者たちが見たこともないような凱旋の戦車である、と。そして、その中に私たちは乗せられ、光の駿馬に引っ張られて永遠の丘を登り切り、威光と勝利のうちに、彼方で輝く真珠の門へと乗りつける。そのとき、その門は大きく開き、彼は云うであろう。「中に入りなさい。主に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい」*[マタ25:34]。私たちは伝説の常世の花アラマンスを編んだ冠を望んでいる。黄金の立琴、栄光の冠を望んでいる。私たちは、このあわれな土くれ、このからだをなしている、あわれな地上的な素材と縁を切るとき、今いと高き所にある威光の御座の前で星々のように輝いている霊たちのように、自分が白くされると考えている。自分がそうした光輝にあずかり、彼らの幸福を享受し、彼らとともに永遠に祝福されると考えている。

   「嘆きと罪の 世より離れて
    永久(とわ)に神とぞ ともに閉ざさる」。

さて、もしこうしたことがあなたの望みだとしたら、「わがたましいよ。ただ神を待ち望め」。そして、もしあなたの望みが神に基づいているとしたら、わが魂よ。神のために生きよ。神をほめたたえる、ただこのことだけを気遣って生きよ。よりすぐれた世界を待ち望みつつ、だがこの世も、その中で自分が神を有していさえすれば、十分に良いものだと信じつつ生きよ。あなたも知るように、ルターは小鳥が自分にこう語ってくれたと云っている。それは小枝の上に座って、こう歌っていたのである。――

   「弱者(よわき)よ、やめよ、労し嘆くを
    神が明日に 備え給わば」。

それはさえずっては、そのわずかな穀粒をついばみ、再び歌った。だがしかし、それは決して穀倉を持っていたわけではなかった。一握りの麦をどこかに蓄えていたわけではなかった。だが、それでもそれは、そのさえずりを続けていたのである。――

   「弱者(よわき)よ、やめよ、労し嘆くを
    神が明日に 備え給わば」。

おゝ! あなたがた、キリスト者ではない人たち。たといキリスト教信仰が与える平安と幸福だけのためだとしても、キリスト者になる価値はあるであろう。たとい私たちが犬のように死ななくてはならないとしても、それでもこのキリスト教信仰は、地上で私たちを御使いのように生かすものとして、いだくべき価値がある。おゝ、たとい墓場が見かけ通りのもので、あらゆる存在の行き着く果てだとしても、たとい棺の黒釘が星々で輝いていないとしても、たとい死が終わりであり、「ちりはちりへ、土は土へ」、と唱えられるとき私たちのともしびが暗闇の中で消されるとしても、それでも、地上で生きるだけだとしても、神の子となるのは価値あることである。

   「信仰あたえり 生ける間(うち)には 甘き楽しみ
    信仰満たせり 死を迎うとき 堅き慰め」。

思い出すがいい。主イエス・キリストを信じてバプテスマを受ける者は救われるのである[マコ16:16]。そして、あなたはも、他の人々と同じく、この2つのことが与えられるなら救われるのである。救いのためにキリストだけに信頼する者、そして、それから(「バプテスマを受ける」という言葉を正しく訳せば、それを正しく訳すしかたは1つしかない以上)、「水に浸される者は、救われます」。それが、この言葉である。まず信じること、それからバプテスマである。信じることは大きなことであり、バプテスマはそのしるしである。信じることは大いなる恵みの手段であり、浸礼は肉が洗われ、神にささげられることを外的に示す、目に見えるしるしである。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます」。願わくは神が、この双方の命令に従う恵みをあなたに与えてくださるように。そして、永遠のいのちに入らせてくださるように! しかし、覚えておくがいい。「信じない者は罪に定められます」。この大いなる本質的なことをないがしろにする者は滅びるのである。願わくは神が、あなたがたの中の誰もこの言葉の恐ろしい意味を知らないようにしてくださるように!

  

 

ただ神を待ち望む[了]

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