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天の歌い手たちとその歌

NO. 2321

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1893年8月13日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1889年7月14日、主日夜


「彼が巻き物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、立琴と、香のいっぱいはいった金の鉢とを持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒たちの祈りである。彼らは、新しい歌を歌って言った。『あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。』」。――黙5:8-10


 今朝、私たちが取り上げた光景において、主イエス・キリストは、その犠牲としての性格を帯びて天に現われ、そのご性格ゆえにあがめられていた。ほふられた《小羊》のような姿をした主は、そうした様子のまま、天のまさに中心で礼拝をお受けになっていた。私は、自分にできる限りの力を込めて主張しようとした。私たちが決してこの贖罪の犠牲を隠してはならないことを。世の罪を取り除く神の《小羊》[ヨハ1:29]としてのキリストが、私たちの説教においても、私たちの行ないにおいても、常に前面に押し出され、最先端に置かれているべきであることを。さてこの節で私たちは、さらに一歩進んでいる。このほむべき《小羊》は、天において、神と人との間の《仲保者》として現われておられる。神の右の手には、その永遠のご計画を記した巻き物があった。あえてそれを見ようとする者はひとりもいなかった。いかなる被造物にも、その七つの封印を解ける見込みは全くなかった。しかし、そこに進み出たこの栄光に富む《小羊》は、ほふられたときの傷跡を満身に負ったまま、御座に座るお方の右の手から巻き物を受け取られた。このようにして、この方は《仲保者》、《解釈者》として行動し、神のみこころを受け取っては、それを私たちに通訳し、神の右の御手にある書き物の意味を私たちに知らせてくださるのである。それは、私たちには決して解読できなかったであろうが、キリストがその封印を解かれるとき、私たちにも明瞭にされるのである。

 ということは、イエス・キリストは、《仲保者》たる資格を有する私たちの犠牲として眺められ、その資格において崇拝の対象となっておられるのである。崇拝しているのは、まず、《教会》であり、次に、幾千、幾万もの御使いたち[黙5:11]であり、神に造られたあらゆる被造物[黙5:13]である。こうしたハレルヤのすべてを取り上げるのは、あまりにも広大な主題となるであろう。それゆえ、今晩の話で私はこの3つの節だけを選んで、《教会》の歌について述べたいと思う。この、神と人との間の《仲保者》として血を流しておられる《小羊》に対して、神の《教会》がささげている崇拝についてである。

 私はこれをただ2つにしか区分すまい。第一に、この礼拝者たちを見るがいい。そして第二に、彼らの歌を聞くがいい。

 I. 第一に、《この礼拝者たちを見るがいい》。というのも、思い出してほしいが、私たちは、彼らと一緒になりたければ、彼らのようでなくてはならないからである。これは良く知られた規則である。天国が私たちの内側にない限り、私たちは天国にはいられない。天的になっていない者が天の所に座ることは望めない。私たちが引き上げられて、この栄化された聖歌隊に加わるには、彼らの歌を習い覚えていて、彼らの聖なる和声に加わることができなくてはならない。ならば、この礼拝者たちを見るがいい。あなたはまだ完璧に彼らのようではない。だが、次第次第にそうなるであろう。もしも神の御霊によって、すでにあなたの内側で、主立った点が似通ったものとなっているとしたらそうである。

 この礼拝者たちについて第一に云えることはこうである。彼らは、いのちに満ちていた。告白しなくてはならないが、私はこの四つの生き物の意味を独断的に断定したいとは思わない。だが、それでも彼らは、実際、《教会》を象徴していると私には思われる。神に向いて立ち、神のいのちによって生かされた《教会》である。いずれにせよ、彼らは生き物である。そして、長老たち自身も生きている人物である。だが、はなはだ悲しいことに、ここで、1つのきわめて陳腐なことを云う必要がある。死者は神を賛美できない! 「生きている者、ただ生きている者だけが今日の私のように、あなたをほめたたえるのです」[イザ38:19]。だのに、今晩のこの大集会の中には、いかに多くの死んだ人々がいることか! もし誰か、人の霊的生活の種々の行動を看破できるほどの炯眼の持ち主がいるとして、この群衆の間を歩き回るとしたら、「あゝ!」、とその人は云うであろう。「この者を連れ出すがいい。あの者を連れ出すがいい。これらはシオンの生者たちのただ中にいる、死んだ魂なのだ」、と。私は、この非常に厳粛な思想について長々と語りはすまい。だが、私は願う。この場にいる何人かの人々の良心が、この礼拝が終わったときには、そのことについてとくと考え込んでいることを。あなたがたは、いのちのただ中にある死んだ人々である。あなたは、今しがた歌に加わったが、あなたの歌の中には、生きた賛美が何もなかった。愛するハーディッチ兄弟によって非常に熱烈な祈りがささげられた。だが、あなたの中には生きた祈りが何もなかった。あなたは、そのことが分かっているだろうか? だとしたら、正しい場所に身を置くがいい。そして、願わくは神があなたに、いのちの欠けが分かるだけのいのちを与えてくださるように。さもないと、神はあなたについて、「死んだ者を私のところから移して葬れ」*[創23:4]、と仰せになり、あなたは死者のために定められた家へと連れ去られるであろう。あなたが生きた聖徒たちの集まりを汚すことは許されない! 天にいる者たちは、みないのちに満ちている。そこには、死んだ礼拝者はひとりもいない。回りに響きわたる賛美に応答しない、鈍重で、冷たい心は1つもない。彼らはみないのちに満ちている。

 さらに注意するがいい。彼らはみな思いを1つにしていた。二十四人の長老たちであれ、四つの生き物であれ、彼らはみな同時に動いている。完璧な一致をもって彼らはひれ伏し、あるいは、立琴に触れ、あるいは、香の一杯入ったその金の鉢を掲げている。私は、この礼拝における一致を嬉しく思う。あなたも、次のような詩句を思い出すであろう。――

   「一挙(ひとつ)に歌い、一挙(ひとつ)に祈り、
    天国(みくに)を聞きて 道を学べり」。

私たちは、子どもの頃にはこの賛美歌を良く歌ったものである。だが、私たちの集会には常に真の一致があるだろうか? ある者が賛美している一方で、別の者が呟いてはいないだろうか? ある者が熱心な一方で、別の者が上の空ではないだろうか? ある者が信じている一方で、別の者は不信心ではないだろうか? おゝ、神よ。この下界にある私たちの諸集会に一致をお与えください。私たちのうちで同じ結果を生じさせてくださる《1つの御霊》から来る一致をお与えください。というのも、天国で私たちはそのような者とならなくてはならないからである。そして、もし私たちがこの下界で思いを1つにしていないとしたら、私たちは天上の天的な存在とは似ていないのである! つまらない口論が入り込むとき、また、分派的な不和によってともに礼拝に参加することが妨げられるとき、それは非常に遺憾なことである。願わくは神が、ご自分の1つの《教会》を、その不幸な分裂すべてから癒してくださるように。また、ある教会を、うちに潜伏していかねない種々の不和から癒してくださるように。そのようにして、地上における私たちの一致が、天国における一致の先駆けとなるように!

 次に注意してほしいのは、この天の礼拝者たちが、いのちに満ち、一致に満ちているばかりでなく、聖なる畏敬に満ちていることである。「彼が巻き物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老は……小羊の前にひれ伏した」。すべての者が畏敬とともに《小羊》の前にひれ伏した。そして、14節には、彼らの歌が終わり、御使いたちと全被造物とが順々に、この神々しい音楽における役目を果たし終えたとき、こう書かれている。「また、四つの生き物はアーメンと言った」*。それが、彼らに云えるすべてであった。彼らは、神と《小羊》の荘厳なご臨在によって畏怖させられていた。「永遠に生きておられる方を長老たちはひれ伏して拝んだ」<英欽定訳>。そのときには、彼らは何も云わなかった。ただひれ伏して、礼拝するだけだった。とうとう私たちが、自分の感情の重みによって言葉の背骨を折ってしまったとき、また、云うに云われぬ賛美の念を証明するために、感きわまった沈黙が立ち入らざるをえないとき、それは壮大なことである。このような畏敬に満ちた精神の状態にあるのは栄光に富むことである。私たちは常にそうではない。だが、天にいる者たちはそうである。彼らはみな、主の前にいつでもひれ伏そうとしている。あなたは思わないだろうか? 私たちがしばしば、自分の礼拝所にやって来るとき、はなはだしく無頓着な心をしていると。また、礼拝が行なわれつつあるとき、私たちは一千もの思いにふけっていないだろうか? あるいは、たとい私たちが注意を集中していても、そこには十分にへりくだった礼拝が伴っているだろうか? 天において彼らは主の前にひれ伏している。兄弟よ。姉妹よ。私たちがより良く神に仕えるためには、もっとこのようにひれ伏して《小羊》を礼拝した方が良いではないだろうか?

 次に注目すべきことに、彼らは畏敬に満ちているだけでなく、みな賛美する状態にある。「おのおの、立琴と……を持って」。彼らは、一個の立琴を使い回して、順々にそれを奏でていたのではなかった。また、自分の立琴を忘れてきたために、突っ立っているしかない者もいなかった。むしろ、彼らは、ひとり残らず自分の立琴を持っていた。残念ながら、この言葉は、今晩この場にいる神の民全員には当てはまらないのではないかと思う。愛する姉妹。あなたの立琴はどこにあるだろうか? それは修理に出されているではないだろうか。愛する兄弟。あなたの立琴はどこにあるだろうか? あなたはそれを、バビロンの川のほとりにある柳の木々[詩137:1-2]に立てかけっぱなしにしており、それで、ここには持ってきていない。私も時々、立琴を持たないことがあると告白しなくてはならない。私は厳粛な説教は語ることができたが、それほど上手には賛美をささげられなかった。私たちの愛する友ハーディッチは、今晩彼の立琴を携えてきたと思われる。私は、彼が主を、かくも多くのあわれみのゆえにかくも何度もほめたたえたことを嬉しく思う。私たちは、自分の立琴を携えていないことがある。だが、この生き物たちや長老たちは、その全員が、彼らの聖なる喜びを表現するための用具を持っていた。「おのおの、立琴と……を持って」。天上の霊たちに似た者になろうとするがいい。

 しかし、これがすべてではない。彼らは全員いつでも祈る用意ができていた。天国にも祈りはある。私たちは、この件についてありがちな間違いを訂正しなくてはならない。また、そこでも祈り求めるべきことはある。確かに私たちは聖徒たちや御使いたちのとりなしを求めはしない――それは、到底聖書的とはいえない――が、それでも、私たちの信ずるところ、聖徒たちは実際に祈っている。彼らは、「主よ。いつまでですか?」、と叫んでいないだろうか? なぜ彼らは、こう祈ってはならないだろうか? 「御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように」[マタ6:10]、と。彼らは、私たちよりもその祈りを良く理解しているであろう。私たちは、みこころがいかに地で行なわれていないかを知っているが、彼らはいかにそれが天で行なわれているかを知っている。それで、彼らはこう祈れるのである。「御国が来ますように。国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン」[マタ6:10、13]、と。いかに甘やかに彼らの口は、こうした言葉を紡ぎ出すことであろう! よろしい。彼らは、その全員が、「香のいっぱいはいった金の鉢とを持って」いた。私たちはいつでも祈りのための備えと用意ができているだろうか? これは、常に立琴を持っているよりもやさしいはずである。だが、残念ながら、私たちは、常には香の一杯入った金の鉢を持ってはいないのではないかと思う。それが金の鉢かどうかも分からない。残念ながら、私たちの鉢は地上の、土の器ではないかと思う。しかし、天国では、彼らは純金の、尊い金の鉢を持っており、そこには香が一杯に入っている。時として、私の兄弟よ。あなたは、自分の祈りのつぼをのぞき込むとき、その底を引っかき回さなくては、ほんの僅かな香の煙を立ち上らせるほどの香料も見つからないことがある。だが、甘やかな香が一杯に入った自分の鉢を持っていること、これこそ私たちが常にそうあるべき精神の状態である。願わくは神が私たちをそのような者にしてくださるように! 私たちは、常に祈ることができるとき、天に近づきつつあるに違いない。また、常に賛美できるとき、確かに天国に近づいているに違いない。

   「罪ゆるされて 祈り、賛美(たた)うは
    地に来たらせん、天(あま)つ至福(さかえ)を」。

そして、それは私たちが天に上り、その至福にあずかる用意をさせるに違いない。

 さて、あなたはこうした礼拝者たちがいかなる者らであったかを見ている。私はここでしばし立ち止まって質問せざるをえない。果たして私たちはそこに行く備えができているだろうか? そこにいる人々のようだろうか? 私たちにとって、それ以外の場所が1つしかないことを思い出すがいい。もし私たちが天国に入って、この完璧な霊たちとともに賛美しないとしたら、私たちはこの神聖な御前から追い払われて、罪に定められた者たちとともに苦しむしかない。あなたは地獄に行くことを望んでいない。あなたは、天国に行くことを熱心に望んでいないだろうか? あなたは、「のろわれた者ども。離れて行け」*[マタ25:41]、との考えから尻込みする。おゝ、ではなぜ今すぐ、「さあ、祝福された人たち」*[マタ25:34]を受け入れないのだろうか? いまはイエスがこの恵み深い招きを繰り返しておられるのである。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」[マタ11:28]。

 私は、この招きをあなたに強く突きつけることができれば良いのにと願う。だが、私はこれをあなたの前に云い表わそう。世の罪を取り除く神の《小羊》、イエスの御名において、私はあなたを招きたい。この方に信頼し、自分のもろもろの罪が赦されたことを知るがいい。そして、そのようにするときこそ、あなたは御座の上に座っておられる《小羊》にお会いする用意ができ、そこで永遠にこのお方の犠牲をあがめつつ、そこから流れ出る数々の祝福を楽しむことになるであろう。願わくは私たちがみな天で会えるように! もし私たちがこの場にいるあらゆる人の運命を知ることができるとしたら、それはすさまじく恐ろしいことであろう。他の事がらに加えて、この場にいるある人々が決して真珠の門を見られないことに気づくとしたら恐ろしいことであろう。見えるとしても、恐るべき遠方から、非常な深淵を越えてしか見られず、その深淵についてはこう云われているのである。「ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです」[ルカ16:26]。願わくは私たちが、その深淵の正しい側にいられるように! 今晩、その正しい側にいるがいい。イエスのゆえに!

 II. さて、このようにこの礼拝者たちについて語ってきた上で、私はあなたに《彼らの歌を聞いてほしい》。私たちは、私たちの最上のことを、残されている非常に短時間で聞くしかない。「彼らは、新しい歌を歌って言った。『あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。』」。

 賛美歌を取り上げて、それを教理的に扱うことは、どちらかというと異例であるが、あなたを教えるために、しばし詩心は棚上げにして、この天的な賛美歌に含まれた教理だけを扱わなくてはならない。

 最初の教理は、キリストが前面に押し出されている。私の信ずるところの、キリストの神性である。彼らは、「あなたこそ、ふさわしい方です。あなたこそ、ふさわしい方です」、と歌う。ひとりの力強い翼をした御使いが、地と天と、宇宙の底知れぬ深淵とを疾風のように行き巡り、大声で叫んだ。「巻き物を開くのにふさわしい者はだれか?」 だが、何の答えもなかった。いかなる被造物もふさわしくなかったからである。そのとき、《ひとりのお方》がやって来られた。そのお方について教会はその歌によって叫ぶのである。「あなたこそ、ふさわしい方です。あなたこそ、ふさわしい方です」、と。しかり。愛する方々。この方は、私たちがささげることのできる一切の賛美と誉れを受けるにふさわしい方である。この方は、神と等しいと呼ばれるにふさわしい。否、自ら神なのである。まことの神よりのまことの神なのである。そして、いかなる人も、この歌を歌えるようになるるためには、あるいは、歌うことになるには、キリストが神であると信じ、キリストを自分の主また神として受け入れなくてはならない。

 次に、この賛美歌の教理は、全《教会》がキリストの仲保を喜んでいる、ということである。注意するがいい。キリストがその巻き物を受け取ったときにこそ、彼らは、「あなたは、巻き物を受け取るのにふさわしい方です」*、と云ったのである。キリストが神と人との間に立っておられることは、信仰を有するあらゆる心にとって喜びである。私たちは決して神のもとに達することはできなかった。だが、キリストがやって来て、私たちの間に橋をかけてくださった。主は一方の手を人の上に置き、もう一方の手を神に置かれる。キリストは《仲裁人》であって、自分の手を双方の上に置ける。そして、《教会》はこのことを大いに喜びとする。覚えておくがいい。摂理の働きでさえ、キリストの仲保から離れてはいない。私はこのことを喜んでいる。たとい雷鳴が荒れ狂おうとも、疫病や死が私たちの回りを飛び交おうとも、神の子どもはなおもこの《仲保者》の庇護の下にあり、いかなる害悪も選びの民には起こらない。というのも、イエスが私たちを永遠に守ってくださるからである。天と地の一切の権威は主に与えられている[マタ28:18]。それで《教会》は主の仲保者職を喜びとするのである。

 しかし、ここでこの《教会》の歌の中に注目するがいい。キリストが《仲保者》としてふさわしいと《教会》が信ずる理由は何だろうか。それは云う。「あなたは、ふさわしい方です。あなたは、ほふられました」、と。あゝ、愛する方々。キリストが教会の《仲保者》となることをお引き受けになったときに、その保証人としての責任によって至らされる極限の点、それはほふられることであった! そして、主はその極限の点まで行き、いのちに代えていのちを支払われた。「それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」[創2:17]。これがアダムに宣告された判決である。第二のアダムは死なれた。その判決に対して頭を垂れて、神の律法の正当さを立証し、自分の仲保者職によって要求されることはいかなることをも厭わずに行なわれた。このために、贖われた者たちは、この歌を高く高く高く歌い上げたのである。「あなたは、ふさわしい方です。あなたは、ほふられました」、と。イエスが、いかなる場合にもまして栄光に富んでおられるのは、その死においてである。主がなだめの供え物となったことは、主の恥辱の究極的な深みであると同時に、結局においては、主の栄光の絶頂にほかならない。愛する方々。私たちは、私たちの《仲保者》が死なれたからこそ、この方にあって喜ぶのである。

 よろしい。さらに注意すべきことに、彼らは、主の死がもたらした贖いについて歌っているが、この世の贖いについては歌っていない。しかり。全く歌ってはいない。「あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い」。私は、今晩は教理的議論に踏み込むまい。私は、この贖罪の犠牲に無限の価値があると信じている。もし神が、この犠牲をさらに多くの人々の救いのために有効なものとするようお定めになっていたとしたら、それは、その天来の目的のために全く十分であったと信じている。だが、キリストがその血によって神のために贖われた人々は、全人類ではなかった。全人類がこの歌を歌うことにはならない。全人類が神のために王とされ、祭司とされはしない。そして、神にこの歌が立ち上らされているような意味においては、全人類が贖われてはいない。私は、一般救済のことなど全く知りたくはない。それについては、あなたは好き勝手なことを信ずるがいい。だが、私が知りたいのは特定救済についてであり、個人的な贖いについてである。「あなたは私たちを贖いました」<英欽定訳>。「キリストは教会を愛し、教会のためにご自身をささげられた」*[エペ5:25]。「あなたは、……その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために私たちを贖いました」<英欽定訳>。話をお聞きの愛する方々。あなたはこの歌に加われるだろうか? このように云うことは、非常に結構なことである。「おゝ、そうですとも! 私たちはみな罪人です。私たちはみな贖われています」。待て、待て。あなたは罪人なのだろうか? そう知っているだろうか? 罪人はロンドンでは非常に寡少である。「何と、何百万人もいますよ!」、とあなたは云うだろうか? しかり、しかり、しかり。名目上は、彼らはそう云うであろう。だが、正真正銘の罪人――その咎を誰が知ろう――、それは希少品である。

   「罪人は 神聖(きよ)きものなり
    聖霊が かく成(な)したれば」。

もし今晩、この家の中に真の罪人がいるとしたら、彼女は私の《主人》の足元で泣きながら、そのほむべき御足を自分の涙で洗っていることであろう。しかし、あなたのまがいものの罪人たちについて云えば、――彼らが十分に罪人であることは神がご存知である。だが、彼らは自分が罪人であることを本当は信じていない。彼らは決してはなはだしく間違ったことをしたことはない。はなはだしく異常なこと、はなはだしく重大なこと、心を引き裂くようなことは何1つしていない。おゝ! あなたは、――何と、あなたは、罪人たちと連れ立っていると主張することさえできない。あなたは、そこでさえまがいものなのである! しかし、贖いに関して云えば、万人を贖ったような贖いは、あなたに何の善も施さない。というのも、それはユダを贖ったからである。いま地獄にいるおびただしい数の人々を贖ったからである。何とあわれな贖いであろう! あなたに必要な贖いは、あなたを、あなたの罪人仲間の中から引き抜くような贖いである。そのようにして、次のみことば通りに、あなたが神のために分離されるような贖いである。「彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる」[IIコリ6:17-18]。

 贖われたものは、もともと、それを贖う人物に属していたはずである。そして、主に贖われた者は常に主のものであった。「彼らはあなたのものであって」、とキリストは仰せになる。「あなたは彼らをわたしに下さいました」[ヨハ17:6]。彼らは神のものであった。自分に属していないものを贖うことはできない。それを買うことはできるかもしれないが、贖うことはできない。さて、もともと神に属していたものは、罪ゆえに、抵当に入れられてしまっていた。私たちは、罪を犯したために、律法の呪いを受けてしまった。そして、確かに神はなおも私たちが神のものであると主張されたが、私たちはこの禁輸措置の下にあった。罪に私たちの取得権があった。そこへキリストが来られた。そして、ご自身のものをご覧になった。主は彼らがご自分のものであると悟られた。主は、彼らを贖い、質受けするためにいくら支払わなくてはならないかをお尋ねになった。要求されたのは、主の心血、主のいのち、主ご自身であった。主はその代価を支払い、彼らを贖われた。それで私たちは今晩こう歌うのである。「あなたは、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために私たちを贖いました」、と。主は、私たちを贖うことにより、私たちをご自身のために分離された。また、残りの全人類の中から、1つの特別な意味において、私たちを、血によって買い取られた、ご自分の所有の民とされた。

 私は、キリストの贖いが有する普遍的な意味合いについて多くを告げることもできよう。そうした意味合いを私は信じているし、また、そうした贖いの無限の価値についても私は信じている。だが、やはり私は云いたい。神のご計画において、また、キリストのみわざにおいては、ある特定の形の贖いがあり、それは、ご自分の民だけのためのものである、と。それは、主がこう云われた際にとりなされた通りである。「わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしに下さった者たちのためにです。なぜなら彼らはあなたのものだからです」[ヨハ17:9]。この件について誰が何と考えようと、キリストの贖いには個別性と特定性がある。そして、このことは、天におけるこの歌の、この上もなく際立った特徴となっている。「あなたは、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために私たちを贖いました」。

 ここまでが、天におけるこの賛美歌の教理的な面についてである。

 これからは、それを経験的に見ていこう。「あなたは神のために私たちを贖いました」*。愛する方々。すでに述べたように、あなたは、今このことについてある程度分かっていない限り、この歌を歌うことはできない。あなたは贖われただろうか? 罪ゆえにあなたの上にかかっていた禁輸措置は解除されただろうか? あなたはイエス・キリストを信じているだろうか? というのも、イエス・キリストを信じるあらゆる者は、自分の永遠の贖いの証拠を有しているからである。あなたは、イエス・キリストがキリストであると信じ、キリストだけにより頼んでいるとしたら、莫大な代価によって買い戻されているのでいる。それは、彼らの経験であった。「あなたは私たちを贖いました」。彼らは自由を感じた。枷をかけられていた時のことを覚えていた。だが、それがみなキリストによって砕かれるのを見た。あなたは自由にされているだろうか? あなたの枷は砕かれているだろうか? この問いを発するがいい。その上で先に進むことにしよう。

 この贖いは、彼らの区別の根拠である。「あなたは、その血により、神のために私たちを贖いました」。先日、ひとりの人が、ある教役者についてこう云うのを聞いたことがある。「おゝ! 私たちには別の教役者が必要です。この人には嫌気がさしてしまいました。年がら年中、血のことばかり語るのです」。最後の大いなる日、神はこのように語った人に嫌気がさすであろう。神は決してこの尊い血に飽き飽きしないし、自分の救いがどこに存しているか分かっている神の民も飽き飽きしないであろう。彼らは、天国においてすら、それは口にするも恐ろしい言葉だなどとは云わない。「おゝ、ですが、私はその言葉が嫌いなのです!」、とどこかの繊細な紳士は云うであろう。殿よ、いずれあなたはその言葉で悩まされなくなるであろう。天国には行かないだろうから。心配することはない。あなたは、彼らが血について歌っている所には行かないであろう。しかし、よく聞くがいい。もしあなたがそこに行くようなことがあるとしたら、あなたはそれについて何度も何度も何度も聞かされるであろう。「あなたは、その血により、神のために私たちを贖いました」。いかに彼らがそれを響きわたらせることであろう! 「あなたは、あなたは、あなたは、その血により、神のために私たちを贖いました」。いかに彼らはこの代名詞を強調することであろう。「あなたは」。また、いかにその賛美を全くイエスにだけ向けることであろう。そして、いかにこの言葉を彼らの立琴の音楽で鳴りわたらせることであろう。「あなたは、その血により、神のために私たちを贖いました」。彼らは、天上でイエスの血を恥じはしない。

 この贖いによってこそ、彼らは王とされたのである。私たちは、この下界では自分たちの王権を完全に悟ることができない。ある程度までは悟れるが関係ない。ここにひとりのあわれな男がいる。たった一間の部屋に住み、今晩そのかくしには一銭もない。だが彼は、神の御前では王なのである。ことによると、ここにいるひとりの人は、かつて酔いどれだったかもしれない。彼はその悪をどうしても克服できなかった。彼は誓約書に署名したり、青い綬巾を身につけたり、といったことをした。だが、それでも飲酒に立ち戻った。しかし神の恵みによって、今の彼はその首根っこを押さえつけている。彼には新しい心とゆるがない霊があるからである。この男は王である。自分の飲酒癖を治める王である。この場にいるひとりの人は、かつては非常に激越な癇癪持ちだった。彼と一緒に暮らすのは一苦労だった。だがキリストが彼を変えられた人とした。そして今や彼は王であって、自分の短気を支配している。自分自身を治める王となるのは壮挙である。ある人々は、何百万もの他の人々を支配していながら、決して自分を治めたことがない。あわれな者ども! あわれな者ども! 神に感謝すべきかな。もし神があなたを、あなた自身の性質に勝利させてくださっているとしたら、それは栄光に富む征服である。だが、これは、天におけるこの歌の中にあるものの始まりにすぎない。

 それから彼らは云う。「あなたは、私たちを祭司とされました」。おゝ、近頃の世に見られるみじめな者ども。彼らは、司祭によらなければキリストのもとに行けないという! 彼らは司祭のもとに行って自分のもろもろの罪を告白しなくてはならない。また、司祭のもとに行って赦罪を獲得しなくてはならない。司祭たちがいるのはローマ教会の中だけではなく、他の所にもいる。この呪わしい聖職者制度が至る所にやって来つつあるのを見ると悲しく思う。何と! あなたがたの中のある人々は、自分に代わって、自分の教役者に信仰の務めをことごとく行なってもらうのを好むのではないだろうか。左団扇で、自分の信心を自分の教役者にまかせてしまうのである。だがキリストはご自分の民のあらゆる者を祭司としておられ、神のあらゆる子どもは私と同じくらい祭司なのである。そして確かに私は祭司である。神に対して祈りと、賛美と、みことばを伝える奉仕という霊的な犠牲をささげる祭司である。しかし、ここにはあらゆるキリスト者に独特の喜びがある。神は彼らを祭司とされた。もしも彼らが自分の祭司職を地上で用いないとしたら、残念ながら、決してその祭司職を神の御前で、同輩の祭司たちとともに用いることばできないのではないかと思う。これが、この天の歌の旋律である。「尊きかの血に洗われて、無比(うえな)き代価(かた)にて贖われ、今ぞわれらはわれらが神に、王にしてかつ祭司ならん」。地上においてさえ、あらゆる聖徒はこう歌えるのである。

   「我れは捨てまじ、わが身の幸(さち)を
    世の富 ほまれを いかに受くとも。
    わが信仰の 立ちしかぎりは
    我れはねたまじ、罪の黄金(たから)を」。

このようにして私は、この歌について、教理的に、また、経験的に語ってきた。さて、今からそれについて待望をこめながら語っていこう。

 ここには期待すべきものがある。「私たちは地上を治めるのです」<英欽定訳>。ヨハネがこの歌を聞いたとき、復活の日はまだ来ていなかった。この者たちは、御座の前にいて、からだから切り離された霊たちである。彼らは復活の日を待ち受けている。その日がいつ来るか、誰に分かろう? しかし、その日が来るときには、キリストにある死者が、まず初めによみがえる。真夜中の叫びに飛び上がり、彼らはちりと沈黙の土塊の寝床を後にする。それから、生き残っている聖徒たちが彼らに加わる[Iテサ4:16-17]。私は、その時の種々の詳細には立ち入るまい。だが、そのときこそ、繁栄の至福の時期がやって来るのである。「そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった」[黙20:5]。それから、聖徒たちが地上で王になる時が来る。彼らの生活は王侯にふさわしいものとなり、彼らの楽しみ、彼らの喜び、そして彼らの誉れは、王や君主たちのそれに等しくなる。否、それをはるかにしのぐものとなる。あなたや私は、地上で王となることを期待しているだろうか? これは、極貧の、名も知れぬ、ことによると、無知な者、だが自分の主を知っている者にとって、非常に奇異に思われるであろう。その人は、キリストによって祭司とされ、王とされており、キリストとともに地上でさえ王となり、それから栄光においては永遠にキリストとともに王になるというのである。だが、もし私たちがある人々について、また、今この場にいるある人々について、彼らが地上で王になるだろうと主張するとしたら、それは、さらに異様であろう。完璧に奇怪なことであろう。自分のために生きている人は、決して地上で王になることはない。「柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです」[マタ5:5]。利己的な思いによって、他のあらゆる人々を鉄の踵で踏みにじる人々ではない。あなたが地上で王となることはない。あなたが地上で生きてきたのは、単に金銭を貯め込むためか、自分の名を上げるためか、自分の情動にふけるためか、自分の同胞に腹いせをするためであった。あなたが王になる? あなたが? 君が? 神の牢獄こそあなたのための場所であって、王座ではない。しかし、神が私たちを柔和で、謙遜で、へりくだった、畏敬の念に満ちた、きよい者としてくださっているとき、私たちは栄光の中で、神のために祭司かつ王になり、来たるべき日には、この地上においてさえ王となるという高い召しへと引き上げられるにふさわしくなるであろう。

 私はこの場にいるあらゆる人に願いたい。果たして自分がそのほむべき人々の数に入る見込みがあるかどうかについて、自らを探るがいい。あなたは、喜びをもってキリストをあなたの《仲保者》として受け入れているだろうか? あなたは、キリストがその《仲保者》となるのにいかにふさわしいお方か明確に見てとっているだろうか? あなたは人々の中から贖い出されているだろうか? 古馴染みの仲間たちの中から取り去られているだろうか? エジプト人たちの中であなたを奴隷にとどめておいた種々の習慣から解き放たれているだろうか? 新しいつき合いの中に入れられているだろうか? 神はあなたを新しい天と新しい地の中に導き入れてくださっただろうか? あなたに、ある程度までは自分を治める力を与えてくださっただろうか? あなたは祭司として、絶えず神に仕えながら生きているだろうか? もしあなたが、こうした問いに対して、「いいえ、いいえ、いいえ」、と答えざるをえないとしたら、私に云えるのは、この一言だけではないだろうか? 「キリストのもとに来るがいい」。願わくは、あなたが今晩キリストのもとに来るように! 願わくはキリストが今晩、あなたの内側に1つのほむべき作用を始めてくださるように。光の中にある聖徒の相続分にあずかる資格[コロ1:12]をあなたに与えるだろう作用を。イエスのゆえに! アーメン。

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天の歌い手たちとその歌[了]


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