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栄光のうちにある《小羊》

NO. 2095

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1889年7月14日、主日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「さらに私は、御座――そこには、四つの生き物がいる。――と、長老たちとの間に、ほふられたと見える小羊が立っているのを見た。これに七つの角と七つの目があった。その目は、全世界に遣わされた神の七つの御霊である。小羊は近づいて、御座にすわる方の右の手から、巻き物を受け取った」。――黙5:6、7


 使徒ヨハネは、長いこと主イエスを《小羊》として知っていた。彼が主を初めて目にしたとき、かの《洗礼者》はイエスを指さして云った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」[ヨハ1:29]。彼は、このほむべきお方と非常に親しく接し、しばしば自分の頭をその御胸にもたせ、《救い主》のこの優しいいつくしみ深さが自分にとって小羊のような穏やかな性質をしたものであることを感じていた。彼は、主が「ほふり場に引かれて行く小羊のように」[イザ53:7]引かれて行くのを見た。それで、この考えは拭いようもないしかたで彼の思いにとどめられたのである。キリストなるイエスは神の《小羊》である、と。彼は主が、朝ごと夕ごとのいけにえのうちに、また、その血によってイスラエルを死から贖った《過越の小羊》のうちに定められていた犠牲であられたことを知った。その晩年に、この愛された弟子は、この同じキリストを、同じ小羊の姿において見ることとなった。大いなる秘密を現わす方、また、神の御思いを解き明かす方、封印された巻き物を受け取り、その封印を解くお方として見ることになった。その封印は、人の子らに対する神の神秘的な目的を束ねていたのである。私は切に願う。私たちがこの地上において、罪を負われるこの《小羊》の姿をはっきりと、また、常に見据えており、それから彼方の栄光の世界においても、このお方を御座と生き物と長老たちの正面に見ることになるようにと。

 ヨハネが描写した特定の瞬間にこの《小羊》が現われたことは、この上もなく適切なことであった。私たちの主が普通お現われになるのは、他のあらゆる希望が消えたときだからである。かの怒りの酒ぶねについて、主こそはこう仰せになるお方である。「わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。国々の民のうちに、わたしと事を共にする者はいなかった」[イザ63:3]。私たちが前にしている場合では、力強い御使いが大声でふれ広め、こう云っていた「巻き物を開いて、封印を解くのにふさわしい者はだれか」[黙5:2]。そして、天からも、地からも、よみからも、何の応答もなかった。誰ひとりその巻き物を受け取ることも、その中を見ることもできなかった。そのままでは天来の定めが永遠に封印されたままになるはずだったところへ、かつてほふられた《仲保者》がそれを神の御手から受け取り、それを人の子らに開いてくださるのである。誰にもそれができなかったとき、ヨハネは激しく泣いていた。この重大な瞬間に、《小羊》がお現われになった。古の大家トラップは云う。「キリストは必死の努力を要する重量挙げを得意とされる」。そして、それは真実である。他のどこにも全くの失敗しかないとき、そのとき私たちの助けは主のうちに見いだされるのである。もしも罪を負う者が他に見つかったとしたら、御父はその《ひとり子》を与えて死なせようとなさっただろうか? 神の隠れた企図を解くことができる者が他にいたとしたら、その者はこの御使いの挑戦に答えて現われたはずではなかっただろうか? しかし、世の罪を取り除くためにやって来たお方が今、永遠のご目的を束ねている封印を取り除くために現われておられるのである。おゝ、神の《小羊》よ。あなたは、他の誰もがあえて試みることさえできないことを行なうことがおできになります! あなたは、他のいかなる者も慰めや救いを与えられないときにおいでになります。思い出すがいい。この次、あなたがたが苦難に陥り、誰も慰めることができず、誰も救うことができないとき、主に期待することはできることを。常に同情深い神の《小羊》が、あなたのために現われてくださることを。

 この《小羊》が現われず、御座にすわっておられるお方の手に掲げられていたその巻き物を眺めるにふさわしい者が、まだ誰も見つからなかった間、ヨハネは激しく泣いていた。泣きぬれた目にこそ、神の《小羊》は最も良く見える。今の時代の教役者たちの中の、代償的犠牲の教理を軽くみなしてやまない者らも、もう少し心の悔恨や、魂の働きについて知っていたとしたら、別の考えをしていたことであろう。悔い改めによって洗われた目は、私たちの受肉した神、私たちのもろもろの罪を負われるお方から輝き出す、ほむべき諸真理を最も良く眺めることができるのである。無代価の恵みと、死に給う愛は、シオンで嘆き悲しんでいる者たちによって最もありがたく思われる。もし涙が目にとって良いものだとしたら、主が私たちを遣わして泣く者たちとならせ、ボキム[士2:5]からベテル[創28:19]へと巡り回らせてくださるように。私は、このような古い格言を聞いたことがある。「天国に行くには、《涙の十字架》によるしかない」。そして、天国を見ること、また、天的な《お方》を見ることさえ、泣きはらした目によるしかないと思われる。泣くことによって目は、何らかの希望がある限り、見るに敏なものとならされる。また、いかなる偽りの頼りに対しても曇らされる一方で、いかに微かな天来の光の光箭に対しても鋭敏になる。「彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。『彼らの顔をはずかしめないでください』」[詩34:5]。永遠の事がらを心に銘記して、自らの、また、同胞たちの必要について涙するまでとなった者たちは、真っ先に神の《小羊》のうちに、自分たちの願望への答えを見てとる人々となるであろう。

 だが、注目するがいい。この場合でさえ、人間的な媒介的手段が許されていた。こう書かれているからである。「長老のひとりが、私に言った。『泣いてはいけない』」[黙5:4]。使徒ヨハネは、一個の長老よりも偉大であった。私たちは、神の《教会》の中において、女から生まれた者の間の何者をも、その《主人》の胸に頭をもたせたヨハネの前に置きはしない。だがしかし、《教会》の中のただの年長者が、この愛された使徒を叱責し、教え導いているのである! 彼は、ユダ族から出た獅子が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができると知らせて、ヨハネを励ましている。《教会》内の最も偉大な者も、最も小さな者に恩義をこうむることがありえる。説教者が回心者によって教えられることもあれば、長老が子どもから導きを受けることもありえる。おゝ、私たちが常に喜んで学ぼうとしているとしたらどんなに良いことか!――いかに卑しい身分の、どんな者からでも学ぶ姿勢があれば、どんなに良いことか。確かに私たちが教えられやすい者となっている時、その心の柔らかさは泣くことによって示されるに違いない。それによって私たちの魂は、蝋の書き板のようにされ、真理の指先がその教えを容易に記せるようになるであろう。願わくは神がこうした心の備えを私たちに授けてくださるように!

 願わくは私たちが教えられやすい霊によってこの聖句のもとに来ることができ、主が私たちの目を開いて、ヨハネとともに見ること、学ぶことを許してくださるように! 私たちにこの幻の記録があることは、決して小さな恩顧ではない。主は私たちがその情景にあずかることを意図しておられるではないだろうか? この幻は、一個の《小羊》の幻である。神の隠された目的の巻き物を開き、その封印を解く《小羊》の幻である。この箇所が教えるところ、主イエスは、その犠牲としてのご性格において、天の世界で最も顕著な対象となっておられる。代償は、どこかに片づけられ、一時的な方便として脇にやられているどころか、宇宙的な驚異と称賛の的であり続けているのである。一個の《小羊》となり、世の罪を取り除こうとされた《お方》は、ご自分の謙卑を恥じておらず、むしろ、今なおそれを無数の称賛する者らに対して明らかに示しておられる。そして、まさにその理由によって、彼らの熱狂的な礼拝の対象そのものとなっておられる。彼らは《小羊》を、御座の上にすわっておられる《お方》を礼拝するのと同じように礼拝している。そして、「彼らは、新しい歌を歌って言った。『あなたは……ふさわしい方です』」[黙5:9]。なぜなら、この方はほふられて、その血によりご自分の民を贖ったからである。その贖罪の犠牲こそ、彼らの最も深い畏敬と、最も高い称賛の大いなる理由なのである。ある者はあえて云うであろう。イエスの生涯だけが宣べ伝えられるべきであって、その死は決して全く特筆されるべきではない、と。私たちは、そうした者らのような信仰をいだかない。私はキリスト・イエスを、罪のための犠牲として死んだお方として宣べ伝えることを恥じない。むしろ逆に、大胆にこう云える。「私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません」[ガラ6:14]、と。私たちの信ずる《贖罪》の教理は、第二等の教理として暗がりに放っておかれるようなものではない。むしろ、私はそれを霊感の第一にして最も重要な教えとして信ずる。信仰者の慰めの最大の源泉、神の栄光の最高の頂として信じる。私たちの主の犠牲としての性格は、天においてこの上もなく際立っている。それで私たちもそれを人々の間で最も目立ったものとしたいのである。イエスは罪を負うお方として宣言されるべきである。そのとき、人々は信じて生きるであろう。願わくは聖霊なる神が今朝、そうしようとする私たちの試みを助けてくださるように!

 I. 天におけるイエスはその犠牲としてのご性格において現われておられる。そして私があなたに注意してほしいのは、《この性格が他の目立った点によって高められている》ということである。その栄光は、私たちの主の残りのご性格すべてによって減じられるのではなく、高められている。私たちの主のあらゆる属性、業績、また職務は、その栄光を主の犠牲としてのご性格にささげており、すべては合わさって、それを愛に満ちて驚嘆すべき主題としている。ここには主がユダ族から出た獅子であると書かれている。それが表わしているのは、主の《王》としての職務の尊厳であり、その主としてのご人格の威光である。獅子は戦うことに熟達しており、「主はいくさびと。その御名は主」[出15:3]である。獅子のように主は勇敢であられる。小羊のように優しくあるが、臆病ではあられない。主は獅子のように恐ろしく、「だれがこれを起こすことができようか」[創49:9]。もし誰かが主との争闘を始めるとしたら、用心するがいい。主は勇敢であるのと同じく、力に満ちており、大能において何人も抵抗できないからである。主には獅子の心があり、獅子の力がある。また主は勝利の上にさらに勝利を得ようとしておいでになる[黙6:2]。これにより、いやまさって驚くべきは、この方が小羊となられることである。――

   「仇(あだ)の前にて 卑しめられて
    倦みも、疲れも、悲哀も知れる」

人となられることである。驚異なのは、主がご自分を十字架の恥辱に引き渡されることである。兵士たちから茨の冠によって嘲られ、浅ましい者らによってつばきを吐きかけられることである。おゝ、驚異よ、驚異よ、驚異よ。ユダ族から出た《獅子》、ダビデの王家の分かれが、ほふり場にひかれる小羊のようになるとは!

 さらに、明らかに主は戦士であられる。「ユダ族から出たしし……が勝利を得た」。求められていたのは、聖潔という意味におけるふさわしさのみならず、剛勇という意味におけるふさわしさでもあった。とある十字軍の伝説が思い起こされる。ある立派な城と地所が、その正当な相続人の到来を待っていた。正当な相続人だけが、ただひとり、城門にかかっている角笛を吹き鳴らすことができた。だが、それを鳴らすことのできる者は、異教徒の一団を戦いの中でほふり、多くの流血の乱闘に勝利を収めた上で帰国しなくてはならなかった。そのように、ここでは地と天のいかなる者も、この神秘的な巻き物を《永遠者》の御手から受け取るにふさわしいだけの剛勇さと声望を有してはいなかった。私たちの戦士はふさわしかった。いかなる戦闘に次ぐ戦闘をこの方は戦ってこられたことか! いかなる武勇の功業をすでに成し遂げておられたことか! 主は罪を打倒された。暗闇の《君主》に真っ向から立ち向かい、彼を荒野で打ち負かされた。左様。死を征服し、かの獅子のひげをその洞穴の中でつかまれた。墓所という地下牢に入り、その柱を引き落とされた。このように主は、剛勇さという意味でふさわしくあられた。遠国から戻って来て、御父の栄光に富む御子として、天の英雄として認められ、そのようにしてこの巻き物を受け取り、その封印を解こうとされた。主の幾多の勝利の光輝は、《小羊》としての主に対する私たちの歓喜を減じさせはしない。はるかにその逆である。というのも、主がそうした勝利を勝ち取られたのは、《小羊》としての優しさと、苦しみと、犠牲によってだったからである。主がその幾多の戦闘に勝利したのは、類を見ない柔和さと忍耐によってであった。主が征服者として偉大であればあるほど、いやまさって驚愕すべきは、主が屈辱と死によってお勝ちになるということである。おゝ、愛する方々。決してキリストについての卑しい考え方を許してはならない! 主のことは、いやまさって、かのほむべき《処女》がこう歌ったときのように考えるがいい。「わがたましいは主をあがめ……ます」[ルカ1:46]。主についてのあなたの考えを大きなものとするがいい。あなたの神であり《救い主》であるお方を偉大なお方とし、それから、あなたの畏敬の念にこの考えをつけ加えるがいい。なおも主が、ほふられた小羊のように見えているということを。主の武勇と、その獅子に似た数々の特質は、主の優しく、謙遜な、へりくだった、私たちに対するあり方をより生き生きと描き出す。私たちの贖いの《小羊》として、主は私たちに対してそうした関係に立っておられるのである。

 この素晴らしい幻の中で、私たちは神の知己としてのイエスを見てとる。主こそ、何のためらいもなく、燃える御座の前に進み出ては、そこに座しておられるお方の右の手からその巻き物を受け取られた方であった。主は全く物怖じされなかった。主は神の御姿であり、神のあり方[ピリ2:6]をしておられた。「まことの神よりのまことの神」[ニカイア信条]であられた。《全能の神》なる主に与えられるのと等しい誉れをもって高く上げられるべきお方であった。主は御座の前に進み、巻き物をお受け取りになる。エホバと親しく語り、愛による天来の挑戦を受け、その栄光に富む御父の神秘的なご目的の封印を解かれる。主にとって、この無限の栄光の間近に近づくことは何の危険もない。というのも、その栄光は主ご自身の栄光だからである。そして、このように神と心安くしているお方こそ、私たちに成り代わって、私たちのために罪の罰を身に負われたお方なのである。最も偉大な者よりもさらに偉大なお方、最も気高い者よりもさらに気高いお方が、最も低い者よりもさらに低くなられた。それはご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことができるようにするためであった[ヘブ7:25]。万物の主なるお方が、罪のあらゆる荷重と重荷の下に屈まれた。顔を伏せ、この《小羊》を礼拝するがいい。というのも、主は死にまでも従われた[ピリ2:8]が、万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神[ロマ9:5]、御父の《愛する方》だからである。

 こうしたすべてに加えて私たちが注目したいのは、主が神の預言者であられることである。主こそは、七つの目を持ち、すべての事がらを見抜き、すべての奥義を見通されるお方である。主こそ七つの封印を開き、このようにしてこの《書》のあらゆる部分を1つまた1つと解いて、単にそれらが読み上げられるだけでなく、現実に成就されるようになさるお方である。だがしかし、主は私たちの身代わりであられた。イエスはあらゆることを説明してくださる。《小羊》はあらゆる秘密にとって、開け胡麻の呪文であられる。何事も主にとって秘密であったことはない。主はご自分の苦しみを予見された。それは不意に主を襲ったのではない。

   「げに神に似し 御同情(いつくしみ)
    救いのきみは いだき給う。
    赦罪(ゆるし)の代価(かた)を 御血(ち)と知るも
    つゆ引かざりき、憐れみは」。

その頃から主は、私たちの無価値さについても、私たちの心の不実さについても無知ではあられなかった。私たちについて一切をご存知だった。私たちがご自分にいかなる代償をしいるか、また、私たちがいかに主の恩に報いない者かをご存知であった。神と人とについてそうした一切のことを知っての上で、主は私たちを兄弟と呼ぶことを恥とせず[ヘブ2:11]、この真理を退けることもなさらなかった。ごく単純でありながら、私たちにとっては希望に満ち満ちた真理、すなわち、主が私たちの犠牲となり、私たちの身代わりとなるという真理である。「《いと高き方》の永遠の御意志を明らかにするお方は、世の罪を取り除く神の《小羊》であられる」。

 私たちの主は常に、主また神として認められたし、今もそう認められている。全教会は実際に主を礼拝しており、無数の御使いたちはみな主への賛美を大声で叫んでいる。また、全被造物は主に従っている。天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてがそうである[ピリ2:10]。あなたが主を《王の王》、《主の主》と呼ぶとき、こうした称号はいかに崇高なものではあっても、主の栄光と威光にははるかに及ばない。たとい私たちがみな、数千万の全人類とともに立ち、声を1つにして主への賛美を叫んでも、また、いかにそれが大水の音のよう、激しい雷鳴のよう[黙14:2]であっても、私たちの最高の栄誉も主の栄光に満ちた御座の最下段にもまず達さないであろう。だが、その《神性》の栄光において、主はほふられた《小羊》として現われることを軽蔑なさらなかった。これは今なお主のえり抜きのご性格である。私はひとりの偉大な戦士について話を聞いたことがある。彼は、自分の最も名高い勝利を収めた記念日が来るたびに、その戦いを戦った際の上着を身につけるのだという。それは、いわば銃弾の跡で飾られているのである。私たちの主は今日、また、日に日に、なおも人間の肉をまとっておられる。それを着て主は私たちの敵どもに打ち勝たれたのである。そして、主は、いま死んだばかりのような姿をしておられる。死によって主は悪魔に打ち勝たれたからである。常に、また、永遠に、主は《小羊》であられる。神の預言者、また、啓示者として、主は《小羊》のままであられる。あなたは、ついに主にお目にかかったとき、ヨハネのように云うであろう。「私は、御座――そこには、四つの生き物がいる。――と、長老たちとの間に、ほふられたと見える小羊が立っているのを見た」、と。

 ならば、あなたの主の受難をあなたの心の書き板に書き記し、この大切な記憶を何物にも消されないようにするがいい。主のことは、なかんずく、まず第一に、罪のためのいけにえとして考えるがいい。贖罪をあなたの思いの真中に置き、それによってあなたのあらゆる考えと信条が色づけられ、染められるようにするがいい。あなたの代わりとして、代理として、あなたに成り代わって血を流し、死に給うイエスは、あなたにとって、あなたの天空の太陽でなくてはならない。

 II. 第二のこととして注意したいのは、《このご性格において、イエスは万物の中心であられる》ということである。「御座――そこには、四つの生き物がいる。――と、長老たちとの間に、ほふられたと見える小羊が立ってい……た」。《小羊》は天の交わりをなしている素晴らしい領域の中心である。主が1つの観点となって、万物はしかるべき位置で目される。いくつもの惑星群の1つであるこの地球からその惑星たちを見ると、それらの動きを理解するのは困難である。――それらは前進したり、後退したり、静止して見える。だが、太陽の中にいる御使いは、あらゆる惑星が規則通りに行進し、自分たちの系の中心の周りを回っているのを見ている。この地上のどこに立とうと、人間的な色々な意見の中にある限り、あなたは何もかも正しいとは見てとれず、理解もできないであろう。イエスのもとに来るとき初めて、あなたは万物を中心から見てとる。人間の罪のためにほふられた、受肉した神を知っている人は、真理の中心に立っている。今やその人は、神をそのしかるべき位置で、人をそのしかるべき位置で、御使いたちをそのしかるべき位置で、失われた魂たちをそのしかるべき位置で、救われた魂たちをそのしかるべき位置で見る。その方を知ることが永遠のいのちであるお方[ヨハ17:3]を知るならば、あなたは万物を正しく判断できる有利な位置にいる。このことがあのことに対して有する適正な関連と関係、また、あのことが次のことに対して、そして、順々につながっていく適正な関連と関係は、ただ、贖罪の犠牲としてのイエス・キリストを堅く、また、全く信じることによってのみ確実にされるのである。

   「神を人体(にく)にて 見ゆまでは
    われに慰め つゆもなし。
    聖く義しき 三つなる主
    恐怖(おそれ)満たさん わが想念(たま)を」。

   「されどインマヌエルの 御顔(かお)現(い)ずば
    希望(のぞみ)と喜悦(えみ)は 始まらん。
    御名は禁ぜり 奴隷(ぬ)の恐れ、
    恵み 赦せり わが罪を」。

キリストにあるあなたは、過去と現在と未来を理解する正しい位置にいる。永遠の深遠な奥義、また、主が隠されたことでさえ、ひとたびあなたがイエスとともにいるなら、みなあなたとともにあるのである。このことを考え、《小羊》をあなたの中心的な思いとするがいい。――あなたの魂の魂、あなたの心の最上のいのちの心臓とするがいい。

 《小羊》が真中におられることは、また、彼らがみなこの方において1つに集まることも意味している。私は慎重に語りたいが、あえて云おう。キリストはあらゆる存在の総和である、と。あなたは《神格》を求めているだろうか? そこにそれはある。人間性を求めているだろうか? そこにそれはある。霊的なものを求めているだろうか? 主の人間としての魂の中にそれはある。物質的なものを求めているだろうか? 主の人間としてのからだの中にそれはある。私たちの主は、いわば、万物の端部を寄せ集め、それらを一括りにしておられる。あなたは神がいかなるお方か思い描くことはできない。だがキリストは神であられる。物質主義は多くの人々によって魂の足手まといとも石臼ともみなされているが、その物質主義とともにあなたが飛び降りるとしても、イエスのうちにあなたは物質主義を見いだす。洗練され、高められたものとして、また、天来の性質に結び合わされたものとして見いだす。イエスの中で、あらゆる線は出会い、イエスからあらゆる存在点へと放射される。あなたは神に会いたいだろうか? キリストのもとへ行くがいい。あらゆる信仰者たちと交わりたいだろうか? キリストのもとへ行くがいい。神の造られたすべてに対して優しい心になりたいだろうか? キリストのもとへ行くがいい。というのも、「すべてのことが、主から発し、主によって成り、主に至るから」*[ロマ11:36]である。私たちの主は何たる主であろう! この《小羊》は何と栄光に富んだ存在であろう。というのも、《小羊》としてのみ、このことは真実だからである! 主をただ神としてみなすならば、そこに人との出会いなどというものはない。主を単に人としてのみみなすらば、そのとき、主は中心からはるか遠くに離れている。だが、主を神また人として、そして、神の《小羊》として見つめるがいい。そのとき、あなたは主のうちに、残りの一切の物を見てとるであろう。

 主が中心におられるため、あらゆる者は主を眺める。あなたには、主なる神がご自分の《ひとり子》をいかにご覧になるか考えられるだろうか? エホバがイエスをご覧になるとき、そこには全く描写を越えた歓喜が伴う。主は仰せになる。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」[マタ3:17; 17:5]。御子が通られた受難について、また、御子がエルサレムで成し遂げられた死について考えるとき、神の無限の心は、ご自分が《お喜びになるお方》に対して高く、強く流れ出す。神は、ご自分の御子のうちに、他のどこにも持たないような安らぎをお持ちになる。神はイエスを喜びとされる。実際、あまりにも主を喜びとされるがゆえに、主のゆえに主の民を喜びとされるほどである。御父の目が常にイエスに据えられているように、この生き物や二十四人の長老の目もイエスに据えられている。彼らは、その天来のいのちにおける教会と、その人間的ないのちにおける教会とを象徴している。主の血によって洗われたすべての者たちは、絶え間なく主の麗しさを思い巡らす。自分たちを人々の間から贖ってくださったお方の賞賛すべき人格とくらべものになるようなものが天にあるだろうか? また、すべての御使いもそちらに向いていて、主の尊厳な命令を待ち受けている。彼らはみな、主がご自分の民に仕えさせるためにお遣わしになる、仕える霊[ヘブ1:14]ではないだろうか? 自然界のすべての力は、イエスの召しを待ち受けている。摂理のあらゆる力は主を見つめ、そのご指示を待っている。主は、天の平原を通じて、あらゆる注意の焦点であり、あらゆる観察の中心である。覚えておくがいい。これは、「小羊」としてなのである。第一には、王としても預言者としてでもない。何よりも卓越して「小羊」としてイエスは、天上の栄光の国のあらゆる畏敬と、愛と、思想との中心であられる。

 さらにまた、中心におられる《小羊》について云わせてほしいのは、すべての者は近衛兵が王を取り巻くように、このお方の回りに結集しているように見受けられるということである。《小羊》のためにこそ、御父は行動される。御父はその御子に栄光をお与えになる。聖霊もまたキリストの栄光を現わされる[ヨハ16:14]。天来の目的はみなそのように働く。神の第一のみわざはイエスを多くの兄弟たちの中で長子とすることである[ロマ8:29]これは《創造主》が恵みの器たちを形作る際にお合わせになる模範である。神はイエスをアルファとしオメガとし、最初とし最後とされた。御父から出て定められたすべての事がらは、キリストをその中心として働く。そして、そのように贖われたすべての者たち、そして御使いたちのすべては主の回りに立って仕えながら、主のご栄光を膨れ上がらせ、主への賛美を現わしている。もしイエスをより高めることに貢献するような何かが天的な存在たちの思いに入ることがありえるとしたら、彼らの天国となるのは、それを実行に移すために宇宙中を疾駆することであろう。主は《王》としてその中心の天空に住まわれ、万軍の喜びは《王》が彼らの真中におられることである。

 愛する方々。そうではないだろうか? イエスは天の全家族の中心ではないだろうか? 主は私たちの《教会》生活の中心であるべきではないだろうか? 私たちは主を最も重んじているではないだろうか?――パウロや、アポロや、ケパや、私たちを分裂させるいかなる党指導者にもまして重んじているではないだろうか? キリストは中心である。この形式の教理でも、あの様式の儀式でもなく、《小羊》だけが中心である。私たちは常に主にあって喜び、細心の注意を払っているべきではないだろうか? いかにすれば自分たちが、主の栄光に富む御名をほめたたえることができるかを。主は 私たちの伝道牧会活動の中心であるべきではないだろうか? 私たちはキリスト以外の何を宣べ伝えるべきだろうか? 私からその主題を取り去ってしまえば、私はおしまいである。この長年の間、私はこの愛しい御名のほか何も説教してこなかった。そして、もしその誉れが汚されるとしたら、私の霊的な富はみな消え失せてしまう。私には飢えた者に対する何のパンもなく、息も絶え絶えな者に対する何の水もない。こうした歳月の後、私の弁舌は、愛しか響かせようとしなかったアナクレオン*1の立琴のようになってしまっている。彼はアトレウスとカドモスについて歌おうと願ったが、彼の立琴は愛しか響かせなかった。私の伝道牧会活動もそれと同じである。キリストを、キリストだけを語るとき、私は心安くしていられる。進歩的神学! 私の魂の琴線はそれに触れられても全く打ち震えない。新神学! 進化! 現代思想! 私の立琴はこうした見知らぬ指には沈黙する。だが、キリストには、キリストだけには、それに可能なあらゆる音楽で答えるのである。愛する方々。あなたもそれと同じだろうか? あなたの子どもたちを教えることにおいて、あなたの自宅での生活において、あなたのこの世の扱いおいて、イエスはあなたの目当てと労苦の中心だろうか? 主の愛はあなたの心を満たしているだろうか? あの古のナポレオン時代、ひとりの兵士が銃弾で負傷した。そこで医師がそれを摘出しようと深く探った。その男は叫んだ。「先生、注意してくれ! もう少し深くしたら皇帝陛下に触れるからな」。皇帝はその兵士の心の上にあったのである。まことに、もし人々が私たちのいのちの中を深く探るなら、彼らはキリストを見いだすであろう。メアリー女王はこう云った。わらわが死んだとき、人はカレーの名が自分の心に刻みつけられているのを見いだすであろう、と。というのも、彼女はこのフランスにおける最後の英国領地の喪失について嘆き悲しんでいたからである。私たちは、私たちのカレーを失ってはおらず、なおも私たちの宝をいだいている。というのも、キリストは私たちのものだからである。私たちはイエスの御名以外のいかなる名前も心に彫り込まれていない。まことに私たちはこう云える。

   「げに幸(さち)ならん、いまわの息にて
    よくあえぎえば 主の御名を。
    主を万人(みな)に告げ 死にて叫ばん、
    『見よや、見よ、かの 《小羊》を』と!」

 III. 第三に、天で私たちの主は、ほふられた《小羊》として見られており、《このご性格において、独特のしるしを外に現わしておられる》。こうしたしるしのいずれも、罪のためのいけにえとしての主の栄光を損なうことはなく、むしろ、私たちをそこへ導く助けとなる。

 この言葉によく注意するがいい。「ほふられたと見える小羊が立ってい……た」。「立っていた」。ここには、いのちのありさまがある。「ほふられたと見える」。ここには、死の記憶がある。イエスに対する私たちの見方は二重であるべきである。私たちは主の死と主のいのちを見るべきである。私たちは決して他のいかなるしかたでも、キリストのすべてを受け取ることはない。もしあなたが十字架上の主しか見ないとしたら、主の死の力を眺めはする。だが主は今は十字架の上におられない。よみがえっておられる。いつも生きていて、私たちのために、とりなしをしておられる[ヘブ7:25]。そして、私たちは主のいのちの力を知る必要がある。私たちは主を「ほふられたと見える」小羊として見るが、私たちはこの方を、「永遠に生きておられる」お方として礼拝する。この2つの事がらを1つのこととして携えているがいい。ほふられたキリストと、生きておられるキリストである。注意すると、教会内の感情と教えはこの2つの間で振り子のように揺れているが、その双方を包み込んでいりべきである。ローマカトリック教会は絶えず私たちに、母にいだかれた赤子のキリストを示す。あるいは、十字架の上の死せるキリストを示す。どこへ行こうと、こうした図像が私たちに突きつけられる。聖像礼拝の罪を別にしても、このように指し示されているのは、キリストのすべてではない。それとは逆に、私たちの回りにいる一部の学派は、十字架を視界から押しやろうと努め、ただ生けるキリストだけを――実際にキリストは生きておられるが――私たちに示す。彼らにとって、イエスは模範また教師でしかない。真の、また、相応しい償いの身代わりとしては、主を受け取ろうとしない。《しかし、私たちは違う》。私たちは、神の御座の上におられる《十字架につけられたお方》をあがめる。血を流し、訴えておられるお方としての主を信じる。ほふられた主を見て、統治される主を眺める。これらの双方が私たちの喜びである。そのどちらも他に優先せず、それぞれを、おのおの喜ぶ。このように、《小羊》を見るとき、あなたは歌い始めるのである。「あなたは生きておられます。死なれましたが、いつまでも生きておられるお方です」、と。私たちの《救い主》のこのしるしは死を通してのいのちであり、死によってほふられた死である。

 次に注意すべきは、《小羊》におけるもう1つの著しい組み合わせである。主は、「小さな小羊」と呼ばれている。というのも、ギリシヤ語では指小辞が用いられているからである。だがしかし、いかに主は大いなるお方であろう! 《小羊》としてのイエスのうちに、私たちは大きな優しさと、その御民とのこの上もない親しさを見てとる。主は恐怖の対象ではない。主には、「離れて立っていろ。私はお前などが近づけないほど聖い者だ」、といった風が全くない。だが、この小さな《小羊》は、この上もない威光を帯びている。長老たちは、このお方を見るや否や御前にひれ伏した[黙5:8]。彼らはこのお方をあがめ、大きな声で叫んだ。「小羊は……ふさわしい方です」[黙5:12]。あらゆる被造物はこの方を礼拝して云った。「小羊……に、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように」[黙5:13]。この方は、あまりに大きな方であるため、天の天もお入れすることはできない[I列8:27]。だが、きわめて小さな方となり、へりくだった心の中に住むようになられる。あまりに栄光に富んでおられるため、その御前では熾天使が自分たちの顔を隠すほどである。だが、きわめてへりくだりに富んでおられ、私たちの骨の骨、私たちの肉の肉となるほどである。何と素晴らしいあわれみと威光、恵みと栄光の組合せであろう! 神が合わせたものを引き離してはならない。一部の人々がするように、私たちの主イエス・キリストについて、不敬な、さも感動したような馴れ馴れしさで語ってはならない。だが、それと同時に、奴隷的な恐怖を感じなくてはならない、どこかの偉大な大君ででもあるかのように考えてはならない。イエスはあなたの最近親の者であり、苦しみを分け合うために生まれた兄弟[箴17:17]であられる。だがしかし、主はあなたの神であり主なのである。愛と畏怖とに、あなたの魂を見守らせるがいい!

 さらに、主の独特のしるしを眺めると、主には七つの角と七つの目があるのが分かる。主の力強さは、主がいかに目覚めておられるかに等しい。また、これらは、《摂理の巻き物》の七つの封印を解くことによってもたらされた、あらゆる緊急事態に等しい。疫病が突発するとき、誰が私たちを守れるだろうか? 七つの角を見るがいい。予期せぬことが起こるとき、誰が私たちにあらかじめ警告できるだろうか? 七つの目を見るがいい。

 時折、どこかの愚かな人々が、一二年のうちに起こるだろう様々な恐怖に満ちた小冊子を出版する。そのすべてには、二銭で買えるノーウッドの放浪民たちの《運命の書》並みの値打ちしかない。だがそれでも、たといこの予言好きどもが私たちに告げることすべてが真実だとしても、私たちは心配しない。というのも、《小羊》には七つの角があり、いかなる困難をもご自分の力で立ち向かい、ご自分の知恵ですでにそれを予見しておられるからである。《小羊》は摂理の不可解事に対する答えである。摂理は謎だが、イエスはそのすべてを解明なさる。最初の数世紀の間、神の《教会》は殉教の運命へと引き渡された。可能な限りあらゆる拷問と責め苦がキリストに従う者たちの上に行使された。こうしたすべてにおいて、神の意図はいかなるものでありえただろうか? 《小羊》の栄光以外の何だっただろうか? そして今、主は今日、ご自分の《教会》がありとあらゆる種類の過誤に陥るままにしておられるように見える。偽りの諸教理は、ある方面では恐ろしいばかりにのさばっている。これは何を意味しているだろうか? 私には分からない。だが、《小羊》は知っておられる。七つの目でご覧になるからである。《小羊》として、私たちの《救い主》として、神また人として、主はすべてを理解しており、あらゆる迷宮の鍵を御手に握っておられる。あらゆる困難に対処する力、あらゆる困惑を見通す知恵を有しておられる。私たちは自分の恐れを投げ捨て、全く礼拝へと没頭するべきである。

 《小羊》はまた、性質と摂理において完璧へと働かれる。というのも、この方とともにおられるのは、「全世界に遣わされた神の七つの御霊」だからである。これは、単に、選びの民のもとに遣わされている、御霊の救いに至らせる力というだけでなく、全地の上で働いている種々の権能と諸力を指している。引力、生命力、神秘的な電気の力、そうした類のものはみな、神の御力の形である。自然の法則とは、神が世界の中でお働きになる通常のしかたを私たちが観察したものにほかならない。法則そのものには何の力もない。法則は、神が行動なさる通常の方針でしかない。《神格》の全能性すべては《小羊》のうちに宿っている。この方は《全能の神》なる主であられる。私たちは贖罪を二義的な位置に置くことはできない。というのも、私たちの贖罪のいけにえは、神の七つの御霊を有しているからである。この方は、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになる[ヘブ7:25]。この方によって神に近づこうではないか。この方には、いかなるものであろうと未来を収拾する力がある。いかなる脅威を伴った危険が迫ろうとも、魂を動揺させることなく、この方の守りに身をゆだねようではないか。

 今朝の私が、あなたの前で主を明瞭に栄光あるお方として表わせるならば、どんなに良いことであろう。しかし私は全く失敗している。私の話は、一本の蝋燭を太陽にかざすようなものである。私は、私の主が私を吹き消されないことを感謝している。ことによると、私の蝋燭は、ある囚人に扉への道を示すかもしれない。その人は太陽の燦々たる輝きを見るであろう。これほど偉大で、これほど栄光に富みながら、それでも罪人たちのためにほふられた《小羊》なるお方に栄光があらんことを。その御傷は事実上、絶え間なく私たちのいのちのために血を流しており、その完成されたみわざは、私たちの安全と私たちの喜びとの不断の源泉となっているのである。

 IV. しめくくりに私の第四の点を語ろう。イエスは永遠に《小羊》として現われておられ、《このご性格において、あまねくあがめられている》

 主がこの封印の1つを解く前に、この礼拝は始まった。主が巻き物を受け取られたとき、四つの生き物と二十四人の長老は《小羊》の前にひれ伏し、新しい歌を歌って云った。「あなたは、巻き物を受け取るのにふさわしい方です」*[黙5:9]。その巻き物が閉じられているうちから、私たちは主を礼拝する。主の御跡を辿れないところでも主に信頼する。啓示する《仲保者》としてのみわざをお始めにならないうちから、《教会》は、いけにえとしてのみわざゆえに主をあがめる。私たちの主なるイエスが礼拝されるのは、お授けになるだろう種々の利益のためよりも、ご自身のためである。ほふられた《小羊》として、主は天における畏敬の的であられる。主がその二度目の《来臨》において、御父の栄光を帯びておいでになるとき、多くの者が主を崇敬することを私は疑わない。あらゆる膝は主の前で屈められるであろう。背教者や不信心者たちでさえ、主がその大権を帯びて王となられるのを見るときには、そうするであろう。だが、それは主がお受け入れになる礼拝ではなく、それをささげる者らが救われることを証明しもしない。あなたは犠牲としての主を礼拝し、その低い身分のご性格における主、「さげすまれ、人々からのけ者にされ」[イザ53:3]たお方としての主をあがめなくてはならない。他の者らが主を嘲っているときに主を崇敬し、他の者らが主の血を軽蔑して背を向けるときにそれに信頼し、そのようにして、その謙卑における主とともにいなくてはならない。主をあなたの身代わりとして受け入れ、あなたのための贖罪を成し遂げてくださったお方として信頼するがいい。というのも、天において、彼らはなおも主を《小羊》として礼拝しているからである。

 その崇拝は、神の教会から始まっている。神の教会は、そのあらゆる段階において、《小羊》を崇拝する。もしあなたが神の教会を天来の被造物、神の御霊の化身として眺めるならば、この生き物たちは《小羊》の前にひれ伏している。神から生まれた生命のうち、何者も神の《小羊》への敬礼を拒めるほど高貴ではない。人間的な側から教会を見るがいい。二十四人の長老たちがひれ伏して、礼拝し、おのおのが立琴と鉢を持っている姿が見えるであろう。贖われた人々の全集団は、《仲保者》を礼拝して当然である。このお方において、私たちの人間性は大いに高く上げられたからである! 私たちの性質が、これほど高められたことが一度でもあっただろうか? キリストは一切のものの上に立つかしらとして、ご自分の教会に与えられているのである![エペ1:22] いま私たちは最も神に近くある。というのも、人と神との間には何の被造物も介在していないからである。インマヌエル――私たちとともにおられる神――が私たちを1つに結び合わせてくださった。人は《神性》に次ぐ者である。イエスだけが間におり、分かつのではなく、結んでおられる。キリスト・イエスにおいて主は私たちに、ご自分の御手のわざすべての上に立つ支配権を与えてくださった。万物を私たちの足の下に置いてくださった。すべて、羊も牛も、また、空の鳥、海の魚、海路を通うものも。私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう![詩8:6-9]

 主は教会によって、あらゆる形の礼拝において崇拝されている。彼らは祈りによって主を礼拝する。というのも、こうした香の一杯はいった鉢は聖徒たちの祈りだからである[黙5:8]。彼らは新しい歌で、また最も低くへりくだった畏敬の姿勢で主を礼拝している。

 しかし、愛する方々。《小羊》は単に教会によって礼拝されるだけではない。御使いたちによっても礼拝されている。この章で私たちが前にしている、主の万軍の軍隊のいくつかは、何と素晴らしい集団であろう! 「万の幾万倍、千の幾千倍」[黙5:11]。彼らの集まりは、人間の算術では数え切れない。完璧な一致をもって、彼らは神聖な礼拝に心を合わせ、ともに叫んでいる。「ほふられた小羊は……ふさわしい方です」[黙5:12]。

 否。単に教会と御使いたちだけではない。全被造世界が、東でも、西でも、北でも、南でも、いかに高いところでも、いかに低い所でも、みな主をあがめている[黙5:13]。あらゆる生命、あらゆる空間、あらゆる時間、広漠、永遠、これらすべてが1つの口となって歌っている。みなが歌っている。「《小羊》はふさわしい方です」、と。

 さて、では、愛する方々。もしそうだとしたら、私たちは、私たちの前にいる誰かが、私たちのいけにえなるキリストの尊厳を低めるのを許すようなことがあって良いだろうか? [「否」。]ひとりの友が力強く、否、と云っている。そして私たちは、否、と云わなくてはならない。雷鳴の声をもってするように、私たちは云う。――否とよ。《小羊》の思考の栄光を低めようとするいかなる試みに対してもそうである。それだけでなく、いかなる人も進んで自分のすべてを失おうとはしないであろう。《小羊》が取り去られれば、すべてが取り去られるのである。「私の財布を盗む奴は、ほんの些屑物(つまらぬもの)を盗むのです」*2。私のキリストを盗む者は、私自身を盗み、私自身以上のものを盗む。――私の未来の喜びたる私の希望を盗む。主の死が拒絶され、主の血が蔑まれるとき、生命は失われる。この死活に関わる真理が襲撃されるとき、私たちの魂は憤りに燃える。

   「立てよ! いざ立て、イエスのため!
    汝ら十字架の 兵士らよ!
    主の御旗をば 上(え)に掲(あ)げよ、
    そは敗北(まく)ること つゆもなし!」

あなたがどこにいようと、いかなる教会に属していようと、贖罪を公然とけなすような者らを友としてはならない。その尊い血の名誉を、息づかい1つによってさえ、傷つけるような者らと連合してはならない。《小羊》を襲撃する者を我慢してはならない。その汚らわしい嘘に激怒するがいい! この場合、あなたが《小羊》の怒りを真似ることに危険はない。あなたは怒っても、罪を犯さないであろう。

 もう一言云う。もしそうだとしたら、もし私たちの主イエス・キリストの栄光に富む犠牲がそれほど天で重んじられているとしたら、あなたはこの下界でそれに信頼できないだろうか? おゝ、あなたがた、罪の重荷を負っている人たち。ここにあなたの解放がある。罪を負われる《小羊》のもとに来るがいい。あなたがた、疑いに悩まされている人たち。ここにあなたの導きがある。《小羊》はこの封印された巻き物をあなたのために開くことがおできになる。あなたがた、自分の慰めを失ってしまった人たち。あなたのためにほふられた《小羊》のもとに戻って来て、あなたの信頼を新たにこの方に置くがいい。あなたがた、天の食物に飢えている人たち。《小羊》のもとに来るがいい。というのも、この方があなたを養ってくださるからである。《小羊》、《小羊》、血を流し給う《小羊》。これを、神の《教会》の軍旗の上のしるしとするがいい。その旗を前面に押し立てて、勝利を目指して大胆に行進するがいい。そして、そのとき、おゝ、世の罪を取り除く神の《小羊》よ。私たちにあなたの平安を与え給え! アーメン。

 


*1 アナクレオン(572?-?488 B.C.)。イオニア出身のギリシアの抒情詩人。酒と恋を詠んだ。[本文に戻る]

*2 シェイクスピア、『オセロー』、第三幕第三場。[本文に戻る]

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栄光のうちにある《小羊》[了]

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