HOME | TOP | 目次

キリストの病院

NO. 2260

----

----

1892年6月12日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1890年3月9日、主日夜


「主は心の打ち砕かれた者をいやし彼らの傷を包む」。――詩147:3


 私たちは、いかにしばしばこの詩篇を読んできたとしても、この節とその前後関係、特に、すぐ後に続く節との関係に、心打たれないではいられない。この2つの節を一緒に読んでみるがいい。「主は心の打ち砕かれた者をいやし彼らの傷を包む。主は星の数を数え、そのすべてに名をつける」。何たるへりくだりと壮麗さであろう! 何たる憐れみと全能であろう! 彼方の重々しい天体の数々を、ほとんど無数の軌道に引き出すお方は、それにもかかわらず、人々の魂の《医者》であり、打ち砕かれた心の上にかがみ込み、ご自分の優しい指先で、そのぱっくり開いた傷口を閉じては、愛の塗布剤で包んでくださるのである。このことを考えてみるがいい。そして、たとい私が自分に願えるほど巧みには、この、神のへりくだりという驚嘆すべき主題について語れなくても、あなた自身の思いによって私を助け、このお方への畏敬を表させてほしい。星々の《造り主》であると同時に、打ち砕かれた心、傷ついた霊の《医者》であられるお方への畏敬を。

 私がそれと同じくらい興味を引かれるのは、本日の聖句と直前の節との関係である。「主はエルサレムを建てイスラエルの追い散らされた者を集める」。神の教会が、いかなる時にもまして堅固に建てられるのは、それが心の打ち砕かれた人々によって建てられる時である。最近私は、ひそかに幾度となく神に祈っている。神が私たちの中から、深い経験を有する人々を集めてくださるように。罪の咎を知り、打ち砕かれ、自らの無能力と無価値さを感ずるあまり粉微塵にすりつぶされている人々を集めてくださるように、と。というのも、私の確信するところ、罪を深く経験することなしに、恵みの教理を大いに信ずるということ、また、《救い主》の御名を熱烈に賛美するということはめったにないからである。教会は、引き倒された人々によって建て上げられる必要がある。私たちは、自分が救い主を必要としていることを心から悟らない限り、決して《救い主》を宣べ伝える上で大して価値ある働きは行なえない。全く回心していない説教者が、回心について何を云えるだろうか? また、一度も地下牢に入ったことのない者、一度も深淵にいたことのない者、一度も神の御前から放逐されたかのように感じたことのない者が、いかにして追放され、絶望の枷に縛られた多くの人々を慰められるだろうか? 願わくは主が多くの心を打ち砕き、その後で包んでくださるように! そして彼らによって、教会を建て上げ、その中に住んでくださるように!

 しかし、いま私は、前後関係から離れて、この聖句そのものに目を向け、これについて語っていこう。望むらくは、聖霊なる神がそれを通じて語ってくださり、この場にいるすべての悩む人々が、そこから慰めを引き出せるようになるように。第一に考察すべきことは、患者たちとその病である。「主は心の打ち砕かれた者をいやし」。次に考察すべきことは、《医者》とその薬であり、しばらくの間あなたの目を、この癒しのわざを行なうお方に向けるがいい。続いて考察してほしいのは、この節の中に記されている、この偉大な《医者》に対する推薦状である。「主は心の打ち砕かれた者をいやし彼らの傷を包む」。最後に、そして最も実際的に考察すべきことは、この、心の打ち砕かれた者を癒すお方に対して、私たちが何をすべきかということである。

 まず第一に考察すべきことは、《患者たちとその病》である。彼らは心が打ち砕かれていた。私は、心が張り裂けたために死んだという多くの人々について聞いたことがある。だが、ある人々は打ち砕かれた心をかかえて生きており、心を打ち砕かれたことによって、ますます良い生き方をしている。彼らは、そのほむべき打撃が心を粉々に粉砕する以前とは異なる、ずっと気高い生き方を送っているのである。

 打ち砕かれた心には多くの種類があるが、キリストはそのすべてを癒すことに長じておられる。私は、本日の聖句の適用を切り詰めたり、狭めたりしたいとは思わない。この偉大な《医者》の患者たちとは、悲しみによって心を打ち砕かれた人々である。心は失望によって打ち砕かれる。死別によって打ち砕かれる。一万ものしかたによって打ち砕かれる。これは心を打ち砕く世界だからである。そしてキリストは、あらゆる種類の悲嘆を癒すことに長じておられる。私はこの場にいるあらゆる人を励ましたい。たとい、その人の悲痛が霊的な種類のものでないとしても、心の砕かれた者を癒されたこのお方に願い求めてみてほしい。この聖句は、「霊的に心の打ち砕かれた者」とは云っていない。それゆえ私は、この箇所にありもしない形容詞を挿入しはすまい。ここに来るがいい。あなたがた、悩みをかかえている人たち。すべて疲れた人、重荷を負っている人たち。ここに来るがいい。すべて悲しんでいる人たち。あなたの悲しみがいかなるものであっても関係ない。ここに来るがいい。すべて心の打ち砕かれている人たち。その悲嘆がいかなるものであっても関係ない。主は心の打ち砕かれた者を癒されるからである。

 それでも、ある特別なしかたで打ち砕かれた心には、キリストは真っ先に、細心の注意を払われる。主は、罪ゆえに心の砕かれた人々を癒される。キリストが癒される心は、自分の罪のために打ち砕かれている。そして悲しみ、嘆き、悼んでは、こう云っている。「あゝ、このはなはだ大きな悪を行なってしまった私、自らに破滅をもたらしてしまった私は! あゝ、神の栄誉を汚し、自らを神の御前から放逐してしまった私は! 私は自分を、神の永遠の御怒りを受けて当然の者としてしまった。今しも神の御怒りは私の上にとどまっている!」 もしこの場に、自分の過去の人生について心が打ち砕かれている人がいるとしたら、その人こそ本日の聖句が言及している人である。あなたは、自分が四十年、五十年、六十年を無駄に費やしてしまったがために、心打ち砕かれているだろうか? 自分を祝福してこられた神を呪ってしまったこと、また、その方なしでは自分が決して存在していられなかっただろうお方の存在を否定してしまったこと、自分の家族を敬虔さについても《いと高き神》への敬意についても全く訓練しないまま、長々と生きてきたことを思い出して、心打ち砕かれているだろうか? 主はこのことをあなたの心に痛感させておられるだろうか? キリストに対して盲目であり、その愛を拒否し、その血を拒絶し、自分の最高の《友》の敵として生きることが、いかに厭わしいことであるかを、あなたに感じさせておられるだろうか? あなたはそう感じているだろうか? おゝ、愛する方々。この手を桟敷席まで差し出すことはできない。だが、私がそうしていると思ってくれないだろうか? 私はそうしたいと願っているからである。もしこの場に罪ゆえに打ち砕かれている心があるとしたら、私はそのことのため神に感謝し、このような聖句があることで主を賛美する。「主は心の打ち砕かれた者をいやし」。

 どこか近くに心の打ち砕かれた人がいると、人々はその人を蔑む。「おゝ」、と彼らは云う。「あれは陰気な奴、狂った奴、宗教にかぶれて頭のおかしくなった奴だよ!」、と。しかり。人々は心の打ち砕かれた者を蔑む。だが、そのような者を、おゝ、神よ。あなたは蔑まれません![詩51:17] 主はそのような者を探し、彼らを癒される。

 彼らを蔑まない人々も、いずれにせよ、彼らを避ける。私の知っている何人かの人々は、長いこと心が打ち砕かれたままであり、私もいささか物憂く感じるときには、必ずしも彼らがいる所には足を向けないと告白しなくてはならない。彼らは、私を一段と意気阻喪させがちだからである。だが私は、自分が彼らを助けることができると感じたなら、彼らのいる所をよけはしないであろう。それでも、人情からして、人々は朗らかで幸いな人を求め、心の打ち砕かれた人を避けるものである。神はそうなさらない。心の打ち砕かれた者を癒される。彼らのいる所に行かれ、ご自分を彼らに対して《慰め主》また《癒し主》として現わされる。

 非常に多くの場合、人々は心の打ち砕かれた者たちのことを絶望する。「もうお手上げだ」、とある人は云うであろう。「あの人をさんざん慰めようとしてきたが、できない相談だったよ」。「いくら言葉をかけても無駄だった」、と別の人は云うであろう。「私には、これこれの人を助けられない。彼が暗闇の中から出てくる望みは絶望的だよ」。神はそうではない。神は心の打ち砕かれた者を癒される。神はいかなる者についても絶望されない。神はご自分の御力の大きさ、またご自分の知恵の驚異を示すために、人々を、絶望によって閉じ込められていた地下牢のどん底から引き出される。

 心の打ち砕かれた人々自身について云えば、彼らは、自分が回心することがありえるとは考えていない。彼らの中のある人々は、決して回心することなどありえないと確信している。彼らは死にたいと思う。私には、それでどんな得があるのか見当もつかないが関係ない。彼らの中の他の人々は、自分など生まれてこなければ良かったのだと思う。今となっては役に立たない望みだが関係ない。ある人々は、何か新しいものがあると駆け出して行き、少しでも慰めが見いだせないか試そうとする。一方、他の人々は、どんどん悪くなっていき、陰鬱な絶望の中で座り込んでいる。私は、こうした人々が誰か知りたいと思う。彼らのもとに行き、ただこう云いたいと思う。「さあ、兄弟。今晩は何の疑いも、何の絶望もあってはなりません。というのも、本日の聖句は輝かしいほどに完全であり、あなたのためのものだからです。『主は心の打ち砕かれた者をいやし彼らの傷を包む』」。第5節に注意するがいい。「われらの主は偉大であり、力に富み、その英知は測りがたい」。従って、主は心の打ち砕かれた者を癒すことができる。神は、必死の努力を要する重量挙げにおいて燦然たる光輝を現わされる。ある魂が身動きすることも、自らを助けることもできないとき、神はその全能とともにやって来て、その重い荷を持ち上げ、のしかかられていた者を自由にすることを喜ばれる。

 心の打ち砕かれた者を慰めるには非常な知恵が必要である。もしあなたがたの中の誰かがそれを試みたことがあったとしたら、確かに、それが容易なわざでないと分かったはずである。私は、自分の人生の大きな部分をこのわざにささげてきた。そして、意気阻喪した者のもとから立ち去るときには、心の打ち砕かれた者、打ちひしがれた者を慰める能力に自分がいかに欠けているかを痛切に感じるのが常であった。ただ神だけがそれを行なうことがおできになる。神の御名はほむべきかな。神は、《聖三位一体》の1つの《位格》が、この《慰め主》の職務を引き受ける手筈を整えてくださった。というのも、その義務を果たすことは、いかなる人間にも決してできないからである。心の打ち砕かれた者の《慰め主》になろうとするのは、《救い主》になろうと望むのと変わらない。手際よく、完全に救うこと、あるいは、慰めることは、天来のみわざでなくてはならない。だからこそ《聖なる天来の御霊》が心の打ち砕かれたものを癒し、その傷を無限の力と、過つことない腕の冴えで包まれるのである。

 さて第二に私たちが考察したいのは、《医者とその薬》である。「主は心の打ち砕かれた者をいやし彼らの傷を包む」。心の打ち砕かれた者を癒すこの方はどなただろうか?

 答えよう。このわざのためには、イエスこそ神から油を注がれたお方である。主は云われた。「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。心の傷ついた者をいやすために」[ルカ4:18 <英欽定訳>]。聖霊は無駄にキリストに与えられたのだろうか? そのようなことはありえない。御霊が与えられた目的は果たされるに違いない。そして、その目的とは、心の傷ついた者を癒すことなのである。聖霊によってキリストが油注がれたこと自体によって、あなたは確信して良いであろう。私たちの《医者》は心の打ち砕かれた者を癒してくださる、と。

 さらに、イエスは、そのみわざを行なう目的のために神から遣わされた。「主はわたしを遣わされた。心の傷ついた者をいやすために」。もしキリストが心の傷ついた者を癒さないとしたら、ご自分が天から来られた使命を果たさないことになるであろう。もし心の傷ついた者がキリストの栄光に富む生涯と、その死から流れ出る数々の祝福によって元気づけられないとしたら、キリストが地上に来られたことはむなしくなるであろう。心の打ち砕かれた者を癒すこと、それは、栄光の主が御父のふところを離れ、人間の土くれで覆われることによって果たそうとされた任務そのものなのである。それゆえ、主はそれを行なわれるであろう。

 私たちの主はまた、このわざのために教育を受けられた。主は単に油を注がれ、遣わされただけではない。そのために訓練をお受けになった。「どのようにしてです?」、とあなたは云うであろう。何と、主はご自身が心の打ち砕かれた者となられた。そして、慰め手という職務にとって何にもまさる教育は、自分自身が慰めを必要とする場にあって、自ら神によって慰められた慰めをもって他の人々を慰めることができるようになることにほかならない。あなたの心は打ち砕かれているだろうか? キリストの心も打ち砕かれたのである。主は云われた。「そしりが私の心を打ち砕き、私は、ひどく病んでいます」[詩69:20]。主は、あなたがこれまで下ったいかなる底までも行かれたし、あなたが行くことのありえるきわみをも越えて深く沈まれた。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」[マタ27:46]、が主の痛烈な叫びであった。もしもあなたが苦悶の中からそう口にしたとしたら、主はそれをご自身の苦しみによって解釈することがおできになる。あなたの悲嘆をご自分の悲嘆によって測ることがおできになる。打ち砕かれた心よ。あなたが得られる癒しは、ご自分でも心を打ち砕かれたお方を通してもたらされるものにほかならない。あなたがた、悲しみに沈んだ人たち。主のもとに来るがいい! 主はあなたの心を幸せにし、喜ばせることがおできになる。主ご自身が悲まれ、主ご自身も心を打ち砕かれたという事実によって、そうおできになる。「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しまれた」*[イザ63:9]。「すべての点で、私たちと同じように、試みに会われた」[ヘブ4:15]。「悲しみの人で病を知っていた」[イザ53:4]。打ち砕かれた心にとって、主のような医者はどこにもいない。

 さらにまた、私が、打ち砕かれた心の《癒し主》として私たちの主イエスを強く推めるのは、主がそのわざに熟達しているからである。ある人々は、医師が自分たちを実験台にするのではないかと恐れる。だが、私たちの《医者》は、これまで何度となく行なってきたことを、私たちに対して行なわれるにすぎない。主にとって、それは実験することではなく、経験してきたことである。もしあなたが今晩、私の偉大な《医師》の玄関を叩くとしたら、あなたはこの方にこう云うかもしれない。「私の主よ。ここに参りましたのは、あなたのもとに来た中でも、最も異様な患者です」。主はあなたを眺めて微笑み、こう仰せになるであろう。「わたしは、お前のような者を何百人も救ってきたよ」。そこへひとりの人が来て、こう云う。「先の人の症状など、私にくらべれば何でもありません。私はこれまで生きていた罪人の中でもほとんど最悪の者です」。すると主イエスはこう仰せになるであろう。「しかり。わたしは、はるか昔に生きていた最悪の者を救ったし、そうした者を救い続けよう。喜んでわたしはそうしよう」。しかし、そこへやって来る者は、打ち砕かれた心の、常ならぬ状態をしている。それは、思い惑い、苛立った様子の人である。しかり。だが私たちの主は、「無知な迷っている人々を思いやることができる」[ヘブ5:2]。主はこの思い惑った者をつかむことがおできになる。主は常に、迷っている罪人たちを救ってこられたからである。私たちの主は、ほとんど千九百年もの間、数々の打ち砕かれた心を癒してこられた。あなたは、ロンドンのどこかに、それだけの年齢をした医者の表札を見つけられるだろうか? 主はそれよりも長くその働きをしてこられた。というのも、主がこの仕事に就いたのは、六千年ほども前のことであり、それ以来ずっと心の打ち砕かれた者を癒してこられたからである。

 私は、このお方について、確かな筋から出た1つのことをあなたに知らせよう。それは、主が一度として治療に失敗したことはない、ということである。打ち砕かれた心をかかえて主のもとに来た者のうち、主が癒さなかった者はひとりとしていない。主は、決して誰にもこう云ったことはない。「あなたは重症すぎて、わたしには治せません」、と。むしろ、主はこう云われた。「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」[ヨハ6:37]。話をお聞きの愛する方々。主はあなたを捨てはしないであろう。あなたは云う。「それは私のことをご存知ないのです。スポルジョン先生」。しかり、私はあなたのことを知らない。そして、あなたは今晩ここへ来た。また、あなたは自分がなぜここへ来たのかほとんど分からない。ただ、あなたは非常に沈鬱で、非常に悲しい気分がしているというだけである。主イエス・キリストは、あなたのような者を愛しておられる。あなたがた、あわれな、意気阻喪した、疑いに満ちた、わびしく、やるせない人たち。悲しみの娘たち、嘆きの息子たち。ここを見るがいい! イエス・キリストは何千年もの間、打ち砕かれた心を癒し続けておられ、この仕事に精通しておられるのである。主は教育によってばかりでなく、経験によって、それを理解しておられる。主は「救うに力強い」[イザ63:1]。主を考えるがいい。主を考えるがいい。そして、願わくは主があなたに、今すぐ主のもとに行き、主により頼む恵みを授けてくださるように!

 このように私はあなたに、この、打ち砕かれた心の《医者》について語ってきた。これからあなたに、何がこの方の主たる薬かを告げても良いだろうか? それは、この方ご自身の肉と血である。このような治療薬は他にない。罪人が罪のため出血しているとき、イエスはご自分の血をその傷に注いでくださる。また、その傷の治りが遅いとき、主はご自分のいけにえでそれを包んでくださる。打ち砕かれた心への癒しは贖罪からやって来る。代償による贖罪、私たちの代わりに苦しみ給うキリストからやって来る。主は、ご自分を信じるあらゆる人に代わって苦しまれた。そして、主を信じる者は罪に定められず、罪に定められることが決してありえない。というのも、その人が受けるべき断罪はキリストの上に置かれたからである。その人はあわれみの御座の前でと同様、正義の法廷の前でも潔白である。私は、主がその尊い軟膏を私の傷ついた霊に塗ってくださった時のことを覚えている。それまでは何も私を癒さなかった。私が癒されたのはただ、主が私の代理として、私になり代わって死なれたこと、私が死ななくともすむように死なれたことを理解したときであった。そして今、私の心は、主が「自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われ」[Iペテ2:24]たことを信じていないとしたら、血を流して死んでしまうであろう。「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」[イザ53:4]。そして、この贖罪のいけにえ以外のいかなる薬をもってしても、私たちは癒されない。これは、素晴らしい万能薬である。聖霊がそれをご自分の天来の御力によって塗り、今にも死にそうだった心にいのちと愛を流れ込ませてくださるとき、そうである。

 手持ちの時間はあまりに早く過ぎ去りつつある。それで、第三にあなたに考察してほしいのは、本日の聖句の中で、目もあやに描かれている、《この偉大な医者の推薦状》である。聖霊なる神こそ、そのしもべダビデの口によって、この会衆に対して今晩こう証言しているお方である。主イエスは心の打ち砕かれた者を癒し、その傷を包んでくださる、と。もし私がそう云ったとしたら、それは、あなたがそう云ったとして私がそれを信ずる必要があるのと同じ程度にしか、信じる必要はない。たとい私たちが真実な者であるとしても、ある人の言葉は別の人の言葉と同じ程度のものでしかない。だが、この言明は霊感された詩篇の中に見いだされるのである。私はそれを信じる。それを疑うことなどできない。私はその真実さを証明したからである。

 私の理解するところ、本日の聖句はこういう意味である。主はそれを有効に行なわれる先週の木曜の晩に云ったように、打ちひしがれている人や、意気阻喪している人が二十哩以内にいる場合、その人が私を見つけ出すことは確実である。私は時々、「類は友を呼ぶものだ」、と笑うことがある。だが、彼らは私のもとにやって来ては自分たちの意気阻喪した心について語る。時には、彼らをその悲しみから抜け出させようと試みる中で、私の方が半ば意気阻喪してしまうこともある。ごく最近、そうした非常に悲痛な事例を何件か扱った。そして、残念ながら、彼らが私の部屋を出ていったとき、彼らは私について、「彼は心の打ち砕かれた者をいやした」、とは云えなかったのではないかと思う。だが彼らがこう云えたことは確かである。「彼は自分の最善を尽くた。考えつく限りのすべてのえり抜きの議論をことごとく持ち出しては、私を慰めようとしてくれた」。そして彼らは非常な感謝を感じた。時には、自分たちが少しは励ましを受けたことで神を感謝しながら帰っていった。だが、彼らの中のある人々は、頻繁に訪れて来る。そして私は彼らを励まそうと、合わせて何箇月も試みてきた。しかし、私の《主人》がそのわざをお引き受けになるとき、「主は心の打ち砕かれた者をいやし」てくださる。単にそうしようと試みるだけでなく、そうしてくださる。主はその悲しみの隠れた源泉に触れて、その嘆きの泉を取り去られる。私たちは最善を尽くすが、そうすることができない。知っての通り、心を扱うのは非常に困難である。人間の心を治すには、人間の技術以上のものが必要である。ある人が死ぬとき、そして、何の病だったか分からないとき、医師たちは云う。「心疾患だったんですな」。彼らには、その人の疾病が理解できなかった。これは、そういう意味である。ただひとりの《医者》しか、心を癒すことはできない。だが、そのほむべき御名に栄光あれ。「主は心の打ち砕かれた者をいやし」、それを有効に行なわれる。

 本日の聖句を読むとき、私はそれがこう意味していると理解する。主はそれを絶えず行なわれる。「主は心の打ち砕かれた者をいやし」。単に、「主は彼らを何年も前にいやされた」、ではない。それを今も行なっておられる。「主は心の打ち砕かれた者をいやし彼らの傷を包む」。何と、今この瞬間に? 七時五十分に? しかり。主はこのわざをいま行なっておられる。「主は心の打ち砕かれた者をいやし」。そして、この礼拝が終わり、会衆が去ったとき、そのときイエスは何をしておられるだろうか? おゝ、主はなおも心の打ち砕かれた者を癒しておられる! かりにこの1890年という年が尽き果て、主が審きに来なかったとして、そのとき主は何をしておられるだろうか? 主はなおも心の打ち砕かれた者を癒しておられるであろう。主は、その軟膏を使い切ってはおられない。その忍耐を空にしてはおられない。その御力をこれっぽっちも減じさせてはおられない。主はなおも癒される。「おゝ、何てことだ」、とある人は云うであろう。「もし私が一年前にキリストのもとに来ていたとしたら、私にとって良かったであろうに」。だが、もしあなたが今晩キリストのともに行くとしたら、それはあなたにとって良いことであろう。というのも、「主は心の打ち砕かれた者をいやし」てくださるからである。私は誰が、「恵みの日から離れる罪を犯す」という考えを発明したのか知らない。もしあなたがキリストを自分のものにしたいと願うならば、自分のものにして良い。たといあなたがメトシェラのように年老いていようと、――そして、あなたがそれより年老いているとは私は思わないが、――もしあなたがキリストを欲しているとしたら、あなたはキリストを自分のものとして良い。あなたが地獄の外にいる限り、キリストはあなたを救うことがおできになる。主はご自分の古のわざを行ない続けておられる。あなたは、五十歳を越えているからといって、もはや賽は投げられたと云う。八十歳を越えているからといって、「私は今では救われるには年寄りすぎる」、と云う。馬鹿くさい! 主は癒される。主は癒される。主はなおもそうしておられる。「主は心の打ち砕かれた者をいやし」てくださる。

 私はさらに進んでこう云おう。主はそれを必ず行なわれる。私はあなたに、主がそれを有効に、また、絶えず行なわれると示してきた。だが、主はそれを必ず行なわれる。主のもとに連れて来られた打ち砕かれた心のうち、主が癒されなかったものは1つもない。心の打ち砕かれた患者たちのうち何人かは、私の《主人》が失敗した後、裏口から出て行くだろうか? 否。ひとりとしてそのような者はいない。主が癒せなかった者は、これまでひとりもいない。医師たちはわが国の病院で、時にはある人々について匙を投げ、彼らは治らない、と云わなくてはならないことがある。ある特定の症候群によって、彼らが不治であることが証明されたのである。しかし、絶望している人たち。キリストが《医者》を勤める天来の病院では、その患者となった者のうち不治だとして追い払われた者はひとりもあった試しがない。主は完全に救うことがおできになる。あなたは、この言葉――「完全に」――がどれほどのものか分かっているだろうか? 「完全」を越えるものはない。なぜなら、完全は他のあらゆるものを越えて、それを完全にしているからである。「キリストは……ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります」[ヘブ7:25]。「完全」を要する人たち。あなたはどこにいるだろうか? 今晩あなたはここにいるだろうか? 「あゝ!」、とあなたは云う。「私はもう地獄にいるのではないかと思うのですが」。よろしい。私もそうではないかと思う。だが、そうではないし、もしあなたがキリストに身をゆだねるなら、決してそうはならない。主が行なわれた全き贖罪により頼むがいい。というのも、主は常に、失敗することなく癒されるからである。「主は心の打ち砕かれた者をいやし彼らの傷を包む」。

 この言葉を読んでいるうちに、ふと思いついたのは、主はそれを行なうのを大いに喜んでおられるということである。主は、聖霊によって詩篇作者にこう仰せになった。「ハレルヤで始まり、ハレルヤで終わる詩篇を書くがいい。そして、その詩篇の真中にこのことを書き記すがいい。そのことゆえに、わたしが賛美されるのを喜ぶことの1つ、すなわち、わたしが心の打ち砕かれた者を癒すということを」、と。異教徒たちの神々のうち、このことゆえに賛美されたものは1つもない。あなたは読んだことがあるだろうか? ユーピテルや、ウェヌスや、他の神々のいずれかに対して、彼らが心の打ち砕かれた者を包むがゆえにほめたたえられるべきだという歌がささげられているのを。イスラエルの神エホバ、アブラハム、イサク、ヤコブの神、私たちの主なる《救い主》イエス・キリストの神であり御父であられるお方こそ、ご自分が心の打ち砕かれた者を包むことを誇りとする唯一の神である。さあ、あなたがた、暗黒に沈む大罪人たち。さあ、あなたがた、ならず者たち。さあ、あなたがた、罪において測り知れないきわみに達してしまった人たち。あなたは他の誰よりも神の栄光を現わすことができる。神があなたさえ救うことができると信ずることによって! 神はあなたを救うことも、子どもたちの間に置くこともおできになる。神は、ご自分から最も遠いと思われる者たちを救うことをお喜びになる。

 次が私の最後の点である。《私たちが何をすべきか》を考察するがいい。

 もしこのような《医者》がおられ、私たちに打ち砕かれた心があるとしたら、云うまでもなく、まず最初に、私たちはこの方の助けを求めるべきである。人々は、あなたは不治の病にかかっていますとか、すぐにあなたを墓場に至らせる疾患を得ていますと告げられると、非常に苦悩する。だがもし、どこかに行けば結局その病は治されるのだと聞いたとしたら、彼らは云うであろう。「どこへ? どこへ?」、と。よろしい。ことによると、それは何千哩も遠方かもしれない。だが、彼らは行けるものなら喜んで行く。あるいは、その薬は非常に不快なものか、非常に高価なものかもしれない。だが、もし自分たちが治ると知れば、彼らは、「いただきますとも」、と云う。もし誰かが彼らの玄関の所にやって来て、こう云うとしたらどうであろう。「さあ、これがそれです。これであなたは癒されるでしょう。それに、無料で、あなたの好きなだけお取りになって良いのです」。その薬の量は、みるみる減っていくであろう。病んでいる人が見いだされる限りそうであろう。さて、もしあなたが今晩、打ち砕かれた心をしているとしたら、あなたはキリストを自分のものとして喜ぶことであろう。かつては私も、打ち砕かれた心をしていた。そして、私が主のもとに行くと、主は私を一瞬にして癒し、私を喜び歌わせてくださった! 青年男女の方々。私は主から癒されたとき十五、六だった。私は今のあなたが――まだあなたが若いうちに――主のもとに行ってほしいと思う。主の患者の年齢は問題ではない。あなたは十五よりも年下だろうか? 少年少女でさえ打ち砕かれた心になることはありえる。また、老年の男女も打ち砕かれた心になることはありえる。だが、彼らはイエスのもとに行き、癒されることができるのである。今晩、主のもとに行き、癒されることを求めるがいい。

 あなたがキリストのもとに行こうとするとき、もしかするとあなたは、「どのようにして主のもとに行けば良いのでしょう?」、と問うかもしれない。祈りによって行くがいい。先日ある人が私にこう云った。「先生。私のために祈りの言葉を書いていただきたいのですが」。私は云った。「いいえ。それはできません。行って、主にあなたの望むことをお告げなさい」。その人は答えた。「私の望みは膨大すぎるように感じて、自分が何を望んでいるか分からなくなることがあるのです。そして、祈ろうとしても祈れないのです。私は、誰かから、何と云うべきか教えてもらいたいのです」。「何と!」、と私は云った。「主はあなたに何と云うべきか教えてくださっていますよ。主はこう仰せになっています。『あなたがたはことばを用意して、主に立ち返り、そして言え。「すべての不義を取り除き、私たちを恵み深く受け入れてください」』[ホセ14:2 <英欽定訳>]」このような言葉をもって、あるいは、あなたの口にできる他のどの言葉によっても、祈りによってキリストのもとに行くがいい。もしどんな言葉も口にできなければ、涙を流すだけでも十分である。むしろ、その方が良い。また、呻きや、吐息や、ひそかな願いも、神に受け入れられるであろう。

 しかし、それらに信仰を加えるがいい。この《医者》を信頼するがいい。知っての通り、いかなる軟膏も、それを傷に塗らなければ人を癒すことはない。さて傷があるときには、その軟膏をしっかりつけておく絆創膏のようなものがしばしば必要となる。信仰は、この天的な万能薬を絆創膏で貼りつけるものなのである。あなたの打ち砕かれた心をかかえて主のもとに行き、主があなたを癒せると信じるがいい。主だけがあなたを癒せると信じるがいい。主がそうしてくださると信頼するがいい。主の足元にひれ伏して、云うがいい。「もし私が滅びるのだとしたら、ここで滅びます。私は神の御子が私を救えると信じます。そして、私は御子によって救われるでしょう。ですが私は、救いを求めて他のどこをも決して見ません。『信じます。不信仰な私をお助けください!』[マコ9:24]」 もしあなたがそこまでするとしたら、あなたは光に非常に近づいている。この偉大な《医者》は、まもなくあなたの打ち砕かれた心を癒してくださるであろう。主が今そうしてくださると信頼するがいい。

 あなたが主を信頼して、あなたの心が癒され、あなたが幸いになったときには、他の人々に主のことを告げるがいい。私は、私の主が、口のきけない子持ちになるのを好まない。私は、あなたがた全員が説教者になることを望んでいるというのではない。もし全教会が説教することになるとしたら、それはからだ全体が1つの口となるようなものであり、それは1つの真空となろう。私は、何らかのしかたで、あなたが他の人々に告げるようになってほしいのである。主があなたになさったことを。そして、他の人々をこの偉大な《医者》のもとに連れて来ようと努力することに熱心になってほしいのである。この物語は、あなたがたがみな覚えているであろうから、もう一度告げる必要もないことだが、一、二年前に、わが国の病院の1つにひとりの医師がいた。彼は一匹の犬の折れた足を癒してやった。すると、感謝を感じたこの動物は、他の犬たちも連れてきて、その折れた足を癒してもらおうとしたというのである。これは良い犬であった。あなたがたの中のある人々は、この犬の半分ほども善良ではない。あなたはキリストが自分を祝福しておられると信じているのに、決して他の人々を主のもとに連れて来て救われるようにしようとしない。もはやそうしたことが続いてはならない。私たちは、自分の種族に対する愛において、この犬をしのがなくてはならない。そして、このことが私たちの強烈な願いでなくてはならない。すなわち、もしキリストが私たちを癒してくださったとしたら、主が私たちの妻を、子を、友を、隣人を癒してくださることである。そして、私たちは他の人々が主のもとに導かれるまで決して休むべきではない。

 そして、他の人々がキリストのもとに導かれたとき、あるいは、たとい彼らが導かれようとしないときでさえ、確実に主を賛美するようにするがいい。もしあなたの打ち砕かれた心が癒されたとしたら、また、もしあなたが救われ、あなたのもろもろの罪が赦されているとしたら、主を賛美するがいい。私たちは半分も十分に歌っていない。これは、私たちの会衆の中でのことを云っているのではない。むしろ、自宅にいるときのことである。私たちは毎日祈っている。だが毎日歌っているだろうか? そうすべきだと思う。マシュー・ヘンリーは、家庭礼拝についてこう云うのが常であった。「祈る人々は、良いことを行なっている。聖書を読み、祈る人々は、もっと良いことを行なっている。聖書を読み、祈り、賛美歌を歌う人々は、最高に良いことを行なっている」、と。マシュー・ヘンリーは正しかったと思う。「ですが、私は声が出せません」、とある人は云うであろう。声が出せない? ならば、あなたは決して細君にぶつくさ云わないのであろう。決して食事に文句をつけたりしないのであろう。自分の口汚い言葉で家中を不幸せにするような者では決してないのであろう。「おゝ、そういう意味ではありませんよ!」 しかり。私もあなたがそういう意味で云ったとは思っていない。よろしい。あなたが不平を云うのに使うのと同じ声で主を賛美するがいい。「しかし、私は音が取れません」、とある人は云うであろう。誰もそうすべきだなどと云ってはいない。少なくともあなたは私と同じくらいには歌える。私の歌は、非常に独特の性格をしている。私は、自分が1つの調子に合わせていられないことに気づいている。ある一節の中で、私は五つか六つの調子を使ってしまう。だが、私が歌をささげているお方である主は、決して私をとがめだてなさらない。決して私がこの調子、またはあの調子を保っていないからといって、私を非難しない。私にはどうしようもないのである。私の声は私には抑えられないしかたで暴走してしまう。私の心もそうである。だが、私は神の御名を賛美するために、ともあれ何かを鼻歌で歌い続ける。私はあなたに同じことをしてほしいと思う。私は以前あるメソジスト信者をよく知っていた。そして、彼が朝起きてまず最初にすることは、メソジスト賛美歌のいくつかを歌い出すことであった。そして、もし私がその老人に日中出会うことがあると、彼は常に歌っていた。私は彼がその小さな仕事場にいるのを見たことがある。膝の上に膝石を載せ、彼は常に歌っていた。そして、その槌を打っていた。一度、私が彼に、「愛する兄弟。なぜあなたはいつも歌っているのですか?」、と云ったとき、彼は答えた。「わしには、いつだって何か歌いたいことがあるからですよ」。これは歌うのに良い理由である。もし私たちの打ち砕かれた心が癒されたとしたら、私たちには、今の時の中でも、永遠を通じても、歌うべきことがあるのである。そうし始めようではないか。「心の打ち砕かれた者をいやし彼らの傷を包む」お方の恵みの栄光を称えて。願わくは神が、今晩この会衆の中にいる、すべての打ち砕かれた心を祝福し給わんことを。イエスのゆえに! アーメン。

----

 

キリストの病院[了]

---------

HOME | TOP | 目次