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救いの単純さと崇高さ

NO. 2259

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1892年6月5日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1890年3月6日、木曜日夜


「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである」。――ヨハ1:11-13


 この箇所は、すべてが単純であり、すべてが崇高である。ここにあるのは、いかに無知な者でも救われることができる単純な福音である。ここにあるのは、最高の教育を受けた人々にも理解できない深遠さの数々である。ここにあるのは、人間には登攀不可能な、天来の真理という永遠の丘[創49:26]である。だが、ここにあるのは、旅する者が、愚か者ではあっても、過つことも[イザ35:8 <英欽定訳>]、迷うこともない通り道である。私は、重箱の隅をつつく、揚げ足取りの人々のために浪費する時間はないといつも感じる。彼らが信じようとしなければ、堅く立てられることもない。その不信仰の結果を彼らは受け取らなくてはならない。しかし、私は悩める求道者のためなら昼夜を費やすことも厭わない。天的な光の燦然たる輝きに照らされ、そのため目をくらまされた人、また、自分の前に横たわっている路の平易さそのもののために道に迷っているかに思われる人のためなら、そうである。この最も単純な聖句の中には、神の深み[Iコリ2:10]の一部があり、この場の、ある魂たちは、私たちの中のある者らにとっては単純と思われるものによって当惑させられている。そこで私の1つの目当ては、そうした人々を助け、励まし、鼓舞するようなしかたでこの聖句を扱うことである。その人々は、《主人》の衣のふさに触りたいと思っていながら、自分の脳裡に立ち起こる、多くの困難や深刻な疑問に押しまくられて、そうできないでいるのである。

 早速この聖句に向かうことにするが、第一に注意したいのは、1つの非常に単純なことである。「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人」。第二に、1つの非常に喜ばしいことである。「神の子どもとされる特権をお与えになった」。そして第三に、1つの非常に神秘的なことである。「この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである」。

 ここには、第一に、《1つの非常に単純なこと》がある。キリストを受け入れ、その御名を信ずることである。おゝ、この場にいる多くの人々がこう云えたならどんなに良いことか! 「はい。私はその単純なことを理解しています。それこそ、私が永遠のいのちを見いだした道です」、と。

 ヨハネがここで語っている、この単純なことは、キリストを受け入れる、あるいは、言葉を換えると、キリストの御名を信じることである。

 キリストを受け入れるとは、1つの明確な行為である。「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった」。キリストを喜んで迎えるだろうとあなたが思ったはずの当の人々は、そうしなかった。だが、そこここでひとりの男がその他大勢から離れて立つか、ひとりの女が自分を取り巻く者たちの中から出て来ては、個々にこう云った。「私はキリストをメシヤとして受け入れます」、と。あなたは決して群がって天国に行くことはないであろう。人々は群れをなして滅びへの広い路を下る。だが、永遠のいのちに至る道は、狭い道である。そして、「それを見いだす者はまれです」[マタ7:14]。天国へ行く者たちは、ひとりひとり出て来ては、その小さな門口に座っている者にこう云わなくてはならない。「私の名前を書き記してください。天の都に向かうひとりの巡礼として」、と。いのちに入りたいと思う者は、走るだけでなく戦わなくてはならない。というのも、これはずっと上り坂の戦いであり、最後まで戦い抜く者、また、勝利者の冠をかちとる者はほとんどいないからである。

 キリストを受け入れた人々は、受け入れなかった人々とは異なっていた。彼らは、白と黒が、あるいは、光と闇が違うように違っていた。彼らは、1つの明確な一歩を踏み出した。他の人々から自らを切り離した。そして、出て来ては、他の人々が受け入れなかったお方を受け入れた。愛する方々。あなたはそうした一歩を踏み出しただろうか? あなたは、こう云えるだろうか? 「そうです。他の人々は好きなようにしていれば良いでしょう。私について云えば、キリストが私の救いすべてであり、私の願いすべてです。そして、いかなる苦難があっても私は全く満足しているのです。変人とみなされても、孤立してもかまいません。私はすでに自分の手を天国に向かって上げており、引っ込めることはできません。他の人々が何をしようと、私は云います。『私はキリストを取ります』、と」。

 それは、明確な行為であるとともに、個人的な行為であった。「この方を受け入れた人々」。彼らは、ひとりひとり自分の行為、行動によってキリストを受け入れなくてはならなかった。「すなわち、その名を信じた人々には」。信ずることは、一個人の明確な行為である。私はあなたに代わって信じてやることはできないし、あなたも私の代わりに信ずることはできない。それは明らかに不可能である。キリストを受け入れることで、あるいは、信仰において、誰かの保証人となるなどということはできない。もしあなたが不信者だとしたら、あなたの父上や母上がいかに卓越した聖徒であっても、お二人の信仰があなたに重なり、あなたを覆うなどということはない。あなたは自分で信じなくてはならない。私は、ある人々に、こう指摘しなくてはならなかったことさえある。聖霊ご自身でさえ、彼らに代わって信ずることはできない、と。御霊は信仰をあなたのうちに作り出してくださるが、あなたが信じなくてはならない。信仰は、あなた自身の明確な精神的行為でなくてはならない。信仰は神の賜物ではあるが[エペ2:8]、神が私たちに代わって信じてくださるのではない。いかにして、そのようなことがありえようか? あなたが明確に信じるべきなのである。さあ、話をお聞きの愛する方々。あなたは国民的な信仰で何とかしようとしてきただろうか? 国民的な信仰など、でっち上げでしかない。あるいは、あなたは家族の信仰を有していると考えようとしてきただろうか? 「おゝ、うちはみんなキリスト者ですよ!」 しかり。それはとどのつまり、私たちはみな偽善者ですよ、という意味である。各人が自分でキリスト者にならない限り、その人は名ばかりのキリスト者であり、それは偽善者ということである。おゝ、私たちひとりひとりが、自分のもろもろの罪をイエスの――かの傷なき神の《小羊》の――上に置いたことを確実にできたらどんなに良いことか! 願わくは、もし私たちがこれまで一度もそうしたことがなかったとしたら、今この瞬間に、そうできるように!

 次に注目すべきは、これが明確で個人的な行為であったのと同じく、ひとりの《人格》に関連していたということである。見れば、この聖句にはこう記されている。「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」。キリストという人格を抜きにしたキリスト教信仰には、本質的な点が欠けている。あなたは、ある教理を信ずることによって救われるのではない。確かに、もしその教理が真実であれば、それを信ずるのは良いことだが関係ない。あなたは、ある儀式を実践することによって救われるのではない。確かに、もしあなたがその儀式を実践する権利のある人々のひとりであれば、それを実践すべきだが関係ない。あなたが救いのために信ずべきことはただ1つ、キリストの御名を信じ、キリストを受け入れることである。「私は、ある神学体系を受け入れています」、とある人は云う。だが私の知っている唯一の神学体系は、キリストである。人の肉をまとわれた神の御子である。血を流し、死んで、よみがえり、天に昇り、すぐにも来られる御子である。あなたは、この方を頼みとしなくてはならない。この約束は、このお方を受け入れる者に対してのみなされているからである。

 このようにキリストを受け入れることは、キリストに対する信仰からなっていた。「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には」。この方は旅人であった。そして彼らはこの方を迎え入れた。この方は食物であった。そして彼らはこの方を取り入れ、養いとした。この方は生きた水であった。そして彼らはこの方を受け入れ、飲み干し、自らのうちに取り込んだ。この方は光であった。そして彼らはその光を受け入れた。この方はいのちであった。そして彼らはそのいのちを受け、自分が受けたものによって生かされた。空っぽの杯が泉から流れ出る水を受けとめるように、私たちは空っぽの自分の内側にキリストを受け入れる。私たちは貧しく、裸で、みじめな者だが、キリストのもとに行き、この方において、富と、着るものと、幸福を受けるのである。救いはキリストを受け入れることによってやって来る。あなたが何をしようとしてきたかは分かっている。あなたはキリストに何かを与えようとしてきた。1つの非常によく聞かれる云い回しについて警告させてほしい。私は回心者たちが、自分の心をイエスにささげた、とひっきりなしに語っているのを耳にする。それは全く正しいし、私は彼らがそうすることを望んでいる。だが、あなたが第一に気遣わなくてはならないのは、あなたがイエスに与えるものではなく、イエスがあなたに与えてくださるものである。あなたは、イエスご自身からイエスを、あなたに対する1つの賜物として受け取らなくてはならない。そのときにこそ、あなたは真に自分の心をイエスにささげることができるであろう。最初の行為は、そして実際、その後のすべての基盤となる行為は、キリストを受け入れ、吸収し、取り込むことであり、それが、その名を信ずることと呼ばれているのである。その「名」に注意するがいい。それは、空想的なキリストもどきを信ずることではない。近頃は数多くのキリストもどきがあり、ほとんど本の数と同じくらい多くのキリストもどきがある。というのも、あらゆる著者が自分なりのキリストを作り上げているように思われるからである。だが、人々が作り上げるキリストもどきは、あなたを救わない。あなたを救うことのできる唯一のキリストは、神のキリストである。ナザレの会堂で、こう書いてある所を見つけられたキリストである。「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために」[ルカ4:18-19]。

 あなたの信ずべきは、聖書の中で啓示されている通りのキリストである。あなたは、ここに見いだす通りのキリストを受け取るべきである。ルナンや、シュトラウスや、その他の誰彼が描き出すようなキリストではなく、ここにあなたが見いだす通りのキリストを。神がキリストを啓示おられる通りに、キリストの御名を信じるべきである。「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」[イザ9:6]として。インマヌエル、私たちとともにおられる神として[マタ1:23]。イエス、罪から救うものとして[マタ1:21]。御父から油注がれたキリストとして。あなたはキリストの御名を信ずるべきである。ローマのキリストでも、カンタベリーのキリストでもない、エルサレムのキリスト、永遠の栄光のキリストを信ずるべきである。一部の者らがみことばの真の預言の霊を侮辱する、夢のような預言によるキリストもどきではない。人間のからだに受肉した、永遠の神を信ずるべきである。《詩篇作者》、《預言者》、《使徒》によってここに描かれている、まことの神よりのまことの神、だが、真の人として、あなたに代わって苦しみ、十字架の上で人々の罪をその身に負われたお方を信ずるべきである。このキリストを信じることこそ、有効にあなたの魂を救うのである。信じるとは信頼することである。あなたがキリストを信じていることを証明するために、一切のものをキリストに賭けるがいい。

   「わがいのち ならぬいのちに、
    また、わが死には あらぬ死にこそ、
    われは賭(か)けたり、永久(とわ)のすべてを」。

私に代わって生き、私に代わって死に、私に代わってよみがえり、私に代わって天に入られたお方にこそ、私は過去と現在と未来のすべての重みを、また、この世においても永遠においても、私の魂に属する一切の利益をゆだねるのである。

 これは非常に単純なことであり、私は非常に多くの人々がこの単純な信仰をあざける姿、また、非常に多くの人々がこのことについて軽蔑的な指摘をする姿を目にしてきた。だが、あなたに云わせてほしい。天の下にこのようなものは何1つないのである。この信仰を有することによって、あなたは神の子どもであると証明されるが、それ以下の何によってもそれはできない。この「……人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」。そして、それ以外の何者にもお与えにならなかった。これによって、あなたが赦罪を受け、赦されていることが証明されるであろう。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」[ロマ8:1]。だが、もしあなたがキリスト・イエスを信じていなければ、神の怒りはあなたの上にとどまる[ヨハ3:36]。この信仰が一粒でもあるとしたら、それは、この世界と同じ大きさの金剛石一個よりも大きな価値がある。しかり、たといあなたがそのような宝石を天の星々の数ほども数珠つなぎにしようと、それらは、イエス・キリスト、神の永遠の御子に対する信仰の極微の粒子にくらべれば無である。

 しかし、この信仰の素晴らしい力はどこから来るのだろうか? 信仰からではなく、信仰が頼みとするお方からである。いかなる力をキリストはお持ちであろう! 十字架の上で苦しんでいる主の人性の力、頭を垂れている主の《神性》の力、この《神-人》、《仲保者》が罪のための最大のいけにえとしてご自身を引き渡している力。何と、これに触れる者は、全能の泉に触れたのである! 信仰によってキリストと接触した人は、無窮の愛、力、あわれみ、恵みと接触したのである。私は、信仰がキリストと関わり合うとき、そこから何がもたらされようと驚嘆しはしない。あなたには、一個の小さな鍵がある。小さな錆だらけの鍵である。そしてあなたは云う。「この鍵を使えば、私は好きなだけの黄金を手に入れられるのだ」。しかり。だが、あなたがその黄金を手に入れに行くべき宝箱はどこにあるだろうか? それをあなたが私に見せてくれるとき、また、私がそこに金銀の詰まった巨大な部屋を見るとき、私は理解できるであろう。あなたの小さな鍵がそのような宝物庫の扉を開くとき、あなたがいかに富んだ者になれるかを。もし信仰が神の満ち満ちた豊かさを――「なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ」[コロ1:19]たからだが――開く鍵であるとしたら、私は理解できるであろう。信仰がなぜそのような無窮の祝福を、その持ち主にもたらすものであるかを。救いは非常に単純なことである。願わくは神が私たちを助けて、それを単純に、また実際的に眺めさせ、キリストを受け入れさせ、その御名を信じさせてくださるように!

 さて、第二にここにあるのは、《1つの非常に喜ばしいこと》である。この「人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」。

 もし一週間かけてこの聖句から説教してよければ、私も第一の項目を語り終えることができるであろうとは思う。だが、今回、私にできるのはただ、ほんの僅かな手がかりを投げかけることどまりである。見てみるがいい。いかに大きな、また喜ばしい祝福が、キリストに対する私たちの信仰によって私たちのもとにやって来るかを。私たちがキリストに自分の信仰をささげると、キリストは私たちに神の子どもとされる特権を与えてくださる。神の子どもであることの――ただの力や強さではない――権威、自由、特権、権利を。

 私たちがイエスを信じるとき、主は私たちに《喜んで私たちをご自分の子らにしようという、大いなる御父の意欲》を指し示される。私たち、放蕩息子となり、はるか遠く離れていた者たちは、このことを察する。私たちがキリストを受け入れるとき、キリストを私たちに与えた御父は、私たちを喜んでご自分の子らとして受け入れようとしてくださるのだ、と。御父は、私たちをご自分の家族として受け入れたいと思わなかったとしたら、ご自分の《ひとり子》を引き渡そうとはなさらなかったであろう。

 私たちがイエスを信じるとき、神は私たちに子どもとしての身分をお授けになる。私たちは以前は奴隷であった。今は、子どもである。私たちは外国人であり、他国人であり、敵国人であった。悪を意味するあらゆる言葉が私たちには当てはまっていた。だが私たちは、キリストをつかんだとき、ある大市民によって養子にされ、それ以後その人の息子であると公に広場で認められ、そのようなものとみなされたのである。そのように、私たちはイエスを信じるや否や、子どもたる身分を得る。「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです」[Iヨハ3:2]。

 それからキリストは、それ以上のことを私たちのために行なわれる。主は私たちに、自分が子とされていると感じる恵みを与えてくださる。たった今、私たちが歌ったように、――

   「信仰は『アバ、父よ』と叫び、
    汝れは血筋と 認めたまわん」。

神は私たちをご自分の子どもたちと認め、私たちは神を私たちの御父と認める。そして、これ以後、「天にまします我らの父よ」は、空しい云い回しではなく、私たちの心の底から湧き上がるものとなる。

 子どもであると感じさせる恵みを与えた後で、キリストは私たちに、私たちの御父のご性質を与えてくださる。主は私たちに、「神の子どもとされる特権」を与えてくださる。私たちは、義と真の聖潔において、ますます神に似た者となっていく。私たちの心に注がれている[ロマ5:5]その天来の御霊によって、私たちはますます、天におられる私たちの御父の子どもたちとなっていく。価値のない、恩知らずな者らにも善を施し[ルカ6:35]、ご自分を愛さない者らに対してさえ心から愛をあふれさせておられる御父の子どもたちへと。

 子どもたちのこの性質が完全に発達するとき、キリストはその栄光を私たちに授けてくださるであろう。私たちは天国において、しもべたちとして後列に並ぶのではなく、永遠の御座に最も近い所に立つことになる。御使いたちに向かって、神は決して、「あなたがたは、わたしの子どもたちだ」、とは仰せになったことがない。だが私たちを――あわれな、ちりから造られたものではあるが、イエスを信じている私たちを――子どもたちと呼んでおられる。そして私たちは、《王》がご自分の王宮に姿を現わされる日に、天国の王族の王子たち、また、神の皇室の一員に属する栄誉と、喜びと、特権と、歓喜との一切を持つことになるのである。

 私たちの中のある者らは、自分自身の生涯から、子どもとされることについて、類似したことを引き出せるであろう。あなたは、かつては非常に小さな幼児であった。だが、そのときも、今に劣らず子どもであった。キリストを信じたばかりでしかないあなたも、それと同じである。主はあなたに、神の子どもとなる権威と権利を与えておられる。私たちの人生の、ごく幼少の頃、私たちの父親は戸籍吏の事務所に行き、自分の子どもとして私たちの名前を記録簿に記入した。私たちはそれを覚えていない。それほど遠い昔なのである。だが、父はそうしたし、家庭用大型聖書にも私たちの名前を書き記してくれた。それは、天におられる私たちの御父が、私たちの名前を《小羊のいのちの書》に記載されたのと全く同じである。あなたも思い出す通り、子どもであるあなたは、台所に行って召使いたちとともに食事をすることはなかった。むしろ、あなたは食卓に着いていた。あなたが食卓で最初に着いたのは非常に小さな椅子であった。だが、あなたが大きくなっていく間、あなたは常に食卓に着いていた。なぜなら、あなたは子どもだったからである。家にいる召使いたちはあなたよりずっと大きく、あなたよりずっと多くのことを行なうことができた。また、あなたの父上は彼らに俸給を払っていた。父上はあなたに何も支払いはしなかった。彼らは父上の子どもたちではなく、あなたは子どもだった。たとい彼らがあなたの服を着ようと、父上の子どもになることはなかったであろう。あなたには、彼らが持っていない数々の特権があった。私は今でも思い出すが、私の家があった教区では、一年のある特定の日、教会の鐘が鳴り、誰もが行っては一銭の巻き菓子を貰えるのだった。どんな子どもも一個貰うことができ、私も自分の巻き菓子をもらったことを覚えている。私はそれを特権として請求した。なぜなら、私は父の息子だったからである。そこには六人の子どもたちがいたと思う。全員が巻き菓子をもらった。その教区のあらゆる子どもが一個もらった。それと同じように私たちには、キリスト者のごく初期から数々の特権がやって来て、それらを得ることになる。なぜなら、第一に、私たちの主イエス・キリストが、私たちにそれらを得る権利を与えておられ、次に、もし主が私たちのために買われたものを私たちが受けとらないとしたら、それは主から盗むこと、また、主の財産を浪費することになるからである。主がそのすべての代価を支払い、私たちにそれを得る権利を与えておられる以上、それを受けとろうではないか。

 あなたが学校に入れられたのは、あなたが子どもだったからである。あなたはそれを好まなかった。たぶんあなたは、どちらかと云えば家にとどまって遊んでいたかったであろう。また、あなたが鞭の一打ちをくらったのは、あなたが子どもだったからである。それがあなたの特権の1つであった。「父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか」[ヘブ12:7]。ある日、あなたは他の悪童たちと町通りで悪さをしていた。そこへあなたの父上が通りかかると、あなたを罰した。父上は、あなたの仲間には指一本触れなかった。彼らは彼の子どもたちではなかったからである。あなたは、こうした小さな事がらに微笑むであろう。また、そのときは、自分の受けた罰を特権とはみなさなかったであろう。だが、それは間違いなく特権であった。主の懲らしめがやって来るときには、それを特権と呼ぶがいい。というのも、それはまさに特権だからである。私の知る限り、地上最高のあわれみは良い健康だが、それも病にはかなわない。そして、病はしばしば、私にとって健康以上のあわれみであった。

 苦難がないのは良いことだが、苦難があること、また、それを耐え忍ぶに足る恵みをいかにして得るべきかを知っていることは、さらに良いことである。私が悪魔を恐れるのは、彼が吠えるときよりは、彼が眠りにつくふりをするときである。思うにしばしば、吠え猛る悪魔は私たちを目覚めさせておき、現世の苦難は私たちをかき立て、祈りによって神へと向かわせる。そして、私たちにとっては悪と見えるものが私たちの善となるのである。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています」[ロマ8:28 <英欽定訳>]。

 さて、これで最後の点になるが、それは《1つの神秘的なこと》である。私たちは、単に子どもたちの地位、子どもと呼ばれる特権を与えられているだけでなく、この神秘的なことは天的な誕生という問題である。「この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである」。

 この新しい誕生は絶対的に必要である。もし私たちが神の子どもたちの中に数えられたければ、私たちは新しく生まれなくてはならない。上から生まれなくてはならない。私たちは、他の人たちと同じように、罪の中に生まれた、生まれながら御怒りを受けるべき子ら[エペ2:3]であった。神の子どもたちとなるには、私たちは新しく生まれることが絶対的に必要である。

 それによって作り出される変化は、驚異的に徹底的である。それは、単なる外的な洗いでも、ちょっとした化粧直しや取り繕いでもない。それは全的な革新である。新しく生まれる? 私は、その変化が意味する一切のことをあなたに表現することはできない。それは、あまりにも深く、あまりにも徹底的で、あまりにも完全である。

 それは、強烈に神秘的でもある。新しく生まれるとはどういうことでなくてはならないだろうか? 「私には分かりません」、とある人は云う。ニコデモはイスラエルの教師でありながら、それを理解しなかった[ヨハ3:10]。誰がそれを理解しているだろうか? 誰が自分の最初の誕生を理解しているだろうか? それについて、何を知っているだろうか? そして、この第二の誕生である。私たちの中のある者らは、それをくぐり抜けたし、自分がそうしたことを分かっており、その誕生の激痛をよく覚えている。だが私たちは、自分たちが新しく形作られ、キリスト・イエスのうちにあって新しく造られた者となった[IIコリ5:17]際の神の御霊の動きを述べることができない。それは、御座に着いておられるお方からのことばに従って起こった。「見よ。わたしは、すべてを新しくする!」[黙21:5] これは大きな神秘である。

 確かに、これは全く人力を超えたことである。私たちには何の寄与もできない。人は自分で自分を新しく生まれさせることができない。その最初の誕生は自分から出たことではなく、第二の誕生も、それといささかも変わらない。それは聖霊のみわざ、神のみわざである。新しい創造である。生かすことである。最初から最後まで奇蹟である。

 ここには、私が特にあなたの注意を引きたい点がある。これは確実に私たちのものである。この場にいる私たちの中の多くの者らは、新しく生まれている。私たちは自分がそうであると知っており、ここにその証拠がある。「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである」。もしあなたがキリストの御名を信じているなら、あなたは神によって生まれたのである。もしあなたがキリストをあなたの魂に受け入れているなら、あなたは、血によるものでも、肉の欲求や人の意欲によるものでもない誕生、神による誕生を得ているのである。あなたは死からいのちに移っているのである。

 いかなる人も、この場に座り込んで、自分の顔を覆い、こう云ってはならない。「私には何の望みもありません。私にはこの新しい誕生のことが理解できないのです」、と。もしあなたがキリストを受けとり、自分のものとし、今より永遠に、あなたの唯一の頼りまた信頼としてつかんでいるとしたら、あなたは、いかなる家系ももたらすことのできないものを受けているのである。それは、「血によってではなく」だからである。あなたは、いかなる父母の意欲も与えることのできないものを有している。それは「肉の欲求……によってでもなく」だからである。あなたは自分自身の意志によってはもたらせないものを持っている。それは「人の意欲によってでもなく」だからである。あなたは、いのちの《与え主》だけが授けることのできるものを持っている。それは「ただ、神によって」だからである。あなたは、新しく生まれている。というのも、あなたはキリストを受け入れ、その御名を信じたからである。私は、あなたに、内側を眺めよとか、この新しい誕生がそこにあるかどうかを見てみよとか促しはしない。自分で内側を眺める代わりに、向こうの十字架の上にかかっているお方を眺めるがいい。私たちを神のみもとに導くため、正しい方が悪い人々の身代わりとなっている姿を眺めるがいい[Iペテ3:18]。このお方にあなたの目を据え、このお方を信ずるがいい。そして、あなたが自分のうちに多くの悪いものを見るときも、目をそらしてこの方を眺めるがいい。また、疑いがはびこるときも、この方を眺めるがいい。あなたの良心があなたの過去のもろもろの罪をあなたに告げるときも、この方を眺めるがいい。

 私は、この物語を一年のほぼ毎日、事細かに語らなくてはならない。時には、一日のうち五、六回もそうしなくてはならない。もし二十哩以内に1つでも絶望した魂がいるなら、それは私を見つけ出すものなのである。私が在宅していようが、マントンにいようが、世界の他のどの場所にいようが関係ない。それはいかなる距離も越えてやって来る。気落ちして、絶望して、時にはなかば狂ったようになってやって来る。そして私が処方できる薬はただ1つ、「キリスト、キリスト、キリスト。イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方である。あなた自身から目をそらして、この方により頼むがいい」。私はこのことを何度も何度も繰り返し、ごく僅かもそれを越えて進みはしない。なぜなら、私はこの薬が魂のあらゆる病を治す一方で、人間のいかさま治療が全く何も治さないのを見いだすからである。キリストだけが罪に病む魂の唯一の治療薬である。キリストを受け入れるがいい。その御名を信ずるがいい。私たちはこのことを繰り返し叩き込み続ける。私はこう云ったときのルターに同情できる。「私は信仰による義認について、あまりにも口を酸っぱくして説教してきた。それで時には、あなたがそれを受け入れるのが遅すぎると感じて、ほとんど聖書を取り上げて、あなたがたの頭に叩きつけてやりたくなることもある」。残念ながら、たとい彼がそうしたとしても、この真理は彼らの心に入らなかったのではないかと思う。これこそ私たちが目指すことである。このただ1つの考えを人の中に入れることである。「あなたは失われている。それゆえにこそ、キリストのようなお方が救いに来てくださったのである」。

 ごく最近ある人が私にこう云った。「おゝ、先生。私ほどの大罪人はこれまでいた試しがないのです!」 私は答えた。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた[Iテモ1:15]のです」。「しかし私には何の力もありません」。「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に死んでくださいました」*[ロマ5:6]。「おゝ! ですが」、と彼は云った。「私は全く不敬虔な者だったのです」。「キリストは不敬虔な者のために死んでくださいました」*[ロマ5:6]。「ですが私は失われています」。「その通りです」、と私は云った。「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです」[Iテモ1:15]、「人の子は、失われた人を救うために来たのです」*[ルカ19:10]。私はその人に云った。「あなたは自分の手に絵筆を持っていて、一刷毛ごとに、まるで聖書を引用しているようですね。あなたは自分を、キリストがやって来て救おうとされたまさにその人にしているような気がします。もしあなたが自分を善人にしよう、すぐれた者にしようとしていたなら、私はあなたにこの言葉を与えるべきでしょう。――イエスは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです[マタ9:13]、と。主は善人のためにではなく、悪人のために死なれました。私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました[ガラ1:4]。決して私たちの義のためにご自分をお捨てにはならなかったのです。主は《救い主》です。主はまだ義人の《報い主》として来たことはありません。それは主の《再臨》の時のことでしょう。いま主は、咎ある者の大いなる《赦し主》、失われた者の唯一の《救い主》として来ておられます。あなたは、そのような者として主のもとに来ませんか?」 「おゝ! ですが」、と私の友は云った。「私は何もキリストのもとに持って行けません」。「その通りです」、と私は云った。「それは私も分かっています。ですが、キリストはすべてをお持ちです」。「先生」、と彼は云った。「あなたは私のことをご存知ないのです。さもなければ、そんなふうに私に仰るはずがありません」。そこで私は云った。「ええ、それに、あなたも自分のことを知らないのですよ。あなたは、自分で分かっているよりもずっと悪人なのです。あらゆる良心にかけて十分に悪いと思っているとしてもです。ですが、あなたがいかに悪人であろうと、イエス・キリストは、悪人をあくたから引き上げ、高貴な者とともに座らせる[Iサム2:8]つもりでやって来られたのです。その無代価の、豊かな、主権的な恵みによって」。

 おゝ、来て、主を信じるがいい。あわれな罪人よ! 私は、もしあなたがた全員の魂を握っていたとしたら、その救いのためにキリストを信じたい気がする。もし百万もの魂を握っていたとしたら、そのすべてを救うために主を信頼したいと思う。主は救うに力強い者[イザ63:1]だからである。赦しを給う主の御力に、限界はありえない。主の尊い血の功績には、何の限界もありえない。御座の前における主の訴えの効力には、何の制限もありえない。ただ主に信頼するがいい。そうすれば、あなたは救われるに違いない。願わくは、主の恵み深い御霊があなたを導き、今そうさせてくださるように。キリストのゆえに! アーメン。

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救いの単純さと崇高さ[了]

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