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弁解の余地なき不敬と忘恩

NO. 2257

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1892年5月22日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1890年7月13日


「彼らに弁解の余地はないのです。というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず……」。――ロマ1:20、21


 この、ローマ人への手紙第1章は、神のことばの暗澹たる部分である。私はその全部を声に出して読み上げたいとは、ほとんど思わない。これは、そのように用いられるためのものではない。これは、家で読むがいい。そして、異邦人世界のすさまじい悪徳の数々に慄然とするがいい。口にすることもできない罪悪が、この邪悪な時代には、ありふれた快楽であった。だが、この章は、現在の異教主義の唖然とするような写し絵でもある。ひとりの宣教師が、ヒンドスタンの一地域に立ち入り、新約聖書を配布した後で、あるヒンドゥー教徒が彼に応対し、こう質問した。「あなたは、このローマ人への手紙の第1章を、当地に来られてから書いたのではありませんか?」 「いいえ」、と宣教師は答えた。「私が書いたものなどでは全くありませんよ。ほとんど二千年も前からこう書かれていたのです」。ヒンドゥー教徒は云った。「よろしい。もしそれが、あなたが当地に来られてから書かれたものでなかったとしても、私に云えることはただ、そう書かれているのももっともだということです。というのも、これは印度の罪を恐ろしいほど真実に描き出しているからです」。これはまた、ロンドンについてさえ、あなたがたの中のある人々が知りたいと思う以上に真実なことである。この国においてさえ、こうした幾多の悪徳は犯されている。口にしただけで、慎み深い頬が真紅に染まるであろうような悪徳である。しかしながら、私はヒンドゥー教徒たちについて語るつもりはない。彼らは遠く離れている。この古代ローマ人たちについて語るつもりもない。彼らが生きていたのは、二千年も前のことである。私が語ろうと思うのは、私たち自身について、また、本日の聖句が驚くべきしかたで当てはまる、この場にいる一部の人々についてである。残念ながら、私が話しかけている人々の中にはこう云える人々がいるのではないかと思う。「彼らに弁解の余地はないのです。というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず……」。

 本日の聖句で言及されている人々に対する第一の非難は、《畏敬の欠如》である。「彼らは、神を知って」いたが、「その神を神としてあがめ」なかった。彼らは、ひとりの神がおられることを知っていた。その存在は決して否定しなかった。だが、その御名に対する畏敬を全く有していなかった。神が受ける権利のある敬意を神にささげなかった。彼らは、神を神としてあがめなかった。

 多くの人々にとってこのことは、次のような形で今なお真実である。彼らは決して神について考えない。彼らは、来る年も来る年も、実質的に神のことをまるで考えずに過ごしている。単に神の御名が彼らの口の端に上らないだけでなく、彼らの思いの中にも神はない。詩篇作者がこう云い表わす通りである。「悪者は、その顔の高慢によって、神を尋ね求めない。その思いの中に、神は全くいない」[詩10:4 <英欽定訳>]。欄外の読み方は、実に意味深長である。「その思いは『神はいない。』の一言に尽きる」。神がいるかいないかは、悪人にとっては実質的に何の違いももたらさない。彼らは、神をほとんど全く尊重していないため、ことによると、たとい神がいないことが証明されたとしても、彼らはその良心の中でずっと気楽に感じるかもしれない。あなたが、どちらかといえば神などいないでほしいと願っているとき、あなたには何か非常に間違ったものがあるに違いない。「よろしい」、とある人は云うであろう。「私は、神がいようといまいと頓着しませんよ。私は不可知論者[agnostic]ですからね」。「おゝ!」、と私は云った。「それはギリシヤ語ではありませんか。では、それに対応するラテン語をお教えしましょう。『無知論者』[Ignoramus]というのですよ」。どういうわけか、彼らはギリシヤ語ほどはこのラテン語を好まなかった。おゝ、愛する方々。私は神については「無知論者」であることも「不可知論者」であることも耐えられない! 私には神がいなくてはならない。神なしにはやっていけない。神は私にとって、からだのための食物、肺のための空気と同じくらい必要である。悲しいことは、神がおられると信じている多くの人々が、その神を神としてあがめないということである。というのも、彼らは神を考えることすらしないからである。私はこの場にいるある人々に、それが本当かどうか訴えたい。あなたは一週間の初めから終わりまで、まるで神について省みることなく過ごしている。あなたは、神がいてもいなくても変わりなくやって行けるであろう。それが真実ではないだろうか? そして、こうしたあなたの心の状態は、非常に空恐ろしいものに違いないではないだろうか? 被造物であるあなたが、自分の《創造主》についてまるで考えることもなくやって行くことができ、自分を養い育ててくださったお方が、あなたにとって何ほどのものでもなく、あなたがまるで考えようともしないものの1つになっているのである。

 さらにこうした人々は、神について全く正しい概念を有していない。神の真の概念は、神がすべてのすべてだということである。もし神が何かであるとしたら、私たちは神をすべてとすべきである。神を第二位に置くことはできない。神は《全能》であり、《知恵》と、《恵み》に満ちておられ、すべてを知り、あらゆる場所におられ、絶えず存在し、その御力の発散は宇宙のあらゆる所で見いだされる。神は無限に栄光に富んでおられる。そして、神をそのようなお方として遇さない限り、私たちは神をしかるべく扱っていない。もしもある王がいるとして、彼が扉の開け閉めや、卑しい仕事をさせられたりしているとしたら、彼は王としてしかるべく敬われてはいない。大いなる神が、私たちの情欲のための従僕にされて良いだろうか? 私たちは神を脇にやり、こう告げて良いだろうか? 「私がもっと都合の良い時期になったら、あなたを呼びにやりましょう。もっと金が貯まったら、キリスト教信仰に身を入れましょう」、あるいは、「キリスト教に入信しても、失うものが何もなくなったなら、そのときには、あなたを求めましょう」、と。あなたは神をそのように扱っているだろうか? おゝ、用心するがいい。これは《王の王》に対する大逆罪である! 神に関する間違った観念、神の卑しい考えは、この聖句の咎めだてに含まれる。「彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず」。

 また、愛する方々。ある人々は神を少しは考えるが、決して神に何も謙遜な、霊的な礼拝をささげない。単なる機械的な、あるいは、外的な何かによって神を礼拝できると想像してはならない。礼拝は心から出たものによってのみなされるのである。ある人々が礼拝と呼ぶようなものを喜ぶような神は、奇妙な神に違いない。私は数多くのローマカトリック教会に行き、祭壇の上に紙製の花がいくつも供えられているのを見たことがある。それは酒場に置くのも恥ずかしくなるようなものであり、私は云ったものである。「こんなしろものを神はお喜びになるだろうか?」 それから私は、もう少しましな建物に入り、多くの十字架像や、宝石屋の店先のように飾り立てられた祭壇を見た。それで私は自分に向かって云った。「こうしたものは、花嫁の飾りにはなるだろうが、神は宝石になど関心を持たれない」。あなたの思い描く神は、あなたの金や、あなたの銀や、あなたの青銅や、あなたの白亜麻布や、そうした一切の飾りを欲しているだろうか? 神があなたと等しい者だとあなたは思っている[詩50:21]。確かにあなたが思い描いているのは、貧困な神にほかならない。風琴が美しい旋律の音色を鳴り響かせても、歌う者が心ここにあらずであるとき、あなたは神が人のような耳しか持たず、その甘やかな音声でいい気分になると思うだろうか? なぜあなたは、自分と同じ水準に神を引き下ろしているのか? 神は霊的なお方である。神を喜ばせる音楽は、真実な心の愛であり、悩める霊の祈りである。神は、あなたのいかなる風琴や鼓がもたらせる音楽よりもすぐれたものを持っておられる。たとい神が音楽をほしがられたとしても、神はそれをあなたには求めなかったであろう。風や波は、あなたの指揮者たち全員が作曲できるよりも超越的にすぐれた旋律を生み出すからである。神は蝋燭の数々など欲されるだろうか? ご自分の松明が山々を巨大な祭壇とし、被造世界が神への賛美の薫香を立ち上らせるというのに。おゝ、兄弟たち。残念ながら、ことのほか敬虔に見える多くの人にとって、このことは真実なのではないかと思う。「彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず」! 自分の罪のため泣くがいい。そのときこそ、あなたは神を神としてあがめたのである。地べたにはいつくばり、《いと高き方》の御前で無となるがいい。そのときこそ、あなたは神を神としてあがめたのである。神の義を受け入れ、血を流しつつある、神の御子を賞賛するがいい。その無限のいつくしみに信頼するがいい。そのときこそ、あなたは神を神としてあがめたのである。というのも、「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません」[ヨハ4:24]。私の愛する方々。あなたは、この要求にどこまで従ってきただろうか?

 さらに本日の聖句で言及している人々が神をあがめなかったのは、彼らが従順に神に仕えなかったからである。話をお聞きの愛する方々。あなたは神に仕えてきただろうか? 自分を神のしもべとみなしてきただろうか? 今朝起きたとき、あなたは云っただろうか? 「きょう神は私が何をすることをお望みだろうか?」、と。一日を総括するとき、このような基準を当てはめたことがあるだろうか? 「きょうの私はどこまで神に仕えようと努めてきただろうか?」 世の中の多くの人々は自分自身のしもべである。そして聖められていない自我にまさって暴虐な主人はいない。多くの人々が、古代帆船の櫨漕ぎ奴隷のように骨折り仕事をしているのは、富のため、栄誉のため、世間体の良さのため、自分自身のためになる何事かのためである。しかし、覚えておくがいい。もし主が神であり、私たちを造られたとしたら、私たちは主に仕えなくてはならない。神があなたをこの四十年、ことによると四十年の二倍ほども生かしてこられたというのに、あなたが一度も神を神としてあがめず、全く何の奉仕もささげてこなかったとしたらどうだろうか? これは非常に厳粛な問いかけである。私は、このことに関わるすべての人々が、これを自分自身の良心に突き入れてほしいと思う。

 神を知っていながら、神をあがめない人々には、もう1つの非難が投げかけられている。それは、彼らが神に信頼しない、ということである。人が身を置くべき場所は、神のみつばさのかげである。もし神が私を造られたとしたら、私は苦難のとき神を求めるべきである。何かに欠けるときには、神の恵み深さに助けを求めるべきである。不快に感じるときには、神に慰めていただこうとすべきである。話をお聞きの愛する方々。あなたがたの中のある人々は、これまで一度も神により頼んだことがないではないだろうか? あなたは何か困ったことがあるとすぐに隣人のもとに駆けて行く。あなたは、自分の老いた伯父上には頼るが、自分の神には決して頼らない。おゝ、これは何とみじめなことであろう。まことと愛に満ちた神が、ご自分の被造物から信頼されていないのである! エレミヤの口によって主が何と云われたか思い出すがいい。「主はこう仰せられる。『人間に信頼し、肉を自分の腕とし、心が主から離れる者はのろわれよ。そのような者は荒地のむろの木のように、しあわせが訪れても会うことはなく、荒野の溶岩地帯、住む者のない塩地に住む。主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように。その人は、水のほとりに植わった木のように、流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、いつまでも実をみのらせる』」[エレ17:5-8]。この聖句で言及されている人々は神を知っていたが、神に信頼していなかった。

 これに加えて、彼らは神との交わりを持とうとしなかった。この場にいる人々の中に、神に語りかけたことが一度もない人はいないだろうか? それはあなたの心に一度も浮かんだことがないではないだろうか。そして、神があなたにお語りになったこともない。少なくとも、神がお語りになったときも、あなたにはそれが誰の声か分からなかった。自宅で自分の父母と何年も一緒に過ごしてきた男の子が、一度も両親に話しかけたことがないとしたら、これは非常に悲しいことである。その子は朝、階下に降りてきては、自分の朝食を食べた。外から戻ってきては、自分の昼食をむしゃむしゃ食べた。夜には、彼らとともに夕食を取った。だが、彼らには一度も話しかけなかった。あなたは、そんな種類の男の子と一緒に住みたいだろうか? あなたは、こう云わざるをえないであろう。「ジョン、ここからどっかへ行くがいい。本当はお前をよそへやりたくなどはないのだが、お前がじっと黙ってそこに座っているのは耐えられない。たとい私がお前に語りかけても、お前は一度も私に答えたことがないのだ」。あなたがたの中のある人々は、自分が神に語りかけたとき、あるいは、神から語りかけられたときを覚えていない。たとい過去そのような経験をしたことがあったとしても、それは、はるか彼方のことである。この場のどこかにいるある人は、先日、不潔で冒涜的な悪罵の中では神に呼びかけたが、決して神に語りかけたのではなかった。彼が嘘をついていたとき、彼は神も証しせよと呼びかけた。あゝ! しかり。あなたは沈黙を破りはした。だが、《いと高き方》に向かってそのように邪悪な冒涜を口にするくらいなら、黙っていた方がましであったろう。あなたのぞっとするような言葉は万軍の主の耳に届いている[ヤコ5:4]。そして、主は生きておられる。あなたが神の御顔を求め、その御子によって赦しを見いださない限り、あなたは万人を審くお方に対して、自分の語った言葉についてはるかに多くの申し開きをしなくてはならなくなるであろう。私たちの《救い主》によれば、人はその口にするあらゆる無駄な言葉について、審きの日には云い開きをしなければならない[マタ12:36]。では、彼らはいかに多くの云い開きを要求されることであろう。自分たちが口にしてきた、邪悪で、偽りで、中傷に満ち、冒涜的なあらゆる言葉について!

 しかし、誓って物を云い、正確に真実を語るよう注意していながらも、決して神と霊的に語り合うことはしないという人々は数多くいるではないだろうか? あなたは、まさにみじめな生き物である。たといあなたが健康で富み栄えていようと、あなたは最高の善を――人が知りえる最高の祝福を――取り逃がしている。

 ある人々は、神を知ってはいても、神と和解させられたいと思わない。神と人との間には、完璧な和解の道がある。キリスト・イエスを信じる者は誰でも、たちまち赦される。その人は神の家族の子とされる。神の愛という葡萄酒を飲む。永遠の救いによって救われる。多くの人々は、こうしたことを頭では分かっている。だが、それを得たいという願いは心の中で決して起こらない。しかり。和解されようがされまいが、彼らは全く頓着しない。あなたは知っているだろうか? おゝ、人よ。それが平たく云うとこう云っているということを。「私は神に公然と反抗する。私は彼の愛など欲さないし、彼の憎しみを恐れもしない。私は彼の雷電の前にも自分の顔を上げ、最悪のことをしてみろと云うであろう」。おゝ、ほむべき神への、いかに命取りな、また、いかに公然たる挑戦であろう! 願わくは神の御霊が今あなたの良心に働きかけ、この状態の邪悪さを見てとらせ、そこからあなたを立ち返らせてくださるように! 私は、このように語りながら、そうしたことを語らざるをえないことに深い憂悶を感じている。だが、私はただ、この場にいる多くの良心が真実であると告白せざるをえないことを語っているにすぎない。あなたは――あなたがたの中のある人々は――神を知りつつ生きていながら、その神を神としてあがめていない。

 さて、私は本日の聖句から二番目の非難を取り上げよう。これも同じくらい悲しいものである。パウロが言及している人々は、《感謝のなさ》を非難されている。彼らは、「神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝も」しない者だ、と云われているのである。

 私がある人について云える最悪に近いことは、その人が恩知らずだということである。そして、その人が神に感謝をしないというとき、それはその人について云える最悪のことを云ったことになる。さて、単にパウロの時代に生きていた人々を眺めるだけでなく、いま生きている人々をも眺めて見るがいい。私はたちまち多くの人々の忘恩を証明するであろう。多くの訴因について、私たちは神の《高等法院》で彼らを告訴しなくてはならない。

 最初に、神は蔑まれている。あなたがた、人生に乗り出しつつある若い男たち、婦人たちは、もしも聡明で賢ければ、こう云うであろう。「私たちは、自分が健康で幸福にしていられるためには何をすべきか知りたいと思います。また、自分のからだのためにならないどんなことを避ければ良いか知りたいと思います」、と。よろしい。では、十戒という律法の書は、道徳世界の衛生法規にほかならず、何が私たちを傷つけ、何が私たちのためになるかを告げているのである。私たちは、このような平明な指針を与えられていることに大きな感謝をささげるべきである。「何々せよ」。「何々してはならない」。しかし、見よ。神はわざわざ私たちに、この道の地図を与え、正しい路を指し示してくださったのである。だのに、ある人々はこの天的な手引書を蔑んでいる。彼らは真っ向から律法に逆らって進んできた。事実、まるで彼らは、律法が存在していればこそ、それを破ろうと挑発されているように見える。これは恐ろしい忘恩ではないだろうか? 神が、「何々してはならない」、と仰せになるとき、それは常に、私たちがそれを行なうと害をこうむるからである。時としてロンドンでは、公園の池の氷が十分に固く凍りついていないとき、「危険」と記された立て看板が立つことがある。馬鹿でもなければ誰が危険信号の立っている所に行くだろうか? この十の戒めは、何が危険かを、否、何が命取りになるかを指示しているのである。禁じられているすべてのことに近づかないようにするがいい。

 次に、神に感謝しない人々によって、神の日は栄誉を汚されている。神は、大きなあわれみによって、私たちが休息をとり、また、聖なる事がらについて考えるべき日として、七日のうちの一日を私たちに与えておられる。神は一週間のうちに七日を有しておられた。そして、「六日を取って、それをあなたの仕事のために用いるがいい」、と仰せになった。否、私たちは七日目も自分のものにしなければ我慢できないのである。まるでこういった具合である。ある人が路上で困窮している貧乏人を見た。手許に七シリングあったので、この寛大な人は六シリングをこの貧乏人に与えた。だが、この下劣な男はよろよろと立ち上がると、自分の恩人の後を追い、殴り倒しては、七つ目のシリングを奪い取ったのである。いかに多くの人々が同じことをしていることか! 安息日は、彼らが気晴らしや、娯楽や、あらゆることを行なうことのためにあるが、神への奉仕だけは例外だ、と。彼らは神からその日を奪う。七日のうちの一日であっても関係ない。これは卑しい、感謝知らずである。この場にいる多くの人々は、自分にその罪があると告白するではないだろうか? だとしたら、これ以上一日も安息日を無駄にしてはならない。むしろ、この神聖な時を、また、その間の週日すべてを費やして、勤勉に神を求めようではないか。そうすれば、あなたが神を見いだしたとき、主の日は七日すべての中で最も輝かしい宝石となるであろう。そしてあなたは、ウォッツ博士とともにこう歌うであろう。――

   「ようこそ、甘き 憩いの日、
    よみがえられし 主を見し日。
    今はわが胸 目覚めたり、
    わが目に喜び 満ちてあり!」

 さらに、こうした恩知らずな者どもによって、神の《書》がないがしろにされている。神は私たちに一冊の《書》を与えておられる。ここにその本がある。このように知恵に満ち、このように愛に満ちた《書》が、これまでにあっただろうか? 膝まずいてこれを眺めるがいい。というのも、この頁の間では天国を見いだせるからである。しかし、神がわざわざこの素晴らしい《書》を作られたのに、多くの人々は面倒がってそれを読もうとしない。あゝ、何という忘恩であろう! 父が愛を込めた手紙を息子に出す。だが、息子は読みもしないで放っておくのである! ここに一冊の《書》がある。蒼天の下にこれに似たものは1つもなく、神はこれを、あらゆる身分や状態、また、世界史上のあらゆる時代の人々にとって完璧な《書》とするために、その全知すら行使された。だがしかし、人の忘恩のすさまじさよ、彼はそれから離れ去るのである。

 しかし、それよりも悪いことがある。感謝しない者たちによって、神の御子が拒絶されている。神には、おひとりしか御子がおられない。それも、いかなる御子であろう。神ご自身とともにおられる、無限で、聖く、神の喜びである御子である! 神はその御子をふところから取り、この地上へ遣わされた。御子は私たちの性質をまとい、しもべとなり、悪漢同様の死、十字架の死を忍ばれた。それもこれもみな、私たちを救うため、咎ある者のため、神の敵であった者たちのためである。このことについて語っている間、私は自分が涙を迸らせないことで、自ら咎ありと感じる。これは、御使いたちが理解できない神秘の1つであるに違いない。キリストが死なれた後でも、キリストによって救われることを望まない罪人たちが見いだされたのである。彼らは、血で満たされた泉で洗われることを拒否した。永遠のいのちを拒絶した。それが、主の傷ついたからだの、五つの大いなる泉から流れ出ていようと関係ない。彼らは、主の血によって救われるよりは、むしろ地獄を選んだ。自らの陰惨な敵、罪を愛しすぎていたため、神に和解させられたがらなかったのである。神の御子の死によってでさえ関係ない。おゝ、忘恩よ。お前はその究極の限界へと達してしまっている。というのも、お前は神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、《恵み》の御霊を侮っているからだ[ヘブ10:29]。これは、途方もないことではないだろうか?

 私は、ここで止まることもできよう。だが、一部の人々の良心を刺すため、私はこう云いたい。愛する方々。一部の人々はあまりにも忘恩な者であるため、神による数々の救出が忘れられている。何年か前に、私はひとりの兵士と話をしたことがある。彼はあのバラクラーヴァの破滅的な突撃で騎乗していた兵士であった。彼がそう告げたとき、私は彼の手を取った。全く見ず知らずの人だったが、そうしないではいられなかった。私は目に涙を浮かべて云った。「あゝ、そのように命拾いをした後では、あなたが神の人となることを私は願いますよ」。ほとんどすべての鞍が空となり、右に左に弾丸と砲弾が飛び交い、死が全旅団をなで切りにしていた。だのに、彼は免れたのである。しかし、私の見た限り、彼は自分の心をキリストにささげていなかった。向こう側にいるひとりの人は六度も難破したことがある。そしてその人は、もしもこのまま頓着しなければ、未来永劫に難破してしまうであろう! この場にいるある人は黄熱病にかかったことがある。あゝ、今のあなたは、それよりも悪い熱病にかかっている! 私は、ここで、あらゆる異様な救出について語ることはできない。だが、間違いなく私が話しかけている人々の中には、死の顎の間にはさまれたことのある人たちがいるはずである。そうした人々は、かのすさまじい断崖の縁から、かの底なしの深淵を覗き込んだことがあった。あなたは誓いを立てた。もし神が自分のいのちを救ってくださるなら、もう二度と以前のような自分にはなりません、と。そして実際あなたは以前の通りではない。前よりも悪くなっているからである。あなたは今や光に反して、また、恥ずべき忘恩とともに罪を犯しつつある。神があなたをあわれんでくださるように!

 いかにしばしば、愛する方々。未回心の人々の側における忘恩は、神の摂理への無視という件に見られることか! 何と、あなたがたの中のある人々を見るがいい! あなたは生まれてこのかた一度も食事を抜かしたことがない。食卓に行けば、常に何かがそこに乗っている。あなたは寝床がないために、一晩の休息を取れなかったことが一度もない。あなたがたの中のある人々は、子どもの頃から、心が願うことのできるだろうことすべてを有してきた。もし神が、多くの人々が貧困で押しつぶされている時にも、あなたをそのように扱ってこられたとしたら、何らかの感謝をあなたから受け取ってしかるべきではないだろうか? あなたには素晴らしい母上がいた。優しい父上がいた。人間関係が変わるにつれて、あなたの慰安は増し加わっていった。あなたはいのちを守られ、あなたの母上もいのちを守られている。あなたの妻子もいのちを守られている。実際、神はあなたの通り道を非常になだらかなものとしてこられた。あなたがたの中のある人々は、他の人々が失敗しているときも、仕事でうまくやっている。あなたがたの中のある人々は、他の人々が伴侶を亡くし、次々に子どもを喪ってきたときも、家内であらゆる慰めを得ている。あなたは一度も感謝しないのだろうか? かたくなな、かたくなな心よ。お前は決して砕かれようとしないのだろうか? いかなるあわれみも、お前を屈させないのだろうか? 私は、この場にいるある人々に訴えたい。これまでの通り道があわれみで満ちている人たち。そうした人は神について考え、真摯な悔い改めと信仰をもって神に立ち返るべきである。

 しかし、ある人は云うであろう。「私は幸運だっただけですよ」。これ以上に悪辣なことがあるだろうか? まことに、ここには神への感謝が全くない。神の良い賜物を人は「幸運」のせいにしているのである。「よろしい。そうですが、私は非常に勤勉に働く人間なのですよ」。あなたがそうした人であることは承知している。だが、そのように働く力をあなたに与えたのはどなただろうか? 「私には、他の人にないような卓抜な知力があるのですよ」。あなたは、自分で自分の知力を作り出したのだろうか? あなたは、自分自身の知恵だの、自分自身の才覚だのについて語っている人々の額には、決まって大文字の「馬鹿」という文字がでかでかと記されているように感じないだろうか? 私たちは一切のものを神に負っているのである。神に何も返さないのだろうか? 自分のあらゆる祝福の源であるお方に、何の恩義も感じないのだろうか? もしそうしてきたとしたら、神が私たちを赦し、私たちに自分の過去のあり方を今すぐ変える恵みを与えてくださるように!

 さらに云えば、多くの人々が犯している忘恩の罪がもう1つある。そうした人々は神の御霊に抵抗する。神の御霊は彼らのもとに来られ、優しく彼らに触れられる。ことによると、あなたが今晩この場に座っている間、御霊はそうしておられたかもしれない。あなたは云ってきた。「そうあからさまに語りかけないでくれ。もう少しわれわれを慰めてくれ。われわれに息をつく暇をくれ。そして、そう責め立てないでくれ」、と。私は、あなたを扱っているのが、説教者ではなく神の御霊であってほしいと願っている。いずれにせよ、御霊はこれまで幾度となく恵み深くあられたし、あなたは、あなたの最高の《友》を自分の心から追い払おうとしてきた。その方に対してひどく狭量で、その方があなたをキリストへと導こうとして来られたとき、あなたは自分の全力を奮い起こしたし、悪魔があなたの加勢に駆けつけてきた。そして今に至るまであなたは神の御霊に抵抗しおおせてきた。主があなたをあわれんでくださるように! しかし、祈りの家の中に見いだされる多くの人々にとっても、本日の聖句はやはり何と真実なことであろう。「彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず」!

 さて、しめくくりに第三の点を語ろう。それは、《不敬と忘恩は知識に逆らっていた》ということである。「彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず」。

 注意してほしい。本日の聖句によると、知識は、聖なる行ないに至らない限り何の役にも立たないのである。「彼らは、神を知って」いた。彼らが神を知っていたことは何の役にも立たなかった。「その神を神としてあがめ」なかったからである。それで、そちらにいる、神学の造詣深い愛する方々。諸教理について重箱の隅をほじくってやまないほど精通している方々。あなたが何と考えるか、あるいは、何を知っているかは、それによってあなたが神をあがめ、感謝するようにならない限り、大した意味はない。否。あなたの知識は、あなたの首にゆわえつけられ、あなたを永遠の災厄へと沈み込ませる石臼になりかねない。あなたの知識が聖なる行ないにならない限りそうである。

 実際、知識は、不敬で忘恩の者たちの責任を増し加えるであろう。パウロは云う。「彼らに弁解の余地はないのです。というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず」。神について一度も聞いたことがない人々について、いかなる弁解の余地があろうとも、こうした人々には全くない。話をお聞きの愛する方々。あなたにも「弁解の余地はない」。あなたがたの中の多くの人々には敬虔な両親があった。あなたは福音を伝える牧会者の下にいた。あなたの《日曜学校》の教師たちや、キリスト者の友人たちは、あなたに救いの道を教えてくれた。あなたは無知ではない。もしあなたが神をあがめないとしたら、もしあなたが神に感謝しないとしたら、審きの日には、ソドムとゴモラの地でも、あなたよりはまだ罰が軽いであろう[マタ10:15]。彼らは、あなたが蔑んできたような種々の特権を一度も得ていなかったからである。思い出すがいい。いかに《救い主》は、数々の力あるわざの行なわれた町々が悔い改めなかったので、お責めになったことか。「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう」[マタ11:21]。私にはほとんど判断がつかない。このあわれな人々が、キリストの数々の力あるわざを見ても悔い改めなかったことと、そうしたわざを見たならば悔い改めたであろう人々が、それを見ることを許されなかったことと、どちらがいやまさって驚くべきことかを。

 私は願う。愛する方々。あなたがこの、神をあがめず、感謝もしないという状態から脱することができるように、と。確かに、あなたに必要なことはただ、この申し立てが述べられ、神の御霊があなたの良心に語りかけ、あなたにこう云わせることだけである。「私は、もはや神についてこのように恐ろしい状態には、とどまり続けられない」。願わくは神が今晩、あなたを悔い改められるようにしてくださるように! 心を変えるがいい。それが「悔い改め」という言葉の意味である。あなたの心を変えて、こう云うがいい。「私たちは神をあがめます。世には《偉大な第一原因》がおられます。ひとりの《創造主》がおられます。全能で、全知の《存在》がいるに違いありません。私たちはその方を礼拝しましょう。自分の心の中で云いましょう。『この神を私たちの神とし、この方に私たちは信頼します。私たちを受け入れてくださりさえするなら』」、と。

 それから、過ぎ去った歳月を思い起こすがいい。そこには多大な負債が含まれており、あなたはそれを支払えない。たといあなたが、これから生涯の最後まで毛ほどの欠陥もなく神に仕え通すとしても、なおも過去の負債は未払いのままである。過ぎ去った歳月がある。そして、「神は求めり 過ぎにし歳月(とし)を」。よろしい。さて、神が何をなされたか聞くがいい。神はご自分の愛する御子を与え、「十字架の上で、私たちの罪をその身に負わ」せられた[Iペテ2:24]。そして、もしあなたがキリストに信頼するなら、確実に知るがいい。キリストはあなたの罪を取り除いておられ、あなたは赦されるのである。「仰ぎ見よ」。――これが主のことばである。――「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ」[イザ45:22]。青銅の蛇が上げられたとき、人々が命じられたことはただ、その青銅の蛇を仰ぎ見ることだけでしかなかった。そして、見た者はみな生きた。もしその群衆の中の誰かがモーセを見ていたとしたら、そうした人々は癒されなかったであろう。燃える蛇[民21:6]を見て、それを引き剥がそうとしていたとしたら、それで癒されはしなかったであろう。しかし、青銅の蛇を見て、その青銅のかすかな光を目がとらえたなら、その致命的な蛇の咬み傷は癒され、そうした人々は生きた。イエスを仰ぎ見るがいい。いま仰ぎ見るがいい。願わくは聖霊なる神があなたを導き、そうさせてくださるように!

 「私はふさわしくないと思います」、とある人は云うであろう。それは、あなた自身を見ているのである。「私は自分の必要を十分感じていません」、と別の人は云うであろう。それは、必要を感ずる自分の感覚により頼んでいるのである。自分の内側、または回りにあるすべてのものを追い払い、ただキリストに信頼するがいい。そうすれば、あなたはたちどころに救われるであろう。この大会衆の中にいる誰であれ、イエスを仰ぎ見さえすれば、その場で救われるであろう。あなたのもろもろの不義がいかに大きくとも、また、あなたの心がいかに石のようであっても、また、あなたの心がいかに絶望的であっても、見よ、見よ、見よ、見よ。そして、そのとき、あなたがキリストを仰ぎ見るそのとき、あなたの忘恩は赦され、死に絶えるであろう。あなたは、あなたを愛されたお方を愛するようになり、救われるであろう。永遠に救われるであろう。

 先週の主日の晩に、八十二名の方々を教会に受け入れたとき、私は1つの熱心な祈りを小声でささげずにはいられなかった。これが信仰復興のきっかけとなりますように、と。願わくは、それが今晩来るように。また、この2つの桟敷席の中の、また、その下の一階席にいる多くの人々が、かの力ある恵みのほむべき潮にさらわれ、足をすくわれ、千歳の《岩》の上へと無事に上陸させられるように!

 愛する方々。あなたはそのために祈りたくないだろうか? 私は感ずることであろう。私というあわれな、弱々しい媒介であってさえ、もしもあなたの祈りが私の背にあるとしたら、最も大いなるわざを行なうのに全く十分であろう、と。あなたは今晩、家庭の祭壇において、あるいは、自分自身の寝台のかたわらにおいて、このことを特別な祈りの課題としたくはないだろうか? 神を知りながら、その神を神としてあがめず、感謝もしていない人々が、今晩神に立ち返るように、と。もし私が、あなたがたの中にいる、キリストから離れて生きている人々をとらえることができたとしたら、私は、ローマの使節たちが行なうのを常としていたことを行ないたいと思う。彼らは、帝国と交戦中のある王のもとに行ったとき、こう云った。「そなたはローマとの平和を望むか、望まぬか?」 もしも相手が、よく考える時間がほしい、と云うと、彼は自分の杖でその男の回りに1つの輪を描いて、こう云った。「そなたは、この線を越える前に決めなくてはならぬ。というのも、ここから外に踏み出す前に、『平和を』、と云わなければ、ローマはその軍隊でそなたを粉砕するだろうからだ」。会衆席には何の扉もついていないが、ついていたとしたら私はこう云うであろう。「その扉を閉じるがいい。そして、神が彼らに決断させるまで、彼らを外に出してはならない」、と。主よ。彼らを閉じ込めてください! とらえてください。堅くにぎり、そのひとりひとりがこう云うまで、放さないでください。「信じます。不信仰な私をお助けください」[マコ9:24]、と。願わくは、神があなたがたすべてを祝福し給わんことを。イエスのゆえに! アーメン。

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弁解の余地なき不敬と忘恩[了]

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