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刈り入れ時の喜び

NO. 2265

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1892年7月17日の主日朗読のために

説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1890年7月6日、主日夜


「あなたはその国民をふやし、その喜びをまし加えられた。彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜んだ」。――イザ9:3


 注意してほしいが、私は、自分の読んでいる聖書の訳に1つの訂正を行なった。欽定訳聖書にはこう記されている。「あなたはその国民をふやし、喜びを増し加えられなかった」。これは、その前後とつじつまが合わない。改訂訳聖書は、非常に適切にもこう記している。「あなたはその国民をふやし、その喜びをまし加えられた」。私には得々として示せるような学識はないが、しかるべき時であれば、いかにしてこの箇所が、「増し加えられなかった」、と読まれるようになったかをあなたに示せると思うし、この場合、改訂訳の翻訳者たちがそれを変えたのが正しかったことを証明できるとも思う。

 今晩は、八十二人の人々が教会の前でキリストを告白し、バプテスマを受けた。彼らは私たちの交わりに受け入れられることとなる。そして私たちは、このような大人数が私たちの教会員に加えられることに非常な感謝を覚える。いやが上にもそうであるのは、それが全く予想外のことではないからである。むしろ、毎月毎月、一年中を通じて人々は――確かに今回のような大人数ではないにしても――やって来続ける。このように私たちを祝福してくださる神に感謝すべきかな! 私たちは、このような折を、主の御前で喜ぶこともなく過ぎ去らせることはできない。人々がその麦の束を収めるときと同じである。

 あなたの喜びを引き出すために、かりにこう考えてみよう。もしも教会が増加せず、人数がごく僅かしか増えなかったとしたら、私たちはどのように感じるだろうか? 一部の昔なつかしい人たちは、ごく少人数でいることに全く満足しているように思われる。彼らの考えによると、天国への道は非常に狭いものであり――実際その通りであるが――、それゆえ、多くの人々がその道を見いだすと期待してはならないという。私の覚えているある教会では、昔なつかしい執事たちが回心者たちについてこう云うのが常であった。「夏と冬の間、彼らを放牧しておこう。長いことかけて試し終わるまで、彼らを閉め出しておこう」。結局、こうした「夏と冬の放牧」の後で、回心者たちの大多数は、全く入会を申し入れることがなかった。彼らは申し分のない人々ではあったが、このような教会に加わるだけの勇気を奮い起こせなかったのである。あなたは、ある農夫が自分の麦について、「夏と冬の間、放っておこう。それから倉に収めよう」、などと云うのを聞いたことがあるだろうか? 否。農夫たちはそれほど愚かではない。しかし、この善良な人々は非常に賢すぎて、埒を外れてしまった。それで、こう云ったのである。「麦は野に放り出しておけ。さもないと、芥子だの矢車草だのを持ち込んでしまうかもしれない。そんなものは欲しくない。回心者たちは教会の外に出しておけ。その中にひとりも偽善者がいないことが確実になるまでは」、と。よろしい。愛する方々。私たちは決してこうした考え方をしない。私たちは努めてあらゆる用心をし、非常な思慮を働かせるようにはする。また、私たちの友人たちは、吟味を経なくてはこの教会に入ることはない。人によっては、厳しい試練とも思われるような吟味である。だが、私の見いだすところ、ある教会に入会することが難しくなればなるほど、人々は入会したがるのである。また、この障壁が低められるとき、また、人々が自分の魂の状態についての何の試験もなしに入会できると告げられるときには常に、誰も入会したいとは思わないのである。よろしい。私たちは苦労して気を配り、ふさわしい者だけを――すなわち、イエスに信頼している者たちだけを――迎え入れるようにしてきた。だが、私たちのもとには大人数がやって来ている。しかし、かりに誰ひとりやって来なかったとしよう。よろしい。その場合、ここにいるキリスト者である人々はみな、そのことに心を痛めるはずだと思いたい。次のような疑問が起こっても無理はないであろう。「私たちは、誰か別の者を演壇に立たせた方が良いのではないだろうか?」 今ここに立っている、その誰かこそは、真っ先にこう云うであろう。「もし私が何の善も施していないのだとしたら、誰か別の者をやって来させて試させてほしい。というのも、魂を探し求めながら、それを全く捕まえることができないのは、悲しく、また、うんざりする仕事になるからである」。去年の冬、マントンで私は、一艘の小舟に乗って、人から魚群がいるはずだと請け合われた所まで行った。私は釣り糸を携えていた。百五十呎の長さだったと思う。そして何時間も待ったが、魚が食いつくのを全く感じることはなかった。私は、この無益な仕事をあきらめた。思うに、いかなる教役者であれ何日も骨折り仕事をした後で、キリストのために何も捕らえなかったとしたら、ある特定の場所で霊的な魚捕りをするのをあきらめるに違いない。ラケルは云った。「私に子どもを下さい。でなければ、私は死んでしまいます」[創30:1]。キリストのしもべも云う。「私に回心者を下さい。でなければ、私は死んでしまいます」。実際、私たちの伝道活動に関する限り、もしそれを神が祝福してくださらなければ、私たちは死んだも同然である。

 私たちがやはり感じるのは、他の人々が教会に加わるときには喜ぶべきだということである。なぜなら、私たちは、私たち自身が教会に加わったときのことを、歓喜の念とともに振り返るからである。私は、教会に加入する際に私が強いられた面倒のことを覚えている。私は、四日か五日続けて牧師に面会に行ったと思う。彼は私と面接するには常に忙しすぎた。とうとう私は彼にこう告げた。もうどうでもかまいません、私は教会集会に出て、私を会員にしてくれるよう申し出ますから、と。すると彼は、突如として私と面会する時間を見いだしたのである。そのようにして私はその教会に加入し、キリストに対する私の信仰を告白できた。おゝ、愛する方々。キリストを信ずる自分の信仰を公に告白し、キリストの民に加わったとき、それは私がこれまで行なった最上の日々の仕事の1つであった! この場にいる多くの人々も同じことが云えるだろうと思う。彼らは、自分が神の民に結び合わされ、公に自らの信仰を認めたときのことを覚えている。兄弟たち。あなたはそれを後悔していないではないだろうか。確かにあなたは、こう云えたときは幸いな日であったと感じているに違いない。――

   「成し遂げられぬ、大いなる取引(わざ)、
    われは主のもの、主はわれのもの」。

キリストを信じた後で、神の民に加わった際に私たちが得た平安な思いからして、私たちは、他の若い兵士たちがかがんでキリストの十字架を取り上げ、「キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て」[ヘブ13:13]、キリストに従っていくのを見るとき喜びを感じるのである。

 本日の聖句を眺めて、そこで第一に気がつくのは、《1つの分け隔ての言葉》である。もしあなたがこの箇所を注意深く眺めるとしたら、あなたはすぐにそれを見てとるであろう。「あなたはその国民をふやし、その喜びをまし加えられた」。

 最初に注目すべきことは、回心は主のわざでなくてはならないということである。神の教会にとって、唯一願わしい増加は、神がお送りになるそれである。「あなたはその国民をふやし」。もし私たちが、この世的になることによって、また、全く新しく生まれてもいない人々を取り込むことによって、私たちの諸教会の人数を増やすとしたら、あるいは、キリスト者の生き方を世俗の人々の生き方に合わせることによって私たちの諸教会の人数を増やすとしたら、私たちの増加には何の価値もない。それは得というよりも損である。もし私たちが、真理を知性に対して解き明かすことによってではなく、むしろ興奮や、種々の情動に訴えかけることによって私たちの諸教会の人数を増やすとしたら、また、もし私たちが、キリスト・イエスのうちにあって人々を新しく造られた者[IIコリ5:17]とする神の御霊の御力以外の何かによって私たちの諸教会の人数を増やすとしたら、その増加には全く何の価値もない。ある晩、ロウランド・ヒル氏が帰宅したとき、ひとりの男が溝の中から起き上がり、氏に近づくとこう云った。「ヒル先生。お会いできて何よりで。あっしは、先生の回心者のひとりでがんす」。ロウランドは云った。「その見込みは非常に高いと思いますな。あなたは神の回心者のひとりではありません。さもなければ、酔っ払ってなどいなかったでしょう」。この答えには、1つの大きな教訓がある。私の回心者たちなど役には立たない。ロウランド・ヒルの回心者たちは酔っ払うことがありえた。だが、神の御霊の回心者たち、彼らは本当に、超自然的な働きによって、心の霊において新しくされている[エペ4:23]。こうした者たちこそ、神の教会にとって真の増加なのである。「あなたはその国民をふやし」。主が私たちに回心者たちを送り続けてくださるよう、懸命に祈るがいい。主は決して間違った者たちをお送りにはならない。彼らがいかに貧しくとも、いかに無知文盲でも、もし彼らが回心させられているとしたら――そして主がお送りくださるとしたら彼らは回心させられているであろう――、彼らこそ、私たちが欲している当の人々である。願わくは神が私たちに、そうした人々をさらに何千人も送ってくださるように!

 この聖句がやはり1つの分け隔てする言葉によって私たちに教えてるのは、この章で主が述べておられるようなものが、回心でなくてはならないということである。「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った」[イザ9:2]。神が人々を教会にもたらされるとき、彼らは非常に尋常ならざる変化をこうむっている。彼らは、触れるほどの、ぞっとするような暗闇の中から、驚嘆すべき、また喜ばしい光の中に出てきている。神は、こうした者たちしかお送りにならない。もしあなたが変えられた人格でないとしたら、もしあなたがキリスト・イエスのうちにあって新しく造られた者でないとしたら、もしあなたが、「ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです」[ヨハ9:25]、と云えないとしたら、教会は、今のままのあなたを受け入れることはできず、神があなたを送られたのではない。さて、私たちを暗闇から光に立ち返らせることができるのは、神でなくて誰であろう? この、心のうちにおける偉大な奇蹟を誰が作り出せるだろうか? 心の闇は非常に動かしがたいものである。神でない何者が、天性の闇を貫いて永遠の光を突き破らせ、私たちをサタンの支配[使26:18]から神へと立ち返らせることができるだろうか?

 次に、回心はキリストと明確な関係を有していなくてはならない。この章をしばらくの間、読み下してみるがいい。すると、この素晴らしい箇所に達する。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる」[イザ9:6]。私たちが求めている回心者たちは、このキリストを知っている人々、このキリストが「不思議」なお方となり、「助言者」となっておられる人々である。私たちは、キリストを「力ある神、永遠の父」と呼ぶことができないような者たちが教会に加えられることを全く欲していない。私たちが求めている人々は、キリストが「平和の君」となっておられる人々である。もしこうした人々が私たちに加わるとしたら、教会はこの上もなく成長するであろう。それ以外の者たちが加わるとしたら、彼らは私たちの重荷を増やすばかりであろう。私たちの弱さとなるであろう。多くの場合、私たちの不面目となるであろう。話をお聞きの愛する方々。あなたは、自分がキリストを信頼しているかいないか分かっている。もし信頼しているとしたら、来て、キリストを告白するがいい。信頼していないとしたら、隠れた所で泣き、聖霊なる神に向かってこう叫び求めるがいい。どうかキリストを自分に、不思議な助言者、力ある神、永遠の父として啓示してください、と。そしてそれから、あなたがキリストを自分の《救い主》として知ったときに、来て、その民に加わるがいい。そして神は、あなたによって、その民を増やしてくださることになるであろう。

 さらに、この分け隔てについて云えば、この喜びは神が与えるようなものでなくてはならない。この聖句は云う。「あなたはその国民をふやし、その喜びをまし加えられた」。私たちが今晩有するべき喜び、成長しつつある教会がみな有すべき喜びは、神が与えてくださるような喜びであろう。そうした種類の喜びをこそ、私たちは有したいと願う。たとい誰かが教会の成長を見たいと願っても、それが他の諸教会の上にのし上がるためだったとしたら、それは神がお与えになる喜びではない。もし私たちが回心者たちを見たい理由が、自分たちの意見の広まるのを嬉しがるためだったとしたら、神がその喜びをお与えになるのではない。もし私たちが回心者たちを渇望するのが、他の人々から彼らを盗むためだとしたら、神がその喜びを――もしそれが喜びだとしたらだが――お与えになるのではない。私は神が羊泥棒を愛されるとは思わない。だが、その手の者たちはごまんといる。私たちは、他のキリスト者の共同体からキリスト者たちを連れ出すことによって、私たちの人数を増加させたいとは願わない。しかり。神が私たちにお与えになる喜びは、澄みきった、非利己的な喜びである。キリストの栄光が現わされること、魂が救われること、真理が広まること、そして、過誤が挫折されることに対する喜びである。願わくは神が、私たちに加えられた人々のことで、純粋な、キリストに似た、天的な喜びを与えてくださるように! おゝ、神がそのような喜びを増し加えてくださるならどんなに良いことか! 私は、それを神はすでに増し加えてくださったと思う。

 あなたは、出席者よりも空席の方が多いような所で礼拝したことが一度でもあるだろうか? 説教者が、他の何について説教しようと、キリストの尊い血についてだけは決して説教しないような教会あるいは会堂に行ったことがあるだろうか? キリストの血についてだけは、教役者が言及しようとしないのである。だとしたら、私には、あなたが毎回の礼拝の後でぶつぶつ云いながら通路を抜けて行く姿が目に浮かぶ。あるいは、あなたが講壇を見上げて、決して聞くことのないものを焦がれ求め、ついには安息日が一週間の中で最も味気ない日になってしまうまでとなっている姿が目に浮かぶ。おゝ、愛する方々! 僅かな人々。得られるものはほとんどなく、与えられるものはごく少ない。すさまじい「飢餓収容所」。あらゆる人が同輩を見ながら、次に死ぬのは誰だろうと思っている。よろしい。さて、私たちがそうではないことを、私たちは神に感謝すべきである。今晩ここに集った一団を見てみるがいい。今朝ここに集まった会衆を考えてみるがいい。あの真剣な注意を思い出し、いかに多くの聴衆に対して、神がみことばを祝福してくださったかを考えてみるがいい。個人的には、私は説教する中であれほど弱く感じ、あれほど大きな重荷を感じたことはこれまでなかった。だが、あれほど大きな祝福を受けたこともなかった。そこには、今までないほど多くの回心者たちがあった。神に栄光あれ。神から、そのみことばにおいて、その御力においてやって来る、こうした種類の喜びこそ、弱さの中から、そのしもべを強くするものなのである。

 ここまでが、分け隔てということである。

 さて、第二に注意すべきことは、《1つの描写の言葉》である。これが、この聖句の中心部分である。回心者たちを受け入れることにおける教会の喜びは、刈り入れ時の喜びにたとえることができよう。いかなる国でも、麦を刈り入れ、それを倉に収める時は、祭とみなされてきた。その刈り入れ時の喜びとは何だろうか?

 よろしい。それは、私たちが期待すべき喜びである。農夫は刈り入れ時を期待する。彼は、「もう何週間すれば刈り入れ時なのだろう」、と云う。彼がその種を蒔くのは、刈り入れ時のためである。次いで彼が雑草を抜く者となるのは、刈り入れ時のためである。よろしい。さて、あらゆる教会は、霊的な刈り入れ時を見張りながら待つべきである。ある人が一度私にこう云った。「私は数年の間、説教してきましたし、神はその言葉を祝福してくださったと信じます。ですが、誰も前に進み出て私にそうと告げないのです」。私は彼に云った。「来週の主日、みなに向かってこう云いなさい。『私は説教の後、牧師室で待っています。回心した方々とそこで面会しましょう』、と」。彼を驚かせたことに、十人から十二人の人々がやって来た。そして、彼は全く唖然とさせられたが、もちろん、全く喜ばされた。彼は刈り入れ時を見張りながら待っていなかったので、もちろん、それを得なかったのである。あなたは、私の最初の学生であるメドハースト氏について私の語る話を知っているであろう。彼は、来る日曜も来る日曜もタワー・ヒルで説教し続けた。そのときの彼は私の学生ではなく、教会の青年たちのひとりでしかなかった。それから彼は、私のもとにやって来て云った。「ぼくは、もうタワー・ヒルで何箇月も説教してきました。だのに、一度も回心する人を見ていないのです」。私は、どちらかというと鋭く彼に云った。「君は、自分の口を開こうとするたびごとに、神が君を祝福してくださると期待しているのか?」 彼は答えた。「おゝ! いいえ、先生。そんな期待はしていません」。「ならば」、と私は答えた。「それこそ、君が祝福を得ていない理由なのだ」。私たちは祝福を期待すべきである。神は云われた。「わたしのことばは、むなしく、わたしのところに帰っては来ない」*[イザ55:11]。しかり、決してそうはならない。私たちは刈り入れ時を見張りながら待つべきである。心を尽くして福音を宣べ伝える者は、回心について耳にしなければ驚くべきである。また、自分の心の中でこう云い始めるべきである。「その理由を見つけなくては」。そして、それを見つけ出すまで決してやまないであろう。刈り入れ時の喜びは、私たちが期待すべき権利のあることである。

 次に刈り入れ時の喜びは、それ以前の骨折り仕事が尊重される喜びである。刈り入れ時を喜ぶことになる人とは、鍬で耕すこと、種を蒔くことにおいて悲しんできた人である。自分の作物が穂の中に入ったとき、また、霜や、葉枯れ病や、白渋病がそれをだいなしにする恐れがあったときに、それを見守ることにおいて悲しんできた人である。兄弟姉妹。この場にいる私たちの中の多くの者らは、刈り入れ時の喜びを喜ぶことができる。なぜなら、キリストに回心したこの人々の中に、私たちは自分のいのちの激しい苦しみの実を見ているからである。私はまず第一に神に感謝し、それから次にあなたがたの多くに感謝する。私が求道者たちと面会する席に着くとき、非常に多くの場合、私が見いだすのは、実は私が、そこにやって来る人々の信仰における父というよりも、彼らの霊的な祖父だということである。というのも、私の見いだすところ、あなたがた、神が私にもう何年も前に与えてくださった人たちが――その大多数が――他の人々の魂を求めることにおいて勤勉だからである。この教会に加わる、あなたがたの中の多くの人々の場合、その回心は、直接に私の伝道活動によるというよりも、この姉妹、また、あの姉妹によるものであり、この兄弟、また、あの兄弟によるものなのである。私は、そのようであることを非常に喜んでいる。この二日間、私は二人の友人に話をしてきた。両名とも私にこう云った。「私は先生の霊的な孫に当たるものです」。米国からやって来たひとりの人は、今朝そう云った。私が、「なぜそうなるのです?」、と尋ねると、その答えは、「先生がキリストに導かれた何某氏は、米国にやって来て、私をキリストに導いてくれたのです」。あなたがた、今晩受け入れられることになる、この八十二名の人々の回心に少しでも関与した人たちは、喜ぶであろう。あなたが吐息をつき、祈り、打ちひしがれ、心くじかれ、失望した度合に応じて、あなたはこの刈り入れ時の喜びを喜ぶであろう。

 しかし、次に、これは堅固な土台を有する喜びである。私の知る限り、何にもまして喜ばしい折とは、若い青年男女が、また、さらに云えば、年老いた男たちや女たちもまた、キリストを告白するよう導かれ、その民と結び合わされるときである。結婚式に出席するのは非常に喜ばしいことである。だが、その結婚がどう転ぶかは常に憶測するしかない。だが、ある魂が自らをキリストに明け渡すのを見るとき、その結果について何の憶測もない。そこには、ほむべき確実さがある。おゝ、御使いたちは、ある男が、ある女が、あるいは、ある子どもが、「私はイエスに信頼します。私はその御名を告白します」、と云うとき、常にもまして甘やかに歌うと思う。キリストに対する真の信仰が、いま現在の救いを意味していると私たちは知り、信じている。ならば、そこには大いなる喜びがある。先日、私が耳にしたある説教者たちは、いま現在の救いなどというものはないと云っているという。そして、絶えず説教してはいるが、人々に向かって、しばしば、こう云うのだという。彼らは死に臨むときには救われるに違いないが、いま救われているなどということはないのだ、と。私はこうした兄弟たちに、クルーデン氏が配布するのを常としていた小冊子、『若く無知な者のための教理問答』を進呈したいと思う。というのも、たとい彼らが「若く」ないとしても、確かに信仰の初歩的原理について「無知」ではあるに違いないからである。あなたは、今でさえ救われている。もしそうでないとしたら、私は刈り入れ時の喜びをもってあなたについて喜ぶべき何の理由も見てとれない。

 さらに、私たちの信ずるところ、もしあなたがキリストに信頼しているとしたら、あなたは永遠に救われているであろう。御使いたちは、悔い改めた罪人について早まって喜びはしない。彼らは決して互いにこう云い交わしはしない。「ガブリエルよ、ミカエルよ。あなたがたは先日とんでもない間違いをしましたよ。あなたがたは、神の御前であの男について喜びましたが、結局、彼は地獄に下っていったのです。あなたがたが鐘を鳴らすのは早すぎましたよ」。御使いたちはそのようなことはしない。イエスはご自分の羊に永遠のいのちをお与えになり、彼らは決して滅びることがなく、また、誰も主の手から彼らを奪い去るようなことはない[ヨハ10:28]。それゆえ、私たちはキリストを告白することは、それ自体で、喜ぶべきことだと感じる。また、それに伴う即座の救い、そして、そこに含まれている永遠の救いからすれば、私たちが刈り入れ時の喜びをもって喜ぶのは当然である。

 さらに、これは未来に目を向けている喜びである。人々が刈り入れ時を喜ぶのは、自分たちが冬の間中、いま取り入れているものによって食物を養われることを思い出すからである。ロンドン一貧しい男でも、良い刈り入れ時については感謝すべき理由がある。というのも、それは食物を安くする助けとなるだろうからである。私たちは、来たるべき日々において、刈り入れ時に集めるものを楽しむことになる。そこには、《孤児院》出身の十六人の少女たちが教会に加入しようとしており、私は、私の信ずるところ、やがて長い人生の中でキリストの栄光を現わすことになるだろう十六人の婦人のことを思い、やがて教会の中でデボラたちや、ドルカスたちや、フィベたちや、あるいは、あなたが考えたがる聖なる婦人たちの誰彼のようになるだろう十六人の夫人たちのことを思って、私の心で喜んでいる。ここにやって来る少年たちもまた、いかに若くとも、また、いかに、ある人々の目には小さく見えようとも、成長して何になるか私たちには見当もつかない。今晩、私が受け入れようとしているのは、一個のリヴィングストンや、モファットや、ウィリアムズや、ホイットフィールドや、ウェスレーや、その他の神のしもべのような、何らかの領域において、神のために高貴な奉仕を行なうことになる者たちかもしれない。

 愛する方々。あなたがたの中のある人々は、すぐにいなくなるであろう。この場にいるある人々は、私よりも年長であり、自然な事の成り行きからすると、じきに共同墓地で眠ることになるであろう。あなたは、他の人々が前に進み出るのを見て喜んでいないだろうか? 彼らは、あなたがもはや塁壁に立てなくなるときも、「砦を守る」であろう。そして、この未来の希望ゆえに、私は刈り入れ時の喜びをもって喜ぶものである。

 これは、私たちが加わって良い喜びである。というのも、刈り入れ時には、そうしたい者は誰でも喜べるからである。そこに畑の所有者がいる。彼は喜んでいる。いかに大いにキリストは喜んでおられることか! そこに労働者たちがいる。彼らは、その荷を倉庫にかかえこむとき歓声を上げて良い。彼らは、あの小麦畑にどれだけの労力がつぎ込まれたかを知っている。私たち、地上でイエスのために働いている者たちは、刈り入れ時の喜びを有そうではないか。見物人たちもまた、そばを通り過ぎる際に収穫物が集められているのを見て立ち止まり、垣根越しに歓声すら上げるであろう。もしあなたが、自分は救われていないとしても、あなたは他の人々が救われているのを見て喜んで良い。たといあなた自身は天国に向かっていなくとも、他の人々がほむべき路を選んだことを喜んで良い。私は、あなたさえをも、来て、私たちと刈り入れ時の喜びをともにするよう招くものである。向こう側にいる、落ち穂拾いのルツは云う。「私は何度もかがみ込み、その働きで、ほとんど背骨が折れそうになっています。だのに私が拾えたのは、この僅かな一握りだけです」。私はあなたを知っている。姉妹よ。そして、あなたが、そのひとりでもキリストのもとに導くことになったのを喜んでいる。私はあなたを知っている。私の兄弟よ。そして、あなたがひとりの子どもさえも《救い主》へと導くことになったのを、あなたとともに喜んでいる。あなたは落ち穂拾いでしかなくとも、今晩、刈り入れ時の喜びにおいて私たちに心から加わるがいい。

 それから、私たちの刈り入れ時に起こることは、普通の刈り入れ時には起こるはずのないことである。というのも、刈り入れられた者たちが喜ぶからである。束は歌うことができず、麦の穂は声を上げることはできない。だが、私たちの刈り入れ時に、あらゆる者の中で最も幸福なのは、天来の恵みによって召された者たちである。そして、彼らは幸福であり、私たちは幸福であり、全員が幸福である一方で、今晩のこの集会の上を舞っている御使いたちは、この7月最初の安息日にしるしをつけ、それを彼らにとってさえ特筆すべき日とするであろう。今晩はこれほど多くの人々が、初めて自分たちの主の食卓に着き、ここでその御名を告白することになるのである。

 私には語るべきことが山ほどあるが、手持ちの時間はほとんど尽きかかっている。いま云えることはただ、これがそれを抑制する響きを伴う喜びだということである。「何と!」、とあなたは云うであろう。「それは何です?」 その農夫は云う。「私は、あの荷を非常にたくさん取り入れた。だが、それを脱穀したらどうなることやら」。私は、教会に加えられるあなたがたについてしばしば考える。そして、あなたがたは第一級の人々だ、これほどすぐれた人々を見たことはない、と思う。だが、あなたが教会の中に入ったとき、どうなるかと思う。この教会の教会員の中には、キリストのために何かをしているとは決して聞こえてこない者たちがいる。彼らは物静かにせっせと働いているのかもしれないが、残念ながら、一部の者はそうではないのではないかと思う。私の知るところ、この教会のある人々は、本来しかるべきあり方よりもまさってはいない。実際、それは私たち全員に当てはまるこうである。だが、一部の人々は、キリストに対する実際的な奉仕という点で、本来あってはならないあり方をしている。私たちは、乗合馬車に乗り込む乗客は数多く得ているが、その馬車を引っ張る者たちはそれほど多くない。あまたの人々は果実を食べるが、若木を植える者たちはさほど多くない。それでも私はこのことをそれほど重々しくは、あるいは何かしら大きく強調しては云うまい。というのも、この教会の大部分の会員たちは神への奉仕に熱心に携わっているからである。そのことゆえに私は神の御名をほめたたえるものである。それでも、それは刈り入れ時に関わる疑問である。「これは脱穀すればどうなるだろうか?」

 別の疑問がある。この中のどれほどが、最後の大いなる日に真の麦であると見いだされるだろうか? あゝ、私たちは、私たちのいかにすぐれた者らをもさばき、それも非常に注意深く吟味するかもしれない。だが、羊の中には常に山羊たちがおり、麦の間には常に毒麦があるであろう。そして、これが私たちの喜びの杯の中にある、少量の苦々しさである。願わくは私たちに加えられた者たちの中に、より良く成長する代わりに悪化していく者たちがあまり多くないように! 彼らは最後の大いなる日にいかに立つことになるだろうか? 「よろしい」、とある人は云うであろう。「私はあなたがそのことに言及してくれて嬉しく思いますよ。私は常に信仰復興に反対してきました。なぜなら、それによってあまりにも多くの人々がやって来て、その回心者たちの多くは離れ去ってしまうからです」。愛する方々。あなたは、それに対するフラートン氏の答えを覚えているだろうか? 私はそれが、善良で完全であるばかりでなく、軽妙なものでもあると思った。彼はこう云ったのである。人々が、自分たちは信仰復興を好まない、なぜならその回心者たちの何人かは後で逆戻りするからだ、と云うとき、それは自分の郷里の人に似ている、と。その彼の同郷人は、一枚のソヴリン金貨を拾った。だが、それを持って銀行に行ったとき、それは軽いソヴリンであると分かったのである。それで、彼は十八シリングしか得ることができなかった。よく聞くがいい。彼はそれを拾ったのであり、その十八シリングは明らかな得であった。それからしばらく後になって、彼は別のソヴリン金貨が路に落ちているのを見たが、それを拾い上げはしなかった。「なぜって」、と彼は云った。「先日わしが拾ったソヴリンでは二シリング損をしたからな。わしは、お前を拾わんぞ。おそらくお前でも、わしは十八シリングしか手に入らんだろうよ」。それで彼は通り過ぎ、そこにそれを残しておいたという。私は、アイルランド人がそれほど思慮が足りないとは思わない。確かに、いかなるスコットランド人もそれほど無分別ではないであろう。そして、いかなる英国人もそのようなことはすまい。しかしながら、それこそ、信仰復興ではあまりにも多くがやって来て、その後あまりにも多くが悪い者であることが分かると云う人の知恵のなさと同工異曲なのである。よろしい。だが、後の残る者たちは明らかな得なのであり、あなたは、そうした得を何度も繰り返して得たいと願うべきである。あなたは、もしそれらをあなたに与え続けてくださるとしたら、そうした損失を通して金持ちになるであろう。しかしながら、私は今晩はいかなる軽いソヴリン金貨も有していないものと望んでいる。それでも、たといこれらの回心者たちが耳を揃えて一ポンドあたり二十シリングにならず十八シリングにしかならなかったとしても、私はその十八シリングを得たことで非常に喜ぶであろうし、神がその一切の栄光をお受けになるであろう。

 私は、自分がここでいったん立ち止まろうと思う。私の講話の中にはもう1つの区分があるが関係ない。そして、しめくくりとして、四つの問いを発したいと思う。

 最初に、決して種を蒔かない人々について、私たちは何と云うだろうか? よろしい。彼らは決して刈り入れないであろう。決して刈り入れ時の喜びを得ないであろう。私が、この大集会の中で話しかけている人々の中には、決して種を蒔くことがなく、決して一言もキリストのために語らず、決して家々を訪問せず、《救い主》の御名を紹介しようとせず、決して子どもたちを《救い主》のもとに連れて行こうとせず、《日曜学校》にも、他の、キリストのための何らかの奉仕にも全く関わろうとしないという、信仰を告白するキリスト者たちが誰かいるだろうか? 私がこの場で話しかけている人々の中には、怠け者で、霊的には自分だけのために生きている人が誰かいるだろうか? おゝ、あわれな魂よ。私はあなたのようにはなりたくない。なぜなら、私は疑いを覚えているからである。果たしてあなたが少しでも霊的に生きていることがありえるかどうかを! 確かに、自分自身のために生きている人は、生きていながらも死んでいるのである。そしてあなたは決して魂をキリストのもとに連れて行く喜びを知ることがないであろう。また、あなたが天国に行くとき――もしそこに行くようなことがあればだが――、あなたは決してこう云うことができないであろう。「さあ、父よ。私と、あなたが私に賜わった子たちです」[ヘブ2:13参照]。あなたは永遠にひとりで住むであろう。罪からの回心者という形で、神に何の実ももたらさなかったからである。兄弟姉妹。罪深い怠惰を振るい落として立ち上がるがいい。「おゝ!」、とある人は云うであろう。「私は自分の兄弟の番人ではありませんよ」。しかり。私があなたにあなたの名前を告げるであろう。あなたはカインである[創4:9参照]。自分の兄弟の殺人者である。というのも、自分の兄弟の番人ではない、あらゆる信仰を告白するキリスト者は、自分の兄弟を殺す者だからである。そして、確かにそうであると確信するがいい。というのも、あなたは弓矢や短剣で殺すのと同じくらい確実に、無視によって殺すことができるからである。

 次に、決して刈り入れをしたことがないという人々に対して、私たちは何と云うべきだろうか? よろしい。それは場合による。ことによると、あなたは単に種を蒔き始めたばかりかもしれない。神の時が来る前に刈り入れを期待してはならない。「失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります」[ガラ6:9]。刈り取るには、定められた時期がある。しかし、もしあなたが非常に長いこと種を蒔いてきながら、一度も刈り入れたことがないとしたら、こう尋ねさせてほしい。あなたの種はどこで買ったのだろうか? もし私が毎年毎年私の庭に種を蒔き、何も生えたことがないとしたら、私は自分の種屋を変えるべきである。ことによると、愛する方々。あなたは悪い種を持っているのかもしれない。そして、純粋で生一本の福音を蒔いたことがないのかもしれない。あなたは、福音をまだ余すところなく十分に持ち出したことがない。神のみことばのもとに行き、「種蒔く者のための種」*[イザ55:10]を得るがいい。あなた自身の魂を養うだろうような種類の種を。というのも、それは、「食べる者のためのパン」*[イザ55:10]だからである。そうした種類の種を蒔くとき、それは芽を出すであろう。

 次に、主を知っていながら、決して主を告白したことがない人々に対して私は何と云えば良いだろうか? あなたに何と云えば良いだろうか? よろしい。私は、いま自分が考えていることを云おうとは思わない。だが私は、回心していながら、決して自分を救う手段となってくれた人にそれが起こったことを告げない人々について、非常に深刻に考えるものである。「よろしい」、とある人は云うであろう。「私は、自分がキリストを告白するのが良いとは思いません。あの死につつあった盗人は、キリストを告白しなかったではないでしょうか? 彼はバプテスマを受けませんでしたよ」。しかり。だが、思い出すがいい。彼は死につつあった盗人だったのである。そして、もしあなたがバプテスマを受けないとしたら、あなたは生きている盗人だと私は思う。というのも、あなたは神からその栄光を盗み、神のしもべからも、彼が受けてしかるべき慰めを盗むことになるからである。私たちの報酬は、魂が救われたと聞くことである。そして、もしそれについて聞かないと、私たちは私たちの報酬を盗まれているのである。もし人に骨折り仕事と労苦をさせておきながら、励ましという点で彼に何のお返しもしないとしたら、あなたは穀物をこなしている牛に、くつこ[Iテモ5:18]を掛けているのである。出て来るがいい。あなたがた、これまで臆病者のように隠れていた人たち! 方々。もしあなたがキリストを愛していながら、これまで一度もその告白をしたこどかないとしたら、ただちに出て来るがいい。そして、こう云うことを恥じてはならない。「私は十字架の兵士であり、《小羊》に従う者です」、と。願わくは、私たちの救いの大いなる《創始者》が、あなたを強いて、このことをすみやかに行なわせてくださるように!

 さらにまた、キリストを告白しており、今晩もキリストを告白しようとしている人々に対して、私たちは何と云うだろうか? よろしい。こう云おう。「どうぞおいでください。主に祝福された方。どうして外に立っておられるのですか」[創24:31]。愛する方々。あなたが中に入るときには、あなたの衣をこの世からきよく守るがいい[ヤコ1:27]。真実な心と、敬虔な霊とをもって、この祈りを口に上せながらやって来るがいい。「私をささえてください。そうすれば私は救われ……ましょう」[詩119:117]。願わくは、今晩、倉に集め入れられたあなたがたの中の誰も、ただの干からびた雑草であることを明らかにすることがないように! 主があなたを救い、保ってくださるように。また、あなたが、主の誓いはあなたの上にあることを思い出すように。また、願わくはあなたが、いかなるしかたにおいても、決してあなたがこれ以後呼ばれることになる、かの大いなる御名に恥辱を与えることがないように。

 この、大いなる人々の群れのひとりひとりを神が祝福し給わんことを! 「主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、あなたも救われます」*[使16:31 <英欽定訳>]。というのも、「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます」[マコ16:16]。神が私たちすべてをそうした恐ろしい破滅から救ってくださるように。キリストのゆえに! アーメン。

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刈り入れ時の喜び[了]

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