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個々の罪はイエスに負わされた

NO. 925

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1870年4月10日、主日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」。――イザ53:6


 私は四年前にもこの聖句から話をしたと思う。だが、再びこの聖句のもとに帰ることに何の不安も感じていない。というのも、この聖句の意味は無尽蔵だからである。この節には途方もなく豊かな意味があるため、たとい私がこの丸四年間、安息日が来るたびにこの節について詳しく述べていたとしても、この主題が陳腐に感じられるとしたら、それは私の責任であろう。今回私が主たる注意を引きたいと願っているのは、前回はほとんど語ることのなかった、この聖句の中の一部分である。葡萄の木は同じだが、先には実を摘まなかった枝から取り入れをしたいと思う。宝石の粒は同じだが、それを別の光の中に置き、別の角度から眺めてみたいと思う。願わくは神が、前回は私たちの言葉から何の慰めも引き出さなかった人々を導き、今朝、キリストにある平安と救いを見いださせてくださるように。主がその無限のあわれみによってそうしてくださるように。

 まず第一に私は、この聖句の一般的な講解を示したい。それから第二に、ここで教えたいと思う特別な教理について詳しく述べたい。それから第三に、その特別な教理から特別な教訓を引き出したいと思う。

 I. 第一に、私たちは《この聖句の一般的な講解を示す》であろう。「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」。

 この聖句は自然と次のような3つの項目に分かれる。――悔悟するすべての者に通ずる罪の告白。「私たちはみな、羊のようにさまよい」。各人に特有の個人的な罪の告白。「私たちは……おのおの、自分かってな道に向かって行った」。そして、福音全体の魂であり精神そのものである、尊厳な、代償の教理。「主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」。

 そこで私たちの講解は、悔悟する者すべてに普遍的な罪の告白から始まる。――ここで、そうした罪を認めているのは、自分のことを「私たちはみな」と呼ぶ人々である。――すなわち、彼らはみな、羊のように神の律法という生け垣を破り、自分たちの善良な、また、常にほむべき《羊飼い》を捨てて、危険で有害な通り道へと踏み迷って行った。1つのたとえがここで用いられており、それが用いられているということは、この罪の告白が思慮深いものであったこと、考えなしのものではなかったことを示している。人はここで1つの獣にたとえられている。罪は私たちの動物的な部分を引き出すからである。聖潔は私たちを御使いに伍させるが、罪は私たちを畜生へと堕落させる。私たちは、気高く利発な動物の1つにではなく、愚鈍な羊になぞらえられている。あらゆる罪は愚行であり、あらゆる罪人は愚か者である。ただし、このようなたとえに用いられるのは、羊にとっても名折れであろう。彼らはいかに愚かではあっても、火焔の熱さを感じた後で火に向かって突進するなどとは決して知られていないからである。だが、注目すれば分かる通り、ここで比較のために選ばれている生き物は、世話を受け、面倒を見てもらわない限り、生きて行けない生き物である。野生の羊などいない。羊は羊飼いによって世話され、保護されていない限り、長く羊でいることはできない。この生き物の幸福、安全、生存そのものは、ことごとく、それが自分で行なうところをはるかに越えた養育と世話の下にあるかどうかにかかっている。人の幸福は、主の指図の下にあること、神に従順であること、神との交わりの中にあることに存しており、神から離れることは人の最高の利益のいずれにとっても死であり、その最上の期待のいずれにとっても破滅である。だが、そうしたすべてにもかかわらず、人は、羊がさまようようにさまよっている。

 羊は、さまようという1つのことにかけては、ことのほか頭の回転が速い生き物である。生け垣に1つでも切れ目があると、羊はそれを見つけ出す。その群れがさまよい出す可能性が五百のうちに1つしかなくとも、群れの中の一頭は、確実きわまりなくその可能性を発見し、仲間の全部がそれに乗ずるであろう。人もそれと同じである。人は悪事にかけては分かりが速い。神は人を正しい者に造られたが、人は多くの理屈を捜し求めた[伝7:29]。そうした理屈はみな、自分の正しさを損ない、神の律法を侮辱するためのものである。しかし、さまようことにかけては頭の回転が速いこの生き物は、いかなる動物よりも立ち戻る見込みが薄いものである。牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉おけを知っている[イザ1:3]。日中はあちこちさまよう豚でさえ、夜になるとかいば桶のもとに帰ってくるものである。犬なら、何リーグ以上も越えて主人の跡を嗅ぎ出すであろう。だが羊はそうではない。それは、さまよい出る機会を発見することに抜け目がないのと同じくらい、囲いへ帰るための機転や意志が欠落しているように思われる。人もそれと同じである。――悪事を働くのには賢いが[エレ4:22]、善事については愚かである。人は、百の目を持つという巨人アルゴスのように罪を犯す機会を探し求めている。だがバルテマイ[マコ10:46]にも似て、悔い改めて神に立ち返ることについては全く盲目なのである。

 聞くところ、羊は、さまよえば危険な目に遭う場合であればあるほど、さまよいがちだという。羊は、じっとしているべき度合に比例して、道に迷う傾向を発揮するらしい。わが国のように比較的安全にさまよえる所では、あまりさまよわないが、東方の国々の平原では、豹や狼に出会う危険を犯してまでも、さまよおうとする。誰にもまして身を慎むべき人々、また、実直にしているに越したことはない立場に置かれている当の人々こそ、最も悪を追い求めることに急であり、無思慮、無頓着にも真理の道を離れてやまないのである。

 羊は恩知らずにさまよう。羊はすべてを羊飼いに負っているくせに、自分に食べさせ、自分の病を癒してくれる手を捨てて行く。羊は繰り返しさまよう。きょう連れ戻されて、きょうはさまよなければ、さまよわないかもしれない。だが、明日さまよえるようになれば、そうするであろう。羊は遠くへ遠くへとうろつき、ますます悪い状態になって行く。それは自分の達した距離に満足せず、さらに先まで進んで行こうとする。その放浪は、それが弱り切るまでやむことがない。私の兄弟たち。あなたがたはそこに、鏡写しのように自分の姿が見えないだろうか? あなたを祝福しておられたお方のもとから、あなたはさまよってきた。その方にあなたはすべてを負っている。だがしかし、その方からあなたは絶えず離れ去ろうとしている。あなたが罪を犯すのは時たまではなく、ひっきりなしであり、あなたはほんのちょっとした距離だけ迷い出るのではなく、遠くへ遠くへと迷い出していく。もしも守りの恵みがあなたの足どりを阻まなかったとしたら、あなたは今も、咎がきわまる果てまで迷い出て、自分の魂を滅ぼしきっていたであろう。

 「私たちはみな、羊のようにさまよった」。何と、忠実な者はひとりもいないのだろうか? 悲しいかな! ひとりもいない! 「善を行なう人はいない。ひとりもいない」[ロマ3:12]。天にいる、ほむべき列伍を探ってみるがいい。御座の前にいる聖徒たちのうちただひとりといえども、地上にいたときの自分は一度も罪を犯したことがないなどと豪語する者はないであろう。地上にある神の教会を探ってみるがいい。そこでは、いかに神のそば近く歩んでいる人々であろうと、ただひとりの例外もなく、自分は道に迷った羊のように過ちを犯し、神の道から外れたことがあると告白するであろう。たとい誰かがそう告白することを拒んでも意味はない。というのも、そうした告白を拒む理由が、その人の偽善か高慢のいずれでろうと、それは、その人が神の選民ではないことを証明しているからである。というのも、神の選民は異口同音に、悲しみに沈んだ様子で、だが心の底からこう叫ぶからである。「私たちはみな、羊のようにさまよった」、と。こういうわけで、本日の聖句では1つの一般的な罪の告白が口にされているのである。

 この大集団による罪の告白を裏打ちしているのが、そのひとりひとりから発される個人的な認罪である。「私たちは……おのおの、自分かってな道に向かって行った」。罪はすべての人に共通しているが、個々人に特有のものでもある。すべての人は罪人だが、人の罪はそれぞれに重点が異なる。いかなる人も自力で神の道に向かったことはないが、あらゆる場合において、それぞれの人は「自分かってな道」を選んできた。罪の真骨頂は、私たちが自分勝手な道を、神の道および神の意志に対立するものとして置くことにある。私たちはみなそうしてきた。みな自分の主人となることを渇望してきた。みな自分自身の好むところに従うことを切望してきた。神のみこころに自分を従わせないできた。この聖句に暗示されているのは、人が、おのおの自分自身に特有の、個別的な罪を有しているということである。すべての者が病んでいるが、すべての者がそっくり同じ形の病を得ているわけではない。私の兄弟たち。私たちは、ひとりひとりが自分を吟味する中で、何が自分に固有のそむきの罪であるかを見いだすのが良いと思う。というのも、私たちの心の土壌にはいかなる雑草が最も繁茂しやすいか、私たちの魂の森林にはいかなる野獣が最も自然に生息しているかを知っておくことは良いからである。多くの人は、自分に特有の罪が人並みはずれて邪悪のもの、著しく恥ずべきものだと感じ、自分は通常の罪人の段階からはるかに隔たっていると感じてきた。そうした人々は、自分の咎が独特のもので、神のきよい天に向かって傲然と頭をもたげている孤峰のように、最も激越な御怒りの雷電を招き寄せているのだと感じてきた。そうした人々は自分が並外れて大きな罪人である、パウロが云い表わしたように、罪人のかしらである[Iテモ1:15]と信じて絶望にかられんばかりとなってきた。このように、個々の人が自分にしかないと想像しているこの感情が、私たちの中の非常に多くの者らに取りついているとしても、私は驚かない。また、絶望の影が、私たちの中の非常に多くの者らにしばらくの間落ちかかっているとしても驚かない。というのも、目覚めさせられた良心にとって、自らの罪深さを測り知れないもの、類例のないもの、いまだかつて人類を汚した中でも最悪のものと感じることは決して珍しくはないからである。

 罪のこうした個別的な性格こそ、私があなたの注意を引きたい点であるため、また、キリストの贖罪のいけにえは単に、「私たちがみな、羊のようにさまよった」がゆえに一般的な罪に当てはまるだけでなく、「私たちがおのおの、自分かってな道に向かって行った」がゆえに個別的な罪にも当てはまることを示したいと思っているため、――、この点について今はこの程度にとどめ、この講解の先へとあなたを案内することにする。それは、私が尊厳な教理と呼ぶ、キリストの代償の教理である。

 私たちは大集団による罪の告白を見てきた。個々に覚醒された人々による個別的な罪の告白に軽く触れてきた。それらすべてを1つにまとめると、罪の塊となる。――私は、あなたがそれを見てきたと云っただろうか? それは人間の理解によって眺めるには大きすぎる罪の塊である。神にさからう咎の巨大な重荷である。この違反者たちをどうすべきだろうか? 彼らに対してなされうる唯一のことは、通常の正義の法則によれば、その違反ゆえに彼らを罰することしかない。そして、その罰は威嚇されていたもの、憤り、御怒り、破滅、死でなくてはならない。罪を罰することは、神にとって気ままに行なうことではない。罪を罰すか罰さないかは、神にとって選択の余地あることではない。私たちは常に、神に関することについては聖なる畏怖とともに語るが、今は畏敬の念とともにこう云うものである。神が人の咎を目こぼしすることは神にとって不可能であった。それを見て見ぬふりすることは不可能であった、と。神の属性は正義であり、それは疑いもなく、その愛の属性と同じくらい神のご栄光の一部であり、それが罪の罰されることを要求していたのである。さらに、神は道徳的宇宙が律法によって統治されることをよしとされたので、もし律法を破ることに全く何の刑罰も伴わなかったとしたら、それはあらゆる統治の終焉となっていたであろう。もし、全地の大いなる《王》がある法令を発布し、それに違反する者に特定の刑罰を付加していたとしたら、その王がその刑罰を強要しなかった場合、彼の統治の全体系は崩壊し、その土台は取り除かれてしまうであろう。土台が取り除かれれば、義人は何をすれば良いだろうか? あえて云うが、神が悪人たちを地獄に叩き落とすことは、無限に慈悲深いことである。もしそれが厳しく、奇妙な言明であると思われるとしたら、私はこう答えよう。世界に罪がある限り、このような大悪を大目に見ることは決して慈悲ではない。この世の何にもまして大きな慈悲とは、ありとあらゆる手を尽くして、身の毛もよだつ疫病を封じ込めることである。わが国の政府が、あらゆる監獄の扉を開け放ち、裁判官の職務を廃止し、あらゆる盗人、ありとあらゆる種類の犯罪者に何の罰も与えずのさばらせておくとしたら、それは慈悲とはほど遠いであろう。あわれみではなく、無慈悲であろう。犯罪者にとってはあわれみかもしれないが、真っ当な暮らしをしている正直な人々にとっては、耐えがたい不正義であろう。神の慈悲深さそのものからして、罪という、神の至高の権威に対する憎むべき反逆行為は、容赦なく制圧されなくてはならない。また、悪を犯しても罰を受けなくてすむのだ、などと人間をつけあがらせることは決してあってはならない。道徳的な統治のため必須のこととして、罪は罰されなくてはならない。この大口を叩く時代の、女々しい感傷的なお喋りたちは、神にはあたかも優しさ以外の何の属性もないかのように、また、悪に目こぼしする以外にいかなる美徳もないかのように、神を描き出している。だが、聖書の神は聖さにおいて栄光に富んでおり、いかなる意味においても咎ある者を容赦することはない。その法廷では、あらゆるそむきの罪が、その応報あるいは罰を与えられる。「神は愛なり」という黄金の文章が屹立している新約聖書においてさえ、神の他の属性は、いかなる意味においても影を薄くされてはいない。ペテロや、ヤコブや、ユダの燃えさかる言葉を読み、そこに見てとるがいい。いかに万軍の神が悪を忌みきらっておられることか! 公義を行なわなくてはならない神[創18:25]として、主は人の咎に目をつぶることがおできにならない。主は、そむきの罪にその罰を加えなくてはならない。主はそうなさったことがある。すさまじくそうなさったことがある。今後もそうなさるであろう。未来永劫にわたってさえ、主は咎と罪を憎む神としてご自身をお示しになるであろう。ならば、人はどうなるであろうか? 「私たちはみな、羊のようにさまよった」*。罪は罰されなくてはならない。ならば、私たちはどうなるだろうか? 無限の愛は、代理と代償という便法を編み出された。私がそれを便法と呼ぶのは、私たちには人間の語法しか用いることができないからである。私の兄弟たち。あなたも覚えている通り、あなたや私は原初に、決して私たち自身の行為によって、私たちの最初の状態から堕落したわけではない。私たちはみな、最初にアダムのそむきの罪において堕落した。さて、もし私たちがそもそも、おのおのが個人的に、他者とは全く関わりなく堕落していたとしたら、私たちの堕落は、神にそむいた御使いたちの堕落のように絶望的なものとなっていたかもしれない。御使いたちは、代表者を通して罪を犯したのではなく、個々に罪を犯し、神のさばきと御怒りの下で、永遠に暗やみの穴の中に閉じ込められている[IIペテ2:4]。だが、私たちの最初の悪の源泉が私たちの祖先アダムを通してやって来た以上、神には、正義を踏みにじることなく、その神聖な愛を通すことのできる抜け道が1つ残っていたのである。代表者の原理は私たちに荒廃をもたらし、代表者の原理は私たちを救い出す。神の御子イエス・キリストは人となり、その種族を再び率いる第二のアダムとなり、神の律法に従い、罪の刑罰をにない、今やご自分にあるすべての者らの《かしら》として立っておられる。そして、その者らとは、罪を悔い改めて、自分の信頼を主に置いた者らでなくて誰だろうか? この人々は、自分たちがその中で堕落した最初のアダムの古いかしら性から抜け出して、贖罪のいけにえを通して、すべての個人的な咎からきよめられ、第二のアダムとの結合に導き入れられている。そして、彼にあって再び立ち、永遠に受け入れられている者として至福の中にとどまるのである。ならば、見てとるがいい。いかに神がご自分の民を解放してくださったかを。それは、宇宙の全体系が開始した際の原理と同じ原理、すなわち、代表者の原理を実行することを通してであった。もう一度云うが、もし私たちが常に、全く孤立した単位であったとしたら、私たちの救いの可能性は皆無であったろう。だが、確かにあらゆる人は別々に罪を犯すものであり、また、私たちの聖句の第二句はその事実を告白しているものの、私たちはみな、他の人々との関わりにおいて罪を犯すのである。例えば、あらゆる人が、罪を犯す傾向を自分の両親から受け継いでいること、また、私たちが罪を犯す特性を自分の子どもたちに受け継がせていることを誰が否定するだろうか? 私たちは種族との関わりの中に立っており、そこには種族に特有の、また国民性に特有の、もろもろの種族的な罪がある。私たちは決して完全な分離という処分を付されてはいない。私たちは常に他の人々との関わりの中に立っており、神はこの、私が抜け道と呼んだものを利用して、私たちが別の人と結びつくことによって、私たちのための救いをもたらされた。その別の人とは、人以上のお方でもある。神の御子でありつつマリヤの子でもある、かつて幼子となられた《無限者》、ご自分に信頼を置くあらゆる人々の代表者として生き、血を流し、死なれた《永遠者》である。

 さて、ことによると、あなたはこう云うであろう。それでも――たとい、それが道徳的統治の全体系の根底にあったかもしれないとしても――、それが正しいことだとはどうしても思えない、と。そうした意見に対する答えはこうである。もし神がそれを正しいとご覧になるのであれば、あなたはそのことに満足しなくてはならない。神は、あらゆる罪が犯された当の相手であられる。では、もしも神がご自分の民の罪という大量の塊を1つにまとめ、愛する御子に向かって、「わたしは、これらすべてのゆえに、あなたを罰する」、と仰せになるとしたら、また、もしも私たちの代表者であるイエスが、私たちの代表者として、私たちの罪をになうことに喜んで同意なさったとしたら、あなたや私は何者だからというので、無限に正しいお方である神が受け入れようと同意されたことに対して、差し止め願いを出そうなどというのか? この聖句は、私たちの罪がたまたまキリスト・イエスに負わせられたと云ってはいない。「主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」、と云っているのである。私たちは、「われ我が罪をイエスに負わせり」、と歌うことがある。それは、非常に甘やかな信仰の行為ではあるが、その根底には、それとは別に負わせることがある。すなわち、主が私たちの罪をイエスに負わせることをよしとされた行為がある。というのも、主がそうなさる以外に、私たちの罪は決してこの《贖い主》に積み換えられることはありえなかったからである。主はきわめて正しいお方なので、私たちは主の裁断をあげつらうことなど思いもよらない。主はきわめてきよく聖なるお方なので、主がなさることを私たちは必然的に正しいこととして受け入れる。そして、この代償という天来の計画によって、これほどほむべき結果を私たちが引き出す以上、それに関して私たちが何らかの疑問を提起するなどということは決してあってはならない。イエスは、ご自分に信頼するするすべての者らの自然的な代理者であり代表者であられた。そして、こうした者らのすべての罪がイエスに負わせられた。それは彼らが咎から自由にされるためであった。イエスは、あたかもこうした罪のすべてがご自分の罪であったかのようにみなされ、それがご自分の罪であったかのように罰され、一個の罪人であったかのように恥辱を受け、神から捨てられ、死に引き渡された。そして、そのような天来の恵みによって、実際にそうした罪を犯した者らは、無罪放免されることを許された。彼らは、自分たちの代理者の苦しみを通して正義を満足させたのである。愛する兄弟たち。私たちの代理者となるのに最もうってつけのお方はキリスト・イエスであった。なぜか? なぜならキリストは、ご自分の民である私たちをご自分と結び合わせておられたからである。もしキリストが私たちのかしらであり、私たちをご自分のからだの肢体としておられたとしたら、かしら以上にからだのために苦しむのがふさわしい者があるだろうか? もしキリストが私たちとの神秘的な婚姻関係を結んでおられたとしたら――そして、聖書はそうだと告げているが――、夫以上に花嫁のために苦しむのがふさわしい者があるだろうか? キリストは人であられる。こういうわけで、キリストは人のための代理者となるにふさわしく、適しておられるのである。罪を犯した被造物こそ、苦しみを受ける被造物でなくてはならない。人は神の律法を破っている。ならば人が律法に支払いをしなくてはならない。死が人を通して来たように、死者の復活も人を通して来なくてはならない[Iコリ15:21]。そしてイエス・キリストは疑いもなくその母の本質から生まれた人であった。キリストが私たちの代理者となるのにふさわしかったのは、キリストがきよい人だったからである。キリストのうちには、いかなる違反もなかった。サタンであれ、それよりはるかに鋭い神の御目であれ、キリストのうちには、いかなる悪も見いだせなかった。キリストは、自らがご自分を律法の下に置かれなかったとしたら、いかなる責務も律法に対して負っていなかった。自発的に、私たちに代わってこの道徳的統治を受ける者となられるまでは、大いなる道徳的《統治者》に対して何の義理も負っていなかった。こういうわけで、ご自分では何の責務も負っておらず、ご自分の負債は何もなかったがゆえに、キリストは私たちの債務をその身に引き受けるにふさわしかったのである。さらにキリストは、そのすべてを自発的に行なわれた。そして、ここにこそキリストのふさわしさの大きな部分が存しているのである。もしも、ある代理人が私たちの身代わりの死へと、いやいや引きずられてきたとしたら、もしそのような場合がありえたとしたら、その行為そのものによって不正が犯されるであろう。だが、ご自分の十字架を取り上げ、自ら進んで私たちのために苦しもうと出て行かれたイエス・キリストは、私たちを贖うご自分のふさわしさを証明されたのである。いま一言、キリストが人であると同じく神であられることは、苦しむための強さを与え、身をかがめるための力を与えた。もしキリストが、永遠の神の同輩であるほどに気高いお方でなかったとしたら、キリストは私たちを贖うほどに下落することはなかったであろう。だが、――

   「栄光(ほまれ)満つ 高き御座から
    災厄(まが)のきわまる 深き十字架へ」

至ることは、そこに無限の功績があるほどの下降であった。キリストが身をかがめ、墓そのものにまで身を落とされたとき、そこに生じた功績は、正義を満足し、律法の正しさを証明し、キリストが身代わりに死なれた者らを有効に救えるものであった。

 私は、別の点に進む前に、この場にいるあらゆる人々がこの思想をつかみ、把握し、受け入れてほしいと思う。私たちはさまよっていたが、私たちの中の信ずる者たちのすべてのさまよいはキリストに負わせられた。私たちはみな自分勝手に罪の道を選んだが、そうした罪は今や私たちのものではない。私たちの大いなる《代理者》に負わされている。私たちが彼を信頼しているならば、そうである。彼はそうした罪のあらゆる負債を一円一銭に至るまで支払い、きわみまで神の御怒りをになわれた。それで、私たちに対する御怒りは全くないのである。あの雄牛が焼かれるために祭壇の上に置かれ、焼き尽くす火のごとき神の御怒りがやって来て、その雄牛を焼き、そこには何の火も残らなかったように、神の御怒りがキリストの上に下り、それがキリストを焼き尽くすと、そこには何の火も残っていない。何の御怒りも残っていない。使い果たされてしまったのである。神は、イエスを信ずる魂に対して何の怒りもいだいておられない。また、その魂は何の罪もかかえていない。というのも、その罪はキリストに負わされており、それが一度に2つの場所にあることはできないからである。キリストがそれをかかえてくださったので、その罪はなくなっている。――そして信ずる魂は、それ自体としては地獄のようにどす黒くとも、今や変貌した際のキリストご自身のように輝いている。というのも、キリストがそむきをやめさせ、罪を終わらせ、永遠の義をもたらしておられるからである[ダニ9:24]。このようにして、私たちは、この節に関する私たちの一般的な講解をしめくくることとする。

 II. さて私がこれから短い時間で、しかし私の魂の熱心さを尽くして詳述したいのは、この聖句の真中の句によって教えられている、《特別な教理》についてである。――「私たちは……おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」。

 あらゆる人間は、その生来の体質の違いから、また、その教育程度の差から、また、その状況の違いから、何かしら互いに異なるしかたで罪を犯してきた。同じ親に教育されたふたりの兄弟も、相異なるそむきの罪を示すであろう。いかなる人も、他の人と全く同一の足跡を踏むことはないし、人によっては、等しく誤ってはいても、まるで正反対の路を取る。ある人は右へ、別の人は左へ向かい、両者ともに自分の前にある通り道を放棄する。さて、私が引き出したいと思っている、この聖句の栄光はこうである。すなわち、もしあなたがイエス・キリストを信ずるならば、あなたのこの特別の罪は、あなたの他の一切の罪――あなたが同胞たちと対等の立場に立たされる罪――と同じく、キリストに負わせられるのである。ひとりの取税人がいた。それまでの彼は、どこにでもいる、粗野な罪人であった。兄弟であるユダヤ人に対して荒々しく、苛酷にふるまい、不当な税を取り立てていた。下品な習癖の持ち主で、酒色その他の汚れた行為にふけったものだった。だが、その取税人が神の家に行って、「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」、と云ったとき[ルカ18:13]、贖罪はこの取税人の咎をことごとく処分し、この取税人のそむきの罪をきれいに取り去った。しかし、その一方に、ひとりのパリサイ人がいた。この取税人とは対極にあり、高慢で、自分を義とし、神の義に自分を服させることをせず、むしろ自分自身はあらゆる点において他の者らにまさっていると考えていた。だが、あなたも思い出すだろうように、彼はダマスコに向かう途中で、乗っていた馬から落ち、1つの声を聞いた。「なぜわたしを迫害するのか」、と[使9:4]。それと同じパリサイ人が、こう云ったのである。「私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません」[ガラ6:14]。というのも、キリストのうちには、このパリサイ人の罪を完全に処分するものがあったからである。私たちの主の時代には、サドカイ人たちもいた。――すなわち、御使いも霊もないと云う人々、不信心者、懐疑家、自由思想家、わが国の《広教会》に属するような罪人たちであった。さて、こうした人々は、取税人のように下劣なそむきの罪に陥ることも、パリサイ人のように迷信的な習慣に陥ることもなかったが、彼らには神の真理を向こうに回す敵意があった。そして疑いもなく、キリストの赦しを給う血には、こうしたサドカイ人の状態をも処分できると実証した場合があったに違いない。主の羊のいずれかが、いかなる特別な方向にさまよってしまっていたとしたも、主はその特定のさまよいを《救い主》に負わせてくださった。私は、今から語ることによって、何人かの個々人を今朝この場所に連れて来たいと思う。ある人はきょう、ここでこう云っているであろう。「私は、幼い頃に受けたキリスト教の手ほどきにそむいて罪を犯しました。私ほど素晴らしい母、優しい父に恵まれた者はいませんでした。私はテモテのように幼い頃から神のことばを知っていました。ですが私は、こうした教えすべてにもかかわらず、罪を犯したのです。私は何といや増して重い破廉恥な罪を犯したことでしょう。私はこの上もなく明らかな光にそむいて罪を犯したのです」。兄弟よ。あなたの罪は非常に重いが、主はあなたの咎をイエスに負わせてくださった。あの十字架を仰ぎ、それがそこに負わせられているのを見るがいい。「あゝ」、と別の人は云うであろう。「ですが私は、神の御霊にずっと逆らって来たのです。幼い頃のキリスト教の手ほどきに加えて、私は熱心に福音を説く牧師の下にいました。何度も感銘を受けました。自分の部屋に帰って祈らされたこともありました。ですが私は、その聖い感情を踏み消し、罪にとどまり続けたのです」。おゝ、咎ある人よ。主は愛する御子にあなたの咎を負わせてくださった。あなたは今イエスを仰ぎ見て、キリストを――「世の罪を取り除く神の小羊」[ヨハ1:29]を――信頼できるだろうか? ならば、聖霊に逆らったあなたのこの罪は取り除かれる。「ですが」、と別の人は云うであろう。「私は、生まれながらに、ことのほか鋭敏な気質をしているのに気づいていました。幼少の頃から私には、善悪の区別がついていました。そして罪を犯したときには、罪を犯すことによって、とても心を悩ましました。私は自分の良心を傷つけてからでなくては、悪い言葉を口にしたり、よこしまな行動を犯したりできませんでした」。あゝ! 私の兄弟たち。鋭敏な良心にさからって罪を犯すのは、非常に重い断罪を招くことである。敏感で、繊細な道徳的気質をしているということは大きな賜物であり、この時代にあっては、ごくまれにしか見られない賜物である。そして、もしあなたがそれを踏みにじってきたとするならば、確かにそれは大きなそむきの罪である。だが、確かに「私たちは……おのおの、自分かってな道に向かって行った」としても、「しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」のである。いかに絶望的な状況であろうと、まるで自分の罪が赦されないかのような思いにとらわれてはならない。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」[Iヨハ1:7]。では、イエスへの信仰によって仰ぎ見るがいい。そうすれば、あなたは自分の罪が拭い去られていることに気づくであろう。

 この場所には、こう云っている人がいるかもしれない。「先生。私は、あるとんでもない状況の下で1つの罪を犯しました。どんな状況だったかは、口にしたくありませんし、口にすることもできません。ですが、その1つの罪の記憶が、今の私の魂の中でうずいているのです。もし私が、熟慮の上の悪意をもって故意にその罪を犯したのでなかったとしたら、また、もし私が、自分の前に神への恐れも持たずにその罪を選んだのでなかったとしたら、望みもあったかもしれません。ですが、この罪は石臼のように私の首に巻きついており、私を永遠に沈めてしまうでしょう」。よく聞くがいい。魂よ。あなたには、あの十字架の上のキリストが見えるだろうか? あなたは今、キリストに信頼するだろうか? もしそうするなら、たといあなたの罪が紅のように赤くても、羊の毛のようになる。たとい緋のように赤くても、雪のように白くなる[イザ1:18]。私はあなたの罪がいかなるものであったを知らないが、たといそれが、人殺しにほかならなかったとしても、もしあなたがいま神の御子を信頼するなら、あなたの罪はあなたから消え去ってしまい、あなたはきよくなる。永遠の正義という、すべてを見てとる目をもってしても、あらゆる点から見てきよくなる。おゝ、あなたが信ずるようになり、このことがあなたにとって真実のこととなればどんなに良いことか。「いいえ」、とある人は云うであろう。「ですが、私の人生は、ことのほか不潔な罪の一生でした。私は、万が一にも、この会衆の前で自分の人格の正体をさらけだしたいとは思いません」。ならば、愛する方よ。考えてみるがいい。これよりも大人数の会衆の前、全宇宙の前で、それがあばかれるとしたらどうなるだろうか? 「あゝ」、とあなたは云うであろう。「私は自分が罪に定められることは確実だと思います。私のそむきの罪は、考えの罪だけでなく、行動の罪だったのですから。私のからだの手足は、不潔な行ないの器だったのです」。どうか聞いてほしい。「人はどんな罪も咎も赦していただけます」*[マタ12:31]。赦しを見いだせないほどどす黒い罪は、ただ1つを除いて、どこにもない。左様。そしていかなる例外もなく、人が犯すことのできる罪のうち、キリストのもとにやって来て、単純な信頼によってキリストに身をゆだねる人でさえ赦されることが不可能な罪は1つもない。あなたの極度の悪はキリストに負わせられた。あなたは、自分勝手な道に向かっていったが、それでも、このこともキリストに負わせられたのである。

 私には聞こえないだろうか? この会衆のそこここから、ため息をついている心が。「あなたは、まだ私の場合を云い当てていません。私の罪は、はなはだしい罪ではありませんが、私は心をかたくなにしてきたのです。私は一時は大いに感じるところがありました。主イエスに大いに引かれるものがありました。ですが、私はイエスを見限ったのです。後退したのです。幾度となく福音の招きをはねつけたのです。そして今や主は、怒りをもって誓っておられます。決して私を主の安息に入らせない、と[ヘブ4:3]。私の数々のそむきの罪は、大波のように私の頭を越え、私はその中に、足の立たない深い泥沼のように沈んでいるのです」。左様。だが魂よ。私はあなたをこの聖句に立ち戻らせなくてはならない。あなたは自分勝手な道に向かっていったが、もし信ずるならば、主はこの咎さえもイエスに負わせてくださったのである。もしあなたがイエスを信頼するなら、あなたが心をかたくなにしたことは今、赦されるのである。あなたは手遅れではない。あわれみの門はまだ大きく開かれている。もしあなたがイエスを信頼するなら、この咎は拭い去られる。「あゝ!」、と別の人は云うであろう。「ですが、私は偽善者だったのです。私は聖餐式に集いましたが、キリストには何の関心もいだいていませんでした。バプテスマを受けましたが、真の信仰は全く持っていませんでした」。よろしい。では、最後の最後に、私はこのことを云うであろう。――もしあなたが、人間か悪鬼によってこれまでに犯されてきたあらゆる罪をしでかしてきたとしても、また、もしあなたが地獄のどん底にあるどぶ川からかき集めてくることのできる、ありとあらゆるどす黒さで自分を汚してきたとしても、また、もしあなたが最悪の罰当たりな冒涜を口にし、最悪の極悪非道な悪徳を追求してきたとしても、イエス・キリストは無限の《救い主》であり、その尊い血潮の功績を越えるようなものは何物もありえないのである。「神の愛する御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」*[Iヨハ1:7]。あなたには、このことが信じられるだろうか? このことを信じてキリストに誉れを帰すことができるだろうか? そして、かつて貫き通された御足のもとにやって来て、うずくまることができるだろうか? あゝ! 人よ。あなたは今あわれみを見いだすであろう。そして、両手を打ち鳴らして、こう云うであろう。「主は、私のそむきの罪をかすみのように、私の罪を雲のようにぬぐい去った」*、と[イザ44:22]。

 残念なことに私は、この思想をためつすがめつする際に私自身の魂がいかなる喜びを感じるか、あなたに伝えられないのではないかと思う。だが、この思想は測り知れないほど私を魅惑してやまない。ここにロトの犯した罪がある。どれも醜悪な罪である。口に出して云うこともはばかられる罪である。それは、ダビデの罪とは非常に異なっていた。どす黒い罪、朱に染まった罪がダビデの罪であった。だが、ダビデの罪は、マナセの罪とは似ても似つかなかった。マナセの罪はペテロの罪と同じではなかった。――ペテロは全く違った方向で罪を犯した。また、あの罪人だった女をペテロになぞらえることはできなかった。また、彼女の人格を眺めるとき、彼女をルデヤと同列に置くことはできない。また、ルデヤのことを考えるなら、彼女とあのピリピ人の看守との間にある、途方もなく大きな相違を見てとらざるをえない。彼らにはみな同じ部分がある。みな道を外れてさまよっている。だが、彼らはみな違っている。おのおのが自分勝手な道に向かって行った。だが、ここで、ほむべきことに、彼らはみな1つに集められている。主は《贖い主》の上に、いわば共通の焦点に合わせるかのように、こうした者ら全員の咎を合わせてくださった。そして、天空の彼方では、マグダラのマリヤの歌が、あの罪人だった女の歌と甘やかに溶け合い、貞淑な、それでも赦罪を必要としていたルデヤが、バテ・シェバやラハブと肩を並べて歌っている。その間、ダビデはサムソンやギデオンとともに歌い始め、そのかたわらにはアブラハムやイサクと連れだった者らがいる。みな違いのある罪人たちだが、贖罪はあらゆる者の状況を対処している。私たちは常に、万病を治す薬を宣伝する者がいるとやぶ医者だと考えるが、この偉大な福音の薬――イエス・キリストの尊い血――のもとに来るとき、あなたはそこに、事実、古の医者たちが万能薬と呼ぶのを常としていたものを有するのである。それは、個々に際立ったあらゆる症例に対処する普遍的な治療薬であり、いかに独自なものを有する罪をも、あたかもその罪だけのために作られた薬ででもあるかのように処分してしまうのである。

 III. すでに時間も尽きたので、しめくくりにこれだけは云っておかなくてはならない。《この特別な教理から生ずる特別な義務》である。

 私の愛する兄弟たち。もし私が、この講話の中で少しでもあなたについて述べたとしたら、または、たといあなたについて述べなかったとしても、まさにその理由から私はあなたを云い表わすことができないとほのめかしていたのであるから、あなたはキリストを仰ぎ見て、あわれみを見いだすがいい。そして、それから後は常に、このことをあなたの魂の掟とするがいい。あなたが特別な罪人であった以上、あなたは特別な愛と特別な感謝をいだき、あなたの主に特別な奉仕をささげるべきである、と。おゝ! もしも私を救うのに別の人を救うよりも二十倍も恵みが必要であるとしたら、私は私の《救い主》に二十倍の愛と二十倍の奉仕をささげるであろう。もし私が風変わりな迷い羊で、ことのほか格別にどす黒く、汚れきり、恥ずべきものである場合、それでも主が私を愛するとしたら、私はこの掟に基づいて行動するであろう。多くを赦された以上、私はよけいに愛する、と[ルカ7:47]。

 兄弟姉妹。私はあなたが、また、私が、自分の個人的な罪の重みをますます感じるようになれば良いと思う。というのも、それこそ私たちをキリスト者の奉仕へと雄々しく駆り立てる道であると確信するからである。もしあなたが、とある群衆の中のひとりとしてキリストに敬意を表しているとしたら、ごく僅かしか行なわないであろうし、その僅かの手際も不細工なものであろう。卓越した奉仕をするには、その群衆から離れて、自分ひとりで個人的に、一個人として主に奉仕する必要がある。孤立するがいい。私はこれを責務として意味している。自分があたかも目印の付けられた人間であるかのように、またイエス・キリストに目立ったしかたで仕えなくてはならないかのように、自分を切り離すがいい。高慢によって超然としているのは嫌悪すべきことだが、奉仕において個人であることは賞賛すべきである。兵卒の中に堅く立っている人々は良くやっているが、決死隊を率いて前進する人々は、さらに良くやっているのである。おゝ、前に進み出てこのように云うダビデたちがもっとたくさんいればどんなに良いことか。「この割礼を受けていないペリシテ人は何者ですか。生ける神の陣をなぶるとは」[Iサム17:26]。おゝ、キリスト教会に、もっと自己犠牲的な人々がいたとしたら、どんなに良いことか。古のクルティウスのように、ふさがなくてはならない深い割れ目があるときには、そこに飛び込み、キリストのため、真理のために呑み込まれるなら栄誉と感じるような人々が今よりも多くいれば、どんなに良いことか。おゝ、多くのキリスト者であるスカエヴォラがいれば、どんなに良いことか。かのローマの英雄のように、必要とあらば自分の手を火の中にかざし続け、ひるむことなく、いかなる苦しみも、私たちのため血を流してくださったお方のために忍ぶものなら大したことはない、と感ずるであろう人々が数多くいれば、どんなに良いことか。願わくは神が、こうした人々を起こしてくださるように。また、もしもあなたがた、自分を特別の罪人と感じている人々が、特別のあわれみを見いだし、その後で神に特別に恩返しを行なおうとするならば、神はそうしてくださるであろう。

 私が思うに、私たちのキリスト者経験と奉仕には、講壇であると会衆席であるとを問わず、いや増して多くの個人性が必要である。見ての通り、私たちはみな個々人として罪を犯す。私たちは、おのおの自分勝手な道に向かって行った。だがしかし、多くのキリスト者である人々は、自分たちの経験が、誰か他の人の模範の通りに形作られるのを欲している。彼らは、森の中にある、神の木々のように育つことを好まない。ふしくれだった根っこと、よじれた枝を有することを好まない。均一の硬直した形に刈り整えられたオランダ樹木のようになりたがる。何と、キリスト者たちの個人性が失われるときには、キリスト教の美しさが失われてしまうのである。説教において、《日曜学校》の教育において、その他すべてにおいて見られる傾向は、あまりにもしばしば、人がありきたりの凡庸な型にはまっていることにある。人々は、こうした人たちがバーミンガムの洋筆のように、機械で似たり寄ったりの形に製造されたのかと思いかねない。私たちは、恵みのうちにあるあらゆる人が、罪のうちにある場合と同じく個人としてあってほしいと思う。私たちに必要なのは、罪人としてある場合と同じく、聖徒としての生き方の独創性である。もしもキリスト者であるある人が、踏みならされた道から離れて、自分の個人性の赴くままに、神が特別にその人のあるべき姿として意図されたものになるとしたら良いことであろう。兄弟たち。この世には、あなたを通してでなければ、決して祝福を得られない場所があるのである。キリストはすべての人の上に権威を有しており、そうした大群衆の小部分小部分に及ぼす権威を、ご自分のしもべたちのおのおのに与えておられる。この世に生を受けた教役者たちが総掛かりになっても、神が私を手段としてキリストに立ち返らせようとお定めになっておられる魂をキリストに立ち返らせることはできない。また、私であれ私たちの兄弟たちであれ、いかに説教しても、神が他の人を通して救おうとお定めになっておられる人をキリストに導くことはできない。その他の人とは、村の放牧地で丸太の上にいま立っている地元説教者かもしれないし、米国の僻地の納屋の中で熱弁をふるっている説教者かもしれない。あらゆる人には持ち場がある。そして、あらゆる人がそれを見つけ出すための道は、自分自身になって、他の誰にもならないことである。罪人だった頃のその人が、その人自身であったのと同じく、今や聖徒となっているその人も、その人自身であるがいい。そして、その人自身の数々の個人性を、その人自身の性質の特異性を、神の導きの下で最後まで貫き通すがいい。神があなたを他の人々から区別して作られた角や突起に鉋をかけたり、取り除いたりすることなど、とんでもない話である。そのようなことは何にもならない。そのようなことをしたら、キリスト教から美と卓越性そのものを失わせてしまう。洗練された批評家たちは、ロウランド・ヒルがトマス・チャーマズのように説教することを好むであろう。ロウランド・ヒルは講壇で決してその警句を口にしてはならないというのだ。だが、そうする限り、彼はロウランド・ヒルではありえない。それゆえ彼は誰か他の者の姿に変えられてしまうに違いない。というのも、こうした上品すぎる紳士たちは、ロウランド・ヒルがロウランド・ヒルとして神に栄誉を帰しうることを認めようとしないからである。知恵はそのすべての子どもたちの中にある[ルカ7:35]。人がアポロの学識をもって語ろうとも、パウロの雄弁をもって語ろうとも、ケパのぶっきらぼうな素朴さをもって語ろうとも、真摯に語りさえすれば、主はご自分に誉れを帰させてくださるであろう。パウロはケパの真似をすべきではないし、ケパはアポロの猿真似をすべきではない。私たちは、おのおのが自分勝手な道に向かって行き、私たちの個別の罪がキリストに負わせられたのと同じく、あらゆる信仰者は今、自分自身のしかたで、キリストの指図の下にあって、自分の主であり《主人》であるお方に仕えようと努めるがいい。私がここから引き出したい最大の実際的教訓はこのことである。あなたは常に、世間で新しい発明がなされるのを見つつある。人々は絶えず何か新しい体系や計略を発表している。私たちは地中に隧道を掘り、雲を裂き、稲妻によって語り、風の翼に乗るようになっている。だがキリスト教会においては、いかに僅かな発明家しかいないことか! ロバート・レイクスは《日曜学校》を創案し、ジョン・パウンズは《貧民学校》を創案した。それで、恵みによる発明の才は枯渇してしまったのだろうか? おゝ、もし私たちがキリストをより良く愛するとしたら、あらゆる人は何かを発明するであろう。あらゆる人は自分自身の独特の才能の中から発する行動様式を取るであろう。その人は、他の誰の手にも決して負えないであろう事態が、自分によって対処されることを神が意図しておられるのを感じるであろう。人々は、この世のことについてはみな生きているが、来たるべき世のことについてはみな眠っている。私は、あなたがたひとりひとりが使命感を持つように促したい。何らかの働きを取り上げ、召しを獲得するように促したい。神に願うがいい。あなたがただの摂理によって《日曜学校》に加えられるのではなく、特別な任命によってそうされることを。また、もしあなたが《日曜学校》の教師として叙任されるとしたら、神に願うがいい。あなたが、たまたまどこかの学級につけられるのではなく、あなたの特別な性格や趣味や、考え方や、行動様式にふさわしい特別な立場につけられることを。聖霊なる神の御助けによって、神があなたの内側に入れてくださった天来のいのちの促すところを最後までやり通すがいい。そして、かつては、あなたのあらゆる個別性をもってサタンに仕えていたのと全く同じようにして、古に主があなたの咎を負わせてくださったお方に仕えるがいい。主があなたを祝福してくださるように。キリストのゆえに。 

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個々の罪はイエスに負わされた[了]

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