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罪はイエスに負わされた

NO. 694

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1866年6月10日、主日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル


「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」。――イザ53:6


 この節は罪の告白によって始まる。この節で指し示されているすべての人に共通する罪の告白である。ここでは、神に選ばれた民の全員が意味されていると思われる。彼らはみな堕落しており、責任のとれる年頃に達した者はみな、現実にも罪を犯してきた。それゆえ、彼らはみな異口同音に――最初に天国に入った者から、最後に入ることになる者まで――こう云うのである。「私たちはみな、羊のようにさまよった」、と。しかしこの告白は、このように全員が心から口にする、何ら異議のないものである一方、銘々が個別的に行なうものでもある。「私たちは……おのおの、自分かってな道に向かって行った」。あらゆる個々人には、ひとりひとり固有の罪深さがある。すべての人は罪深いが、そのおのおのが、それをいや増して重くするような、同胞には見られない独特のあくどさを有しているのである。人が純粋に悔い改めている場合、その目印となるのは、その人が、自然と自分を他の悔悟者に結びつける一方で、孤立した立場も取らなくてはならないと感じるということである。「私たちは、おのおの、自分かってな道に向かって行った」、という告白の意味はこうである。ひとりひとりが、それぞれ自分に特有の光にそむいて罪を犯した、あるいは、少なくとも自分としては同胞のうちに感じとれないような、咎をいや増して重くするような罪を犯したのである。この告白は、このように一般的かつ個別的であり、この上もなくすぐれた特徴の多くを帯びているが、今はそれらについて語ることができない。これは、きわめて無条件のものである。注目すれば分かるように、弁解となるようなものは一音節も含まれていない。この告白の力強さを削ぐような言葉は全くない。さらに、これは著しく思慮深いものである。というのも、思慮のない人々は、この聖句ほどには適切な比喩を用いないからである。「私たちはみな、羊のようにさまよった」。私たちは、「その飼い主を知っている」*牛とは似ていない。「持ち主の飼葉おけを知っている」ろばとさえ似ていない[イザ1:3]。一日中さまよっていても夜になると、かいば桶のもとに帰ってくる豚とすら似ていない。むしろ私たちは「羊のようにさまよった」。世話を受けても、自分を世話してくれる手に感謝のこもった愛着をいだくことができない生き物のように、また、自分の逃げ出せる隙間を生け垣に見つけられるくらい賢くはあっても、自分がよこしまにも逃げ出してきた場所へと戻って行く性質も願いも持たないほど愚かな生き物のように、私たちはさまよった。私は、自分たちの罪の告白のすべてが、同じような思慮深さを示せば良いと思う。というのも、自分のことを「みじめな罪人」です、と云うのは、それを本当に感じていない限り、罪を増し加えることになりかねないからである。一般的な告白の言葉を用いても、そこに魂がこもっていなければ、それは「悔ゆるべき悔い改め」にほかならず、高き《天》に対する侮辱であり嘲りであろう。あらん限りの繊細さと聖なる恐れがなくてはならない所に、そうした侮辱と嘲りをぶちまけることであろう。これは、一団の咎ある人々――意識的に咎ある人々――による宣言である。特にその罪をいや増してあくどいものとする咎を有し、弁解の余地ない咎を有する人々の宣言である。そして、ここで彼らはみな、自分の反逆の武器を粉々に砕かれたまま立ち、異口同音に云っているのである。「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った」、と。

 この告白からは、いかなる陰気な呻きも聞こえてこない。というのも、次の文章がそれをほとんど歌のようにしているからである。「主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」。これは、この節の中で最も嘆かわしい文章であるが、最も魅惑的で、最も慰めに満ちている。奇妙なことに、みじめさの集中した所においてこそ、あわれみが支配し、悲しみが絶頂に達した所こそ、倦み疲れた魂が最も甘やかな安息を見いだす場所にほかならない。痛められた《救い主》は、痛んだ心を癒すのである。

 私は今、こうした告白を感じているすべての人々の心を、この聖句で述べられているほむべき教理に引き寄せたいと思う。主は、私たちのすべての咎をキリストに負わせた。

 私たちは、まずこの聖句を取り上げて講解することにしよう。それから適用することにしよう。そして、しめくくりとして真剣な、また望むらくは有益な黙想をしたいと思う。

 I. 第一に、この聖句を考察して《講解》しよう。

 1. まずは、この聖句の欄外訳を示すのが良いかもしれない。「エホバは、私たちのすべての咎を彼の上に合わせた」。注目を要する第一の思想は、罪を合わせるということである。罪は、悪の太陽の光線のようなものにたとえられよう。罪は、この世界中に光のようにふんだんに撒き散らされており、キリストは、その罪の太陽から発されている光線の破滅的な効果を完全にこうむっている。神は集光水晶体をかざして、拡散しているすべての光線の焦点をキリストに合わせておられる。それが、この聖句の思想であると思われる。「主は、私たちのすべての咎の焦点を彼に合わせた」。至る所に撒き散らされていたものが、ここでは、すさまじく収束させられている。わが身をかえりみない、私たちのほむべき主のみかしらの上に、御民のすべての罪が合わせられている。空が黒く染まり、風が吠え猛り出す大嵐の前に、あなたは雲が羅針儀のほとんどあらゆる方位から、急速に寄り集まってくるのを見たことがあるであろう。それはあたかも、戦いの大いなる日がやって来たかのようであり、神の恐ろしい砲兵隊が戦場に急行しつつあるかのようであった。そのつむじ風と嵐の中心で、稲妻が全天を燃え上がらせ、黒雲が躍起になって日の光を隠そうと積み重なり行くとき、あなたは、あらゆる罪がキリストの人格の上に合わせられていく様子の躍如とした象徴を見ているのである。過去の代々の罪、また未来の代々の罪、異教国にいた選民の代々の罪、またユダヤ人社会にいた選民の代々の罪、若者の罪と老人の罪、原罪と実際の罪、すべてが合わせられ、あらゆる黒雲が集中し、寄り集められては1つの大暴風となり、それがすさまじい大竜巻となっては、この偉大な《贖い主》また身代わりたるお方の上に突進してきた。一千もの小川が雨の日には山腹を駆け下り、すべてが1つの、増水して膨れ上がった深い湖に集まるように、その湖は《救い主》の心、そうした幾多の奔流は、自分の罪を完全に告白しているとここで描写されている私たちすべての者の罪である。あるいは、自然界からではなく、商業界から比喩を引き出してみよう。かりに、おびただしい数の人々がかかえる借金がすべて1つにまとめられたとする。至る所にばら撒かれている、これこれの期日に支払われるべき、あるいは不渡りになるべきあらゆる債務証書や手形が1つにまとめられたとする。そして、そのすべてが、ひとりの人の上に課されたとする。その人は、誰の助けも借りずに、その1つ1つを決済する責任を引き受けている。それがこの《救い主》の至っているありさまである。主は、その民全員の借金を彼の上に合わせ、彼が御父から与えられた者たちひとりひとりの債務すべての責任を負うようにされた。その債務がいかほどのものであれ関係ない。あるいは、もしこうした比喩でもこの意味を十分に述べられないとしたら、この英欽定訳によってこの聖句を取り上げてみよう。「主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」。荷物を人の背中に乗せるように、御民全員の重荷すべてが主の頭に乗せられた。あたかも古の大祭司がアザゼルのための山羊[レビ16:8]に愛する者たちのすべての罪を負わせ、その山羊が一身にその罪を負ったのと同じである。この2つの訳は、見ての通り完璧に一貫している。すべての罪は合わせられ、それから合わせられたものが、押しつぶさんばかりの1つの荷物にくくりあげられ、その重荷全部が彼に負わせられたのである。

 2. 第二に思わされるのは、こうした罪が合わせられた相手は、咎なき身代わりである、苦しみつつある人格であった、ということである。私は「苦しみつつある人格」と云った。この聖句の前節との関わりからして、そう考えざるをえないからである。「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」[5節]。この節との関連においてこそ、また、彼の悲嘆すべての説明としてこそ、こう云い足されているのである。「主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」。主イエス・キリストは、自らも罪人であったとしたら、ご自分の民すべての罪を彼らの身代わりとして受けとることはできなかったであろう。だが主は、その神的なご性質については、「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主」[イザ6:3]、と賛美されるにふさわしいお方であった。また、その人間的なご性質については、奇蹟的な受胎によって、あらゆる原罪を免れており、その生涯の聖さにおいて、しみも汚れもしわも、そのようなものの何1つない神の《小羊》であった。それゆえ主は、いかなる点から見ても、罪深い人々の立場と身分と代理に立つことがおできになった。この聖句の教理とは、イエス・キリストが――すなわち、その母の肉体から発した人であり、それにもかかわらず、まことの神よりのまことの神であり、最も真実かつ栄光に富む《創造主》、《保持者》であられるお方が――、ご自分の民全員の咎をわが身に負う立場を取りながら、自らはなおも咎なきお方のままであられた、ということである。個人的な罪を犯すことがありえなかったため、そのような罪は全く有していなかったが、しかし他の者らの罪を取られたのである。それは――神学者たちが口にするのを常とする云い回しによると――転嫁によってであった。だが、この言葉を用いるのは、私たちが理解する限りは十分正しいものであるにせよ、果たして代償の教理に反対する人々の謬説をそれなりにもっともらしく見せはしないかどうか、私は疑問に思う。私としては、神の民のもろもろの罪がキリストに転嫁されたとは云わないであろう。それらがそうされたと信じてはいるが、転嫁という言葉が表現するよりも格段に神秘的なしかたで、神の民のもろもろの罪は現実にイエス・キリストの上に負わせられたように思われる。神がご覧になるところ、キリストは、単に咎ある者であるかのように扱われただけではなく、罪そのものであるかのようにされたのである。いかにしてかは知らず、この聖句に従えば、罪そのものが何らかのしかたでキリスト・イエスの頭の上に負わせられたのである。「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」[IIコリ5:21]。こう書かれていないだろうか? 単に彼らの罪の罰ではなく、彼らの罪の転嫁だけではなく、「彼らの咎を彼がになう」[イザ53:11]、と。私たちの罪は、転嫁という用語によって表現される以上に深く、真実な意味において、イエスに負わせられたのである。私には、自分がこのことを云い表わせるとも、自分の思いの中にある観念を伝えられるとも思わない。だが、イエスは、決して罪人であったこともなく、決して罪人になりえたこともないが――そのような冒涜的な考えは、決して私たちの口をよぎったり、私たちの心にきざしたりすることがあってはならない!――、その御民の罪は文字通り、真実に主に負わせられたのである。

 3. さて、こう訊ねる人がいる。このように罪がキリストに負わせられるのは正しいことだっただろうか、と。私たちには四重の答えがある。私たちがそれを正しいことと信ずるのは、第一に、それが正しいことを行なうに違いないお方の行為だったからである。「主が、私たちのすべての咎を彼に負わせた」*からである。エホバは、そうした違反が犯された当の相手であり、そのお方が、ここで語られている民の罪はキリストに負わせられるべきだとお定めになったのである。ならば、このことを非難するのは、エホバの正義を非難するということであり、私は、私たちの中の誰ひとりそのようなことをする厚かましさを有していないように願うものである。陶器が、陶器を作る者に抗議などすべきだろうか? 形造られた者が万物の《創造主》と争うべきだろうか?[イザ45:9; ロマ9:20] エホバがこれを行なわれたのである。それで私たちは、それを正しいこととして受け入れ、人々が、エホバご自身の行ないについてどう考えるかなど一顧だにしないのである。さらに思い出すがいい。イエス・キリストは、自発的にこの罪をご自分で負われたのである。主はそれを押しつけられたのでも、ご自分とは無関係の赤の他人らの罪ゆえに意に反して罰されたのでもない。むしろ主は、ご自分から十字架にかかり、私たちの罪をその身ににない、それを身に負いつつ、こう云われたのである。「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです」[ヨハ10:18]。それは、主ご自身が、私たちに代わって御父と交わされた永遠の取り決めに従ってのことであった。主ご自身が表明された願いに従ってのことであった。というのも、主には受けなくてはならないバプテスマがあったし、それが成し遂げられるまでは苦しむことになっていたからである[ルカ12:50]。それゆえ、いかなる不正義が考えられようとも、それは、その第一の当事者たる主が自ら自発的にそうした立場をとられたという事実によって取り除かれるのである。しかし、愛する方々。私はもう1つあなたに思い出させたいと思う。私たちの主とその民との間には、ある関係があったのである。これは、あまりにもしばしば忘れられているが、このことによって、主がその民の罪を負うことは自然なこととなったのである。なぜこの聖句は私たちが羊のように罪を犯したことを語っているのだろうか? それは、キリストが私たちの《羊飼い》であられることを私たちに思い起こさせるためだと思う。私の兄弟たち。キリストは、見も知らぬ者たちの罪を身に負われたのではない。思い出すがいい。罪を犯した者たちと、苦しみを受けたキリストとの間には、この上もなく神秘的で親密な種類の結びつきが常にあったのである。私がこう云うとしたらどうだろうか? ある婦人が借金をかかえたとしても、その夫がそれを身に負うとしたら、それは不正でなく、法にかなったことである、と。では、神の教会が罪を犯すとき、教会をめとった《夫》が彼女に代わって負債者となるとしても、それは正しいことでしかなかったのである。主イエスは、その教会に対して、結婚した夫の関係に立っておられた。それゆえ、主が教会の重荷をになっても不思議ではなかったのである。近親者が相続地を買い戻すのは自然なことであった。では近親者であるインマヌエルが、失われたご自分の教会を、自らの血によって買い戻すことはこの上もなく適切なことであった。思い出すがいい。そこには結婚の絆よりも親密な結びつきがあったのである。というのも私たちは主のからだの肢体だからである。私のこの手に罰を与えるとしたら、そのことにより頭脳に宿る知覚感覚が苦しまずにいることはありえない。では、からだの中の劣った器官がそむきの罪を犯したとき、《かしら》が苦しめられることが、あなたには奇妙に思えるだろうか? 私の兄弟たち。代償贖罪は恵みに満ちたことではあるが、不自然なことではなく、永遠の愛の法則にかなったことであると私には思われる。だが、罪がキリストに負わせられることの困難を取り除く、四番目の考察がある。それは、神が負わせたというばかりではない。イエスが自発的に引き受けたというばかりではない。さらに、それを引き受けるのが自然であるような結びつきを主がその教会との間に有していたというばかりではない。このことを思い出さなくてはならない。すなわち、この救いの計画は、私たちが滅びに至った方法に酷似しているのである。私たちはいかにして堕落したのだろうか? 私の兄弟たち。私たちの中の誰ひとり、実際に自分で自分を堕落させた者はいない。確かに私たち自身の罪こそ、究極的な罰の根拠であることは認めてもよい。だが、私たちが原初に堕落した根拠は別のことのうちに存していた。私が自分の堕落に関与していないことは、私が自分の回復に関与していないのと全く変わらない。すなわち、私を罪人とした堕落は、私が生まれるはるか以前に、最初のアダムによって完全に成し遂げられていた。そして、私を解放してくれる救いは、私が日の目を見るはるか以前に、第二のアダムによって私に代わって完成されていたのである。もし私たちが堕落を認めるとしたら――そして私たちは、いかにこの原理を嫌っていようと、その事実は認めなくてはならない。――、この連帯的かしら性という同じ原理に基づいた救いの計画を神が私たちにお与えになることを不正であると考えることはできない。ことによると、多くの人々がこう推測しているのは真実かもしれない。すなわち、堕落した御使いたちは、個々に罪を犯したので回復される可能性が全くない。だが人は、そもそも個々人が罪を犯しているのではなく、契約上のかしらの下にあってそむいたがために、別の契約上のかしら性によって種族が回復される機会が残っていたのだというのである。いずれにせよ私たちは、堕落におけるこの連帯的かしら性の原理を受け入れて、キリスト・イエスにある回復についても喜んでこのことを受けとるものである。ならば、この4つの根拠に基づいて、主がご自分の民全員のもろもろの罪をキリストの上に合わせることは、正しいと思える。

 4. 第四のこととして注目してほしいのは、キリストの上に負わせられたものの中には、それと関連してもたらされたすべての結果があったということである。神は罪がある場所を快く眺めることがおできにならない。そして、イエス個人に関する限り、イエスは御父の愛する御子であり、御父はこれを喜んでおられたが、それでも神は、罪が御子の上に負わせられているのを見たとき、その御子をしてこう叫ばせられた。「わが神! わが神! どうしてわたしをお見捨てになったのですか?」[マタ27:46] イエスが私たちの代わりに罪とされたとき、御父の臨在の光を楽しむことは不可能であった。その結果、イエスは大いなる暗黒の恐怖をくぐり抜けた。その根源と源泉は、御父の臨在が意識の中から遠のいていくことにあった。それにもまして、光が遠のいただけでなく、明白な悲嘆が加えられた。神は罪を罰さなくてはならず、確かにその罪は現実に行なったという意味ではキリストのものではなかったが、それでもそれはキリストに負わせられた。それゆえ、主は私たちのために呪われたものとされたのである[ガラ3:13]。いかなる激痛をキリストは忍ばれたのだろうか? 私には告げることができない。あなたは主の十字架刑の物語を読んだことがあるであろう。愛する方々。それは単に外側の殻にすぎない。だが、その内側の核を誰が描写できよう? 確かにキリストは、単に人間性に忍びうるすべてのことを忍ばれただけでなく、そこには一個の《神格》があって、それが主の人間性に異常な強さを加え、それなしでは決して忍ぶことができなかったようなものをも耐えさせていたのである。私にとっては疑いもなく、これに加えて、内なる《神格》は、キリストのご性質の聖さに格別に鋭敏なものを与えており、罪は、ただ単に完璧な人にとってそうである以上にキリストにとっては、いやまさって厭わしいものとなっていたに違いない。主の悲嘆は、ギリシヤ正教の典礼式文によれば、「知られざる苦しみ」、と叙述されるにふさわしいものである。イエス・キリストが忍ばれたものの高さも深さも、長さも広さも、心では思いもよらず、舌では云い尽くせず、想像力でも描き出させないものである。主が私たちのすべての咎を神の御子の上に合わせられたとき、御子がいかなる悲嘆に押しやられたかを知る者は神だけである。それに加うるに、そこには死そのものがやって来た。死は罪の罰であり、「それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」[創2:17]、という言葉が何を意味しようと、そこで意図されていた、自然死を越える大きな何かを、キリストは感じとられた。死はキリストの中を通り抜け、突き抜け、ついに主は「頭を垂れて、霊をお渡しになった」[ヨハ19:30]。「キリストは……死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです」[ピリ2:8]。

 5. 愛する方々。しばし、こうしたすべての結果について考えてみるがいい。罪はキリストの上に合わせられ、キリストは罪のゆえに罰されている。ではどうなのか? 何と、そのとき罪は始末されるのである。刑罰が忍ばれた以上、正義はそれ以上何も要求しない。借金は払われている。――もはや何の債務もない。請求がなされ、その請求は応じられた。――その請求は消失してしまう。私たちは、自分個人ではその請求に応じることはできなかったが、私たちに緊密に結びついた縁者であるお方を通してそれに応じた。その方と私たちは、レビがアブラハムの腰にいたのと全く同じくらい密接に結びついている。イエスご自身も自由であられる。主の上に密集していた嵐は雲散してしまい、静謐な空には雲1つ残っていない。大波は押し寄せてきたが主の愛はそれを干上がらせてしまい、主の苦しみは水門を開き、その大水を永遠に放出してしまった。請求書の束が持ち出されたが、主はそのすべてを支払い、主が身代わりとなって死なれたただ1つの魂に対しても、未払い勘定は一切残っていないのである。

 6. この節の講解のしめくくりとして、ここで意味されている「私たち」について言及しないでおくわけにはいかない。「主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」。特定救済の教理を奉ずる私たちも、通常は、キリストの死の中に、非常に多大な一般性と普遍性があったことを認めるものである。私たちの信ずるところ、キリストの贖罪はその価値において無限であった。また、もしキリストが、世に生を受けたあらゆる人間を救うことをお定めになっていたとしたら、主が別の苦痛を忍ぶ必要はなかった。たとい主が全人類を贖うことを望まれたとしても、主の贖罪の中には十分なものがあった。また私たちはこのことも信じている。すなわち、キリストの死によって、天の下のすべての造られたもの[コロ1:23]に対して、このような言葉による招きが、広く、誠実になされるものである、と。――「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも……救われます」[使16:31]。しかしながら私たちは、それを越えては一吋たりとも進むつもりはない。私たちは主張する。キリストのなした弁済の性質そのものからして、それはキリストの選民だけのためになされたものでしかありえない、と。というのも、キリストは万人の借金を支払われたか、支払われなかったかのどちらかでしかない。もし主が本当に万人の借金を支払われたとしたら、その借金は支払い済みであって、いかなる者もその借金ゆえに責任を問われることはありえない。もしキリストがあらゆる生者の保証人だったとしたら、当然の正義の名において、いかにしてキリストが罰を受け、人間も罰を受けるなどということがありえようか? もしも、その人は贖罪を受け入れようとしなかったのだ、と答えられるとしたら、私はもう一度問いたい。その弁済はなされたのか、と。もしなされたのだとしたら、その人がそれを受け入れようが受け入れまいが、それはなされたのである。さもなければ、その弁済は、人がそれに効力を与えない限り、それ自体では何の効能もないものとなる。このような考えは途方もなく馬鹿げたものである。キリストはご自分が代理となった者たちのための弁済を真になされたのだという事実を、もしもあなたが私たちから取り上げるとしたら、私はヤコブとともに叫ぶであろう。「私も、失うときには、失うのだ」[創43:14]、と。あなたは、持つべき価値のある一切のものを取り上げてしまったのであり、その代わりに何を私たちに与えただろうか? あなたが私たちに与えた贖いは、自らも認める通り、贖いなどまるで行なわない贖いである。あなたが私たちに与えた贖罪は、失われて地獄にいる者たちにとっても、救われて天国にいる者たちにとっても、等しく行なわれた贖罪なのである。では、そのような贖罪にいかなる本質的な価値があるだろうか? もしあなたが私たちに向かって、キリストは人類のあらゆる者にとって申し分のない贖罪をなされたのだ、と告げるとしたら、私たちはあなたに問いたい。いかにしてキリストは、ご自分がこの世にやって来る何千年も前から地獄の火焔の中にいたに違いない者たちのための贖罪をなされたのか、と。私の兄弟たち。私たちの贖罪は、その宣言においても、その誠実な申し出においても普遍性という長所を有している。というのも、生ある者でイエスを信ずる者のうち、キリストによって救われない者はひとりとしてないからである。だが、それには、このことよりも格段に大きな長所がある。すなわち、信ずる者たちはこの贖罪によって救われるのであって、彼らはこう知っているのである。すなわち、キリストが自分たちのために成し遂げてくださった贖罪は、もしも自分たちが罪ゆえに罰されるようなことがあるとしたら、あわれみを踏みにじるのと同じくらい正義をも踏みにじるものとなるようなものなのだ、と。おゝ、わが魂よ! お前はきょう知っている。お前のあらゆる罪はキリストの上に合わせられ、キリストはそれらすべてのための罰を忍ばれたのだ、と。

   「われらが決して 受けぬため
    主は受け給いぬ、御父の憤怒(いかり)を」。

ここには立つべき岩がある。イエスに信頼する者たちのための、安全な休み場がある。主を信頼していないあなたについて云えば、あなたの血は、あなたの頭に降りかかるがいい! もしあなたがたが主を信頼しないとしたら、あなたがたはこのことについては何の関係もないし、それにあずかることもできない[使8:21]。あなたがたは、自分自身の刑罰のもとに下り、それをあなたがた自身で受けるがいい。神の怒りはあなたの上にとどまる[ヨハ3:36]。あなたは、イエスの血があなたのために何の贖罪もなしていないことを見いだすであろう。あなたは、与えられた招きをはねつけ、キリストの十字架を自分からはるか遠へ押しやった。そして、あなたの頭には赦しの血が決して注がれず、あなたのために、その血は何の申し立てもしないであろう。むしろあなたは、福音の下で救われるのを拒んでいる以上、律法の下で滅びなくてはならない。

 II. 手短に《適用》に目を向けることにしよう。

 話をお聞きの愛する方々。ひとりの友人が今あなたに、1つの質問をしたい。主イエスによって罪をになわれた人々は無数にいるが、主はあなたの罪をも、になってくださっただろうか? あなたは、その答えを知りたいだろうか? あなたは、その答えを云えないだろうか? この節をあなたに読み上げさせてほしい。そして、もしあなたがそれに唱和できるかどうか見させてほしい。これは、ただ口先で、「それは真実です」、と声を合わせるという意味ではなく、あなた自身の魂の中でそれが真実であると感じることを意味している。「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」。もしも今朝、あなたの中に悔悟する告白があり、あなたをして自分が間違ってきたこと、迷子の羊のようにさまよってきたことを認めさせているとしたら、また、もしあなたの中に罪の個人的な感覚があり、それがあなたをして、自分は自分勝手な道に向かっていたと感じさせているとしたら、また、もし今あなたがイエスを信頼できるとしたら、二番目の質問は必要ない。主はあなたの咎を、また、自分の罪を告白してキリストだけを見上げるすべての人々の咎を、キリストに負わせておられる。しかし、もしあなたがキリストに信頼しようとしていないとしたら、私はあなたに対して、主はあなたから罪を取り上げて、それをキリストに負わせておられると云うことはできない。というのも、私は、自分の魂の中でこう知っているからである。今のあなたが生きていようと死にかけていようと、あなたの罪は審きの日にはよみがえり、あなたに直面しては、あなたを断罪するであろう、と。愛する方々。私はあえてあなたに云いたい。あなたは、罪を取り除くための神の道と折り合いがついているだろうか? あなたは自分の心の中で、イエスがあなたのために罪をにない、あなたのために苦しまれるという考えに何か喜びを感じているだろうか? 感じていないとしたら、私はあなたに、この聖句がそれに服する者たちに与えている慰藉を差し出すことはできない。しかし、あなたに尋ねさせてほしい。あなたは自分で自分の咎をになうつもりなのだろうか? それが何を意味しているか分かっているだろうか? イエスはご自分の民の罪をになわれたとき、えぐるような苦痛を感じられた。だが、あなたが自分の罪をになうとき、それはいかなる苦痛となることか! 「生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです」[ヘブ10:31]。昨今は、永遠の罰という教理に対して非常に憤慨する人々がいる。私も、それが人間のでっちあげだったとしたら、それに怒りを発したであろう。だが、それがこの上もなく確実に《神の書》の中で脅かしとなっているとき、私は、とげのついた棒を蹴っても何にもならない。私の問うべきことは、「いかにすれば、これに反駁できるだろうか?」、ではなく、「いかにすれば、これから逃れられるだろうか?」、である。話をお聞きの愛する方々。自分のもろもろの罪をへばりつけたまま神の御前に出ようなどとしてはならない。私たちの神は焼き尽くす火である[ヘブ12:29]。そして神の憤怒は、そこにあなたが立つことになるとき、あなたに向かって噴出するであろう。

 あなたは、自分自身の功績によって罪のための償いができると想像しているだろうか? どうか考えてほしい。キリストが、ご自分から罪を振り捨てることができる前に、何をしなくてはならなかったかを。いかなる悲嘆を主は忍ばれたことか。いかなる御怒りの大海を通り過ぎたことか。だのにあなたは、自分のあわれな功績が――もしそれが功績だとすればだが――、この《救い主》があれほどの苦しみの末に成し遂げたものを手に入れられると考えているのだろうか? あなたは罰を受けずに逃れられると希望しているだろうか? だとしたら、もう一度考え直してほしい。あなたは、もし神がご自分の御子をさえ打たれたとしたら、神があなたをお咎めなしで見逃すなどということがあると思うのだろうか? もしも《栄光の王》が、他の者らの罪を負っていたにすぎないときでさえ死ななくてはならなかったとしたら、ちりから生じたあわれな虫けらよ。あなたは自分がどうなると考えているのか? あなたは、神があなたを救うために不正を行なおうとすると思うのだろうか? 神にとっては正義であり、あなたにとっても安全である計画によって救われることをあなたが選ばないからといって、あなたは神があなたに向かって、「いやあ、ようこそ!」、と叫び、ご自分の宣告をご破算にすると考えているのだろうか? 神は、あなたの気まぐれな空想にこびたり、あなたを情欲にふけらせたりするために不正を犯すだろうか? 罪人よ。この救いの計画の前で膝をかがめるがいい。このことをわきまえておくがいい。――そして、私はいま、自分が何を云っているか分かっており、冷静に語るものであるが――天の下には、これ以外にいかなる救いの計画もない。他の救いの道が宣べ伝えられることはあるであろうが、誰も、すでに据えられている土台のほかに、他の物を据えることはできない。その土台とは義なるイエス・キリストである[Iコリ3:11]。もしあなたが自分独自の救いを求めてもがき、キリストのかしら性を離れて天国に到達しようと希望しているとしたら、もがき続けるがいい。だが、あなたは古のユダヤ人のように、神に対して熱心ではあっても、その熱心が知識に基づくものでないことになるであろう[ロマ10:2]。もしあなたが自分自身の義を打ち立てることに精を出し、キリストの義に自分を服させないとしたら、あなたは滅びるであろう。しかし、あなたに尋ねさせてほしい。この計画は、好ましいものと思われないだろうか? もし私がイエスを信頼するとしたら、それが、私にとって、イエスが私のもろもろの罪を取り上げ、私の代わりに苦しまれたという証拠になるのである。おゝ、それが何という喜びを私に与えることか! 私は自分の経験を今あなたに正直に語るが、この代償の教理ほど大きな歓喜で私の魂を燃え上がらせる教理はないのである。しばしば説教されているような贖罪の教理は、律法を尊ぶことを――あるいは汚すことを――何か、朦朧と、薄ぼんやりと行なうことでしかない。というのも、私はそれを何と呼べば良いかほとんど見当もつかないからである。それは私に何の喜びももたらさない。だが私は、キリストが文字通り、また明確に、決して比喩的にでも、物のたとえとしてでもなく、文字通り、また明確に、ご自分の民の身代わりであられると知るとき、また、キリストに信頼している自分には、キリストの民のひとりである証拠があるのだと知るとき、何と、私の魂はこう語り出すのである。これで私は生きることができる! 私はきよい。イェスの血により私はきよい。これで私は死ぬことができる! 私は復活の日にも私の主イエスによって大胆に立てるからだ。何と、人よ。これは私には、キリストの御腕にあなたを飛び込ませるに足るもののように思われる。十字架につけられたキリスト! あなたの代わりの血に染まったキリスト! ご自分の敵たちが生きられるようにと、彼らのために私心なく苦しんでおられるキリスト! おゝ、遠ざかっていてはならない!

   「咎ある魂(たま)よ、逃れ来よ、
    イェスの御傷へ 鳩のごと。
    こは喜ばしき 福音の日、
    代価(かた)なき恵み 満ちあふる。
    主は教会(たみ)愛して 御子をば送り、
    怒りの杯 飲ませ給いぬ。
    イエスも云えり、誰をも捨てじと、
    信仰によりて 来たる者をば」。

 III. さて、今ひとときを神聖な《黙想》のためにささげよう。

 あなたは話を欲してはいない。思想を欲している。では、あなたが考えるべき4つのことを示したいと思う。第一に、キリストに負わせられたに違いない、驚愕すべき量の罪である。さて、これに飛びついて、こう云ってはならない。「そうです。主の選民の何百万もの罪です」、と。これに飛びついてはならない。一歩ずつ了解していくがいい。まず、あなた自身の罪から始めるがいい。あなたは、それを感じたことがあるだろうか?――あなた自身の罪を。否。あなたは一度もその完全な重みを感じたことはない。あったとしたら、あなたは地獄にいたであろう。罪の重さこそ地獄を作っているものである。罪は、自らの重みの中にそれ自体の罰を帯びている。あなたは、地獄の苦痛があなたをつかみ、悩み悲しみを感じたときのことを覚えているだろうか? あなたが主の御名を呼び求め、こう云ったときのことを。「主よ。どうか私のいのちを助け出してください!」[詩116:4] そのときあなたは、あなたの罪の小さな端っこを感じたにすぎないが、あなたのもろもろの罪のすべては、何という重みであるに違いないことか! あなたはいくつだろうか? あなたは、自分が憩いに入るとき何歳になっているか知らないが、あなたの全年齢の罪をことごとく主はかかえてくださった。光と知識にそむいたあらゆる罪、手による罪、口による罪、心による罪、御父にさからう罪、御子にさからう罪、聖霊にさからう罪、ありとあらゆる形の罪が、ことごとく主に負わせられた。あなたは今それを考えられるだろうか? さて、それを幾倍にもするがいい。主の民の残り全員の罪について考えてみるがいい。タルソのパウロのごとき者が負っていた迫害や殺人の数々。ダビデの負っていた姦淫。――ありとあらゆる形や大きさのもろもろの罪。というのも、神の選民は罪人のかしらの間にいるからである。神がお選びになる者たちは、生まれながらに最善の者たちではなかったし、その何人かは最悪の者らであった。だがしかし、主権の恵みは、以前は7つの悪霊が宿っていたところ、否、悪霊どものレギオン[軍団]が謝肉祭を祝っていた場所に家を見いだされた。キリストは人々の子らの間を見回し、パリサイ人は見過ごしにする一方で、取税人ザアカイが選ばれる。――そして、こうしたすべての者らのもろもろの罪が、その完全な重みとともに主に負わせられた。罪の重みは、こうしたすべての者らを押しつぶし、永遠に地獄に埋め込んでいたはずであったが、キリストがそのすべての重みをになわれた。そして、もし私が、そうした量の罪のすべてにふさわしい御怒りが、いかに永遠で、いかに無限のものであるかについてあえて云おうとするとしたら、どうなるであろうか。神の御子は、内側の《神格》の無限の力によって驚異的なしかたで支えられて、その全体をにない、お支えになった。私は一分ほど立ち止まって、あなたにこれをよくよく考えてほしい気がする。だがあなたが自宅に帰った後で、こう考えを巡らすなら、非常に有益な半時間ほどを費やすことであろう。

   「ひとの咎の 巨大な荷重(かさ)は
    わが《救主》(きみ)の上(え)に 負わされぬ。
    衣のごとく 主はまといたり、
    罪人のため 幾多の禍(まが)を」。

 2. あなたが黙想するために私が差し出したい次の主題は、これらすべてを行なうに至らせた、イエスの驚くばかりの愛である。パウロがこれをいかに云い表わしたか思い出すがいい。「正しい人(すなわち品行方正な人)のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人(すなわち慈悲ある人)のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」*[ロマ5:7-8]。キリストが私たちをその御霊で新しくしてくださったとき、こう想像したい誘惑があったであろう。私たちのうちにある何らかの美質が《救い主》の心をかちとったのだ、と。だが、私の兄弟たち。あなたは私たちがまだ罪人だったときにキリストが死なれたことを理解しなくてはならない。決して水で洗われ、布で包まれた赤子でも、決して宝石の耳飾りをつけ、純金の冠をかぶった麗しい乙女でも、決して清純な処女として花婿にささげられた愛らしい王女でもなかった。しかり。それがイエスが死なれたときにご覧になっていたものではなかった。主はそうしたすべてをご自分の予知の鏡でご覧になったが、主がその麗しい乙女のために死なれたとき、彼女の現実の状態は非常に異なっていた。彼女は打ち捨てられており、水で洗われも、塩でこすられも、布で包まれもしておらず、自分の血の中でもがく、汚れた、不潔なしろものだった[エゼ16:4-6]。あゝ! 私の兄弟たち。天の下のいかに不潔なものといえども、不潔な罪人ほど不潔なものはない。私たちのうちに、一筋も美が見いだせなかったときに、また、外側にも内側にも私たちを引き立たせるものが何1つなく、むしろ道徳的にはキリストの《聖なる》ご性質にとって全く厭わしいものであったときに、そのときに、――おゝ、驚愕すべき恵みよ!――主はいと高き天からやって来ては、私たちの罪の巨塊がご自分の上で合わせられるようにしてくださった。先日、私は自分にとっては目新しく思われるこの問いに直面した。このように発された問いである。「かりに、あなたの子どもが、らい病か、そうした類の汚らわしい病にかかっていたとしましょう。かりに、このあなたの愛する子のからだ中が、この上もない厭わしさに至るまで感染し、汚染されているとしましょう。それは、その目が見えなくなり、その手が腐り果て、その心臓が石と化し、その全身が傷口と、腫れ物と、膿んだただれで覆われているほどだとしましょう。さて、かりに、この子を治す唯一の方法は、あなたが完璧に健やかで健康な魂を持っているとして、それをその子のからだに埋め込み、あなたがその子に代わってその子の病気を身に帯びるしかないという場合、あなたはそれに同意するでしょうか?」 私は、母親の愛ならば、それにすら従うことが想像できる。だが、そうした膿んだただれを嫌悪していればいるほど、その務めは恐ろしいものとなるであろう。さて、これはイエスが自ら私たちのもろもろの罪を取り上げ、私たちの病をになわれたときに、私たちのために行なわれたみわざの表面をなぞるようなことでしかない。キリストと罪人の間には、途方もなく素晴らしい結びつきがあるため、私はあえて云いたい。人の罪とキリストの関わり合いに関して新約聖書および旧約聖書の中に記されているいくつかの表現を、私は聖書からの直接の引用として以外にはあえて用いようとは思わない、と。だが、それらがそこにあるため、あなたは、イエス・キリストの愛が、いかに驚嘆すべきしかたでキリストをしてご自分の上に私たちの悲しい状態と苦境を引き受けさせたかを見てとるであろう。しかし、おゝ、その愛よ! おゝ、その愛よ! 否。私はそれについて語るまい。あなたがたがそれについて沈思黙考しなくてはならない。沈黙は時として最上の雄弁である。そして、私はあなたにこう云うことが最上であろう。おゝ、イエスの愛の深みよ! 測り知れず、底いも尽きせぬ愛よ! 万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神[ロマ9:5]が、主に私たちのすべての咎を負わせるとは!

 3. 不思議や不思議、私には、もう1つの主題をあなたに考えさせるために、もうしばしの時が必要である。それは、この救いの計画が差し出している、比類なき安泰さにほかならない。私は、キリストが自分の罪をになってくださったことを感じ、また知ることができる人が、いかなる脆弱さを有しているか分からない。私は神の種々の属性を眺める。そして、罪人としての私にとっては、それらはみな、鋭く尖った先をもって逆立ち、私にそれを突き出しているように思われるが、イエスが私のために死なれ、文字通り私たちの罪を取られたことを知るとき、私は神の属性の何を恐れるだろうか? そこには正義がある。槍のように鋭利に輝く正義がある。だが、正義は私の友である。もし神が義であるとしたら、神はイエスが弁済を差し出された罪ゆえに私を罰することはできない。《神格》の心に正義がある限り、キリストを自分の身代わりとして正当に主張している魂が罰されることはありえない。あわれみ、愛、真実、誉れ、比類ない一切のもの、神にふさわしく、神聖な、《神格》に伴うものについて云えば、私はこうしたすべてについて云うであろう。「あなたがたは私の友である。あなたがたはみな、イエスが私に代わって死なれた以上、私が死ぬことがありえないという保証である」。何と壮大なしかたで使徒はこのことを云い表わしたことか! 私が思うに、いついかなるときにもまして、彼が聖霊によって高揚させられ、その雄弁の高みのきわみにまで引き上げられたのは、彼が《救い主》の死と復活について語る中で、あの壮烈な問いかけを発したときにほかならないであろう。「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか?」[ロマ8:33] 永遠の正義がその燃え上がる王座に座しているところで、使徒は目をかっと見開いては言語に絶する壮麗さを見つめている。そして、誰かが、「《審き主》は罪にお定めになるでありましょう」、と云った言葉に対するかのように、彼は答えている。「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです」。神は私たちを義と認め、それから罪に定めることができるだろうか? 神はキリストが死んでくださった者たちを義とお認めになる。というのも、私たちは主が復活したことによって義と認められるからである[ロマ4:25]。ならば、いかにして神が罪に定めるなどということがあって良いだろうか? そして、そのとき彼は再びその声を張って云う。――「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです」[ロマ8:34]。これ以外の根拠に立つならば、人は不安を感じざるをえないが、ここでならば彼は自分が安泰であることを知ることができる。あなたがたも、そうしたければ、行って砂のごとき土台の上に建ててみるがいい。あなたの上部構造を急拵えで建て上げ、それがバベルの塔ほどにも高くなったあげくに、自重を支えることができず、あなたの耳元で崩壊するようにするがいい。だが、私としては、私の魂はこの代償贖罪という堅固な岩の上で安らぐであろう。そして、確信に満ちた決意とともにこの岩にすがりついているとき私は、イエスが私の代わりに死なれた以上、自分が何も恐れる理由がないことを知るであろう。

 4. 最後に、私が黙想の主題としてあなたに示したいと思い、ぜひとも忘れないでほしいのは、この問いかけである。ならば、イエス・キリストはあなたや私に何を要求しておられるだろうか? 兄弟姉妹。私は時として雄弁になりたいと思う。私個人に関わる要請をすべきときには決してそう思わないが、イエスに代わって語らなくてはならないときにはそうである。しかし実際、ここではいかなる雄弁も必要ない。あなた自身の心が弁士となり、主の御苦しみがその嘆願となるであろう。私の兄弟たち。私たちのほむべき主があなたの罪を取り上げ、その恐ろしい結果のすべてをあなたに代わって、あなたが解放されるために苦しまれたのか。ならば、その死と御傷によって、その死によって、主を死に至らしめたその愛によって、私はあなたに懇願する。主を、扱われてしかるべきしかたで扱ってほしい! 愛されてしかるべきしかたで愛してほしい! 仕えられてしかるべきしかたで主に仕えてほしい! あなたは私に、自分は主の戒めには従ってきました、と告げるであろう。私はそう聞いて嬉しく思う。あなたは確かにそうしてきたという確信があるだろうか? 「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです」[ヨハ14:15]。あなたは主が伝えた通りの礼典を守ってきただろうか? あらゆる点において主に従順であろうとしてきただろうか? あなたの主がお定めになったあらゆる道を、あなたは厳密に辿って旅をしているだろうか? たといあなたがそう云えるとしても、私は満足しない。キリストのような指導者を戴いているとき、単なる従順がすべてであるとは思えない。ナポレオンには、人心を収攬し、自分に心酔させる異様な能力があった。彼が戦場にあるとき、彼の将軍たちの多くは、否、ほんの一兵卒たちの多くさえ、いずこへ行軍するよう命じられようと、ただ単に兵士として即座に従うばかりでなく、彼のために熱狂的にそうした。あなたは、この皇帝を救うために、銃火の下に飛び込んで、自分の胸板で銃弾を受けとめた者のことを一度も聞いたことがないだろうか? いかなる服従も、いかなる法律も、そのようなことを彼に要求することはできなかったが、熱狂的な愛が彼を動かしてそうさせたのである。そして、そのような熱狂をこそ、私の《主人》は、私たちからその最も高度な形で受けるにふさわしいのである。それは、法律のあらゆる範疇を外れ、それを越えたものである。法があえて要求するすべてのことを超越したものである。だがしかし、そのすべてにもかかわらず、それは余分の功徳ではない。というのも、あなたがたは律法の下にではなく恵みの下にあるからである[ロマ6:14]。そして、あなたがたは、強制的な要求から行なうはずのものより多くを愛から行なうであろう。私は私の《主人》のために何を行なえば良いだろうか? 私の主のために何をすれば良いだろうか? いかにして主を公に示せば良いだろうか? 私の兄弟姉妹。あなたがたの中にいる未回心の人々を回心させることに次いで、神の御前で私がいだいている最高の目当ては、あなたがた、キリストを愛している人々が本当にキリストを愛するようになり、本当にキリストを愛しているかのように行動するようになることである。私は、あなたがたが決して死んだ冷たい教会にならないでほしいと思う。おゝ、願わくは私の牧会活動が決してあなたがたをそうした状態に眠り込ませるようなものとならないように! もしイエス・キリストが、あなたがたのすべてに価しないとしたら、キリストには何の価値もないのである。あなたは、この言葉のように感じないとしたら、主の要求について何も知らないのである。

   「汝がすべてをば 主にささげずば
    こは汝が義務(つとめ)ならざるや、
    汝れの、主をば 熱心(あつ)く愛して
    残りなくみな 主に献(ささ)ぐるは」。

キリストは私のために立っておられる。おゝ、願わくは私がキリストのために立ち、キリストのために懇願し、キリストのために生き、キリストのために苦しみ、キリストのために祈り、キリストの御助けによってキリストのために宣べ伝え、労する者となるように! あなたがたひとりひとりに向かって、こう云い聞かさせてもらって良いだろうか? あなたがたはみな、おのおの、自分勝手な道に向かって行き、かの重荷を増し加える何らかの罪を個人個人が犯してきた以上、個人個人がそれぞれの奉仕を主にささげるがいい。あなたの財産を教会の一般的な働きのために寄付するがいい。また、それを絶えず定期的に、喜ばしいこととして行なうがいい。私たちの《学校》は、大きな貢献を果たしつつあるが、非常に大きな必要をかかえており、私たちの働きを愛し、主の真理を愛するすべての人々の助けを要している。しかし、それに加えて、あなた自身で何事かを行なうがいい。あなた自身がキリストのために語るがいい。あなた個人で行なう何らかの奉仕に携わるがいい。もう一度云うが、あらゆる時に教会全体の奉仕を支援するがいい。というのも、それは大きな働きとなるであろうからである。神が私たちの中で私たちのいのちであり支えであられる以上、いかなる者も自分の財産をキリストの御国を進展させる働きのため出し惜しんではならない。だが、それでも、それがすべてではない。キリストはあなたの財布だけでなく、あなたの心を求めておられる。ペンスではなく魂の活動である。シリングやギニー等々ではなく、あなたの内奥の魂そのもの、あなたの霊の中核である。おゝ、キリスト者よ。キリストの血にかけて、もう一度キリストに献身するがいい! 古のローマ軍の戦闘においては、時としてこういうことが起こった。戦いの帰趨が疑わしく思われるとき、迷信的な愛国心にかられた将軍が剣の上に身を倒して、祖国の勝利のために自らの死をささげたところ、そのとき、こうした古い伝説によると、戦局は常に好転したというのである。さて、兄弟姉妹たち。すでに主がいつくしみ深いことを味わっているあなたがたひとりひとりは、この日、《王》なるイエスのために生き、死に、財を費やし、自分自身を使い尽くすために献身するがいい。あなたは決して馬鹿を見ないであろう。というのも、いかなる者もこれほど価値ある大望をいだいたことはないからである。あなたは、その価値もない者に献身しようとするのではない。あなたは自分がいかに多くをこの方に負っているか知っている。否。真に完全には、あなたの負い目の深さを知ってはいない。だが、あなたは自分の有するすべてを――あなたが地獄から逃れたこと、天国に入る希望があることを――この方に負っていることは知っている。では今朝、私の後についてこの詩句を唱和するがいい。――

   「成し遂げられぬ、大いなる取引(わざ)、
    われは主のもの、主はわれのもの。
    主われを引きて、われは従い、
    魅せられ告白(いわ)ん、天つ御声と。

    いざ休め、わが 分裂(さか)れし心、
    この喜ばしき 中心(まと)に据えられ。
    灰(ちり)と別るを 誰(た)ぞ不平(かこ)たんや、
    天餐(みかて)の宴に 招かれたるに。

    厳誓(みちかい)聞きし 高き天原(あまはら)
    日々聞けり、その 再誓(あらため)らるを。
    わが最期(はて)る時 ついに来たりて
    愛しき絆 称(たた)える日まで」。

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罪はイエスに負わされた[了]

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