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キリスト教信仰の形式と精神

NO. 186

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1858年4月4日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「シロから主の契約の箱をわれわれのところに持って来よう。そうすれば、それがわれわれの真中に来て、われわれを敵の手から救おう」。――Iサム4:3


 この人々はたいへんな間違いを犯した。彼らに欠けていたのは、彼らの真中における主の臨在であった。だのに彼らは、神の臨在の象徴――契約の箱――がありさえすれば、戦いの日に必要な救援が十分に与えられるものと想像したのである。人のいだく宗教は、人のようなものとならざるをえない。さて人は複合的な存在である。正しく云えば人は霊的な存在であって、その内側には魂がある。物質の境界をはるかに越えた実体がある。しかし人は、魂と同様にからだからも成っている。人は純粋な霊ではない。その霊は血肉に受肉している。さて、そうしたものが私たちのキリスト教信仰である。神信仰は、その力の源について云えば、純粋に霊的なものである。――常にそうである。だが、人間が霊と同じく肉からも成っている以上、人のいだく宗教もまた、外的で、外側の、物質的なものをもって、霊的なものを具象化することが必要と思われる。さもなければ、人は霊的なものをつかめなかったであろう。これは、特に古い経綸の下で云えることであった。ユダヤ人の宗教は、本来は天的で霊的なものである。思考の問題であり、精神と霊に関わるものである。だがユダヤ人は教育を受けていなかった。ほんの赤子でしかなかった。霊的な事がらを理解させたければ、図示してやらなくてはならなかった。あるいは、(いま述べたばかりのことを繰り返せば)、何らかの外的な型や象徴に具象化して見せなくてはならなかった。それゆえ、神はユダヤ人に、おびただしい数の儀式を与えられた。それは神信仰にとって、人の魂にとってのからだのようなものであった。ユダヤ教は贖罪の教理を教えたが、ユダヤ人はそれを理解できなかった。それゆえ神はユダヤ人に、毎朝毎夕殺されるべき子羊を与え、手を乗せて民のもろもろの罪を告白すべき山羊を与え、それを荒野に解き放たせた。神による代償と贖罪という偉大な教理を示すためである。ユダヤ教は、その顕著な教理の1つとして《神格》の単一性を教える。だが、ユダヤ人は、世に唯一の神しかいないことを常に忘れる傾向にあった。それで神は、それを教えるために、ユダヤ人にはただ1つの神殿しか持たせず、ただ1つの祭壇の上でなければ正しくいけにえをささげたことにさせなかった。それで、唯一の神という観念は(先に述べたように)、神殿が1つしかなく、祭壇が1つしかなく、大祭司がひとりしかいないという事実のうちに受肉させられたのである。そして、よく聞くがいい。これは私たちの宗教――キリスト教――についても当てはまるのである。ユダヤ教ほど大ががりなものではない。――ユダヤ人の宗教の有していたからだは、ごてごてとした重苦しいものであった。――私たちの宗教の有するからだは透明で、僅かしか物質的な部分がない。もしあなたが私に、私たちの宗教の物質的な部分とは何ですか、何が私たちの信頼し希望している霊的なものを具象化していると云うのですか、と問うならば、私はこう指摘しよう。まず第一に、主の2つの規定、すなわち、バプテスマと主の晩餐である。次に指摘したいのは、神の家の礼拝式、安息日、私たちの礼拝の外的な儀式である。私は、私たちの厳粛な歌を、また、私たちの神聖な祈りの集会を指摘しよう。また、やはり指摘したいのは――そして、そうすることは正しいと思うが――健全な言葉の手本[IIテモ1:13]である。私たちが常に堅く、またしっかりと保っていたいと願うもの、イエスにある真理を握っていようとする者が信じなくてはならない信条を含む言葉である。ならば、私たちの宗教には今日に至るまで外的な形式があるのである。というのも、使徒パウロは、信仰を告白するキリスト者たちについて語っていたとき、「見える形は敬虔であっても、その実を否定する」[IIテモ3:5 <英欽定訳>]一部の人々について語ったからである。それで、このことは今なお真実なのである。すなわち、確かに私も、それがモーセの時代と同じ程度ではないと告白するものの、宗教にはからだがなくてはならず、霊的なものは私たちの視覚の前で明白に判別できるものとして現われなくてはならない。私たちの目に見えなくてはならない。

 さて、今朝は3つの点が本日の物語から推論されるであろう。第一の点はこうである。――キリスト教信仰の外的な形式は注意深く、また、恭謙に遵守されるべきである。しかし、私の第二の、また、最も重要な項目はこのことである。――注意すると分かるように、キリスト教信仰の精神を最も有していない人々ほど、その形式を最も迷信深く遵守するものである。それはこの物語の人々が、神のことなど気にもかけていないくせに、契約の箱と呼ばれる櫃には、きわめて迷信深い敬意を払っていたのと全く同じである。それから私の第三の点は、キリスト教信仰の外的な形式に信頼する人々は、恐るべき欺瞞に陥っており、その欺瞞の結果は最も致命的な性格のものとならざるをえないということである。私が第一の点を必要であると感じるのは、まず何よりも注意を払うべきはキリスト教信仰の精神である、という絶対的な必要を強調することで、誰かがキリスト教信仰の形式を軽蔑するようになってはいけないからである。

 I. では第一のこととして、《キリスト教信仰の形式は恭謙に遵守されるべきである》。この契約の箱はユダヤ人にとって、その宗教の最も神聖な用具であった。ユダヤ人が聖なるものと思っていたものは他にもたくさんあったが、この箱は常に至聖所に置かれ、二重に聖なるものとされていた。なぜなら、この贖いのふたの上に載っていた二体のケルビムの差し伸ばされた翼の間には、通常、シェキーナーと呼ばれる輝かしい光が見られ、イスラエルの神エホバ、ケルビムに座しておられるお方がそこにおられることを表わしていたからである。そして実際、サムエルの時代には、この箱を崇敬すべき大きな理由があった。というのも、あなたも思い起こすであろうように、モーセがミデヤン人との戦いに行ったとき、ミデヤン人に完勝できたのは、大祭司エルアザルが銀の喇叭をもってその戦いの前に出て行き、その手を律法のこの聖なる用具――すなわち、この箱――に置いていたからなのである[民31:6]。そして、この箱の前においてこそ、その勝利は成し遂げられたのである。また、この箱によってこそ、ヨルダン川は干上がった。十二部族がその岸辺にやって来たとき、そこには何の渡り場もなかったが、祭司たちがこの箱のにない棒を肩にかつぎ、粛々と水辺に下っていったとき、その箱の面前で川の水は退いて行き、民は足を濡らすことなく渡って行った。そして、彼らが約束の国に上陸した後でも、あなたが覚えている通りに、この箱によってこそエリコの城壁は地面に崩れ落ちた。というのも、祭司たちは、喇叭を吹きながら箱を担い、民がその町の回りを七日間回ったときにそれを先導していたからである。そして、ついにその箱の力によって、あるいは、その箱に宿る神の御力によって、エリコの城壁は崩れ落ちた。民はひとり残らず、まっすぐ町に上って行き、住民を皆殺しにした[ヨシ6:20]。それゆえこの民は、いったんこの箱が手元に来れば万事はうまく行くだろう、勝利は確実だろうと思った。それで彼らは、私が第二の項目で強調しなくてはならないように、このあわれな櫃に力があるものと迷信的に思い込んでいた点で間違っていた。とはいえ、それでもこの箱は恭謙に守られるべきであった。それは、高い霊的真理の外的な象徴であり、決して少しも侮辱的なしかたで取り扱われるべきではなかったからである。

 第一のこととして、きわめて確かであるのは、キリスト教信仰の形式は決して改変されてはならないということである。あなたも覚えている通り、この箱はモーセによって、神が山で彼に示された型に従って[ヘブ8:5]作られていた。さて、私たちの宗教の外的な形式は、それが正しいものだとしたら、神によって作られているのである。神の2つの偉大な規定、バプテスマと主の晩餐は、高き所から私たちに送られているのである。私は、そのいずれをも改変しようなどとはしない。バプテスマとは浸礼を、また、浸礼だけを意味している信じている私が、それを滴礼によって執行しようなどとしたら、それは天に対する大逆であり裏切りであると思うべきである。また、バプテスマは信仰者にだけ属していると信じている私が、信じてもいない者にそれを授けたりしたら、自分が神の御前で罪を犯したと考えるべきである。主の晩餐についても全くそれと同じである。それがパンと葡萄酒から成っていると信じている私は、信徒に杯を控えさせることがローマ教会におけるはなはだしく冒涜的な点であると信じている。また、自分の信仰と自分の悔い改めを告白したことも、自分が神の真の子どもであると宣言したこともない者を主の晩餐にあずからせるのは、《天の至高者》に対する大逆罪であると私は考える。また、《福音》の諸教理に関しても、この点では、いかなる改変も許されてはならない。私は、教理の形式は、その精神や心にくらべれば非常に小さなものであると分かってはいる。だがそれでも私たちは、その形式さえも改変してはならない。私たちは厳密な宗教をいだくべきではないとしばしば云われる。だが私の信ずるところ、それこそまさに私たちがいだくべきものである。それは、いかにしても改変しようのない性質の宗教である。《教会》の《無謬のかしら》、すなわち、私たちの主イエス・キリストから出た宗教、また、時代の終わりに至るまで《律法と預言者》のようなもの――地が続く限り、その一点一画も落ちないもの[ルカ16:17]――たるべきである。ある人々は、これを改変したり、あれを改変したりしても、キリスト教信仰の精神は保っていられると考えるし、それにも一分の理はある。だが、そうした人々は思い起こすがいい。確かにいかに多くの過誤の最中にあっても、キリスト教信仰の精神を保っていることはできるかもしれないが、その一方で、あらゆる過誤には、私たちの霊性を弱める傾向があるのである。そして、それに加えて、私たちは、自分に対する効果しか考えないですます権利は全くない。神がキリスト教信仰にいかなる形式を規定されたにしても、私たちの義務は、それにいかなる改変も加えることなく実践することである。その改変がいかに理にかなったものに見えようとも、それは高き天に対する裏切りであり、キリストの《教会》において許されるべきではない。「あなたは」、とパウロは云った。「……私から聞いた健全なことばを手本にしなさい」[IIテモ1:13]。すなわち、以前にも云ったと記憶しているが、キリスト教信仰の形式は力ではない一方で、その形式を注意深く守っていない限り、その力を保つことは容易でないのである。それは卵を包む卵の殻のようなものである。殻には何のいのちもないが、それを割らないように注意しなくてはならない。さもないと、中身のいのちを破壊しかねないからである。私たちの信仰に関わる種々の規定や教理は、キリスト教信仰の殻にすぎない。――それらはいのちではない。だが、私たちは、外側の殻をも傷つけないようにする。というのも、それを傷つければ、中身のいのちを危険にさらしかねないからである。何とかそれが生き延びたとしても、それはその外側の形式に加えられた何らかの損害によって弱められてしまうに違いない。

 また、その形式は、改変されてはならないのと同じように、蔑まれてはならない。このペリシテ人たちはこの箱を蔑んだ。彼らはそれを分捕って、自分たちの偶像の宮に安置した。そしてその結果、彼らの偶像神ダゴンはばらばらに壊された。そこで彼らは、この箱を自分たちの町々に送ったが、彼らは腫物で打たれた。このため彼らは、それを城壁の中に置いておくのを恐れて、野外の野に置いた。すると彼らには鼠が押し寄せてきて、何もかも食べ尽くしてしまった。神は、ご自身の宗教の外的な形式にさえ、いかなる不名誉が加えられるのも許されない。神は人々が、ご自分の箱にさえ何の不名誉も加えず、恭謙な注意を払うことをお望みになる。それはゴフェルの木でしかないかもしれないが、そのケルビムの上に神が座しておられるがために、その箱は神聖なものとみなされており、神はそれに不名誉が加えられるのをお許しにならないのである。気をつけるがいい。あなたがた、神を蔑む人たち。神の外的な規定を蔑まないようにするがいい。安息日を笑い飛ばし、神の家の規定を蔑み、恵みの手段をないがしろにし、キリスト教信仰の外的な形式をむなしいものと呼ぶこと、――これらすべては神の御前では非常に無礼なことである。神が私たちに望んでおられるのは、形式がいのちではないにせよ、そこに含まれているいのちのゆえに形式を尊重すべきだと覚えていることである。からだは、内側の魂のゆえに尊重されるべきである。私は、からだが不具にされても魂が傷つくことはありえないからといって、誰からも私のからだが不具にされることを望まない。それと同じように、神はいかなる人もキリスト教信仰の外的な部分を損なうことをお望みにならないであろう。その真の力の源には、確かにいかなる人も触れることができないが、関係ない。

 それでも、もう1つの、そして、非常に厳粛な指摘をしなくてはならない。外的な形式が改変されたり、蔑まれたりすべきではないように、それはふさわしくない人々によって手出しされるべきではない。あなたも覚えているように、この契約の箱は、ペリシテ人の地から取り戻された後で、ベテ・シェメシュ人ヨシュアの畑に置かれた。そして、ベテ・シェメシュの人々はその蓋を取って、主の箱の中をのぞき込んだ。それゆえに主は、「その民五万七十人を打たれた。主が民を激しく打たれたので、民は喪に服した」[Iサム6:19]。このベテ・シェメシュ人たちは、この箱に不名誉を加える何の意図も有していなかった。だが彼らは、下らない好奇心で中をのぞきたいと思い、あの驚くべき石を見たために、打たれて殺されたのである。さて、あなたは容易に思い出すであろう。召されてもいない者がキリスト教信仰の外的な形式に手出しをした場合、いかに非常に厳粛な罰が結びつけられていたことか。この畏怖すべき箇所を引用させてほしい。(主の晩餐において)「みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります」[Iコリ11:29]。これは何と恐るべき宣言であろう! キリスト教信仰の外的な形式に触れる資格もない者が、そうした場合、それだけで呪いが宣告されている。そして、私たちの知るところ、神の聖なる怒りを何よりも素早くかき立てるのは、神の家における諸規定に携わり、自分がキリストのうちにあるという外的な告白を行なっている人が、実はそのことについて何の関係もないし、それにあずかることもできないという場合である。おゝ、用心するがいい。キリストの外的な諸規定は、キリスト教信仰の力の源ではないが、それにもかかわらず、非常に厳粛に重要なものであるため、それを改変することも、蔑むことも、召されないままそれらに突進することもしてはならないのである。そうするならば、イスラエルの《いと高き神》の聖なるものを蔑んだかどで、神の呪いが私たちに降りかかるからである。

 さて今、この最初の項目をしめくくる前に、こう指摘させてほしい。神に属する外的なことには、熱心な気遣いと愛を注ぐべきである。先の聖書朗読の中には、そうした2つの例があった。そこには聖なるエリがいた。彼は、神の箱が神ではないことをよく知っていた。それが内的な、また、霊的なものの外的なしるしにすぎないことを理解していた。だが、神の箱が奪われた際の、このあわれな老人の苦悩に目をとめるがいい。彼は心が張り裂け、地面に倒れて首の骨を折った。それから、あの無名の女がいた。彼女の夫は、まさにこの箱に付き添っていた祭司であったが、彼の品性は、的確に描写したければ、ベリアルの子と云うしかないようなものであった。神聖を汚す邪悪な教役者を夫にしている女が、宗教を信ずることは困難である。この女の夫は神に対して不正を働いたばかりか、彼女に対しても不正を働いた。彼は不潔で汚れた人物、主の家の庭そのものを自分の不品行で汚染した者であった。だがしかし、彼女には、自分の神に対する大きな信仰があり、自分の夫がそのすさまじい品性によって評判を落とした宗教を愛することができた。彼女は、人とその義務とを区別することを知っていた。祭司と祭司職、役職者と役職とを区別することを知っていた。私にとって彼女は驚きである。確かに、教役者が裏表のある歩みをしているのを見ることほど私たちの信仰をぐらつかせるものはない。だが、この男は主任教役者であり、彼女自身の夫であり、何もかも承知の上で罪の中に生きていた。彼女の胸をえぐる罪の中に生きていた。それは彼女に対する罪だったからである。確かに、彼女に信仰があったこと自体驚くべきことであった。だが、彼女の信仰と、彼女の宗教に対する愛着は非常に強かったため、確かに彼女はエリと同じくあの箱が神ではないこと、形式は内なるものではないことを知ってはいたが、その形式そのものが彼女にとってはあまりにも尊いものであったため、予定よりも陣痛が早まり、その痛みの最中でも、まずその念頭にあったのはこのこと――主の箱が奪われたということである。子どもが生まれたという知らせで彼女を励ましても役に立たなかった。それは彼女にとって無駄話であり、彼女はそれを喜ばなかった。彼女は失神していたが、とうとうその目を開き、自分の夫が死んだこと、それゆえ、ユダヤ人の慣例によれば、子どもに名前をつけるのは自分の義務であることを思い出した。そして、死の間際にありながら、かすかにその唇を開いて云った。「名前は恥夫(イ・カボデ)にしてください。栄光は去りました」。そして、彼女はその理由をこう云い足した。彼女は、「私の夫が死んだから」、とは云わなかった。夫を愛してはいたが関係なかった。「舅のエリが死んだから」、とも、「お国が負けたから」、とも云わなかった。むしろ彼女は、この含蓄に満ち満ちた理由を云い足した。「神の箱が奪われたから」[Iサム4:22]。そして、彼女は死んだ。私たちは迷信的な重要性を外的な儀式に結びつけるものではないが、イスラエルの聖なる方のゆえに、エリがしたように、また、この無名の、だが高貴な女がしたように、聖なる事がらを大切に思いたいと思う。

 このように私は第一の項目について説教してきた。そして、この場にいるいかなる儀式尊重主義者も、確かに私と意見を異にすることはありえないに違いない。というのも、彼らはみな、それは真実ですと云わざるをえないからである。ピュージー主義者でさえ、それこそ自分の信じていることですと告白するであろう。――種々の儀式は注意深く遵守されなくてはならないのである。しかし、私は第二の項目においては、ピュージー主義者殿と一致することはないであろう。

 II. さて、これは周知の事実だが、《霊的な宗教がいかなるものであるかをまるで知らない当の人々こそ、外的な形式に最も迷信的な注意を払う人々である》。もう一度、この場面に注目してもらいたい。この人々は悔い改めることも、祈ることも、神とその預言者たちを求めることもしようとしなかった。だが彼らはこの箱を求めて、迷信的な尊崇でそれに信頼した。さて、真の宗教を少しでも有していたいかなる国においても、この大いなる事実は非常にはっきりと明らかにされてきた。すなわち、真の宗教について何も知らない人々こそ、常に種々の形式について最も注意深い人々であった。あなたは、誰がやもめの家々を食い物にし、みなしごの世襲財産をむさぼるのを常としてきたか知りたいだろうか? キリストの時代の偽善者たち、人を欺く者たちを知りたいだろうか? 何と、それは「見えのために長い祈りをする」[マタ23:14]パリサイ人であった。町角で貧者に施しを行なう人々であった。――はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、例えば、正義や義をおろそかにしている[マタ23:23]人々であった。もしあなたがキリストの時代に詐欺師や、不正な裁判官や、嘘をつく者や、偽証をする者を見いだしたければ、単に週に三度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげている人々を尋ね求めるだけで良かった。こうしたパリサイ人たちは、いかによこしまな行動も平然と行なっていた。だが、葡萄酒を飲んでいるときに小さなぶよがその中に落ち込み、それを一緒に飲み込んでしまうと、自分が汚れたと考えた。なぜなら、彼らの律法は、血を絞り出さないまま生き物を食べることを許していなかったからである。こういうわけで彼らは、ぶよは漉して除き、非常に宗教的だとの評判をとりつつ、らくだは、その瘤から何かみな呑み込んでいた[マタ23:24]。あなたは微笑むであろう。だが、彼らがその当時に行なっていたことは今もなされているのである。あなたは、ローマカトリック教徒を知っているであろう。あなたは、そうした者らの中で、受難日[受難週の金曜日]に少しでも肉を食べるなら、それが《天の威光》に対する非常な大逆に当たると考えずにいられる者をひとりでも知っているだろうか? また、《受難節》を厳密かつ几帳面に遵守することが必要だと思わないような者をひとりでも知っているだろうか? 見てみるがいい。いかに注意深く彼らが安息日の朝その礼拝所に赴くかを。いかに勤勉に聖水で自分の額に十字を切る神聖な儀式を守っているかを。その聖水やそうした類の他のすべては、いかに慎重に扱われなくてはならないことか。だのに、それと同じ人々が、自分自身の国々では、安息日にも劇場を開いてはいないだろうか? 午前中にはあれほど厳粛にその宗教を遵守していた当の人々が、夕方にはその一切を忘れ果て、自ら聖と呼んでいる安息日のことなどもはや考えず、平日並みに扱い、むしろ、一週間のいかなる日よりも歓楽の日としていることに、あなたは気づかないだろうか? また英国国教会を見るがいい。神に感謝すべきことに、そのただ中には、非常に多くの真に福音的な人々がいる。だが、国教会内には、私の指摘が当てはまるような、いくつかの党派もある。あなたは、新生について何も知らない人々、信仰によって義と認められるとはどういうことか知らない人々、キリスト教信仰の火花すら有していない人々を知りたいだろうか? どこでそうした人々が見つかるか知っているだろうか? それは、自分たちの信条を唱える際に正しい方角を向くことを決して忘れない人々にほかならない。イエスの御名を口にする際に、いかにもうやうやしく頭を垂れることを決して忘れない人々にほかならない。彼らは、教会が見栄えの良い建物として建てられることを常に気遣う人々である。それは、教区民がそこに行くとき、神の家の栄光によって神の栄光が見えるようにするためである。彼らは、暦の赤文字の日に注意を払う人々、あらゆる典礼規範に気を遣う人々、キリスト降誕日の柊を最も天的なものと考える人々、また、祭壇の上の何本かの花々を谷の百合の花やシャロンの薔薇[雅2:1]とほとんど等しいと考える人々である。こうした紳士たちは、法衣を着ないで説教することを、頭をつけないで生きるようなものだと考える。もちろん、彼らは全くキリスト教信仰を持ち合わせていない。内なるいのちがきれいになくなり、雲散霧消してしまっているがために、その外的な形式を遵守することに極度に綿密でなくてはならないのである。私の知っている数多くの福音派の国教徒は(一般には十分に几帳面だが)、あらゆる形式を遠慮なく取り除こうとする。私は今朝、二、三人の英国国教会聖職者をあなたがたに指摘することができる。彼らは、実に異端的なことに、この場に座って、非国教徒であり、むろん《分離者》である者の言葉に耳を傾けているのである。だが、彼らはもはや、私を《分離者》と呼ぶことなど、空を飛ぶのと同じくらい考えられないこととしており、私に対して心の底から、交わりのしるしとしての右手[ガラ2:9]を差し伸べようとしている。私の信ずるところ、彼らの多くは、できるものなら典礼規範など忘れようとするであろうし、自分にその権限があるなら自分たちの教理問答をびりびりに引き裂き、自分たちの教会の祈祷書の半分を扉の外に叩き出そうとするであろう。そして、こうした人々こそ、最もキリスト教信仰を有する人々なのである。彼らは形式には最小限しか気を遣わないが、内側には最も恵みを有している。彼らはその心の中に、彼らのピュージー主義者の兄弟たち五十人がかりでもかなわないほど真のキリスト教信仰と、伝道的熱意と、神の恵みを有している。

 しかし、非国教徒たちに目を向けさせてほしい。というのも、私たちも同じくらい悪いからである。私はあらゆる人を同じように扱わなくてはならない。私たちの間のある種別の人々は、一種の非国教徒的ピュージー主義者である。ピュージー主義者が、受難日や、復活祭日を守らなくてはならないと考えている一方で、この善良な兄弟たちは、聖日を間違ったしかたで守ることに汲々としている。それは、他の兄弟たちがそれを正しく守ろうとしているのと変わらない。彼らは、受難日に会堂に行くことをはなはだしい罪になると考える。また、聖日を守らないという教会の法を決して破らないことに、厳粛に真剣である。日曜に必ず二回、会堂に姿を見せることは、彼らにとって非常に神聖なことである。彼らは、自分の子どもたちがバプテスマを受けること、あるいは、自分自身がバプテスマを受けること、また、主の晩餐にあずかることを非常に必要だと考える。これらはみな正しく、良いことである。だが、悲しいかな! 私たちは告白せざるをえないが、私たちの中のある者らは、もしも自分たちの意見において正統的で、自分たちの外的な実践が几帳面であるならば、いかにキリスト教信仰の力に欠けていてもまるで自足している。私はあらゆる人を忠実に扱わなくてはならない。私は、わが国のあらゆる非国教会系の教派の中に、自分を義とする多くの人々がいることを知っている。彼らはキリスト教信仰を全く有していないが、その外的な形式に固執することにかけては世界一几帳面である。あなたは、そこここに、ある種の老教会員を知らないだろうか? よろしい。とあなたは云うであろう。もし教会内の誰かが偽善者だというなら、誰それ老人こそ偽善者だと私は云いますよ、と。もしあなたが何かを改変しようと提案すると、おゝ! いかにこうした紳士たちはいきり立つことか。いかにその剣を抜き放つことか。彼らは! 彼らは会堂の扉の釘一本一本さえも愛している。全世界と引き替えにしても講壇の色すら変えさせはしない。あらゆることを厳密に守らせようとする。彼らの救い全体が、形式の正しさにかかっているかのように見える。おゝ、しかり。彼らにはできない。彼らには、自分たちの教会のいかなる形式を改変することも考えられないであろう。あなたも知る通り、人は、豪勢で目もあやな儀式により頼むのと同じくらいたやすく、簡素で切り詰めた儀式により頼むことができるものである。人は、高雅な弥撒や祭司たちの祈りに信頼を置く人と同じように、簡素な浸礼やパンを裂く規定に信頼を置くことができる。ローマは非国教会の中にもありえる。ローマは英国国教会の中にもありえる。ローマはどこにでもありえる。というのも、種々の儀式に対する信頼がある所ならどこにでも、カトリック教の精髄があり、反キリストと不法の人[IIテサ2:3]がいるからである。おゝ! あなたがたの中の誰であれ、自分の儀式に信を置いている人は、このことに用心するがいい。これは真実でしかないが、諸儀式に熱心になればなるほど、一般に内側の生きた敬虔さの力は少なくなるものである。しかし今、受難日には塩漬けの魚しか食べようとせず、土曜日には隣人を騙している人がいるのはなぜだろうか? 首に縄をつけて引っ張ろうと、絶対に正統信仰に立つ掛け値なしのバプテスト派の会堂にしか行こうとしないのに、その日常の仕事においては不正義の行為を犯しており、ことによると、それよりさらに不潔なことを行なっているかもしれないという人がいるのはなぜだろうか? 私があなたに告げよう。その人は、自分が何らかの義を持たなくてはならないと感じているが、自分がろくでなしの悪党であると分かっているときには、道徳的な義が手に入らないと感じる。それゆえ儀式的な義を手に入れようとするのである。酒を飲んで悪態をついている男に注目するがいい。彼はありとあらゆる不義を犯している。そして、あなたは非常にしばしば(私はそうした場合をじかに知っているが)彼が最も迷信的に宗教的な人であることに気づく。決まって彼は、礼拝所に入るや否や自分の帽子を取る。外では呪ったり、悪態をついたりしているかもしれないし、それは彼の良心を決して刺すことがない。だが帽子をかぶったまま教会の通路を歩いていくこと――おゝ! 何と恐ろしいことか。彼は、そのようなことをしたら自分が永遠に失われるだろうと感じる。彼は、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めることを忘れようとはしないくせに、律法の中ではるかに重要なものは完全におろそかにしている[マタ23:23]。もう1つの理由は、諸儀式によるキリスト教信仰は真のキリスト教信仰よりもはるかに簡単だからである。アヴァ・マリヤ[聖母マリヤへの祈り]パーテル・ノステル[主の祈り]を唱えるのはごく簡単である。それは、さっさと片をつけることができるし、良心がひどく探られることもない。日曜日に二回、会堂に出かけること、――そこに非常に困難なことは何もない。主に立ち返り、心を堅く保って[使11:23]いることの半分も難しくはない。正しい行ないによって自分の罪を除き[ダニ4:27]、キリスト・イエスにだけ信頼を置くことの半分も難しくはない。それゆえ、事がかくも容易であるために、人々はこちらをより好むのである。さらにこれは、非常に人の心をくすぐるものである。ローマカトリック教徒が自分の背中を鞭打ち、自分の肉体に体罰を課すとき、なぜ彼はそれを、「信じて生きよ」、という単純な福音よりも好むのだろうか? 何と! それがまさに彼の高慢を嬉しがらせるからである。彼は、悪魔を自分から叩き出していると思っているが、実は悪魔を叩き入れているのである。――高慢という悪魔が入り込みつつあるのである。彼はこう囁く。「あゝ! そこまで自分で自分を鞭打つとは、お前は何と善良な者なのだろう! お前はお前の傷と打ち傷との功績によって、自分で自分を天国に連れて行くことだろうよ」。あわれな人間性は、常にこうしたことを好む。事実、ある宗教が過酷であればあるほど、人々はそれを好む。宗教があなたをがんじがらめに縛り上げれば縛り上げるほど、また、それが心には触れないものであればあるほど、人々はそれを実行することをずっと好む。ヒンドゥー教が民衆をがっちりとつかんでいるのは、彼らが大釘の刺さった靴で歩いたり、何千哩も転がっていったり、ガンジス川の不潔な水を飲んだり、自らを死に引き渡したりすることによって、たいへんな功績の蓄積を得られるからである。こうしたすべての事がらは、人間性を喜ばせる。「信じて生きよ」、はあまりにも屈辱的である。キリストにだけ信頼するというのは、非常にみっともない格好になることである。それゆえ、人は、「そんなもの取り除け!」、と云い、キリストよりは他のものに向かうのである。

 それだけでなく、他の理由もある。人々が常に諸儀式の宗教を好むのは、そこには自分の愛好する罪を捨て去る必要がないからである。「何と」、とある人は云う。「もしも私が救われるために必要な唯一のことが、死に臨んだとき祭司によって秘跡を授けられることしかないとしたら、それは何と喜ばしい宗教であろう! 酒を飲もうが、悪態をつこうが、何でも好き放題にできるのだ。最期に聖油を塗ってもらうだけで、私のもろもろの罪をかかえたまま天国に向かうことができるのだ」。別の人は云うであろう。「われわれは、いくらでも歓楽と軽薄な楽しみを尽くし、いくらでも豪勢に暮らし、いくらでも肉の高慢を持っていて良いのだ。われわれに必要なことは、ただ堅信礼を授かり、その後で時々は教会に出席し、小綺麗に装丁された祈祷書をかかえて、一心に集中して遵守していさえすれば良いのだ。それだけで主教は疑いもなくわれわれを万事良しとしてくれるであろう」。これは、まさに多くの人々に好都合である。そこには何の困難もないからである。彼らは自分たちの歓楽を、また自分たちのもろもろの罪を保っていながら、それでも、それらをかかえたまま天国に行けると信ずることができる。人々は、あの昔流儀の福音を好まない。それは彼らに、罪と罪人とは分かれなくてはならず、さもなければ、両者ともに断罪されなくてはならないと告げる。彼らは、聖くなければ誰も主を見ることができない[ヘブ12:14]、と告げられることを好まない。また、あの昔ながらの聖句、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」[ヨハ3:3]、は決して人間性の口に合うことがないであろう。人間性は、何をせよと云われても、信ぜよと云われない限りは、意に介さない。あなたが人間性に向かって、あれを守れ、これを守れ、また、他のことを守れ、と告げれば、その人はそれを行ない、あなたに感謝するであろう。それが困難であればあるほど、彼はあなたを好むであろう。だが、いったん彼に、「イエス・キリストは罪人を救うためにこの世に来られた[Iテモ1:15]。キリストを信じなさい。そうすればあなたも救われます[使16:31]」、と告げるや、彼の高慢はたちまち憤懣をつのらせる。彼はそれに我慢がならず、それを自分に向かって説教する者を憎み、福音の考えそのものを自分の魂から追い払ってしまう。

 III. さて今、最後のこととして、私にはあなたにこう警告する義務がある。すなわち、《種々の儀式に信頼するのは、最も欺瞞に満ちたことであり、最も恐ろしい結果に終わるであろう》。この人々は、この箱を陣営に持ってきたとき、喜び叫んだ。これで自分たちはしごく安泰だと感じたからである。だが、悲しいかな、彼らは以前にまさる大敗を喫した。最初の戦闘で殺されたのは四千人にすぎなかったが、第二の戦闘ではイスラエルの歩兵三万人が死んで倒れた[Iサム4:10]。人々が自分の善行と、儀式的しきたりの上に築く希望の何とむなしいことであろう! 福音であるとして「福音」ならざるものを、あるいは、「ほかの福音」[ガラ1:6]を教える迷妄の何と恐るべきことであろう。話をお聞きの方々。厳粛にこう尋ねさせてほしい。あなたの希望の根拠は何だろうか? あなたは洗礼により頼んでいるだろうか? おゝ、人よ。あなたは何と愚かなことか! ほんの数滴の水が、幼児の額に降りかかるだけで何ができよう? どこかの嘘つきな偽善者たちは私たちに、子どもたちは水滴によって新生するのだという。それはいかなる種類の新生だろうか? 私たちは、このようなしかたで新生した人々が縛り首になるのを見てきた。世の中には一生の間、娼婦を買い、姦淫し、盗みを働き、人殺しをしつつ暮らしていながら、そうした種類の洗礼によって新生している人々がいる。おゝ、これほど滑稽な新生に欺かれてはならない。それが、地獄そのものからやって来た、根も葉もない不思議の1つであることは、血肉にさえ簡単に分かる。しかし、もしかするとあなたはこう云うかもしれない。「先生。私は、死後の洗礼により頼みます」。あゝ、愛する方々。水で洗われることに何ができるだろうか? 主に誓って云うが、もしあなたが洗礼に信頼しているとしたら、あなたの信頼しているものは、最後にはあなたを裏切るであろう。というのも、水の洗いに何か意味があるとしたら、それは信仰と悔い改めによって先立たれなくてはならないではないだろうか? 私たちがあなたにバプテスマを授けるのは、あなたの罪を洗い流すためではなく、それがそれ以前に洗い流されていると信じているからである。そして、もしあなたがそう信じていると私たちが信じていなかったとしたら、私たちはこの規定にあなたをあずからせはしないであろう。しかし、もしあなたがこのことを歪曲し、これに信頼することによって、自分自身に滅びを招くことになるとしたら、用心するがいい。あなたは今朝、警告されているのである。というのも、「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではなく、大事なのは新しい創造である」*[ガラ6:15]ように、バプテスマは大事なことではないからである。

 この場には心の中でこう云っている人々がいるかもしれない。「よろしい。もし私が天国に行かないとしたら、誰ひとり行くことはないだろう。というのも、私は幼い頃から可能な限り規則正しく教会に連れて行かれていたからだ。私はしかるべき堅信礼を受けた。私の名親たちは、幼児の頃の私の代理となってくれたし、すべては正しいしかたでなされた。確かに私はここに来た。だがそれは、私がこれまで犯したことのある、ほとんど最初の違反である。この《分離者》の会合の中に入るなどということは。もし神が赦してくださるとしたら、私は二度とこのようなことはすまい。私はいつも教会に行くし、私は何の疑いもいだいていない。聖餐にあずかり、祈りを唱えることによって私は天国に行くことになるだろう、と」。あゝ! あなたはすさまじい思い違いをしている。というのも、あなたは新しく生まれない限り、結局は古い基準へと逆戻りせざるをえないからである。――《小羊》とほむべく結び合わされていない限り、また、罪のための悔い改めを見いだしていない限り、また、主イエスを信ずる真の生きた信仰を有していない限り、あなたが一点一画まで遵守していようと、天国の門はあなたの面前で閉ざされるに違いない。そして、「わたしから離れて行け。わたしはあなたがたを全然知らない」*[マタ7:23]、があなたの末路とならざるをえない。たとい、あなたがこう云っても関係ない。「あなたは、私たちと一緒に、私たちの大通りで食べたり飲んだりなさいましたし、私たちはあなたの御声に耳を傾けてきました」*[ルカ13:26]。しかり。愛する方々。たといあなたが長老派であれ、監督派であれ、非国教徒であれ、関係ない。あなたがたにはあなたがたの種々の儀式がある。そして、私たちの間にいるある者らは、それらにより頼んでいる。だがこの1つの真理は、私たち全員を根本において切り裂く。もしこれが私たちの希望だとしたら、それはひどい迷妄である。私たちはイエスを信ずる信仰を有していなくてはならない。新しい心とゆるがない霊を有していなくてはならない。いかなる外的な形式も私たちをきよくすることはできない。そのらい病は内側の根深い所にある。そして、内的な働きがない限り、外的な働きは決して神を満足させることも、私たちをパラダイスに入れさせることもできない。

 しかし、しめくくりの前に1つだけあなたに注目させたいことがある。すなわち、この箱は、単にイスラエルに勝利を与えることができなかっただけでなく、それをかついでいた祭司たち自身の家系を保つこともできなかった。これは、キリスト教信仰の種々の形式に信頼するあらゆる者に対する致命的な一撃である。もし私がローマカトリック教徒に対して、彼の外的な種々の形式は決してあなたを救えないと告げたなら、彼はどう考えるだろうか。また、もし私が今しているように彼に向かって、外的な種々の形式はあなたの祭司を救うことはできないのだ。というのも、あなたの祭司はこれよりまともなものに信頼していない限り失われざるをえないからだ、と告げるとしたら、いかに彼は歯ぎしりすることか! しかし、プロテスタント諸教会の中にさえ、あまりにも多くの聖職者崇拝がある。人々は云う。「よろしい。たとい《福音》が私を救わないとしても、確かに私の教役者は救われるに違いない」。だが請け合っても良いが、神の祭壇に仕えている者は、キリストを信ずる生きた信仰を有していない限り、あなた自身と同じくらい破滅から免れてはいない。ホフニとピネハスは殺害される。そして、いかなる祭司も、自分が種々の儀式により頼んでいたり、他の人々にそうするよう教えたりしているとしたら、同じようにならざるをえない。私に想像できる限り最も恐ろしい臨終の床は、祭司であった者のそれである。――種々の儀式により頼むよう他の人々を教えてきた人のそれである。彼が埋葬されるとき、彼については、ほむべき復活の確かで確実な希望のうちに死んだと云われるであろう。だが、おゝ! 死の一瞬後に彼は目を開いて、自分の思い違いを見てとる! 地上にいた間、彼は愚かにも、数滴の水が自分を救えると考えていた。一片のパンと一杯の葡萄酒が自分の心を新しくし、自分の魂を救えると思っていた。だが、来世に入ったとき、彼はこの愚かさを失うであろう。そして、そのとき、稲妻が閃くように、この考えが彼の上に閃き、彼の魂を悲惨さでねじり上げるであろう。――あゝ! 私には必要なただ1つのことがない。私にはキリストに対する何の愛もない。私は決して、あの悔いのない悔い改め[IIコリ7:10]を有したことがない。私は一度もイエスのもとに逃れて行ったことがない。そして今、私はあの賛美歌が真実であると分かる。――

   「うわべの形式(かたち) すべてをもても
    神の給いし 儀式(さだめ)をもても
    人の意欲(おもい)や、血や、家柄(うじ)もても
    引き上げられじ、魂(たま)は天国(みくに)へ」。

おゝ! それから、その後で彼の教区民に会うのは何と恐ろしいことか。彼が説教を語ってきた相手の人々に出会うことは、また、腐った基盤により頼むよう告げることによって自分が滅びへと至らせた人々から、かの穴を通して怒号されることは! きょう私が仕えている私の神、主は生きておられる。――アダムの裔なる男たち、女たち、兄弟たち、姉妹たち。もしあなたがイエス・キリストの血潮以下の何かにより頼んでいるとしたら、あなたは嘘っぱちを信頼しているのである。そして、もしあなたの救いが心の徹底的な変化に至らずに終わるとしたら、また、もしそれがあなたを、キリスト・イエスにあって新しく造られた者以下の者にしかさせないとしたら、それは人が手足を伸ばせない寸詰まりの寝床であり、あなたの有するキリスト教信仰はあなたのかかえる種々の必要に答えるだけの力がなく、あなたがそれを最も必要とするときに、それはあなたの足の下でぐらつくであろう。そして、あなたは落ち着くことのできる足場もないまま残され、狼狽に圧倒され、絶望に打ち負かされることになろう。

 さて、あなたを家に帰す前に、この最後のことを云わせてほしい。私には誰かがこう云っているのが聞こえる。「先生。私は善行だの儀式だのに信頼するのは一切やめます。どうすれば救われることができるのか教えてください」。その方法は単純であり、こうである。私たちのもろもろの罪は罰に値している。神は罪を罰さなくてはならず、罰するであろう。イエス・キリストはこの世に来られ、ご自分を信ずるすべての者に代わって、その立場に立ち、代理として罰を受けられた。ならば、今朝のあなたの務めは、このように尋ねることである。私は《救い主》を欲しているだろうか? 私は、自分に《救い主》が必要だと感じているだろうか? そして、私の務めは、もしあなたがその問いに正しく答えるならば、こう云うことである。心を尽くして主イエス・キリストを信じなさい、そうすればあなたも救われます、と。

 あゝ! きょう天国にはひとりの人がいると私は堅く信ずる。それはこの場所で、また、ニューパーク街で常に礼拝していた人――この場所に導かれて福音を聞き、神に対して回心したひとりの青年である。そして、先週の安息日の朝、ブルームズベリで燃える家の中で天に連れて行かれた人である。――その焼け跡から取り出された青年たちのひとり、この場所で真理を知るように導かれていたひとりである。数紙の新聞の報ずるところ、彼の母親は宗教的な婦人とは到底云えず、相当に酒に溺れていたという。彼はいくつかの誘惑や反対と戦わなくてはならなかったが、信仰を守り続ける力が与えられ、その後、思いもよらぬときに、《人の子》が彼を迎えに来られ、炎と崩れ行く材木と立ち上る煙との真中で彼をご自分のもとに連れて行かれた。おゝ! この場には、来週の安息日の朝が来る前に永遠へと出発する人がいるかもしれない。これと同じように嘆かわしい状況を経てではなくとも、同じようにあわただしいしかたでそうなる人がいるかもしれない。そして私は、神が彼を天へと連れて行く前に、彼をキリストへと導く誉れを私に与えてくださったのだと考えることで、私の魂がその青年について喜んでいるように、あなたがたの中の誰かが恐ろしい危険の中にあることを嘆かなくてはならない。神なく、キリストから離れ、天国の望みなくして生き、頭上に死がぶらさがっていながら、それに震えることもしないでいる危険である。おゝ! 今朝、私は切に願う。キリストに近づくがいい。「御子に口づけせよ。主が怒り、おまえたちが道で滅びないために。怒りは、いまにも燃えようとしている。幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は」[詩2:12]。

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キリスト教信仰の形式と精神[了]

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