健全なことばの手本
NO. 79
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---- 1856年5月11日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於サザク区、ニューパーク街会堂
「あなたは、キリスト・イエスにある信仰と愛をもって、私から聞いた健全なことばを手本にしなさい」。――IIテモ1:13
私があなたがた、イエス・キリストを信ずる信仰にあって深く愛する方々のために、絶えず熱望しているのは、まず第一に、神の真理とはいかなるものであるかを、あなたがたに教えることができることである。さらに、これまで私は、神の最も聖なる福音と信ずるものを、自分にあたう限りあなたがたに教えてきたと思っているが、その上で私が次に熱望するのは、あなたがたが、その「健全なことばを手本に」すること、将来に何が起ころうと――死があなたがたの牧師をもぎ取っていこうと、あなたがたが危険な状況に陥るような何事かが起こり、何らかの異端の教えをいだくように誘惑されるようなことがあろうと――、あなたがたがひとり残らず、岩のように堅く動かされない者、山々のように強い者となり、「聖徒にひとたび伝えられた信仰」[ユダ3]にとどまることである。その信仰を、すでにあなたがたは聞いてきたし、私たちはあなたがたに告げ知らせてきた。もし福音が、あなたがたの聞くべき価値あるものだとしたら、また、もしそれが真の福音であるとしたら、それは、あなたが守るべき価値あるものである。そして私たちが切望するのは、あなたがその信仰のうちに堅く立ち、「約束された方は真実な方ですから、あなたが動揺しないで、しっかりと希望を告白」[ヘブ10:23]するようになることである。
使徒は、実に真剣なしかたでテモテにこう訓戒している。「あなたは、キリスト・イエスにある信仰と愛をもって、私から聞いた健全なことばを手本にしなさい」。これが意味しているのは、パウロがかつて何か教理の一覧をテモテに書き送っていたとか、何らかの神学要覧をテモテに与えていて、テモテが牧師となった教会の信仰箇条のようにして、それに署名してほしいと願っていたとかいうことではないと思う。もしそうだったとしたら、疑いもなくそうした文書は保存されて、霊感を受けた人物の手になる書物の1つとして、聖書正典の中に登録されていたであろう。そのような信条が失われるとは、まず考えられない。他の信条はみな保存され、私たちに伝えられているのである。私が思うに、使徒が意味していたのはこういうことだったと思う。――「テモテよ。私があなたに説教したとき、あなたは壮大な真理の概略を聞いていた。イエス・キリストを信ずる信仰の偉大な体系を私から聞いていた。私の書き物と公の説教との中で、あなたは私が絶えず信仰をある特定の形式、あるいは型に沿って強調するのを聞いていた。さて、福音にあって私の愛しい愛する子よ。私はあなたに命ずる。『あなたは、キリスト・イエスにある信仰と愛をもって、私から聞いた健全なことばを手本にしなさい』」。
今朝、私が第一にあなたに告げようと思うのは、私たちが堅く守るべき「健全なことばの手本」とは、いかなるものであると私は考えるか、ということである。第二のこととして私があなたに向かって力説しようと思うのは、その手本を堅く守るべき強い必要性である。それから、最後のこととして私が言及したいのは、キリスト・イエスにある信仰と愛という、2つの大いなる歯止めである。これらこそ、「健全なことばを手本にする」ための大いなる手段なのである。
I. 「《健全なことばの手本》」とは何だろうか? このことについては、一万人もの人々が云い争うであろう。ある人は、「《私の》信条こそ、健全なことばの手本である」、と云い、他の人は、自分の信条も、無謬でこそなけれ、健全なことばの手本である、と宣告するであろう。それゆえ私たちは、信条と信条の区別をつけるような詳細にまで立ち入りはしないであろう。むしろ、ただ単にこう云おうと思う。いかなる体系であれ、それが完全に聖書的なものでない限り、健全なことばの手本ではありえない、と。私たちは、いかなる教理も、人間の教理としては受け入れない。いかなる権威が私たちのもとにやって来ようと、もしそれが聖霊の権威でなく、神によって霊感を受けたものでもないならば、私たちにとってそれは権威でも何でもない。
私たちは、人間のあらゆる独善主義を笑うものである。彼らがいかに強固にそれを宣言しようと、いかに雄弁にそれを弁護しようと、私たちは彼らが主張するものに鼻も引っかけない。それを全く拒絶し、打ち捨てる。「人間の教えを、教えとして教える」[マタ15:9]のは罪であるとみなす。古くから伝えられてきた伝統など一顧だにしない。もし私たちの敵対者が、自らの定義に対して何の聖句も節も引用できないとしたら、私たちはその人と議論しはしない。聖書こそ私たちが認めることのできる唯一の武器である。
しかし、聖句というものはほとんど何でも証明できる、と云われている以上、私たちはこう指摘しなくてはならない。健全なことばの手本とは、神を高く上げ、人を引き下ろすものでなくてはならない、と。私たちは一瞬たりとも、栄冠をイエスの頭に戴かせず、《全能者》を称揚しないような教理を健全であるなどとは考えない。私たちは、被造物を高く上げるような教理を見るとき、それを支持するために持ち出されるいかなる議論にも、これっぽっちも関心はない。被造物を卑屈のちりにまみれさせ、《創造主》を高く上げるものでない限り、それは嘘だと知っているからである。そうしていないとしたら、それは高慢から出た腐った教理でしかない。それは、その沼沢地から上るぎらつくような毒気によって私たちを眩惑するかもしれないが、決して真の健康的な光を魂に射し込ませることはできない。いかなる教えも、それがエホバなるイエスと、エホバなる御父と、エホバなる聖霊を高く上げるものでない限り、腐った教理であり、福音の上に建て上げるのにふさわしくない。
また私たちが思うに、教理の健全さは、その傾向によって判断できよう。ある教理が、その表面を見ただけでも、あからさまに人々のうちに罪を作り出す傾向を帯びている場合、決してそれが健全であるとは考えられない。敬虔にかなう教え[Iテモ6:3]でない限り、それを神から出た教理と考えることはできない。それを信ずる者たち――それを真剣かつ誠実に信ずる人々――が美徳に身をささげておらず、――その教理そのものに、人をして正義を愛するように促す自然な傾向が伴っていない限り、私たちは端からそれに疑念をいだく。そして、もしそれを吟味した上で放縦な教理であるとわかったとしたら、――いかに目新しさゆえのきらめきや華々しさがそこにあろうと、私たちはそれをキリスト教の教理ではないとして打ち捨てる。それが魂の中で聖潔を押し進めないからである。
ことによると、私たちはこう尋ねられるかもしれない。では、あなたは、何を健全なことばの手本と考えるのか。聖書的で、かつ霊にとって健康的で、かつ神を高く上げるような教理とはいかなるものなのか、と。答えよう。私たちの信ずるところ、健全なことばの手本とは、何よりもまず、神のご本性とご性質の教理を含んでいなくてはならない。そこには、《一致》のうちにある《三位一体》と、《三位一体》のうちにある《一致》がなくてはならない。いかなる教理も、御父、御子、聖霊が、1つの分離せざる本質内における同等のご人格であるとしていなければ、私たちはそれを不健全なものとして打ち捨てる。というのも、確かにそのような教理は神の栄光を傷つけるに違いないからである。そして、そのようなものであるというだけで私たちには十分である。もしだれかが御父、御子、あるいは聖霊のどなたかおひとりでも蔑んでいるとしたら、私たちはその人を蔑み、その人の教えを蔑み、その人に挨拶の言葉を掛けることすらありえないであろう[IIヨハ10]。
さて、私たちの主張するところ、健全なことばの手本は、神を正しくみなすのと同じように、人間をも正しくみなすものでなくてはならない。その教えによれば、人間は徹底して堕落した者であり、罪深い者であり、その罪ゆえに断罪された者であり、自分の力では救われる希望が全くない者でなくてはならない。もしそれが、人間に正しくない性格づけを行なったり、自らの指で織りあげた、にせの義の衣を着せたりすることで、人を持ち上げているとしたら、私たちはそれを全く拒絶し、打ち捨てるものである。
また次に、私たちの考える健全な教理とは、救いに対する正しい見方をしていなくてはならない。救いは、主だけによるものとしていなくてはならない。もしその中に、永遠の変わらざる愛が、「神の民ではなかった」のに特別の恵みによって神の民とされた人々[Iペテ2:10]のため、救いを作り出していることを見いだせず、差別的な愛を見いだせないとたら――他の人々は好き勝手に何と云おうと――、私たちは、そのような信条を健全なことばの手本と考えることはできない。贖いの愛が公然と大胆に教えられていることが見分けられず、最終的堅忍その他の、私たちのキリスト教信仰の根幹そのものをなす偉大にして輝かしい真理が見てとれない限り、他の人々はそうした教理を健全なことばの手本としているかもしれないが、私たちにそのようなことはできないし、しようとも思わない。私たちは、父祖たちの昔からの信仰体系を愛している。昔ながらの聖書の諸真理を愛している。それは、何もそれらが昔からあるからではなく、聖書的な救済観をいだいていないようないかなるものをも真理と考えることができないからである。パウロ自身、この章で私たちに健全なことばの手本を与えていると思う。彼はこう語っている。「神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられた……のです」[IIテモ1:9]。
私は今朝、健全なことばの手本として、いま手短に示唆してきたことをわざわざ証明する必要はないであろう。なぜなら、あなたがたはそれを信じており、固く信じているからである。私はそれを受け入れるようにあなたに促そうとは思わない。あなたがたがすでにそれを受け入れていると知っているからである。だが、私が云わなくてはならないこと、それはこうである。あなたがたに懇願する。「キリスト・イエスにある信仰と愛をもって、私から聞いた健全なことばを手本にしなさい」。
II. さて、次に示したいのは、《あなた自身のため、教会のため、世のために、この健全なことばの手本を固く守るべき必要》である。
最初に、あなた自身のために、それを固く守るがいい。それによってあなたは、万倍もの祝福を受けるからである。あなたは、自分の良心における平安という祝福を受けるであろう。神の御前で主張するが、いかなる時であれ、もし私が、神から受けた偉大な事がらの1つでも疑うようなことがあるとしたら、たちまちこの世では決して満たせないような空虚感が私の胸をうずかせるであろう。そして、その教理をもう一度、心底から受け入れない限り、それを満たすことは決してできないであろう。打ちひしがれ、落胆するときの私が、常に慰めを見いだすのは、福音の信仰の諸教理を大いに重んじている書物を読むことである。もし私が、キリストというご人格において神の選ばれた民に啓示された、神の永遠の愛を論じた書物の一冊に向かうならば、――また、もし、神の選民の契約のかしらにおいて彼らになされた、尊い、すばらしい約束[IIペテ1:4]のいくつかを思い起こすならば、私の信仰はたちまち強くなり、私の魂は気高い翼によって、その神に向かって高々と上って行く。愛する方々。もしあなたが一度も味わったことがないとしたら、恵みの諸教理が魂に与える平安がいかに甘やかなものかは、到底わからない。そうしたものにまさるものはない。それらは、――
「万病(やまい)を癒す 主権(たか)き香油(あぶら)ぞ、
われらが恐れ 消す妙薬(くすり)なり」。それらは神の子守歌であり、それによって神は、ご自分の子どもたちを寝かしつけてくださる。それが嵐の中であろうと関係ない。それらは神の予備大錨であって、海に投げ込まれると、私たちの小舟を暴風の中でも堅く守るのである。そこには、「人のすべての考えにまさる神の平安」[ピリ4:7]があり、強い信仰者にはそれが自然と生ず。だが、ご存じのように、時代の趨勢は、昔からの境界標を捨て去り、新しい境界標を採用することにある。旧弊な神学を認めるくらいなら何でも認めようとすることにある。よろしい。私の愛する方々。もしあなたがたの中のだれかが、新しい諸教理を試してみたいというなら、私はあなたに警告する。もしあなたが神の子どもだとしたら、すぐにあなたは、そうした新式の概念にうんざりするであろう。現在は、そうした新しくひねり出された諸教理が絶え間なく教えられつつある。あなたは、最初の週は、それらの新奇さに喜びを感じるかもしれない。それらの並外れた霊性か、その他の何かあなたの心をひくものに驚嘆するかもしれない。だが、それらを糧にし始めてから、さほどしないうちに、あなたは云うであろう。「悲しいかな! 悲しいかな! 私は手にしたのはソドムの林檎だった。それは見るには麗しいが、口の中では灰のようだ」、と。もしあなたが平安を好むのであれば、真理について離れず、健全なことばの手本を堅く守るがいい。そのようにして、「あなたのしあわせは川のように、あなたの正義は海の波のようになるであろう」[イザ48:18]。
さらに云わせてほしい。「健全なことばを手本にしなさい」。なぜなら、それは大いにあなたの成長に役立つからである。真理を堅く守る人の成長は、教理から教理へと絶えず飛び回っている人よりも早い。現在の世の中には、何と膨大な数の霊的な風見鶏がいることか。多くの人々は午前中はカルヴァン主義の説教者の話を聞いて、「おゝ、これは非常に恵まれる」、と云い、晩にはアルミニウス主義の説教者の話を聞いて、こう云う。「おゝ、これも同じくらい素晴らしい。これは、ふたりとも正しいに違いない。話が互いに矛盾していても関係ない!」 現代の輝かしい愛の精神は、このようなものである。それは虚偽を真理と同じくらい素晴らしいものと信じ、虚偽と真理とは互いに出会い、互いに口づけしている。そして、真理を告げる人は偏狭頑迷の徒と呼ばれ、真理は世では尊ばれなくなっている! あゝ! 愛する方々。私たちは、このような無制限の、だが偽りの愛を告白するほど愚かではない。真実を云うと、私たちは、いかにして私たちに与えられた「健全なことばを手本にする」かを知っているのである。なぜなら、このようにして私たちは成長するからである。移り気な人々は大して成長できない。もしあなたが自分の庭に一本の木を持っていて、それをきょうはある場所に、明日は別の場所に植えるというようなことをしていたら、半年でどれだけそれは大きくなるだろうか? まず間違いなく枯れてしまうであろう。枯れなかったとしても、大して成長していないであろう。信じられないほど生育が妨げられているであろう。あなたがたの中のある人々も、それと同じである。あなたは自分をある立場に置く。それから、それが完全には正しくないと確信しては、どこか別の立場に赴き、そこに身を置く。左様。ある人々は何でも派であって、ある教派から別の教派へと、ひらりひらりと舞い移り続け、自分が何者かもわからない。こうした人々について私たちの意見を云えば、彼らは何も信じておらず、何の役にも立たず、だれでも彼らを好きなようにできるのである。私たちは、ある人々がしっかりとした原則を有し、「健全なことばを手本にし」ているのでない限り、彼らを大して評価しはしない。それを堅く守るのでない限り、あなたは成長できない。私は、自分の信仰が、十年の間に十通りも形を変えるのを許しているとしたら、いかにして信仰について深く知ることができるだろうか? 私はそれらについて半可通でしかなく、その1つを徹底的に知ることは全くないであろう。だが、1つの信仰を有して、それが神の信仰であると知り、それを堅く守っている人は、いかにその信仰において強くなるだろうか? 風や嵐が吹くたびに、その人は堅固になるだけである。強風が樫の木を深く根付かせ、それを強くし、その場所にしっかり立たせるのと同じである。だが、もし私が絶えず移り変わっているとしたら、それは何にもならず、かえって悪くなるであろう。ならば、あなた自身の平安のために、またあなたの成長のために、「健全なことばを手本にしなさい」。
しかし、私の愛する方々。私があなた自身のためにそれを堅く守るよう懇願するのは、それとは逆の方向が招くであろう大きな悪を思い起こすからである。もしあなたが、「健全なことばを手本にし」ないとしたら、あなたが何をするようになるかを告げてみよう。聞くがいい。
第一のこととして、真理からのいかなる逸脱も罪である。単に間違った行動をすることだけが罪ではなく、間違った教理を信ずることも罪である。最近、わが国の教役者たちは、いかなる人が識別力において神に従わなくとも、おかまいなしにしている。こうした人々は、私たちに露骨に告げている。その多くは彼らの居間において、一部の人々は、その講壇の上からこう告げている。私たちは決して、最後の審判の日には、私たちが何を信じていたかを問われることはない、と。私たちに告げられるところ、私たちの行為について、私たちは責任を問われる。だが、私たちの信仰について、私たちに責任はない。あるいは、ほとんど責任は問われない。彼らが私たちに明白に告げるところ、私たちを造った神は、私たちの手や、足や、目や、口の上には権威を持っているが、私たちの識別力の上にはほとんど権威を有しておられないという。彼らは私たちに告げている。たとい私たちが神学において途方もない大失敗を犯すとしても、私たちが正しい生活を送っていさえすれば、全く罪ではない、と。しかし、それは真実だろうか? 否。人間は、そのすべてをもって神に仕えるべきである。そして、もし神が私に識別力を与えておられるとしたら、私はその識別力を神への奉仕のために用いるべき義務がある。そして、もしその識別力が不真実を受け入れるとしたら、それは盗まれた品物を受け入れたのであり、私は、隣人の財産に手をかけたのと同じように、大きな罪を犯したのである。罪には程度の差があるであろう。たといそれが無知の罪だとしても罪はであるが、それは怠慢の罪ほど憎むべきものではない。残念ながら、多くの人々の罪は後者ではないかと思う。私はあなたに告げる。愛する方々。例えば、もしバプテスマが浸礼でないとしたら、私はそれを執行するたびに罪を犯すのである。また、もし浸礼だとしたら、私たちの兄弟はそれを執行しないたびに罪を犯すのである。もし《選び》が正しければ、それを信じない場合、私は罪を犯しているのである。そしてもし《最終的堅忍》が正しければ、それを受け入れない場合、私は《全能の神》の前で罪を犯しているのである。だがもしそれが正しくなければ、そのとき私は聖書的でないことを信奉することによって罪を犯すのである。教理における誤ちは、実践における過ちと同じくらい罪である。あらゆることにおいて私たちは、力を尽くして私たちの神に仕え、神から与えられた識別力と、信ずる力とを行使すべき義務がある。そして、キリスト者よ。私はあなたに警告する。弱々しい手で信仰をつかんでいることを些細なことと考えてはならない。イエス・キリストを信じる信仰において自分をぐらつかせるようなことを行なうのは、それが何であれ常に罪である。また覚えておくがいい。教理における過ちは、単に罪であるだけでなく、増大するという大きな傾向がある罪なのである。人がその人生において、ひとたび誤ったことを信ずるとき、いかにすみやかに別の誤ったことを信ずるかは驚嘆するほどである。ひとたび偽りの教理への扉が開かれると、――サタンは、これはほんの小さなことにすぎないと云う。――左様。だが、彼はその小さなことを、くさびの薄い刃先のように突っ込んだにすぎず、より大きなことを押し入れるつもりなのである。そして、彼は、それももう少し小さなことにすぎないと云うであろう。そして、もう少し小さなこと、もう少し小さなことが続く。いまだかつて神の信仰を歪曲したことのある最も忌まわしい異端者たちも、少しずつ誤っていったのである。真理からいかにかけ離れてしまった者たちも、段階を追って行ったにすぎない。あの憎むべきものの塊たるローマ教会は、いかにして生じたのだろうか? 左様。次第次第に離反することによってである。それは、のっけから憎むべきものになったのではない。いきなり「すべての淫婦の母」*[黙17:5]になったのではない。むしろそれは最初は、多少の飾りを身に装ったのであり、次に他のものを身につけ、そしてだんだんたと、地の諸王との淫行を犯すようになっていったのである。それは、少しずつ堕落していった。そして同じようにして、それは真理から離れていった。何世紀もの間、それはキリストの教会であった。そして歴史を見るとき、いつそれがキリスト教会とともに数えられるのをやめたのか、その正確な時点を云い当てるのは困難である。用心するがいい。キリスト者たち。もしあなたが1つの過ちを犯すなら、やがていくつ過ちを犯すことになるかは全くわからない。
「健全なことばを手本にしなさい」。教理における過ちは、ほぼ必然的に、実践における過ちに至るからである。人が間違った信じ方をするとき、その人はすぐに間違った行ないをするようになる。信仰は、私たちの行動に大きな影響力を及ぼしている。人は信じている通りの者となる。もしあなたが過誤に満ちた教理を吸収すれば、それらは、じきにあなたの実践に効果を及ぼし始める。あなたの父祖たちの信仰の砦を堅く保つがいい。そうしないと、敵はあなたを散々に荒らし回るであろう。「あなたは、伝えられた健全なことばを手本にしなさい」*。
2. さてここで、教会そのものの益のために、私はあなたがた全員が「健全なことばを手本にする」ように求めたい。あなたは、教会が勢いよく成長する姿を見たいだろうか? それが平安を得た姿を見たいだろうか? ならば、「健全なことばを手本にしなさい」。何が私たちの間における分裂、分派、争い、口論の原因なのだろうか? その責任は真理にはない。過誤にある。もし教会の中にきよさが――完全で永続的なきよさ――があったとしたら、教会内には平和が、完全で永続的な平和があったことであろう。金曜日にシアネスまで下って行った私が、ある人から船の上で聞かされたところ、先の大風のときには、何艘かの船がその錨を千切り取られ、他の船に突進していったために、たいへんな被害を出したという。さて、もしそうした船の錨が堅くしっかりしてさえいたら、何の被害も出なかったであろう。異なる教派によってわが国の諸教会にもたらされた被害の原因は何か、私に尋ねてみてほしい。私は答えよう。それは、それらの教派の錨がしっかりと固定されていなかったからだ、と。もしそれらが真理に堅く結びついていたとしたら、そこには何の議論もなかったであろう。議論は過りから生ずる。もし何らかのしこりがあるとしたら、あなたはそれを真理に帰してはならない。――誤りに帰さなくてはならない。もし教会が常に真理を堅く保っていたとしたら、また常に真理の偉大な諸教理に結びついていたとしたら、そこには何の論争もなかったはずであろう。あなたの信仰内容を堅く保っているがいい。そうすれば、あなたは教会内の不和を防ぐであろう。
もう一度云うが、教会のために、あなたの信仰から離れないようにするがいい。というのも、そのようにしてあなたは、教会の力を増し加えるからである。私は、チャタムとシアネスの間に、老廃船と思われる何隻かの軍船が停泊しているのを見て、政府は何と愚かなのかと思った。あれを置きっぱなしにしているくらいなら、切り刻んで薪にするか、何か他のものにすればよいではないか、と。しかし、ある人が私に云ったところ、そうした船はすぐに艤装されて軍務につけるというのである。今は古ぼけて見えるが、ほんの少し塗装を施せば、また、海軍省がそれらを必要とするときに就役させられ、ちゃんと働けるようになるのである。それと同じように、私たちはある人々がこう云っているのを耳にする。「そこに古ぼけた教理がある。――だが、それが何の役に立つのだ?」 だが待て。神の聖書の中に、役に立たないような教理など1つもない。あなたがお呼びでないと考えるであろうあの船たちは、やがて役に立つものとなる。聖書の諸教理もそれと同じである。「そんな古臭い教理などバラバラにしてしまえ。そんなものなくともいい」、と云ってはならない。否。私たちにはそれらが必要であり、それらがなくてはならない。ある人々は云う。「なぜあなたはアルミニウス主義者に反対して説教するのですか? 今では彼らを恐れることなど、大してないではありませんか」。しかし、私は、戦闘開始に備えて、兵を訓練しておくのを好むのである。私たちは、友軍の船を焼いたりしない。それらは、間もなく必要とされるようになるであろう。そして私たちが出港するときには、人々は云うであろう。「この老船たちはどこから来たのか?」 「左様」、と私たちは答えるであろう。「これらは、あなたが役立たずだと思っていた教理の数々なのだ。いま私たちはそれらを外に出して、それらを大いに役立てるであろう」、と。近頃は、新しい、驚異的な賛美歌集が何冊も発行されているが、その中身に詰まっているのは、完璧なたわごとである。また近頃は、新しい理論と、新しい信仰体系が巷にあふれている。そして彼らは云う。「なぜそんなに堅苦しく考えるです? キリスト者である私たちの兄弟たちは、今では、そうした点について好きなように考えているではありませんか」。だが、この国に教会があるのと同じくらい確実に、彼らが、その戦闘を戦うためには、私たちの老船たちを必要とするようになるであろう。彼らは平時には非常に上手な生き方をしているが、戦時には物の役に立たない。そのとき彼らは、福音の信仰を支えるために、私たちの片舷斉射を必要とするであろう。今は私たちのことを笑っていようと関係ない。私の兄弟たち。教会の力のために、私はあなたに命ずる。「健全なことばを手本にしなさい」。
「よろしい」、とある人は云う。「私たちは真理を堅く保つべきだと思います。ですが、その手本や型を保つ必要があるとは思えません。――私たちは、多少は削ったり、刈り込んだりして、私たちの諸教理の受けがもう少しよくなるようにしてよいと思います」。愛する方々。かりに、私たちの手元に貴重な卵があるとして、だれかがこう云ったとする。「よろしい。さて、その殻は何の役にも立っていません。殻からは、絶対に鳥は生まれませんよね。なぜ殻を割ってしまわないんです?」 私はただその人の顔を見て微笑み、云うであろう。「ねえ君。その殻は、中身を守るために必要なのだよ。生きた原理が最も大事だということは私も知っているが、私はこの殻に、その生きた原理を守っていてほしいのだ」。あなたは云う。「原則は堅く保ちなさい。ですが、その手本や形式については、それほど厳格であってはいけません。あなたは古臭い清教徒です。キリスト教信仰について厳格にすぎることを望んでいます。ですが、多少は改変して、それがもっと心地よいものになるようにしましょう」。私の愛する方々。殻を割ってはならない。あなたは、自分で思っているよりも、はるかに大きな損害を加えることになるであろう。形式が大したものでないことは、私たちも喜んで認める。だが、人々が形式を攻撃するとき、彼らの目的は何だろうか? 彼らは形式を憎んでいるのではない。その中身を憎んでいるのである。ならば、中身を保ち、形式も保つがいい。同じ諸教理を守るだけでなく、それらを同じ形に保つがいい。――かつてそうであった通りに、角張ったもの、丸いもの、ごつごつしたものとしておくがいい。さもないと、手本の形を変えておきながら、中身を堅く守ることは困難だからである。「あなたは、キリスト・イエスにある信仰と愛をもって、私から聞いた健全なことばを手本にしなさい」。
3. さらに私は云う。この世のために、「健全なことばを手本にしなさい」。人間的な云い方で、このように語ることを許してほしいが、私の信ずるところ、福音の進展をすさまじいばかりに邪魔してきたのは、その説教者たちの過誤であった。私は、ユダヤ人がキリスト教を信じようとしない姿を見ても全く不思議には思わない。その理由は、ユダヤ人がキリスト教をその美しさにおいて見ることはごくまれだからである。何百年もの間、ユダヤ人はキリスト教をいかなるものと考えてきただろうか? 左様。純然たる偶像礼拝である。ユダヤ人は、カトリック教徒が木や石の像に拝礼しているのを見てきた。《処女マリヤ》やすべての聖人たちの前に平伏しているのを見てきた。そこでユダヤ人は云った。「あゝ! これこそ私の合言葉である。――聞きなさい。イスラエル。主はあなたの神。主は、ただひとりである[申6:4参照]。私はキリスト者にはなれない。唯一の神を礼拝することは、私の信仰の本質的な部分だからだ」。そのように異教徒も、私の信ずるところ、キリスト教の偽りの信仰体系を見てきて、こう云ってきたのである。「何と! それがあなたのキリスト教なのか?」 そして、それを受け入れなかったのである。しかし、福音か人間たちの痕跡が完全に清められるとき、また、福音からもみがらや塵がことごとくあおぎ分けられるとき、また、それが、そのありのままの単純素朴によって提示されるとき、福音は、確実に勝利をおさめると私は信ずる。そして、私はもう一度人間的な云い方をするが、もし福音がその全き単純素朴さによって宣べ伝えられ、現在普通になされているような水増しされた、あるいはむしろ歪められた形で宣べ伝えられてこなかったとしたら、それは一万倍もはるかに進展していたであろう。もし罪人たちが救われるのを見たければ、もし神の選びの民が集め入れられるのを見たければ、「あなたは、キリスト・イエスにある信仰と愛をもって、私から聞いた健全なことばを手本にしなさい」。
III. さてそれでは、第三のこととして、ごく手短に、《2つの危険についてあなたに警告させてほしい》。
1つは、あなたが出会うであろう反対によって健全なことばの手本を放棄するよう、あなたは激しい誘惑を受ける、ということである。私は、あなたが肉体的な迫害を受けると予言するものではない。むろん私も、この場にいる一部の可哀想な方々が、それを不敬虔な夫だの何だのから受けなくてはならないことは知っている。だが、あなたがたはみな、程度の差こそあれ、真理を守り抜こうとするならば、人の口による迫害に出会うであろう。あなたは笑い物にされる。あなたの教理は、滑稽にゆがめられた形で提示されては嘲笑される。あなたは、あなたが信じているすべてのことのゆえにチクチクと皮肉られる。そしてあなたは時々、信じているにもかかわらず、「いいえ、私はそんなもの信じていません」、と云いたくなる。あるいは、たといはっきり口でそう云いはしなくても、時として多少節を曲げさせられる。なぜなら、あなたはその笑いに耐えられず、世故に長けた人々に嘲られるのは辛すぎるからである。おゝ! 私の愛する方々。このように脇へそらされることについて警告させてほしい。いかなる嘲りの最中にあっても、「健全なことばを手本にしなさい」。しかし、あなたにとって最大の障害となるのは、あなたの教理を、それとは全く正反対のものと同じだと誤り信じ込ませようとする、一種の微妙で狡猾な手口であろう。敵は自分がいだいているものが、あなたのいだいているものと反対であるにもかかわらず、全く無害であるとあなたを説得しようとするであろう。そして云うであろう。「あなたは、事を大きくしたいとは思いませんよね。それは論争を招かざるをえません。あなたの意見と私の意見をすり合わせる道がありますよ」。そして、ご存じのように、私たちはみな、人からごく寛容な者だと思われたがっている! 今の世の中で最も自慢になることは、意見において寛容であることである。そして、私たちの中のある者らは、偏狭頑迷の徒だの無律法主義者だのと呼ばれるくらいなら、尻に帆かけて逃げ出そうとする。だが私はあなたに懇願する。あなたの信仰を躍起になって堕落させようとしている者らによって、脇へそらされないようにするがいい。彼らは公然とそれを攻撃しはせず、陰険なしかたで、あらゆる教理を骨抜きにしようとして、これは大したことじゃありませんよ、あれも大したことじゃありませんよ、と云う。その実、彼らは、神がその真理とその教会の守護としておられるあらゆる城塞と砦とを倒壊させようとしているのである。
IV. では最後のこととして、私があなたに告げたいのは、《あなたが福音の真理を堅く守るための、大いなる歯止め》である。
もしこの聖句の中にあるものに触れる前に、一二のことに言及することを許してもらえれば、私はこう云いたい。まず第一に、もしあなたが真理を堅く守りたければ、それを理解するよう求めるがいい。人は、何かについてよく理解していない限り、それを堅く守ることはできない。私があなたがたに持っていてほしいと思う信仰は、この炭坑夫のような信仰ではない。彼は、あなたは何を信じていますか、と尋ねられて、自分は教会が信じていることを信じてまさあ、と答えた。「よろしい。ですが、教会は何を信じていますか?」 彼は、教会は自分の信じていることを信じてまさあ、そして自分は、教会の信じていることを信じているんでさあ、と云った。そして話はこのようにぐるぐる回るだけであった。私は、あなたがたにはそのような信仰を持ってほしくはない。それは非常に堅忍不抜の信仰かもしれない。非常に頑強な信仰かもしれない。だが、非常に愚劣な信仰である。私はあなたに物事を理解してほしい。それらの真の知識を得てほしい。人が真理を捨てて過ちに走る理由は、彼らが本当にはその真理を理解していなかったためであり、十中八九は、心の目を開かれないままでそれをいだいていたからである。あなたがたの中にいる、子どもをお持ちの方々に勧告させてほしい。わが子には、キリストの福音の偉大な諸教理について、健全な教えを与えるがいい。私はアーヴィングがかつて語ったことは、まさに至言であると思う。彼は云った。「この現代において、あなたは自慢し、誇っている。また、あなたは、自分が高く尊貴な立場にいると思っている。なぜなら、あなたには若い者たちを教えるための《日曜学校》があり、《英国学校》があり、ありとあらゆる種類の学校があるからである。だが私はあなたに告げておく」、と彼は云う。「それらは、いかに博愛的で偉大なものであるにせよ、あなたの恥辱のしるしなのである。それらが示しているのは、あなたの国が、親が家庭でその子らを教えている国ではない、ということである。それらがあなたに示しているのは、親による教導が欠けているということである。また、こうした《日曜学校》は、ほむべきことではあるものの、何かが間違っていることを表わしている。というのも、もし私たちがみな自分の子どもたちを教えていたとしたら、他人がわが子に、『主を知れ』[ヘブ8:11]、と云う必要などなかったであろうからである」。
私は、あなたが決してあの卓越した清教徒的な習慣、自宅でわが子に教理問答を教える習慣を放棄しないであろうと固く信ずるものである。子どもの教育を他人にまかせきりにするような父親や母親は間違いを犯している。自ら教えるべき親の責任を解放してやりたいと思うような教師はひとりもいない! 教師は助手ではあるが、決して代理になるべきではない。あなたの子どもたちを教えるがいい。あなたの昔からの教理問答を引っ張り出すがいい。というのも、それは結局のところ、ほむべき教導の手段だからである。そうするとき、次の世代は先の世代を追い抜くであろう。というのも、あなたがたの中の多くの方々がその信仰において弱い理由は、あなたの信仰が、教理の福音の偉大な事がらについて教えを受けなかったことにあるからである。もし受けていたとしたら、あなたはしっかりとした土台に堅く立ち、信仰において固くされ、何物がいかなる手段を用いても、あなたを動かすことはできなかったはずである。ならば私はあなたに、真理を理解するようにと懇願する。そのときあなたは、それをより堅く守れるようになるであろう。
しかし、キリスト者である方々。それから何にもまして、もしあなたが真理を固く守りたければ、自分をその真理に祈り込むがいい。教理を得る道は、それを得るまで祈ることである。古の神学者がこう云っている。「私は神の家で学んだ多くのことを失ってしまったが、密室で学んだことは1つたりとも失ったことはない」。人は、膝まづき、聖書を開きながら学んだことを決して忘れないものである。よろしい。あなたは今まで膝をかがめて、こう云ったことがあるだろうか? 「私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください」、と[詩119:18]。もしあなたが、その奇しいことを見てとったとしたら、あなたは決してそれを忘れないであろう。自分を真理の中に祈り込む人は、悪魔そのひとによっても、決してその中から出て行かされることがないであろう。その悪魔が光の御使いの衣をまとっていても関係ない。あなた自身を真理の中に祈り込むがいい。
しかし、2つの大いなる歯止めがここに記されている。――信仰と愛である。もしあなたがたが真理を堅く守りたければ、イエス・キリストを信じ、キリストに対する熱烈な愛をいだくがいい。
真理を信ずるがいい。それを信ずるふりをするのではなく、徹底的に信ずるがいい。そして、本当に真理を信じてから、まずキリストに対して、次にキリストの語られたすべてのことに対して堅い信仰をいだく人は、簡単に真理を手放しはしないであろう。左様。私たちはキリスト教信仰を信じてはいない。私たちの中のほとんどの者がそうしてはいない。私たちはそれを信じているふりをするが、心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くし、力を尽くしてそれを信じてはいない。――この「キリスト・イエスにある信仰」をもって信じてはいない。というのも、もしそうしていたとしたら、嵐が来ようと試練が来ようと、私たちは古のルターのように、迫害ゆえにひるんだりせず、邪悪な日[エペ6:13]にもしっかりと立って、自分の信仰を岩の上に固定しておくはずだからである。
それから、第二の歯止めは愛である。キリストを愛し、キリストの真理を愛するがいい。キリストの真理なるがゆえに、キリストのために、真理を愛するがいい。そして、もしあなたが真理を愛するならば、あなたはそれを手放さないであろう。ある人を、その愛する真理に顔をそむけさせることは非常に困難である。「おゝ!」、と人は云う。「私はあなたとそのことについて論じ合うことはできません。ですが、私はそれを放棄することはできません。私はそれを愛しています。それなしでは生きていけません。それは私の一部であり、私の本質そのものに織り込まれています。そして、私の敵対者が、そのパンはパンではないと云おうと、また私にそれがパンだと証明できなくとも、それでも私は行ってそれを食べるだろうと知っています。それは驚くほど私に適しており、私の飢えを取り去るのです。その人は、この流れは純粋な流れではないと云います。私も、それが純粋な流れだと証明することはできません。ですが私は行ってそれを飲みます。そして、それが私の魂にとっていのちの水の川であることを見いだすのです」。また、その人は私に告げる。私の福音は真の福音ではない、と。よろしい。ただがそれは私を慰めてくれる。私が試練に遭うとき支えてくれる。私が罪に勝利するのを助け、私のよこしまな情動を抑えるのを助け、私を神に近づけてくれる。では、もし私の福音が福音でなかったとしたら、本当の福音とは一体どんな種類のものなのかと思う。私の福音は素晴らしいしかたでそれと似通っており、私は本当の福音がこれ以上に良い効果を生み出すとは考えられない。それこそ、なすべき最上のことである。みことばを信じ、それに対して、敵も引き離せないほど満腔の信仰をいだくことである。敵はそうしようと試みるだろうが、あなたはこう云うであろう。――
「激(たけ)く長けき 誘惑(まどい)のさなか
わが魂(たま)同じ 隠家(いえ)へ逃れん。
信仰ぞ、わが 頑強(かた)けき錨、
嵐吹くとも 波浪(なみ)つのるとも」。ならば、キリスト者よ。「キリスト・イエスにある信仰と愛」を手放さずにいるがいい。――この2つのほむべき歯止めによって、私たちは真理をつかんでいられるのである。
さて今、兄弟たち、姉妹たち。私は祈るものである。私の《主人》が、あなたがたをして、ここまで私の語ってきたことの重要さを見てとれるようにしてくださるように、と。ことによると、あなたは、今は、このことがそれほど重要だとは思わないかもしれない。特に、まだ年若い人々はそうである。だが、この場にいる一部の人々、この教会の長老ともいえる人々は、あなたがたに云うであろう。人は年をとり長く生きれば生きるほど、真理が尊いものであることに気づいていくものだ、と。その人たちも、若い頃には、真理について、少々は自分のうちに急進主義を有していたかもしれない。だが、今は真理について保守的な見解をしている。というのも、彼らは、それを保ち守るべき価値があると感じているからである。私たちは、真理に関しては、それを信じるや否や保守的になり始め、それを堅く守り、決して手放さないのがよいであろう。私は現代の最たる欠点は、私たちが心の広い考え方をしようとするあまり、十分に真理を堅く守っていないことだと思う。少し前に私は、福音の卓越した教役者であり、私が尊敬し、評価しているひとりの兄弟に出会った。彼は、「すべてのことを見分けなさい」*[Iテサ5:21]、という聖句から説教していた。そこに、自分ではキリスト教信者だと告白しているひとりの青年がいた。だが、その主題が非常にお粗末な扱われ方をしたために、それを聞き終わった青年は自宅へ帰り、何冊かの不信心な著作を買い込み、結果としては美徳そのものから完全に離れ去るほどの背教者となってしまった。彼は、かつては真実だと信じていたあらゆるものを捨て去ってしまったのである。私は云いたい。若きキリスト者よ。あなたの錨を深々と沈み込ませるがいい。そして、たとい何によって反対されても、その真理に堅くとどまり続けるがいい。そうすれば、そうしたときでさえ、あなたは、「すべてのことを見分ける」ことができよう。しかし、そうしつつあるときには、「ほんとうに良いものを堅く守る」*ことを覚えておくがいい[Iテサ5:21]。良いものを投げ捨てることによって、「すべてのことを見分け」ようとしてはならない。
さて、あなたがたの中の、まだ主を知らない方々については、もしたが救われるようなことがあるとしたら、私にこう云わせてほしい。あなたが救いに出会う可能性が最も高い場所は、純粋な福音が宣教されているところである。それゆえ、ここにはあなたのための教訓がある。福音が宣べ伝えられているところに出席するがいい。
また、あなたが神の恵みを受ける可能性が最も高いしかたは、神の真理を信じることである。決して神の教理に反抗してはならない。むしろそれを受け入れるがいい。そして、あわれな罪人よ。私は今朝あなたに云うことが1つある。もしあなたがの心の中で、「私は、神の福音が栄光の福音だと信じます」、と云えるとしたら、あなたは別のものからも離れてはいない。もしあなたが、「私は福音のすべての要求に服従します。私は、神が私を滅ぼされるとしたら、神を信じます。また私をお救いになるとしたら、それは神の主権のあわれみだけから出たことでしょう」、と云えるとしたら、罪人よ。ならば、あなたには大きな見込みがある。あなたは、天国への路をそれなりに進んでいる。もしあなたが、もう1つのことだけ行なえるとしたら、――「見よ。神が私を殺しても、私は神を待ち望む」[ヨブ13:15]、と云えさえしたら、また、もしあなたがキリストの十字架のもとに来て、「イエスよ。私はあなたの福音を愛し、あなたの真理を愛します。もし私が滅びるとしたら、あなたの真理すべてを信じながら滅んでいきます。もし私が死ぬとしたら、私はあなたが正しく恵み深い神であられることを認めながら死んでいきます。そして、なおも私のあわれなしかたで、健全なことばの手本を堅く守ります」、と云えるとしたら、私はあなたに告げる。可哀想な魂よ。神は決してあなたを罪に定めることはない。もしあなたがイエス・キリストを信じ、そのみことばを堅く守るとしたら、キリストは愛とともにあなたを見下ろし、云われるであろう。「可哀想な魂よ! 彼はこうした真理が自分のものだと知ってはいないが、それでも、それらを尊いものだと考えている。それらが自分に属しているなどと大それたことは望んでいないが、それでも、それらのために戦うであろう。自分が本当に十字架の兵士であり、時の始まる前からわたしによって選ばれていたとは知らないが、それでも、いかに彼がわたしのため勇敢に戦っているか見るがいい」。そして、主は云われるであろう。「可哀想な魂よ。あなたは、自分のものだと考えてもいないものを愛している。――わたしは、あなたがそれらを自分のものとして喜ぶようにさせよう。わたしの恵みによってそうしよう。あなたは、自分が選ばれていると考えていなくとも、選びを愛している。――それは、あなたがわたしのものである証拠である」。「主イエス・キリストを信じて、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたも救われます」[使16:31; マコ16:16参照]。
健全なことばの手本[了]
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