いかにして心を守るか
NO. 180
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---- 1858年2月21日、安息日朝夜の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於サザク区、ニューパーク街会堂「人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」。――ピリ4:7
注目すべきことに聖書では、ある部分で神の民に1つの勧告が与えられているのが見られると、そこで行なうよう勧告されているまさにそのことが、同じこのほむべき書物のどこか別の部分で、ほぼ必ず彼らに請け合われ、彼らのために備えられているのが分かる。今朝の主題聖句はこうであった。「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく」[箴4:23]。さて、今晩の私たちが前にしているのは、その戒めを守りたいと願う私たちが頼りとしなくてはならない約束である。――「人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」。
今晩、私たちは、今朝用いた貯水池という例えとは違う別の例えを用いたいと思う。私たちは、守るべき砦という例えを用いたい。そして、この約束は、それが守られると語っている。――「人のすべての考えにまさる神の平安」により「キリスト・イエスにあって」守られるのだ、と。
心が人の最も重要な部分である限り――というのも、いのちの泉はそこから湧くからである。――、当然予想されるのは、サタンが人性に危害を加えようと目論むとき、確実にその最大の、また、決してやむことなき攻撃を心に対して仕掛けるだろうということである。私たちが分別からそれと推測できることは、確かに経験上からも真実である。というのもサタンは、私たちをあらゆるしかたで誘惑し試みるとはいえ、また、《人霊》のあらゆる城門を砲撃しても不思議はないとはいえ、また、その城壁のあらゆる部分に向かって自分の大砲を引き出すのが確実とはいえ、彼がその最も痛烈な悪と、最も激越な力を向ける場所は、心だからである。心はすでにそれ自体で十分悪いものだが、彼は心にあらゆる悪事の種を押し込み、全力を尽くしてそれを汚れた鳥たちの巣とし、有毒な木々の園とし、猛悪な水の流れる川としようとする。こういうわけで、力の限り見張って心を見守ることを二倍に注意深く行なうべき、第二の必要が、やはり生ずるのである。一方では、心というものが最も重要であり、また、もう一方では、サタンがそれと知ってその最も猛烈な、また、断固たる攻撃をそれに仕掛けている以上、二倍の力をもってこの勧告はやって来る。「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ」。そして、この約束も、まさにこの二倍する危険の事実ゆえに、二倍も甘やかなものとなる。――その約束はこう語る。「神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」。
私たちがまず第一に注意したいのは、何が心と思いを守るかということである。第二に注目したいのは、それをいかにして獲得するかである。――というのも、私たちはこの約束を、それに先立ついくつかの戒めと関連したものと理解すべきだからである。それから、そのようにした後で努めて示したいと思うのは、神の平安がいかに真実に思いを守り、サタンの攻撃を受けずにすむようにするか、あるいは、そうした攻撃が仕掛けられたとき、いかに真実に思いを解放してくれるかということである。
I. まず第一に、愛する方々。神がこの約束において聖徒に授けると約束しておられる保護とは、「《人のすべての考えにまさる神の平安》」が、私たちをイエス・キリストにあって守る、ということである。それは《平安》と呼ばれており、私たちはこれを二重の意味に理解すべきである。神の子どもと、その《審き主》なる神との間には、神の平安がある。まさに人のすべての考えにまさると云ってしかるべき平安である。イエス・キリストがささげておられるのは、傷つけられた正義の要求するすべてを完全に満ち足らす償いであって、今や神は、ご自分の子どもたちにいかなる欠点も見いださない。「神はヤコブの中に罪を見ず、イスラエルの中に不法を見ない」*[民23:21]。また、彼らのもろもろの罪ゆえに彼らをお怒りにならない。――破られることのない、言葉に尽くせない平安である。それは、彼らに代わってキリストが成し遂げた贖罪によって成し遂げられているからである。
ここから良心の中で経験される平安が流れ出る。それが、この神の平安の第二の部分である。というのも、良心は、神が自分に満足しており、もはや敵対しておられないのを見てとるとき、自らもまた人間に満足するからである。そして良心は、かつては真っ先に心の平安を大いにかき乱す者であったのに、今やその無罪放免の判決を下し、心は良心の腕の中で眠りにつき、そこに静かな休み場を見いだすのである。神の子どもに対して、良心はいかなる告発も持ち出さない。あるいは、たとい持ち出すとしても、それは優しいものである。――愛に満ちた友人が優しくたしなめて、私たちが間違ったことをしたよと云い、態度を変えた方がいいよと示唆するのである。だが、その後で刑罰の脅かしを私たちの耳に怒鳴りつけたりはしない。良心は、魂と神との間に平安が打ち立てられていることを熟知している。それゆえ、信仰者に喜びと平安以外のいかなる見通しがあるとも示唆しない。私たちはこの二重の平安を少しでも理解しているだろうか? 私たちはここで立ち止まり、この件の、この教理的部分で1つの問いを発してみよう。――それを自分の心に当てはまる経験的な問いとしよう。――「さあ、わが魂よ。お前は神と平安な関係にあるだろうか? お前は、《贖い主》の血によって自分の恩赦状が署名され、証印を押されたのを見ただろうか? さあ、わが心よ。これに答えるがいい。お前は、お前のもろもろの罪をキリストの頭上に投げかけただろうか? それらが真紅の血の流れで洗い落とされたのを見ただろうか? お前は、今やお前自身と神との間に恒久的な平安があり、何があろうと、神がお前に怒りを発することはない――お前を罪に定めることはない――お前をその御怒りで焼き尽くすことも、その激しい憤りでお前を踏み砕くことはないと感じているだろうか?」 というのも、もし私の心が私を責めることがなければ、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存知なのである[Iヨハ3:20参照]。もし私の良心が私とともに証しして、私が救いの尊い恵みにあずかっていると云うとしたら、ならば、私は幸いである! 私は神によって、人のすべての考えにまさる平安を与えられた者のひとりなのである。さて、なぜこれは「神の平安」と呼ばれるのだろうか? 思うに、それは神から出ているからである。――神によって計画されたからである。――神がその御子を与えて、その平安をお作りになったからである。――神がその御霊を与えてその平安を良心にお与えになったからである。――実際、神ご自身こそ魂のうちにあって、人と和解させられたお方であり、この平安は神のものだからである。そして、確かにこの人が――すなわち、《人なるキリスト》が――平安を有することは真実である一方、それでも私たちが知るように、この方は《神なるキリスト》であるがゆえに私たちの平安となられたのである。そして、このことによって私たちには明確に分かる。私たちが自分の《造り主》との間で、また、自分の良心との間で享受している平安は、この上もないしかたで《神格》と混じり合っているのである。
それから私たちが告げられているのは、これが「人のすべての考えにまさる神の平安」だということである。これはいかなる意味だろうか? ここで意味されているのは、人の知性では決して理解できず、決して到達できない平安のことである。哲学的なしかたでキリスト者の平安の秘訣を発見しようと試みる人は途方に暮れることになる。「私にはいかにしてそうなるのか、また、なぜそうなるのかが分からない」、と彼は云うであろう。「私は、この人々が地上を追い立てられているのが見える。歴史の頁をめくれば、彼らが墓場に至るまで狩り立てられていたことが分かる。彼らは羊や山羊の皮を着て歩き回り、乏しく、悩まされ、苦しめられていた。だが、やはり私に見てとれるのは、キリスト者の眉宇にある穏やかな静謐さである。私にはこれが理解でない。これがどういうことか分からない。私は、私自身、いかに陽気な瞬間にあっても、心乱れていることを知っている。私の楽しみが最高潮に達するときも、やはり疑いや恐れの波が脳裡をよぎる。ならば、なぜこうなのか? いかにしてキリスト者は、これほど穏やかで、安らいでいて、静かな安息に到達できるのだろうか?」 知性は決してキリスト者の到達した平安に達することができない。哲学者は私たちに多くを教えるかもしれない。だが決してキリスト者がその良心において有する平安に行き着ける規則を与えることはできない。ディオゲネスは何もなくてもやって行けると告げるかもしれない。そして、自分の桶の中に住んでいようと、アレクサンドロス大王よりも幸福だと考え、平安を楽しんでいると云うかもしれない。だが私たちは彼を、結局はあわれな人とみなし、その勇気には驚嘆しつつも、その愚かさを軽蔑せざるをえない。私たちは、たとい彼が何もかもなしですませていたときでさえ、彼が精神の静謐さを有していたとは信じない。完全な、徹底した平安、真の信仰者が享受できるような平安を有していたとは思わない。古の大哲学者たちは幾多の処世の格言を規定しては、それが確かに幸福を増進するだろうと考えていた。だが私たちの見るところ、彼らは必ずしも自分でそれらを実践できていたわけではないし、彼らの弟子たちの多くは、それを実行に移そうと苦闘したとき、自分が不可能な目的を果たすための不可能な規則を負わせられていることに気づいたのである。しかしキリスト者である人は、人が自分では決してできないことを信仰によって行なう。あわれな知性が険しい山々を登っている間、信仰は山頂に立っている。あわれな知性が静謐な雰囲気に入りつつある間に、信仰は高々と飛翔して、嵐よりも高く舞い上がり、それから渓谷を見下ろしては、その麓を暴風雨が吹きなぐっているときも微笑む。信仰は知性を越えて進み、キリスト者が享受する平安はこの世の子らには理解することも、自分自身到達することもできないものである。「人のすべての考えにまさる神の平安」。
そして、この平安は、「思いをキリスト・イエスにあって守る」と云われる。キリスト・イエスを抜きにしてこの平安は存在しえない。存在したとしても、キリスト・イエスを抜きにしては、維持できない。日ごとに《救い主》の訪問を受け、絶えず信仰の目によって十字架上で血を流されたお方を仰ぎ見、絶えずその常に流れる泉から汲み上げることによって、この平安は広く、長く、また永続的なものとされる。しかしキリスト・イエスが取り去られれば、私たちの平安の水路が消え失せ、それはしぼんで枯れ果て、衰え、無に帰してしまう。キリスト者が神との平安を持ちうるのは、その主イエス・キリストの贖罪を通してのみなのである。
このように私は、この主題の中の、人によっては無味乾燥な教理的部分と呼ばれるだろうことを論じてきた。――「人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」。その平安をあなたが一度も感じたことがない場合、私もそれがいかなるものであるかを示すことはできない。だがしかし、私はあなたに、それをどこで探すべきかを告げることはできる。というのも、私は時々それを目にするからである。私はキリスト者である人が貧困のどん底にあるのを見てきた。彼はその日暮らしをしていて、次の食事がどこから来るかほとんど分からなかった。それでも、彼の精神は平静で、静謐で、穏やかだった。たとい彼が印度の王様のように裕福だったとしても、あれほど思い煩いから自由ではいられなかったであろう。たとい彼が、お前のパンは常にお前の玄関先にやって来るだろう、すぐ近くを流れている川の水は決して干上がらないだろう、と告げられたとしても、――たとい烏が朝には彼の所にパンと肉を運び、また、夕方にもそうするだろうと全く確信していたとしても、彼はこれっぽっちもその落ちつきを増さなかったであろう。通りの向かい側にいる彼の隣人は、その半分も貧しくはなかったが、朝から晩まで身をやつし、骨身を削って働き、心配し通したあげくに墓場に入った。だが、この貧しく善良な人は、こつこつと働いた後で、自分の一切の骨折り仕事の後で多少は利益を得たのを見いだしたときも、自分の僅かな収入を祈りによって聖別し、自分が得ているものについて自分の御父に感謝した。そして彼は、それ以上得られるかどうかは分からなかったが、それでも神を信頼し、自分の信仰が自分を裏切ることはないとはっきり云っていた。摂理がこれまで見たこともないほど低い引き潮に達するとしても関係なかった。そこには、「人のすべての考えにまさる神の平安」があったのである。私はその平安を、自分の友人たちを失った人々の場合においても見てきた。ひとりのやもめがいる。――彼女の愛しい夫は棺の中に横たわっている。彼女はじきに彼と別れなくてはならない。彼との別れはすでに済んでいた。だが今や、彼のあわれな粘土のように冷たい遺体――それすら彼女は奪われなくてはならないのである。彼女はそれを最後に眺める。彼女の心は重い。彼女自身と彼女の子どもたちのことを考える。いかにして食べていけば良いのだろうか? かつては彼らを日差しから庇護してくれていた大きな木が切り倒されてしまったのである。さて、彼女は自分の頭の上には広大な天があり、彼女の《造り主》が彼女の夫であることを思う[イザ54:5]。みなしごたちには父親代わりの神が残されており、やもめは神に拠り頼むことになる[エレ49:11]。涙を目に浮かべながらも、彼女は天を見上げて云う。「主よ。あなたは与え、あなたは取られます。あなたの御名はほむべきかな」*[ヨブ1:21]。彼女の夫は墓地へと運ばれる。彼女は微笑みはしない。だが、彼女が涙を流すとしても、彼女の眉宇には穏やかな落ちつきがある。また、彼女はあなたに告げる。もし自分に事を変える力があったとしても、これとは別のことを願いはしないでしょう。エホバの御心は正しいのですから、と。そこにもやはり、「人のすべての考えにまさる神の平安」があるのである。別の人を思い描くがいい。そこでは、マルチン・ルターがヴォルムスの帝国議会に立っている。そこには王たちや君侯たちがおり、彼の血を渇しているローマの犬どももいる。――そこにいるマルチンは、その朝、この上もないほど快適に目覚めて、議会に赴き、真理を述べてから、こう厳粛に宣言する。自分が語ったことは自分の信ずることであり、神の御助けがある限り、自分は最後までそれに立つ、と。彼のいのちは彼らの手中にある。彼らは彼を完全に自分たちの権力の中に握っている。ヤン・フスの死体の臭いはまだ消えてはおらず、彼はこれ以前に君侯たちが約束を破ったことを覚えている。だが、彼は穏やかに、また平静にそこに立っている。彼はいかなる人をも恐れていない。恐れることは何もないからである。「人のすべての考えにまさる神の平安が、彼の心と思いをキリスト・イエスにあって守っている」*のである。別の光景がある。ニューゲート監獄の中にジョン・ブラッドフォードがいる。彼は翌朝、スミスフィールドで焼き殺されることになっているが、彼は喜び楽しんで寝台の支柱でからだを振り回している。というのも、翌日は彼の婚礼の日だからである。そして彼は別の人に云う。「私たちは明日を大いに輝かせるでしょう。あの火が燃え上がるときには」。そして、彼は微笑んで笑い、自分が血に染まった殉教者の冠を戴くことになるという考えを嬉しがる。ブラッドフォードは気が狂っているのだろうか? あゝ、否。むしろ、彼は人のすべての考えにまさる神の平安を有しているのである。しかし、ことによると、この甘やかな平安を最も美しく、また、最も普通に見られるしかたで例証しているのは、信仰者の臨終の床かもしれない。おゝ、兄弟たち。あなたはそれを時として見ることがあった。――あの穏やかで、落ち着いた静謐さ。あなたは云った。主よ、私たちをも彼とともに死なせてください、と。その寂しい部屋の中にいることは途方もなく素晴らしいことであった。すべてがしんとしていて、すべてがひっそりとしていて、世界のすべては閉め出され、天国が中へ閉じ込められ、あわれな心はその神へと近づきつつあり、その過去の重荷と嘆きのすべてからはるかに遠ざかりつつある。――今や、永遠の至福の正門へと近づきつつある。そしてあなたがたはこう云った。「これはどういうことだろう? 死は暗黒の、残忍なものではなかっただろうか? 墓の恐怖は、勇者をも身震いさせるものではなかっただろうか?」 おゝ、しかり。その通りである。だが、そのとき、この人には「人のすべての考えにまさる神の平安」があるのである。しかしながら、もしこのことについて知りたければ、あなたが神の子どもになり、自分でそれを持たなくてはならない。そして、あなたがいったんそれを感じたとき、また、嵐の最中でも歌えるとき、また、敵に囲まれても微笑むことができ、また、いかに道が険しく、嵐に満ちたものであろうと、あなたの神に信頼できるとき、また、常にエホバの知恵といつくしみ深さに信頼を置けるとき、そのときこそ、あなたが「人のすべての考えにまさる神の平安」を有するときである。
II. このように私は、第一の点、この平安とは何か?、について論じてきた。さて、第二のことは、《いかにしてこの平安を獲得すべきだろうか?》ということである。注意すると分かるように、これは約束ではあるが、それに先立ついくつかの戒めがあり、そうした戒めを実践することによってのみ、私たちはこの約束を手に入れることができるのである。さて第4節に目を向けてほしい。そこには、平安を得るための第一の規則また規定があるであろう。キリスト者よ。あなたは、「人のすべての考えにまさる神の平安」を享受したいだろうか?
あなたが行なわなくてはならない最初のことは、「いつも喜ぶ」ことである。決して喜ぶことがない人、むしろ、常に悲しみ、呻いている人、また、自分の神を忘れる人、エホバの満ち満ちた豊かさを忘れ、常に路の試練や肉の弱さについて愚痴を云っている人、その人が、人のすべての考えにまさる神の平安を享受する見込みはないであろう。愛する方々。朗らかな性向を身につけるようにするがいい。あなたの力の及ぶ限り、努めて常に微笑みを浮かべているがいい。思い起こすがいい。このことが、「心を尽くして主を愛せよ」*[マタ22:37]、という命令と同じくらい、神の命令であることを。いつも喜んでいなさい[Iテサ5:16]、は神の命令の1つである。そして、それを試みて実践することは、あなたの特権であると同じくあなたの義務である。覚えておくがいい。喜んでいないことは罪である。喜ぶことは義務であり、この義務には、この上もなく美味な果実と、最上の報いが添えられている。いつも喜んでいれば、神の平安があなたの心と思いを守るであろう。私たちの中の多くの者らは、種々の悲惨な疑いに屈することによって、自分の平安をだいなしにしている。私は一度、ある女がこう云うのを聞いた覚えがある。ある路地を通りかかったとき、ひとりの子どもが戸口の所に立って泣いており、その女が大声でこう云うのが聞こえた。「あゝ、お前と来たら、訳もなく泣いてばかりいて。そんなら、いやでも泣かなきゃいけないようにしてやるよ」。兄弟たち。神の子どもたちもしばしばそれと同じである。彼らは理由もなしに泣いている。彼らにはみじめな性向があるか、常に自分たちにみじめさを招くような気立てをしている。そして、このようにして彼らは、いやでも泣かなくてはならないような事態に陥るのである。彼らの平安は乱される。何らかの悲しい苦難がやって来る。神はその御顔を隠される。そしてその時、彼らは自分の平安を失う。しかし、太陽が輝き続けるのをやめるときでさえ、歌うことを続けるがいい。どんな天候の時も、歌を続けるがいい。雲にも嵐にもくじけない喜びを得るがいい。そのとき、あなたがいかにいつも喜んでいるかが分かったとき、あなたはこの平安を得るであろう。
次の戒めはこうである。「あなたがたの穏健な心を、すべての人に知らせなさい」<英欽定訳>。もしあなたが思いの平安を得たければ、穏健になるがいい。商人よ。あなたは、投機の山を張り込みすぎていながら、思いの平安を得ることはできない。若者よ。あなたは、一足飛びに世の中でのし上がろうとしていながら、人のすべての考えにまさる神の平安を得ることはできない。あなたは穏健でなくてはならない。そして、あなたが自分の願いにおいて穏健になるときこそ、あなたは平安を持つのである。あなたがた、顔を真っ赤にしている人たち。あなたは怒りにおいて穏健でなくてはならない。同胞に対して、いきなり癇癪玉を破裂させたり、いつまでも冷静さを取り戻せないようであってはならない。なぜなら、怒った人は自分の良心の中に平安をいだけないからである。そのことにおいて穏健であるがいい。あなたの復讐心を抑えるがいい。というのも、たといあなたが憤りに屈するとしても、たといあなたが怒るとしても、「怒っても、罪を犯してはならない」*[エペ4:26]からである。このことにおいて穏健であるがいい。あなたの手がけるすべてにおいて穏健であるがいい。キリスト者よ。あなたの期待において穏健であるがいい。幸いなことよ。期待を小さく持つ人は。その人は小さな失望しか受けないからである。覚えておくがいい。高望みしすぎてはならない。月まで届くほどの憧れを有している人は、その半分までしか達さなかった場合、失望するであろう。だがもし彼がそれより低い憧れしか有していなかったとしたら、自分が最初に期待したよりも高く登ったことに気づいて嬉しい驚きを感じるであろう。何をするにしても、あらゆることにおいて――神を求めるあなたの願い以外のことでは――穏健さを保つがいい。そうすれば、あなたは二番目の戒めに従うことになり、この約束を瞥見するであろう。「神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」。
あなたが従わなくてはならない最後の戒めは、「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」、である。平安を得たければ、あなたの種々の悩みを上にあげなくてはならない。あなたの悩みを注ぎ込める場所は、神の耳以外にない。もしあなたがそれを友人たちに告げるとしたら、あなたの悩みは一瞬は外に出されても、やがて戻ってくる。それを神に告げるなら、あなたは自分の悩みを墓に納めるのである。神にそれをゆだねたならば、それは二度とよみがえりはしないであろう。もしあなたが自分の重荷を他のどこかに転がしたとしたら、それはシーシュポスの石のように再び転げ戻ってくるであろう。だが、あなたの重荷を神の上に転がり落としさえすれば、あなたはそれを非常な深みに転げ落としたのであって、それはその中から万が一にも上ってくることは決してない。あなたの悩みは、あなたが自分のもろもろの罪を投げ込んだ所に投げ込むがいい。あなたは、自分のもろもろの罪を海の深みに投げ込んだ。そこにあなたの悩みをも投げ込むがいい。決してわざわざ半時間も脳裡にとどめておいてから、それを神に告げてはならない。悩みがやって来たらすぐさま、真っ先に、それをあなたの御父に告げるがいい。覚えておくことである。あなたが自分の悩みを神に告げるのに長くかかればかかるほど、あなたの平安は損なわれるであろう。霜が下りている時間が長ければ長いほど、池の氷は厚くなる。あなたの霜は、あなたが太陽のもとに行くまでなくならないであろう。そして、あなたが神のもとに――太陽のもとに――行くとき、あなたの霜はたちまち霜解けとなり、あなたの悩みは解け去るであろう。しかし、愚図愚図していてはならない。なぜなら、待つことが長ければ長いほど、あなたの悩みは後で溶けるのが遅くなるからである。長く待ちすぎてあなたの悩みが分厚く硬い氷になってしまうと、何日間も祈りを積まないと、あなたの悩みが再び溶けることはないであろう。できる限りさっさと御座へと行くがいい。子どものようにするがいい。何か小さな困ったことがあるとすぐに走って行き、母親に告げる子どものように、苦しみに遭ったら即座に御父のもとに走って行って、申し上げるがいい。あらゆることにおいて、あらゆる小さなことにおいてそうするがいい。――「あらゆるばあいに……祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」。あなたの夫の頭痛を、あなたの子どもたちの病気を持って行くがいい。あらゆることを、家族の小さな問題をも、大きな取引上の試練と同じように持って行くがいい。――それらをみな神のもとに持って行くがいい。そして、すべてを一度に注ぎ出すがいい。そのようにしてあなたは、この、あらゆる場合にあなたの願い事を神に知っていただくという命令を従順に実行することによって、「あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれ」る平安を保持するであろう。
さて、それらが戒めである。願わくは聖霊なる神が私たちをそれに従わせてくださり、その後で私たちが絶えざる神との平安を持つことができるように。
III. さて、第三のことは、先に第一のこととして念入りに描写した《この平安が、いかにして心を守るのか》ということである。あなたは、いかにしてこの平安が心を満たされたものとして保つかを明確に見てとるであろう。神との絶えざる平安を有している人は、空っぽの心を持たないであろう。彼は、神が自分のためにあれほど大きなことをしてくださったのだから、自分は自分の神を愛さなくてはならないと感じている。彼の平安の永遠の基盤は、天来の選びに存している。――彼の平安の堅固な支柱は、キリストの受肉と、キリストの義と、キリストの死にある。――彼の平安の絶頂は、彼の喜びと彼の平安が完成される来世の天国にある。これらすべては感謝に満ちた黙想の主題であり、瞑想されたときには、より大きな愛を引き起こす。さて、大きな愛がある所には、大きな心、それも満ち満ちた心があるものである。ならば、この神との平安を保つがいい。そうすれば、あなたは、自分の心を満ち満ちたものにしておくであろう。また、覚えておくがいい。あなたの心が充実している度合に応じて、あなたの人生も充実するようになるのである。空っぽの心をしていれば、あなたの人生は貧相で、がりがりに痩せた存在となる。心が満たされていれば、あなたの人生は充実した、中身のある、巨大で、強大なものとなり、世界に影響を及ぼすものとなる。ならば、あなたの神との平安をあなたの内側で堅く保つがいい。イエス・キリストはあなたと神との間に平安を作られた。それを常にひしひしと感じているがいい。また、あなたの良心を平静に保つがいい。そうすれば、あなたの心は満ちたものとなり、あなたの魂はあなたの《主人》の働きを行なう力あるものとなる。あなたの神との平安を保つがいい。それはあなたの心をきよく保つであろう。あなたは、たとい誘惑が来てもこう云うであろう。「お前は私に何を差し出すのか? 快楽を差し出すのか。見よ! 私はそれを得ている。黄金を差し出すのか。見よ! 私はそれを得ている。すべてのものは私のものであり、神の賜物なのである。私には手で造ったのではない都がある。『人の手によらない、天にある永遠の家』[IIコリ5:1]がある。私はそれを、お前のあわれな黄金と交換しはしない」。「私はあなたに名誉をあげよう」、とサタンは云う。「私には十分に名誉がある」、と穏やかな心は云う。「神は、その大いなる精算の日に、私に誉れを授けてくださるのだ」。「私はあなたに望むものは何でも与えよう」、とサタンは云う。「私は自分に願える一切のものを持っている」、とキリスト者は云う。
「われ地に何も 望みなし、
わが主の愛に 幸福(さち)を得て
われは御神と 平和(やわらぎ)てあらん」。では、サタンよ。立ち去れ! 私は、神と平安な関係にある限り、お前のあらゆる誘惑にびくともしない。お前は私に銀を差し出すが、私には黄金があるのだ。お前は私の前に地上の富を持ち出すが、私にはそれよりもずっと価値あるものがあるのだ。立ち去れ! 人類の誘惑者よ! 立ち去れ、悪鬼よ! お前の誘惑や甘言は、神との平安を有する者には歯が立たない。この平安は、心を分割されないように保ちもする。神との平安を有する人は自分のすべての心を神に向ける。「おゝ!」、とその人は云う。「なぜ私は、今や神に自分の安らぎを見いだしているというのに、他の何かを求めて地上を歩き回るべきだろうか? もし他のどこかに行ったとしたら、私は鳥が彷徨するようになるであろう。私は泉を見いだしたのだ。なぜ私は、行って、水を貯めることもできない壊れた水ため[エレ2:13]で飲まなくてはならないのだろうか? 私は、私の愛する方の腕によりかかっている。なぜ別の者の腕によりかからなくてはならないだろうか? 私は、キリスト教信仰が従う価値のあるものであると分かっている。なぜレバノンの清らかな雪を離れて、他の何かについて行かなくてはならないだろうか? 私はキリスト教信仰が百倍もの平安の実を私のために結ぶ沃野であると知り、感じている。なぜ私は行って他の場所で種を蒔かなくてはならないだろうか? 私はあの娘ルツのようになろう。ボアズの畑で立ち止まろう。そこに私は常にとどまり、決してほっつき歩くまい」。
さらに、この平安は心を豊かなものに保つ。話をお聞きの方々は、私が今朝の講話の項目を順々に辿っていることに気づくであろう。私は、今朝私たちが必要と考えた要求事項を、いかにこの平安が成就しているかを示しているのである。神との平安は心を豊かに保つ。疑いをいだき、苦悩する人には、貧しい心しかない。それは、中に何も入っていない心である。しかし、人が神との平安を得るとき、その心は豊かになる。もし私が神と平安な関係にあるとしたら、私は富の得られる所に行けるようになる。王座は神が富をお与えになる場所である。もし私が神との平安な関係にあるとしたら、私は大胆に近づくことができる。黙想は、人を富ませるもう1つの大きな畑である。私の心が神と平安な関係にあるとき、私は黙想を楽しむことができる。だが、神との平安を有していなければ、私は益を受けるような黙想ができない。というのも、魂が神と平安な関係にない限り、「鳥たちがいけにえの上に降りて来て」*[創15:11参照]も、それを追い払えないからである。みことばを聞くことは、富む者となるもう1つの道である。精神がかき乱されていると、私はみことばを聞いても益を受けられない。もし私が、自分の家族を会堂に連れて行かなくてはならないとしたら、また、もし私が、自分の仕事を、自分の船団を、自分の馬たちを連れて行かなくてはならないとしたら、私は話を聞くことができない。私が、牛や、犬や、馬を会衆席に有しているときには、宣べ伝えられた《福音》を聞くことができない。私が一週間分の仕事を、また台帳を私の心の中に有していなくてはならないとき、それでは話を聞くことはできない。だが、私が平安を有しているとき、また、一切のことに関する平安と、私の御父のみこころへの安らかな信頼を有しているとき、そのときには私は喜んで話を聞くことができ、福音の一語一語が私にとって有益なものとなる。というのも、私の口は空っぽなので、私はそれを神のみことばという天来の宝で満たすことができるからである。それで、見ての通り、神の平安は魂を富ませるのである。そして、それが心を富んだものに保つからには、それは私たちの主イエス・キリストにあって心と思いを守るのである。私は、神の平安が他の唯一の必要事項を満足させるものだと述べる必要はほとんどないであろう。私はそれについて言及しなかった。不必要だったからである。神の平安は心を常に穏やかなものに保つ。もちろん平安は心を全く平安で満たす。――川のような平安、海の波のような正義で満たす[イザ48:18]。
さて、兄弟姉妹。あなたがあなたの心を正しく保つことは第一に重要なことである。あなたが自分の心を正しく保ちたければ、ただ1つの道によるしかない。その唯一の道とは、あなた自身の良心のために神の平安を獲得し、維持し、享受することである。ならば、私は切に願う。あなたがた、キリスト教信仰を告白している人たち。どうか、この夜が更けるまでに、自分がいま神の平安を持っていることをはっきり確信するようにしてほしい。というのも、あなたに云わせてほしいが、もしあなたが今週の月曜の朝、まず、神との平安をあなた自身の良心の中で持ちもしないでこの世に出て行くとしたら、あなたはあなたの心を一週間守ることができないだろうからである。もしも今晩、あなたが眠りにつく前に、自分は神とも、この世のすべてとも平安な関係にあると云えるとしたら、あなたは明日出て行くことができるであろうし、あなたの仕事が何であれ、私の愛する方々。私はあなたについて心配しない。あなたは、偽りの教理や、偽りの生き方や、偽りの話へとあなたを誘ういかなる誘惑に出会おうと、苦もなく太刀打ちできるであろう。というのも、神と平安な関係にある人は、cap-a-pie[頭の天辺から爪先まで]武装しているからである。その人は全身を鎧兜で覆っている。それに向かって矢が飛ぶかもしれないが、それを貫くことはできない。というのも、神との平安は、サタンの大段平さえ肉を切る前に真二つに折れてしまうほど硬い鎧かたびらだからである。おゝ! あなたが神と平安な関係にあるよう気をつけるがいい。さもないと、あなたは明日の戦いに何の武装もせずに裸のまま馬を進めることになるからである。そして、地獄と地上を向こうに回して戦わなくてはならないときに、何の武装もしていない人に、神よ憐れみを垂れ給え。おゝ、愚かになってはならない。むしろ、「神のすべての武具を身に着け」[エペ6:11]、その上で自信を持つがいい。恐れる必要はないからである。
あなたがたの中のその他の人々について云えば、あなたは神と平安な関係になることができない。なぜなら、「『悪者どもには平安がない。』と私の神は仰せられる」[イザ57:21]からである。あなたに対して、何と云えば良いだろうか? 今朝も云った通り、私はあなたにあなたの心を守れと勧告することはできない。あなたに対する私の最上の助言は、あなたの心を取り除くこと、それもできる限り早くそうして、新しい心を手に入れることである。あなたの祈りはこうあるべきである。「主よ。私の石の心を取り去り、肉の心をお与えください」。しかし、私は、この聖句からあなたに語りかけることはできなくとも、別の聖句からなら語りかけることができる。あなたの心は悪くとも、別の、良い心があるのである。そして、その心の良さこそ、あなたに対する勧告の根拠である。あなたも覚えている通り、キリストは、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい」[マタ11:28]、と云われた。そして、その後の主の論拠はこのように示されるであろう。「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたのたましいには安らぎが来ます」[マタ11:29 <英欽定訳>]、と。あなたの心は高慢で、高ぶっており、どす黒く、好色である。だが、キリストの心を見るがいい。それは、心優しく、へりくだっている。そこにあなたへの励ましがある。あなたは今晩あなたの罪を感じているだろうか? キリストは心優しいお方である。もしあなたが主のもとに行くなら、主はあなたをはねつけはしない。あなたは、自分の卑しさ、また無価値さを感じているだろうか? キリストはへりくだっているお方である。主はあなたを蔑みはしない。もしキリストの心があなたの心のようだったとしたら、あなたは確実に罪に定められるであろう。しかし、キリストの心はあなたの心のようではなく、キリストの道はあなたの道のようではない。あなたの心をのぞき込むとき、あなたには何の希望も見えない。だが、キリストの心をのぞき込むとき、私には山ほどの希望が見える。
おゝ、主のほむべき心について考えるがいい。そしてもしあなたが今晩悲しみと憂いに満ちて、罪を感じながら家に帰るとしたら、あなたの部屋に行ったとき、その扉を閉めるがいい。――恐れる必要はない。――そして、あれほど優しくへりくだっていた心に語りかけるがいい。たといあなたの言葉が支離滅裂なもので、あなたの云っていることにつじつまが合わなくとも、主はそれを聞き、天のその御住まいからあなたに答えてくださるであろう。そして、主がお聞きになるとき、主は赦し、受け入れてくださるであろう。ご自分の御名のゆえに。
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いかにして心を守るか[了]
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