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大貯水池

NO. 179

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1858年2月21日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく」。――箴4:23


 もしも私がこの講話を、いたずらに高雅な文典に沿ったものにしようとするとしたら、私は今朝、人間の心を古代の都市テーバイにたとえるはずである。その百の城門からは、おびただしい数の戦士たちが行進していくのが常であった。その町にしてその軍隊があり、その町の内部的な強さがあればこそ、その町から出てきた者たちは強かった。そして私は、心を守る必要を強く訴えるであろう。なぜなら、それは私たちの人性の首都であり、私たちの人間性の要塞かつ兵器庫だからである。第一の砦が敵に降伏したら、残りの占領はたやすい仕事になるに違いない。主要な拠点が悪に占拠されれば、それによって全土が征服されるに違いない。しかしながら、そうしたことをする代わりに私は、容易に理解できるような、控え目な比喩と単純なものの例えによって、自分にできる限りのことを成し遂げようと思う。私はこの賢人の教理、すなわち、私たちのいのちの泉が心から湧き出しているという教えを述べ、そうすることで、力の限り見張って心を守るべき絶対的な必要を述べたいと思う。

 あなたは、わが国の水道会社が供している巨大な貯水池を見たことがあるであろう。これによって、何千もの街路、何万もの家々に供給される水が保持されているのである。さて、心はまさに人の貯水池であり、私たちのいのちはそのしかるべき折々に流れ出ることを許されている。いのちは異なる配水管を通って流れ出る。――口から、手から、目から。だが、それでも、手や、目や、唇から発されるすべての源泉を辿れば、それはこの偉大な水源、この中心にある貯水池、すなわち、心に至るのである。これにより、この心という貯水池をしかるべき状態と状況に保っておくべき大きな必要があることは、ごくたやすく示せるであろう。さもないと、そうした配水管を通して流れ出るものが汚れた腐敗したものとならざるをえないからである。願わくは聖霊が、いま私たちの黙想を導いてくださるように。

 ただの道徳家たちは、非常にしばしば心のことを忘れて、もっぱらそれよりも小さな力だけを扱う。彼らの中のある者らはこう云う。「もしある人の生活が間違っているとしたら、彼のふるまいの規範となっている法則を変更するのが良い。私たちは別の生き方の枠組みを採用した方が良い。社会を改造して、人が種々の美徳を明らかに示せるような機会を得させ、人を悪徳にふけらせるような誘惑を減らさなくてはならない」、と。これではまるで、貯水池に有毒な、あるいは、汚染された液体が満々と満ちているときに、どこかの賢い助言者がこう提案するようなものである。すなわち、配水管を全部撤去して、新しい配管を敷設し、水が清新な導管を流れるようにしなさい、と。だが、誰でも分かる通り、水源が汚染されているとしたら、いくら上等な導管にしてもすべては無駄である。それと同じく、人々が自分たちの人生を適応させようとする種々の規則も、また、自分を善良そうな外見に矯正しようとする方式も、無駄である。心が正しくならない限り、いかにすぐれた人生の枠組みも地に落ち、その目的を達成することはできない。他の人々は云う。「よろしい。もし生き方が間違っているとしたら、知性を正しくするが良かろう。あなたは人の識別力を訓練し、人を教育し、より良い教えを与えなくてはならない。人の頭がより良い教えを受けたならば、その人生は改善されるだろう」。さて、知性とは、もしこうした例えを用いて良ければ、種々の情緒を制御する栓のようなもので、情緒を流れ出させたり、止めたりする。これではまるで、どこかの非常に賢い人が、ある貯水池に毒が投げ込まれたときに、こう提案したようなものである。すなわち、新しい職員を雇ってその水を放水させたり止めたりさせなさい、そうすれば、問題の全体はうまく回避されるでしょう、と。だが、たとい私たちがこの人の助言に従い、この世で最も賢明な人を見つけて、この水源の管理をさせたとしても、《知性》氏はなおも私たちに健康な水流を供給することはできないであろう。最初にまず水流の元である水ためを浄化しておかない限り、それは無理である。アルミニウス主義の神学者もまた、時として人間のいのちを改善する別のしかたを示唆することがある。彼は意志に取り組む。彼によると、意志こそ何よりも先に制圧されなくてはならず、意志さえ正しくなれば、すべてがきちんとするという。さて、意志とは、水源地から水を流れ出させ、配水管を通して私たちの住まいへと至らせる巨大な機関のようなものである。この学識ある助言者の提案によると、新型の蒸気機関を設置して、その配水管に沿って水を押し出すべきである。「もし」、と彼は云うであろう。「適正な機械装置によってその水流を押し出すとしたら、すべてはうまく行くでしょう」。否。方々。もし流れに毒が入っているとしたら、たとい回転軸受けを金剛石にしても、たとい黄金製の機械を取り付けても、たとい《全能者》と同じくらい強力な動力があっても、汚染された水源をきよくしないとしたら、また、そこから流れ出るいのちの泉を浄化しないとしたら、あなたの目論見は水泡に帰すであろう。本日の聖句の賢人は、こう云っているかのように思われる。「あなたの精力を誤って適用しないように用心するがいい。正しい所から始めるように注意するがいい」。知性が正しくあることは非常に必要である。意志がしかるべき優位を占めることは不可欠である。人のあらゆる部分が健全な状態に保たれていることは非常に必要である。「だが」、と彼は云う。「もしあなたが真の聖潔を押し進めたければ、あなたは心から始めなくてはならない。というのも、いのちの泉はこれから湧くからである。それを浄化したときには、また、その水を清浄で澄んだものとしたときには、その流れは住民を浄水で祝福するだろうが、そうするまでは無理である」、と。ここで私たちは立ち止まり、厳粛で死活に関わる問いを発したいと思う。「私の心は神の御前で正しいものだろうか?」 というのも、内なる人が神の恵みにより、聖霊を通して更新されていない限り、私たちの心は腐れや、汚れや、忌まわしいもので満ちているからである。そして、もしそうだとしたら、ここにおいてこそ、私たちのあらゆる浄化作用は始まらなくてはならない。それを本物の、満足行くものにしたければそうである。更新されていない人たち。私は切に願う。ここで私があなたの耳に繰り返す、とある古代のキリスト者の言葉をよくよく考えてほしい。――「内側に悪魔と罪が巣くっている限り、外側にいかなるしるしがぶら下がっていようと――それが御使いのしるしでも――何の意味もない。古い衣裳に新しい飾りを付けても、それが新しくなるわけではなく、新しそうな見かけになるにすぎない。また、実際、じきに、ずたずたに裂けて、ぼろぼろになるような古着を繕うことに多大な費用をかけるのは、決して上手な暮らし方ではない。もう少し金銭をかければ、長持ちする新しい服が買えるのである。では、新しい心を得るように労し、あなたの行なうすべてが受け入れられるようにする方が、キリスト教信仰においてあなたが精を出したすべてのことを失い、新しい心を欠くためにあなた自身をも失うよりずっとましではないだろうか?」

 さて、あなたがた、主を愛する人たち。あなたの心という貯水池にあなたを連れて行かせてほしい。そして、その心を正しく保っておくべき大きな必要性を強く訴えさせてほしい。さもなければ、あなたはあなたの人生の流れを、あなた自身にとって幸いなもの、また、他の人々に益をもたらすものにすることができないのである。

 I. 第一に、心は満たしておく必要がある。中央貯水池の水がいかにきよらかであっても、貯水池そのものに水が満ちていないとしたら、水道会社が私たちに豊富な給水を行なうことは不可能である。水源地が空っぽだとしたら間違いなく配水管も空っぽとなる。では、いかに正確な機械装置があろうと、いかに他のすべてが整然と秩序だっていようと、貯水池が枯渇しているとしたら、私たちの必要とする水をいくら待っても無駄であろう。さて、あなたの知っている多くの人々は――(確かにあなたは、あなたの友人知己の間で、そうした人々と出会うに違いない。というのも、そうした知り合いがいないほど幸せな人を私はひとりとして知らないからである。)――、からからに乾いた人生を送っており、何の役にも立たないうつろさをかかえている。彼らは決して何事も成し遂げない。何の精神力も持っていない。何の道徳力もない。彼らの言葉は、誰も気にとめない。彼らの行なうことは、ほとんど誰も見習おうとしない。私たちの知っているある父親たちは、その道徳的な力があまりにも浅ましいものであるため、彼ら自身の子どもたちでさえほとんどそれを見習うことがありえない。子どもには大人の真似をしようとする強い傾向があるが、その彼らすら、幼いながらも無意識のうちに感じとっているのである。自分たちの父親は、結局は自分たちのような子どもでしかなく、成人しきっていないのだ、と。あなたの知っている多くの人々は、たとい何らかの運動を信奉し、務めをゆだねられたとしても、間違いなくそれを破綻に導くに違いない。それは、総じれば失敗となるであろう。彼らをあなたの事務所の職員にすれば、あなたの仕事がだいなしになるにほぼ決まっている。彼らを雇ってあなたの事業の1つを管理させるとしたら、確実に彼らは有り金を全部使い果たすが、一銭たりとも儲けを出さないに違いない。もし彼らが何箇月か快適な環境に置かれたとしたら、彼らはすべてが失われるまで無頓着に過ごすであろう。彼らは愚図なのろまでしかなく、頭の切れるこの世の人々から食い物にされてしまう。彼らには男らしい強さが全くなく、何の力もない。キリスト教界における、こうした人々を見るがいい。彼らの教理的意見などどうでも良い。彼らは確かに他の人々の精神に全く何の影響も及ぼさないに違いない。彼らを講壇に立たせてみるがいい。彼は執事たちの奴隷となるか、教会によって引き回されてしまう。彼らは決して自分自身の意見を持たず、何事も打ち出すことがない。彼らは、「これはこれこれであり、私はこれと知っている」、と云う勇気がない。こうした人々はだらだらと生き続けるが、この世にとってどれだけ用いられるかという点に関して云えば、他の人々によって養われること以外、全く創造されなかったも同然である。さて、ある人々は、これは人々の頭に欠陥があるためだと云うであろう。「そういう人は」、と彼らは云う。「うまくやって行けないのだ。その頭が小さいのだ。彼が成功することは全く不可能だったのだ。頭が小さすぎたのだ。彼には何もできなかっただろう。十分な精神力がなかったのだ」、と。さて、それは真実かもしれない。だが私は、それよりもずっと真実なことを知っている。――彼には小さな心しかなく、その心は空っぽだったのである。というのも、よく聞くがいい。この世におけるある人の精神力は、その他の事がらが同等である場合には、彼の心の精神力と強さに正比例するからである。心の充実した人は常に力強い人である。たとい考え方が間違っているとしても、彼は力強い間違いの味方となる。もしそれを彼が心にかけるとしたら、彼は確かにそれを名高いものとするに違いない。それがいかに徹底した偽りであってさえ関係ない。ある人がこれ以上ないほど無知であっても、もし彼が、ある運動への愛で満ち満ちているとしたら、彼はその目的を力強く推進する人となる。なぜなら、彼には心の力があり、心の精神力があるからである。人は、教育から得られる多くの利点に欠けているかもしれない。社会の中に多々見られる優雅さの多くに欠けているかもしれない。だが、いったんその人が健全な強い心、困難にも耐え抜く心を有したが最後、彼の力には全く何の間違いもない。彼が、ある目的によって満々と心を満たしている場合、その人はそれを成し遂げるであろう。そうでないとしても、栄光ある敗北を喫し、その敗北において栄光に輝くであろう。《心は力である》。人々の心のうつろさこそ、彼らをあれほど虚弱にしているものである。この人々は、自分が手がけていることを心にかけていない。さて、自分の仕事に心と魂をあげて打ち込む人は、たいがいは他の誰よりも成功するものである。それこそ、私たちの欲する説教者である。魂の満たされている人である。その人には頭が必要である。――より多く知っていればいるほど良い。だが、結局、彼は大きな心をしていなくてはならない。そして、彼の心が脈打つときに、その心が満たされているとしたら、それは神の下にあって自分の会衆の心をも彼にならって脈打たせるか、彼らにこう自覚させるであろう。彼は、われわれを自分の後について来させようとして労苦しているのだ、と。おゝ! もし私たちが私たちの《主人》の奉仕により心を込めるとしたら、いかにより大きな労苦を忍ぶことができるであろう。青年よ。あなたは《日曜学校》の教師である。そして、《日曜学校》でうまくやれていないと愚痴をこぼしている。だが、もしも心が満たされているとしたら、その配給管からは大量の水が放水されるであろう。ことによると、あなたは自分の働きを愛していないかもしれない。おゝ、もっとあなたの働きを愛するようにするがいい。そうすれば、あなたの心が満たされたときには、あなたは相当うまく進むようになるであろう。「おゝ」、と説教者は云う。「私は自分の働きにうんざりしている。説教してもほとんど成功しない。これは私にとってつらい骨折り仕事だ」。そうした問いに対する答えはこうである。「あなたの心がそれで満たされていないのだ。もしあなたが説教することを愛しているとしたら、あなたは説教を呼吸し、説教を自分の糧とし、説教を追求しようというやむにやまれぬものを感じていたであろう。そして、あなたの心がそうしたことで一杯になっているとき、あなたはこの仕事において幸せになるであろう」。おゝ、充実していて、広々としていて、深くて、広い心があればどんなに良いことか! そうした魂を有する人を見つけるとしたらどんなに良いことか! そうした人こそ、生きた水が湧いて流れる人であり、その清新な流れによって世界を喜ばせる人である。

 ならば、心を満たしておく必要を学ぶがいい。そして、この必要によって自分にこう問いを発するがいい。――「しかし、いかにすれば私は自分の心を満たしておけのだろうか? いかにすれば私の種々の情緒を強くできるだろうか? いかにして私は私の願いを燃やしておき、私の熱心の炎を赤々とあおり立てておくことができるだろうか?」 キリスト者よ! これらすべてを説明する1つの聖句がある。「私の泉はことごとく、あなたにある」、とダビデは云う[詩87:7]。もしあなたの泉がことごとく神にあるとしたら、あなたの心は十分に満ち足りるであろう。もしあなたがカルバリの根元に行くならば、そこであなたの心は愛と感恩に浸るであろう。もしあなたが足繁く退隠の谷を訪れ、そこで神と語り合うとしたら、そこにおいてこそあなたの心は穏やかな決意に満ちるであろう。もしあなたがあなたの《主人》とともに橄欖山に行き、主とともに1つの邪悪なエルサレムを見下ろして、主とともにその町のために泣くとしたら、そのときあなたの心は不滅の魂たちへの愛で満ちるであろう。もしあなたが本当に絶えずあなたの衝動を、あなたのいのちを、あなたの存在のすべてを聖霊から――あなたが何をするにも欠かせないこのお方から――引き出すとしたら、また、もしあなたが本当にキリストとの親密な交わりの中に生きているとしたら、あなたが乾いた心を持つ恐れは全くないであろう。祈りなしに生きている人――僅かしか祈らずに生きている人――みことばをめったに読まない人――いと高き所からの清新な影響力を求めて天を仰ぎ見ることをめったにしない人――そうした人は、その心が乾いて不毛になる人であろう。だが、隠れた所で自分の神に訴えている人――聖なる退隠に多くの時を費やす人――《いと高き方》のことばに思いをひそめることを楽しみとする人――魂がキリストにささげられている人――主の満ち満ちた豊かさを楽しみ、主のすべてを満ち足らす豊かさを喜び、主の再臨を祈り求め、主の栄光に富む来臨を楽しみにしている人――そうした人こそ、私は云うが、満ちあふれる心を有するに違いない。そして、その心と同じく、その人生もそうなるであろう。それは充実した人生となるであろう。その墓所から語りかけ、未来にこだまする人生となるであろう。「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ」。そして、聖霊がそれを満ちたものに保ってくださるよう懇願するがいい。というのも、そうしなければ、あなたのいのちの泉はかすかで、浅く、薄いものとなり、あなたは生まれてこなかったも同然となるだろうからである。

 2. 第二に、わが国の水道会社が自分たちの貯水池を一杯にしていたとしても、もし彼らがそれをきよく保つことをもしていなかったとしたら、何にもならないであろう。私は、ある田舎町の新聞で、次のような苦情を読んだことを覚えている。すなわち、ある商人は、しばしば水道会社から魚を供給され、大きな鰻がのたくりながら水道管から出てきたり、時にはもっとぞっとしない生き物が出てくるというのである。私たちの身にも覚えのあることである。水道会社は水晶のような清水を供給すべきなのに、じゃりじゃりした固体が混じっているのである。さて、それを好む者はいない。貯水池はきよく、清潔に保たれなくてはならない。そして、その水がきよい泉から出て来ておらず、心身にとって有害な物質の含有から免れていない限り、貯水池がいかに満杯であっても、その会社は顧客を満足させることも、恩恵を施すこともできないであろう。さて、水道会社がその貯水池に対してそう行なわなくてはならないのと同じく、私たちが自分の心に対してそう行なうことは絶対に欠かせないことである。私たちは自分の心をきよく保たなくてはならない。というのも、心がきよくない場合、人生がきよくなることはありえないからである。それは不可能である。あなたには、その生き方全体が不潔で不浄なひとりの人が見える。彼が口をきくとき、彼は自分の言葉遣いを汚れた悪態で飾る。彼の精神は下劣で卑しい。不正なことしか彼にとって甘美ではない。というのも、彼には犬小屋や地下牢以上の魂がないからである。あなたの出会う別の人は、上品な生き方を破るようなことを避けるだけの知性はあるが、それでもそれと同時に、不潔なものを好んでいる。いかなる下卑た冗句であれ、また、それと同じような不浄な考えをかき立てるいかなるものであれ、まさに彼が願い求めるものなのである。というのも、神の道は彼にとって全く楽しめないからである。神の家の中で彼には何の楽しみもないし、神のみことばを彼は全く喜べない。何がその原因だろうか? ある人は云うであろう。それは、彼の家族とのつながりのせいだ。――彼が立っている立場のせいだ。――彼の幼少期の教育のせいだ、等々と。否、否。その単純な答えは、私たちがもう1つの問いかけに対して返した答えである。心が正しくないのである。というのも、もし心がきよかったなら、人生もきよくなっただろうからである。きよくない流れは、水源がいかなるものかを明らかにしている。老クリスティアン・スクライバーがドイツの寓話を集めた一冊の貴重な本には、次のような素朴なたとえ話が収録されている。――「一杯の飲み物がゴットホルトの所に持って来られた。それには、飲み物を入れた器の味がついていた。それで彼はこう述べた。ここにあるのは、わしらの思いと、言葉と、行ないの象徴じゃ。わしらの心は罪によって汚れておる。それで、罪深さの汚れは、不幸にもわしらが手に取るあらゆるものにへばりついておるのじゃ。そして、習慣の力によって、これはわしらには感知できないとはいえ、全知にして聖なる、また義なる神の目を逃れることはできんのじゃ」。私たちの肉欲や、貪欲や、高慢や、怠惰や、不信仰はどこから来るのだろうか? それらはみな私たちの心の腐敗へと辿りつくではないだろうか? 時計の針がでたらめなしかたで動いているとき、また、その鐘が間違った時間に鳴るとき、中身がどこか狂っていることは確実である。おゝ、いかに私たちの種々の動機の主ぜんまいがしかるべき状態にあり、その大歯車が正しい位置にある必要があることか。

 あゝ! キリスト者よ。あなたの心をきよく保つがいい。だが、あなたは云うであろう。「いかにすれば、そうできるのですか?」 よろしい。マラという古い川があった。そこに砂漠で喉の渇いた巡礼たちがやって来て飲もうとしたが、それを味わってみると、それはあまりにも不味くて、彼らの舌がたいまつのようになっていたにもかかわらず、また、彼らの上あごが熱でからからに乾いていたにもかかわらず、その苦い水を飲むことはできなかった。あなたは、モーセがいかなる治療を施したか覚えているだろうか? それは、私たちが今朝あなたに処方する治療法である。彼は、とある木を取って、それをその水の中に投げ込んだ。すると、その水は甘く、清浄になったのである[出15:23-25]。あなたの心は生まれながらにマラの水のようであり、苦く、汚れている。そこに一本の木がある。あなたもその名を知っているであろう。それは《救い主》がおかかりになった木、十字架である。その木を取って、あなたの心に入れるがいい。それはマラ以上に汚れ果ててはいるが、聖霊によって適用されるときこの甘やかな十字架は、たちまちそれを自らの性質に変え、きよくするであろう。心におけるキリスト・イエスは、甘やかなきよめである。主は私たちにとって、聖めとされている[Iコリ1:30]。エリヤは塩を水に入れた[II列2:21]。いったん私たちがイエスを知り、愛するならば、また、いったん主の十字架が私たちの崇敬の的となり、私たちの楽しみの主題となるなら、心はその浄化を始め、人生もまた、きよくなるであろう。おゝ! 私たちがみな、十字架を心に据えつけるという神聖な教訓を学ぶとしたらどんなに良いことか! キリスト者である人よ! あなたの《救い主》を今以上に愛するがいい。聖霊に叫び求めるがいい。あなたが、イエスへのより深い愛情を持つことができるようにと。そして、そのとき、いかにあなたの罪が利を生むものであるとしても、あなたはこの詩人とともにこう云うであろう。

   「いま愛ゆえに われ御名を帯び
    利益(とく)たりしもの 損とせん。
    かつての誇り わが恥と呼び、
    わが誉れを主の 十字架につけん」。

心における十字架は、魂の清浄器である。それは精神の種々の小部屋を掃き清める。キリスト者よ! あなたの心をきよく保つがいい。「いのちの泉はこれからわく」からである。

 3. 第三のこととして、わが国の水道会社が決して大きな注意を払う必要のないことが1つある。すなわち、もしも彼らの水がきよく、その貯水池が満ちているとしたら、彼らはそれが穏やかで静かであるように保つことを気にかける必要はない。というのも、たとい嵐でそれがかき乱されても、水道からは普段と全く同じ状態の水が供給されるからである。しかしながら、心はそうではない。心が穏やかに保たれていない限り、人生は幸いなものとならないであろう。静穏さが魂の内なる湖を支配していないと、魂から私たちのいのちの川が送り出されている以上、その川そのものも常に嵐の中にあることになるであろう。私たちの外側の行為は常に、それ自体が荒れて波立っていることによって、大嵐の中で生まれたことを明らかにするであろう。このことを私たちは、最初に、私たち自身に関して理解しておこう。私たちはみな、喜ばしい生活を送りたいと願っている。輝いた目と、軽やかな足どりこそ、私たちが誰しも願うことである。満ち足りた思いをかかえて生きることは、ほとんど人々が絶えず憧れることである。私たちはみな思い起こすことにしよう。私たちの人生を穏やかで幸いなものに保つ唯一の道は、心を安らかに保つことである、と。というのも、貧しくなろうと裕福になろうと、誉れを受けようと恥辱を受けようと、物があふれようと乏しくなろうと、心が静かであるとしたら、至る所に幸福はあるものだからである。しかし、陽射しと輝きがいかに降り注ぐ所であっても、心に悩みがあるとしたら、人生全体もまた悩みをかかえざるをえない。ドイツの殉教者列伝の中には、ある甘やかな物語がある。それは私がここで語り、あなたがたが記憶にとどめるに値するものである。ひとりの聖なる殉教者が、長い間牢獄の中に入れられており、彼を見る者すべてを驚かせることに、この上もない平静さと忍耐を保っていた。だが、ついに処刑の日が来て、彼は引き出され、火刑柱に縛りつけられ、火が点ぜられるのを待つばかりとなった。この立場にありながら、彼は、もう一言だけ判事に話をさせてほしいと懇願した。判事は、スイスの習慣に従い、処刑にも立ち会わなくてはならなかったのである。何度も拒否した後で、とうとう前に進み出てきた判事に向かって、この農民はこう語りかけた。『あなたは、きょう私を死へと宣告しました。さて、私は自分があわれなな罪人であると存分に認めます。ですが、私が異端者であることはきっぱり否定します。なぜなら、私は自分の心から《使徒信条》におさめられているすべてのことを信じ、告白しているからです。(その使徒信条を彼はここで初めから最後まで繰り返した)。さて、判事殿』、と彼は言葉を続けた。『私には、最後に1つだけ頼みがあります。それは、あなたがここへ来て、あなたの手をまず私の胸に当てて、それからあなた自身の胸に当ててから、この大勢の集会の前で、率直に、また、真実に宣言してほしいのです。恐れと不安のために激しく動悸を打っていたのはどちらの胸であったかを。私としては、この世をいそいそと、喜びをもって去って行き、キリストとともにいることになりましょう。このお方を私は常に信じていました。あなたが今の瞬間どう感じているかは、あなた自身が一番良くご存知です』。その判事は一言も答えることができず、人々にすぐさま薪に火を点けるよう命令した。しかしながら、彼の顔つきから、彼の方が殉教者よりも恐れていたことは明らかであった」。

 さて、あなたの心を正しく保つがいい。それがあなたを痛めるようにしてはならない。聖霊はダビデについてこう云っている。「ダビデは心を痛めた」[Iサム24:5]。心の痛みは、善良な人にとっては拳で荒々しく殴られること以上に大きな苦痛である。それは感じとることのできる打撃であり、魂に突き入る鉄である。あなたの心を落ち着いた気分にしておくがいい。それにあなたと戦いを演じさせてはならない。人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたの心と思いをキリスト・イエスにあって守る[ピリ4:7]ことを求めるがいい。あなたの膝を夜かがめ、罪を完全に告白するとともに、キリストを信じるあなたの信仰を云い表わすがいい。そうすれば、あなたは、「墓をば寝床 ほどにも恐れじ」である。朝早く起きて、あなたの心を神にささげ、完璧な愛と聖なる信仰という甘やかな御使いたちをそこに置くがいい。そうすれば、あなたはこの世に出て行くことができ、たといそこに獅子や虎がうようよいるとしても、もはや獅子の穴に投げ入れられたダニエルほどにも世を恐れることはないであろう。心を穏やかに保てば、あなたの人生は幸いになるであろう。

 第二のこととして、覚えておくがいい。これは他の人々に関しても全く同じである。望むらくは、私たちはみな静かな生活を送りたいと願っており、それと同じくらい私たちの中には、すべての人々と和合して暮らしたいという願いがあると思う。世の中には特別な種類の人々がいて――私は彼らがどこから来たか分からないが、いま彼らは英民族と混合し、そこここで私たちと出くわすことがある。――ただ戦うためだけにしか生まれて来なかったように思われる。――常に争っており、決して満足することがない。彼らによると、すべての英国人には多少ともそうしうところがあるという。――私たちは何か不平をこぼすことがない限り決して幸せにならず、私たちに対してなされる最悪のことは、私たちが不平も云えないような娯楽を供されることだという。なぜなら、私たちは、自分の英国人気質を明らかに示す機会が得られなかったことにより、致命的に傷つけられるからである。これは、私たち全員に当てはまるかどうかは分からないが、一部の人々には当てはまることである。あなたが彼らと同じ部屋に座っていると、決まって彼らはあなたが彼らと意見を異にするに決まっているような話題を持ち出してくる。彼らと一緒に半哩も通りを歩くと、彼らは決まって自分の見た誰か、あるいは何かに対する感想を口にする。彼らは教役者たちについて語る。ある人の教理はあまりにも高踏的すぎる。別の人の教理はあまりにも低踏的すぎる。ある人は、彼らによるとはなはだしく柔弱で神経質に細かすぎ、別の人は粗野なので全く話など聞けない。別の人について、彼らは、信徒の訪問にあまりに身を入れていないと考える。別の人について云えば、訪問しすぎていて、全然講壇のための準備をしていない。彼らにとって正しい人などありえない。

 これはなぜだろうか? どこからこのような絶え間ない不機嫌さが生じているのだろうか? やはり心が答えを供さざるをえない。彼らは内側の部分が気難しくむっつりしているため、彼らの話がそれをあばいてしまうのである。彼らの心は、神がひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせた[使17:26]と感じさせられていない。あるいは、それを感じているとしても、一度も自分の心の中でこう綴るよう導かれていないのである。――「もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです」[ヨハ13:35]。他の十のうち何がそこに記されていようと、十一番目の戒めは一度も書かれてはいない。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい」[ヨハ13:34]。これを彼らは忘れてしまったのである。おゝ! 愛するキリスト者の方々。あなたの心が愛で満たされることを求めるがいい。そして、もし今までのあなたが、自分の教派を越えて広がるような愛はいだけないほど小さな心しか持っていなかったとしたら、あなたの心を大きくして、地上の居住可能な地域すべてにわたる神の民全員に対して給水管を送り出せるほど大きな愛を持てるようになるがいい。真に天の相続人として生まれた、いずれかの人と出会うときには常に、その人が蛇口を捻りさえすれば、あなたの愛に満ちた心が真に熱烈で、伸びやかな、また、自発的で、生きた愛の泉を流し始めるようになるがいい。あなたの心を穏やかなものに保つがいい。そして、あなたの人生が穏やかになるようにするがいい。というのも、いのちの泉は心から湧くからである。

 これはいかにしてなされるべきだろうか? やはりこう答えよう。私たちは聖霊が心を穏やかにしてくださるよう願い求めなくてはならない。ガリラヤ湖の上で嵐に向かって、「静まれ」[マコ4:39]、と云われた御声だけが、嵐のように騒ぐ心の荒波を鎮めることができるのである。《全能者》の御力だけが人間性の暴風を静めることができるのである。主に向かって大声で叫ぶがいい。主はご自分の教会とともに舟の中でまだ眠っておられる。目を覚ましてくださいと願うがいい。あなたの敬神の念が闘争の波間で溺れ死んではいけない。主があなたの心に平安と幸福を与えてくださるよう叫び求めるがいい。そのとき、あなたの人生は穏やかなものとなる。あなたの人生が苦難の中にあろうと、喜びの中にあろうと関係ない。

 4. もう少し先に進もう。水道会社がその貯水池に膨大な量の水を集めたとき、彼らが常に注意しなくてはならないことが1つある。すなわち、あまりにも手を広げすぎないように気をつけなくてはならない。さもないと、水不足を招くことになるであろう。かりに彼らが一本の大主管をある場所に敷設して、1つの町に水を供給しようとし、別の主管を敷設して別の町に供給しようとしたとする。すると一本の水路を満たすための給水源が複数の流れにそらされることとなり、その結果どうなるだろうか? 何と! 何事もうまく行かず、誰もが不平の種をかかえることになるであろう。さて、人の心も結局はごく小さなものであって、その生きた水が絶えず流れることのできる大きな方角は1つしかない。そして、この聖句からあなたに与える私の四番目の助言は、あなたの心が分割されないように守れ、ということである。あなたが、1つの湖を目の当たりにしているとしよう。そして、そこから二、三十本の細流が流れ出ているとしよう。何と、その地方全体には全く何の大河も流れないであろう。そこにはいくつかの小川があるが、夏になると涸れてしまい、冬になると一時的に急流となる。それらは一本残らず、大きな目的のためには役立たずである。その湖には、一本の大河に水を供給するだけの水量しかないからである。さて、人の心の中には、完全には1つの目的を追求するだけのいのちしかない。あなたがたは、あなたの愛の半分をキリストにささげ、他の半分をこの世にささげてはならない。いかなる人も、神にも仕え、また富にも仕えるということはできない[マタ6:24]。なぜなら、心には二者に仕えるに足るいのちがないからである。悲しいかな! 多くの人々はこのことを試み、どちらの道でも失敗する。私の知っているある人は、自分の心の一部をこの世に流れ出させ、別の部分を教会の中にポタポタと滴らせようとしていたが、その結果はこうであった。彼が教会の中に入り込んだとき、彼は偽善者ではないかと疑われた。「何と」、と人々は云った。「もし彼が本当に私たちとともにいるとしたら、昨日したようなことをしでかしておきながら、きょう、ここへやって来ては、ご大層な告白ができるだろうか?」 教会は彼を疑わしい目つきで眺める。あるいは、たとい彼が教会の人々を欺くとしても、教会の人々は、彼が自分たちにとって大して役に立たないと感じる。なぜなら、人々は彼の心のすべてを得ていないからである。この世における彼のふるまいはいかなる結果となるだろうか? 何と、彼のキリスト教信仰がそこでは彼にとって枷となる。この世は彼を自分たちのものと認めようとはせず、教会は彼を自分たちのものと認めようとはしないであろう。彼は両者の間を行こうと欲して、両者から軽蔑される。私の見たことのある、町通りの両側を歩こうとする唯一の人は、酔っ払いだけである。彼はそれを試みた。そして、それは実際、非常にぶざまな行ないであった。だが私は多くの人々が道徳的な観点から町通りの両側を歩こうとするのを見てきた。そして私は、彼らのうちにはある主の酩酊があるのだと思った。さもなければ、彼らはそれを非常に愚かなこととしてあきらめていたであろう。さて、もし私が世と、世にある種々の快楽とを、求めるに値するものだと考えたとしたら、私はそれを求め、それを追って行くであろう。そして、宗教的なふりなどしないであろう。だが、もしキリストがキリストであり、神が神であるとしたら、私たちは自分の全心を神にささげて、この世と半分ずつ分けたりしないようにしようではないか。多くの教会員たちは次のようなしかたで町通りの両側をどうにか歩いている。彼の太陽は実際非常に低い。それは大して多くの光も熱も発さず、今やって来たかと思うと、ほとんどすぐに沈んでしまう。さて、日没時の太陽は長い影を落とす。そして、この人は町通りのこの世側に立って、長い影を路の向こう側まで落とし、ちょうど舗道を越えたあたりの向かい側の壁に達させている。左様。私たちは、それだけしか、あなたがたの中の多くの人々から得ていないのである。あなたはやって来ては、聖餐のパンと葡萄酒を受ける。あなたはバプテスマを受けては、教会に加わる。だが私たちが得るのはあなたの影だけであり、あなたの実体は、結局は町通りの向こう側にあるのである。人間の空蝉など何の役に立つだろうか? だがしかし、私たちの教会員の多くは、それとほぼ変わりないのである。彼らはまるで蛇がその抜け殻を残して行くようなものである。彼らは私たちに自分の抜け殻を与える。自分の皮を、かつてはいのちが入っていた蛹の殻を与える。それから彼らは自分自身の気まぐれな思いに従ってあちらこちらをほっつき歩く。彼らは私たちに外側を与え、それからこの世に中身を与える。おゝ、キリスト者よ。いかにこれは愚かなことか! あなたの主人はあなたのためにご自分を完全にささげられたのである。あなた自身を留保なしに主にささげるがいい。代金の一部[使5:2]を残しておいてはならない。あなたの心のあらゆる動きを完全に明け渡し、ただ1つの目標、唯一の目当てを持つように労苦するがいい。そして、この目的のために、あなたの心の守りを神にゆだねるがいい。聖霊の天来の影響力をさらに叫び求めるがいい。そのようにして、あなたの魂が御霊によって保たれ、保護されるときに、それが1つの水路にだけ方向づけられるようにするがいい。あなたのいのちが深く、きよく、清浄で、穏やかな流れとなるようにするがいい。その唯一の土手は神のみこころであり、その唯一の水路はキリストの愛およびキリストを喜ばせたいという願いである。このようにスペンサーははるか遠い昔に書いている。「実際、生まれつき人の心は非常に分割された、壊れたものである。それは、ばらまかれてはこの被造物に一片が分配され、あの情欲に一片が分配される。人は、この虚栄が彼を雇っている間は(レアがラケルのヤコブを雇ったように)、そのための単調な骨折り仕事を何かし終えると、直ちに別のものへと自分を賃貸しする。このように人とその情愛は分裂しているのである。さて神は、ご自分が尊い器[ロマ9:21]とすべく定め、その聖なる御用と奉仕のために聖別された選民をみことばの火に投じ、そこで柔らかくされ、溶かされた彼らを、ご自分の変容させ給う御霊によって、いわば新しく聖なる一体性へと、鋳造し直される。それは、以前は神から分裂し、被造物と、自らの情欲との間に失われ、彼らによって山分けにされていた者が、今やそれらすべてから神へと自らの心を集められ、健全な目[マタ11:34]で神を眺め、自分が行なうすべてにおいて神のために活動するようになるためである。それゆえ、果たしてあなたの心が真摯かどうか知りたければ、それがこのように新しくされているかどうか問いかけるがいい」。

 5. さて、私の最後の点は、ことによると、いささか奇妙なものかもしれない。昔、わが国の王たちのひとりが虜囚から帰ってきたとき、古の歴史家たちが私たちに告げるところ、チープサイドには葡萄酒が流れる泉があったという。その王は非常に寛大であり、その民は非常に喜んでいたため、彼らは水の代わりに葡萄酒が誰にでも無料で流れるようにしたのである。さて、ある方法によれば私たちの人生は、非常に豊かなもの、非常に充実したもの、非常に同胞たちのために祝されたもの、この比喩が私たちに当てはまるほどのものとなるのである。そのとき人々は云うであろう。他の人々のいのちは水とともに流れているが、私たちのいのちは葡萄酒とともに流れている、と。あなたがたは何人かそうした人々を知っている。ハワードのような人物がいる。ジョン・ハワードの人生は、私たちのようにあわれな、平々凡々たる人生ではなかった。彼は途方もなく慈悲深く、人類に対する彼の同情は途方もなく無私のものであったため、彼のいのちの流れは、芳醇な葡萄酒のようであった。あなたは別の人を知っている。それは、ひとり卓越した聖徒であり、イエスに非常に近く生きていた人である。あなたが話をすると、あなたは自分のいのちがあわれな、水っぽいしろものだと感じた。だが、彼があなたに話をするときには、彼の言葉には油注ぎと香気があり、彼の発言には充実した中身と強さがあり、あなたは、自分ではそこに達することができなくとも、それを見分けることはできた。そしてあなたは、時としてこう云ってきた。「私の言葉もあれほど充実し、あれほど甘やかで、あれほどよく練れた、また、あれほど油注ぎの満ちたものだったならどんなに良いことか! おゝ! 私の活動も、誰それ氏と全く同じくらい豊かで、あのくらい際立った生気に満ち、あのくらいきよい趣のあるものだったならどんなに良いことか。あの人の気高い境地にくらべれば、私にできるいかなることも僅かで、空虚にしか見えない。おゝ、私にもっと多くのことができたなら! おゝ、私があらゆる家に、私のあわれな金滓の代わりに、純金の流れを送ることができたなら」。よろしい。キリスト者よ。このことによってあなたは、自分の心を豊かなもので満たしておくことが教えられるであろう。決して、決して神のことばをないがしろにしてはならない。みことばは、あなたの心を戒めで豊かにし、さとしで豊かにするであろう。そしてその時、あなたのいのちは、それがあなたの口から流れ出るとき、あなたの心のように豊かで、油注ぎに満ちた、香気あるものとなるであろう。あなたの心を豊かで、寛大な愛で一杯に満たすがいい。そうすれば、あなたの手から流れ出る流れは、あなたの心と全く同じように豊かで、寛大なものとなるであろう。何にもまして、イエスにあなたの心の中で生きていただくようにするがいい。そうすれば、あなたの心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる[ヨハ7:38]。それはヤコブが飲んだスカルの井戸の水よりもずっと豊かで、ずっと満ち足らすものである。おゝ! 行くがいい。キリスト者よ。この富の偉大な宝庫のもとに行き、聖霊に向かって、私の心を豊かにし、救いへと至らせてくださいと叫ぶがいい。そのようにするとき、あなたの人生と生活は、あなたの同胞たちにとって恩恵となるであろう。そして、彼らがあなたを見るとき、あなたの顔は神の御使いのように見えるであろう[使6:15]。あなたの足は乳で洗われ、あなたの足跡は油で洗われる[ヨブ29:6]。町の門で座っている者たちは、あなたを見ると立ち上がり、人々はあなたに礼をするであろう。

 しかし、もう一言だけ云わせてほしい。それで話を終えよう。あなたがたの中のある人々の心には見守るべき価値がない。その心は、一日も早くお払い箱にすればするほど良い。それは石の心である。あなたはきょう、自分に石のような心があると感じているだろうか? 家に帰るがいい。そして、願わくは主が私の願いを聞いてくださり、あなたの汚染された心が取り除かれるように。神に叫び求めて云うがいい。「私の石の心を取り去って、私に肉の心をお与えください」、と。というのも、石の心は不浄な心であり、分割された心であり、穏やかでない心だからである。それは、あわれな極貧の心、いかなる善もない心である。そしてあなたは、あなたの心がそのようなものだとしたら、自分をも、他の人々をも祝福することはできない。おゝ、主イエスよ! あなたがこの日、多くの心を更新していただけないだろうか? その岩を粉々に砕き、石の代わりに肉を入れていただけないだろうか? あなたが代々限りなく栄光を受けるように!

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大貯水池[了]

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