HOME | TOP | 目次

最初の降誕祭祝歌

NO. 168

----

----

1857年12月20日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」。――ルカ2:14 


 御使いたちを礼拝するのは迷信的なことである。だが、彼らを愛するのは、きわめて当然である。いかに並外れた御使いであっても、それを崇拝するのは《天の主権の王宮》に対する大逆の罪であり、あるべからざる行ないであるが、私たちの心の熱い情愛の中に、聖い御使いたちのための場所を全く設けないのは、無情で不当なことであろう。実際、御使いたちの性格について熟考し、彼らが人間たちに対して行なってきた数々の同情に満ちた行為や、親切なわざに注目する人には、抵抗しがたい衝動が自然とわき起こるに違いない。――彼らを愛したいという衝動である。御使いたちの歴史の中でも、本日の聖句が言及している事件は、私たちの心を永遠に彼らに結びつけるに足るものである。何と彼らがねたみとは無関係であることか! 彼らの同輩たちが堕落したとき、キリストは天から下ってそれを救おうとはされなかった。かの強大な御使い、サタンが天の星々の三分の一を自らに引き寄せたとき[黙12:4]、キリストは彼らのためにその御座から降りて死のうとはされなかった。むしろ彼らが、最後の大いなる日のために束縛と暗やみの下に閉じ込められるままにされた[ユダ6]。それでも、御使いたちは人間たちをねたまなかった。彼らは、主が御使いを助けなかったことを覚えていながら、主がアブラハムの子孫を助けた[ヘブ2:16]ことにつぶやかなかった。ほむべき《主人》は決してへりくだって御使いの形を取ることがなかったが、彼らは、主人が幼子のからだを身にまとうのを見いだしたときに喜びを表わしては自分たちの沽券にかかわるなどとは考えなかった。また、いかに彼らが高慢とも無縁であったことか! 彼らは、卑しい羊飼いたちにこの知らせを告げるためにやって来ることを恥じなかった。思うに彼らがその夜、羊の群れの番をしていた羊飼いたちの前で歌を注ぎ出す際に感じた喜びは、カエサルの大広間でその賛美歌を歌うようにとの命を《主人》から受けていた場合にもおさおさ劣らなかったであろう。ただの人間たち――高慢にとらわれた人間たち――は、王や君主たちの前で説教することを素晴らしいことと考える。そして、たまに卑しい群衆に向かって語らなくてはならないようなことがあると、それを非常な屈辱と思う。御使いたちはそうではない。彼らは快くその翼を張り伸ばし、上にある彼らの輝く座から喜んで急行しては、夜の野原にいた羊飼いたちに、《受肉した神》という素晴らしい物語を告げた。そして、彼らがその物語をいかに見事なしかたで告げたかに注目すれば、あなたは彼らを愛するに違いない! 彼らは、自分には何の関心もない話を告げている人のようにもぐもぐと語ってはいない。他人の熱情を動かそうとしていながら、自分では何も感動していない人のように、関心があるふりだけをしているのでもない。むしろ、御使いにしか知りえない喜びと歓喜をもって告げている。彼らはその物語を歌った。のろのろと、鈍重な散文でなど云っていられなかったからである。彼らは歌った。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」。目に歓喜をきらめかせ、心を愛で燃え立たせ、喜びで胸をふくらませながらそう歌ったと私は思う。それは、人間に対する良き知らせが、自分たちのための良き知らせであるかのようであった。そしてまことに、それは彼らにとって良き知らせであった。というのも、同情の心は他者にとっての良い知らせを自らにとっての良い知らせとするからである。あなたは御使いたちを愛さないだろうか? あなたがたは彼らの前に額ずきはしないだろうし、その点であなたがたは正しい。だが、あなたがたは彼らを愛したくはないだろうか? これは、天国についてあなたが思い描く姿の一部とならないだろうか? 天国であなたは、全うされた義人たちの霊たちのみならず、聖い御使いたちとともにも住むのである[ヘブ12:22-24]。おゝ、こう考えることは何と甘やかなことであろう。こうした聖く、愛らしい存在たちが、常に私たちの守護者となっているのである! 焼きつくような真昼にも暗黒の夜にも、彼らは私たちの番をし、私たちを保護してくれている。彼らは、すべての道で私たちを守り、その手で私たちを支え、私たちの足が石に打ち当たることのないようにしてくれる[詩91:11-12]。彼らは、救いの相続者となる私たちに絶えず仕えている[ヘブ1:14]。昼も夜も、彼らは私たちの見張り人であり、私たちの守護者である。というのも、あなたがたは知らないだろうか? 「主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張……る」[詩34:7]のである。

 さて御使いたちについての考察はこの程度にして、御使いたち自身から目を移し、この歌について考えることにしよう。彼らの歌は短くはあるが、キットウが非常に見事に評しているように、「御使いたちが歌うにふさわしいものであり、最も偉大な、また、最もほむべき真理を云い表わしている。言葉数がごく少ないために、鋭敏な理解力の持ち主にとって、その意味深長さと豊かさは圧倒されんばかりである」。――「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」。私たちは、聖霊の御助けを願いつつ、この御使いたちの言葉を、4つの面から眺めてみたいと思う。まず、この言葉から生ずる、教えに富む思想をいくつか示唆したい。それから、いくつかの感情に訴える思想を、さらに、多少の預言的な思想を、そしてその後で、1つか2つの実際的な教訓となる思想を示唆することにする。

 I. では第一に、本日の聖句の言葉の中には、数多くの《教えに富む思想》がある。

 御使いたちが歌ったのは、人間たちが理解できることであった。――人間たちが理解すべきこと――理解するなら人間たちをはるかに良いものとするであろうことであった。御使いたちが歌っていたのは、飼い葉桶の中に生まれたイエスについてであった。私たちは彼らの歌を、この土台の上に建てられたものとみなさなくてはならない。彼らはキリストについて、また、キリストがこの世に来て成し遂げようとされた目的である救いについて歌った。そして、彼らがこの救いについて語ったことはこうである。彼らはまず最初に、それが神に栄光を帰すものだと云った。二番目に、それが人に平和を与えるものだと云った。そして三番目に、それは人類に対する神の好意のしるしであった。

 1. 最初のこととして、彼らはこの救いが神に栄光を帰すものだと語った。それまでも彼らは、多くの荘厳な機会に立ち会い、多くの厳粛な合唱によって、彼らの《全能の創造主》への賛美を唱和してきた。彼らは創造の場に居合わせていた。「明けの星々が共に喜び歌い、神の子たちはみな喜び叫んだ」[ヨブ38:7]。彼らは、多くの惑星がエホバのたなごころの間で形作られ、その永遠の御手によって無限の空間を貫いて旋回させられる様子を見ていた。彼らは、《大いなる方》が創造した多くの世界について厳粛な歌を歌ってきた。疑いもなく彼らはしばしば、「御座にすわる方に、賛美と誉れと栄光と尊厳と力と支配とが永遠にあるように」*[黙5:13]、と詠唱してきた。また、疑いなく彼らの歌は、代々を通じて力を増し加えてきた。最初に創造されたときの彼らの最初の息づかいが歌であったように、彼らの歌は、神が新しい世界を創造するの見たときに別の曲調を帯びた。彼らは、崇敬の音域の範囲においてやや少し高く上った。しかし、このとき、神がその御座から下って赤子となり、ひとりの女の胸にしがみつくものとなるのを見たとき、彼らはその音域をさらに高く引き上げ、その天使的な音楽の極限にまで達した。彼らは天来の賛美の音域の最高音に至って、こう歌った。「いと高き所に、栄光が、神にあるように」。というのも、神はいつくしみにおいてそれ以上高く上ることができないと彼らは感じたからである。このようにして彼らは、神格が最も気高い行為をなさった際に、その最も高い賛美を神にささげた。もし御使いたちの中に階級があり、その荘厳さと尊厳において層また層をなしているということが正しければ――もし使徒が私たちに、上天のこのほむべき住人たちの間には、「御使いたちや支配や権威や王座や主権」*[コロ1:16]があると教えているとしたら――、私が思うに、この情報が最初に天界の末端に見られる御使いたちに伝わったとき、また、彼らが天から見下ろして、この生まれたばかりの赤子を見てとったとき、彼らはこの奇跡が最初に発した場所へとこの知らせを歌いながら差し戻していったと思う。

   「天使等【みつかい】、栄光【は】ゆる 領域【みくに】より
    地へと羽ばたき 舞い下りよ。
    創造【はじめ】の物語【わざ】の 歌手団【うたいて】よ、
    救世主【きみ】の御降誕【みあれ】を いま告げよ。
    来ては礼拝(ぬかず)け、
    拝せ、キリスト――新生(あれ)し《王》をば」。

そして、その使信が等級から等級へと伝わり、ついに御前にある御使いたち、かの、神の御座の回りで不断に見張る四人の智天使――至る所に目のついた車輪――がその旋律を取り上げ、かつ、自らの下位に立つあらゆる御使いたちの歌をまとめつつ、その和声の聖なる頂点の上に自分たちの厳粛な崇敬の賛詠を載せたとき、それに合わせて全軍が叫んだのである。「至高の天使も汝れを讃えり」。――「いと高き所に、栄光が、神にあるように」、と。左様。いかなる定命の者も、その歌がいかに荘厳なものであったかを夢にも描くことはできない。ならば、注意するがいい。もし世界が造られる前に、また、その最中に、御使いたちが叫んだとしたら、イエス・キリストが人間の贖い主となるため処女マリヤから生まれるのを見たときの彼らのハレルヤは、いやまして心からのものではなかったにせよ、いやまして充実した、いやまして力強い、いやまして荘厳なものであった。――「いと高き所に、栄光が、神にあるように」。

 この御使いたちの歌の第一音節から、いかなる教えに富む教訓を学びとるべきだろうか? それは、救いは神の最高の栄光だということである。神は、朝日にきらめく露の一滴一滴において栄光を現わしておられる。矮林の中で咲く、あらゆる木の花においてあがめられている。それが人知れず赤らみ、森の空気にその芳香をあだに放っているとしても関係ない。神は、小枝の上でさえずっている鳥の一羽一羽において、牧草地で踊っている子羊の一頭一頭において栄光を現わしておられる。海の魚たちは神を賛美していないだろうか。ほんの小魚から巨大なレビヤタンに至るまで、大海を泳ぐあらゆる生き物は、御名をほめたたえ、賛美してはいないだろうか? 造られたものはみな、神を賞揚しているではないだろうか? 天の下にあるものの中で、人間を除き、神の栄光を現わしていないものが何かあるだろうか? 星々は、その黄金の文字で碧空に神の御名を書き記すとき、神を褒めそやしていないだろうか? 稲妻は、真夜中の闇を貫く光の矢によって神の輝きを閃かせるとき、神を称賛していないだろうか? 雷は、神の軍隊の行進における太鼓隊のように轟き渡るとき、神を賞揚していないだろうか? 万物は、最小のものから最大のものに至るまで、神を賞賛していないだろうか? しかし、歌うがいい、歌うがいい。おゝ、宇宙よ。お前がくたくたに疲れるまで歌おうとも、《受肉》の歌ほど甘やかな歌を生み出すことはできない。被造世界は威光ある賛美の楽器かもしれないが、それはかの黄金の頌歌――《受肉》――の音域には及ばない! そこには被造世界にあるものにまさって多くのものがある。飼い葉桶の中のイエスには、《いと高き方》の御座の回りで、その壮麗さを回転させている諸世界の中にあるものを越える多くの旋律がある。立ち止まるがいい。キリスト者よ。そして、しばしこのことを考察するがいい。いかにあらゆる属性がここであがめられているか見てとるがいい。見よ! ここに何たる知恵があることか。神は、ご自身が義であり、また、不敬虔な者を義とお認めになるために[ロマ3:26]、人になるというのである。見よ! いかなるであろう。力を包み隠すときほど大きな力がどこにあるだろうか? いかなる力であろう、《神格》が自らの衣を脱いで人となられるとは! 見よ。イエスが人となられるとき、いかなるが私たちに啓示されることか。いかなる真実さであろう! いかに多くの約束がこの日、守られたことだろうか? いかに多くの厳粛な責務がこのとき果たされたことだろうか? イエスにおいて明らかにされていない神の属性を何か1つ告げてみるがいい。あなたが無知でさえなければ、そのすべてを見てとれるはずである。神のすべてはキリストにおいて栄光を現わされており、神の御名は、その一部が宇宙に記されているとはいえ、ここにおいてこそ最もはっきり読みとれる。人の子でありつつ、それでも神の御子であられたお方のうちにこそ。

 しかし、この点から次に移る前に、一言云わせてほしい。このことから私たちは学ばなくてはならない。もし救いが神の栄光を現わすもの、ご栄光を最高の程度において現わし、最高の被造物たちをして神を賛美させるものだとしたら、この1つの感想がつけ加えられて良い。――すなわち、救いにおいて人に栄光を与えるような教理は福音ではありえない。というのも、救いは神の栄光を現わすからである。御使いたちは決してアルミニウス主義者ではなかった。彼らは、「栄光が、神にあるように」、と歌った。彼らは、キリストから冠を取り去り、その冠を定命の者たちの頭に載せるようないかなる教理をも信じていなかった。彼らは、救いを被造物に依存させるような――そして、実は被造物を賛美するような――信仰体系を決して信じていなかった。というのも、救いの頼みの綱が、全く人間自身の自由意志にかかっているとしたら、それは人が自分自身を救うということでなくて何であろうか? しかり。私の兄弟たち。一部の説教者たちは、人をあがめるような教理を宣べ伝えるのを喜びとするであろう。だが、彼らの福音を御使いたちは決して喜びはしない。御使いたちに歌を歌わせた唯一の楽しき知らせは、その被造物たちの救いにおいて、神を第一とし、神を最後とし、神を真中とし、どこまでも神だけで貫くもの、そして、助け手なしにお救いになるお方の頭にだけ、その冠を全く置くものである。「いと高き所に、栄光が、神にあるように」、が御使いたちの歌であった。

 2. 彼らがこのことを歌い終えたとき、彼らは、それまで決して歌われたことがなかったことを歌った。「いと高き所に、栄光が、神にあるように」は、古い古い歌であった。彼らはそれを、世界の基が置かれる前から歌っていた。しかし、今や彼らは、神の御座の前で新しい歌を歌うかのようであった。というのも、彼らは、この詩句――「地の上に、平和が」――をつけ加えたからである。御使いたちは、それをエデンの園で歌いはしなかった。そこには平和があったが、それは当たり前のことであり、ほとんど歌う価値のあることとは思われなかった。そこには、平和以上のものがあった。そこには神の栄光があったからである。しかし、もはや人間が堕落し果てて、智天使が燃える剣をもって人を追い払った日以来、地には一部の信仰者たちの胸中を除き、いかなる平和もなくなっていた。また、そうした信仰者たちも、このキリストの受肉という生きた泉から平和を得ていたのである。世の果て果てから幾多の戦争が猛威を振るってきた。人々は互いに殺戮し合ってきた。良心は人と争ってきた[ロマ2:15参照]。サタンは人を罪の思いで苦悩させてきた。アダムが堕落して以来、地には何の平和もなかった。しかし今や、この新しく生まれた《王》が登場したとき、彼が包まれていた産着は、平和の白旗であった。あの飼い葉桶は、人の良心と人自身との間、また人の良心と彼の神との間のいかなる戦争状態も停止されるという条約文書が調印された場所であった。そのとき、その日こそ、この喇叭が吹き鳴らされたのである。――「剣を鞘に納めよ、おゝ、人よ。剣を鞘に納めよ、おゝ、良心よ。神は今や人と和らぎ、人は神と和らいでいるからである」。私の兄弟たち。あなたは神の福音が人に対する平和であると感じているではないだろうか? イエスの使信の中以外のどこに平和が見いだせるだろうか? 行くがいい。律法主義者よ。平和を得るために、いかに刻苦勉励しても、あなたは決してそれを見いだせないであろう。行くがいい。あなたがた、律法を頼りにする人たち。シナイに赴き、モーセが目にした炎を仰ぎ見て、震えおののき、絶望するがいい。というのも、この世の中で唯一、平和が見いだされるのは、「この人が平和となる」[ミカ5:5 <英欽定訳>]、と語られているお方の中だけだからである。また、それはいかなる平和であろう! 愛する方々。それは川のような平和[イザ66:12 <英欽定訳>]であり、海の波のような義[イザ48:18]である。それは、人のすべての考えにまさる神の平安であって、私たちの心と思いを私たちの主キリスト・イエスにあって守ってくれるものである[ピリ4:7]。この、赦された魂と赦し主なる神との間にある神聖な平和、この、罪人とその審き主との間にある素晴らしい贖罪、これこそ御使いたちが、「地の上に、平和が」、と語ったときに歌ったものであった。

 3. それから彼らは、賢明にも自分たちの歌を3つ目の音調でしめくくっている。「御心にかなう人々にあるように」。哲学者たちは、神が人間に好意をいだいていると語っている。だが私は、ひとりとして、こうした人々の哲学的主張から大きな慰めを引き出した人を知らない。賢人たちは、被造世界の中から見てとれる事がらによってこう考えてきた。すなわち、神が人間に好意をいだいていないとしたら、神の造ったものがこれほど人間たちの慰めとなるように組み立てられているはずがない、と。だが私は、このように脆弱な希望に自分の魂の平安をかけることのできた人をひとりとして聞いたことがない。しかし私は、神が人間たちに対して好意をいだいておられることを確信している幾千人もの人々を、単に噂で聞いただけでなく、直接に知っているのである。そして、もしあなたが彼らに理由を聞くならば、彼らは完全にして完璧な答えを示すであろう。彼らは云う。神が人間に好意をいだいているのは、神がご自分の御子をお与えになったからです、と。《創造主》とその臣下との間にあるいつくしみを、何にもまして証明するのは、《創造主》がそのひとり子である最愛の御子を死なすために与えているということ以外にありえない。確かに最初の調べは神々しく、二番目の調べは平和に満ちてはいるものの、この三番目の調べは私の心を最も溶かすものである。ある人々は、神のことを全人類を憎んでいる、気難しい存在であるかのように考えている。ある人々の思い描く神は、何か抽象的な、人間のことになど何の関心も持っていない実存であるかのようである。だが聞くがいい。神には「御心にかなう人々」がいるのである。御心にかなうことが、どういうことは分かるであろう。それが意味しているすべてのこと、そして、それ以上のことを神はあなたのために、あなたがた、アダムの息子たち娘たちのために心にいだいておられるのである。悪態をつく人たち。あなたは神を呪ってきた。だが神はその呪いをあなたの上に成就させてはいない。あなたが神に対して何の好意もいだいていなくとも、神はあなたを御心にかけておられる。不信心者よ。あなたは《いと高き方》に対して傲然と、また、かたくなに罪を犯してきた。だが神はあなたに対して何の厳しいことも語っておられない。神は人々を御心にかけておられるからである。あわれな罪人よ。あなたは神の律法を破ってきた。あなたは、神からはねつけられるのではないかと、そのあわれみの御座のもとに行くのを半ば恐れている。このことを聞いて、慰められるがいい。――神は人々を御心にかけておられる。それは神が次のように、しかも誓いをもって云われたほどである。「わたしは誓って言う。――神である主の御告げ。――わたしは、だれが死ぬのも喜ばない。かえって、彼が私たちに立ち返り、生きることを喜ぶ」*[エゼ33:11; 18:32]。さらに、その御心は神がへりくだってこのようにさえ云われたほどのものである。「さあ、来たれ。論じ合おう。……たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、羊の毛のようになる。たとい、紅のように赤くても、雪のように白くなる」*[イザ1:18]。そして、もしあなたが、「主よ。どうして私は、このようにあなたの御心にかなう者だと分かりましょうか」、と云うとしたら、神は向こうにある飼い葉桶を指さして仰せになる。「罪人よ。もしわたしがあなたを心にかけていなかったとしたら、わたしは、わたしの子と別れたりしただろうか? もしわたしが人類に好意をいだいていなかったとしたら、わたしはわたしの子を与えて人類のひとりにならせ、そうすることによって彼らを死から贖い出せるようにさせたりしただろうか?」 あなたがた、《主人》の愛を疑っている人たち。あの御使いたちの集団を仰ぎ見るがいい。彼らの栄光の閃光を見るがいい。彼らの歌を聞き、その甘やかな音楽の中で、あなたの疑いを死に絶えさせ、その和声という屍衣に包んで葬り去るがいい。神は人々を御心にかけておられる。喜んで赦そうとしておられる。不義と、そむきと、罪とを見過ごしにしてくださる。そして、よく聞くがいい。たといサタンが、「しかし万が一、神が好意をいだいていようと、神は自分の正義を侵害することはできないはずだ。それゆえ、神のあわれみは無力であり、お前は死ななくてはならない」、と云い足すとしたら、そのときには、この歌の最初の調べ、「いと高き所に、栄光が、神にあるように」、に耳を傾け、サタンに向かって、また彼のあらゆる誘惑に向かってこう答えるがいい。すなわち、神が悔悟する罪人を御心にかけてくださるときには、単にその罪人の心の中に平和が生ずるだけではないのだ。それは神のあらゆる属性に栄光をもたらすのであって、そのようにして神は、ご自身が義であり、また、罪人を義とお認めになりながら、ご自分に栄光を帰すことがおできになるのだ、と。

 私は、この3つの文章に含まれているあらゆる教えを解き明かしたと云うつもりはない。だが私は、ことによると、この一週間あなたにとって有益であろう一連の思想に、あなたを導き入れているのかもしれない。私が期待するのは、これから一週間のあいだ、あなたがこの言葉の力を感じながら、また、その油注ぎを自覚しつつ、真に心楽しい降誕祭を過ごすことである。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」。

 II. 次に私があなたに提示しなくてはならないのは、《いくつかの感情に訴える思想》である。愛する方々。この節は――この御使いたちの歌は――あなたの心を幸福でかき立てないだろうか? 私はこれを読んだとき、また御使いたちがこれを歌っていることに気づいたとき、内心こう思った。「ならば、もし御使いたちが福音の大いなるかしらの到来を歌いながら告げ知らせたとしたら、私は歌いながら説教すべきではないだろうか? また、私の話を聞く人々は歌いながら生きるべきではないだろうか? 彼らの心は喜び、彼らの霊は楽しむべきではないだろうか?」 よろしい。私は思った。私の話を聞いている人々の中の何人かは、十二月の暗い夜に生まれた、陰々滅々たる信心家であって、顔に微笑みを浮かべるのを罪悪と考えたり、キリスト者が楽しみ喜ぶのはそぐわないと信じているのだ、と。あゝ! 私はこうした紳士たちに、この、キリストについて歌っている御使いたちを見てほしいと思う。というのも、もし御使いたちが、彼らには何の関わりもないにもかかわらず主の誕生について歌ったとしたら、確かに人々は、いのちある限りそれについて歌って良いし、死ぬ時もそれについて歌って良いし、天国で永遠に生きる間もそれについて歌って良いであろう。私たちは、教会の真中で、もっと歌うキリスト教を見ることを切望する。ここ数年、私たちのただ中では、呻いてばかりいる、不信仰なキリスト教が生み出されてきた。さて、私はその真摯さを疑いはしないが、それが健康な性格であることは疑う。私はそれが十分に真実で、本物であると云うものである。また、それを実践している人々の真摯さについて反対するつもりは毛頭もないが、それは病んだキリスト教信仰ではある。

 ウォッツは、次のように告げたとき正鵠を射ていた。

   「信仰の 目当てはついぞ われをして
    より少なき楽しみ 得さすにあらじ」。

キリスト教信仰は、私たちの楽しみを多少は除き去るが、その埋め合わせとして、それにまさる数多くの楽しみを私たちに与えるために、結局私たちの楽しみは少なくならないのである。おゝ、あなたがた、キリストのうちに自分の疑いを刺激し、自分の頬に涙を流れ落ちさせるもの以外に何も見てとらない人たち。おゝ、あなたがた、次のように常に云っている人たち。

   「主よ。こはいかに 惨めな土地ぞ、
    われらにつゆも 糧を生まざる」。

ここへ来て、この御使いたちを見るがいい。彼らはその物語を呻きと、啜り泣きと、吐息とともに語っているだろうか? あゝ、否。彼らは大声で叫んでいる。「いと高き所に、栄光が、神にあるように」。さて、私の愛する兄弟たち。彼らを真似るがいい。もしあなたがキリスト教信仰を告白しているとしたら、常に朗らかなふるまいをするよう心がけるがいい。他の人々は嘆くも良い。だが、

   「などて王子(みこ)らが
    嘆きの生涯(ひ)過ごさん?」

あなたの頭に油を塗り、あなたの顔を洗うがいい。断食していることを人には見られないようにするがいい[マタ6:17-18]。いつも主にあって喜ぶがいい。もう一度云う。喜ぶがいい[ピリ4:4]。特に今週は、喜んでいることを恥じてはならない。あなたは、幸せになることをよこしまなことと考える必要はない。結局において、悔悛や鞭打ち、それに悲惨は、決してそれほど徳高い事がらではない。地獄に堕ちた者たちはみじめだが、救われた者は幸せにしているがいい。なぜあなたは、不断の嘆きを感じることによって、失われた者たちと交わりを保っているべきだろうか? なぜむしろ天国の喜びを予期して、地上でも、決して終わる必要がなくなるであろう歌を歌い始めないのだろうか? ということは、私たちが自分の心の中で大切に感じるべき最初の感情は、喜びと楽しみという感情である。

 よろしい。次は何だろうか? もう1つの感情は信頼という感情である。私は、それを感情と呼ぶことが正しいかどうか確信が持てないが、それでも、私のうちでは、それは感情にきわめて近いものであって、間違っているとしてもあえてそう呼びたいと思う。さて、もしキリストがこの地上に来られたときに、神がどこかの暗黒の生き物を天国から降らせ、(もし天国にそのような生き物がいるたしたらだが)、私たちに、「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」、と告げさせなさったとしたら、また、もしそれが顰めっ面と、口ごもる舌によってその使信を伝えたとしたら、たとい私がそこにいてそれを聞いたとしても、私はそれを信ずるのにためらいを覚えていたであろう。というのも、私はこう云ったはずだからである。「お前は、神がお遣わしになる使者のようには見えない。――お前のように口ごもっている奴――それが、このように喜ばしい知らせを持って来るはずがない」。しかし、御使いたちがやって来たとき、そこには、彼らが語ったことの真実についていかなる疑いもなかった。なぜなら、御使いたちがそれを信じていたことはきわめて確実だったからである。彼らはそれを信じているかのように語った。それを歌と、喜びと楽しみをもって告げたからである。もしどこかの友人が、あなたに遺産が残されたことを聞きつけて、あなたのもとにやって来ては、堅苦しい面持ちと弔鐘のような舌によってこう云うとしよう。「あなたは、誰それさんがあなたに一万ポンドの遺産を残したことを知っていますね?」 何と、あなたは云うであろう。「あゝ! たぶんね」、そして相手の面前で大笑いするであろう。しかし、もしあなたの兄弟が突然あなたの部屋に駆け込んで来て、「おいおい、どう思う? 君は金持ちになったんだよ。誰それさんが君に一万ポンドの遺産を残してくれたんだよ!」、と云うとしたら、どうだろうか? 何と、あなたは云うであろう。「このことについては、まず間違いなさそうだ。だって、彼があれほどそれについて幸せそうに見えるのだもの」。よろしい。この御使いたちが天国からやって来たとき、彼らはその知らせを、あたかも彼らがそれを信じているかのようなしかたで告げた。そして、確かに私は往々にして邪悪にも自分の主の好意を疑ったことがあるが、この御使いたちが歌っているのを聞いている限り、それを疑うことは決してできなかったと思う。しかり。私は云うはずである。「この使者たち自身が、この真理の証拠だ。というのも、彼らはそれを神の御口から聞いてきたように思えるからである。彼らはそれについて何の疑いもいだいていない。というのも、いかに彼らが喜ばしくこの知らせを告げているか見るがいい」。さて、あわれな魂よ。あなたがた、神が自分を滅ぼすのではないかと恐れている人たち。この歌っている御使いたちを眺めて、できるものなら疑ってみるがいい。陰気な顔をした偽善者たちのいる会堂へ行ってはならない。鼻にかかった話し方と、みじめたらしい顔つきで説教する教役者の話を聞きに出かけてはならない。その人はあなたに、神は人々を御心にかけておられると告げるが、私はあなたがその話を信じないだろうと知っている。というのも、彼は説教しながら、その顔つきに何の喜びもたたえていないからである。彼は不平たらたらで良い知らせを告げている。あなたが、それをまともに受けとる見込みはない。しかし、あのベツレヘムの羊飼いたちが夜に腰を下ろしていた野原に行き、御使いたちが福音を歌い叫んでいるのを聞くとき、あなたは彼らが明らかにそう告げることの尊さを感じていると信じざるをえないであろう。ほむべき降誕祭よ。この御使いたちのような者らを寄こして、人々に対する神の御心を信じる私たちの信仰を堅くしてくれるとは、何とありがたいことか!

 III. 私は今あなたを第三の点に導かなくてはならない。この言葉には、いくつかの《預言的な発言》がある。御使いたちは、「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」、と歌った。しかし、私が周囲を見回すとき、この広大な広大な世界に何を見るだろうか? 私は神が崇拝されているのを見ていない。異教徒が彼らの偶像を拝んでいるのが見える。ローマカトリック教徒が、聖衣と称する腐った襤褸切れや、聖像という醜い絵の前にひれ伏しているのが目につく。私は身の回りを眺める。すると、人々のからだや魂を暴君が我が物顔で牛耳っているのが見える。私に見えるのは、神が忘れ去られ、世的な種族が富を追い求め、血に飢えた種族がモレクを追い求めている姿である。野心がニムロデのように地を駆け巡り、神が忘れられ、その御名に恥辱が加えられている光景である。では、これしきのことが御使いたちの歌っていたことなのだろうか? これしきのことが、彼らをして、「いと高き所に、栄光が、神にあるように」、と歌わせたことなのだろうか? あゝ! 否。これよりも輝かしい時代が近づきつつあるのである。彼らは、「地の上に、平和が」、と歌った。しかし、私は今なお、鳴り渡る戦争の喇叭が聞こえる。大砲の恐ろしい咆哮が聞こえる。今なお人々は剣を鋤に、その槍を鎌に[イザ2:4]打ち直してはいない! 戦争はまだ威を振るっている。これしきのことが、御使いたちの歌っていたことなのだろうか? また、私は、地の果てまで戦争が行き渡っているのを見ながら、これしきのことが御使いたちの期待していたことだと信じるべきなのだろうか? あゝ! 否。兄弟たち。御使いたちのこの歌は預言をはらんでいるのである。それは栄光のために産みの苦しみをしている。もう何年かすれば、また、生きてその時代を目にする者は、なぜ御使いたちがこう歌ったのかを見てとるであろう。もう何年かすれば、来るべき方が来られる。遅くなることはない[ヘブ10:37]。主なるキリストが再びやって来られ、その到来の時には、偶像どもをその王位から放り投げるであろう。いかなる形の異端も、いかなる形式の偶像礼拝をも叩き落とすであろう。主は世界中を隅から隅まで統治するであろう。彼方の蒼天が巻き物のように[イザ34:4]過ぎ去るときも、統治するであろう。いかなる争乱もメシヤの統治を悩ませず、いかなる血もそのときには流されない。人々は無用(あだ)なる兜を店晒しにし、戦いのことをもはや学ばない[イザ2:4]。近づきつつあるその時、ヤヌスの神殿は永久に閉ざされ、冷酷なマルスは地から野次って追い出される。来たるべきその日、獅子は牛のようにわらを食い、豹は子山羊とともに伏し、乳離れした子はまむしの子に手を伸べ、毒蛇と戯れる[イザ11:6-8]。その時が近づきつつある。その陽光の曙光が私たちの生きている時代をすでに喜ばせている。見よ。主は喇叭の響きとともに栄光の雲に乗ってやって来られる。私たちが喜ばしい期待をもって待ち望んでいるお方がやって来られる。その到来は、その贖われた民にとっては栄光となり、その敵どもにとっては惑乱となるであろう。あゝ! 兄弟たち。御使いたちがこれを歌ったとき、そこには栄光に富む長大な通路に響くこだまがあったのである。そのこだまとはこうである。――

   「ハレルヤ! 主なるキリスト
    神は王なり。万物(よろず)を統(し)らす」。

左様。そして疑いもなく、御使いたちは信仰によって、この《歌》の豊かさを聞きとったのである。

   「聞けよ! ヨベルの 年の歌
    いかずちのごと 轟きわたるを。
    さなくば、満ちし 大海(おおうみ)の
    岸辺を打ちて 砕かる音を」。

「主なるキリスト、神は王なり」。

 IV. さて私は、もう1つの教えをあなたに示して、それでしめくくりとしよう。その教えとは《実際的な教訓》である。私は、今年降誕祭を祝うあらゆる人々が、この御使いたちと同じようにそれを祝ってほしいと思う。多くの人々にとって、降誕祭を祝うということは、自分たちのキリスト教信仰の束縛を、一年のうち一日だけ断ち切るということを意味している。あたかも、キリストが無秩序の主であり、キリストの誕生が酒神祭ででもあるかのようにである。一部の非常に宗教的な人々は、降誕日には午前中教会に行くのを決して忘れない。彼らは降誕日を日曜日とほぼ同じくらい聖なるものと信じている。先人たちの伝統に敬意を払っているからである。だが、彼らがその日の残りを過ごすしかたは、非常に尋常ならざるものである。というのも、夜に彼らが二階の自分の寝床まで真っ直ぐ行き着くことができるとしたら、僥倖というものだからである。彼らは、暴飲暴食に近いことをしない限り、降誕祭をしかるべく祝ったとは思わないであろう。多くの人々は、自分の家で底抜けの乱痴気騒ぎを行ない、笑いさざめき、さらに罪の騒々しさを加えない限り、降誕祭を祝ったことにはなりえないと考えている。さて、私の兄弟たち。確かに私たちは清教徒たちの継承者として、この日をいかなる意味においても宗教的に祝いはしないし、他のどの日にもまさる意義を付与するものではない。おそらくは、他のどの日も降誕日であった可能性はあると私たちは信じているし、いかなる日をも、私たちにできる限りは降誕日としたいと願っている。だが私たちは、その日をいかにして祝うかという模範を他の人々の前に示そうとしなくてはならない。そして特に、御使いたちが神に栄光をささげている以上、私たちも同じようにしようではないか。

 さらにまた御使いたちは、「地の上に、平和が」、と云った。できるものなら、次の降誕日には平和を作るように努力しようではないか。さて、老いた紳士よ。あなたは自分の家に息子を迎え入れようとはしていない。彼はあなたの不興を買っているからである。だが、降誕日には彼を呼び寄せるがいい。「地の上に、平和が」。知っての通り、それが降誕祭祝歌なのである。あなたの家庭の中に平和を作るがいい。

 さて、兄弟。あなたは、自分の兄弟とは二度と口をきくまいと誓っている。だが彼を探して、こう云うがいい。「おゝ、ねえ君。僕たちは、日が暮れるまで怒っていないことにしようよ」。彼を家に迎え入れて、握手するがいい。さて、店主殿。あなたには商売敵がいる。そして、あなたは最近彼について何か非常に辛辣な言葉を口にしてきた。もしあなたがその件の埋め合わせをきょう、あるいは明日、あるいは近日中に行なわないとしても、降誕日にはそれを行なうがいい。それこそ降誕日を祝うしかたである。地の上には平和を、神には栄光をもたらすことである。そして、おゝ、もしあなたの良心にかかっていることが何かあるとしたら、もしあなたが心の平安をいだくのを妨げていることが何かあるとしたら、あなたの降誕日を自分の部屋で守り、自分に平安を与えてくださるよう神に祈るがいい。というのも、地の上に平和があるということは、心に、あなた自身に平和があり、あなた自身との間に平和があり、あなたの同胞との間に平和があり、かなたの神との間に平和があることだからである。そして、このように云えるようになるまで、その日を良いしかたで記念したと考えてはならない。「おゝ、神よ。

   『この世と、己れと、汝あるとも、
    眠らんとす我れ 安らかならん』」。

そして、主イエスがあなたの平和となられたときには、もう1つのことがあるのを思い出すがいい。「御心にかなう人々に」。人々に対する好意をいだくことなしに降誕祭を祝おうとしてはならない。あなたは紳士であって、多くの召使いがいる。よろしい。彼らの暖炉の上で、上等の牛肉の大きな塊が炙られているようにしてやるがいい。もしあなたが富裕な人だとしたら、近所には貧しい人々が住んでいるであろう。裸の者には何かを着せてやり、飢えた者には何かを食べさせてやり、悲しむ者は喜ばせてやるがいい。思い出すがいい。これは人々を心にかけてやることなのである。できるものなら、この特別な季節に彼らに対する好意を示そうとするがいい。そして、もしあなたがそれをするなら、貧者は私とともに云うであろう。実際、一年のうちに降誕日が六日もあればいいものを、と。

 私たちひとりひとりは、こう決心して、この場所から帰っていこう。たとい私たちが年がら年中怒っているとしても、今週は例外としよう。たとい私たちが、この一年間、誰に対しても怒鳴っていたとしても、この降誕祭の時期には他人に対して親切で愛情深くなるように努めよう。そして、もし私たちがこの一年のあいだ神に敵意をいだいて生きてきたとしたら、私は神の御霊によって願う。今週、神が私たちにご自分との平和を与えてくださるように、と。そして、実際、私の兄弟よ。それは私たちの一生の間で、過ごしたことのある最もめでたい降誕祭となるであろう。青年たち。あなたは実家の父母のもとに帰ろうとしている。あなたがたの中の多くの人々は、自分の店から里帰りしようとしている。あなたは去年の降誕祭の時期に私が何と説教したか覚えているであろう。あなたの実家にいる親族のもとに帰って、主があなたの魂に何をしてくださったかを告げるがいい。それは降誕祭の炉端で、ほむべき物語がひとしきり交わされるきっかけとなるであろう。もしあなたがたが、ひとりひとり自分の両親に向かって、いかに主が祈りの家であなたと出会ってくださったかを告げるとしたら、また、いかに陽気な威勢の良い若者として家を離れた自分が今や母上の神を愛し、父上の聖書を読むようになった者として帰ってきたかを告げるとしたら、おゝ、それはいかに幸いな降誕祭となるであろう! それ以上私に何が云えるだろうか? 願わくは神があなたに、あなた自身との平和を与えてくださるように。あなたの友人たち、あなたの敵たち、あなたの隣人たちすべてに対する好意をあなたに与えてくださるように。そして、いと高き所におられる神に栄光を帰す恵みをあなたに与えてくださるように。これ以上、私は何も云うまい。ただ、この説教のしめくくりにあたり、あなたがた全員に向かって、願うだけである。その日が来たときには、あなたの一生の間で最も幸いな降誕日を迎えることができるように、と。

   「御座を取り巻く 御使いの
    智天使、熾天使もろともに
    さらに一つの 教会と
    声をば張らん、荘厳(たか)き賛美の。
    栄光(さかえ)ぞあれや、《ありてある》に!
    栄光ぞあれや、犠牲(にえ)なる《小羊》(ひつじ)に。
    賛美と誉れ 栄光と力、
    尽きぬ支配ぞ あれよかし
    わが主の御父と
    御霊と ことばに
    昔も今も 代々とこしえに」。

  

 

最初の降誕祭祝歌[了]

--------

HOME | TOP | 目次