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家に帰る――降誕祭説教

NO. 109

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1856年12月21日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい」。――マコ5:19


 ここに言及された男の事件は、ことのほか異常なものである。それは、キリストのご生涯の中でも特筆すべき事件の1つであって、その重要さという点では、どの福音書記者が記した事がらにも負けていない。このあわれでみじめな男は、無数の悪霊にとりつかれ、狂気よりも悪いものへと追いやられていた。彼は墓地に住みつき、そこで夜昼となく暮らしては、通り過ぎるあらゆる者の恐怖となっていた。当局は彼を取り押さえようとし、彼を足かせや鎖でつないだ。だが、彼は、その狂気による発作によって鎖を引きちぎり、足かせを砕いてしまった。彼を改心させようとする試みは何度となくくわだてられたが、だれにも彼を押さえる力はなかった。彼は野生の動物よりも悪い状態にあった。動物なら取り押さえることもできるが、彼の獰猛な性質は屈伏しようとしなかった。彼は自分にとって災いの種であった。というのも、夜昼となく山に上っては、ものすごい声で泣いたり、吠えたりし、鋭利な火打石でわが身を傷つけ、この上もなく恐ろしいしかたで自分のあわれなからだを苦しめていたからである。しかしイエス・キリストは、通りかかると悪霊たちに、「この人から出て行け」[マコ5:8]、と仰せになった。たちまちその人は癒され、イエスの足元にひれ伏した。彼は理性ある存在となった。――知性のある者、しかり、それ以上に、《救い主》を信ずる回心者となった。そこで彼は、自分の解放者への感謝の念にかられて云った。「主よ。私はあなたがお行きになる所ならどこへでもついて行きます。私は、いかなるときもあなたに同行し、あなたのしもべとなります。どうか、そのようにさせてください」。だがキリストは云われた。「否。あなたの動機は尊いと思う。それは、わたしに対する感謝から出たものである。だが、もしあなたが感謝を表わしたければ、あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい」。

 さて、このことによって私たちは、非常に重要な事実を教えられる。すなわち、真のキリスト教信仰は、家族関係の絆を断ち切るものではない、ということである。真のキリスト教信仰は、あの神聖な――ほとんど天来の、と云ってもいい――家庭と呼ばれる制度をめったに侵食することはないし、人々をその家族から引き離したり、自分の肉親から疎外させることはない。迷信はそうしてきた。自らキリスト教と名乗る、1つの恐ろしい迷信は、人々をその親族から切り離してきた。だが、真のキリスト教信仰は決してそのようなことをしたことがない。何と、もし私にそのようなことをすることが許されるとしたら、私は世捨て人をその孤独な洞窟に訪ね、彼に近寄ってこう云いたいと思う。「もしあなたが、あなたの告白する通りの者であるとしたら――生ける神の真のしもべであって、偽善者ではないとしたら(私もそうは思いませんが)――、もしあなたが、キリストを信ずる真の信仰者であって、主があなたのために何をしてくださったかを明らかに示したいというのであれば、その水差しをひっくり返し、あなたの最後のパンを食べ、この陰鬱な洞穴を出て、あなたの顔を洗い、あなたの大麻の帯を解きなさい。そして、もしあなたが自分の感謝を示したければ、あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったかを、知らせなさい。あなたは森の枯葉の徳を高められるのですか? あなたが感謝の念から、ぜがひでも誉れを帰したいと思っている神を、獣たちがあがめられるようになるのですか? あなたは、こうした岩々を回心させたいと思っているのですか? いいえ。家に帰りなさい。あなたの家族とともに住み、人々との親族関係を修復し、もう一度あなたの同胞たちと一緒になりなさい。というのも、これが、キリストの承認された、感謝を示すしかただからです」。また私は、あらゆる修道院や女子修道院に行って、修道士たちに云うであろう。「出て来なさい。兄弟たち。出て来なさい! もしあなたが自分の云う通りの者、神のしもべたちであるとしたら、あなたの家、あなたの家族のところに帰りなさい。こうした馬鹿げた修行はもうやめにしなさい。これはキリストの規則ではありません。あなたは、主があなたに望んでおられるのとは違うしかたで行動しています。あなたの家、あなたの家族のところに帰りなさい!」 また、慈悲の修道女会の姉妹たちに向かって、私たちは云うであろう。「あなた自身の姉妹たちにとって、慈悲の姉妹となりなさい。あなたの家、あなたの家族のところに帰りなさい。あなたの年老いた両親の世話をしなさい。あなた自身の家を修道会にしなさい。ここでキリストの規則に不従順を続けることによって、自分の高慢を養っていてはいけません。主は、『あなたの家、あなたの家族のところに帰りなさい』、と云っておられるのです」。「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい」。孤独で禁欲的な生活を愛することは、一部の人々によれば天来の恵みと考えられているが、病んだ精神であるとしかいえない。慈善がほとんど見られず、その結果、精神病院を建てる者がほとんどいなかった時代には、迷信が愛の欠如を満たし、愚かな男女が、隔離された生息地や、気楽な怠惰の中で自分たちの幻想にふけることが許された。まことにいみじくもヤングはこう云っている。――

   「健やかな精神の 最初の確かな症候群は
    家庭に見られる 心の安きと楽しみである」。

愛する方々。何にもまして、こうした浪漫的な、馬鹿げた美徳の概念を避けるがいい。それは迷信の生んだ子であり、義の敵である。自然な情愛に欠けてはならない。むしろ自然の絆によって自分に結びついている人々を愛するがいい。

 真のキリスト教信仰は、天性と相反するものではありえない。私は、友が死んだときに泣かずにいるよう要求されることは決してありえない。「イエスは涙を流された」[ヨハ11:35]。摂理が私にとって好ましく思えるとき、微笑みを浮かべる特権が拒まれることはありえない。というのも、一度、「イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた」からである。「天地の主であられる父よ。あなたに感謝します」[ルカ10:21 <英欽定訳>]。真のキリスト教信仰によれば、人は決して自分の父母に向かって、「私はもはやあなたがたの子ではありません」、などとは云わない。それはキリスト教ではなく、獣の行ないにも劣るものである。そうした態度をとるとき私たちは、自分の同胞たちから全く隔絶し、彼らとは何の親族関係もない者であるかのように人の世を歩むことになるであろう。孤独な生活こそ敬神の生活である考えるすべての人々に対して私は云いたい。「それは、とんでもない迷妄である」、と。人間関係の絆をすっぱり断ち切る人こそ善良な者に違いないと考えるすべての人々に対して、こう云わせてほしい。「そうした絆を保つ人こそ最良の人々なのだ」、と。キリスト教によって夫はより良い夫になり、妻は以前よりも良い妻になる。キリスト教によって私は決して息子としての義務から解き放たれることはない。私はより良い息子となり、私の両親はより良い両親となる。キリスト教は私の愛を弱めるどころか、私の愛情を強めるべき新たな理由を与えてくれる。それで私は、以前は自分の父親として愛していた人を、今ではキリスト・イエスにある自分の兄弟また同労者として愛している。また、自分の母親として敬っていた女性を、恵みの契約における姉妹として、また、来たるべき状態において永遠に私のものとなる人として愛している。おゝ! あなたがたの中のだれも、キリスト教が家族関係を妨げるものだなどと考えてはならない。それは家族の絆を固め、死そのものでさえ決して断絶することのない家族とするためのものである。というのも、それは家族を、彼らの神である主とともにあるいのちという帯で一括りにし、かの大水の向こう側にいる個々人と再び結合させるからである。

 さて、私はあなたに、なぜ私が本日の聖句を選んだか、その理由をここで告げたいと思う。私は内心こう思ったのである。おびただしい数の若い人たちが私の説教を聞きにやって来る。彼らは常に私の会堂の通路にひしめき、その多くは神に回心してきた。さて、今年もキリスト降誕日が巡り来ようとしており、彼らは自分の家族の顔を見に実家に帰ろうとしている。彼らが家に帰れば、夜には降誕祭祝歌を歌いたがるであろう。私は、その歌の1つを彼らに示唆しようと思う。――とりわけ、最近回心したばかりの人に対して私は降誕日前夜に交わす会話の主題を1つ示したい。それは、「ゴールデンメアリー号の難破」のように面白おかしいものではないかもしれないが、キリスト者である人々にとってはそれと同じくらい興味深いものであろう。それはこのことである。「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい」。私としては、一年にキリスト降誕日が二十日もあればいいのにと思う。若い人々が自分の家族に会えることはめったにない。家族全員が一堂に会して幸福に過ごせることはまれである。私は、その日を宗教的に遵守することには何の関心もないが、家族の慣行としてはそれを愛するものである。それは英国における最も輝かしい日々の1つ、一年の中の大いなる安息日である。そのとき、鋤はその畔溝で休み、商売の喧噪は静められ、機械工や職人は、緑なす喜ばしげな大地の草土の上で心身を爽快にさせられる。もしあなたがたの中のだれかが主人であるとしたら、私がわき道にそれて、ささやかなお願いをすることを許してほしい。すなわち、あなたの召使いたちには、キリスト降誕日にも、彼らが勤めをしているときと同じだけの俸給を払ってほしい。もしあなたがそうするならば、彼らの家々を喜ばせることになるに違いない。あなたが彼らに、ごちそうを囲むも、空きっ腹をかかえるも自由にせよ、と云いながら、その喜びの日に、彼らにごちそうを囲ませるもの、彼らを喜ばせるものを与えないというのは、不公平である。

 しかし、本題に入ることにしよう。私たちは家族に会いに実家に帰ろうとしている。そして、これが、私たちの中のある者らが告げなくてはならない物語である。「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい」。第一に、ここには、彼らが何を告げるべきかがある。また第二に、なぜ彼らがそれを告げるべきかがある。そして第三に、いかに彼らがそれを告げるべきかがある。

 I. まず第一に、《ここには、彼らが何を告げるべきかがある》。それは、個人的な経験の物語である。「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい」。あなたは、実家に帰って、いきなり説教を始めるべきではない。教理的な主題を取り上げ、それを長々と論じ出したり、人をあなた独自の見解や意見に同調させようと努めたりすべきではない。自分が最近学んだ種々の教理をかかえて家に帰り、そこでそれを教えようと試みるべきではない。少なくとも、あなたはそうするように命じられてはいない。もしあなたがそうしたければ、また、だれもその邪魔をしなければ、そうしてもよいかもしれない。だが、あなたが家に帰って知らせるべきことは、あなたが何を信じたかではなく、あなたが何と感じたかである。――あなたが、本当に自分のものであると知っている感情である。あなたがどこかで読んだ大きなことではなく、主があなたにしてくださった大きなことである。この大会衆の中でなされるのをあなたが見たことや、いかにひどい罪人たちが神に立ち返ったかということだけでなく、主があなたに何をしてくださったかである。そして、よく聞くがいい。この世の何にもまして興味深いのは、ある人が自分について告げる話なのである。『老水夫行』[サミュエル・コールリッジ著]の面白さの大半は、この話の語り手が、その水夫自身だということにある。彼は腰を下ろした。その指は、死の指さながらにやせ細っている。そして彼は、洋上で船が大凪のもとにあり、輝ける海の上を、ぬめれる物等が足掻(あが)くときの陰惨な物語を語り始めた。結婚式に向かう客は、身じろぎもせずに耳を傾けた。というのも、この老人自らが物語だったからである。個人的な物語には、常に非常な面白さがかき立てられるものである。詩人ウェルギリウスはこのことを知っていた。それゆえ彼は賢明にも、アイネイアースに彼自身の物語を話させ、この言葉によって彼に口を切らせているのである。「その仕儀に、われ自らも大いにあずかれり」[『アイネーイス』II.6]。それで、もしあなたが家族の関心をかき立てたければ、あなた自身がどう感じたかを知らせるがいい。彼らに向かって、かつてのあなたがいかに失われ、見捨てられた罪人であったかを知らせるがいい。いかに主があなたと出会ってくださったか、いかにあなたが自分の膝をかがめ、自分の魂を神の御前で注ぎ出したか、またいかにあなたが、このような神の声を内側で聞いたと思って、ついに喜び踊るようになったかを知らせるがいい。「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去る」*[イザ43:25]。あなたの家族に、あなた自身の個人的経験の物語を知らせるがいい。

 次に注意したいのは、それは無代価の恵みの物語でなくてはならない、ということである。これは決して、「あなたの家族に、あなたが自力でどんなに大きなことをしたかを知らせなさい」、ではなく、「主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか」、である。自由意志や被造物の力に常にこだわり、恵みの諸教理を否定する人は、自分の経験を告げるときには例外なく、いかに自分が大きなことを行なったかを混ぜ合わせるものである。だが、無代価の恵みを信ずる信仰者、福音の枢要な真理を信奉する人々は、そうしたことは無視し、こう宣言する。「私が知らせたいのは、主が私にしてくださったことです。確かに私は、自分が最初いかにして祈らされたかを告げなくてはなりません。ですが、それは、このように告げたいのです。――

   『恵みはわれに 祈りを教え
    恵みにわが目 涙あふるる』、と。

確かに私は、いかに多くの困難や試練の中でも神がともにいてくださったことを告げなくてはなりません。ですが、それは、このように告げたいのです。――

   『恵みぞ、われを かくまで保ち
    われをばつゆも 去(ゆ)かせたまわじ』、と」。

その人は自分自身の行ないや、意欲や、祈りや、求道などについては何1つ云わず、むしろそれらすべてを大いなる神の愛と恵みに帰す。この神が愛のうちに罪人たちを見下ろし、彼らをご自分の子どもたち、永遠のいのちの相続人としてくださるのである。若い男よ。家に帰り、あわれな罪人の物語を知らせるがいい。若い婦人よ。家に帰り、あなたの日記を開き、恵みの物語をあなたの家族に示すがいい。神の御手の力あるみわざについて彼らに知らせるがいい。神がその無代価の、主権的な、受けるに値しない愛によって、あなたのうちになしてくださった大いなるみわざを。これを、あなたの家族の炉端で行なう、無代価の恵みの物語とするがいい。

 次のこととして、このあわれな男の話は感謝に満ちた物語であった。なぜそれが感謝に満ちたものとわかるかというと、この男がこう云ったからである。「私があなたがたに知らせたいのは、主が私に、どんなに大きなことをしてくださったか、ということです」。そして、私が常に見てとるところ、大きな感謝に満ちている人は、例外なく、神が自分に示しておられるあわれみの大きさを実感している人である。その人が常に思うのは、神がその人にしてくださったことが、途方もなく良いことであり、この上もなく偉大なことだ、ということである。ことによると、あなたがこの物語をしているとき、あなたの家族のひとりがこう云うかもしれない。「それが何だっていうの?」 すると、あなたはこう答えるであろう。「それは、あなたにとっては大きなことではないかもしれませんが、私にとっては大きなことなのです。あなたは、悔い改めることなど小さなことだと云いますが、私にはそうとは思えませんでした。自分が罪人であると知り、それを告白するように導かれることは、大きく、尊いことです。《救い主》を見いだしたことは、小さなことだとあなたは云うでしょうか」。相手を正面から見て云うがいい。「あなたも《救い主》を見いだしていたとしたら、それを小さなこととは思わないでしょう。あなたは、私が自分の背から重荷をなくしたことを小さなことだと考えていますが、もしあなたがその苦しみを知っており、その重みを私が感じていたように、この長年月の間感じてきたとしたら、あなたは、十字架を一目見ただけで自由になり、解放されることを決して小さなこととは思わないことでしょう」。彼らに向かって、これは大いなる物語であると告げるがいい。そして、もし彼らがその大きさを見てとれないとしたら、大粒の涙をこぼし、非常な真剣さをもってそれを彼らに知らせるがいい。そして私が希望するのは、彼らが、自分たちはそうでなくとも、少なくともあなたは感謝に満ちているのだ、と信ずるようになることである。願わくは神によってあなたが、感謝に満ちた物語をできるようになるように。感謝の物語ほど聞くべき値打ちのあるものはない。

 そして最後に、この点がある。それは、自分が全くふさわしくないものを受けたと感じている、あわれな罪人によって語られる話でなくてはならない。「主があなたを……どんなにあわれんでくださったか」*。それは、ただの親切な行為ではなかった。悲惨さの中にあった者に対する、無代価のあわれみの行為であった。おゝ! 私はある人々が自分の回心について、また自分の霊的生活について話をしているのを聞くと、心底からそうした人々をも、そうした人々の物語をも忌み嫌いたくなる。というのも、彼らは、あたかも自分のもろもろの罪、自分の罪悪の大きさを誇るかのようにして語っており、神の愛について言及するときも、その大恩を信ずる涙を一滴も流さず、真に謙遜な心の簡素な感謝を全く見せないからである。むしろこうした人々は、自分自身を神と同じくらいの高さに上げている。おゝ! 私は、自分の回心の物語を告げるときには、深い悲しみとともに、自分のかつての姿を思い起こしながらそうしたいと思う。そして、大きな喜びと感謝にあふれて、自分がそうしたものにいかに僅かも値していなかったかを思い起こしながらそうしたいと思う。私は一度、回心と救いについて説教していたとき、説教者たちがしばしば感じるように、その物語を語るのは、無味乾燥な働きだと内側に感じた。私にとって、それは鈍重で、だれた物語であった。だが突如として、このような考えが私の脳裡をよぎった。「何と、お前は自分自身、あわれな、失われた罪人ではないか。それを語るがいい。それを語るがいい。お前が受けた通りに語るがいい。神の恵みについて、お前がそれを自分で感じていると思う通りに語り始めるがいい」。何と、そのとき、私の目は涙で一杯になり始めた。それまで頭をこくりこくりとさせていた聴衆たちは活気づき始め、話に聞き入った。なぜなら、彼らはある人が自分自身感じていることを聞いており、自分たちにとって真実ではなくとも、その人にとっては真実であると認められることを聞いていたからである。話をお聞きの方々。失われた罪人としてのあなたの物語をするがいい。実家に帰り、自分の家に歩み入るときには、決して尊大な風を吹かせながら、「みじめな罪人たちのもとに聖徒様のお帰りだぞ。1つお前たちに話を聞かせてやろう」、というようなふうであってはならない。むしろ、あなた自身みじめな罪人であるかのように家に帰るがいい。中に入るときには、あなたの母親は以前のあなたを覚えているのだから、何か変化があったことを告げる必要はない。――母上は、一日でもあなたと一緒に過ごせば、それに気づくであろう。ことによると、こう云うであろう。「ジョンや。お前はどうしてそう変わってしまったんだい?」 そして、もし母上が真面目に神を信ずる人であったとしたら、あなたは母上にその物語を告げ始めるであろう。そして母上は両手であなたを抱きかかえ、これまで一度もしたことがないようなしかたで、あなたに口づけするであろう。というのも、あなたは母上にとって、二度生まれた息子となったからである。母上は決してあなたから引き離されることはない。死そのものでさえほんの一瞬もあなたを引き離すことはないのである。「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい」。

 II. しかし、次のこととして、《なぜ私たちはこの物語を知らせるべきなのだろうか?》 というのも私は、この会衆の多くの人々がこう云っているのが聞こえるからである。「先生。私はこの物語をだれにでも話してやれますが、自分の家族にするのは勘弁してください。私は、あなたの牧師室を訪ねて、自分が神のことばによって味わったこと、扱われたことを申し上げることはできますが、自分の父や、母や、兄弟や、姉妹たちに告げることはできません」。ならば、私はあなたと論じ合い、あなたがそうするように仕向けてみたいと思う。それは、あなたが、今度のキリスト降誕日には実家に帰り、あなたの生まれ育った土地の宣教師となるためであり、名目上はどうあれ、実質的にはそこで説教者となるようにさせるためである。愛する方々。実家に帰ったら、次の理由によってこの物語を話してやるがいい。

 第一に、あなたの《主人》のためである。おゝ! 私はあなたが主を愛していると知っている。主があなたを愛された証拠をわきまえているとしたら、確かにあなたは主を愛しているに違いない。あなたは決してゲツセマネや、その血の汗や、ガバタ[ヨハ19:13]や、鞭で乱打されたために、めちゃくちゃになったキリストの背中や、カルバリや、主の刺し貫かれた御手や御足を思って、主を愛さずにいることはできない。そして、これは私があなたに語っていることの強力な議論である。あなたを愛した尊い主のために、あなたは家に帰って、そのことを知らせなくてはならない。何と! あなたは、これほどのことを主にしていただいていながら、それを人に告げないというのか? 私たちの子どもたちは、自分に何かしてもらえると、何分もしないうちに一座の人々に語り出すであろう。「だれそれさんがね、ぼくにね、こんな贈り物をくれたんだよ。そしてね、こんなふうな良いことをしてくれたんだよ」、と。では、神の子どもたちは、地獄へ向けてまっしぐらに進んでいた自分が、いかにして救われたか、また、贖いのあわれみがいかにして自分を火の中の燃えさしのようにつかみとったか宣言することにおいて尻込みしているべきだろうか? あなたはイエスを愛しているという。若者よ! ならば私はあなたにこう云いたい。あなたは、自分に対する主の愛の話を告げることを拒むのだろうか? あなたの口は、主の誉れが関わっているとき、おしになるのだろうか? あなたは時と場合によっては、あなたを愛し、あなたのために死なれた神について知らせようとしないというのだろうか? このあわれな男についてはこう告げられている。「彼は立ち去り、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広め始めた。人々はみな驚いた」[マコ5:20]。あなたもそれと同じである。もしキリストがあなたのために大きなことをしてくださったとしたら、あなたも同じことをしないではいられない。――あなたはそれを告げ知らせなくてはならない。私の愛する方々。ドイツの教役者オネケン氏が先週の月曜の夜、私たちに告げたところ、彼自身が回心するや否や、彼の新しく生まれた魂が最初に感じたのは、他の人々に善を施したいという衝動であった。では、どこで彼はその善を施すべきだろうか? よろしい。彼はドイツに行こうと思った。それは彼の生国であり、主のご命令は、「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、彼らに知らせなさい」*であると思った。よろしい。全ドイツに、バプテストはひとりもいなかったし、彼が共感できる人もひとりもいなかった。ルーテル派はルターの信仰からそれて、神の真理から踏み迷ってしまっていたからである。しかし、彼はドイツに行き、宣べ伝えた。そして、今や彼は大陸に七十から八十の教会を有している。何が彼にそうさせたのだろうか? 自分の《主人》に対する愛にほかならない。自分のためにこれほど大きなことをしてくださったお方に対する愛によって彼は、自分の同国人たちのもとに行き、《天来の》いつくしみという驚異あふれる物語を知らせたのである。

 しかし、次のこととして、あなたの家族には敬神の念があるだろうか? ならば、家に帰り、彼らに知らせるがいい。彼らの心を喜ばせるためである。私は昨晩、短い手紙を受け取った。それは、エセックスの郡部に住む、通常の寿命をはるかに過ぎたひとりの人から、震えるような筆跡で認められた手紙である。彼の息子は、神の下にあって宣べ伝えられたみことばによって回心した。それで、この善良な人は、自分の息子が新生したことについて、どうしても起き上がっては教役者のもとに行き、彼に感謝し、何にもまして神をほめたたえずにはいられなかったのである。「先生」、と彼は書き出していた。「老いぼれの反逆者が、こうして手紙を書いておりますのは、あなたに感謝し、何よりも神に感謝したいと思ってのことです。愛する息子が回心したのです」。私はこの書簡を自分の宝にするであろう。それは、さらにこう続いていた。「ぜひとも働きをお続けください! 主の祝福がありますように」。少し前に私は、これとは別の場合についても聞いたことがある。ひとりの若い婦人が両親の住む実家に戻ったが、母親は、彼女を一目見るなりこう云った。「何とまあ! もしあんたの先生がロンドン中の贈り物をくださったとしても、今の私が受け取ったものほど大切なものはないだろうよ。――あんたが本当に心を改めて、神を恐れて暮らしていると思えるなんてねえ」。おゝ! もしあなたが母上の心を躍り上がらせ、父上を喜ばせたければ、――もしあなたが、自分にあれほど多くの手紙を送ってくれた妹御を幸せにしたければ(その手紙をあなたは、時には洋煙管を口にくわえ、街灯柱に背中をもたせながら読んだことであった)、――自分の家に帰り、母上に知らせるがいい。母さんの望みはみなかなえられましたよ、母さんの祈りはかなえられましたよ、ぼくはもう母さんの《日曜学校》の学級についてひやかしたり、母さんが主を愛しておられるからといって笑ったりしませんよ、むしろ、ぼくも母さんと一緒に神の家に参りましょう、ぼくも主を愛しているのですから、ぼくもこう云ったのですから。「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です[ルツ1:16]。あなたの天国は、永遠にぼくの天国でもあるという希望があるのですから」、と。おゝ! この場にいる、かつて道を踏み外した人々のだれかが、このようにして実家に帰ることになったら、何と幸いなことであろう! 光栄なことに私は、少し前に、ある尊い施設のために説教する機会があった。それは身を持ち崩した婦人たちを収容する施設であった。――そして、その説教を語る前に私は、それを祝福してくださるよう神に祈った。そして、印刷されたその説教を読めば目に留まるように、その末尾には、その説教によっていかにふたりの人が祝福され、回復されたかが記されている。さて、以前ヴァンダーキスト氏という市内伝道者が経験したことについて話させてほしい。彼は、その大いなる働きによって善を施すべく、夜を徹して懸命に労している人である。あるとき、町通りで、酔いどれが騒ぎを起こしたことがあった。彼は男たちの間に割ってはいり、そこに立っていたひとりの婦人に、人々がこのように酒に溺れるとは何と恐ろしいことか語った。彼女は少し彼と連れ立って歩いて行き、自分の受けた災難と罪の話を語り始めた。――いかに彼女がサマセット州の両親の家から誘い出されたか、また、このような場所で育つことになったために、いかに自分の魂を永遠に傷つけることになったかを告げた。彼は、彼女を家まで送り届け、キリストを恐れ、愛することを彼女に教えた。では、彼女が敬虔の道に立ち返り、キリストを罪人の《救い主》として見いだしたとき、最初にしたことは何だっただろうか? 彼女は云った。「さあ、私は自分の家、自分の家族のところに帰らなくては」。彼女の家族は、手紙を受け取って、ブリストルの駅まで彼女を迎えにやって来た。あなたは、それがいかに幸いな再会であったか思い描くことは到底できないであろう。父母は自分たちの娘を失い、全く何の便りも受け取らなかったのに、その彼女がこの施設*1の働きによって、ここに連れ戻され、家族の胸の中に回復されたのである。あゝ! もしそのような人がこの場にいるとしたら! はっきりとはわからないが、これほど大勢の人の中には、そうした人が必ずやいるであろう。婦人よ! あなたは、あなたの家族のもとからさまよい出ているだろうか? 長いこと家族から離れていただろうか? 「あなたの家、あなたの家族のところに帰り……なさい」。私は切に願う。あなたの父上が、その墓の中によろめき入る前に、また、あなたの母上の白髪がその棺の雪白の枕の上に眠る前に、戻って行くがいい。私は切に願う! 母上に、私は悔い改めましたと申し上げるがいい。神が自分と出会ってくださったことを告げるがいい。――あの若い教役者が、「あなたの家、あなたの家族のところに帰りなさい」、と云ったことを知らせるがいい。そのようになるとしたら、私はこうした話をしたことで赤面しはしない。人によっては、私がこうしたことに言及すべきでなかったと考えるかもしれないが関係ない。そうした魂を1つでも獲得できるとしたら、私は永遠に神をほめたたえるからである。「あなたの家、あなたの家族のところに帰りなさい。そこに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったかを、知らせなさい」*。あなたは、本日の聖句で言及されている、このあわれな悪霊つきが家に帰ったときの光景を、想像できないだろうか? 彼は荒れ狂う狂人であった。彼がやって来て、扉を叩いたとき、あなたは、彼の家族が恐怖にかられて互いに呼びかけ合う姿が目に浮かばないだろうか? 「おゝ! あれがまたやって来た」。母親は二階に駆け上がり、鍵という鍵をかけてしまった。息子が荒れ狂う気違いとなってやって来たからである。小さい子どもたちは泣いていた。彼が以前どんなふうであったかを知っていたからである。――彼が悪霊どもにとりつかれていたがために、いかに石で自分を傷つけていたことか。では、彼がこう云ったときの彼らの喜びを思い描けるだろうか? 「母さん! イエス・キリストが私を癒してくださいましたよ。中に入れてください。私はもう気違いではありませんよ!」 そして父親が扉を開いたとき、彼は云った。「父さん! 私はもう以前の私ではありません。悪霊どもはみないなくなってしまいました。私はもう墓場で暮らしたりしません。どうか話を聞いてください。私を解放してくださった、あの素晴らしいお方が、どのような奇蹟を行なわれたかを。――どのようにして彼が悪霊どもに向かって、『引き下がれ』、と云われたかを。すると奴らは、険しいがけを駆け降りて、湖へなだれ落ちてしまったのです。それでは私は、癒されて、救われて、家に帰ってきたのですよ」。おゝ! もしそのような人、罪に取りつかれた人が、今朝この場にいるとしたら、また、自分の家、自分の家族のところに帰って行き、自分の解放について知らせるとしたら、その光景は同じようなものとなると思う。 

 もう一言云いたい。愛する方々。私はあなたがたの中のある人がこう云っているのが聞こえる。「あゝ! 先生。私が敬神の念を有する家族のもとに里帰りできたらどんなに良いことでしょう! ですが、実家に帰るとき私は最悪の場所に行くのです。というのも、私の家は、神を一度も知ったことのない人々に属しており、それゆえ一度も私のために祈ったことがなく、一度も天国に関することを私に教えてくれなかったのです」。よろしい。若い人よ。あなたの家、あなたの家族のところに帰るがいい。どんなに悪い家族であったとしても、彼らはあなたの家族なのである。私が教会に加わりたいという若い人々と面会し、彼らにその父親について尋ねると、時としてこう云われることがある。「おゝ、先生。父とは絶縁状態です」。そこで私は云う。「お若い人。あなたが実家に行き、父上に会ってくるまで、私はあなたと何の関わりも持ちません。もしあなたが自分の父母と険悪な関係にあるのだとしたら、私はあなたを教会に受け入れようとは思いません。どんなに悪い人だとしても、彼らはあなたの両親なのですよ」。あなたの家、あなたの家族のところに帰り、知らせるがいい。それは、彼らを喜ばせるためではない。彼らはまず間違いなくあなたに怒りを発するであろう。むしろ、彼らの魂の救いのために彼らに知らせるがいい。神があなたのために何をしてくださったをあなたが物語るとき、私が希望するのは、彼らが御霊によって導かれ、自分でも同じあわれみを願い求めるようになることである。しかし私は、あなたに1つの心得を与えようと思う。この物語は、あなたの不敬虔な家族が全員一緒にいるときに知らせてはならない。彼らはあなたを笑い者にするだろうからである。彼らをひとりひとり選び出し、彼らがひとりきりになる時間に、それを彼らに知らせ始めるがいい。すると彼らは真剣にあなたの話を聞くであろう。かつて、ひとりの敬神の念に富む婦人が、青年たちのための下宿屋を経営していた。青年たちはみな、非常に陽気で、軽薄であり、彼女はキリスト教信仰に関することを何か彼らに云いたいと思っていた。だが彼女がその主題を持ち出すと、それはたちまち一笑に付されるのだった。彼女は内心で、「やり方が間違っていたわ」、と考えた。翌朝、彼女は、朝食後に彼らがみな出かけていくとき、彼らのひとりに云った。「ねえ、ちょっとお話をしてもいいかしら」。そして、彼を別の部屋に呼び寄せると、彼と話し合った。翌朝、彼女は別のひとりをつかまえ、さらに翌朝にも、別の人をつかまえた。そして神は、彼女の素朴な言明が口にされるやすぐに祝福してくださった。だが、疑いもなく、もし彼女が彼ら一同に語りかけていたとしたら、彼らは互いに支え合って、彼女を笑い、あざけっていたであろう。人をとがめるのは、ひとりきりのときにするがいい。説教ではとらえられない人を、ほんの一節が直撃することもありえる。あなたは、みことばをしばしば聞いていながら、それを笑い飛ばしていた人をキリストに導く手段となるかもしれない。そうした人は、優しい勧告には抵抗できないのである。米国のとある州に、ひとりの不信心者がいた。彼は神をはなはだしく軽蔑し、安息日を憎み、いかなるキリスト教団体をも憎んでいた。この人をどうしたらよいか教役者たちは途方に暮れていた。彼らはともに集まり、彼のために祈った。しかし、残りの人々の中の、某という長老は、彼のために長時間を費やして祈る決意をした。そしてその後、馬に乗って彼の鍛冶場へと向かった。この男は鍛冶屋だったからである。彼は表で馬を下りると、こう云った。「お隣りさん。わしはあんたの魂の救いのことがたいそう深く心にかかっておる。わしは、あんたの魂の救いのために一日と一晩、祈っておったのだよ」。彼は男のもとを離れて、また馬に乗って帰って行った。この男は、一、二分してから家の中に入り、自分の忠実な友人のひとりにこう云った。「これは新手の理屈だわい。いま、某長老がここに来たんだが、議論は何もせんかった。ほんの一言しかおらには云わなかった。『わしはあんたの魂のことがたいそう深く心にかかっておる。わしはあんたが失われることに耐えられん』、とな。おゝ、あやつめが」、と彼は云った。「これには答えられん」。彼の頬を涙が流れ落ち出した。彼は細君のところに行くと、こう云った。「おらには、どうしてもわからねえ。おらは自分の魂のことなどどうでもいいと思っとるが、ここにひとりの長老がいて、おらとは何の関係もねえし、おらがいつも笑っておったのに、今朝、五哩も馬に乗ってやって来ては、ただおらの救いのことが心にかかっておるとだけ云いに来たのだとよ」。しばらくしてから彼は、自分もいいかげんに自分の救いについて心にかけるべき時だと考えた。彼は奥に入り、扉を閉ざすと、祈り始めた。そして、翌日、彼はその執事の家に来て、自分もまた、自分の救いのことが心にかかっていると告げ、救われるためには何をしなくてはならないのかと尋ねた。おゝ! 願わくは永遠の神が、今この場にいる人々の何人かをも同じようなしかたで用いてくださり、彼らがこのような行ないへと導かれるように。

   「まわりの者に 告げよかし
    汝れの知りたる 救世主(きみ)のことをば。
    その贖いの 血を示し
    ひとにぞ語れ、見よ、神の道を、と!」

 III. 私は、これ以上長くあなたを引き留めまい。だが、第三の点があるので、それをごく手短に扱うことにする。《この物語はいかにして告げられるべきだろうか?》

 第一に、これは、ありのままに告げるがいい。自分が知っている以上のことを告げてはならない。自分自身の経験を告げるべきであるときに、ジョン・バニヤンの経験を告げてはならない。ラザフォードしか感じなかったようなことを自分の感じたこととしてあなたの母に告げてはならない。真実を越えたことを母上に告げてはならない。あなたの経験をありのまま告げるがいい。というのも、ことによると、そうしないことによって九仞の功を一簣に欠き、真実ならざるあなたのほんの一言がすべてをだいなしにするかもしれないからである。この物語はありのまま告げるがいい。

 次のこととして、それは、ごく謙遜なしかたで告げるがいい。これは先に述べたことである。年上であり、あなたよりもよく物を知っている人々に自分の意見を押しつけてはならない。あなたの物語は謙遜に告げるがいい。説教者のようにではなく、権柄ずくにではなく、身内の者として、また柔和な子どもとして告げるがいい。

 次に、それは、ごく真剣なしかたで告げるがいい。あなたが本気であることを見てとらせるがいい。キリスト教信仰のことを軽薄に語ってはならない。さもないと、あなたは何の善も施せないであろう。聖句で駄じゃれを云ってはならない。聖書を冗談に引用してはならない。そうしたことをする人は、いかに口を酸っぱくして語っても、何の善も施せないであろう。あなた自身が聖なる事がらを笑いものにし、彼らに笑う機会をこれっぽっちでも与えるならばそうである。それは、ごく真剣なしかたで告げるがいい。

 それから、それを、ごく敬虔なしかたで告げるがいい。あなたの話は、まず神に告げた後でなければ、人に告げようとしてはならない。あなたがキリスト降誕日に実家にいるときには、神に見られるまで、だれにもあなたの顔を見せてはならない。朝早く起き出し、神と格闘するがいい。そして、もしあなたの家族が回心していないとしたら、彼らのために神と格闘するがいい。そして、その後であなたは、神のために彼らと格闘することが容易な務めであることに気づくであろう。できるものなら、彼らをひとりずつ捕らえ、この物語を告げてみるがいい。恐れてはならない。ただ、あなたが施せるかもしれない善のことだけを考えるがいい。思い出すがいい。魂を死から救い出す者は、多くの罪を覆い[ヤコ5:20]、自分の冠に永遠に星を戴くことになるのである。神の下にあって、あなたの家における《救い主》となることを求めるがいい。あなた自身の愛する兄弟姉妹たちを導き、主イエス・キリストを求め、捜させる手段となることを求めるがいい。そうするとき、いつの日か、あなたがたがパラダイスで会うときには、あなたがそこにおり、神があなたを救いの媒介とされた、あなたの家族もまたそこにいると考えることは喜びとなり幸福となるであろう。聖霊を全く、また誠実に頼りとするがいい。あなた自身に信頼してはならない。だが、御霊に信頼することを恐れてはならない。御霊はあなたに言葉を与えることがおできになる。御霊はそうした言葉を彼らの心に適用することがおできになる。そして、そのようにして、あなたを「聞く人に恵みを与え」る[エペ4:29]者とすることがおできになる。

 しめくくりに、この聖句を手短に、また、喜ばしい方向と思われる向きに転換させて、別の意味を示唆してみよう。愛する方々。《主人》はすぐに――私たちの中のある者らには非常に間近に――こう云われるであろう。「あなたの家、あなたの家族のところに帰りなさい」。あなたは、その家がどこにあるか知っている。それは、星々のはるか上方にある。

   「ここに住まうは わが親友(とも)親族(みうち)。
    ここで統(す)べるは 《救主》(すくい)のわが神」

そちらにいる、白髪の男性は、自分の家族全員を葬ってきた。その人は云ってきた。「私は彼らのところに行くだろうが、彼らは私のところに戻っては来ない」*[IIサム12:23]。だが、じきにその人の《主人》は云われるであろう。「あなたは、この涙の谷に十分とどまっていた。あなたの家、あなたの家族のところに帰りなさい!」 おゝ! 幸いな時よ! おゝ! ほむべき瞬間よ。この言葉がやがて云われるのである。――「あなたの家、あなたの家族のところに帰りなさい!」 そして私たちが、パラダイスにある自分の家、自分の家族のところに帰るとき、私たちは何をするだろうか? 何と、まず私たちは、イエスが着座しておられるほむべき座へと赴き、自分の冠をはずして、御足のもとに投げ出し、万物の主たる冠を主に戴かせるであろう。では、それをし遂げてから、何が私たちの次の用向きとなるだろうか? 何と、私たちは天国にいる幸いな者たちに向かって、主が私たちのために何をしてくださったか、また、主が私たちをいかにあわれんでくださったかを知らせるであろう。そのような話が天国で語られてよいだろうか? それが御使いたちの降誕祭祝歌となってよいだろうか? しかり。そうなってよい。それは、すでに以前もそこで披瀝されたことがある。――もう一度それを知らせることに赤面してはならない。――というのも、イエスは先にこう告げておられるからである。「その人は……帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう」[ルカ15:6]。そして、あわれな羊のあなたは、そこに集め入れられたとき、こう語らないだろうか? あなたの《羊飼い》がいかに自分を捜し求め、いかに自分を見つけ出してくださったかを。あなたは、天国の豊かな牧草地に座り、自分の救拯の物語を知らせないだろうか? あなたの兄弟たちや姉妹たちと語り合い、彼らに、神がいかにして自分を愛し、そこへ連れて来てくださったかを知らせないだろうか? ことによると、あなたはこう云っているかもしれない。「それは、ごく短い物語になるでしょう」。あゝ! もしあなたが今それを書けるとしたら、そうなるであろう。あなたの伝記の全体は、ほんの小さな書物かもしれない。だが、かの上つ方では、あなたの記憶は広げられ、あなたの情動はきよめられ、あなたの理解は明晰にされ、地上ではほんの小冊子にすぎなかったものが、天国では巨大な大著となることを見いだすであろう。あなたはそこで、神の支え給い、抑え給い、しいて行なわせ給う恵みについて、長い物語を告げるであろう。そして、あなたが一息ついて、他の人にその物語をさせ、さらに他の人に物語らせ、また他の人に物語らせた最後には、天国で一千年も経っており、あなたがたは一斉にこう叫ぶであろう。「おゝ、聖徒たちよ。私はまだ他に語ることがあります」。再び彼らは自分たちの物語を告げ、再びあなたは彼らをさえぎって、「おゝ、愛する方よ。私は神の救い出し給うあわれみについて、もう1つ別のことも思い出しました」、と云うであろう。そして、そのようにしてあなたは続けて行くであろう。そして、彼らに数々の歌の題材を与え、それらが天における十四行詩の縦糸と横糸をなす素材であることに気づくであろう。「あなたの家に帰りなさい」、と主はすぐに云われるであろう。「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい」。しばし待つがいい。主の都合がつくまで待つがいい。あなたがたは、じきに死後の国、ほむべき者たちの家、終わりなき至福があなたの分け前となるところへと集められるであろう。願わくは神が、ご自身の御名のゆえに祝福を与えてくださるように。

  


*1 ロンドン女性寄宿寮。[本文に戻る]

 

家に帰る――降誕祭説教[了]

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