不安定さ
NO. 158
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---- 1857年10月11日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂「水のように奔放なので、もはや、あなたは他をしのぐことはない」。――創49:4
完璧な確固不変さなどというものは、アダムが堕落した日以来、絶えて世にはなくなった。アダムは、あの園にいた頃には、十分に揺るぐことなく自分の《主人》の意志に従っていた。だが、禁じられていた木の実を食べたとき、彼は単に自分が滑っただけでなく、彼の全子孫の立ち位置を揺るがしたのである。完璧な確固不変さは、ただ神にのみ属している。神だけが、万物の中で唯一、移り変わりや、移り行く影のないお方なのである[ヤコ1:17]。神は不変であり、変わることがない。知恵に満ちており、変わる必要がない。完璧であり、変わることはありえない。しかし人間は、その最上の者といえども変わりやすく、それゆえ、ある程度まで奔放[不安定 <英欽定訳>]であり、他をしのぐことがない。それにもかかわらず、注目すべきことに人間は、完璧な確固不変さを失ってしまったとはいえ、それを賞賛する心まで失ってはいない。ことによると、この世のいかなる美徳にもまして、あるいは、むしろ、いかなる美徳の組み合わせにもまして世間が重んじるのは、精神の確固不変さかもしれない。あなたも見いだすであろうところ、人々は、しばしば見当違いな対象を賛美し、偉大でもない者を偉大と呼んできたが、いかに道徳の基準がはるかに下落しようと、無節操な人や、揺るぐことなく自分の筋を通すだけの精神力を有していない人を偉大であると呼んだことは、めったにない。私はなぜそうなのかは知らないが、そうであることは知っている。私たちは、ある人が堅固で首尾一貫しているときは常に、そのことゆえにその人を賞賛する。たとい、私たちから見れば確実に間違っていると分かる人であっても、それでも、間違ったことを貫き通そうとするその人の姿勢は、私たちの賞賛を呼び覚ます。私たちは、常々ある人々のことを正気ではないと思っている。彼らの思い描く途轍もなく馬鹿げた計画は、笑って軽蔑するしかないような思いつきである。だが、彼らはそれに固執し続ける。それで私たちは云うのである。「やれやれ。とことん何かにこだわり抜く人には、かなわないな」。また、無分別で、脳なしの痴愚と思っている人をすら、彼が屈することなく、最後には自分の考えが勝つと主張し、自分の願いを実現するための空しい努力をやり抜こうとするのを見るときには賞賛してきた。風見鶏的な人は決して賞賛されない。政治家としても、他の何かとしても、決して成功しない。人は黒白はっきりした立場に立たない限り、世から決して尊敬されないものである。
さて、私の兄弟たち。もし地上の事がらについてそう云えるとしたら、霊的な事がらもそれと同じである。キリスト教信仰において不安定であることは、あらゆる人が軽蔑することである。あらゆる人が、ある程度までは、この悪を有しているとしても関係ない。逆に信仰告白を堅く保ち、敬虔を揺るぎなく実践する人は、世俗的な人からさえも、常に敬意をかちとるものである。いわんや、その微笑みが誉れとなり、その褒め言葉が栄光となるお方、すなわち大いなる主であり私たちの仕えている《主人》であるお方から忘れられることはない。この場にいる多くの性格の人々に向かって、私は本日の聖句の言葉を通して語りかけたいと思う。「水のように奔放なので、もはや、あなたは他をしのぐことはない」。私がまず手短に注目させたいのは、最上のキリスト者たちにも伴わざるをえない一般的で、避けがたい不安定さである。それから私が注目したいのは、はなはだしい不安定さの目立つキリスト者の性格である。この人々は、そうした不安定さにもかかわらず、それなりの程度までは敬虔さを有しており、どうしても神の子どもであると思わざるをえない人々のことである。それから私が扱わなくてはならないのは、口先だけの信仰告白者である。この人々は、「水のように奔放」であり、かつ、いかなる点でも他をしのぐことがない。そしてそれから私が取り上げなくてはならないのは、不安定な罪人である。こうした人は、いかに感じ入ったような見かけをしていようと、常に朝早く消え去るもやや朝露[ホセ6:4参照]のようである。
I. では第一に、《すべての》キリスト者に向かって語りかけさせてほしい。私たちの先祖アダムは、私たち全員を損なってしまった。そして第二のアダムは、確かに私たちを新しくしはしたが、第一のアダムが悲しき遺産として私たちに残した種々の弱さをまだ私たちから取り除いてはおられない。私たちの中の誰ひとりして、本来あるべきほどに確固不変である者はいない。私たちは、回心したばかりの頃は、自分は何の変化もしないだろうと考えていた。私たちの魂は愛に満ち満ちており、この一途な敬虔さにおいて自分にだれることがありうるなどとは想像もできなかった。私たちの信仰は、自分の《受肉した主人》を力強く信じており、疑いや恐れについて語る年長のキリスト者たちを憫笑するほどであった。私たちの顔はしっかりとシオンに向けられており、私たちの足が横道の放牧地に踏みつけることになろうとはまるで想像しなかった。私たちは、自分の行く手が「あけぼのの光のよう」で、「いよいよ輝きを増して真昼となる」[箴4:18]に違いないものと確信していた。しかし、私の兄弟たち。事は私たちの思い通りになっただろうか? 私たちはこの日、自分が非常に変わりやすく、首尾一貫せず、まさに水のように奔放であることを嘆かなくてはならないではないだろうか? いかに私たちは自分の心持ちにおいて不安定であったことか。きょうはビスガの頂に登り、信仰の目によって天的な光景を眺め渡したかと思うと、明日は絶望の地下牢に沈み込まされ、一粒ほどの希望も自分のものと云うことができない。きょうは交わりの宴席で大いに楽しんでいたかと思うと、明日はこう叫んでいるのである。「ああ、できれば、どこで神に会えるかを知り、その御足のもとへ行きたい」*[ヨブ23:3]。夜には私は、「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ」[創32:26]、と云っていたのに、次の日になると握りしめていた手は緩み、祈りはないがしろにされ、神がこう仰せになるほどになる。「わたしは、わたしのいこいに戻っていよう。お前が私に対して犯したそむきの罪を認めるまでは」。ある日は心持ちが高揚し、翌日には沈み込んでいる。私たちは、わが国の変わりやすい天候にもまさる変転を経てきた。私たちにとって大きなあわれみは、種々の心持ちや感情が、必ずしも私たちの安全さを示すしるしではないということである。私たちは、歌っているときと同じくらい悲嘆に暮れているときも安全だからである。だが、まことに、もし神の前における私たちの真の状態が、神の臨在を私たちが経験するのと同じくらい目まぐるしく変わるものだとしたら、私たちは何年も前に底知れぬ所に放り込まれていたであろう。
さらに私たちは、自分の信仰においていかに移ろいやすかったことか! ある苦難のただ中で私たちは、「見よ。神が私を殺しても、私は神を待ち望もう」*[ヨブ13:15]、と宣言した。私たちは嘲りをものともせず、この世の蔑みを笑い飛ばし、万人が敵に回ろうとも、泡立つ波のただ中にある巌のように立っていた。ところが別の週になると私たちは、自分の《主人》を否定した後で尻に帆かけて逃げ出した。ペテロのようにどこかの小さな女中に、あるいは私たち自身の影に怯えてしまったからである。大きな苦難を抜け出てきた後で私たちは決然と、「私が神を疑うことは二度とありえない」、と宣言したが、次の雲が空を覆うと、私たちの信仰はことごとく暗澹たるものとなってしまった。私たちは自分の信仰において移ろいやすいものであった。
また、愛する方々。あなたは時として自分の愛において移ろいやすいことを感じたことはないだろうか? 甘やかな《主人》よ、天の《王》よ、一千もの美にまさる美しいお方よ! 私の心はあなたに結ばれています。――私の魂はあなたのお名前が口にされるたびに溶けていきます。私の心は素晴らしい言葉でわき立っています。私が《王》に私の作ったものを語るときには[詩45:1]。
わが心を巻く 弦(つるいと)を
苦難(せめく)と苦痛(いたみ) はぎとるも
そは つゆだにも 分離(わか)ちえじ、
わが慕う主を、我れの抱擁(いだ)くを」。確かに、私はあなたのためなら死ねます。またそのようにして私があなたに誉れを帰すことができるとしたら、それをいのちにもまさることと思います。これは、私たちの愛が熱く燃えている際に、私たちの霊が示す甘やかな様子である。だが、ほどなく私たちはその火をおろそかにし、それは薄暗くなり、私たちは火花1つをも探して灰の中を引っかき回しながら、こう叫ぶことになるのである。
「こは わが切に知らんと欲し、
しばしば不安をかき立てしこと。
われ主を愛すか さにあらざるか、
われ主のものなるか、さにあらざるか」。私たちは何と不安定なことか! ある時には自分は主のものであると全く確信している。たとい天からの御使いが私たちの選びや、私たちが子とされていることを否定しようと、私たちは、自分が神から生まれたことは御霊が証ししておられるのだ、と答えるであろう。だが、ことによると、それから二分もしないうちに、私たちは、自分が一度でも霊的な感じ方をしたかどうか分からないと云えるようになるかもしれない。ことによると、自分は正しく悔い改めていなかったのだ、正しくキリストのもとに逃れて来なかったのだ、魂の救いに至るような信じ方をしたことがなかったのだ、と考えるかもしれない。おゝ! これほど不安定な生き物である私たちが他をしのぐことがないのも不思議はない。悲しいかな! 私の兄弟たち。私たちはおびただしい数のキリスト者たちがいかに首尾一貫していないかについて、いくらでも詳しく述べることができる。いかに私たちは自分の献身の誓いに対して不忠実であったことか! いかに親密な交わりを怠ってきたことか! いかに聖なるエノクとは似ても似つかぬ者であったことか! いかにあの、遠く離れてついて行ったペテロ[ルカ22:54]に酷似していたことか! 私には告げることができる。いかに私たちが、水夫のように、ある日には天へと持ち上げられながら、次の瞬間、神の恵みの波頭が私たちを掲げているのをやめると、最低の深みへと落ち込んでしまうかを。私が驚くのは、ダビデや、ヤコブその他の、聖書に記されている卓越した人々のあらゆる事例である。驚愕せよ! おゝ、あなたがた、御使いたち。神が、私たちのような黒い汚点から、あれほど輝かしい星々を作り出されるとは。あれほど気まぐれで、あれほど首尾一貫していない人が、それにもかかわらず、その神の家の柱となり、「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励」む[Iコリ15:58]者とされるとは! いかにしてですか、おゝ、私たちの神よ。あなたが、これほど簡単に風という風に吹き回され、波という波に突き動かされてしまう船の針路をこれほど安全にその港まで導くことがおできになるとは! これほどねじ曲がった矢を真っ直ぐにその的めがけて射ることのできる者は、弓矢の達人である。私たちが他をしのぐことがなくとも驚いてはならない。――私たちのように不安定なものが何かで他をしのぐことがあったりしたら、そのときこそ驚くがいい。
II. さて今、こうした一般的な指摘から離れて私は、特定の種別の人々を選び出さなくてはならない。私はそうした人々が《真のキリスト者》であると信じているが、彼らは異常な種類のキリスト者である。私は、彼らを罪に定めるほど辛辣になろうとは思わないが、今から非難しようとしている過ちのことは確かに罪と定めなくてはならない。私は彼らが偽りなく回心していることを疑っていないが、それでも彼らはしばしば私にとって謎であり、彼ら自身にとっても謎なのであろうと思う。わが国の諸教会の中のいかに多くのキリスト者たちが水のように奔放なことか! 彼らはそのように生まれついているのだと思う。彼らは、仕事においても、キリスト教信仰においてと同じくらい不安定である。彼らは乾物屋を開く。だが三箇月もしないうちに店を閉じては、呉服屋になる。そして、破産寸前になるまでその呉服屋を続けては、続いて他の何かに転ずる。子どもだった頃の彼らは、一度もある遊戯を最後までやり通すことができなかった。何か新しいことを始めないではいられなかった。そして今、彼らは子どもだった頃と同じくらい子どもじみているのである。教理における彼らを見てみるがいい。彼らがどこに立っているかは決して分からない。ある日、彼らに出会うと、彼らは何らかの高遠きわまりない教理で満々になっている。強固にカルヴァン主義的な立場にのめりこんでおり、そのはなはだしく高踏的な教理のほか何も彼らの性に合わず、それも苦い胆汁で多少味つけされていなければ、それを純粋なものとは考えられないのである。だが次の週になると、十中八九彼らはアルミニウス主義者になっている。彼らは定まった運命に関する考え方を捨て去り、自由意志と、人間の責任とについて、原始メソジスト派の誰にも負けないくらい熱心に語っているであろう。それから彼らは別の方向に舵を取る。「英国国教会のほか正しいものはありません。それは国法によって定められたものではないでしょうか? あらゆるキリスト者は自分の教区教会に集うべきではないでしょうか?」 あゝ! あゝ、放っておけば彼らは、そのうちに首都の中でも最も毒々しく分派的な所に行き着いているであろう。あるいは、たとい彼らが自分たちの教派を変えなくとも、彼らは常に自分の教役者を取っ替え引っ替えしている。ある新しい教役者が働きを始めると、使徒たちの時代以来、誰ひとり彼のような者はいなかったとされ、彼らは座席を予約してはその教会に加入する。その教役者に彼らは夢中になる。だが三箇月もしないうちに、彼は愛想を尽かされる。新しい教役者が少し離れた所に立ち上がると、こうした人々はどれだけ歩くことになっても構わずに、その人の話を聞きに行く。その人こそはその時代最高の人である。他のいかなる人のろうそくが消え果てても、その人のろうそくは燃え続けるであろう。しかし、ちょっとした問題がその教会に起こると、彼らはその人をも見放す。彼らは何にも固着しない。宙を漂う羽毛か、波間に浮かぶ藻屑にすぎない。ある説教が語られるのを聞くと、「とても教えられるお話でした」、と云うが、その教会の会員であるどこかの偉物と話をするまで、自分の意見に確たる自信を持とうとはしない。そして、相手から、「おゝ! あんな話には何の値打ちもありませんな!」、と云われるや、「あゝ! そうでしょうとも」、と云う。それが良い説教だったかどうか自分では結論を下せないのである。彼らは不安定である。ちょっと口をきいただけで、ある立場に入れたり、ある立場から引き離すことができる。彼らは頭の中に全く脳味噌を持っていなかったのだと思う。あるいは、少しはあるとしても、それを誰か他の人が好き勝手に引っかき回すにまかせていたのである。彼らはつい直前に話を聞いた人を信じるし、その人から手もなく導かれたり、引き回されたりしている。
さて、そこで終わっていたとしたら、事はそれほど悪くなかったであろう。だが、こうしたあわれな人々は、自分が手がけるいかなる信仰的な働きについても全く同じようにするのである。そこに、《日曜学校》がある。彼らはその考えに魅せられている。木製の長い腰掛けに座って、五、六人の少年たちに天国への道を教えようとするのは、何と麗しいことであろう。だが彼らが《日曜学校》へ行くと、初日から肝を潰す。その少年たちが全員、教師たちよりも声高にがやがや騒いでいるのである。十分ほどもすると、彼らはそれが思っていたほど素敵なものではないと考える。ことによると、彼らは、自分の気に入らないのはその特定の学校だろうと考え、別の日曜学校を試してみるかもしれない。そして、しまいには彼らは、どの《日曜学校》で教えることもあきらめて、それは良いことではないのだ、少なくとも自分には、と心を固める。それから《貧民学校》がある。何と天的な事業であろう! 私たちは《貧民学校》の教師となろう。それで彼らは熱情で心を満たしつつ、また、今から自分が教えようとしている、このあわれな貧民学校の子どもたちに対する涙を目に浮かべつつ出かけて行く。あゝ! いかにたちまち彼らの熱心はしなび、彼らのあらゆる栄光は去ってしまうことか! 一箇月後に彼らが《貧民学校》について何と云っているか聞いてみるがいい。彼らは頭を振って、それは非常に難しい働きです、と云う。自分はそれに召されていなかったのだと思います。これからは何か他のことをやってみます。それで彼らは永久にそのようにし続ける。彼らは、「ものみな順に手がけはしたが、長続きせる試しなし」であった。牧会伝道職にある一部の兄弟たちも、これと非常によく似ている。彼らは決してある講壇で長く説教することがない(もっとも、ある人々に云わせれば、彼らは決してそこで説教すべきではなかったのであって、それでも長すぎたくらいだという)。だが私は時として思う。もし彼らがもう少し勇気をもって、もう少し戦いの矢面に立っていたとしたら、自分たちが置かれた村々の一部の人々には善を施していたかもしれない、と。しかし彼らは水のように奔放であって、他をしのぐことがないのは誰の目にも明らかである。同じ不安定さを、人々はその友情においてもかかえている。彼らはある日ひとりの人と出会い、その人に対してこれ以上ないほど優しく接する。翌日その人が彼らと出会うと、自分では何1つ彼らの気分を害した覚えはなくとも、彼らはぷいとあちらの方を向いてしまう。また、ある人々はその不安定さをさらに進めて、その道徳的性格へと持ち込む。私はそうした人々のキリスト教を否定するつもりはないが、彼らは奇妙な種類のキリスト者である。というのも、こうした人々は、敬虔さの紐を長く伸ばしすぎることが――少なくとも――時々あり、大概の場合は良心的な行動をしていても、その良心は広やかなものであり、繊細な心の人々が過ちと考えるような多くのことを許容するのである。私たちは、陪餐停止にするほどの罪悪を彼らに見いだすことはできないが、それでも私たちの心の中でしばしばこう云う。「何てことだ! 御国の進展にとって、誰それは何という不名誉だろう。あれがいない方が、いる場合よりもずっと私たちは先へ行けるだろうに。あれがキリストの御名に何という泥を塗っていることか」。
さて、私が想像上の絵を描いていると思ってはならない。そうではないと云わせてほしい。この場には、私の話の原型となっている何人かの人々がいる。そして、もしそうした人々が、私の話をあてこすりだと思うとしたら、私は嬉しく思う。私はあてこすろうとしているからである。こうした人々はどの教会にも、どの教派にも見られる。人は至る所で彼らに出会う。彼らは水のように奔放で、他をしのぐことがない。
さて、こうした人々に向かって、ごく熱心に語らせてほしい。私の兄弟たち。私は決してあら探しする心であなたを扱ってきたのではない。というのも、私には、あなたの不安定さは、多少とも何らかの潜在的な狂気に由来しているような気がするからである。私たちは疑いもなくみな、ある程度まで正気でない部分がある。私たちの中には何か小さなことがある。もし私たちがそれを他人のうちに見たとしたら、気違いじみているとみなうような何かがある。それゆえ、私の兄弟たち。私は非常に寛大にあなたを扱おうと思う。だが、それと同時に、キリスト教の教役者が、キリスト教信仰を告白するキリスト者に対して語るように、非常に厳格にあなたに語らせてほしい。私の兄弟たち。あなたは、教会の中で、また世において、あなたの不断の不安定さによって、どれほどの道徳的重みを失っているだろうか。これまであなたの意見に何らかの重きを置いた人はひとりもいなかった。あなたの意見が何の重みも含んでいないからである。あなた自身、ごく僅かな間にそれを否定するようになるのを見ればそうである。あなたは多くの人々が教会の中で育ち、自分たちの隣人に対して良い影響を及ぼしているのを見ている。あなたは時として、自分も若い回心者を強めることができたら、あるいは、さまよう者を引き戻し、導くことができたらと思う。私の兄弟たち。あなたにそれはできない。あなたが不安定だからである。さて、あなたが、単に常に不安定であるという、あなたのこの狂気の習慣のためだけに、自分の全人格の力と重みを投げ捨てているというのは、恐ろしいことではないだろうか? 私は切に願う。私の兄弟たち。あなたの影響力について、あなたが神に責任を負っていることを思い起こしてほしい。そして、もしあなたが影響力を振るうことができるのに、それを得ていないとしたら、あなたは、あたかも影響力を持っていてそれを悪用した場合と同じくらい罪深いのである。私は切に願う。このような不安定さを続けてはならない。あなたが風の吹き飛ばすもみがらのように――世に対して何の値打ちもないものと――なってはいけないからである。あなたは、ある農夫が長々と自分の畑を耕し自分の麦を蒔いていながら、収穫を得る前に働くのをやめてしまうとしたら何と考えるだろうか? 愚か者と思うであろう。だが、あなたはそれと同じくらい愚か者なのである。あなたは、くたくたになるほど何度となくやり直しをしても、決してうまい出だしを切ったことがない。これまでの自分のあり方を顧みてみるがいい。あなたは何をしてきただろうか? あなたは何事かをしようとして何百回もむなしくあがいてきたが、失敗の一覧だけがあなたの働きの記録であるに違いない。あなたが臨終の時を迎え、自分の人生を振り返ったとき、また、それを最初から見通してみたとき、それが愚かしい間違いの山でしかないことを見てとるとしたら、そのときのあなたは、いかに精神の苦悩を覚えると思うだろうか? あなたは、それがあなたの死の枕に茨を詰め込むようなことだと思わないだろうか? もしも、あなたが移り気すぎ、また、心が不安定すぎたがために、自分の《主人》のために何事も成し遂げることができず、自分の冠を主の足元に置くとき、こう云わざるをえなくなると考えるとしたらどうだろうか。「ここに私の冠があります、ご主人様。けれども、それには一個も星がついていません。私は決してあなたのためには、いかなる1つの働きにおいても魂をかちとるだけ長く働かなかったからです。私がしたことといえば失敗ばかりで、誰からも物笑いになることばかりでした」。また、こうも考えてほしい。私の兄弟たち。今のあなたのように変わってばかりいるとしたら、いかにしてあなたがキリスト者として成長するなどということがありえるだろうか? もしある園丁が一本の木をきょう植えて、一月のうちにそれを引っこ抜き、それを別の場所に植え替えるようなことをするとしたら、秋になったときに、いかなる収穫が期待できるだろうか? その人は自分の骨折り仕事に報いるだけのものをほとんど得ないであろう。年がら年中、植え替え続けるとしたら、それは非常に弱々しい状態になってしまい、たとい枯れはしなくとも、何の実も結ばないに違いない。そして、もしあなたに何も堅固な原則がないとしたら、いかにしてあなたは知識において成長することが期待できるだろうか? ある形式の教理を信奉する人、また誠実にそうする人は、たといそれが間違った形式であろうと、少なくともそれを理解しているであろう。だがあなたは、カルヴァン主義をその敵対者たちから擁護するほど十分によく知ってはいないし、アルミニウス主義をカルヴァン主義者たちから擁護できるほどよく知ってはいない。あなたは何においても賢くない。あなたは転がる石であって、何の苔もむさない。あなたはある学校に、その教課表を読み通す程度しか在籍せず、何も学ばないのである。私には、あなたが微笑んでいるのが見える。だがしかし、いま微笑んだ人々の中のある人々こそ、私たちが笑っている当の人々なのである。そうした人々はこの場にいる。しかし、悲しいかな! 私は、こうした人々について1つの悲しいことに気づいてきた。彼らは概してこの世で最もうぬぼれきった人々にほかならない。彼らは卓越した人間だと自分では考えている。何が起ころうと気楽にしている。たとい間違っていても、明日になれば正しくなれるし、たとい誰かがもう一度彼らに自分の間違いを確信させるとしても、彼らは間違いと真理の区別がまるで分からない。分かっているのはただ、他の人々が指摘したがる違いだけである。おゝ、あなたがた、不安定なキリスト者たち。主のことばを聞くがいい! 「水のように奔放なので、もはや、あなたは他をしのぐことはない」。あなたの人生は、その最高の幸福をほとんど有することがないであろう。あなたは、いかなる獅子も見いだされないような公道の真中を歩くことがなく、あらゆる危険と出会う道の端っこを歩くことになり、あらゆる危難を感じ、あらゆる災厄を忍ぶことになるであろう。あなたは、自分を生かしておくに足る神の慰めは受けるが、あなたの霊に喜びを与え、あなたの心に慰藉を与えるだけの慰めは得られないであろう。おゝ、私は切に願う。もう少しよく考えみるがいい。もう少しみことばを学び、何が正しいかを知り、正しいことを擁護するがいい。もう少し律法を学び、何が正しいかを知り、正しいことを行なうがいい。もう少し神のみこころを学び、神が何をあなたに望んでおられるかを知り、その後、それを行なうがいい。というのも、不安定なキリスト者であっては、決して他をしのぐことがないからである。
III. しかし今、別の種別の人々がいる。それは、いかに愛に満ちた心によっても、到底真のキリスト者であると認めるなどということはできない人々である。彼らは《信仰告白者》ではある。彼らはバプテスマを授けられた。主の晩餐を受けた。祈祷会や、教会の諸集会や、自分たちの関わっているキリスト教の派に属する一切のことにあずかっている。彼らは決してキリスト教信仰の実践において滞ることはない。彼らは最も敬虔な偽善者たちである。この世のどこで見いだされる人々にもまして敬神の念に富む形式主義者である。彼らの安息日における信仰は、極上の種類のものである。彼らの敬虔さは、彼らが会衆席にいるときには、非の打ち所がないものである。彼らは、誰よりも朗々と賛美し、誰よりも長く、人間が口にしうる中で誰よりも偽善的な祈りを祈る。あらゆるキリスト教信仰的な観点から見て申し分がない。ただ1つ、心を見ようとする観点を除けば。敬虔さの外見に関する限り、欠けたものは何1つない。彼らはいのんど、はっか、クミンなどの十分の一をささげている。一週間に二度断食している。あるいは、断食していないとしても、断食しないことにおいて、断食していた場合と遜色ないほど宗教的であるし、それをしないことにおいて、やはり遜色ないほど敬虔である。
しかし、こうした人々は、最悪の意味において水のように奔放である。というのも、彼らは日曜日にはウォッツの賛美歌を歌っていながら、月曜日には別の歌を歌い、安息日の夜には礼典の杯を飲んでいながら、別の晩には他の杯をあまりにもぐいぐい飲み干しているからである。そして、確かに彼らは非常に壮麗な祈りをふりしぼるが、しぼるという言葉には別の意味があり、彼らは自分の商売上の得意客に対して、それをいかに実行するかを知っているのである。彼らは敬神の念に富む、あらゆる敬虔なことを大いに好んでいるが、悲しいかな! バラムのように、悪の利益を受け取り、コラのようにそむいて滅びる。「彼らは、あなたがたの愛餐のしみです。恐れげもなくともに宴を張りますが、自分だけを養っている者であり、風に吹き飛ばされる、水のない雲、実を結ばない、枯れに枯れて、根こそぎにされた秋の木、自分の恥のあわをわき立たせる海の荒波、さまよう星です。まっ暗なやみが、彼らのために永遠に用意されています」[ユダ11-13]。彼らは、自分が告白している御国の進展に不名誉をもたらす。いかに邪悪で俗悪な悪態をつく者にもまして神の聖なる御名に恥辱を帰すのは彼らである。彼らは教会内のあらゆることにけちをつけることができるが、その一方で、ありとあらゆるしかたの邪悪なことを行ない、使徒が涙とともに云ったように、「キリストの十字架の敵」であり、「彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥」なのである[ピリ3:18-19]。おゝ、偽善者よ。あなたは、自分が他をしのいでいると考えている。教役者がうまくかつがれて、あなたに深い経験があるとみなしているからである。執事たちがまんまと引っかかり、あなたのことをことのほか敬虔な人だと考えているからである。教会員たちがあなたを自宅に迎え入れ、あなたも神の愛し子だと考えているからである! あわれな魂! ことによると、あなたは自分には何の問題もないという迷妄を脳裡にいだきながら自分の墓に下っていくかもしれない。だが、覚えておくがいい。たといあなたが、羊のようによみに定められても[詩49:14]、《死》はあなたを見つけだすのである。彼はあなたに云うであろう。人よ、お前の仮面をはずせ! お前の衣をすべて脱ぎ捨てろ! その白く塗った墓を持ち上げろ! その緑の芝生を引きはがせ。うじ虫どもを見せろ。その死体をむき出しにしろ。悪臭を放つ腐乱を見させろ! そして、あなたの厭わしいほどに腐れ切り、穢れ切った心が白日の下にさらけ出されたとき、また人々や御使いたちが、その眼前で、あなたの嘘と偽善のぶちまけられるのを聞くとき、あなたは何と云うだろうか? あなたは、まだ偽善者ぶろうとするだろうか? 魂よ。さあ、最後の審判の日にも、偽りの唇で神への賛美を歌ってみるがいい! さあ神に告げるがいい。お前が食い物にしたやもめの家がのどに引っかかっている間に、あなたを愛していますと云ってみるがいい! さあ、みなしごを食い荒らす者、盗む者、汚れを行なう者よ! 神にいま告げるがいい。私は主を誇りとしています、と! 告げるがいい。私はみことばを宣べ伝えてきました、と。告げるがいい。私は主の道を歩んできました、と! 告げるがいい。私は自分が地にあって威厳のある者[詩16:3]のひとりであることを表わしてきました、と! 何と! 人よ。あなたの喋りまくる舌が絶句しているではないか。一体どうしたことか? あなたは自分の敬虔さについて語るのに一度も遅れをとったことがないではないか。大きな声で云うがいい。「私は礼典の杯を受けました。私は信仰を告白してきました」、と。おゝ、何と様変わりしたことか! 白く塗った墓が別の意味で白くなっている。彼は恐怖で蒼白になっている。いま見るがいい。あのお喋り者がおしになっている。あの威張りん坊が沈黙している。あの形式主義者の衣がぼろぼろに引き裂かれ、その美しさが虫に食われている。彼らの黄金は変色し、彼らの銀にはさびが来ている[ヤコ5:2-3]。あゝ! このように神と自分自身の良心とを裏切ってきたあらゆる者はこうなるに違いない。すべてをはぎ取る最後の審判の日が、その人を神と自分自身の前に露出するであろう。そして、偽善者が罪に定められることのいかにすさまじいことであろう! もし私が、自分は罪に定められなくてはならないと知っていたとしたら、私の祈りの1つはこうなるであろう。「主よ。私が偽善者たちとともに罪に定められないようにしてください」。というのも、確かに彼らとともに罪に定められるのは、二度罪に定められることに違いないからである。ある偽善者が地獄に下ったと思い描いてみるがいい。あなたも知る通り、預言者たちのひとりは、ある偉大な王侯が地獄に到来した模様を描き出した。そのとき、彼の奴隷であったあらゆる王たちは立ち上がって云った。「あなたもまた、私たちのように者になってしまったのか?」*[イザ14:10] あなたには、あの敬虔な教会執事が見えそうな気がしないだろうか? 敬虔すぎて、一生の間、嘘をつきとおしてきた人である。あなたには、銀行経営者であった、あの卓越した教会員が見えそうな気がしないだろうか? 数々の公の集会で議長を務め、手に入る限りのものをかすめ奪い、絶望のうちに死んだ人である。あなたは彼があの穴に落ちていくのが見えるような気がしないだろうか? そこには一生の間、酔いどれだったひとりの男がいる。彼が語るのを聞くがいい。「あゝ! 酒に酔わねえ旦那じゃねえか! おめえは、俺に向かってさんざん云ってたよな。語ってたよな。酔っ払いには天国を受け継ぐことができねえって。わはは! そして、おめえも俺たちと同じようになっちまったってわけか?」 別の者が云う。「一箇月前に、俺たちが地上にいたとき、おめえは汚らしい悪態をついたからって俺様を叱りつけやがったな。そして、悪態をつくもんは、燃える火の池を受けとることになると抜かしやがったな。あゝ! 今じゃ、俺たちも似たり寄ったりじゃねえかよ、ああ?」 そして、その俗悪な男は、その悲惨の中でできる限りの笑い声を自分の信心深い忠告者に浴びせかける。「おゝ!」、と別の者が口を開くと、彼らは悪魔的な陽気さで互いを見交わして、地獄で可能な限りの喜ばしげな嘲り声を上げる。――「牧師先生がここにいらっしゃるのかよ? じゃ、1つ説教でもしてもらおうか。さあ、俺たちに長え祈りをしてくれろよ! 時間はたっぷりあらあな!」 「うんにゃ!」、と別の者が云う。「ここにゃあ、食い物にするやもめの家はねえぞ。でもって、こいつは、やもめの家を栄養にしなけりゃ祈れなかったのよ」。
こうした光景を描き出すのは、私にとってつらいことである。だが、私はその真実を疑っていない。それは、あなたには粗野な言葉遣いで語られたかもしれないが、この恐るべき真実を肌身で知ることは、ずっと粗野であるに違いない。そして、これは何と厳粛な考えであろう! この場にいる男女のうちひとりとして、「私もそうなるのだろうか」、と尋ねる必要のない人はいない。多くの人々が欺かれてきた。――私も欺かれているかもしれない。――あなたも欺かれているかもしれない。愛する方々。「私は欺かれてはいません」、とある人が云うであろう。「私は教役者ですぞ」。私の兄弟たち。説教者である私たちの中の多くの者たちは、ノアが使っていた大工のようである。私たちは箱船の建造を手伝っても、決して自分ではその中に入らないことがありえる。別の人は云うであろう。「私は、そんな云われようには我慢できませんな。私は執事ですぞ」。あなたはそうした何様であってもかまわない。だがしかし、他の人々には良いものを配ってきたが、自分にはそれを全くもたらすことなく、結局は神の御前から叩き出されることもありえる。「いいえ」、と別の人が云うであろう。「ですが、私はこの四十年間キリスト者として信仰を告白してきましたが、だれひとり私に後ろ指を指す者はいませんでしたよ」。あゝ! 私の知っている腐り果てた枝の多くは、ある木に四十年もくっついたままであるし、あなたも腐ってはいるが、その間ずっと立っていることもありえる。だが審きの風が最後にはあなたをパチリと折って割るとき、あなたは下に落ちるであろう。「いいえ」、と別の人が云うであろう。「私は自分が真摯であることを知っており、自分が正しいと確信しています」。私はあなたがそう考えていると知って嬉しく思う。だが、自分でそう云うのは好ましくないと思う。「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」[Iコリ10:12]。あなたが全く安全になりさえすれば、あなたが完全に確信する時は十分にある。だが、神はほむべきかな。私たちはこう云えると希望している。「おゝ、主よ。もしすさまじく欺かれていないとしたら、私たちは自分の心をあなたにささげています! 主よ。あなたはすべてをご存知です。あなたは私たちがあなたを愛していることを知っておられます。そして、もし私たちがそうしていないとしたら、主よ。あなたは私たちがこの祈りを心からささげていることを知っておられます。『神よ。私を探り、私の道を調べてください。私を試し、私の心を知ってください。私のうちに悪しき道があるかないかを見て、私をとこしえの道に導いてください』*[詩139:23-24]」。願わくは聖霊なる神が私たちひとりひとりを強め、確固たる者としてくださるように。
IV. そして今、私が最後の言葉を語りかけたいのは、全く《キリスト教信仰を信じているふりなどしていない》人々である。私は、この短い人生の中でも、何百人という人々が自分の罪の云い訳としてこう云うのを聞いてきた。「よろしい。私は何の信仰告白もしていませんよ」。そして、私は常にこれが何にもまして奇妙な云い訳の1つだと思ってきた。人間の精神が訴えることのできる弁解の中でも、最もでたらめで突飛な考えの1つだと思ってきた。前にも用いたことのある、1つの例えを聞くがいい。明日の朝、ロンドン市長が席についている所に、窃盗のかどでふたりの男が引き出されてきたとする。そのうちのひとりは自分は無実だと云い、自分は善人であって、おおむね正直な人間であると宣言したが、実はこの件については有罪であり、罰を受けた。もうひとりの男は云った。「ようがす。市長様、あっしは、偉そうな告白はいたしやせん。あっしは先からずっと盗人暮らしをしていまして、正直者だなんて告白はいたしやせん」。何と、あなたもこうした男にはいかにずっと重い判決が下ることになるかは想像がつくであろう。さて、あなたが、自分は信心深い者だと告白などしないと云うとき、それは何を意味するだろうか? それは、あなたが神と、神の律法を軽蔑してきたということを意味するのである。あなたが苦い胆汁と不義のきずなの中にいる[使8:23]ことを意味するのである。あなたがた、自分は何の信仰告白もしないと豪語している人たち。あなたは自分が何を誇っているか分かっていない。あなたは、もし誰かが、私は紳士だなどと告白はしないとか、私は正直者だなどと告白はしないとか、素面であるなどと告白はしないとか、貞節であるなどと告白はしないとか云って威張っているとしたら、それを奇妙なことと考えるであろう。そして、そんなことをする人とは、すぐさま絶交するであろう。そして、あなたがた、キリスト教信仰の告白などしない人たちは、単にあなたの裁判をより簡単なものとしているにすぎない。あなたに関しては、何の議論をする必要もなくなるからである。正義の秤が最後に掲げられたとき、あなたは正しい重さであることが分かるであろう。それも、あなた自身の告白によって。私は、神があなたをお審きになるとき、あなたがこのような訴えを主張するとは想像できない。「主よ。私は何の告白もしていませんでした」。「何と」、と《王》は仰せになるであろう。「わたしの臣下が服従の告白を全くしなかったというのか?」 「おゝ、主よ。私は何も告白していませんでした」。「何と!」、と《創造主》は仰せになるであろう。「私の権利を認める告白を何もしていないだと?」 「私はキリスト教を信じると告白したことなどありません」。「何と!」、と《審き主》は仰せになるであろう。「わたしは、わたしの御子を世に遣わして死なせたというのに、この男は自分の魂を御子にゆだねる告白をしなかったというのか? 何と! この者は自分があわれみを必要としていることを全く告白しなかったのか? ならば、決して何のあわれみも与えまい。この者は、わたしに面と向かって、ぬけぬけと、自分はキリストを信ずる信仰告白など全然しなかった、《救い主》とは全く関わりを持たなかった、と云っているのか? ならば、この者がわたしの御子を蔑み、その十字架を軽蔑し、その救いを拒絶した以上、処刑されるがいい」。そして、その永遠の呻きと、歯ぎしりとからなるその刑罰がいかなるものとなるかは、ただ永遠にしか告げることはできない。
おゝ、罪人よ! あなたにも本日の聖句は何がしかの関わりがあり、受ける分がある。あなたは「水のように奔放」である。あなたに思い出させてほしい。あなたは、今はキリスト教信仰を告白していなくとも、かつては告白していた時があった。強い人よ! あなたはいま笑っている。もう一度云うが、あなたがキリスト教信仰について語っていた時はあったのである。それは、まだあなたの記憶から完全に抜け落ちてはいない。あなたは六週間の間、熱病で床に伏していた。あなたは、自分が譫妄状態に襲われて、人々があなたは死ぬに違いないと思ったときのことを思い出せるだろうか? 自分のあわれな脳が一瞬しゃんとしたとき、いかに自分の助かる見込みが少しでもあるかどうかを医者に尋ねたか思い出せるだろうか? そして彼は、「ない」、と正確には云おうとしなかったが、あなたを見つめるその無表情さによってあなたがその意味するところを悟ったときのことを思い出せるだろうか? 自分が死を予期したときの苦悶を思い出せるだろうか? 自分の霊の中でいかに呻き苦しんだか、いかに、「神よ。私をあわれんでください」、と云ったかを思い出せるだろうか? 自分が小康状態を得て、もしいのちが永らえたなら、神にお仕えするつもりだと友人たちに告げたときのことを思い出せるだろうか?
「おゝ! それはみんな過ぎたことですよ!」、とあなたは云うであろう。あなたは馬鹿であった! しかり。馬鹿であった! 確かにそれは真実である。あなたは馬鹿であった。本気で思ってもいないことを口に出し、神の前で嘘をついたとは。あなたはキリスト教信仰を告白してはいない! しかしあなたは、最前、恐ろしい雷と稲妻がやって来たときのことを覚えているであろう。あなたは外で嵐に遭っていた。稲光があなたのごく間近で閃いた。あなたは大胆な人間である。だが、あなたがそう見せかけているほど大胆ではない。あなたは頭の天辺から爪先まで震えていた。そして雷鳴が連続したとき、あなたはほとんど膝をつきそうになり、知らぬ間に祈っていた。「どうか神よ、今晩、家に帰れますように」、とあなたは云った。「二度とみだりに御名を口にしませんから!」 しかし、あなたはそうしてきた。あなたは水のように奔放なのである。あなたは少し前にある教会、あるいは会堂へと――どちらでもよいが――行った。その教役者はあなたにはっきり、あなたがどこに向かっているかを告げた。あなたはそこに立って震えていた。涙が頬を流れ落ち、あなたはその日曜は細君を殴らなかった。その週は、かなりの程度まで素面だった。だが、仲間から何かびくびくして見えるぜと云われるとそれを否定し、相手が想像しているようなことは考えていないと云った。「水のように奔放なので」。おゝ! そして、あなたがたの中のある人々は、それよりもさらに悪いことをしてきた。というのも、一度ならず、二度ならず、何十回もあなたは、忠実な教役者のもとに駆り立てられて行っては、あなたが悔い改めと考えたものすれすれのところまで行き、それから、何かがあなたの心の中で、「これが分かれ目だ」、と云ったまさにそのとき、逆戻りし始め、不義の報酬[IIペテ2:15]を選んでは、再びこの世の中にさまよい出していったからである。魂よ! 私の心はあなたを慕い求めている! 「水のように奔放なので、もはや、あなたは他をしのぐことはない」。しかり。だが、私は祈る。主があなたの中に確固たるものを作り出してくださるように。というのも、私たちがみな信じているように、――そして、私が云うことは、作り話ではなく、あなたが自分自身の心の中で真実であると信じていることだが、――私たちがみな信じているように、私たちは神の審きの法廷に立たなくてはならず、もうじき善であれ悪であれ、肉体にあってした行為に応じて[IIコリ5:10]弁明しなくてはならないからである。愛する方々よ。あなたは、自分の破られた誓いについて、あなたの偽証した魂について何と弁明するだろうか? あなたは、なぜ審きがあなたに対して宣告されるべきではないかについて何を云わなくてはならないだろうか? あゝ! 罪人よ。あなたはそのときにはキリストを欲するであろう! そのときあなたは、主の血の一滴でも受けるためなら何を惜しむだろう? 「おゝ! その衣のふさにでもさわれるとしたら! おゝ、福音をもう一度聞くことができさえしたら!」 神が、「のろわれた者ども。わたしから離れよ」*[マタ25:41]、と云われるとき、あなたが呻くのが私には聞こえる。そして、あなたは繰り返し繰り返しこう云うことになるであろう。「何と馬鹿だったことか。私の唯一の希望であったイエスを蔑むなど。結局、自分の約束を破っては、あわれな空しい世の中に舞い戻り、自分を迷わすなど!」 そしていま、私は主がこう仰せになっているのが聞こえる。「わたしが呼んだのに、あなたがたは拒んだ。わたしは手を伸べたが、顧みる者はない。それで、わたしも、あなたがたが災難に会うときに笑い、あなたがたを恐怖が襲うとき、あざけろう」[箴1:24、26]。私は常に、この最後の二文こそ、聖書の中で最も恐ろしい文章であると思う。「わたしも、あなたがたが災難に会うときに笑い」。ご自分に反逆した人間たち、ご自分を蔑み、ご自分の福音を足で踏みにじった人間たちに対する、《全能者》の笑いである! 「あなたがたを恐怖が襲うとき、あざけろう」。そうしたければ、口をきわめて罵るがいい。これは確実なことである。方々。覚えておくがいい。あなたが神の笑いに向かって、いくらじたばたしようと、それをやめさせることはできない。覚えておくがいい。あなたが神に反逆していくら反抗的に語ろうと、あなたがたが悔い改めない限り、その日にはみな復讐を受ける。また、あなたが神に反抗していくら冒涜を発そうとしても、あなたの冒涜が地獄の火焔を消すことはできないし、あなたのあざ笑いが復讐の剣を根絶するものではない。それは下らなくてはならないし、あなたがそれを軽蔑した以上、あなたの上には、いやが上にも下るであろう。
福音を聞くがいい。その後で、暇を告げよう。神の永遠の御子、イエス・キリストは、処女マリヤから生まれ、人となられた。地上で聖と苦しみの生涯を送り、最後には十字架に釘づけられ、深い苦悩の中で死なれた。葬られた。だが死者の中からよみがえって、天に上られた。そして、今や神は、「どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます」[使17:30]。そして彼らに、こう告げておられる。――「御子を信じる者は、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つ」*[ヨハ3:16]。これが神の福音である。もしあなたがこの日、自分が罪人であると感じているとしたら、もしそれが聖霊によってあなたのうちに作り出された感情であって、魂をよぎる肉的な思いでないとしたら、そのとき、キリストは、あなたのもろもろの罪に代わって罰されたのである。そして、あなたが罰されることはありえないのである。というのも、神が1つの違反を二度罰することはないからである。キリストを信じるがいい。あなたの魂をキリストが成し遂げられた贖罪にゆだねるがいい。そうするとき、たとい罪にまみれて地獄のようにどす黒くなっていても、あなたはこの日自分が、キリストの効果ある血潮を通して雪よりも白くなっていることに気づくであろう。あわれな魂よ。願わくは主があなたを助けて、こう信じさせてくださるように。すなわち、カルバリの上で死んだ《人》は神であられ、この方は、信ずるすべての者の罪をご自分で負ってくださったのであり、――あなたが、罪人でありかつ信ずる者であるとき、この方はあなたのもろもろの罪を取っておられ、それゆえ、あなたは自由なのだ、と。このように信ずるがいい。そうするとき、信仰によってあなたは、私たちの主イエス・キリストによって神との平和を持つであろう[ロマ5:1]。また、このキリストによって私たちは、贖罪を受けとっているのである。
不安定さ[了]
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