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実を結ばない葡萄の木

NO. 125

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1857年3月22日、安息日夜の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「次のような主のことばが私にあった。人の子よ。ぶどうの木は、森の木立ちの間にあって、その枝が、ほかの木よりどれだけすぐれているのか」。――エゼ15:1-2


 ユダヤ民族は、自分たちについて傲慢な考えをいだいていた。神に対して罪を犯したときも彼らは、自分たちの先祖たちの気高い高潔さのゆえか、自分たち自身の何か特別な尊厳を理由に救い出されるだろう――いくら好き勝手に罪を犯しても――と思っていた。エホバは、その無限のあわれみを彼らに示し、何度となく彼らをその苦悩から救い出してくださったが、その結果、彼らは次第に、自分たちは摂理の寵児なのだ、神は何としても自分たちを捨て去ることができないのだ、と思い込むようになった。それゆえ神は、彼らの高慢の鼻をへし折るために、こう彼らに告げられた。彼らは、彼ら自体では、他のいかなる民族にもまさっていないのだ、と。そして、彼らに自らをすぐれたものと思わせるようなものが何かあるか、と問われたのである。「わたしは、お前をしばしば葡萄の木と呼んできた。私は、非常に肥沃な丘にお前を植えて、養ったのに、今のお前は実を結んでいない。お前のうちに何があるというので、わたしはお前に好意をいだき続けなくてはならないのか? もしお前が、他の民族にまさるものを持っていると想像しているなら、それはとんでもない間違いだ」。「ぶどうの木は、森の木立ちの間にあって、その枝が、ほかの木よりどれだけすぐれているのか」。

 思い出すべきことは、こうした事がらが云われたからといって、神は、いささかなりとも、ご自分が選ばれたあわれみの器[ロマ9:23]に対する、その永遠の目的を変更なさるわけではないということである。というのも、イスラエルの国は、国として永遠の救いに選ばれたわけではなく、種々の特別の特権へと選ばれたからである。――これは、キリストがご自分の《教会》に与えておられる、あの永遠の個人的な選びの型また影であった。ご自分の選ばれた《教会》から、神は決してその愛を引っ込めることはなさらない。だが、外的で目に見える教会からは、時としてそうなさることがある。ご自分の民から神は決してその愛情を取り去らないが、信仰告白者たち――単に御民の外的な立場に立っているだけで、神の子らではない者たち――からは、ご自分の恩顧のあらゆるしるしを取り上げることがありえるし、そうなさるであろう。神は、イスラエルが他の民族の持っていない何物も有していないことを彼らに思い出させることで、彼らの高慢をへし折られた。――事実、彼らはレバノンの杉や、サマリヤの樫と並べられるだけの値打ちもない、蔑まれるべき民族なのだ、と。彼らは何の役にも立たなかった。彼らは、神のために実を結ばない限り、無価値であった。神は彼らの高慢を食いとめ、彼らを卑しめるために、私たちが前にしているたとえ話をお用いになった。

 愛する方々。私たちは、神の御助けによって、このたとえ話を私たち自身のために用いることにしたい。そして、そこから2つの教訓を学びとろうと思う。その第一は、聖徒たちのための謙遜という教訓である。また、第二は、信仰告白者であるすべての者に対する心探る教訓である。

 I. 第一にここには、あなたがたの中の、「主がいつくしみ深い方であることを味わっている」[Iペテ2:3]すべての人々にとっての、《謙遜という教訓》がある。「ぶどうの木は、森の木立ちの間にあって、その枝が、ほかの木よりどれだけすぐれているのか」。

 様々な種類の木という木を眺めて、観察するとき、葡萄の木はその中にあっても際立っている。――それで、あのヨタムの古いたとえ話の中の木々は、葡萄の木の伺いを立てて、「来て、私たちの王となってください」、と云ったのである[士9:12]。しかし、単に葡萄の木を眺め、その実を全くないものと考えると、そこには、他の木々の上に立つべき何の王権も見えないはずである。その大きさも、形も、美しさも、有用性も、全く立ちまさるものはない。葡萄の材木では何もできない。「その木を使って何かを作るためにその木は切り出されるだろうか。それとも、あらゆる器具を掛けるためにこれを使って木かぎを作るだろうか」[エゼ15:3]。それは、実を結ぶという点を除くと役立たずの植物である。確かに家の壁に這わされれば、美しく見えることもある。東方では、きわめて華麗な形の葡萄の木が見られ、その枝は細心の注意を払って刈り整えられている。だが、葡萄の木をただ放置しておき、その実り以外のことで考えるなら、それは、木という名前を冠するものの中でも、最も取るに足らない、最も卑しむべきものである。さて、愛する方々。これは神の民をへりくだらせるためである。彼らは神の葡萄の木と呼ばれている。だが、彼らはその性質からすると他の人々にどこがまさっているだろうか? 他の者らも彼らと同じくらい善良である。しかり、彼らよりも偉大で、彼らよりも善良な者たちさえいる。彼らは、神のいつくしみによって、良い土壌に植えられ、実を結ぶ者とされた。主は彼らを聖所の壁に這わせ、彼らは神の栄光のために実を結ぶようになった。しかし、彼らはその神がおられなければ何だろうか? 御霊の不断の影響力が、彼らのうちに実を生み出していないとしたら、彼らなど何だろうか? 人の子らの中でも、最も小さな者ではないだろうか? 女から生まれた者の中でも、最も蔑まれるべき者ではないだろうか? 信仰者よ、これを見るがいい。

   「汝れにありしか、汝れを持ち上げ、
    神に喜び 与うもの」。

しかり。今のあなたのあり方を眺めてみるがいい。あなたの良心はあなたを非難しないだろうか? あなたの、数え切れないほどの脱線は、あなたの前に立ち、あなたが神の子と呼ばれる価値もない者だと告げはしないだろうか? あなたの精神力の弱さ、あなたの道徳的力のもろさ、あなたの絶えざる不信仰、そして、神からの不断の後退によってあなたは、自分がすべての聖徒たちのうちで一番小さな者であると告げられていないだろうか? また、もし神があなたを何者かにしてくださったとしても、あなたはそれによって、こう教えられはしないだろうか? 恵みこそ――無代価の主権的な恵みこそ――、あなたを違った者としたものである、と。この場にいて、自分を神の子どもであると考えている人々のうち、自分が選ばれたのは、自分のうちに何らかの理由があるためだ、などと思っている人がいるとしたら、そうした人々は知るがいい。あなたは恵みの第一原理についてすら無知蒙昧であり、いまだ福音を学んでいないのだ、と。もしその人が福音を知っていたとしたら、逆に彼らは自分が一番小さな者――あらゆるもののかす――無価値で、何の値打ちもない、何にも値しない、地獄に堕ちて当然の者であると告白するであろう。そして、自分を異なる者とした、分け隔てをする恵みに、また、彼らを世の残りの者らの中から選んだ、差別的な愛にすべてを帰すであろう。大キリスト者よ。あなたは、もし神があなたを異なる者とされなかったとしたら、大罪人となっていたであろう。おゝ! あなたがた、真理のために勇敢な人たち。あなたは、恵みがあなたをつかまなかったとしたら、悪魔のために勇敢な者となっていたであろう。天国にある1つの座席がいつの日かあなたのものとなるであろうが、恵みがあなたを変えなかったとしたら、地獄にある一本の鎖があなたのものとなっていたであろう。あなたはいま神の愛を歌っていられるが、恵みがイエスの血であなたを洗わなかったとしたら、あなたの口には放蕩な歌が上っていたかもしれない。あなたはいま聖められている。生かされている。義と認められている。だが、もし天来の御手が介入しなかったとしたら、今晩のあなたはいかなる者となっていただろうか? あなたが犯さないでいられた犯罪は何1つなく、あなたが陥らずにいられた愚行は何1つない。恵みがあなたを保たなかったとしたら、殺人さえ犯していたかもしれない。あなたは御使いのようになる。だが、恵みによって変えられなかったとしたら、あなたは悪魔のようになっていたであろう。それゆえ、決して高ぶってはならない。あなたの衣はみな上から受けたものであって、襤褸切れだけがあなたの唯一の持ち物であった。高ぶってはならない。たといあなたに恵みの広大な地所、果てしない領地があろうとも、かつてのあなたが自分のものと呼べるものは、あなたの罪と悲惨さ以外に何1つなかったのである。あなたは今、《救い主》の黄金の義に包まれており、愛する者の衣のうちに受け入れられているが、もし主があなたを変えてくださらなかったとしたら、罪の暗黒の山の下に埋もれ、不義の不潔な着物をまとっていたであろう。あなたは自分を高く上げているだろうか? おゝ! 何と摩訶不思議なことか。すべてを借りているあなたが、自分を高く持ち上げるとは。自分のものを何1つ持たず、今も恵みに頼っているあなたが、高ぶっているとは。あなたの《救い主》の気前良さに頼る、貧しい恩給生活者であるあなたが、それでも高ぶるとは。イエスからの清新ないのちの流れによってのみ生きていられるいのちを有する者でありながら、それでも高ぶるとは! 行くがいい。あなたの高慢をハマンと同じくらい高く絞首台に吊り下げるがいい。それが腐り果てるまで吊しておき、その下に立って、永遠にそれを口汚く罵るがいい。というのも、ありとあらゆる物の中でも、最も呪われ、蔑まれるべきものは、キリスト者の高慢に違いないからである。キリスト者こそは、他のいかなる人にもまして、一万倍もへりくだるべき理由、自分の神とともに謙遜に歩むべき理由、自分の同胞に対して親切で、慎み深くすべき理由がある。ならば、キリスト者よ。このことによってへりくだるがいい。葡萄の木は、神がそれに与えられた実り豊かさを除けば、何ら他の木にまさってはいないのである。

 II. しかし、ここで次に来るのは、《心を探る教訓》である。実を結んでいない葡萄の木が役立たずで無価値であるのと同じく、実を結んでいない信仰告白者も役立たずで無価値なのである。しかり、この広い世界で最も役立たずの物である。

 さて、この点、実を結んでいない信仰告白について詳しく語ってみよう。そして、この点について私が説教している間、その言葉がひとりひとりのもとを訪れ、教役者も、その執事たちも、その話を聞く人々も、みな自分の心を探り、思いを調べ、自分が実を結んでいない信仰告白を有していないか見てとるようにしよう。

 1. 最初に、実を結んでいない信仰告白者について。私たちは、いかにすればそうした人が分かるだろうか? その人はいかなる性格をしているだろうか? 二番目に、その人が実を結ばない理由は何だろうか? 三番目に、神はその人をどのように評価しておられるだろうか? その人は全く何の役にも立たない。そして四番目に、その人の最後はどうなるだろうか? その人は火で焼かれることになる。

 第一に、私たちは実を結ばない信仰告白者をどこで探すべきだろうか? 至る所においてである。愛する方々。至る所においてである。――そこの下でも、そこの上でも、講壇でも、会衆席でも、あらゆる所においてである。にせ信仰告白者は、あらゆる教会に見いだすことができる。ならば、他の教派のことは放っておこう。にせ信仰告白者はこの教会にも見いだされるであろう。彼らは、今のこの集会の中にもいるであろう。あなたがどの教派に属していようと、その中には何人かにせの、実を結ばない信仰告白者たちがいる。いかにすればあなたは、自分が何の実も結ばない者たちのひとりでないことが分かるだろうか? 教会内のいかなる立場、社会のいかなる部分にも、実を結ばない信仰告白者たちが見いだされる。あなたは富者の間に、にせ信仰告白者を見いだすであろう。その人には莫大な富があり、教会から喜んで歓呼されている。神はその人に、この世の財を多く与えておられる。それゆえ教会は、神が貧しい者を選ばれたことを忘れて、そうした人々に誉れを与える。では教会は、その人から何を受けるだろうか? 自分の助けになるものはほとんど得られない。なおも教会の貧しい人々は、ないがしろにされており、教会の財産はその人の富によってこれっぽっちも補充されない。あるいは、たとい教会がその人の富の一部を得たとしても、その人の祈りは全く受けられない。あるいは、その人の聖い生き方によって支えられることは全然ない。というのも、富を有する人はしばしば罪の中で生き、不潔さの中を転げ回り、自分の咎を隠さなくてはならないときだけ、信仰告白を制服のように身にまとうからである。富んだ人々は、時としてにせ信仰告白者であることがある。だが、にせ信仰告白者は貧者たちの間にも見いだされる。これまでに、あまたの貧者たちが教会の中に入り、心から受け入れられてきた。その人は貧しかった。そして人々は、貧困と恵みが相伴うのは良いことだと考えた。――恵みがその人のあばら家を元気づけ、貧しさに打たれたその人の家を喜ばしい家にすると思ったからである。しかし、その後この貧しい人は道をそれて愚行に走り、堕落して酒浸りになり、神を汚す悪態をつき、ふさわしくないふるまいで自分の神の栄誉を傷つける。あるいは、そうでなくとも、怠惰に、ただぼーっとしているだけで、教会には何の役にも立たない。そして、そのようにしてその人は、自分の信仰告白においてにせ者で、実を結ばないのである。

 にせ信仰告白者たちは、神の軍隊の陣頭に立つ人々の中にも見いだされる。雄弁に説教する人々、その意見が法となる人々、預言者のように語る人々、まるで霊感されているような言葉遣いをする人々である。こうした人々は、大衆の人気という実を結んでいる。左様。そして慈善行為という実も結んでいる。だが、彼らの心は神との正しい関係になく、それゆえ、その実は、それ自体としては良いものであっても、聖潔に至る実[ロマ6:22]ではない。彼らの労から生ずる道徳的恩恵は、永遠のいのちには達さない。彼らは、生きた葡萄の木の生きた枝ではない異常、御霊の実を結んでいない。だが無名の人々の中にもにせ信仰告白者たちはいる。彼らは慎み深い人々で、何も云い立てず、めったにその声は聞こえない。日曜になると自分の会衆席にするりともぐり込み、座席に着いては、立ち去っていく。そうした礼拝出席によって、自分の宗教的義務を果たしたものと自己満足している。こうした人々は、非常に寡黙で、おとなしく、引きこもっている。怠け者で、何もしない。あなたは、実を結ばない木はみな、果樹園の垣根の外側に生えていると思うかもしれない。否、そうではない。園の内側にも、その真中にも、何本かの実を結ばない木がある。人に知られないところにも、目立ったところにも、にせ信仰告白者たちは見いだされる。貧者の間にも、富者の間にも見られる。

 それから、非常に多くの疑いをいだいている人々の間に、にせ信仰告白者たちは見いだされる。彼らは常に、自分がイエスを愛していないのではないかと恐れ、常にこう云っている。「あゝ、もし私がイエスのものであると分かりさえしたなら!――

   「『こは わが切に知らんと欲し、
    しばしば不安をかき立てしこと』」。

しかり。そして、彼らが何の実も結んでいないとしたら、――彼らが、「ますます熱心に、自分の召されたことと選ばれたこととを確かなものと」*[IIペテ1:10]することを全くしていないとしたら、――彼らが、そのために不安な思いを引き起こされるとしても当然である。その一方で、実を結ばない信仰告白者たちは、自信満々の人々の間にも見いだされる。彼らは、恥ずかしげもなく、こう云う。「私は、自分の信じて来た方をよく知っています。私は、だれが何と疑おうと、自分がキリスト者だと知っています。私は、自分のもろもろの罪が私を滅ぼすことはありえないこと、私の義が私を救うことがありえないことを確かに確信しています。私は好き勝手に何をしてよいのです。私は自分が主の民のひとりであると知っているのです」。あゝ! ここにも実を結ばない信仰告白がある。この人の実のなさは、疑うばかりで何の信仰も持たず、自分の《主人》のために何も行なわない他の人と変わらない。

 そしてまた、実を結ばない信仰告白者としては、祈祷会で祈るように頼まれても決して祈らない人、また家庭礼拝をないがしろにしている人がいる。個人の静思の時については云うまでもない。そうした人々は、必ずや静思の時もないがしろにしているに違いない。こうした人は実を結ばない人である。あゝ! だが、別の人もいる。立ち上がっては十五分ばかり、立て板に水を流すように祈りはするが、ことによると、沈黙を守っている者と同じくらい実を結んでいないかもしれない人である。その人は、言葉数だけは多いが真実がない。葉っぱは茂っているが、何の実もない。すぐれた雄弁の才能はあるが、裏表のなさという賜物がない。口は達者だが、歩みはよろしくない。敬虔そうに語るが、神とともにへりくだって歩き、喜びをもって神に仕えることをしない。私は、あなたがためいめいが今晩どのような性格をしているか知らない。だが、あなたがたについてこう云えるだけのことは分かっている。たといあなたの立場が、いかに教会の中で誉れあるものであっても、また、あなたの人格が、いかに人々の前で立派なものであっても、それだけで、即座に、あなたが実を結ばない信仰告白者ではないと結論づける保証には決してならない、と。というのも、実を結ばない信仰告白者たちは、あらゆる人格をして、あらゆる地位におり、最高の者から最低の者まで、最も才能豊かな者から最も無知文盲の者まで、最も富裕な者から極貧の者まで、最も引きこもりがちな者から最も目立った者までにわたっているからである。実を結ばない信仰告白者たちは、教会のあらゆる部分にいる。

 さて、私はあなたがたに、いかなる者が実を結ばない信仰告白者であるか告げてもよいだろうか? 密室での祈りを怠り、家の外でも自分の神とともに歩まない人、神の前における姿勢と生き方が偽善的な人、商売ではごまかしをし、仕事では物を盗みながら、それを包み隠し、何食わぬ顔をしている人、やもめの家を食い物にしながら、「主よ。私はほかの人々のようではないことを感謝します」*[ルカ18:11]、などと云う人! これが、あなたがたの中で、何の実も熟させない類の人である。別の人としては、道徳的には非の打ち所なく正しい生き方をしており、自分の行ないを頼りとし、自分の義によって救われるだろうと希望している人である。その人は神の前にやって来て、赦しを乞い求めるが、その右の手には偽りがある[イザ44:20]。というのも、その人は自分自身の義を携えてやって来ているからである。そのような人は実を結ばない信仰告白者である。その人は何の実も結んでいない。また、こういう人も実を結ばない信仰告白者である。すなわち、高遠な教理について大口を叩き、健全な真理を好んではいるが、健全な生活は好まない者である。その人の見かけは高潔だが、実践は違う。その人はこう云われることには我慢できる。

   「一度 主にあらば 永久(とわ)に主にあり」。

しかし、その人自身について云えば、その人は一度も主のうちにあったことがないのである。というのも、その人は自分の《主人》を愛することも、仕えることもせず、恵みが満ちあふれるからといって、罪の中で生きているからである。

 しかし、なぜ私がわざわざあなたをつつき出す必要があるだろうか? 願わくは主が今晩あなたを見つけ出してくださるように。この場にいるあなたがたの中には、メロズに対する呪いを受けてしかるべき多くの人々がいる。「主の使いは言った。『メロズをのろえ、その住民を激しくのろえ。彼らは主の手助けに来ず、勇士として主の手助けに来なかったからだ。』」[士5:23]。あなたがたの中の多くの人々は、上等な肉を食べ、甘い葡萄酒を飲むことに満足しつつ、神には何の実ももたらそうとせず、神に仕えようともしてない。――怠惰なイッサカル人で、二つの鞍袋の間に伏す、たくましいろばである[創49:14]。キリストのために語ることも、キリストのために祈ることも、キリストのために何かをささげることも、キリストのために生きることもせず、生きているとされているが、実は死んでおり[黙3:1]、信仰告白で身を包みながら、キリストのために生きてはおらず、自分自身をキリストに聖別してもいない。私の云うことを判断するがいい。もしあなたがたが今晩ふるいにかけられたとしたら、この件において潔白とされて出てくる者が何人いるだろうか? ここには多くの高い評価を得ている信仰告白者たちがいるではないだろうか? 鼻高々としながら、何もしておらず、流暢な口をききながら、何とものろくさい歩みしかしていない人々、ことによると、真理を聞くことを喜んではいながら、自分の神に仕えること、またその誉れのために生きることによって、その真理を実践することは決してしない人々がいるではないだろうか? そうした者であるあなたは、方々。この世のありとあらゆる被造物の中で、最も役立たずで無価値な存在である! というのも、葡萄の木のようにあなたは実を結んでいれば栄誉があるが、実がなければ葡萄の木が卑しむべきものであるのと同じく、何の役にも立たずに、捨てられて燃やされるだけだからである。

 2. そして今、私は二番目の問題に移ろう。――こうした人々はなぜ実を結ばずに、捨てられなくてはならないのだろうか? その理由は、彼らには何の根もないからである。多くの信仰告白者たちには何の根もない。立派な信仰告白者ではあり、目に麗しくはあるが、彼らには全く何の根もない。あなたは、自分の子ども時代の気まぐれを覚えていないだろうか? あなたには自分の小さな庭があり、花を引っこ抜いてきては、その庭に突き刺して、それを自分の庭だと云った。だが、翌日そこに行ってみると、花という花は、しおれて枯れていなかっただろうか? 多くの信仰告白者たちもそれと同じである。――美しい花ではあるが、根元から引っこ抜かれてきただけで、地面に全く根付いておらず、そこから何の活力も何の養分も引き出さない。こういうわけで、彼らは枯れてしまい、何の実も生じさせないのである。あなたは私たちのもとに来ては云う。「私は教会に入りたいと思います」。私たちは、自分にできる限りの質問をする。あなたは厳粛に私たちに、自分の心は神と正しい関係にあります、と告げる。私たちはあなたにバプテスマを授け、あなたを会員として受け入れる。だが、そのときあなたがたの中の多くの人々には何の根もなく、しばらくすると、枯れてしまう。太陽が熱風を伴って上って来ると、あなたは滅びてしまう。あるいは、たといそれなりに立派な信仰告白を保ってはいても、あなたには何の実も生っていない。あなたが最初に根をつけなかったからである。あなたは、まず考えを起こしてから、根は後で手に入れようと考えた。私は、私の教会の多くの若い人々について身震いする。――私は私自身の教会をも除外しない。彼らは、自分は回心したのだという考えを頭の中でいだく。その働きは本当ではなく、純粋ではなく、現実ではない。それは、ただの興奮であり、しばし良心がかき立てられただけであって、長続きはしない。しかし、最悪なのは、それが長続きしないにもかかわらず、彼らが信仰告白者として残り続けるということである。彼らは、教会に受け入れられるとき、「私は完全に確信しています!」、と云う。だが、いくら長く彼らについて説教しても、彼らの心に達することはない。自分は教会員である。バプテスマも受けた。ルビコン川を渡った。これ以上何が必要だろうか? 彼らにはほとんど何の善も施すことができない。私は、こうした人々のために身震いする。私の話を聞いている人々の中でも、最も心かたくなな人々のために、私は神の前で泣くものである。というのも、自分は正しいと堅く確信している彼らに、だれが感銘を与えることができるだろうか? 彼らには、自分が正しいという教会のお墨付きもある。だが、それにもかかわらず、彼らは自分自身と他の人々を欺いているのであり、なおも「まだ苦い胆汁と不義のきずなの中にいる」[使8:23]。愛する若い方々。私は、あなたがたの中のいかなる人が教会に加わることをも妨げたくはない。だが、私はあなたがたに云う。信仰を告白する前に、それをしかと確かめるがいい。私は、あなたがたの中の、主を愛するすべての人々に対して、前に進み出て、神の民に結びつくよう云いたい。だが、私は切に願う。確かめるがいい。「心を探り、思いを調べ」[エレ17:10]るがいい。多くの人々は、回心していないときに、自分は回心していると思い込んできた。何十万もの人々が、心に感銘を受け、一種の回心を感じたが、それは本物ではなく、多少の間は続いたが、後になると夏の夜の夢のように消え去ってしまった。ほんのしばらく前に、私の家にひとりの紳士がやって来た。非常に優秀な人物で、私の信ずるところ真の神の子どもである。彼が私に告げたところ、彼は最近の説教を聞いたことによって、罪のゆえに、深刻な感銘を受けたという。「しかし」、と彼は云った。「私は子どもの頃にバプテスマを受けたのです。私がごく幼い頃に、ニューイングランドにある私の村で、ある信仰復興があったのです。私の心は村中で一番かたくなな心でしたが、とうとう私も見いだされました。教会に加わらなかった男子や女子はほとんどひとりもいませんでした。そして、とうとう私も深い印象を受けたのです。私は神の前で泣き、神に祈ったものでした。私は、教役者のところに行き、自分は回心しましたと告げ、彼を欺き、バプテスマを受けたのです」。そして彼が私に引き続き語ったところ、彼は暗黒きわまりない罪悪にのめりこみ、大きく道を踏み外し、信仰告白からさえ遠ざかってしまった。大学入学後に彼は素行不良のため教会員名簿から抹消され、今に至るまで不信心者であり続け、御国のことなどほとんど考えなかったという。用心するがいい。あなたがたの中にいる多くの人たち。まがいもののキリスト教信仰をつかんではならない。多くの人々は、風呂桶に飛び込むように敬虔な生活に飛び込むが、この世の方が実入りがいいとわかると、喜んでその中から再び飛び出すのである。また、多くの人々は単にやって来ては自分は主のものだと云い、自分でもそう考えているが、そこには何の根もなく、それゆえ、次第に、最初の感銘は薄れていく。おゝ! 私たちの真中に多くの実を結ばない信仰告白者がいるのは、彼らが自分たちの始まりによく気を遣わなかったからである。最初の点において彼らは用心しなかった。発端のところで気を配らず、自分自身の望みという薄暗い灯心草ろうそくを、義の太陽の夜明けであると思い込んだ。彼らは、自分自身の良心が血を流したことを、神の御手によって殺されたものと考えた。だが、そのとき受けたものよりも深く、鋭利で、確実で、徹底的なみわざこそ、彼らが必要としていたものだったのである。用心しようではないか。私の兄弟たち。私たちが、自分の始まりについて試されていない間は、自分の経験を信用しすぎてはならない。しばしば前に戻って、もう一度始めるがいい。しばしば、この昔ながらの叫びとともにキリストのもとに立ち戻ろうではないか。――

   「わが手にもてる もの何もなし
    ただ汝が十字架に われはすがらん」。

というのも、覚えておくがいい。こうした粗悪な始まりには、人を実を結ばない者とする大きな効果があるからである。

 3. そしてまた、三番目に、実を結ばない信仰告白者たちを神はいかに評価しておられるだろうか? 私は、彼ら自身がどう評価しているかを問うているのではない。というのも、キリスト教信仰を告白する人々の中には、もしその真価で買い取り、彼らの云い値で売り飛ばせるとしたら、たちまち一財産儲けさせてくれるような者らが数多くいるからである。また、やはり多くの人々は、教会によって非常に良い評判を得ている。教役者は彼らを高く評価し、教会は彼らを評価する。彼らは上品な人々であり、彼らの出席はたいへんに良いことであり、御国の進展を非常に助けることである。このように上品な人々が会衆席に座っているのを見ることができるとは! 実際、その人は執事にぴったりだと思う。だれもがその人のことを高く評価し、だれもがその人をほめたたえている。さて私たちは今晩、こうしたいかなる意見をも相手にするつもりはない。そして、真摯でないままに信仰を告白する人々に対する神の意見は、こうである。――そうした人はこの世でもっとも役立たずな代物である。さて今、このことを私に証明しようとさせてほしい。この人が少しでも何かの役に立つことを証明しようという人がだれかいるだろうか? 私は教会に問うてみよう。――ここに何の実も結ばず、ただ信仰告白だけの人がいる。教会の会員たち。この人が何かの役に立つだろうか? この人はあなたがたの中のだれかが苦悩の中にあるとき、慰めとなるだろうか? この人は牧師が倦み疲れているとき、その手を祈りによって支えてくれるだろうか? 軍隊を率いて戦闘に突入するだろうか? この人はあなたにとって有用だろうか? 私には、あなたがたが満場一致で手を挙げて、こう云っているのが見える。「その人は、実を結ぶのでない限り、私たちにとって何の役にも立ちません。もしその人の生き方がその人の信仰告白と首尾一貫していないとしたら、教会員名簿からその人の名を抹消してください。その人をいなくならせてください。そんな人は役立たずです」。彼はどこに行っただろうか? この世に行った。では、この世の子らを連れて来るがいい。あなたがたはこの人についてどう思うだろうか? この人は信仰を告白している。この人はあなたにとって何か役に立つだろうか? 「否」、と彼らは云う。「われわれは、こんな奴に用はない。この男は二股膏薬なのだ。キリスト教の信仰者でもあり、この世の罪人でもある。われわれは、こんな奴と関わりを持ちたくはない。こんな奴は、われわれの仲間から追い出すがいい」。では、私たちはこの人をどこで売り出すのがよいだろうか? この人の始末をどうつければいいだろうか? この人は教会にもこの世にも何の役にも立たないように見える。自分の家族にとって何か役に立つだろうか? この人の長男に聞いて見るがいい。「ジョン君。お父さんは君にとって何か役に立っているかい?」 「いいえ、先生。全然役に立ちません。父は、一見熱心そうに私たちをお救いくださいと主に祈っていましたが、祈り終わると癇癪を爆発させるのです。特に怒らせるようなことは何もしていないのに、何度もぼくをなぐりつけたものです。父はいつだって怒りっぽい人でした。父は日曜には会堂に行くのが常で、ぼくらを連れて行きました。ですが、ぼくらは父が月曜には何をすることになるかを知ってました。酔っ払うか、ひどい悪態をつくのです。ぼくには大した役に立ってくれましたよ! 父のせいでぼくは不信心者になったんですからね!」 この人の細君に聞いて見るがいい。「あー、コホン。あなたのこの善良なご主人について、どう思われますか? この人は長年の間キリスト教信仰を告白しておられたのですが」。「あゝ! 先生。主人について何か意見を云うなんて出過ぎたことはできませんわ。ですが、主人は私をみじめな女にしました。私は、主人のみじめな裏表のある生活さえなければ、とうの昔に先生の教会に加わっていたと思います。ですが、実際主人は私の心の悲嘆の種でした。主人はいつだって私にとってつまずきの石でした。この主人をどうしてよいか私にはわかりません」。よろしい。女中のジェーン、台所から出て来るがいい。「お前のご主人についてどう思うね。彼はキリスト教信仰を告白していたが、正しい生き方をしていないのだ。彼についてどう思うね?」 「ええと。あたしは、キリスト者ってのは善良な種類の人たちだと思ってましたし、キリスト者の人たちと一緒に住みたいと思ってました。でも、これがキリスト教だとしたら、先生。あたしは一年の給料が五ポンド減っても俗っぽい人のとこに住み込んだ方がましだと思います。あたしに云えるのはそれだけです」。よろしい。この人が何の役に立つだろうか? 私は、この人は何か仕事をしていると思う。この人は、豪儀な信仰告白者である。彼は店を一軒経営している。だれもが彼を立派な人だと思っている。彼は今しも新しい教会建築のために百ポンドも献金したばかりではないだろうか? 彼は常に貧民学校のために気前良く寄付していないだろうか? 私たちは彼の雇い人に聞いてみよう。「君たちは、ご主人についてどう考えるかね? 彼について何と考えるかね?」 「そうすねえ。もしあの人が、毎週もう半クラウンだけ多く給料を払ってくれるとしたら、わしらもあの人のことを大したお人だと思いますがね。あん人は、この教区で一番けちんぼの雇い主ですからねえ」。「それは、何ほどのことでもないかもしれん。しかし、本人についてはどう考えるね?」 「何と、あん人は口にしようがねえほどの、もったいぶった偽善家ですよ! わしらの中にゃ、礼拝所に行く連中もいますが、わしらは正直者ですよ。あんなみじめな偽善者と一緒に行くくらいなら、教会なんかに入らねえ方を選びますわ」。私は、作り話をしているのではなく、現実の話をしているのである。私はこことロンドン橋の間で、さほど遠くに行かないうちに、その家の扉を叩き、そうした人々を、その幾人かを起こすことができるのである。このような信仰告白者が何の役に立つだろうか? もしそうした人々が公正な口をきき、「私は全然キリスト者ではありません」、と云うとしたら、そこにはある程度の分別がある。というのも、もしバアルが神なら、バアルに仕えるがいい。そして、もしこの世に仕えるだけの価値があるとしたら、人は徹底的にそれに仕えるがいいし、その率直さの栄誉――悪魔を欺いてはいないという――を担うがいい。しかし、もし神が神であり、人が罪の中に生き、恵みについて語っているとしたら、この人が何の役に立つだろうか? 神ご自身が彼の不真実さを認めるであろう。神に聞いてみるがいい。この人が何かの役に立つかどうかを。神はお答えになる。「否。何の役にも全く立たない」、と。実を結ばない葡萄の木は何の役にも立たない。そして、信仰を告白しているこの人は、無価値よりも悪い。その信仰告白にもとる生き方をしているからである。愛する方々。私は無茶なことを云おうとは思わないが、このことを冷静に云うであろう。――もしあなたがたの中のだれかが、キリスト教信仰を告白していながら、それに応じて生活しないことによって、他の人々を欺いているとしたら、私はあなたに要求する。――そして、熟慮の上でそう云う。――私はあなたに、それに応じて生活できる恵みを神から与えられない限り、あなたの信仰告白を放棄するように要求する。私は切に願う。どっちつかずによろめいていてはならない。もし神が神ならば神に仕えるがいい。そして、徹底的にそうするがいい。このことについて嘘をついてはならない。もしバアルが神ならば、もし彼が良い主人ならば、もしあなたが彼に仕え、彼の報酬をかちとることを好むのならば、彼に仕えるがいい。だが、この2つを混ぜ合わせてはならない。一方をするか、もう一方をするがいい。あなたの信仰告白を破棄して、悪魔に徹底的に仕えるがいい。さもなければ、あなたの信仰告白を守り、心を尽くして神に仕えるがいい。――あることをするか、さもなければ、別のことをするがいい。私はあなたに厳粛に勧告する。どちらにするか、選ぶがいい。だが、決してどちらとも得られると考えてはならない。「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません」。「あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」[マタ6:24]。

 4. さて今しめくくりとして私は、この実を結ばない木がどうなるかに言及したい。それは火で焼き滅ぼされると告げられている。何の実も結ばなくなった古い葡萄の木は、壁から引き剥がされた後でどうなるだろうか? 知っての通り、果樹園の片隅には、雑草の山がかき集められているものである。そして園丁は無造作にその葡萄の木を雑草の山の上に載せ、それは焼かれる。もしそれが他の種類の木だとしたら、彼は少なくともそれを薪割り用に取っておき、主人の家の暖炉のたきつけにするであろう。だが、これは非常に卑しむべきしろものなので、彼はそれを片隅に放り投げ、雑草とともに燃やしてしまうのである。もしそれが頑丈な樫の古木だとしたら、降誕祭の大薪という葬儀があるかもしれない。それは栄誉とともに燃やされ、その炎は明るく輝くであろう。だが、実を結ばない葡萄の木は蔑みとともに扱われ、雑草や屑やごみとともに、ぶすぶすくすぶるにまかされる。それはみじめなしろものである。信仰告白者たちも全くそれと同じである。神を愛さないすべての人は滅びなくてはならない。しかし神を愛すると告白しながら愛していない人々は、とりわけ不名誉な滅び方をする。「彼らは王たちの墓には運び入れられない」*[II歴28:27]。それに似たことが、古代のある王に起こった。こう書かれている。「彼はここからエルサレムの門まで、引きずられ、投げやられて、ろばが埋められるように埋められる」[エレ22:19]。信仰告白者が罪に定められる光景は、地獄が目にするものの中でさえ、最も身の毛もよだつような、最も不名誉な眺めであろう! サタンが、神に対するそのサタン的な暗黒の悪意とともに天から落ちたとき、彼の悪魔性には一種の荘厳さがあった。彼が罪に定められた際には、すさまじくも、恐ろしい崇高さがあった。また、大冒涜者や、ことのほか口汚い悪態をつく者がとうとう破滅へと送られるときも、そこには何かしら崇高なものがあるであろう。なぜなら、その人は自分の告白と首尾一貫していたからである。しかし、キリスト教信仰を告白していた者が地獄に落ちたことに気づくとき、それは人間がいまだかつて罪に定められた中でも、最もみじめで、最も情けない、だが、最も恐ろしいしかたの断罪であろう。私には、誠実な冒涜者たちが、その火焔の鎖から身を起こす姿が目に見える。彼らは、人を欺き続けた果てにそこにやって来る教役者に対して、食いしばった歯の間からシューシュー云うであろう。――「あはは! あはは! あはは! お前も俺たちと一緒になっちまったのかよ? お前は俺たちに、酔っ払うなと警告し、俺たちが呪われると云ってたよな。あはは! お前は自分でも酔っぱらいの地獄に入っちまったってわけだ!」 「ちぇっ! 」、と別の者が云うであろう。「それが謹厳実直なパリサイ人さんの成れの果てかよ。あゝ! 忘れもしねえが、ある晩、奴は俺様に、キリスト教を信じねえと地獄に落ちるぞと抜かしやがった。これでも食らえよ!」、と彼はつばを吐きかけた。「お前ほど胸糞の悪い奴はいねえや。俺は地獄に落ちたが、公明正大に自分の主人に仕えてのこったい。お前は――お前は神に仕えるふりをしながら、実はこそこそした偽善者だったのよ!」 別の者が、その穴の隅からわめき声を上げるであろう。「1つメソジストの賛美歌でも歌っていただきましょうか、先生よ。聖書の約束を1つ引用してくだせえな。選びについて話してくだせえな。あんたのご立派な説教を少し聞かせてもらいましょうや」。そして、地獄中でシューシュー云う声、「あはは! あはは! あはは!」という声、悪意と嘲りのわめき声が、キリスト者であると告白していながら、この点で正しい心をしていなかったために失格者となってしまった男に対して浴びせかけられ続ける。告白するが、私が何にもまして恐怖するのは、偽善的な背教者たちが陥る、云い知れようもない地獄中の地獄である。彼らは信者たちの列伍に立ち、神を愛すると告白し、敬虔な話題をぺちゃくちゃ喋っていた。会衆席に座って、キリスト教を信奉し、礼典にあずかり、聖餐式について語り、立ち上がっては祈り、自分の信仰ゆえに祈りが聞き届けられると語っていたが、その間ずっと、忌まわしい悪を犯し、自分の信仰告白という隠れ蓑の下で、貧者を欺き、みなしごから盗み、ありとあらゆる種類の不義を行なっていたのである。告白するが、私がこうした人々の断罪のすさまじさを他の人々の断罪にまさって恐怖する大きさは、少しでも断罪されることを恐怖するのと同じほど大きい。あたかも、地獄の中にもう1つの地獄が作られているかのようである。他の人々にまさる罪を犯した者たちを断罪するため、断罪された後で断罪するため――偽善者たち、私たちの間にいたが私たちの仲間ではなかった人たち、キリストのものであると告白していたが、結局は卑劣な詐称者であった者たちのために。おゝ! 方々。もしあなたがたが自分の鎖を格段に重くしたくなければ、――もしあなたがたがその火焔を格段に激しい熱さにかき立てたくないとしたら、――もしあなたがたが自分のわめき声を格段に忌まわしいものにしたくないとしたら、――今晩あなたの信仰告白を捨て去るがいい。自分がそれにふさわしくないなら、そうするがいい。この場所を出てから、あなたの脱会届を教会に送るがいい。さもなければ、方々。正直になって、あなたの膝を神の御前でかがめ、こう願い求めるがいい。どうか自分を探り、自分を調べ、御前で自分を真摯な者、廉直な者としてください、と。ある者になるか、別の者になるがいい。高潔そうな衣に身を包み、その間ずっと、その下には、膿みただれた腐敗を隠しているというようなことがあってはならない。立ち上がるがいい。大胆で、勇敢な罪人たち。卑劣でこそこそした、聖徒の仮面をかぶった罪人になってはならない。「ぶどうの木は、ほかの木よりどれだけすぐれているのか」。実がなければ、それは他のどの木よりも劣っている。だのに、そこに何の実も熟するまでになっていないとしたら、それは他のどの木よりも陰惨で、身の毛もよだつような滅び方をするに違いない。これは私たちをおののかせないだろうか? あゝ! このことは、あなたがた、震えおののく必要もない人たちを震えおののかせるに違いないが、恐怖をかき立てられる必要のある人々は、これまで通りのあり方を続けるであろう。このことは、あなたがたの中のある人々の心を、あの叫び声のように貫くであろう。「泣きわめけ、モアブよ。泣きわめけ、モアブよ!」 だが、悲しいかな! モアブは泣きわめかない。あなたはキル・ハレセテのために泣くが、キル・ハレセテは自分のために泣かない。あなたは自分の偽善的な友人たちのために泣くが、彼らは自分たちの目をこすって云う。「力強い説教だった。だが、あれは私とは何の関係もない」。そして彼らは、冷淡な増上慢とともにこの場所を出て行く。片手には罪を持ち、片手には聖餐式の杯を持つ。ある晩は放蕩の歌を歌い、次の日になると、こう歌う。

   「わが魂を 愛するイエスよ」

ここではキリストに出会い、向こうでは悪魔の手を取り、彼のあらゆる悪魔的な酔狂について幸運を祈る。あゝ! 方々。方々。方々。用心するがいい。この件については用心するがいい。私は切に願う。私たちはひとりひとり、自分の心を探ってみよう。自分を欺くことになってはならない。そして、願わくは神が私たちをこの件に関する正しい理解に至らせ、私たちが神の御前で潔白な者となることができるように。「神よ。私を探り、私の道を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください」[詩139:23-24]。

 そして今、私は、あなたがたを送り出す前に、どうしてもその通路にいる私の友に一言語らなくてはならない。彼は云っている。「それは結構、それは結構。私は信仰告白者ではない。そのような者ではない。私は大丈夫だ。だれも私を偽善者と呼ぶことはできない」。よろしい。私の愛する友よ。私はあなたが偽善者ではないことをたいへん嬉しく思う。あなたは自分がキリスト者であるとは云っていないからである。しかし、あなたに云わせてほしい。それだからといって、あなたが一層素晴らしいしかたで幸福になると期待してはならない。かりにロンドン市長のもとにふたりの男が引き出されたとしよう。ひとりの男は云った。「市長様、私は正直な人間でして、無罪でございます」。そして彼は、自分の人格に傷がつけられたことに憤慨した。よろしい。彼は有罪であることが判明し、三箇月の禁固刑に処せられた。そこへもうひとりの男がやって来て、こう云った。「市長様、あっしは有罪の人間です。あっしは今までずっと悪党暮らしをしていまして、これからも悪党を続けるつもりでやす。うその告白なんざいたしやせん」。そこで市長閣下は云った。「その方には、禁固六箇月の刑を言い渡さねばならんようだ。実際、ふたりのうち、お前の方がずっと断固たるごろつきに違いないと思うからな」。それで、もしあなたがたの中のだれかが、「私は信仰告白をしていないから、何の問題もない」、と云うとしたら、こう云わせてほしい。嘘っぱちの信仰告白をするのは非常に恐ろしいことだが、何の信仰告白もしないからといって、それを切り抜けられると考えるのは、それと同じくらい悪いことである、と。自分を欺かないように用心するがいい。新しい心と、神に対して正しい霊がなくては、信仰告白をしていようとしていまいと、滅びなくてはならない。おゝ! 神が私たちに恵みを与え、自分の家に帰ってから、あわれみを求め叫び求められるようにしてくださるとしたら、どんなに良いことか。そして自分のもろもろの罪を悔い改め、主イエス・キリストにだけ、単純に全く自分の信頼を置けるように助けてくださるとしたら、どんなに良いことか! そのようにするとき、私たちはいま救われ、永遠に救われるであろう。

  

 

実を結ばない葡萄の木[了]

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