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代 償

NO. 141 - 142

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1857年7月19日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」。――IIコリ5:21


 本は作者の思想表現である。自然という本は、神の御思いの一表現である。神の凄まじい御思いは、雷鳴と稲妻のうちに表わされている。神の愛に満ちた御思いは、陽光と快いそよ風のうちに表わされている。神の寛大で、思慮深く、配慮ある御思いは、波打つ収穫や、青々と茂る牧草地のうちに表わされている。神の絢爛たる御思いは、山の頂や谷間から見渡される絶景のうちに表わされている。そして、神の最も甘やかで喜ばしい美の御思いは、私たちの足下にある小さな花々のうちに表わされている。しかし、あなたも認めるであろうように、神が自然界の中で最も顕著に目立たせておられるのは、何にもまして傑出すべき必要のある御思いにほかならない。神は私たちに、花々であたり一杯に覆われた広大な野原を与えてはおられない。それは、それほど大量に必要ではなかったからである。だが神は、麦が一面に実る田野を広げておられる。そうすることで、いのちにとって絶対必要なものが供されるようにするためである。私たちは、神の摂理という御思いを大いに必要としていた。それで神は、私たちの産業を活気づかせて、私たちが馬車で道行く折には、どこに目を向けても、神の摂理的なご配慮を読みとれるようにしてくださった。さて、恵みという神の本は、自然という神の本とよく似ている。そこには神の御思いが完全に書き記されている。この偉大な本、聖書――この最も尊い書――は、神の御心が読めるようにされたものである。これは神の愛という金塊が金箔に打ち延ばされたものである。それによって、私たちの思いが覆われ、私たちもまた黄金の、純良な、聖なる思いを神についていだけるようにするためである。そして、あなたも気づくであろうように、自然界と同じく恵みにおいても、最も必要なものこそ最も目立っている。私は神のことばの中に、花々のように栄光に富む雄弁が豊かに盛り込まれているのを見てとる。しばしば私は、預言者が自分の言葉を強大な軍隊のように、また、荘厳な王たちのように整列させているのを見いだす。しかし、それよりはるかに頻繁に記されているのは、真理の単純な宣言である。輝かしく美しい思想もちらほら見えはするが、あらゆる野で平易な教理が教えられているのが見られる。それこそ魂の糧なのである。そして私は、章という章に天来のマナたるキリストが満ちていることに気づく。それによって魂は養われるのである。私の見いだすところ、聖書は、星々のようにきらめく言葉によって輝かされ、数々の甘やかな思想によって麗しいものとされ、幾多の雄壮な思想によって重厚にされ、種々の凄まじい思想によって畏怖すべきものとされている。だが、必要な思想、教えに満ちた思想、救いに至らせる思想の方がはるかに多く見いだされる。それは、その方がはるかに必要だからである。そこここに花咲く花壇はあるが、広大な田野の至る所には神の恵みの福音という生きた麦が実っている。ならばあなたも、私が救いという話題全体を説き明かすことがしばしば度重なるとしても勘弁してくれるに違いない。しかし、先週の安息日に私は、この麦の一束を持って来た。それは、キリストのこの約束に沿ったものであった。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」。そしてそのとき私が示そうとしていたのは、人々がいかにすれば救われるかということであった。私がいま持って来ようとしているのも、やはり同じ畑から刈り取られた麦束で、救いの大いなる哲理を教えるものである。それは、隠された奥義、偉大な秘義、福音によって明らかにされた素晴らしい啓示である。すなわち、いかにして神は義でありながら、不敬虔な者を義とお認めになることができるか[ロマ3:26]、ということである。この聖句をもう一度読んでから、すぐにその検討に進みたい。私はきょうも先週の安息日と同じようにしようと思う。できうる限り単純に語り、懸河の弁や美文調の雄弁は、可能であっても一言も用いないようにしよう。むしろ、地に足のついた話をし、いかに素朴な魂にも理解できるようにしよう。――「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」。

 この教理に、また、その適用に、また、その幸いに注意するがいい

 I. 第一に、《この教理》である。ここには、3つの人格が言及されている。「は(むろんこれは神である)、罪を知らないを(すなわちキリストを)、私たちの(罪人たちの)代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」。私たちが救いの計画を理解したければ、この3つの人格について、それなりに知ることが必要である。そして、ある程度までそれを理解しない限り、確かに私たちが救われることはできない。

 1. 最初に、ここには《神》がおられる。あらゆる人は神がいかなるお方であるかを知らなくてはならない。神は、あなたがたの中のある人々が考えているのとは非常に異なった《存在》である。天地の神――アブラハム、イサク、ヤコブのエホバ――《創造主》にして《保持者》、聖書の神、あらゆる恵みの神は、一部の人々が自分たちのためにこしらえ、礼拝している神とは違う。キリスト教国と呼ばれるこの国のある人々が礼拝している「神」は、全く愛の女神(ウェヌス)や酒神(バッコス)でしかない! 彼ら自身の心に沿って作られた神、木石から形作られた神ではないが、彼ら自身の思いから形作られた神、異教徒が「神」を作るために用いた素材にも劣るものからできた神である。聖書の神には、3つの偉大な属性がある。そして、その3つはみなこの聖句に含まれている。

 聖書の神は、主権者なる神である。すなわち、絶対的な権威を有し、お望み通りに寸分違わず行なう絶対的な力をお持ちの神である。神の頭上にはいかなる法もなく、神の御腕はいかなる必要にも縛られていない。神は、ご自分の自由で力強い意志のほか、いかなる規則も認めない。また、確かに神は不正になることができず、善以外の何も行なうことができないとはいえ、それでも神のご性質は絶対的に自由である。というのも、善は神のご性質が自由にふるまうことだからである。神は人の意志によっても、人の願望によっても、また、迷信深い人々が信ずるような運命によっても、決して支配されていない。神は神であり、天の軍勢の中においても、この下界においても、望むままに行なわれる。また、神は、ご自分のなさる事がらについて何の申し開きもしない神である。神は、ご自分の決めた通りにご自分の被造物を作り、ご自分の望む通りのことを被造物に対して行なう。そして、もし被造物の中の何者かが、神の行為を恨みに思うようなことがあっても、神は彼らにこう云われる。――「しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何か。形造られた者が形造った者に対して、『あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。』と言えるだろうか。陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのだろうか」*[ロマ9:20-21]。神はいつくしみ深いが、主権者であり、絶対者であり、何者からも支配されることがありえない。この世に対するその専制権は、決して立憲的な、制限付きのものではない。それは暴政ではないが、絶対的に、全知の神の御手に握られている。しかし、よく聞くがいい。それは神の御手の中だけにある。いかなる智天使も、いかなる熾天使も、その統治の実行において神を補佐することはありえない。

   「主の御座つくは ひとに頼らず
    何人はばかる こともなし」。

神は予定の神である。その絶対的な意志に立って、運命の扉を開いたり閉じたりする神である。

   「御座に繋(つな)がる 一冊(ひとつ)の巻物(ふみ)あり、
    そこにあらゆる 人の運命(さだめ)と
    天つ御使(つかい)の かたちと嵩(かさ)とが
    記されおりぬ、永久(とわ)の筆もて。

   「神の摂理は かの書をひらき
    その御計画(はかりごと)をば輝かさん、
    めくる一葉(ひとは)も しるす一筆(ひとて)も
    達成(かな)え果たさん 深き企図(たくみ)を」。

これが聖書の神である。私たちのあがめる神である。決して軟弱な、人々の意志によって支配される、怯懦な神ではない。摂理の帆船の舵を取れない神ではない。否、不変にして無限の、過つことなき神である。これが私たちの礼拝する神である。ご自分の被造物を無限に越えた神である。限りなく気高い思いが一匹の蝿を無限に越えているように、かつ、それにもまして、さらにいや高い程度において被造物にまさる神である。

 しかし、また、ここで言及されている神は、無限の正義の神である。神が主権者なる神であることを私は、神がキリストを罪とされた、というこの言葉から証明する。もし神が主権者でなかったとしたら、そのようにすることはできなかったであろう。神が正義の神であることを、私は本日の聖句からこう推論する。救いの道が正義を満足させるための偉大な計画であることに鑑みれば、そうである、と。そして私たちは今こう宣言する。聖書の神は、たわむことなき正義の神である。神は、あなたがたの中のある人々があがめているような神ではない。あなたのあがめている「神」は、大きな罪も大目に見る。あなたの信じている「神」は、あなたの罪悪を微罪と呼び、些細な過ちと呼ぶ。あなたがたの中のある人々の礼拝している「神」は、罪を罰さず、非常に意気地がなく容赦に富み、非常に容赦なく意気地がないため、そむきの罪にも不義にも目をつぶり、決して罰を定めることをしない。あなたの信じている「神」は、人が罪を犯しても、その違反のゆえに罰を要求しはしない。あなたは、あなた自身でちょっと良い行ないをすれば、神をなだめられるだろうと考えている。神はあまりにも意気地のない支配者なので、その前にささげる祈りの中で、多少神妙な言葉を口にすれば、刑の宣告が撤回されるに十分な功績になると考えている。それも、実際、神が刑を宣告するなどとあなたが考えるとしての話である。あなたの「神」は神ではない。それは、ギリシヤ人の神や、古代ニネベの神と同じくらい、にせの神である。聖書の神は、正義においてたわむことなく峻厳な神であり、罰すべき者は必ず罰する[出34:7]。「主は怒るのにおそく、力強い。主は決して罰せずにおくことはしない方」[ナホ1:3]。聖書の神は支配者であり、その臣下が反逆したときには、彼らの犯罪に目を留め、その罰を――彼らの上か、彼らの身代わりの上に――下すまで決して赦さない。神は一部の信徒たちの神のようではない。彼らの信ずる「神」は、贖罪を行なうことがない。十字架上でほんの小さな見せかけをするだけでしかなく、それも彼らによると罪のための真の苦しみではなかったのだという。彼らの神、ソッツィーニ主義者の神は、いかなる罰を科すこともなしに罪を拭い去る。だが聖書の神は、無慈悲に思われるほど峻厳で、全く恵み深くないと思えるほど義でありながら、しかし義ではないと思えるほど――しかり、それ以上に――恵み深く、慈悲に富んでおられる。

 そして、ここでもう1つの思想を神について示さなくてはならない。さもなければ、この講話を確かな基盤の上に打ち建てることはできないであろう。この箇所で意味されている神は、恵みの神である。私が矛盾したことを云っていると思ってはならない。たわむことなく峻厳なこの神、決して罰することなく罪を赦さないこの神は、果てしない愛の神でもあるのである。《支配者》として懲らしめることはあるにせよ、だが、《父なる神》としては、その祝福を授けることを愛しておられる。「わたしは誓って言う。――神である主の御告げ。――わたしは、だれが死ぬのも喜ばない。かえって、悪者が悔い改めて、生きることを喜ぶ」*[エゼ18:32; 33:11]。神は、最高の程度において愛である。愛以上のものとされている愛である。愛は神ではないが、神は愛である。神は恵みに満ちており、あわれみに充満している。――神はいつくしみを喜ばれる[ミカ7:18]。天が地よりも高いように、神の愛の思いは、私たちの絶望の思いよりも高い[イザ55:9]。この神――こうした3つの偉大な属性が調和している神――果てしなき主権と、たわむことなき正義と、底知れぬ恵み――この3つが、天地の唯一の神の主立った属性をなしており、この神をキリスト者は礼拝しているのである。この神の前にこそ私たちは現われなくてはならないのである。この神こそ、キリストは罪を知らない方であられたにもかかわらず、キリストを私たちの代わりに罪とされたのである。

 2. このようにして私たちは、第一の人格をあなたの前に持ち出した。本日の聖句の第二の人格は神の御子――罪を知らない方、キリスト――である。キリストは、神の御子であり、すべての世に先立って御父から生まれたお方である。生まれたのであって造られたのではない。御父と本質を同じくし、同等にして、等しく永遠であり、等しく存在している。御父は《全能者》だろうか? 御子も《全能者》である。御父は無限だろうか? 御子も無限である。まことの神よりのまことの神である。御父に劣らぬ尊厳を有しており、むしろあらゆる点で御父と同等である。――万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神である[ロマ9:5]。またイエス・キリストは、マリヤの子でもあり、私たちと同じような人である。罪という弱さを除き、人間性のあらゆる弱さにさらされている人である。苦しみと嘆きの人、苦痛と悩みの人、心配と恐れの人、苦難と疑いの人、誘惑と試練の人、弱さと死の人である。キリストは私たちと全く同じような人であり、私たちの骨の骨、私たちの肉の肉である。さて、私たちがあなたに紹介したいこの人格は、この複合的な存在、神であり人であるお方である。神が人間になったのでもなく、人が《神格化》したのでもない。むしろ、純粋に、本質的に神である神、純粋に人である人である。人以上のものではない人、神以下のものではない神である。――この二者が、神聖な結合によって両立している《神-人》である。キリストのうちにあるこの神について、本日の聖句は罪を知らない方と云っている。それは、この方が罪を犯さなかったと云ってはいない。それは私たちも分かっている。むしろ、それ以上のことを云っているのである。この方は罪を知らなかった。罪がいかなるものかを知らなかった。他の人々のうちにある罪を見てはいたが、それがいかなるものかを経験によって知ることはなかった。この方は罪とは完璧に無縁であった。これは単に、この方が罪をその心に取り入れなかったと云っているのではない。むしろ、罪を知らなかった、と云うのである。罪はこの方の知り合いではなかった。この方は悲嘆とは知り合っていた。だが、罪とは知り合っていなかった。いかなる種類の罪をも知らなかった。――思いの中の罪も、生まれながらの罪も、原罪も、実際に犯すそむきの罪も一切全く知らなかった。口の罪も、手の罪も決してキリストは犯したことがなかった。キリストはきよく、完璧で、無傷であった。ご自身の神性と同じように、しみや傷や、そのようなものが何1つなかった。この恵み深いご人格こそ、この聖句で語られているお方である。この方は、いかなる悪事を犯すことも完全にできない人格であった。最近になって、一部の無思慮な人々は、キリストも罪を犯すことができたのだと主張している。そうした考え方を始めたのはアーヴィングだったと思うが、もしキリストが罪を犯せなかったとしたら、美徳も行なえなかったはずだというのである。彼らは云う。「というのも、もしある人が必然的に善でなくてはならないとしたら、その人の善には何の美徳もないからである」。こうした人々の愚にもつかないたわごとは振り捨てるがいい。神は必然的に善ではないだろうか? では、だれが神が美徳に富んでおられることを否定しようなどとするだろうか? 天国にいる栄化された霊たちは必然的にきよくはないだろうか? だがしかし、彼らはその必然性そのもののゆえに聖くないのだろうか? 御使いたちは、今や堅く確立されている以上、必然的に完全無欠ではないだろうか? では、誰か御使いたちの美徳を否定しようなどという者がいるだろうか! そうしたことは真実ではない。美徳を作り出すためには、いかなる自由も必要ではない。自由と美徳は一般には両立している。だが、必然性と美徳は、自由と美徳の場合と同じくらい兄弟姉妹なのである。イエス・キリストは罪を犯すことができなかった。キリストにとって罪を犯すことが完全に不可能であったのは、火が人を溺れさせることができず、水が人を焼くことができないのと全く同じであった。そうしたことも、何か異様な状況下にあっては可能となりえるとは思うが、キリストが罪を犯す、あるいは罪を犯すことの影を忍ばれるなどということは絶対に不可能であった。キリストはそれを知らなかった。いかなる罪も知らなかった。

 3. さて、私は第三の人格を紹介しなくてはならない。遠くまで探しに行きはしない。三番目の人格は罪人である。では、彼はどこにいるだろうか? 私はあなたがたひとりひとりに願いたい。ぜひ自分の内側に目を向け、彼を探してもらいたい。彼はあなたからさほど遠くない所にいる。彼は酔いどれであった。酩酊し、へべれけになり、そうした類のことを犯してきた。そして私たちの知る通り、そうした事がらを犯している人は誰も、神の御国を相続することができない[エペ5:5]。別の者もいる。彼は神の御名をみだりに用いてきた。時として、激情に駆られては、自分の手足や自分の魂にそら恐ろしいことを行なってみるよう神に求めることがあった。あゝ! そこに罪人がいる。どこに? その人の声が聞こえる。涙ぐんだ目をしながら、啜り泣きの声で、こう叫んでいる。「先生、そいつはここにいます!」 私は、この場に何人かの婦人が見えるような気がする。私たちの中のある者らは、私たちの真中にいる彼女たちを非難してきたかもしれない。そして彼女ひとりが震えながら立っており、自分のためには一言も喋らない。おゝ! かの《主人》が、こう仰せになるとしたらどんなに良いことか。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません」[ヨハ8:11]。私の信ずるところ――私はそう信ぜざるをえない。――この何千人という大勢の間のどこかで、いくつかの心臓が動悸を早めている。そして私には、その心臓が早鐘を打ちながら、こう叫んでいるような気がする。「罪、罪、罪。神の怒り、怒り、怒り。どうれすば私は解放されることができるのでしょう?」 あゝ! あなたこそその人である。生まれながらの反逆者。罪人としてこの世に生まれ出た者。あなたは、自分の生来の咎に加えて、自らもそむきの罪を幾度となく行なってきた。あなたは神の律法を次々に破ってきた。神の愛を蔑んできた。神の恵みを踏みにじってきた。今に至るまでここまで突き進んできた。主の矢[ヨブ6:4]があなたの魂を飲み込んでいる。主はあなたに自分の咎と、自分のそむきの罪を告白させてきた。ならば、私の言葉を聞くがいい。もしあなたの罪の確信が神の御霊のみわざだとしたら、あなたこそはこの聖句で意味されている人格なのである。それはこう云っている。「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが」――つまり、あなたが――「この方にあって、神の義となるためです」。

 私は、こうした人格を紹介してきたが、今やあなたを、この聖句に従ってなされている、大いなる交換の場面へと連れて行かなくてはならない。私たちの紹介する第三の人格は、法廷に立っている囚人である。神は彼を、罪人としてご自分の前に召し出された。彼は生死をかけた裁判に臨もうとしている。神は恵み深くも、彼を救いたいと願っておられる。神は義であり、彼を罰さなくてはならない。この罪人は裁判にかけられることになっている。有罪の判決が下されるとしたら、この2つの相反する属性は、いかにして神の御思いの中で働くだろうか? 神は愛に満ちており、彼を救いたいと欲している。神は義であり、彼を滅ぼさなくてはならない! いかにしてこの神秘を解明し、この謎を解けば良いだろうか? 法廷に立つ囚人よ。その方は「無罪」を申し立てられるだろうか? 彼は無言のまま立っている。あるいは、何か語るとしても、「《有罪》です!」、と叫ぶ。

   「よし汝れ わが魂(たま) 地獄(よみ)に棄(す)つとも
    汝が義の律法(おきて) そをよく是とせん」。

ならば、見ての通り、もし彼が自ら有罪を申し立てているとしたら、証拠に何か不備があるという望みは全くない。また、たとい「無罪」を申し立てているとしても、それでも、その証拠はこの上もなく明確である。というのも、神が、《審き主》が、彼が罪を犯す現場を見ており、彼の不義のすべてを記録し、彼が逃れる望みを全くないようにしていたからである。この囚人は確実に有罪であることが見いだされる。いかにして逃れられようか? 起訴状に何か不備はないだろうか? 否! それは無限の知恵によって作成され、永遠の正義によって口述されている。そこには何の希望もない。彼は共犯者に不利な証言をすることによって減刑が見込めるだろうか? あゝ! もし私たちが共犯証言をすることで救われることができるとしたら、私たちは全員が救われるであろう。わが国の法には変則的なものがあり、しばしば主犯の方に刑を免れさせながら、従犯者の方に罰を下すのである。もしも一方が卑怯な臆病者だとすると、自分の仲間を裏切ることによって、命拾いができるのである。『ニューゲート法廷日程』に目を向けるとしたら――あなたがたの中の誰かが、これほど邪悪な文書を読むほどの忍耐を有していたらの話だが――、ふたりの殺人者のうち罪が多い方が刑を免れ、もう一方が絞首刑に処されていることに気づくであろう。主犯格が共犯証言をしたからである。あなたは自分の同胞たちについてこう云ってきた。こう語ってきた。「主よ。私はほかの人々のようでないことを感謝します。私はこの姦淫する者のようではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。あなたをほめたたえます。私は、ゆすりや、盗みや、そういったことを働いている隣人のようではありません」。あなたは自分の隣人に不利になるようなことを告げている。あなたがたは、共犯者同士である。そして、あなたは相手に不利になるような話をしている。だがあなたには何の望みもない。神の律法は、人が他人を密告することで逃れられるような不正義とは関わっていない。では、いかにしてこの法廷に立つ囚人は逃れられるだろうか? 何か可能性があるだろうか? おゝ! いかに天は驚愕したことか! いかに星々は呆然と立ちつくしたことか! そして、いかに御使いたちは一瞬その歌声を途切れさせたことか。そのとき初めて神は、いかにしてご自分が義でありながら、恵み深くありえるかをお示しになったのである! おゝ! 私には、天が驚嘆し、神の宮廷を静寂が一時間ほども覆ったのが見えるような気がする。《全能者》はこう仰せになったのである。「罪人よ。わたしは罪ゆえにお前を罰さなくてはならないし、必ずや罰する! しかし、わたしはお前を愛している。わたしの愛の心は、お前をあわれに思っている。どうしてわたしはお前をアデマのように引き渡すことができようか。どうしてお前をツェボイムのようにすることができようか[ホセ11:8]。わたしの正義は、『殺せ』、と云うが、わたしの愛はわたしの手を抑えて云う。『あわれめ。罪人をあわれめ!』、と。おゝ! 罪人よ。わたしの心は1つの手を編み出した。わたしのきよく完全な《子》を、お前の代わりに立たせて、有罪とみなすことにしよう。そして、咎あるお前は、わたしの《子》の代わりに立ち、義とみなされるようにしよう!」 このことを完全に理解したとしたら、私たちは驚愕のあまり飛び上がるであろう。――これが、キリストと罪人の置き換えという驚異の神秘である。誰にでも理解できるくらい平易に云い表わさせてほしい。キリストには傷がなかった。罪人はよこしまだった。キリストは仰せになっている。「父よ。わたしが罪人であるかのように、わたしを扱ってください。この罪人は、わたしであるかのように扱ってください。お望みの通りに厳しく打ちすえてください。わたしはそれを耐えるでしょう。そうすれば、わたしの愛の心は恵みで満ちあふれることができますが、あなたの正義は無垢のままでしょう。この罪人はもはや罪人ではないのですから」。彼はキリストの代わりに立ち、キリストの衣をまとい、受け入れられる。あなたは、このような交換を不正義だと云うだろうか? 神はご自分の御子を私たちの身代わりとすべきではなかった、と云うだろうか? それがキリストの側からすると純粋に自発的なものであったことを思い出させてほしい。主は私たちの罰という杯を飲まなくてはならなかったが、そうすることを完全に望んでおられた。そして、もう1つ、反駁しようのないことを告げさせてほしい。キリストの代償が不法とならないのは、主権者なる神がキリストを身代わりとされたからである。歴史を読むと、こういう話が書かれている。ある妻が夫に対する愛の深さのあまり、監獄に忍び込んでは彼と服を取り替えたという。そして、この囚人が脱走しつつある間、この妻は監獄にとどまっていた。こういうわけで、この囚人は、一種の不正な代償によって脱走したのである。このような場合、そこには明白に法律違反があったし、脱走した囚人は追跡されて、再び投獄されることがありえた。しかし、この場合の代償は、最高の権威によってなされたのである。この聖句は云う。「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました」。そして、キリストは、私の地位、立場、場所に立つ限りにおいて、この交換を不法に行なったのではない。キリストが罪人の立場に立ち、罪人が今やキリストの立っていること、これは、キリストご自身の同意であると同時に、《全能の神》の確定した意図に完全に沿ったことであった。老マルチン・ルターは、あることをきわめて平易に語る達人であったが、時として真理を平易に語りすぎて、まるでその真理を嘘のように思わせることがあった。その説教の1つで彼はこう云っている。「キリストは、この世に生まれた中で最大の罪人であった」。さて、キリストは決して罪人ではなかったが、しかしマルチンは正しかった。彼はこう云おうとしたのである。キリストの御民のあらゆる罪は彼らから取り去られて、キリストの頭上に置かれた。それてキリストは神の御目においては、あたかもこの世に生まれた中で最大の罪人であるかのようなったのである。主は決して罪人ではなかった。決して罪を知らなかった。だが、善良なマルチンは、それがいかなることかを人々に理解させたいという熱意のあまり、こう云ったのである。「罪人よ。あなたはキリストになったのだ。キリストよ。あなたは罪人となったのだ!」 これは完全には真理ではない。罪人は、あたかもキリストであるかのように扱われているのであり、キリストは、あたかも罪人であるかのように扱われているのである。それこそ、この聖句によって意味されていることである。「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」。

 このことを示す例証を2つ示させてほしい。最初のものは、旧約聖書から取られている。昔、人々が罪を伴って神の御前に出て来たとき、神はキリストの見本となるような1つのいけにえを供された。そのいけにえが罪人の代わりに死ぬという限りにおいて、そうであった。律法にはこう書いてある。「罪を犯した者は、その者が死ぬ」[エゼ18:4]。人々は、罪を犯したときには、雄牛か羊を祭壇の前に携えて来た。その手を雄牛の頭の上に置き、自分の咎を告白した。そして、その行為によって、彼らの咎は象徴的に彼らからその雄牛に移された。それから、その可哀想な雄牛は、自らは何も悪いことをしていなかったにもかかわらず、ほふられ、神に捨てられた、罪のためのいけにえとして投げ捨てられた。これこそ、救われたければあらゆる罪人がキリストによって行なわなくてはならないことである。罪人は、信仰によってやって来ては、自分の手をキリストの頭上に置く。そして自分のあらゆる罪を告白すると、それはもはや彼の罪ではなくなり、キリストの上に置かれる。キリストは木に吊された。主は十字架を忍び、その恥辱に耐えられる。そのようにして、罪はみな消え去り、海の深みに投げ込まれる。もう1つの例証を取り上げてみよう。新約聖書には、「教会(すなわち、神の民)はキリストの花嫁である」、と書かれている[黙21:9参照]。私たちがみな知るように、法によれば、妻がいかに多くの負債をかかえていようと、結婚するや否や、その負債は彼女のものではなくなり、即座に夫の負債となる。それで、たといある女が負債に圧倒されていて、毎日監獄を恐れながら暮らしているとしても、いったんある人と婚約し、彼の妻となったならば、この世の何物も彼女に触れることはできない。夫がすべてに責任を負い、彼女は自分の債権者に向かってこう云う。「旦那。あたしは旦那に何も返す義理はありませんよ。亭主は旦那に何も借金してませんでしたし、借金を背負い込んでたのはあたしでしたが、あたしが亭主の嫁に来た以上、あたしの借金はあたしから取り上げられて、亭主のもんになってるんですよ」。罪人とキリストについても、全く同じである。キリストは罪人をめとり、誓って《教会》をご自分のものとされた。《教会》は神の正義に対して途方もない負債を負っていた。神の復讐に対して、御怒りと刑罰との耐え難い重みを負っていた。だがキリストは云っておられる。「あなたはわたしの妻だ。わたしはあなたを選んだのだ。それで、わたしはあなたの負債を支払おう」。そして、主はそれを支払い、ご自分の債務を完全に履行された。さて、誰でもキリスト・イエスを信ずるならば、神との平和を持つことになる。なぜなら、「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」。

 さていま私はこの聖句の説明のしめくくりとして、あなたがこの大いなる代償の結果を思い起こすことだけを命じよう。キリストは罪とされた。私たちは神の義とされた。それは過去のこと、御使いたちの記憶が到達できるよりも、はるかに遠い昔のこと、――暗黒の過去、智天使や熾天使が未踏の天界を羽ばたく前で、――世々がまだなく、被造世界がいまだ名前を有していなかったときに、神は人の罪を予見し、その贖いを計画された。1つの永遠の契約が御父と御子の間で結ばれた。その中で御子はご自分の選民のために苦しみを受けると約定し、御父の側では、御子を通して彼らを義と認めると契約なさった。おゝ、驚くべき契約よ。お前こそは、贖いの愛の流れすべての源泉である。永遠が押し寄せ、時が到来し、それとともに、すぐに堕落がやって来た。そして、それから多くの年月が連綿と経巡ったとき、時が満ちるに及んだ。イエスはその厳粛な誓約を果たす備えをされた。主はこの世の中にやって来られ、人となられた。その瞬間、主が人となられた時から、主のうちにもたらされた変化に注目するがいい。以前の主は、全く幸福であった。主は決してみじめであったことも、悲しみを覚えたこともなかった。だが今や、主が神と結ばれた、かの恐ろしい契約の結果、御父は主の上に御怒りを注ぎ始められた。何と! 神が現実にご自分の御子を一個の罪人とみなされたと云うのですか? しかり。神はそうみなされた。御子は、罪人の代わりに立つべき身代わりとなることに同意された。神は、御子の誕生時から始められた。神は主を飼い葉桶の中に置かれた。もし神が主を完璧な人とお考えになっていたとしたら、主に玉座を供されていたであろう。だが、主を罪人とお考えになっていた神は、主を最初から最後まで、嘆きと貧困にさらすことをなさった。そして今や、主が成人された姿を見るがいい。主を見るがいい。――悲嘆は主を追いかけ、悲しみが主につき従った。止まれ、悲嘆たち。なぜお前たちは完璧な人につき従うのか? なぜお前たちは無原罪の人を追いかけるのか? 正義よ。なぜあなたはこうした悲嘆たちを追い払わないですか?――「きよき者は安らぎを得、咎なき者は幸いを得る」というのに。答えがやって来る。「この人は自分自身ではきよいが、自分の民の罪を引き受けることによって、自らをきよくない者としているのだ」。咎が主に転嫁されており、その咎の転嫁そのものが、そのあらゆる現実とともに悲嘆をもたらすのである。最後に、死がその通常の恐怖にいやまさるものとともにやって来るのが見える。私は、研ぎすました投げ矢を手にした、ぞっとするような骸骨が見える。彼の背後に、《地獄》が見える。私は、この身の毛もよだつ暗闇の王者に目を留め、あらゆる復讐者たちがその苦悶の場所から起きあがるのに気づく。彼らがうじゃうじゃと《救い主》に押し寄せているのが見える。あの園において彼らが主と壮絶な戦いを繰り広げているのを眺める。主がそこに伏し、恐ろしい魂の死の中で、ご自分の血にぐっしょりと濡れているのを見いだす。嘆きと悲しみに包まれてピラトの法廷へと歩いていく主の姿が見える。主がなぶられ、つばを吐きかけられているのが見える。苛まれ、虐待され、冒涜されているのを見てとる。十字架に釘づけられるのが見える。嘲弄が続き、恥辱が少しも衰えないのを目にする。水を求めて金切り声をあげていることに気づき、神から捨てられたことに文句を云っている言葉が聞こえる! 私は驚愕させられる。完璧な存在がこのように苦しまされることが正しいことでありえようか?――おゝ、神よ。あなたはどこにいるのです? このように罪なき者が虐げられることをお許しになるとは。あなたは《正義の王》であることをやめたのですか? さもなければ、なぜあなたは、あの完璧な《お方》をかばってくださらないのですか? その答えがやって来る。静まれ。彼は自分自身では完璧だが、今は罪人となっているのだ。――罪の代わりに立っているのだ。罪人の咎が彼の上にあり、それゆえ、これは間違っていないこと、正しいこと、彼自身が同意したことなのだ。彼は一個の罪人であるかのように罰され、眉をひそめられ、死ぬべきなのだ。また、何の祝福も、慰めも、助けも、誉れもなく、見捨てられた者として《ハデス》に下るべきなのだ、と。これが、キリストの行なわれた偉大な交換のもたらす1つの効果であった。

 さて今この問いのもう1つの面を取り上げて、説明をしめくくることとにしよう。私たちには、いかなる効果があっただろうか? あなたには、あそこにいる罪人が見えるだろうか? さんざん情欲で手を汚し、肉のふけってきたあらゆる罪で自らの衣を汚しつつあるあの罪人が。彼が神を呪っているのが聞こえるだろうか? 神によって聖なるものとされたあらゆる定めを破っていることに気がついただろうか? しかし、ほどなくして彼が天国への道を辿っているのが見えるだろうか? 彼はこうした罪と手を切ってしまった。彼は回心し、それらを捨ててしまった。天国への道を進みつつある。《正義》よ。あなたは眠っているのですか? あの男はあなたの律法を破ってきたのですよ。彼が天国へ行っていいのですか? 聞けよ、あの底知れぬ穴から、いかに悪鬼どもが立ち上がっては叫ぶことか。――「あの男は失われて当然だ。今までとは違ったあり方をしているかもしれない。だが、奴の過去の罪は復讐されなくてはならない」。だがしかし、その彼は悠然と天国への道を進みつつあり、自分を非難するすべての悪鬼どもを振り返るのが見える。彼は叫ぶ。「見よ。神に選ばれた者を訴えるのはだれですか?」*[ロマ8:33] すると、地獄全体がいきり立って非難を浴びせかけると思いきや、かの冷酷な暴君はぴくりとも動かず、悪鬼どもはぐうの音も出ない。そして、彼が天にある神の御座に自分の顔を向けるのが見え、こう叫ぶのが聞こえる。「罪に定めようとするのはだれですか?」[ロマ8:34] 厚顔にも彼は《審き主》に挑戦する。おゝ! 正義よ。あなたはどこにいるのですか? この男は罪人だったのです。反逆者だったのです。なぜ、これほど図々しく神の正義に挑戦する不遜な者を粉微塵に打ちのめさないのですか? 否、と《正義》は云う。彼は罪人だったが、私は今では彼をそうした光に照らして見ることはしない。私は彼の代わりにキリストを罰してしまったのだ。あの罪人は今や罪人ではない。――彼は完璧なのだ。何ですと? 完璧ですと! 完璧である。なぜなら、キリストは完璧であったし、私は彼を彼がキリストであるかのようにみなすからだ。彼自身は、何もかもがケダルの門のように黒いが、私は彼をソロモンの帷のように麗しいものとみなす。私はキリストをこの罪人とし、キリストを罰する。私はこの罪人をキリストとし、彼を賛美し、高く上げる。そして私は純金の冠を彼の頭に戴かせ、聖なるものとされた人々の間に場所を得させ、そこで彼は手に立琴を持ち、永遠に主の御名をたたえることになるだろう。これが、罪人たちにとって、この偉大な交換がもたらす結果である。「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」。

 II. さて、私はしめくくりに向けて、第二の点に移らなくてはならない。この点については手短に、しかし念を入れて語ることにしよう。《この教理は何に役立つだろうか?》 聖書に目を向ければ分かるであろう。「こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。というのも」、――ここに私たちの偉大な論拠があるが、――「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされたからです。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」[IIコリ5:20-21 <英欽定訳>]。兄弟たち。これから私は、あなたに願い事をしようとしている。あなたに懇願し、勧告しようとしている。願わくは御霊なる神の助けにより、私がそれを、しかるべき真剣さを尽くして行なえるように。あなたと私は、じきにかの偉大な審き主の法廷で顔を合わせることになる。そして、かの精算の日に私は、自分があなたに宣べ伝えるすべてのことについて責任を問われるであろう。私の様式や才能のためでも、才能の欠けのためでもなく、ただ、この件における私の真剣さと熱心さのゆえに責任を問われるであろう。そして今、神の御前で私は真剣きわまりなくあなたに懇願する。和解を受け入れるがいい。あなたは、生まれながらに神に敵対している。あなたは神を憎み、神を無視している。あなたの敵意は数多くのしかたで表わされている。私は今、神の和解を受け入れるようあなたに懇願する。私があなたに和解を受け入れるように嘆願するのは、神を敵に回したまま死ぬのは恐ろしいこととなるからである。私たちの中の誰が、むさぼり食らう火焔とともに住めるだろうか? 生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことである。私たちの神は焼き尽くす火だからである[ヘブ10:31; 12:29]。用心するがいい。あなたがた、神を忘れる人たち。さもないと、神があなたを引き裂き、救い出す者もいなくなろう[詩50:22]。それゆえ、私はあなたに、神の和解を受け入れるように懇願する。その一方で私は、別の議論を用いて、あなたにこう思い出させることもできよう。神と和解させられた人々は、そのことによって、天国を受け継ぐ者であるとわかるのである。神の友たちのためには冠がある。神を愛する者たちのためには立琴がある。神を尋ね求めるあらゆる者には家が用意されている。それゆえ、もしあなたが永遠にわたって祝福されたければ、神の和解を受け入れるがいい、と。しかし、そうは主張するまい。私は、本日の聖句の理由を力説したい。話をお聞きの方々。私があなたに神の和解を受け入れるよう懇願するのは、もしあなたが悔い改めるならば、それは、キリストがあなたの代わりに立ってくださっている証拠となるからである。おゝ、もしこの論拠があなたを溶かさないとしたら、天にも地にも、あなたを溶かせる論拠は何もない。もしあなたの心がこのような論拠で溶かされないとしたら、それは臼の下石よりも硬いのである。あなたを励ますために、これほどのことを書き記してくださった神の和解を受け入れようとしないというのであれば、確かにあなたは石の魂、青銅の心をしているに違いない。

 私が神の和解を受け入れるようにあなたに懇願するのは、ここには、神があなたを愛しておられる証拠があるからである。あなたは神が怒りの神であると考えている。だがもし神があなたを憎んでいたとしたら、ご自分の御子を罰させるためにお与えになったりしただろうか? 罪人よ。もし神があなたに対して愛の思い以外に何か含むところがあったとしたら、私は問うが、神はご自分の御子を木に吊させるためにお遣わしになったりしただろうか? 私の神を暴君だと思ってはならない。激怒した、あわれみに欠けた神だと思ってはならない。そのふところからもぎ離され、死に引き渡されたその御子こそ、神の愛を示す何よりの証拠である。おゝ、罪人よ。あなたがあなたの敵を憎むとしたら、私にあなたを責めるいわれはない。だが、もしあなたがあなたの友を憎むとしたら、私はあなたを責めなくてはならない。狂人と呼ばなくてはならない。おゝ、もしあなたが、あなたと和解しようともしない者との和解を受け入れないというのであれば、そこには何の不思議もない。だが、ご自分の御子を死なせるためお与えになった神との和解を、あなたが生まれながらに受け入れようとしない以上、私は、あなたが自らの悪しき性質によって突き進みつつある愚劣さに唖然とせざるをえない。神は愛である。あなたは、愛と和解させられたくないのだろうか? 神は恵みである。あなたは恵みと和解させられたくないのだろうか? おゝ、それでもあなたが和解させられたくないというのであれば、自分が悪のきわみであることに心胆を寒くするがいい。また、思い出すがいい。おゝ、魂よ。あなたの和解への道は開かれているのである。あなたは罰される必要がないのである。しかり。決して罰されないのである。もしあなたが、御霊の教えにより自分が罪人であると分かるとしたら、神はご自分の正義を守るためにあなたを罰しはしない。その正義はキリストの受けた罰によって十分に守られている。神は云われる。「和解を受け入れよ」、と。子どもが罪を犯すと父親のもとから逃げ去るのは、父が自分を罰するのを恐れるからである。だが、その父親が鞭を焼いてしまい、笑顔で、「坊や、ここにおいで」、と云うときも、そのような父親の腕の中に飛び込もうとしないような子は、愛情のない子に違いない。罪人よ。あなたは剣を受けて当然である。神はその剣をキリストの贖罪の木材の彼方に放り投げ、今や、「わたしのもとに来よ」、と云っておられるのである。あなたは、無限で永遠の御怒りと、神の不興を受けるに値している。神はあらゆる信仰者に対する御怒りを消してしまい、今やこう云っておられる。「わたしのもとに来て、和解を受け入れよ」、と。あなたは私に、自分は罪人などではないと云うだろうか? 私はあなたに向かって説教してきたのではない。あなたは私に、自分は神に刃向かったことなど一度もないと云うだろうか? 私はあなたに警告する。確かにあなたは自分のもろもろの罪を見いだしてはいないが、神はそれを見いだすであろう。あなたは云うだろうか? 「私には必要な和解はただ1つ、私が自分で作り上げる和解だけだ」、と。警告しておくが、もしあなたがキリストをはねつけるとしたら、あなたは自分の唯一の希望をはねつけているのである。というのも、あなたにできるすべてのことは、無以下であり、全くむなしいからである。私が、「和解を受け入れよ」、と云ったとき、あなたに向かって説教していたのではない。私はあなたがた、あわれな、苦しんでいる良心たちに向かって説教していたのである。私が説教してきたのはあなたのためである。――あなたがた、はなはだしい罪人たち、そむく者たち。あなたがた、自分の咎を感じている人たち。あなたがた、姦淫する人たち。罪の確信という鞭打ちの下でいま震えている人たち。あなたがた、冒涜者たち。頭から爪先まで身震いしている人たち。私はあなたのために説教してきたのである。あなたがた、悔悟の涙を目にためている盗人たち。あなたがた、キリストによって救われない限り、地獄が自分の受ける割り当てに違いないと感じている人たち。私はあなたのために説教してきたのである。あなたがた、自分の咎を知っている人たち。私はあなたのために、また、そうしたあらゆる人のために説教してきたのである。そして私はあなたに懇願する。神の和解を受け入れるがいい。神はあなたと和解しておられるからである。おゝ、あなたの心がこのことに逆らい立たないようにするがいい。

 私は自分の願えるほど嘆願することができない。おゝ! もしもできるとしたら、私は自分の心をもって、目をもって、口をもって嘆願し、あなたを《救い主》のもとに導きたいと思う。あなたは私をののしり、これをアルミニウス主義者風の説教だと呼ぶ必要はない。私はあなたの意見など歯牙にもかけない。この様式が聖書的様式なのである。「ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい」。あわれな、心砕けた罪人よ。神は今朝、あたかもご自身でこの場に立って、あなたに和解を受け入れるように宣べ伝え、命じておられるも同然なのである。そして、確かに私は神の代弁者にすぎない、卑しく取るに足らない者ではあるが、いま神は、あたかもそれが御使いたちの声ででもあるかのように語っているのである。「神の和解を受け入れるがいい」。さあ、友よ。私から目をそらし、顔をそむけてはならない。私にあなたの手を取らせ、あなたの心をゆだねてほしい。いま私は、あなたの手を求めて泣き、あなたの心を求めて叫び、あなたに向かって懇願しているのである。差し出されているあわれみを蔑んではならない、自分で自分の魂を自殺させてはならない、自分で自分を断罪してはならない、と。神があなたを目覚めさせ、あなたが敵であることを感じさせている今、私はあなたに懇願する。今や神の友となるがいい。覚えておくがいい。もしあなたがいま罪を確信させられているとしたら、あなたは決して罰を受けない。主があなたの代わりに罰されたのである。あなたはこのことを信じようと思うだろうか? このことに信頼して、神との平和を得ようと思うだろうか?もしあなたが、「いやだ!」、と云うなら、知っておくがいい。あなたは自分で自分のあわれみをはねつけたのである。もしあなたが、「自分には何の和解も必要ない」、と云うなら、あなたは、あなたの持ちうる唯一の希望を押しのけたのである。自分の責任でそうするがいい。私はあなたの血について何の関係もない。しかし、しかし、しかし、もしあなたが自分には《救い主》が必要だと分かっているとしたら、もしあなたが地獄の穴から逃れたいと思うとしたら、もしあなたが聖なるものとされた人々の間を歩きたいと思うとしたら、私はもう一度云う。あなたがこの招きをはねつける限り、最後の審判の日にあなたを罪に定めるであろうお方の御名によって、私はあなたに哀願し、懇願する。神の和解を受け入れるがいい。私は神の使節である。この説教を語り終わった後、私は宮廷に戻って行くであろう。罪人よ。私はあなたについて何と云えば良いだろうか? 私は戻って行って、自分の《主人》にこう告げれば良いだろうか? 彼は永遠にあなたの敵でいることを望んでいます、と。私は戻って行ってこう告げれば良いだろうか? 「彼らは私の話を聞きましたが、気にも留めませんでした」。彼らは内心こう云っていました。「われわれは、自分の罪と愚行のもとに帰って行きたい。お前の神などに仕えたくないし、そんな神は恐ろしくもない!」 私はそのような知らせを神に告げて良いだろうか? 私はそのような恐ろしい話を携えて神の王宮に追い返されなくてはならないのだろうか? 私はあなたに懇願する。そのように私を帰らせてはならない。私の《主人》の怒りが燃え上がり、このように仰せになるといけない。

   「約束(みこと)の安息(やすき) 蔑まば
    そこにいかなる割り当てもなし、と」。

しかし、おゝ! 私はきょう、王宮に戻ってから膝まずき、《主君》にこう云えるようにはなれないだろうか。「わが君。あの場には、たいへんな反逆者たちが何人かおりました。ですが、その者らは自分たちが反逆者であることを見てとったとき、十字架の足元に身を投げ出し、赦罪を乞い求めました。彼らは奇妙にも反乱を起こしましたが、私は彼らがこう云うのを聞きました。『もし主が私をお赦しくださるなら、私は私の悪しき道から立ち返ります。もし主が私にそうさせてくださるなら!』 彼らは、まぎれもない叛徒であり、そう告白しています。ですが、私は彼らがこう云うのを聞きました。『イエスよ、汝が血と 汝が義とは、わが唯一の頼みなり』」。幸いな使節として、私は自分の《主人》のもとに喜ばしい顔つきで戻って行き、多くの魂と大いなる神との間の和平が打ち立てられましたと申し上げるであろう。しかし、みじめなのは、戻って行き、こう云わざるをえない使節である。「和平は全くなりませんでした」。どちらになるだろうか? 主よ、決め給え! 願わくは多くの心が《全能の》恵みにいま屈し、願わくは恵みの敵たちが友と変えられるように。そして神に選ばれた人々が集め入れられ、神の永遠の目的が成し遂げられるように。

 III. そして今しめくくりに私が注意したいのは、この教理が信仰者のもとにもたらす、《甘やかな楽しみ》である。悲しみに暮れたキリスト者よ! 涙を乾かすがいい。あなたは罪ゆえに泣いているだろうか? なぜ泣くのか? 自分の罪ゆえに泣くのは良い。だが、少しでも罰への恐れのゆえに泣いてはならない。かの悪い者はあなたに向かって、お前は罪に定められるのだ、と告げただろうか? それは嘘だと面と向かって云ってやるがいい。あゝ! あわれな苦悩する信仰者よ。あなたは、自らの腐敗について嘆き悲しんでいるだろうか? あなたの完璧な主を仰ぎ見て、思い出すがいい。あなたはこの方にあって完璧であり、神の御前では、あたかも一度も罪を犯したことがないかのように完璧なのだ。否、それ以上である。私たちの義である主は、天来の衣をあなたに着せ、あなたは人間の義を越えたものを有している。――あなたは神の義を有している。おゝ! あなたがた、生まれつきの罪と腐敗のゆえに嘆き悲しんでいる人たち。思い出すがいい。あなたのもろもろの罪のうち、ただ1つとしてあなたを罪に定めることのできるものはない。あなたは罪を憎むようになっている。だが、罪があなたのものではないことも分かっている。――それはキリストの頭上に置かれている。さあ、元気を出すがいい。あなたは、自力で立っているのではない。――キリストによって立っているのである。あなたが受け入れられることは、あなた自身によることではなく、あなたの主によっている。あなたにいかなる罪があろうと、あなたはきょう、聖化されているのと同じくらい受け入れられている。きょうのあなたは、いかなる不義を有していようと、やがて神の御座の前に立ち、あらゆる腐敗から解放されているときと同じくらい神に受け入れられているのである。おゝ! 私はあなたに切に願う。この尊い思想をつかむがいい。キリストにある完璧! というのも、あなたはキリスト・イエスにあって完璧な者だからである。あなたの《救い主》の衣をまとっていれば、あなたは聖なる者たちと同じくらい聖い。今やあなたは信仰によって義と認められている。今や神との平和を持っている[ロマ5:1]。元気を出すがいい。死を恐れてはならない。死は、あなたにとって何も恐ろしいものを含んでいない。キリストが、死のとげからあらゆる胆汁を絞り出された。審きを思って震えてはならない。審きは決して、すでにあなたが自分のものとしている無罪放免の資格に加えて、別の無罪放免の資格をもたらしはしない。

   「かの日も大胆(つよ)く 汝れは立たん、
    そは誰(た)ぞ汝れを 非難(せ)めうべき。
    主の血のまたく 汝れ解きたるに、
    罪のすさまじ 咎、苦痛(いたみ)より」。

あゝ、あなたが死に臨むとき、あなたは神に挑戦して良い。あなたはこう云えるからである。「私の神よ。あなたが私を罪に定めることはできません。あなたはすでに私のためにキリストを罪にお定めになったからです。あなたは私の代わりにキリストを罰されました。『罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです』[ロマ8:34]」。キリスト者よ。喜ぶがいい。あなたの頭に油を欠かしてはならない。あなたの顔をつややかにする香油を欠かしてはならない。「さあ、喜んであなたのパンを食べ、愉快にあなたのぶどう酒を飲め。神はすでにあなたの行ないを喜んでおられる」[伝9:7]。ソロモンが私たちに命じているように行なうがいい。一生の間、生活を楽しむがいい[伝9:9]。あなたは、愛する方において受け入れられているからである。――血によって赦されており、キリストの義によって義と認められているからである。何を恐れることがあろう? 常に微笑みをたたえているがいい。喜びで目を輝かせているがいい。あなたの《造り主》のそば近くで生きるがいい。かの天の都の郊外で暮らすがいい。やがて、あなたの時が来たときには、あなたは御使いたちがこれまで身につけたことのあるいかなる翼よりもすぐれた翼を借りて、智天使をも越えて舞い上がり、あなたのイエスが座しておられる所へ昇っていくであろう。――主の右の座に着くであろう。それは、主が勝利を得てから、御父の右の座に着かれたのと全く同じであろう。そして、これらすべては、ただただ、天来の主、「罪を知らない方が、私たちの代わりに罪とされた」がためである。「それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」。

  

 

代償[了]
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