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求める魂のための単純な説教

NO. 140

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1857年7月12日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「『主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。』のです」。――ロマ10:13


 ある卓越した神の人によると、私たちの中の多くの者らは、みことばを説教する際に、聞き手側にあまりにも多くの知識があるものと当て込みすぎているという。「往々にして」、とこの神の人は云う。「会衆の中には、神学という大いなる科学に全く不案内な人々がいるものである。彼らは、恵みと救いの全体系について、全く門外漢なのである」。ならば、時として説教者が、あたかも自分の使信について全く無知な聞き手を相手にしているかのように語りかけ、聞き手がその使信についてまるで無知であると信じているかのように、それを全く耳新しいこととして話をしたり、すべてを初めから説き起こしたりするのは、ふさわしいことである。「というのも」、とこの善良な人は云う。「聞き手に予備知識がほとんどないとみなした上で、最も理解の乏しい者たちに向かって事を明晰に説明する方が、聞き手に並はずれた知識があるとみなした上で、無知な人々向けの教えを一言も語らないまま、そうした人々をみすみす取り逃すよりはましだからである」。

 さて私は今朝、この人の主張した点において間違いを犯すことはないと思う。というのも、これから私は、この会衆の中の少なくともある人々は、救いの大いなる計画について全く不案内であると想定することにするからである。また、あなたがた、そのご計画について良く知っており、その救いの尊さを実体験によって知っている人たちも、私の話をがまんして聞いてくれるに違いない。私は、人間の口に可能な限り単純な言葉によって、いかにして人間たちが失われているか、また、いかにして人間が――本日の聖句の言葉によれば――主の御名を呼び求めることによって救われるかについて、話をしようと思う。

 よろしい。では、頭から始めよう。お聞きの方々に最初に告げなくてはならないのは、このことである。すなわち、本日の聖句が人々の救いについて語っている以上、それは、人々が救いを必要としていることを暗示しているのである。それからさらに告げたいのは、もし人々が神によって創造されたままの状態であったとしたら、彼らは何の救いも必要としなかったはずだ、ということである。あの園にいたアダムは何の救いも要していなかった。彼は完璧で、きよく、汚れなく、聖にして、神の御前に受け入れられていた。彼は私たちの代表者であった。彼は、全人類の代表として立っていたし、そのようにして彼は、禁断の木の実に触れ、神が、「それから取って食べてはならない。さもないと、あなたは必ず死ぬ」*[創2:17]、と仰せになった木から取って食べた。彼は、そのように神にそむきの罪を犯したとき、《救い主》を必要とする者となった。また、彼の子孫たる私たちも、彼の罪を通して、ひとりひとりが《救い主》を必要とする者としてこの世に生まれ出ている。しかしながら、いま現存している私たちは、アダムに非難をなすりつけてはならない。いまだかつていかなる人も、アダムの罪だけのために断罪されたことはない。嬰児期に死んでいく子どもたちは、疑いもなく、主権の恵みによって、キリスト・イエスにある贖罪を通して救われている。彼らがそれぞれの目を閉ざすや否や、実際の罪については無垢である彼らは、たちまちその目を開いて、天国の至福を見てとるであろう。しかし、あなたや私は子どもではない。私たちは、いま現在、アダムのもろもろの罪についてだけ語る必要があるのではない。私たちには、自ら責任を負うべき自分のもろもろの罪があり、神はそれが十分であることを知っておられる。聖書が私たちに告げるところ、私たちはみな罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず[ロマ3:23]、良心も同じ真理を証言している。私たちはみな、神の大いなる命令の数々を破ってきた。その結果、義なる神は正義において私たちを、私たちの犯したもろもろの罪ゆえに罰さなくてはならない。さて、私の兄弟たち。あなたや私がこの天来の律法を破ってきたからこそ、また、天来の御怒りの下にあるからこそ、私たちはあわれみを必要とする状態にあるのである。それゆえ、私たちひとりひとりは、――もし幸いになりたければ、もし神とともに永遠に天国に住みたければ――ひとりひとりが救われなくてはならない。

 しかし、救われるとはいかなることかについて、人々の思いの中には大変な混乱がある。ならば、私にこのことだけを云わせてほしい。救いとは2つのことを意味している。第一のこととして、それは、犯されたもろもろの罪の罰から私たちが逃れることを意味する。また、次のこととして、それは、罪の習慣から逃れて、今後の私たちが、それまで送ってきたような生き方をしなくなることを意味する。神があなたを救う道は二重なのである。神はある罪人がご自分の律法を破っているのを見いだし、こう仰せになる。「わたしはあなたを赦す。あなたを罰さない。わたしはあなたの代わりにキリストをすでに罰している。――あなたは救われることになる」。しかし、それは、みわざの半分にすぎない。次に神はこう仰せになる。――「人よ。わたしはあなたが、これまで行なうのを常にしてきたようには罪を犯し続けることがないようにしよう。わたしはあなたに新しい心を与えよう。それが、あなたのもろもろの悪い習慣を抑えるであろう。それで、これまでのあなたは罪の奴隷であったが、これからは自由になり、私に仕えることになるのだ。そこから離れるがいい。あなたは、もはやあなたの暗黒の主人に仕えることはない。あなたはその悪鬼を置き去りにしてこなくてはならない。わたしはあなたをわたしの子ども、わたしのしもべとしよう。あなたは、『私には行なえません』、と云う。だが、わたしがあなたにそう行なうことのできる恵みを与えよう。わたしはあなたに、酩酊を断ち切る恵み、悪態と縁を切る恵み、安息日を破るのをやめる恵みを与える。わたしはあなたに、わたしの命ずる道を走り[詩119:32]、それを楽しみと思える恵みを与えよう」。ということは、私に云わせてもらえば、救いとは2つのことからなっているのである。――まず、神に敵対して生きる習慣から解放されること。またその一方で、そむきの罪に付随する罰から解放されることである。

 今朝私が、ことさらに平易な言葉遣いで――壮麗な雄弁など全く用いずに――詳しく説明しようと思う大きな主題は、いかにして人々は救われることができるか、ということである。これは1つの大問題である。救われるとはいかなることかを覚えておいてほしい。それはキリスト者とされること、新しい考え方、新しい思い、そして新しい心を自分のものとすること、それから、至福のうちにあって、神の右のかたわらに永遠に住む新しい家を得ることである。人はいかにして救われることができようか? 「救われるためには、何をしなければなりませんか」[使16:30]。これこそ今朝のこの場で多くの口から発されている叫びである。本日の聖句はこう答えている。――「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」。第一に私はこの聖句について少々説明しよう。――説明である。第二に、この聖句を解きほぐして、救いに関するいくつかの過ちを取り除こう。――それは論駁ということになるであろう。そして第三に、本日の聖句がいかに用いられるかを、あなたの思いに突きつけよう。それは勧告となるであろう。説明、論駁、勧告。この3つの点を覚えてほしい。そして、願わくは神がそれらを通して、あなたの思いに感銘を与えてくださるように!

 I. では第一に、《説明》である。――ここで、主の御名を呼び求めるとは、いかなることを意味しているのだろうか? そして、まさに今の瞬間、本日の聖句を説明しようとしている私は身震いを覚えるものである。というのも私は、「知識もなく」[ヨブ38:2]言葉を暗くするのが、いかにたやすいか感じているからである。ともすると説教者は、その説明によって聖書を明るくする代わりに暗くしてきた。多くの説教者は色塗りの窓に似て、光を中に入れる代わりに、閉め出してきた。この世の何にもまして私を戸惑わせ、頭をひねらせるのは、信仰とは何か、という単純な問いに対して返される答えである。信ずるとはいかなることか? 主の御名を呼び求めるとはいかなることか? その真の意味を明らかにしようとして私は、自分の用語索引に目を向けて、同じ語が用いられている箇所を引いてみた。そして自分に判断できる限り、私は聖書の権威によってこう言明できると思う。すなわち、「呼び求める」という語は礼拝を示しており、私はこれをこう訳すことができる。――「神を礼拝する者は、だれでも救われる」。しかし、私は「礼拝する」という語を聖書が意味するところに従って説明しなくてはならない。その意味を受け入れない限り、「呼び求める」という語を説明したことにはならない。

 主の御名を呼び求めるとは、第一のこととして、神を礼拝することを表わしている。創世記にはこう記されている。「人が地上にふえ始めたとき、人々は主の御名を呼び求めることを始めた」*[創4:26 <英欽定訳>; 6:1]。これは、彼らが神を礼拝することを始めたことを意味する。彼らは主の御名によって祭壇を築いた。来たるべきいけにえを信ずる自分たちの信仰を証明するため、自分たちの立てた祭壇の上で、象徴的ないけにえをささげた。聖なる歌によって声を上げ、こう叫んだ。「エホバは大いなる方。《創造主》、《保持者》。主をとこしえまでも、ほめたたえよ」。さて、誰であれ――この広い、広い世界の中にいるいかなる者であれ、恵みによって神を、神のしかたによって礼拝できる者は救われる。もしあなたが、ひとりの《仲保者》によって、十字架の贖罪を信ずる信仰を有しつつ、神を礼拝するとしたら、――もしあなたが、謙遜な祈りと心からの賛美によって神を礼拝するとしたら、――あなたの礼拝は、あなたが救われることになる証拠である。あなたがこのように礼拝している以上、あなたの心の内側には恵みがあるに違いない。そして、あなたの信仰と恵みは、あなたが栄光を受けることになる証拠である。ならば誰であれ、へりくだった心による個人礼拝を、緑の芝土の上であれ、大きく張り出した木の枝々の下であれ、神の天の蒼穹の下であれ、神の家の中においてであれ、外においてであれ、ささげている者――きよい心をもって熱烈に神を礼拝し、キリストの贖罪を通して受け入れられることを待ち望み、従順に神のあわれみに身をゆだねている者――は、救われるのである。そう約束されている。

 しかし、誰かが礼拝とは何かについて誤った考えをいだいたままこの場を去ってはいけないので、もう少し詳しく説明しなくてはならない。聖書的な意味において、「呼び求める」という語は、祈りを表わす。エリヤの場合を思い出してほしい。バアルの預言者たちが、にせの神から雨を降らせてもらおうとして乱暴にふるまっているとき、彼は云った。「私は主を呼ぼう」。――すなわち、「私は神に祈り、雨を降らせていただこう」。さて、祈りは、内側に天来のいのちがあるという確かなしるしである。誰でもキリストを通して、真摯な祈りによって神に祈る者は救われる。おゝ、私はかつてこの聖句がいかに自分を励ましてくれたかを覚えている。私は罪の重みを感じており、《救い主》をまだ知らなかった。私は神がその御怒りによって私を打ち、その燃える不興によって私を殺すだろうと考えていた! 私は会堂から会堂へと渡り歩いては、そこで説教される言葉を聞いたが、福音の言葉は一言も聞かなかった。だが、1つの聖句によって私は、まさに自分が駆り立てられつつあると信じていたもの――嘆きと悲しみによる自殺――から守られたのである。それは、この甘やかな言葉であった。――「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」。よろしい、と私は思った。私は、自分に願えるようなしかたでキリストを信ずることはできない。私は赦罪を見いだせない。だが私は、自分が主の御名を呼び求めていることは分かっている。自分が祈っていることは分かっている。左様。それも、呻きと涙と吐息をもって、昼夜となく祈っていることが分かっている。ならば、もし私が失われるようなことがあるとしたら、この約束を申し立てよう。――「おゝ、神よ。あなたは云われたではありませんか。主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる、と。私は呼び求めました。だのに私を投げ捨てなさるのですか? 私はあなたの約束を申し立てました。祈りによって自分の心を掲げました。あなたは、正しくあるお方でありながら、真に祈った人を罪に定めるなどと云うことがおできになるのですか?」 しかし、この甘やかな思想に注目するがいい。祈りは、救いの確実な先駆けなのである。罪人よ。あなたが祈りながら滅びることはありえない。祈りと滅びという2つの事がらは、決して両立しえない。それがいかなる祈りかは問わない。それは、呻きかもしれない。涙かもしれない。言葉にならない祈りかもしれない。途切れ途切れの、たどたどしい祈りかもしれない。支離滅裂で、聞くに堪えない祈りかもしれない。だが、もしそれが心の奥底からの祈りだとしたら、あなたは救われるであろう。さもなければ、この約束が嘘ということになる。あなたが祈っている限り確実に――あなたが何者であろうと、過去にいかなる人生を送ってこようと、いかなるそむきの罪にふけってこようと、たといそれが人類を汚すことのできる最低の罪であろうと――、もし心からあなたがこう祈れるようになっているとしたら、あなたは救われるであろう。――

   「祈りは人に 入りし御息吹(みいぶき)
    発せしもとへ 返り行かん」。

そしてあなたは、神の息吹をうちに有していながら滅びることはありえない。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」!

 しかし、「呼び求める」という語は、もう少し別のことをも表わす。それは、信頼を意味している。人が主の御名を呼び求めていながら、その御名に信頼していないということはありえない。私たちは、キリストの御名により頼んでいない限り、正しく呼び求めてはいないのである。ならば、私の言葉を聞くがいい。あわれな、試みられつつある罪人よ。あなたは今朝この場所に、自分の咎を意識しながら、自分の危険に目覚めさせられつつやって来た。ここに、あなたの救いとなるものがある。神の御子キリスト・イエスは人となられた。主は、「処女マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られた」。主がそうされたのは、あなたのような罪人たちを救うためであった。あなたは、このことを信ずるだろうか? 自分の魂をこのことにかけるだろうか? あなたはこう云おうとするだろうか? 「のるにせよそるにせよ、キリスト・イエスは私の希望なのだ。そして、もし私が滅びるとしたら、自分の両腕でキリストの十字架をかかえつつ、こう叫びながら滅びよう。――

   『わが手にもてる もの何もなし
    ただ汝が十字架に われはすがらん』」。

あわれな魂よ。もしあなたにそうできさえするなら、あなたは救われるであろう。さあ、来るがいい。あなた自身の良いわざなど全く必要ない。――いかなる礼典も必要ない。あなたに求められているのは、ただこのことであり、それも主があなたに与えてくださる。あなたは無である。あなたはキリストがすべてであると受け入れるだろうか? さあ、あなたはどす黒い。洗われたいと願うだろうか? 膝まずいて、こう叫ぼうと思うだろうか。「主よ。こんな罪人の私をあわれんでください。私のしてきた何事かのためではなく、私が行なうことのできる何事のためでもなく、ただ主のゆえに――その御手御足より血を流してくださったお方のゆえに――私が唯一より頼むお方のゆえに、私をあわれんでください」、と。何と、罪人よ。たとい宇宙の堅い支柱という支柱がぐらつき倒れそうになるとしても、あなたが滅びることはありえない。左様。たとい天が空席の御座に涙を流し、《神格》の消滅を嘆き悲しむことになるとしても、いかなる場合であれ、この約束が世で踏みにじられるようなことはない。主の御名を呼び求めつつ、キリストに信頼する者は救われるのである。

 しかし、もう一言だけ語って、この聖句の聖書的な意味について示し終えることにしようと思う。主の御名を呼び求めるとは、主の御名を告白することを表わしている。アナニヤがサウロのもとを訪れた後で何と云ったか思い出してほしい。「立ちなさい。その御名を呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい」[使22:16]。さて、罪人よ。もしあなたがキリストのみことばに従順でありたいというのであれば、キリストのみことばはこう告げている。「信じて水に浸される者は、救われます」*[マコ16:16]。注意するがいい。これは、この言葉を私が訳したものである。欽定訳聖書は、それを訳そうとはしなかった。だが私は、神のことばについての自分の知識を裏切ることはできない。もしそれが水を振りかけることを意味しているとしたら、私の兄弟たちはそれを「水を振りかける」と訳すがいい。しかし、彼らにそのようなことはできない。彼らは、いかなる古典の言葉遣いの中にも、そのようなことを正当化するものが何1つないことを知っているのであり、そう試みるほど無分別ではないのである。しかし、私はそれをあえて翻訳する。――「信じて水に浸される者は、救われます」。そして、確かに水に浸されること自体は何も行なわないが、神は、信ずる人々が水に浸されること、そして、自分たちの信仰の告白を行なうことを要求しておられるのである。繰り返すが、水に浸ることは、救いのためにも何も行なわない。それは救いの告白である。だが神は、《救い主》に自分の信頼を置くあらゆる人が水に浸されることを要求しておられる。それは《救い主》が、正しいことを実行するため水に浸されたのと同じである[マタ3:15]。イエスは従順にヨルダンの岸辺から降りて行かれ、川の水に浸された。そして、あらゆる信仰者が、主の御名によってバプテスマを受けるようにされた。さて。あなたがたの中のある人々は、信仰を告白することを思うと尻込みする。「いいえ」、とあなたは云うであろう。「私たちは信じて、隠れキリスト者になります」。ならば、このことばを聞くがいい。――「このような時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、わたしも、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます」*[マコ8:38]。自明の理を繰り返してみるが、あなたがたの中の誰ひとりとして、これまでの人生において、隠れキリスト者に出会ったことはないはずである。それを立証してみよう。もしあなたがある人をキリスト者であると知ったとすれば、それは隠れたことではありえない。というのも、もしそれが隠れていたとしたら、いかにしてあなたはそれと知るようになったのだろうか? ならば、あなたがひとりも隠れキリスト者に出会ったことがない以上、あなたが、そのような存在がありうると信じるのは正当化できない。あなたは、表立って信仰を告白しなくてはならない。女王陛下は、もしご自分の兵士たちが、自分たちは忠実を尽くす真実な者ですと宣誓しておきながら、こう云うとしたら、どうお考えになるだろうか?――「陛下。われわれは、軍服を着たくありません。一般市民と同じ服を着させてください! われわれは実直で廉潔な者たちです。ですが、あなたの軍隊の一員として立ち、あなたの兵士として認められたくはありません。むしろ私たちは、敵軍の陣営をこそこそ歩いたり、陛下の陣営にも立ち入ったりしたいのです。そして、あなたの兵士であるしるしを何1つ身につけたくはないのです!」 あゝ! あなたがたの中のある人々は、キリストに対して同じことをしている。あなたは隠れキリスト者になろうとしている。そして、悪魔の陣営をこそこそ歩いたり、キリストの陣営にもぐり込んだりしようとしながら、誰からもそれと認められたくはないというのか。よろしい。もしそうするというなら、運に任せてそうするしかないであろう。だが、私はそのような危険を冒すつもりはない。これは厳粛な脅かしである。「わたしも、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます」! 私は云うが、キリストがこう云っておられるのは厳粛なことである。「自分の十字架を負い、そしてわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることができません」*[マタ16:24; ルカ14:26]。ならば、私はこの場にいるあらゆる罪人、すなわち、神によって自分が《救い主》を必要としていると目覚めさせられているあらゆる罪人に向かって要求する。他のあらゆる点と同様に、この点においても、キリストの命令に従順であるがいい。救いの道を聞くがいい。礼拝、祈り、信仰、告白である。そして、その告白は、もし人々が従順になりたければ、もし彼らが聖書に従おうとするのであれば、キリストのしかたによるものでなくてはならない。父と、子と、聖霊の御名によって、水の中に入るバプテスマによらなくてはならない。神はこのことを要求しておられる。確かに人々は全くバプテスマを受けなくとも救われるとはいえ、また、確かにおびただしい数の人々は流れの中で洗われることなく天国へと飛んで行くとはいえ、また、確かにバプテスマは救いに至らせるものではないとはいえ、それでも、もし人々が救われたければ、不従順であってはならない。そして、神がある命令を与えておられる以上、それを守らせることが私の務めである。イエスは云われた。「行って、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じて水に浸される者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます」*[マコ16:15-16]。

 さてこれが、本日の聖句の説明である。この場にいるいかなる国教徒も私の解釈に反対することはできない。英国国教会は水に浸すことを主張している。それは単に、もし幼児が虚弱であれば、水を振りかけるべきだと云っているにすぎない。そして、驚くべきことに、昨今はいかに多くの虚弱な幼児ばかりがいることか。私は、それほど虚弱であったあなたがたの誰もが、至るところで生き延びていることに唖然とさせられる! その小さな幼児たちは、あまりにも弱々しすぎて、自分たちの教会が主張する通り水に浸される代わりに、ほんの数滴の水で十分とされたのだが。私は、すべての国教徒がより良い国教徒になってほしいと思う。もし彼らが彼ら自身の信仰箇条とより首尾一貫するようになるとしたら、より聖書と首尾一貫するようになるであろう。そして、もし彼らが自分自身の教会の典礼法規のいくつかに、もう少し首尾一貫しているとしたら、彼ら自身も、もう少し首尾一貫した者となるであろう。もしあなたの幼児たちが虚弱だとしたら、水を振りかけても良い。だが、もしあなたが善良な国教徒だとしたら、彼らが耐えられる限り、彼らを水に浸すであろう。

 II. しかしここで、第二の点は《論駁》である。救いについては、いくつかの思い違いが世間に広まっている。それを論駁によって正しておく必要がある。本日の聖句はこう告げている。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」。

 さて、本日の聖句と矛盾した考えの1つはこうである。司祭または教役者が、救いにおいて人々を助けるために絶対に必要である。この考えは、ローマ教会以外の場所でもはびこっている。悲しいかな! 多くの、あまりにも多くの人々は、カトリック教徒が自分の司祭を自分の助けとしているのと同じくらい、非国教会の教役者を自分たちの司祭としている。多くの人々の想像するところ、救いは、何か名状しがたい、神秘的なしかたによる以外には成し遂げられないのである。――そして教役者と司祭がそれと関わり合っているのである。ならば、よく聞くがいい。たといあなたが一生の間に一度も教役者の姿を見たことがなく、一度も教会の主教だの長老だのの声を聞いたことがなくとも、それでも、もしあなたがたが主の御名を呼び求めるとしたら、あなたの救いは、教役者がともにいたときと同様、ともにいなかったときにも、完全に確実なものであろう。人々は、自分の知りもしない神を呼び求めることはできない。説教者の必要は、救いの道がいかなるものであるかを告げることにある。というのも、宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるだろうか? 聞いたことのない方を、どうして信じることができるだろうか?[ロマ10:14] しかし、説教者の務めは、その使信を告げることまでである。私たちがそれを告げた後では、神が――聖霊が――それを適用しなくてはならない。それ以上先に私たちは行けないからである。おゝ、司祭を祭り上げないように注意するがいい。人間を、教役者を、聖職者を祭り上げないように注意するがいい。神の民はみな聖職者であり、私たちはみなが神の cleros、みなが神に仕える聖職者であって、もし私たちが聖霊によって油注ぎを受けているなら、救われているのである。聖職者と平信徒の間には決して区別があるべきではない。私たちはみな、主イエス・キリストを愛する聖職者であり、もし神がその能力をあなたに与え、御霊によってその働きに召しておられるとしたら、あなたは、この世で生きている誰にも劣らず、福音を宣べ伝える資格がある。いかなる司祭の手も、いかなる長老の手も――長老というのは、司祭を長い言葉にしただけにすぎない――、いかなる人々の叙任も必要ない。私たちが自らの信ずることを語るのは、人間としての権利に立ってである。また、それに次いで、神の御霊の召しに立ってである。御霊は心の中で、ご自分の真理を証しするよう私たちに命じておられる。しかし、兄弟たち。パウロであろうと、天の御使いであろうと、アポロであろうと、ケパであろうと、救いにおいてあなたを助けることはできない。それは人から出ることではなく、人々によることでもなく、教皇であれ、大主教であれ、主教であれ、司祭であれ、教役者であれ、いかなる者であれ、救いを他者に与える恵みを有してはいない。私たちはひとりひとり、自分で水源に行き、この約束を申し立てなくてはならない。――「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」。たとい私がシベリヤの鉱山に閉じ込められ、そこで福音を全く聞けないとしても、もしも私がキリストの御名を呼び求めるとしたら、その路は教役者がそばにいようがいまいが、同じくらい真っ直ぐであろう。また、天国への通り路は、アフリカの原野からであれ、牢獄や地下牢の穴からであれ、神の聖所からと同じくらい広々と開けている。それにもかかわらず、すべてのキリスト者は、救いのためではなくとも徳を建て上げられるために牧会活動を愛している。確かに司祭にも説教者にも信頼を置きはしないが、それでも神のことばは彼らにとって甘やかであり、「良いことの知らせを伝える人々の足は、山々の上にあってなんとりっぱでしょう」[ロマ10:15]。

 もう1つの非常にありがちな過ちは、何らかの夢見が良かった場合、それは人々の救いにとって最も素晴らしいことだ、ということである。あなたがたの中のある人々は、この過ちがいかに横行しているか分かっていない。たまたま私はそれを知るようになった。それは多くの人々の間で受け入れられている。もしあなたが夜、主を目の当たりにする夢を見たとしたら、あなたは救われるだろう、また、もし十字架にかかっている主を見ることができたり、あるいは、何らかの御使いたちを目にしたような気がしたり、神があなたに、「あなたは赦されたのだ、安心せよ」、とお告げになる夢を見たりした場合、あなたは救われるだろう。だが、もしあなたが、大して素敵な夢を見ないとしたら、救われることはありえない。そのように、ある人々は考えているのである。さて、もしそうだとしたら、私たちはみな、できるだけ早く阿片を吸飲するに越したことはない。阿片ほど人々に夢を見させるものはないし、私が与えることのできる最善の助言はこうなるからである。――あらゆる教役者は、大々的に阿片をばらまくがいい。そうすれば、その信徒たちはみな夢の中で天国に行けるであろう、と。しかし、そうしたたわごとは追い払うがいい。それは全く空しいことである。夢とは、たがの外れた想像力が滅茶苦茶に織りなすものであって、しばしば、壮大な思想の支柱という支柱が揺らいでいるものである。それがいかにして救いの手段となりえようか? あなたもロウランド・ヒルの健全な答えを知っているであろう。これ以上にふさわしい答えがないため、私はそれを引用せざるをえない。ある婦人が、自分は夢を見たので救われていますと云い張ったとき、彼は云った。「よろしい。善良な婦人よ。眠っているときに、あなたが良い夢を見るのは、非常に結構なことです。ですが、私が見たいと思うのは、あなたが目覚めているときに、どのように行動するかです。というのも、もし目覚めているときのあなたのふるまいがキリスト教信仰と一致していないとしたら、あなたの夢になど、私は鼻もひっかけるつもりはありませんからな」。あゝ、私は幾度となく夢に関する話を聞いてきたが、人がそれほど無知の深みに陥ることがありえることに唖然とさせられるものである。愛すべきあわれな人々は、熟睡しているときに、天国の門が開いたのを見たり、白い御使いがやって来ては、彼らの罪を洗いきよめるのを見た。それから、彼らの罪が赦されるのを見た。それ以来、彼らは何の疑いも恐れも全くいだかないというのである。いいかげんに、あなたも疑い出すべきである。そうすれば、その疑いは非常に良い時となるであろう。というのも、もしそれがあなたの有する唯一の希望だとしたら、それは貧相なものだからである。覚えておくがいい。これは、「主の御名を呼び求める者は、だれでも」、であって、主に関する夢を見る者はだれでも、ではないのである。夢は良い働きをすることもある。時として人々は夢の中で正気を失うことがある。そして、正気を失った方が正気を保っているよりも良いことがある。人は正気を失ったときよりも、正気を保っているときに、より大きな悪を働いてきたからである。そうした意味では、夢も善を行なってきた。また、ある人々は、夢によって警告されてきた。だが、夢を頼りにするのは影を頼りにすること、あぶくの上に希望を打ち立てることであって、風が一吹きするだけで、それははじけて無に帰してしまう。おゝ! 覚えておくがいい。あなたには何の幻も、何の驚異的な現象も必要ない。もしあなたが幻や夢を見たなら、それを蔑む必要はない。それはあなたに恩恵を施しているかもしれない。だが、それを頼りにしてはならない。しかし、たといあなたが何の夢も見なくとも、覚えておくがいい。ただ神の御名を呼び求めることにこそ、この約束はつけ加えられているのだ、と。

 そして今、もうひとたび、それとは他の人々がいる。彼らは――非常に善良な性質の人々ではあるが――、夢について私が話をしている間は笑っていた。だが、今度は私たちが彼らを笑う番である。ある人々は、自分が何か非常に素晴らしい種類の感覚を得なくてはならない、さもなければ、救われることはできない、と考えている。何かこの上もなく異様な、これまで一度も考えたことがないような思いが心に浮かばなくてはならない、さもなければ、確かに自分が救われることはありえないのだ、と。ひとりの婦人があるとき私に面会を申し入れて、教会員になることを許可してほしいと云った。それで私は彼女に、これまでに心が変化したかどうか尋ねた。「おゝ、しましたとも。先生もご存じの通り」、と彼女は云った。「私はこの胸の真中に、とても不思議な感じがしたのです。先生。そして、ある日祈っていると、自分がどうなったのか分からないような感じがしました。本当におかしな感じでした。それからある晩、会堂に出かけたときも、家に帰るときには、それまで感じたこともないほど変わった気分がしました。とても変な」。「しかり」、と私は云った。「頭が変になったのですよ。あなたが感じたのは、ただそれだけのことでしょう。残念ながら」。その善良な婦人は十分に真摯であった。彼女は、自分には何の問題もないと思っていた。なぜなら、何かが彼女の肺に影響を与えるか、何らかのしかたで彼女の肉体を高揚させていたからである。「まさか」、とあなたがたの中のある人々が云うのが聞こえるような気がする。「そんなに馬鹿げた人がいるはずがありません」。請け合ってもいいが、もしあなたが今ここに集まっている会衆ひとりひとりの心を読めるとしたら、そうしたもの以上にいかなる天国に行ける希望も有していない人を何百人も見いだすであろう。というのも、私がいま扱っているのは、非常に広く行き渡っている反対論だからである。ある日、私はこう云われたことがある。「私は庭にいたときに、キリストは、あの雲を動かすのと同じくらい簡単に私の罪を取り去ることがおできになるだろうと考えました。そうしたら何と、先生。またたきを1つか2つするうちに、その雲が全部なくなって、太陽が輝いていたのです。私は自分に向かって云いました。主は私の罪を拭い去ってくださったのだ、と」。そんな馬鹿げた考え方をする人は、めったにいるはずありません、とあなたは云うであろう。私は云うが、めったにいるのである。実際、非常にしばしばいるのである。人々は、地上で最も馬鹿げたことを、自分の心の中に天来の恵みがある現われだと考えるのである。さて、私が得たいと思う唯一の感じはこのことである。――私は、自分が罪人であり、キリストが私の《救い主》であることを感じたい。あなたは自分の幻だの、恍惚感だの、歓喜の念だの、胸踊るような感覚を大切にとっておくがいい。私が感じたいと思うのは、深い悔い改めと、謙遜な信仰である。そしてもし、あわれな罪人よ。あなたがそれを得ているとしたら、あなたは救われているのである。何と、あなたがたの中のある人々は、自分が救われるとしたら、ある種の電撃のようなもの、頭の天辺から爪先まで貫くような非常に驚くべき感覚がなくてはならないと信じている。さて、この言葉を聞くがいい。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。もしあなたの心で主イエス・キリストを信じ、あなたの口で告白するなら、あなたは救われるからです」*[ロマ10:8-9]。あなたがたは、この夢だの超自然的な思想だのといったたわごとによって、何を欲しているのだろうか? 求められているものはただこのこと、すなわち、咎ある罪人として私がキリストのもとへ行き、そこでひれ伏すことである。これがなされたなら、その魂は安全であり、宇宙にあるいかなる幻も、それ以上に安全にすることはできない。

 そして今、もう1つだけ、正すべき過ちがある。ごく貧しい人々の間では――そして私は、そうした人々の何人かを訪問したことがあり、いま口にすることが真実であることを知っている。この場の中にはそうした人々がいるため、そうした人々に語りかけたいと思う。――ごく貧しく、教育を受けていない人々の間では、1つの考えが非常にはびこっている。それは、救いは学問があって、読み書きできることと結びついている、という考えである。ことによると、あなたは微笑むかもしれない。だが、私は知っている。ある貧しい婦人はよくこう云ったものであった。「おゝ! 先生。これは、あたしたちみたいな貧乏で、学のない者には何にもなりゃしませんよ。あたしには何の望みもありゃしません。先生。あたしは字が読めないんですよ。ねえ、先生。一字だって知らないんですよ。少しでも字が読めさえすりゃあ、あたしも救われるかもしれませんが、あたしみたいに無学な者には、どうやって呼び求めればいいかわかりませんよ。あたしには、何の学問もないんですからね、先生」。私は、こうした考え方が田舎の地方で、その気になれば読むことを学べる人々の間にあることに気づいた。そして、怠惰でない限り、誰でも読めるようにはなるはずである。だがしかし、彼らは救いについては平然と無関心を決め込んで座っている。彼らの考えによると、牧師は聖書の章を非常に優雅に読めるので救われることができるだろう。事務員は、「アーメン」を非常に立派に唱えたので救われることができるだろう。地主は非常に物知りで、その図書室に何冊も蔵書があるので救われることができるだろう。だが、彼らはまるで無学なので、救われることはできないだろう。それは不可能だろう、と。さて、この場に、そうしたあわれな人がひとりでもいるだろうか? 私はあなたにはっきり告げよう。愛するあわれな方々。あなたは、さほど多くを知らなくとも天国に行けるのである。私は、あなたに分かることだけを知るように助言したい。ものを知るということにかけて後ろ向きであってはならない。しかし、天国に行くという点に関しては、その道はあまりも平坦なため、「旅する者は、愚か者であっても、ここで迷うことはない」[イザ35:8 <英欽定訳>]。あなたは、自分に咎があることを感じているだろうか? 自分が神の戒めを次々と破ってきたこと、神の安息日を守らないできたこと、神の御名をみだりに唱えてきたこと、自分の隣人を自分と同じようには愛してこなかったこと、また心を尽くしてあなたの神を愛してこなかったことを感じているだろうか? よろしい。もしそう感じているとしたら、キリストはあなたのような人のために死なれたのである。キリストが十字架の上で死に、罰を受けたのは、あなたの代わりだったのである。そしてキリストはあなたにそれを信じるよう告げておられる。もしあなたがそのことについてもっと聞きたければ、神の家に来て聞くがいい。私たちはあなたを、それ以外のことにも導こうと努めよう。しかし、覚えておくがいい。あなたが天国に行き着くため知る必要があるのは、Sで始まる2つのこと――《罪》[Sin]と《救い主》[Savior]である。あなたは自分の罪を感じているだろうか? キリストがあなたの《救い主》である。キリストに信頼し、キリストに祈るがいい。そうすれば、あなたが今この場にいるのと同じくらい確実に、また、私が今あなたに語りかけているのと同じくらい確実に、あなたはいつの日か天国にいることになるであろう。私はあなたが祈るべき2つの祈りを教えよう。第一に、この祈りを祈るがいい。――「主よ。私に私自身を見せてください」。これは、あなたにも簡単な祈りである。主よ。私に私自身を見せてください。私に私の心を見せてください。私に私の咎を見せてください。私に私の危険を見せてください。主よ。私に私自身を見せてください。それから、その祈りを祈ったならば、また、神がそれをかなえてくださったならば(そして、覚えておくがいい。神は祈りをかなえてくださる。)、神がそれをかなえて、あなたにあなた自身を見せてくださったときには、ここに、あなたのためのもう1つの祈りがある。――「主よ。私にあなた自身を見せてください。私にあなたのみわざを見せてください。あなたの愛、あなたのあわれみ、あなたの十字架、あなたの恵みを見せてください」。そう祈るがいい。天国に行くために、あなたが祈らなくてはならない祈りは、この2つしかない。――「主よ。私に私自身を見せてください」。「主よ。私にあなた自身を見せてください」。ならば、あなたも大して多くを知る必要はないであろう。あなたは綴り方を知らなくとも天国に行ける。まともな話し方を知らなくとも天国に行ける。無知な者、無作法な者も、キリストの十字架と救いからは歓迎されるのである。

 このように、こうした、世間に広まっている過ちについて答えてきたことを勘弁してほしい。私がこれらに答えてきたのは、それらが本当に世間にありがちだからであり、今この場にいる人々の間でありがちだからである。おゝ、方々。いま一度、神のことばを聞くがいい。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」。八十歳の人、八歳の童子、若い男、若い娘、富者、貧者、目に一丁字もない人、あなたに対してこのことは、欠けることなく、惜しみなく宣べ伝えられている。しかり、天の下のすべての造られたもの[コロ1:23]に対して宣べ伝えられている。「だれでも」(そして、ここから閉め出される者はいない)、「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」、と。

 III. さて今、私がしめくくりに行ないたいのは、《勧告》にほかならない。私の勧告はこうである。私は神の御名によってあなたに切に願う。きょう私が神のことばから宣言した使信を信じるがいい。この使信が単純に伝えられたからと云って私に背を向けてはならない。私が貧しい人に向けて単純に、また平易に説教することにしたからといって、それを退けてはならない。むしろ、もう一度聞くがいい。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」。私は切に願う。このことを信じるがいい。信じることは難しく思われるだろうか? 《いと高き方》に難しすぎることはない。あなたは云うだろうか? 「私はあまりにも咎がありすぎる。神が私を救うことなど考えられない」、と。エホバがこう仰せになるのを聞くがいい。「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なる。天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」*[イザ55:8-9]。あなたは云うだろうか? 「私は除外されています。いくら何でも私が救われるなんてことは云えるはずがありません」。聞くがいい。こう云われている。「だれでも」――「だれでも」、とは非常に広大な扉であって、いかに大きな罪人も中に入れることができる。おゝ、確かに、もしも「だれでも」と云っているとしたら、あなたが呼び求める場合、あなたは除外されないであろう。――それが肝心な点である。

 ならば、さあ今、私はあなたに懇願しなくてはならない。私は、あなたにこの真理を信じさせるようないくつかの理由を用いるであろう。それは聖書的な理由となるであろう。願わくは神が、それをあなたにとって祝福としてくださるように。罪人よ。もしあなたがキリストの御名を呼び求めるとしたら、あなたは救われるであろう。私はまずあなたにこう告げる。あなたが救われることになるのは、あなたが選ばれているからである。いかなる人もキリストの御名を呼び求めていながら、選ばれていないということはありえない。多くの人々を困惑させ、それ以上の人々を恐れさせている、かの選びの教理は、決してそのようなものである必要はない。もしあなたが信じるとしたら、あなたは選ばれている。もしあなたがキリストの御名を呼び求めるとしたら、あなたは選ばれている。もし信じるとしたら、あなたは選ばれている。もし自分を罪人だと感じ、自分の信頼をキリストに置くとしたら、あなたは選ばれている。さて、選ばれている者は救われざるをえない。彼らにはいかなる破滅もない。神は彼らを永遠のいのちに選んでおられ、彼らは決して滅びることがなく、誰もキリストの御手から彼らを奪い去るようなことはない[ヨハ10:28]。神は人を選んでおきながら、後になって捨て去ることはなさらない。人を選んでから、底知れぬ穴に投げ込むことはなさらない。さて、あなたは選ばれている。選ばれていなかったとしたら、呼び求めることはできなかったはずである。あなたの選びは、あなたが召される原因であり、あなたが召されている限り、また、現に神の御名を呼び求めている限り、あなたは神に選ばれている。そして、死も地獄もあなたの名を神の書から消し去ることはできない。これは全能の聖定である。エホバのみこころはなされる! その選びの民は救われざるをえない。地と地獄が逆らっても、神の力強い御手はそれらの軍勢を破り、御民を導き通される。あなたはその民のひとりなのである。あなたは最後には神の御座の前に立ち、永遠の栄光に包まれた神の笑顔を見ることになる。あなたは選ばれているからである。

 さて、別の理由である。あなたが主の御名を呼び求めれば救われることになるのは、あなたが贖われているからである。キリストはすでにあなたを買い取り、あなたの代価を支払っておられる。そのたぎるような心血を注いでは、あなたの身受け金を払い、その心を砕いては、細かなかけらに引き裂き、あなたの魂を御怒りから請け出しておられる。あなたは買い取られた者であり、あなたは知らないが、私にはあなたの額に血の刻印が見てとれる。もしあなたが主の御名を呼び求めているとしたら、まだあなたには何の慰めもなくとも、それでもキリストはあなたをご自分のものと呼んでおられる。主が、「完了した」[ヨハ19:30]、と云われたあの日以来、キリストはこう云っておられる。「わたしは彼を喜びとする。わたしは自分の血で彼を買い取ったからだ」。そして、あなたは、買い取られているがゆえに、決して滅びることはない。イエスの血で買い取られた者たちのうち、ひとりたりとも滅びた者はいない。あのぞっとするような教理を打ち捨てるがいい。人は血で買い取られていながら、罪に定められるなどということはない。このようなことは、あまりに悪魔的すぎて私には信じられない。私は、《救い主》が行なったことは着実に行なわれたと知っている。そして、もし主が贖ったとしたら、主は確実に贖ってくださったのであり、主から贖われた者たちは、明確に死と地獄と御怒りから贖われているのである。私は決して、キリストがある人のために罰されたのに、その人が再び罰されるなどという不正な考え方をすることができない。私は、いかにしてキリストがある人の身代わりになって、その人のために罰を受けたのに、それでもその人が再び罰を受けるなどということがありえるのか決して見てとることができない。しかり。あなたが主の御名を呼び求めている限り、キリストがあなたの身代金であられる証拠がある。さあ、喜ぶがいい! もし主が罰されたとしたら、神の正義は二重の復讐を要求することはできない。まず我が流血(ちなが)す 保証人(みうけ)より、さらに再び わが手より。さあ、魂よ。あなたの手を《救い主》の頭の上に置き、云うがいい。「ほむべきイエスよ。あなたは私のために罰されてくださいました」。おゝ、神よ。私はあなたの復讐を恐れません。私の手が贖罪の上にあるとき、打ち殺してください。ですが、あなたはあなたの御子を通して私を打ち殺さなくてはなりません。お望みならば、打ち殺してください。ですが、あなたはそうすることがおできになりません。というのも、あなたは御子をすでに打ち殺しておられ、同じ違反のためにもう一度打ち殺すことがおできにならないことは確かだからです。何と! キリストが、すさまじい愛の一飲みによって、私の断罪を飲み干してくださったというのに、その後で私が断罪されるというのか? 断じてそのようなことはない! 何と! 神が不正を行ない、私たちのための《贖い主》のみわざを忘れ、《救い主》の血を無駄に流させるようなことをして良いだろうか? 地獄そのものでさえ、そのような思想をいだいたことはない。それは、神の真理に対する裏切り者である人間たちにのみふさわしい考えである。左様。兄弟たち。もしあなたがたがキリストを呼び求めるとしたら、もしあなたがたが祈るとしたら、あなたがたは救いを全く確信して良い。というのも、あなたがたは贖われており、贖われた者が滅びることがありえないからである。

 もう1つ理由を告げて良いだろうか? この真理を信ずるがいい。それは真実であるに違いない。というのも、もしあなたがたが神の御名を呼び求めるとしたら、キリストは云っておられる。「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります」[ヨハ14:2]。そして、そこにはあなたのための家が1つある。キリストは世界の基の置かれる前から、信ずるすべての者のために、1つの家、1つの冠を備えておられる。さあ! あなたはキリストが1つの家を備えてきおなが、その住人をそこへ連れて行くことがないなどと考えるのだろうか? 主が冠を作っておきながら、それを戴くはずの頭を失うなどということがあるだろうか? 断じてそのようなことはない! あなたの目を天に向けてみるがいい。そこには占められなくてはならない座席が一つある。それは、あなたによって占められなくてはならない。そこには、戴かれなくてはならない冠が1つある。それは、あなたによって戴かれなくてはならない。おゝ! 元気を出すがいい。天の備えは決して無駄にはなされない。主は信ずる者たちのための余地を設けておられ、主がその余地を設けておられるからには、信ずる者たちはそこにやって来るのである。おゝ! 何人かの魂がこの約束をつかめると知ることができたらどんなに良いことか! あなたはどこにいるのか? 向こう端の人々の間に立っているだろうか? それとも、平土間の人々の間に座っているか、桟敷席の最上階にいるだろうか? あなたは自分の罪を感じているだろうか? そのため、ひそかな涙を流しているだろうか? 自分の不義を嘆いているだろうか? おゝ! 主の約束を受け取るがいい。「主の御名を呼び求める者は、だれでも――(この「だれでも」の、何と甘やかなことか!)――だれでも救われる」。そう口にするがいい。悪魔は、お前などが呼び求めて何になるのだ、お前は酔いどれだったではないか、と云うであろう。だが悪魔に云うがいい。「だれでも」と云われているのだ、と。「いいや」、と悪の霊は云うであろう。「お前には何にもならない。お前は説教を聞いたことも、神の家にやって来たことも、この十年間一度もなかったではないか」。その霊に云うがいい。「だれでも」と云われているのだ、と。「いいや」、とサタンは云うであろう。「昨晩の罪を思い出すがいい。そして、お前がこの《音楽堂》にやって来たとき、いかに情欲にまみれていたことか」。その悪魔に云うがいい。「だれでも」と云われているのだ、そして、自分が神を呼び求めても失われることがありえるなどというのは貴様の薄汚い偽りなのだ、と。しかり。彼にこう云ってやるがいい。――

   「よし人々(ひと)の 犯しし罪みな、
    思念(おもい)や言葉、行為(わざ)の罪とが、
    世の造られて 最初(さき)よりの咎、
    一身(ひとり)の頭上(うえ)に 合わせらるとも
    イェス・キリストの 尊き血のみ
    かくの咎みな 贖いうべし」。

おゝ、このことをあなたの心に銘記するがいい。願わくは、神の御霊がそうしてくださるように! 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のである。

  

 

求める魂のための単純な説教[了]
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