HOME | TOP | 目次

契約におけるキリスト

NO. 103

----

----

1856年8月31日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於サザク区、ニューパーク街会堂


「わたしは、あなたを民の契約としよう」*。――イザ49:8


 私たちがみな信じているように、私たちの《救い主》は、永遠の救いの契約と非常に深い関わりを有しておられる。私たちは常日頃から、主をその契約の《仲保者》、その契約の保証人、その契約の目的あるいは実質であるとみなしている。私たちは、主を契約の《仲保者》であると考えてきた。確かに仲保者――双方の間に立つ仲裁人――がいなかったとしたら、神が人間と契約を結ぶことなどありえなかったであろう。また、私たちが主を《仲保者》と呼んできたのは、その御手にあわれみを携えて降って来られ、《いと高き方》の永遠のご計画の中には恵みが約束されているのだと、罪深い人間に知らせてくださったお方としてである。また私たちは、私たちの《救い主》を契約の《保証人》として愛してきた。主は、私たちのために、私たちの負債の支払いを引き受け、その御父のために、私たちの魂がみな安泰で安全になるように取り計らい、究極的には御父の御前で傷なく完全なものとして立たせることをも引き受けてくださった。また疑いもなく私たちは、キリストが契約の要諦であられることをも考えて喜んできた。私たちの信ずるところ、もし私たちがあらゆる霊的祝福を要約するとしたら、「キリストがすべて」[コロ3:11]と云わなくてはならない。主はその要諦であられる。そして、確かにこの契約の栄光については多くのことが云えるとしても、この「キリスト」という一言のうちに見いだされないようなものは何も云うことができないであろう。しかし今朝、私がキリストについて詳しく語りたいのは、《仲保者》としてでも、保証人としてでも、契約の目的としてでもなく、神がその子どもたちと結ばれた契約の、1つの偉大で栄光に富む条項としてである。私たちは、キリストが私たちのものであり、神から私たちに与えられていると堅く信じている。私たちは、神が「私たちすべてのために、御子をさえ惜しまずに死に渡された」*ことを知っており、それゆえ、「御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださ」るだろうと信じている[ロマ8:32]。私たちは、かの花嫁とともに、「私の愛する方は私のもの」と云える[雅2:16]。私たちは、自分が私たちの主なる《救い主》イエス・キリストのうちに個人的な資産を有しているのを感じる。それゆえ私は今朝、できる限り単純な形で、いかなる美辞麗句もなしに、この偉大な思想を喜びとともに瞑想するだけにしたいと思う。すなわち、この契約においてイエス・キリストはあらゆる信仰者の資産だということである。

 第一に私たちは、この資産を吟味したい。第二に、それが私たちに譲り渡された目的に注意したい。そして第三に、1つの勧告を与えたい。これほど偉大な祝福には当然添えられてしかるべき勧告、また、実際にそこから推論される勧告である。

 I. まず第一のこととして、ここには1つの《偉大な所有物》がある。――契約によってイエス・キリストはあらゆる信仰者の資産なのである。このことで私たちは、イエス・キリストを多くの異なる意味に理解しなくてはならない。まず第一に私たちは、こう宣言することによって始めたい。イエス・キリストは、そのすべての属性において私たちのものである。主には、一連の属性が二重に備わっている。1つのご人格のうちに、2つの性質が栄光に富むしかたで結び合わされていることに鑑みてそうである。主には神ご自身の諸属性があり、完璧な人間の諸属性がある。そして、それが何であれ、その1つ1つは、信仰を有する、神の子どもたちひとりひとりの永久の資産なのである。私は、神としての主の属性について詳しく語る必要はないであろう。あなたがたはみな、主の愛がいかに無限で、主の恵みがいかに広大で、主の忠実さがいかに堅固で、主の真実さがいかに揺るぎないものであるかを知っている。あなたは主が全知であられると知っている。遍在しておられると知っている。全能であられると知っている。そして、こうした偉大で、栄光に富む、神のものである属性のすべてがみな自分のものであると考えさえするなら、あなたは慰められるであろう。主には力があるだろうか? その力はあなたのものなのである。あなたを支え、強めるあなたの力、あなたの敵を打ち負かすあなたの力、あなたを変わることなく安定させておくあなたの力である。主には愛があるだろうか? よろしい。主の大いなる心の中にあるその愛のひとかけらたりとも、私たちのものでないものはない。主の愛のすべてはあなたのものである。あなたは、主の愛という測り知れない、底なしの大海に飛び込んで、そのすべてについて、「これは私のものです」、と云えるであろう。主には正義があるだろうか? それは厳めしい属性と思われるかもしれない。だが、それさえあなたのものなのである。というのも、主はその正義によって、神の誓いと約束によってあなたに契約されたすべてが絶対確実にあなたのものとして確保されるよう取り計らってくださるからである。永遠に栄光に富む神の御子としてのキリストの特徴のうち、何を挙げようとも、おゝ、信実な者よ。あなたはそれにあなたの手を置いて、「これは私のものです」、と云えるのである。おゝ、イエスよ。地の柱そのものを吊り下げているあなたの御腕は私のものです。おゝ、イエスよ。暗闇の暗黒をも刺し貫いて未来を見通すあなたの御目――その御目は私のものであり、愛をこめて私を見つめています。おゝ、キリストよ。万の雷鳴よりも激しく轟く言葉を発することも、栄化された者たちの立琴の調べよりも甘やかな音節を囁くこともあるあなたの御口――その御口は私のものです。そして、かくも無私の、純粋な、真実な愛によって高鳴る、かの偉大な心臓――その心臓は私のものです。キリストのすべて、その神の御子としての――万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神[ロマ9:5]としての――栄光に富む性質は、あなたのものである。確実に、現実に、言葉の綾としてではなく、真にあなたのものなのである。

 主を人間としても考えてみるがいい。完璧な人間として主がお持ちのすべてのことは、あなたのものである。完璧な人として、主はその御父の御前に立っておられる。「恵みとまことに満ち」[ヨハ1:14]、愛顧に満ち、完璧な存在として立っておられる。おゝ、信仰者よ。神がキリストを受け入れておられるということは、あなたが受け入れられているということである。というのも、あなたは知らないのだろうか? 御父は、完璧なキリストの上に注いでおられる愛を、今あなたの上に注いでおられるのである。キリストが行なわれたすべてのことはあなたのものだからである。イエスが、そのしみ1つない生涯によって律法を守り、それを誉れあるものとしたときに生み出された完璧な義は、あなたのものである。キリストが持っておられた美徳のうち1つとして、あなたのものでないものはない。主がかつて行なわれた聖なる行為のうち1つとしてあなたのものでないものはない。主がかつて天国に送られた祈りのうち1つとしてあなたのものでないものはない。主がその義務としてお考えになり、神へ向けられた思想、人として神に仕えておられた主がお考えになった思想のうち、ただの1つたりともあなたのものでないものはない。主のすべての義は、その広大な範囲において、またその完璧な性質のすべてにおいて、あなたに転嫁されているのである。おゝ! あなたは、「キリスト」というこの言葉において自分が何を得ているか考えられるだろうか? さあ、信仰者よ。この「神」という言葉を考察し、それがいかに大いなるものか考えてみるがいい。また、この「完璧な人」という言葉を思い巡らすがいい。この《人-神》なるキリスト、この栄光に富む《神-人》なるキリストがかつて有しておられたもの、あるいは、そのいずれのご性質の特徴としても持つことがおできになるすべてのものは、みなあなたのものだからである。それはことごとくあなたの持ち物である。これは、純然たる無代価の恩顧から出たもの、取り消される恐れなど全くないもの、あなたの現実の資産としてあなたに渡され、――永遠にあなたのものなのである。

 2. それから、信仰者よ。キリストがそのすべての属性においてあなたのものであるばかりでなく、そのすべての職務においてあなたのものであることを考察するがいい。これらの職務は偉大な、栄光に富むものであって、それらをすべて言及している時間はない。主は預言者だろうか? ならば主はあなたの預言者である。主は祭司だろうか? ならば主はあなたの祭司である。主は王だろうか? ならば主はあなたの王である。主は贖い主だろうか? ならば主はあなたの贖い主である。主は弁護者だろうか? ならば主はあなたの弁護者である。主は先駆けだろうか? ならば主はあなたの先駆けである。主は契約の保証人だろうか? ならば主はあなたの保証人である。主は、身につけておられるあらゆる名において、戴いておられるあらゆる冠において、まとっておられるあらゆる衣裳において、信仰者自身のものである。おゝ! 神の子どもよ。もしあなたがこの思想をあなたの魂のうちに拾い集める恵みを有しているとしたら、それを考えることによって、あなたは驚くほどの慰めで満たされるであろう。キリストが負っておられる職務のすべてにおいて、主は確実にあなたのものなのである。あなたは彼方に主を見ているだろうか? 御父の御前で両腕を差し伸ばし、とりなしておられる主が見えるだろうか? 主のエポデが目に入るだろうか?――「主への聖なるもの」[出28:36]と彫られた、その黄金のかぶり物が見えるだろうか? その手を掲げて祈っておられる主が見えるだろうか? 人が地上では決して祈ったことがないような、その驚嘆すべきとりなしが聞こえるだろうか? かの園の苦悶の中では主ご自身でさえ用いることができなかったような、権威あるそのとりなしが聞こえるだろうか?

   「吐息と呻き もて主ささげぬ、
    その卑(つつま)しき 願いを地上(した)にて。
    されど権威(ちから)の 祈りを主はいま
    ささげてあらん、栄光(あま)つ御座より」。

あなたは、いかに主が願っておられるか、また、いかにその請願が口にされるや否や答えられているか見えるだろうか? そして、あなたは信じられるだろうか? 夢にも思えるだろうか? そのとりなしは、みなあなたのものなのである。主の御胸にはあなたの名が記されており、主の心にはあなたの名が消されえない恵みのしるしとともに刻印されており、この驚嘆すべき、このいとすぐれたとりなしのあらゆる威光は、あなたの自身のものであり、あなたがそれを願うならば、すべてはあなたのために費やされ、いかなる必要がある際も、主のとりなしの力のうち、あなたのために用いられないようなものは何1つないのである。さあ来るがいい。言葉でこのことを述べることはできない。あなたが思い巡らすのでなければ、このことを教えられることはできない。聖霊なる神がこの真理を心に銘記させるのでなければ、この魅惑的な、この我を忘れさせられるような思想が、正しいしかたであなたの心におさまりはしない。キリストは、ご自分のあり方、持ち物のすべてにおいてあなたのものなのである。あなたは、地上におられる主が見えるだろうか? そこに主は、その血にまみれたいけにえをささげる祭司として立っておられる。木にかけられた主が見えるだろうか? その御手は刺し貫かれ、その御足は血糊を噴き出させている! おゝ! あなたは見えるだろうか? その御顔の青白さを、そのどんよりした目からあわれみが満ちあふれているさまを。あなたは、かの茨の冠が見えるだろうか? いけにえの中でも最もすぐれたそのいけにえ、あらゆるいけにえの要約であり実質であるものを見ているだろうか? 信仰者よ。それがあなたのものなのである。あの尊い滴りの一滴一滴は、あなたが神と和解させられるように請願し、要求しているのである。かの口を開いたわき腹は、あなたの隠れ家、かの貫かれた御手はあなたの贖い、主が呻かれた呻きはあなたのためのもの、あの見捨てられた心の叫びは、あなたのために発されたもの、主がくぐられた死はあなたのためのものなのである。さあ、私はあなたに願う。キリストを、その種々の職務のいずれにおいても考えてみるがいい。だが、主のことを考えるときには、この思想をつかむがいい。こうした事がらのすべてにおいて、主はあなたのキリストであり、かの永遠の契約における1つの条項――永遠にあなたの所有となるお方――としてあなたに与えられているのだ、ということを。

 3. それから、次に注目したいのは、キリストは、その働きのすべてにおいて信仰者のものだということである。それが苦しみの働きであろうと義務の働きであろうと、それらは信仰者の資産である。子どもとして主は割礼を受けられた。では、その血による儀式は私のものだろうか? 左様。私は「キリストにあって……割礼を受けた」のである[コロ2:11]。信仰者として主は葬られている。では、その水によるしるしたるバプテスマは私のものだろうか? しかり。私は「バプテスマによってキリストとともに葬られ」たのである[コロ2:12]。イエスのバプテスマに私はあずかり、私は自分の最上の友とともに同じ水の墓場に埋葬されて横たわっている。そこで主が死んでおられるのを見るがいい。死ぬことは大きな働きである。しかし、主の死は私のものだろうか? しかり。私はキリストにあって死んでいる。主は葬られている。では、その埋葬は私のものだろうか? しかり。私はキリストとともに葬られている。主はよみがえっている。見よ、主がその番兵たちを驚愕させ、墓からよみがえっておられるお姿を! では、その復活は私のものだろうか? しかり。私は、「キリストとともによみがえらされ」ている[コロ3:1]。また注目するがいい。主は多くの捕虜を引き連れて、高い所に上っておられる[エペ4:8]。それは私が上ることだろうか? しかり。主は私を「ともによみがえらせ」ておられるからである[エペ2:6]。主がなされたすべては、私たちのものである。天来の聖定によって、キリストとその御民の間には1つの結びつきがあり、キリストがなさったすべては、御民がしたこととなり、キリストが行なわれたすべては、御民がキリストにあって行なったこととなるのである。というのも彼らは、主が墓に下られたとき、主の腰の中におり、主の腰の中にあって彼らは高い所に上り、主とともに彼らは至福に入り、主とともにあなたは天の所に座しているからである[エペ2:6]。彼らのかしらたる主に代表されて、主の御民全員は今でさえ主にあって栄化されている。一切のものの上に立つかしらであるキリストは、その教会に与えられている[エペ1:22]。キリストのすべての行為において――その謙卑における行為であれ、高挙における行為であれ――、思い出すがいい。おゝ、信仰者よ。あなたは1つの契約の恩恵にあずかっており、こうしたすべての事がらはあなたのものなのである。

 4. ここでしばし、1つの甘やかな思想に触れておきたい。あなたも知る通り、キリストのご人格の中には、「神の満ち満ちたご性質が形をとって宿って」いる[コロ2:9]。あゝ! 信仰者よ。「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである」[ヨハ1:16]。キリストの満ち満ちた豊かさ、あなたはそれがいかなるものか知っているだろうか? この語句をあなたは理解できるだろうか? 私は保証するが、あなたはそれを知らず、今すぐには理解できないであろう。しかし、そうしたキリストの豊かさのすべて、あなたがあなた自身の空しさから推測するであろうあり余る豊かさ――そうした豊かさのすべてが、あなたのものであり、あなたの多々ある必要を満たすのである。あなたを抑制し、あなたを保ち、あなたを守る、キリストの豊かさのすべて、主イエス・キリストのご人格のうちに蓄えられている力と、愛と、きよさとの豊かさのすべてがあなたのものなのである。ぜひともこの思想を大切にしまっておくがいい。というのも、そうするときあなたの空しさは、決して恐れの原因にはならないからである。いつでも飛びつける豊かさがあるというとき、いかにしてあなたが失われることがありえようか?

 5. しかし、私はそれよりも甘やかなことに至る。キリストのいのちそのものが信仰者の資産なのである。あゝ! これは私が飛び込めない思想であり、それを口にしただけでも、自分の力に余ることをしていると感じる。キリストのいのちは、あらゆる信仰者の資産である。キリストのいのちとはいかなるものか、思い描けるだろうか? 「できますとも」、とあなたは云う。「主はそれを木の上で注ぎ出してくださいました」。確かにそうである。主がそのときそこでお捨てになったのは主のいのちであった。しかし、主はそのいのちをもう一度お取りになった。すなわち、主の肉体のいのちが回復された。また主の偉大な、栄光に富む《神格》のいのちは、そのときでさえ、全く何の変化も決してこうむっていなかった。しかし、あなたも知るように、今や主は不死性をお持ちである。「ただひとり死のない方」である[Iテモ6:16]。あなたは、キリストが持っておられるいのちがいかなる種類のものか思い描けるだろうか? 主が死ぬことなどありえるだろうか? 否。たとい天国の立琴がぴたりと鳴るのをやめ、贖われた者たちの合唱が永遠にやむとしても、たといパラダイスの栄光に富む城壁が揺るぎ、そこの土台が取り除かれるとしても、神の御子キリストが死ぬことなど決してありえない。その御父と同じく不死のお方である主は今、《大いなる永遠者》として座っておられる。キリスト者よ。そのキリストのいのちがあなたのものなのである。主のことばを聞くがいい。「わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです」[ヨハ14:19]。「あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは」、――どこにあるだろうか? それは、「キリストとともに、神のうちに隠されてある」[コロ3:3]。私たちを霊的に打ち殺す打撃は、キリストをも殺害するものでなくてはならない。新生した人の霊的いのちを取り去ることができる剣は、《贖い主》のいのちをも取り去るものでなくてはならない。というのも、この両者はともにつながれているからである。――これらは2つのいのちではなく、1つのいのちなのである。私たちは、かの大いなる《義の太陽》、私たちの《贖い主》の日差しでしかない。――再びかの大いなる天体に戻っていく火花でしかない。もし私たちが本当に天国の真の相続人だとしたら、私たちは、自分たちの源であるお方も死ぬのでない限り、死ぬことはありえない。私たちは、水源が涸れない限り止まることのない水流である。太陽が輝きをやめない限りやむことのない日差しである。私たちは枝であって、幹そのものが死なない限り枯れることはありえない。「わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです」。キリストのいのちそのものが、その兄弟たち全員の資産なのである。

 6. そして、何よりも良いことに、イエス・キリストというご人格がキリスト者の資産である。私はこう確信している。愛する方々。私たちは、神よりも神の賜物の方をずっと多く考え、聖霊についてよりも聖霊の影響力についてずっと多くを説教している。そして、やはり私が確かに信ずるところ、私たちはキリストのご人格よりも、キリストの職務や、働きや、属性についてずっと多くを語っている。こういうわけで、私たちの中には、雅歌で用いられているようなキリストのご人格に関するたとえをよく理解できる者がほとんどいないのである。なぜなら私たちは、めったにキリストを見ようとすることも、キリストを知りたいと願うこともしないからである。しかし、おゝ、信仰者よ。時としてあなたは、あなたの主を見てとれることがあったはずである。あなたは、主を見たではないだろうか? 輝いて、赤く、「万人よりすぐれ、すべてがいとしい」*[雅5:10、16]お方を見たではないだろうか? 時としてあなたは、炉で精練されて光り輝く黄金のような主の御足[黙1:15]を見て、喜びに我を忘れることがなかっただろうか? その二重のご性質が白と赤、百合と薔薇であり、神でありながら人、死につつありながら生きており、完璧でありながら、死のからだを身にまとっているという主を見たことがなかっただろうか? これまであなたは、その御手に釘の跡を、そのみわき腹に今も傷口を残しておられる主を一度も見たことがないだろうか? また、その愛のこもった微笑みに有頂天になり、その御声に喜ばされたことが今までなかっただろうか? 主の愛による訪問を一度も受けたことがなかっただろうか? 主は一度もその旗じるし[雅2:4]をあなたの上に翻したことがなかっただろうか? あなたは一度も主とともにヘンナ樹の花の中[雅7:11]へ歩いて行ったことも、くるみの木の庭[雅6:11]へ下って行ったこともないだろうか? 一度も主の陰に座ったことがないだろうか? 一度も主の実があなたの口に甘いのを見いだしたことがなかっただろうか[雅2:3]? 否。あるはずである。ならば、主のご人格はあなたのものである。妻はその夫を愛する。夫の家を愛し、夫の持ち物を愛する。夫が自分に与えてくれたすべてのもののゆえに夫を愛する。彼がふんだんに授けてくれるものすべてのゆえに、彼が与えてくれるあらゆる愛のゆえに夫を愛する。だが、彼の人格こそ、妻の愛情の的である。信仰者もそれと同じである。信仰者は、キリストがなしておられることすべて、キリストのお役目のすべてのゆえにキリストをほめたたえる。しかし、おゝ! キリストこそすべてである。信仰者は、主の職務よりも、ずっとキリストというお方について心にかける。父親の膝の上にいる子供を見るがいい。――その父親は大学教授であって、多くの肩書きを持つ偉大な人である。また、子どもも、それらが誉れある肩書きだと知っていて、それゆえに父を尊敬しているかもしれない。だが、その子が大学教授よりも、その名声よりも、ずっと心にかけているのは、父の人格である。その子は、大学の角帽や長上着を愛しているのではない。また、もしそれが愛に満ちた子どもだとしたら、その子が愛するのは父が与えてくれる食物でも、自分が住んでいる家でもなく、父親であろう。信実で心からの愛情の対象となっているのは、愛する父の人格である。確かにあなたもそれと同じに違いない。もしあなたがあなたの《救い主》を知っているとしたら、あなたは主のあわれみを愛し、主の職務を愛し、主の行為を愛してはいるが、おゝ! あなたは主のご人格を最も愛している。ならば、キリストのご人格が、この契約によってあなたに譲り渡されていることを思い起こすがいい。「わたしは、あなたを民の契約としよう」。

 II. さて、第二の点に移ろう。《神は何を目的としてキリストをこの契約に入れられたのだろうか?》

 1. よろしい。第一のこととして、キリストが契約の中におられるのは、みもとにやって来るあらゆる罪人を慰めるためである。「おゝ」、と神のもとにやって来つつある罪人は云う。「私には、あのように偉大な契約をつかむことはできない。天国が私のために供されているなどと信じることはできない。かの義の衣と、こうした素晴らしい事がらのすべてが、この私のような惨めな者のためでありうるとは考えられもしない」。ここに、キリストがその契約の中におられるとの思想が飛び込んで来る。罪人よ。あなたはキリストをつかむことはできるだろうか? あなたはこう云えるだろうか?

   「わが手にもてる もの何もなし
    ただ汝が十字架に われはすがらん」。

よろしい。もしあなたがそこまでできるとしたら、このことが差し入れられているのは、あなたが神の契約を堅く握りしめ、そのあわれみの一切を相伴わせるためなのである。そして、もしあなたがキリストをつかんでいるなら、あなたはその契約の中にあるすべての祝福を得ているのである。これが、キリストがそこに置かれている1つの理由である。左様。もしキリストがそこにおられなかったならば、あわれな罪人は云うであろう。「私にはそのあわれみをつかむことなどできません。それは神に似ていて、天来のものですが、私はそれを握りしめようとは思いません。それは、私にはできすぎたものです。私には受け取れません。それは私の信仰をよろめかせます」。しかし、その人はキリストを見る。その契約において、その偉大な贖罪の一切とともにキリストを見る。そしてキリストは、実に愛のこもった眼差しでその人を眺め、その御腕を実に大きく開いて、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」[マタ11:28]、と云っておられるがために、その罪人はやって来て、キリストに抱きつく。そしてキリストは囁かれる。「罪人よ。わたしをつかむことによって、あなたはすべてをつかんだのだよ」。何ですと、主よ。私は他のあわれみを受けられるなどと考えたりしません。私はあなたには信頼しますが、他のものを取ったりはできません。あゝ、罪人よ。だが、あなたは、わたしを受け取ったことによって、すべてを受け取ったのだ。この契約のあわれみはみな、いわば鎖の環のようにつながっているからだ。この1つの環は魅惑的なものである。罪人はそれをつかむ。それで神は、それをわざわざそこに置いて、罪人を誘い出し、やって来させ、この契約の種々のあわれみを受け取らせようとしておられるのである。というのも、彼がいったんキリストをつかんだならば、――ここに慰めがある――その人はこの契約が与えることのできるあらゆるものを得たのである。

 2. キリストが置かれたのは、さらに、疑いをいだく聖徒を強めるためである。時として聖徒は、自分がその契約にあずかっていることを読みとれなくなる。自分の割り当て分を、聖なる者とされた人々の間に見てとれなくなる。神が自分の神ではないのではないか、御霊が自分の魂を取り扱っておられないのではないかと不安になる。だがそのとき、

   「激(たけ)く長けき 誘惑(まどい)のさなか
    かの魂(たま)、愛(いと)し隠家(いえ)へ逃れん
    希望ぞ、彼の 頑強(かた)けき錨、
    嵐吹くとも 波浪(なみ)つのるとも」。

そのように、その人はキリストをつかむ。それがなければ、信仰者でさえ、来ようとはしないであろう。キリストが結びついているあわれみ以外のものをつかむことはできないであろう。「あゝ」、とその人は云う。「私は自分が罪人であると知っている。そしてキリストは罪人を救うためにやって来られたのだ」。それでその人はキリストを堅く保つ。「私はこれなら堅くつかんでいられる」、とその人は云う。「私の黒い手はキリストを黒くすることはなく、私の汚れはキリストを汚すことはない」。それで、その聖徒は堅くキリストを握りしめる。溺れかけた人が死に物狂いで命綱をつかむように握りしめる。では、それからどうなるだろうか? 何と。その人はその契約の中にあるあらゆるあわれみをつかんでいるのである。神はその知恵によって、キリストを中に置かれ、そのようにしてあわれな罪人、他のあわれみをつかむことなら恐れるであろう罪人が、キリストの恵み深いご性質を知り、キリストをつかむことは恐れず、そのようにしてすべてをつかむことになる――しかし、しばしば自分では無意識にそうする――ようにされたのである。

 4. さらに、キリストがその契約の中におられることが必要なのは、キリストを抜きにしては、何にもならないものが数多くあるからである。私たちの偉大な救拯は、この契約の中にあるが、主の血によらなければ、私たちには何の救拯もない。確かに私の義はこの契約の中にあるが、私はキリストが作り出されたもの、また神によって私に転嫁されたもの以外に、いかなる義を有することもできない。まぎれもなく私が永遠に完全な者とされることは契約の中にあるが、選民はただキリストにあってのみ完全なのである。彼らは彼ら自身では完全ではなく、これからも完全になることはない。ただ、聖霊によって洗われ、きよめられ、完全にされたときのみそうなるのである。そして、天国においてすら、彼らの完全さは、彼らの聖化というよりは、キリストにある彼らの義認に大きく基づいているのである。

   「これぞ彼らの 麗しき礼服(ふく)
    主なるイエスぞ 彼らの義なり」。

事実、もしあなたがキリストをこの契約から取り去れば、首飾りの紐を断ち切ったも同然となるであろう。あらゆる宝石、数珠玉、珊瑚がばらばらに落ちて、四散するのである。キリストは黄金の紐であり、それにこの契約の種々のあわれみが通されているのである。そして、キリストをつかみさえすれば、あなたはこの真珠の連なり全体を得たことになるのである。しかし、もしキリストを取り落とすとしたら、そこには確かに真珠はあっても、それを身につけることはできず、それらをつかむことはできない。それらは乱れ散っており、あわれな信仰には、いかにしてそれらをつかめばいいか全然わからない。おゝ! キリストが契約の中におられるのは、世々に値するあわれみである。

 4. しかし、もうひとたび注目するがいい。先日、契約における神について説教したときにあなたに告げたように、キリストがこの契約の中におられるのは、用いられるためである。神は決してご自分の子どもたちに、使わせたくないような約束をお与えにはならない。聖書の中には、私がまだ用いたことのない約束がいくつかある。だが、私が十分に確信しているように、やがて試練や困難の時がやって来るときには、私はそのあわれな、軽蔑されてきた約束、私が今まで絶対に自分のためのものではないと考えていたような約束が、自分を浮かばせておける唯一の約束であることに気づくであろう。私は知っている。あらゆる信仰者が、この契約の中にあるあらゆる約束の値打ちを知ることになる時が近づきつつあることを。神がその人に与えた相続地のうち、一片たりとも、神がその人に耕させたいと望んでおられないものはない。キリストが私たちに与えられたのは、私たちが用いるためである。信仰者よ。主を用いるがいい! 私は、かつて告げたように、もう一度あなたに告げる。あなたは、あなたのキリストを、しかるべきほどには用いていない。何と、方々。あなたが悩みの中にあるというとき、なぜあなたは行って主に告げないのか? 主は同情深い心をお持ちではないのだろうか? また、あなたを慰めたり、安心させたりできないのだろうか? しかり。あなたはあちこちへ出かけて自分の友人全員のもとへは行くが、あなたの最上の友のもとには行こうとしない。また、自分の話を至る所でしてはいても、自分の主の御胸には打ち明けない。おゝ、主を用いるがいい。用いるがいい。あなたは昨日犯した罪で真っ黒になっているだろうか? ここに血で満たされた泉がある。それを用いるがいい。聖徒よ。用いるがいい。あなたの咎は再び戻って来ただろうか? よろしい。主の御力の効力は幾度となく証明済みである。さあ、主を用いるがいい! 用いるがいい! あなたは裸であると感じているだろうか? ここへ来るがいい。魂よ。この衣を着るがいい。拱手傍観していてはならない。それを着るがいい。方々。脱ぐがいい。あなた自身の義を脱ぎ捨てるがいい。また、あなた自身の恐れも脱ぎ捨てるがいい。これを着て、身にまとうがいい。というのも、それは身にまとわせるためのものだからである。あなたは自分が病んでいると感じているだろうか? 何と。あなたは行って、祈りという夜間用呼び鈴を引き、あなたの医者を起こさないというのだろうか? 私は切に願う。行って、手遅れにならないうちに主を起こすがいい。そうすれば主は、あなたの元気を回復させる強壮剤を与えてくれるであろう。何と! あなたは病気で、このような医者が隣に住んでおり、悩みの時もたちまち助けが与えられるというのに、その医者のもとに行かないというのか? おゝ、あなたが貧しいことは覚えておくがいい。だが、あなたには、「親戚に、ひとりの有力者」*[ルツ2:1]がいるのである。何と! あなたは、彼が、自分の持ち物はすべてあなたと山分けにしよう、自分のものはみなあなたのものなのだから、とあなたに約束してくれているというのに、彼のところに行きもせず、そのあり余る富から分け与えてくれるよう頼みもしないというのだろうか? おゝ、信仰者よ。ぜひともキリストを用いるがいい。私は切に願う。キリストが何よりも嫌うのは、ご自分の民がご自分を服飾品にしてしまい、ご自分を用いないことである。主は利用されることを愛される。主は偉大な労働者である。主は常に御父のために働いておられた。そしていま主は、ご自分の兄弟たちのための偉大な労働者となることを愛しておられる。あなたが主の御肩に重荷を載せれば載せるほど、主はあなたを愛されるであろう。あなたの重荷を主に投げかけるがいい。あなたがいかなるときにもましてキリストの御心の同情と、主の魂の愛とを知るのは、あなたが山なす苦悩をキリストの双肩に積み上げ、主がその重みの下で小揺るぎもしないのを見いだす時である。あなたの困難は、あなたの霊の上で巨大な雪山のようになっているだろうか? それに向かって命ずるがいい。《全能のキリスト》の上へ雪崩となって崩れ落ちよ、と。主はそのすべてを軽々と運び去り、それらを海の深みに投げ込むことがおできになるであろう。あなたの《造り主》を用いるがいい。というのも、まさにその目的のために主は契約の中に入れられているからである。このようにして、あなたは、主を必要とするときいつでも主を用いることができるのである。

 III. さて最後に、ここには《1つの勧告》がある。では、それはいかなる勧告だろうか? キリストは私たちのものである。ならば、愛する方々。あなたがたはキリストのものとなるがいい。あなたがたはキリストのものである。あなたがたはそれを重々承知している。あなたがたが主のものであるのは、あなたの御父があなたを御子にお与えになったからである。あなたが主のものであるのは、主があなたの救拯のための代価を勘定し、その血によって買い取られたからである。あなたが主のものであるのは、奉献によってである。というのも、あなたはあなた自身を主にささげているからである。あなたが主のものであるのは子とされているからである。あなたは主のもとに連れて来られ、主の兄弟となり、主との共同相続人となったからである。私は切に願う。愛する兄弟たち。あなたが、実際にも主のものとあることを、この世に示すよう努力するがいい。罪に誘惑されるときには、答えるがいい。「私は、そのような大きな悪事をすることはできません。私にはできません。私はキリストのものたるひとりなのですから」、と。罪を犯せば獲得できる富が目の前にあるときも、それに触れてはならない。自分はキリストのものだと云うがいい。そうでなければ、それを取るが、今や自分にはそうできないのだ、と。サタンに告げるがいい。自分は、キリストへの愛を減じさせることになるとしたら、この世をわがものにしたくはない、と。自分がキリストのものたるひとりであることを思い出し、邪悪な日にも堅く立つがいい。あなたが、なすべき仕事のたくさんある田畑にいるとする。他の人々は怠惰に座り込んだり、ぶらぶらと何もせずにいたりしているだろうか? あなたの仕事に取りかかるがいい。そして、額に汗が噴き出し、休むように云われても、云うがいい。「いいえ。やめることはできません。私はキリストのものたるひとりです。主には受けるべきバプテスマがありましたし、私もそうです。そして私は、これが成し遂げられるまでは、苦しむことになっているのです[ルカ12:50]。私はキリストのものたるひとりです。もし私が主のものたるひとりでもなく、血で買い取られた者のひとりでもなかったとしたら、私はイッサカルのように2つの鞍袋の間に伏していてもよいでしょうが[創49:14]、私はキリストのものたるひとりなのです」。快楽へと誘う海精の歌があなたを正しい通り道からそらそうとするときには、こう答えるがいい。「妖婦ども。お前たちの歌をやめるがいい。私はキリストのものたるひとりなのだ。お前の音楽は私には通用しない。私は私自身のものではなく、代価を払って買い取られたのだ」。神の御国があなたを必要とするときには、あなた自身を引き渡すがいい。あなたはキリストのものだからである。貧者があなたを必要とするときには、あなたを引き渡すがいい。あなたはキリストのものたるひとりだからである。いかなるときも、主の教会か主の十字架のためになさなくてはならないことがあるときには、自分がキリストのものたるひとりであることを覚えて、それを行なうがいい。私はあなたに切に願う。決してあなたの信仰告白を裏切ってはならない。他の人々があなたについて、「あれがキリストのものでなどあるものか」、と云えるような場所へ行ってはならない。むしろ、常にあなたの言葉訛りをキリスト教的なものとし、言葉つきをキリストに似たものとし、ふるまいと生活を天的な香りの大いに放たれるものとし、あなたを見る者すべてに、あなたが《救い主》のものたるひとりであると示し、あなたのうちに主の造作と主の麗しい顔かたちを認めさせるようにするがいい。

 さて今、話を聞いている愛する方々。ここで私は、あなたがたの中にいる、これまで説教してこなかった人々に向かって一言語らなくてはならない。というのも、あなたがたの中のある人々は、一度もこの契約をつかんだことがないからである。私は時として、こう囁かれるのを聞いたり、こう書かれているのを読んだりすることがある。すなわち、一部の人々は、契約によらない神のあわれみに信頼しているというのである。厳粛に保証させてほしいが、いま現在、契約によらないあわれみなどというものは天国にはない。神の天空の下にも上にも、そのようなものはない。契約によらない恵みなどというものは、人々に差し出されていない。あなたがたが受け取ることのできるあらゆるもの、またあなたが少しでも希望をいだけるすべてのものは、無代価の恵みという契約を通してのみ与えられなくてはならない。

 罪を確信させられている、あわれな罪人よ。ひょっとすると、あなたは今日、この契約をつかむことができないでいるかもしれない。あなたはこの契約が自分のものだと云えないでいる。あなたはそれが決してあなたのものになりえないのではないかと恐れている。よく聞くがいい。あなたはキリストをつかめるだろうか? あえてそうできるだろうか? 「おゝ」、とあなたは云う。「私はつまらない者すぎます」。否。魂よ。あなたは今日、あえて主の衣のふさに触ろうとするだろうか? あえて主のもとに近づき、地面に引きずられている衣のすそに触ることでもできないだろうか? 「ええ」、とあなたは云う。「できません」。なぜできないのか。あわれな魂よ。なぜできないのか? あなたはキリストを頼りにできないのだろうか?

   「主のあわれみは 豊けく代価(かた)なし、
    なぜ、わが魂(たま)よ、汝がためならずや」。

私には行けません。私には価値がなさすぎます」、とあなたは云う。では聞くがいい。私の《主人》はあなたに来るよう命じておられる。だのに、その後でもあなたは恐れるだろうか? 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」[マタ11:28]。「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです」[Iテモ1:15]。なぜあなたは、あえてキリストのもとに来ようとしないのか? おゝ、あなたは主があなたを追い返すのではないかと恐れている! ならば聞くがいい。主が何と云っておられるかを。「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」[ヨハ6:37]。だが、あなたは云う。「主は、私のことは捨て去るに決まっています」。ならば、来るがいい。あなたが主を嘘つきであると証明できるかどうか試してみるがいい。私はあなたがそうできないと知ってはいるが、来て試してみるがいい。主は「決して」と云われた。「しかし、私ほどどす黒い者はいません」。それにもかかわらず、主は「決して」と云われた。やって来るがいい。だれにもましてどす黒い者よ。「おゝ、ですが私は汚れ果てています」。やって来るがいい。汚れ果てた者よ。来て、主を試してみるがいい。来て主にあたってみるがいい。思い出すがいい。主は、信仰によってご自分のもとに来る者を決して捨てないと云われたのである。来て主を試してみるがいい。私は何もあなたに、契約のすべてをつかむよう求めているのではない。それは、徐々にしていけばいいことである。だが、キリストをつかむがいい。そして、もしあなたがそうするならば、あなたは契約を自分のものとしているのである。「おゝ、私には主をつかめません」、とひとりのあわれな魂は云う。よろしい。ならば、主の足元にはいつくばって、どうか私をつかみとってくださいと乞い求めるがいい。呻き声を1つ発して云うがいい。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」![ルカ18:13] ため息を1つもらして、云うがいい。「主よ。助けてください。さもないと、私は滅びそうです」。口でそう云えなければ、心の中でそう云うがいい。もしも長い間くすぶっていた悲嘆が、あなたの骨の中で炎のように燃えているとしたら、少なくとも火花を1つでも表に出すがいい。いま祈りを1つささげるがいい。そうすれば、まことにあなたに云うが、一言真摯に祈るだけで間違いなく、主があなたをお救いになることは証明されるであろう。神が心の中に置かれた1つの真実な呻きは、その愛の証拠である。キリストを求める1つの真実な願いがきっかけとなって、真摯で熱心にキリストを求めることが始まる場合、その願いは神に受け入れられ、あなたは救われるであろう。もう一度云うが、魂よ。来るがいい。キリストをつかむがいい。「おゝ、ですが私にはそうできないのです」。いま私は愚かなことを云おうとしていた。私は、「いまの瞬間、自分もあなたのような罪人であればいいと思う」、と云うところであった。そうすれば、「まず私が先に走って行ってキリストをつかみ、それからあなたに向かって、『君もつかめよ』、と云おうと思う」、と云おうとしていた。しかし、私は実際にあなたと同じように罪人なのであり、あなたよりも何らまさっていないのである。私には何の功績も、何の義も、何の行ないもない。私は、キリストが私にあわれみをかけてくださらない限り地獄に落とされるであろうし、もし私が当然の報いを受けていたとしたら、そこに落ちていたであろう。ここにいる私は、かつてはあなたと同じくらいどす黒かった罪人なのである。だがしかし、おゝ、キリストよ。この両腕はあなたをだきしめています。罪人よ。キリストのもとへ行くがいい。私に続くがいい。私は主をだきしめていないだろうか? 私はあなたと同じくらいよこしまな者ではないだろうか? みもとに行き、私という実例によって確信するがいい。いかに主は私が初めて主をつかんだとき私を扱われただろうか? 何と、主は私に云われたのである。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた」[エレ31:3]。来るがいい。罪人よ。来て、試すがいい。もしキリストが私を追い払わなかったとしたら、決してあなたをはねつけはすまい。やって来るがいい。あわれな魂よ。やって来るがいい。――

   「神に賭(まか)せよ(これは決して賭けではない) またく汝が身を
    他(た)のもの頼る 心よとく去れ
    イエスのみなるぞ
    よわき罪人 救うるは」。

主はあなたに欠けているあらゆる善をあなたに施すことがおできになる。おゝ! 私の《主人》に信頼するがいい。おゝ! 私の《主人》に信頼するがいい。主は尊い主イエスである。甘やかな主イエスである。愛に満ちた《救い主》である。いつくしみ深く、へりくだった、罪の赦し主である。来るがいい。あなたがた、どす黒い者たち。来るがいい。あなたがた、汚れ果てた者たち。来るがいい。あなたがた、あわれな者たち。来るがいい。あなたがた、死にかけている者たち。来るがいい。あなたがた、失われた者たち。――あなたがた、自分がキリストを必要としていることを感じるよう教えられてきた者たち。来るがいい。あなたがたのすべてよ。――いま来るがいい。イエスはあなたに来るよう命じておられる。だからすぐさま来るがいい。主イエスよ。彼らを引き寄せ給え。あなたの御霊によって、彼らを引き寄せ給え! アーメン。

 

契約におけるキリスト[了]

----

HOME | TOP | 目次