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契約における神

NO. 93

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1856年8月3日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於サザク区、ニューパーク街会堂


「わたしは彼らの神となる」*。――エレ31:33


 第二の契約の何と栄光に富んでいることか! それが、「さらにすぐれた約束に基づいて制定された、さらにすぐれた契約」と呼ばれるのも不思議はない[ヘブ8:6]。これは実に栄光に富んでおり、考えただけでも魂は圧倒されてしまう。ここには、神の驚くばかりのへりくだりと無限の愛が認められる。神は、かくも無価値な被造物たちのために、かくも栄光に富む目的をもって、かくも無私の動機から、1つの契約を作成してくださった。それは、アダムと結ばれたもう1つの契約――わざの契約――よりもすぐれている。あるいは、イスラエルがエジプトから出てきた日に彼らと結ばれたと云われている契約よりもすぐれている。というのも、これは、さらにすぐれた原理に基づいているからである。古い契約は、功績という原理に基づいていた。すなわち、「神に仕えよ。そうすれば、あなたはその報いを受けるであろう。もしあなたが主を恐れて完全な歩みをすれば、神はあなたによくしてくださり、ゲリジム山のあらゆる祝福[申11:29]があなたの上に降り注ぎ、あなたはこの世でも、来たるべき世でも、この上もなく祝福されるであろう」。しかし、その契約は失敗に帰した。なぜなら、確かに人間がその良いわざのために報いられ、悪いわざのために罰されるのは正しいことではあったが、人間が罪を犯さずにはいられない者であり、堕落以来、常に不義に傾きがちな者である以上、この契約は人を幸福にするにはふさわしくなく、その永遠の至福を押し進めることもできなかったからである。しかし、新しい契約は全くわざに基づいてはいない。これは、純粋に、混じりけのない恵みの契約である。そのことは、その最初の言葉から最後の言葉に至るまで読みとれるであろう。そこには、私たちによって何かがなされるなどということは、ほんの一言半句たりとも含まれていない。この契約の全体は、人間とその《造り主》との間の契約というよりは、エホバと人間の代表者たる主イエス・キリストとの間の契約である。この契約における人間側の条件は、すでにイエスによって履行されており、今や残っているのは、要求する契約ではなく、与える契約でしかない。私たち――神の民――に関するこの契約の全体は、今や、こういうことになっている。すなわち、「わたしはこれを与えよう。これを授けよう。この約束を果たそう。あの恩顧を授与しよう」。しかし、私がなすべきことは何1つない。神が、私たちのすべてのわざを、私たちの内側で行なってくださる。そして、この契約の条件であると述べられることもある、種々の美質そのものさえ私たちには約束されている。神は私たちに信仰を与えてくださる。私たちの内側で私たちに律法を与え、それを私たちの心に書き記すと約束しておられる。私は云う。これが栄光に富む契約であるのは、それがあわれみと、混じりけのない恵みだけにしか基づいていないからである。これは、被造物側の行ないや、人間によってなされる何物とも全く関係ない。こういうわけで、この契約は、もう1つの契約をその確固さにおいてしのいでいる。人間から出たものが何かあるところには、何がしかの変わりやすさがつきものである。被造物とつながりがあるものは、変化につながる。被造物には変化が、また不確実さがつきものだからである。しかし、この新しい契約は、今や全く被造物とは関係がない。被造物のなすべきことは全くなく、ただ被造物は受けるだけでよい、という限りにおいて、被造物とは関係がない。それゆえ、変化という観念は完全に去ってしまった。それは神の契約である。それゆえ、変化することなき契約である。その契約の中に私のなすべきことが何かあるとしたら、その契約は不安定である。そして、たとい今の私がアダムのように幸福であったとしても、私はなおもサタンのようにみじめな者となることがありえる。しかし、この契約がすべて神の側にある以上、もし私の名前がその契約に記されているとしたら、私の魂は、あたかも今、かの黄金の通りを歩んでいるかのように安泰なのである。そしてもし何らかの祝福がその契約の中にあるとしたら、私はその祝福を、あたかもすでにそれを自分の両手でつかみとっているのと同じくらい確実に受け取ることになる。神の約束は、必ずや成就するに決まっているからである。その約束は決して破られない。それは常に、それが譲り渡すとされているものすべてをもたらす。そして私は、信仰によってそれを受け入れる瞬間に、その祝福そのものを受け取ることを確信できる。おゝ! いかにこの契約が、その明白な安全性ということにおいて、もう1つの契約よりも無限にまさっていることか! それは、これっぽっちの不確かさの危険をも、あやふやさをも越えたものである。

 しかし、私がこの二、三日の間考えていたのは、この恵みの契約がもう1つの契約よりも、何にもまして驚嘆すべきしかたですぐれているのは、それが授ける大いなる祝福にある、ということであった。恵みの契約は何を譲り渡すだろうか? もともと私は、今朝、「恵みの契約:それはいかなる祝福を神の子どもたちに与えるか」、という説教を行なおうと考えていた。しかし、それについて考え始めたとき、その契約の中にはあまりにも多くのものがあり、その中に折り畳まれている、数々の偉大にして栄光に富む祝福の目録を読み上げたとしたら、その1つ1つについて簡単な所見を述べていくだけでほぼ丸一日かけなくてはならなかったであろう。神がその契約において与えておられる偉大な事がらを考えてみるがいい。神はそれらを要約して、こう云っておられる。神は「すべてのことを」与える、と[IIペテ1:3]。神はあなたにキリスト・イエスにある永遠のいのちを与えておられる。しかり。キリスト・イエスをあなたのものとして与えておられる。キリストを万物の相続者[ヘブ1:2]とし、あなたをキリストとの共同相続人[ロマ8:17]とし、このようにして、あなたにすべてを与えておられる。もしも、この栄光に富む契約によって神があらゆる選ばれた魂に譲り渡しておられる、言葉に尽くせないこの宝の巨大な山を総括しようなどとしたら、時間が足りなくなるであろう。それゆえ私は、この契約によって私たちに譲り渡されている1つの大いなる祝福から始めて、神のみ許しがあれば、別の安息日に、この契約が譲り渡している、他の種々様々な事がらを1つ1つ別々に考察していくことにしよう。

 では、最初のことから始めるが、これはその莫大な価値によって私たちを驚愕させるに足るものである。事実、それが神のことばの中に書かれていなかったとしたら、私たちは決してそのような祝福が私たちのものとなりえるとは夢にも思えなかったであろう。神ご自身が、その契約によって、信仰者自身の割り当て分であり相続財産となっておられるのである。「わたしは彼らの神となる」。

 さて今、私たちはこの主題を次のようなしかたで始めようと思う。まず第一にあなたに示したいのは、これが特別の祝福だということである。神は、この契約に名を記された選民の特別の所有である。第二に、しばしの間、このことをきわめて尊い祝福として語りたい。「わたしは彼らの神となる」。第三に、私たちはこの祝福の安泰さについて詳しく述べるであろう。「わたしは彼らの神となる」。そして第四に私たちは、あなたがこの祝福を活用するように奮起させたい。この祝福は、永遠の恵みの契約によって、かくも無代価で、惜しみなくあなたに譲り渡されているのである。「わたしは彼らの神となる」。

 話を始める前に、ほんのひとときここで立ち止まり、このことをよくよく考えてみるがいい。恵みの契約においては、神ご自身がご自分をあなたに譲り渡し、あなたのものとしておられる。それを理解するがいい。神が――この言葉によって意味されるすべてが――永遠と、無限と、全能と、全知と、完璧な正義と、無謬の正しさと、不変の愛とが――神によって意味されるすべてのことが――《創造者》が、《庇護者》が、《保護者》が、《統治者》が、《審判者》が――「《神》」というこの偉大な言葉によって意味されうるすべてのものが、いつくしみと愛のすべてが、寛大さと恵みのすべてが――それらすべてが、この契約によってあなたに与えられ、あなたの絶対的な所有となるのである。あなたが自分のものと呼べるいかなるものにも劣らずあなたのものとなるのである。「わたしは彼らの神となる」。私たちは云う。この思想をよくよく思い巡らすがいい。もし私がこれで説教をやめたとしても、ここには、全き栄光に富む御霊によって開かれ、適用されるとき、あなたの喜びを、この安息日の間中かき立てていられるだけのものがある。「わたしは彼らの神となる」。

   「わが神!――いかに よき響きかな!
    いかに楽しく 唱えうべきか!
    その心ぞ よく 喜び踊らん
    神がその御座 置きし心は」。

 I. 《いかにして神は、特別なしかたでご自分の子どもたちの神であられるだろうか?》 というのも、神はすべての人間、すべての被造物の神であられるからである。神は、虫けらの神であり、天翔る鷲の神であり、星の神であり、雲の神であり、あらゆる場所における神であられる。ではいかにして神は、造られたあらゆるものの神である以上に私の神、あなたの神であられるのだろうか? 答えよう。いくつかの事がらにおいて神は、その全被造物の神であられるが、そこにおいてすら、神ご自身とその選ばれた被造物たちとの間には特別の関係が存在している。彼らを神は永遠の愛で愛してこられたのである。そして、次のこととして、そこには神がその他の被造物たちに対しては存在せず、ただご自分の子どもたちに対してのみ存在しておられるような関係が、いくつかあるのである。

 1. まず最初に、神はその全被造物の神であられる。それらに対して思い通りに定めをなさる権利を有しておられることを鑑みればそうである。神は私たちすべての《創造主》であられる。神は陶器師であって、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っておられる[ロマ9:21]。人々がいかに神に対して罪を犯そうとも、神はなおも、そうした意味で彼らの神であられる。――彼らの運命は、動かしがたくその御手のうちにあり、神はまさしくご自分で選ばれた通りに、彼らに対してふるまうことがおできになる。彼らがいかに神の意志を恨みに思おうが、いかにそのみこころをはねつけようが、それでも神は、人の憤りをしてご自分をほめたえさせ、その憤りの余りまでをも身に締めることがおできになる[詩76:10]。神が全被造物の神であられ、彼らの《創造主》であられることに鑑みれば、予定という件においても、神は絶対的にそのようなお方であられ、彼らをみこころのままにする絶対的な権利を持っておられる。しかし、ここでもまた、神はご自分の子どもたちに特に顧慮しておられ、この意味においてすら、神は彼らの神であられる。というのも、彼らにとって神は、同じ主権を行使しはするものの、それを恵みによって――恵み以外のいかなるしかたにもよらずに――行使なさるからである。神は、彼らをあわれみの器[ロマ9:23]とし、永遠に神の栄光となるようになさる。神は、彼らを堕落の破滅の中から選び出し、彼らを永遠のいのちの相続人とする一方で、世界の残りの者たちの方は罪の中にとどまらせ続け、その咎を、当然受けてしかるべき罰によって完成なさる。このようにして、その関係は同じ――その主権と聖定の権利に関する限り――でありながら、神がご自分の民をごらんになる愛に満ちた見方には、特別なものがあるのである。そして、この意味において、神は彼らの神なのである。

 また、神がその全被造物の神であられるというのは、神には万物の服従を命ずる権利があるという意味においてである。神は、この地上に生まれ出たことのある、あらゆる人の神であられる。これは、彼らが神に従う義務を負っているという意味においてそうである。神は、その全被造物の臣従を要求することがおできになる。なぜなら、神は彼らの《創造主》、《統治者》、《保持者》であられるからである。そしてあらゆる人々は、彼らが創造されたという事実によって、神に服従すべき者である。彼らが神の律法に従う責務から逃れる道はない。しかし、ここにおいてすら、神の子どもに関しては特別なものがある。神は万人の支配者ではあられるが、その支配は、ご自分の子どもたちを特別扱いしている。というのも、神はご自分の支配権を示す剣をわきへやり、その御手には、刑罰的な復讐の剣ではなく、わが子のための鞭を握られるからである。神は、世には石の上に記した律法をお与えになるが、その子どもには、その心の上に律法を書き記してくださる。神は私の統治者であり、あなたの統治者であるが、もしあなたが新生していないとしたら、神が私の統治者であるということと、あなたの統治者であるということは意味が違う。神は、あなたの従順を要求するよりも、十倍も多く私の従順を要求する権利をお持ちである。神が私のためにより多くのことを行なってくださったからには、私は神のためにより多くのことをなすべき義務がある。神がより多く私を愛してくださったからには、私はより多く神を愛する義務がある。しかし、たとい私が不従順になったとしても、私の頭の上にのしかかる復讐は、あなたがキリストから離れている人である場合、あなたの頭の上にのしかかる復讐ほど重くはならない。というのも、私の受ける復讐はすでに私の身代わりたるキリストの上に下っているからである。そして、私にはただ懲らしめしか残されていない。それで、ここにおいてもやはり、万人にとって普遍的な関係がありながらも、神の子どもたちに関しては特別なものがあることが見てとれよう。

 さらに、神がその全被造物の上に普遍的な権威を有しておられるというのは、《審き主》という性格においてである。神は、「義によって世界をさばき、公正をもって国民にさばきを行なわれる」[詩9:8]。神は万人に公正をもって審きを行なわれるであろう。だが、まるでご自分の民はこの世のものではないかのように、「公正をもって民にさばきを行なわれる」<英欽定訳>、とつけ加えられているのである。繰り返して云うが、神が全被造物の神であるのは、神が彼らの《審き主》であられる、という意味においてである。神は彼らをみな、ご自分の法廷へ召喚し、彼らをみな断罪するか放免するかなさるであろう。だが、そこにおいてさえ、神の子どもたちについては独特のものがある。というのも、彼らには断罪の宣告が決して下されることがなく、無罪放免の宣告しか下されないからである。神は、万人の《審き主》であられる一方で、特に彼らの《審き主》であられる。なぜなら、神は彼らが敬愛する審き主、彼らが近づきたいと切に願う審き主だからである。彼らは、神の御口によって、自分たちが心の中ですでに感じていることが確証されるであろうと知っている。――それは、彼らの栄光に富む《救い主》の功績による、完全な無罪放免の宣告である。私たちの愛に満ちた神は、私たちの魂を無罪であるとして放免なさる《審き主》であられ、その点において私たちは、神が私たちの神であると云える。そういうわけで、《主権者》としても、法を守らせる《統治者》としても、罪を罰する《審き主》としても、神は、ある意味では万人の神であられるが、この件において、神の民にとっては特別なものがあり、彼らはこう云えるのである。「神は、こうした関係においてさえ、私たちの神であられる」、と。

 2. しかし今、愛する方々。神の被造物たちの中でも、他の者らには達することのできない点がいくつかある。そして、それこそ肝心な点である。ここにこそ、この栄光に富む約束の真髄が宿っている。神が私たちの神であられるのは、新生していない者、回心していない者、汚れている者が知ることも、あずかることもできないような意味においてそうなのである。これまで私たちは、神が人間一般にとっていかなるお方であるかということに関しては、いくつかの点を考察してきた。今からは、神が私たちにとって、他のいかなる者に対しても違うしかたで、いかなるお方かということを考察してみよう。

 まず第一に、神が私の神であられるのは、神が私の選びの神であられることを見るときにそうである。もし私が神の子どもだとしたら、神は私をすべての世に先立って愛しておられ、その無限の御思いを駆使して、私を救うための計画を練っておられたのである。もし神が私の神だとしたら、私が神から遠く離れてさまよっていたときも、反逆していたときも、神は私をご覧になっておられ、その御思いによって、私がいつとらえられるべきか――いつ私が自分の誤った道から立ち返るべきか――をお決めになったのである。神は私のために、恵みの数々の手段を備え、そうした恵みの手段をしかるべき時に適用なさったが、その永遠の目的こそ、それらすべての基盤であり土台であった。そして、このようにして神は、ご自分の子どもたち以外の何者にとっても神ではないようなしかたで、私の神なのである。その永遠の選びにおいて、神は私の栄光に富む、恵み深い神なのである。神は、世界の基の置かれる前から私のことを考え、私を選び、愛をもって、私を御前で傷のない者にしようとされたからである[エペ1:4]。振り返ってみるとき、私は選びの神を見てとり、私が選びのうちにあるとすれば、選びの神は私の神であられる。しかし、もし私が神を恐れず、敬いもしないというなら、神は別の人の神であって、私の神ではない。もし私が選びに何の権利もなく、全くあずかっていないとしたら、私は神を、その意味においては、神に選ばれたおびただしい数の人々の神であるとみなしはしても、私の神ではないとみなさざるをえない。もし私が振り返ってみるとき、自分の名が、かの美しい、いのちの書に記されているのを見てとれるとしたら、そのときは実際に、神は選びにおいて私の神であられる。

 さらに、キリスト者が神を自分の神であると呼べるのは、その人の義認という事実によってである。罪人も神を神と呼ぶことはできるが、その人は常に、そこに形容詞を差し挟まなくてはならない。怒れる神、憤れる神、あるいは立腹した神として神を語らなくてはならない。しかしキリスト者は「私の神」と云える。そこには、いかなる形容詞も――神をほめたたえる甘やかな形容詞以外は――差し挟む必要がない。というのも今や、私たち――以前は遠く離れていたが、キリストの血によって近い者とされた私たち[エペ2:13]――悪い行ないによって神の敵であったが[コロ1:21]、神の友とされて神を見上げている私たち――は、「私の神」と云えるのである。神は私の友であり、私は神の友だからである。エノクは「私の神」と云えた。彼は神とともに歩んだからである[創5:24]。アダムは、園の木々のかげに身を隠したとき、「私の神」とは云えなかった。それで私は、罪人として神から逃亡している間は、神を私のものとは呼べないが、神との和解を得て、神に近い者とされているときには、実際に神は私の神となり、私の友となるのである。

 さらに、神が信仰者の神であられるのは、子とすることによってであり、罪人はそこに全くあずかっていない。私は人々が神を全宇宙の父として云い表わすのを聞いている。だが私は、少しでも聖書を読んでいる人がそのように語ることに驚かされるものである。パウロはかつて、「私たちもまたその子孫である」、と語ったひとりの異教徒の詩人を引用した[使17:28]。また、神によって創造されたという意味では、私たちが神の子孫であることは正しくもある。しかし、聖書の中で「子ども」という言葉は、新生した子どもがその御父に対して有する聖なる関係を表現するために用いられている。そうした高等な意味においては、「私たちの父」と云うことができる唯一の人々は、子としてくださる御霊によって、「アバ。父よ」が心に刻まれている者たちしかいない[ロマ8:15]。よろしい。この子としてくださる御霊によって神は、他の者たちの神とは違う意味で私の神となられる。キリスト者には、神に対する特別な権利がある。なぜなら、神はその人の御父であり、その人の兄弟たちを除くいかなる人々の父でもないからである。左様。愛する方々。こうした3つの事がらだけでも十分わかるように、神は特別な意味において神ご自身の民の神なのである。だが、私はこのことをあなた自身で思い巡らすにまかせなくてはならない。神が特にご自分の子どもたちの神であられ、その被造物の残りの者らの神ではないということは、十でも二十でも異なったしかたで考えることができよう。「神」、と悪者は云うが、神の子どもたちは、「私の神」、と云う。ならばもし神がこれほど特別にあなたの神であられるとしたら、あなたの身なりを、あなたを養う糧に合わせたものとするがいい。太陽をまとい、主イエスを着るがいい。王の娘は(また、王の息子たちもみなそうあるべきだが)内側において栄華を窮める。ならば彼らの衣は黄金が織り合わされたものとするがいい[詩45:13]。謙遜を身に着け[Iペテ5:5]、愛と、あわれみの心と、寛容と、柔和を身に着るがいい。あなたの友人も行動も、あなたの衣裳に似つかわしいものとするがいい。最上の人々、義人の世代の間で生活するがいい。長子たちの教会、無数の御使いたちの大祝会、全うされた義人たちの霊へと近づくがいい[ヘブ12:23]。偉大な《王》の宮廷に住み、その顔を仰ぎ見、その御座のもとで仕え、その名を身に帯び、その数々の美徳を明らかに示し、そのほめ歌を歌い、その誉れを高め、その御ためをはかるがいい。神に捨てられた人とその道を目でさげすみ[詩15:4]、彼らよりもずっと高貴な人々とつき合うがいい。そうでない人々については、彼らとの交際も、彼らの軽蔑も、彼らのへつらいも、彼らの渋面も気にしてはならない。彼らの喜ぶものを喜ばず、彼らの恐れるものを恐れず、彼らの気遣うものを気遣わず、彼らの珍味を口にしないようにするがいい。彼らの間から立ち上がり、あなたの国、あなたの都、いかなる汚れたものも入ることができず、騒がせることもできない場所へ赴くがいい。信仰によって生きるがいい。御霊の力により、聖潔の美しさにより、福音の望みにより、あなたの神を喜ぶ喜びにより、その威光により、だがしかし、偉大なる《王》の子どもたる謙遜さによって生きるがいい。

 II. さて、しばしの間、《神の偉大なあわれみの、際立った尊さ》を考察してみよう。「わたしは彼らの神となる」。私が思うに、神ご自身でさえ、これ以上のことは仰せになれなかったであろう。たとい《無限者》がその力の限りを尽くして、何か途方もない、他の一切をしのぐような約束によってその恵みを拡大したとしたも、それが栄光において、この約束、「わたしは彼らの神となる」、にまさることはできないと思う。おゝ! キリスト者よ。神をあなた自身のものとすることがいかなることか、考えてもみるがいい。それがどういうことか、何か他のものと比較してみるがいい。

   「ヤコブのゆずりは 主にぞあり、
    他の何をも 求めざらん。
    さらに何をば 天あたえ――
    さらに何をば 地は望まん」。

 この割り当てを、あなたの同胞たちの持てるものとくらべてみるがいい! 彼らのある者らは、その割り当て分を田畑に有している。彼らは富んでおり、豊かになり、その金色の収穫は、今でさえ陽光の中で熟しつつある。だが、その収穫も、収穫の神であるあなたの神にくらべれば何だろうか? あるいは、軒を連ねた穀倉も、あなたの農夫であり、あなたを天の糧で養ってくださるお方にくらべれば何だろうか? ある者らは、その割り当て分を町に有している。彼らの富はあり余るほどあり、それが絶えず彼らのもとに流れ込み続けては、ついに彼らが黄金の貯蔵庫そのものとなるほどである。だが、黄金もあなたの神にくらべれば何だろうか? 黄金を食べて生きることはできない。霊的いのちを黄金が支えることはできないであろう。それを痛む頭にあてても、少しでも痛みがひくだろうか? それを悩む良心に押しつけても、黄金がその激痛を和らげるだろうか? それを意気阻喪した心にあてて、1つでも呻きを食い止めることができるか、1つでも悲しみを減らせるかどうか試してみるがいい。しかし、あなたは神を有しており、神のうちに黄金や富貴で買えるものにまさるもの、燦然と輝く金の山でも購えないものを有している。ある者らの割り当て分はこの世にある。ほとんどの人々が愛する称賛や名声などのうちにある。だが、自問してみるがいい。あなたの神は、あなたにとってそれ以上のお方ではないだろうか? 何と、たとい一千もの喇叭があなたをほめたたえて吹き鳴らされ、無数の金管楽器があなたを称賛して高らかな音を響かせても、そうしたすべては、あなたがあなたの神を失ってしまったとしたら、何になるだろうか? それが、思い乱れる魂のざわめきを鎮めるだろうか? これがあなたに、ヨルダンを渡る備えをさせるだろうか? この世から未知の国へと招かれたあらゆる人がじきに徒渉しなくてはならない、かの荒れ狂う波浪を押し渡らせるだろうか? そのとき、風の一吹きが何の役に立つだろうか? 同胞たちの喝采が、臨終の床についたあなたを祝福するだろうか? 否。この地上には人々がでしゃばることのできない数々の悲しみがあり、やがて来たるべきときには人々が干渉して軽くすることができない悲しみがある。幾多の激痛、痛み、苦悶、死に行く争いがある。しかし、あなたがこの――「わたしは彼らの神となる」――を有しているとき、あなたは、他のあらゆる人々の持てるものを1つに合わせたのと同じくらいのものを、そして、それ以上のものを有しているのである。彼らの有するすべては、その程度でしかない。神とくらべれば、この世の宝など、いかに小さなものとみなすべきか。考えてみると、神はしばしば、最も豊かな富貴をその被造物の中でも最悪の者にお与えになる! ルターが云ったように、神はご自分の子どもたちには食べ物を与えるが、豚には豆がらをお与えになる。では、そうした豆がらをためこむ豚とはだれだろうか? 神の民がこの世の富貴を得ることはめったにない、それは、富貴にほとんど値打ちがないことを証明するものでしかない。さもなければ、神はそれを私たちにお与えになるであろう。アブラハムはケトラの子どもたちに割り当て分を与え、彼らを遠くへ追いやった[創25:6]。だが私はイサクとなり、私の御父を有するようにしよう。この世は、その他のものをみな取るがいい。おゝ! キリスト者よ。この世には何も求めてはならない。むしろあなたは、このことに立って生き、このことに立って死ぬ者となるように。「わたしは彼らの神となる」。これは他の全世界にまさっている。

 しかし、これを、あなたの求めているものとくらべてみるがいい。キリスト者よ。あなたは何を求めているだろうか? ここには、あなたが求めているすべてがあるではないだろうか? 幸福になろうとしてあなたは、自分を満足させる何かを欲していた。さてでは、あなたに問うが、これは十分ではないだろうか? これはあなたの水差しをふちまで満たすではないだろうか? 左様。あふれ流れるまでにならないだろうか? もしあなたがこの約束をあなたの杯の中に入れるなら、ダビデとともにこう云わざるをえなくなるではないだろうか? 「私の杯は、あふれています。私の心の思いはあふれ出ます」[詩23:5参照]。「わたしは彼らの神となる」。このことが成就するとき、あなたの杯が常に地上的な物事から空になっているようにするがいい。かりにあなたが、被造物の喜びを一滴たりとも有していないとしよう。だが、このことはそれを満たすのに十分ではないだろうか? それが満ちあふれるあまり、その杯は、あなたのおぼつかない手では支えられなくなるほどではないだろうか? 私はあなたに問う。神があなたのものであるとき、あなたは無欠ではないだろうか? あなたは神のほか何を欲するだろうか? それでも何かを欲するというなら、いつまでもそれを欠いたままでいた方がよいであろう。というのも、神以外にあなたが欲するものは、単にあなたの情欲を満たすものでしかないからである。おゝ! キリスト者よ。もし他のすべてが失われるとしても、これさえあれば十分に満足させられるではないだろうか?

 しかし、あなたは穏やかな満足以上のものを欲している。時としてあなたは、天にも上るような喜びを渇望することがある。では魂よ。ここにはあなたを十分に喜ばせるものがあるではないだろうか? この約束をあなたの唇に当ててみるがいい。この半分でも甘い葡萄酒を今まで飲んだことがあるだろうか? 「わたしは彼らの神となる」。この半分でも甘美な響きを立琴や弦楽器が発したことがあっただろうか? 「わたしは彼らの神となる」。甘やかな楽器によって吹き鳴らされるか、生きた合唱者たちから引き出されるあらゆる音楽を1つに合わせても、この甘やかな約束ほどの旋律を奏でることは決してできないであろう。「わたしは彼らの神となる」。おゝ! ここには、まさに至福の海がある。まさに喜びの大海がある。さあ、そこにあなたの霊を浸すがいい。左様。あなたがその中を永遠に泳ごうとも、いかなる岸も見いだすまい。あなたは、無限そのものの中に飛び込み、その底を決して見いださないであろう。「わたしは彼らの神となる」。おゝ! もしこれがあなたの目を輝かさないとしたら、もしこれがあなたの足を喜びで踊り出させず、あなたの胸を至福で高鳴らせないとしたら、あなたの魂は健全な状態にはないに違いない。

 しかし、さらにあなたは、現在の楽しみ以上の何か、あなたが希望を用いることのできる何かを欲しているであろう。だがあなたは、この偉大な約束、「わたしは彼らの神となる」が成就すること以上の何を得たいと望むだろうか? おゝ! 希望よ。お前は巨大な手を有している。お前は大いなる物事をつかむ。信仰でさえつかんでいられないものを握っている。だが、お前の手がいかに大きくとも、このことはそれを満たし、お前が他に何も運べないほどにする。私は神の御前で断言したい。私はこの約束を越えた希望を有していない、と。「おゝ」、とあなたは云う。「あなたには天国の希望があるでしょうに」。左様。私には天国の希望がある。だが、これは天国なのである。「わたしは彼らの神となる」。天国とは、神とともにいること、神とともに住むこと、神が私のものであり、私が神のものであると悟ること以外の何だろうか? 私は自分にはこれを越えた希望がないとわかっている。これを越えた約束はない。というのも、あらゆる約束はこのことで云い尽くされており、あらゆる希望はこのことに含まれているからである。「わたしは彼らの神となる」。これはあらゆる約束の白眉である。神がその子どもたちに供しておられる、あらゆる偉大で尊い事がらの冠石である。「わたしは彼らの神となる」。もし私たちが本当にこのことをつかめているとしたら、もしこのことが私たちの魂にあてはめられ、私たちがそれを理解できているとしたら、私たちは両手を打ち鳴らして、こう云えるであろう。「おゝ! ほむべきかな、おゝ! ほむべきかな、おゝ! この約束の何とほむべきかな!」 これは地上に天国を作り出すであろう。また天上にも天国を作り出すに違いない。というのも、そこでは、「わたしは彼らの神となる」、ということ以外に何も欲されないだろうからである。

 III. さて、しばしの間、《この約束の確実さ》について詳しく述べてみよう。これは、「わたしは彼らの神となることもある」、とは云われておらず、「わたしは彼らの神となる」、である。そこにいるひとりの罪人は、神を自分の神にするつもりなどない、と云っている。むろん神を自分の守り手とはしたい。自分の面倒を見、自分を事故から遠ざけてくれるお方とはしたい。神が自分に食物を与え、自分の糧を、水を、着物を与えることに文句はないし、神を一種の服飾品にして、安息日には取り出して、その前に額ずくことも気にならない。だが神を自分のとするつもりはない。神を自分のすべてとしたくはない。その人は自分の欲望を自分の神とし[ピリ3:19]、黄金を自分の神とし、この世を自分の神としている。ならば、いかにしてこの約束が成就するのだろうか? そこに神から選ばれた民のひとりがいる。その人は、自分が選ばれているとはまだ知っておらず、神などいらないと云っている。ならば、いかにしてこの約束が実現するだろうか? 「おゝ!」、とある人は云う。「もしその人が神を有したがらないとしたら、もちろん神はその人を手に入れられません」。そして私たちは、人々の説教の中でも、著述の中でもしばしばこうした意見を見聞きする。すなわち、救いは全く人間の意志にかかっているのだ、もし人が立って神の聖霊に逆らうならば、被造物は《創造主》を打ち負かせるのだ、有限の力は無限の力を圧倒できるのだ、と。何度となく私は、手に取った本の中でこう記されているのを見いだしたことがある。「おゝ! 罪人よ。喜んで服する心になるがいい。そうしなければ、神もあなたを救うことはできないからだ」。そして、時として私たちはこう問われることがある。「あの人のような者が、どうして救われることがありえるでしょう?」 そして、こういう答えが返される。「彼はそれを望んでいないのです。神は彼と争ってきましたが、彼は救われようとしなかったのです」。左様。だが、かりに神が――いま救われている人々に対してそうなさったの同じように――その人と争っておられたとしたら、その人は救われたいと思うようになっただろうか? 「いいえ、彼は抵抗していたでしょう」。否、と私たちは答える。それは人の意欲によってでもなく、血によってでもなく、神の力によってである[ヨハ1:13]。私たちは、決してこのような馬鹿げた考えをいだくことはできない。人間が《全能者》を打ち負かせるだの、人の力が神の力よりも強いなどということはない。実際、私たちの信ずるところ、聖霊が通常ふるわれる、いくつかの影響力の中には、打ち負かせるものもあるかもしれない。私たちの信ずるところ、多くの人々の心の中にも、御霊の一般的な働きはなされており、これは抵抗されたり拒絶されたりしている。だが、人を救おうという決意とともになされる聖霊の有効な働きかけは、抵抗することが不可能であろう。さもなければ、神がその被造物によって打ち負かされ、《神格》の目的が、人の意志によって挫折させられると考えるしかない。これは冒涜に近い考えであろう。愛する方々。神にはこの約束を成就する力がある。「わたしは彼らの神となる」。「おゝ!」、と罪人は叫ぶ。「私はあなたを神になどしたくありません」。「お前はそうしたくないのか?」、と神は仰せになり、彼をモーセの手に引き渡す。モーセは彼を受け取ると、しばらくの間、律法の棍棒を加え、彼をシナイのもとに引きずって行く。そこでは、山が彼の頭上で揺れ、稲光が閃き、雷が轟く。そのとき罪人は叫ぶ。――「おゝ、神よ。私をお救いください!」 「オヤ! わたしは、お前がわたしを神になどしたくないと思っていたが」。「おゝ、主よ。私はあなたをぜひとも私の神としたいのです」、とあわれな震えつつある罪人は云う。「私は、自分の飾りをみなはずしました。おゝ、主よ。あなたは私に何をなさるのですか? 私をお救いください! 私はあなたに自分をささげます。おゝ! 私をお取りください!」 「よろしい」、と主は云われる。「わたしにはわかっていた。わたしは彼らの神となると云っていた。わたしは、わたしの力の日にお前を喜んで仕えさせるのだ[詩110:3 <英欽定訳>]」。「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」。

 IV. さて最後のこととして私は、先に述べた通り、しめくくりとして、もし神があなたのものであるとしたら、《あなたには神を活用するように促したい》。奇妙なことだが、霊的祝福は、私たちの持ち物の中でも、唯一用いられることのないものである。私たちは大きな霊的祝福を有していながら、それを長い間、他のものの下積みにしておく。例えば、贖罪蓋がある。あゝ、愛する方々。もしあなたがこの贖罪蓋ほど富の詰まった現金箱を有していたとしたら、あなたは、必要が生ずるたびに、しばしばそこへ赴くことであろう。しかしあなたは、あなたが行く必要がある半分もしげく贖罪蓋のもとに行くことをしない。神は何よりも尊いものを私たちに与えておられるが、私たちは決してそれらを使いすぎることはない。実を云うと、それらを使いすぎることなど決してないのである。私たちは、約束をすり減らすことはありえない。決して恵みの香をたき尽くすことはありえない。神の愛に満ちたいつくしみという無限の宝を使い尽くすことはありえない。しかし、もし神が私たちに与えておられる祝福が使われていないとしたら、ことによると、神こそは、その中でも最も用いられていないかもしれない。神は私たちの神であられるが、私たちが神に心を注ぐのは、被造物の何かに対して、あるいは神が私たちに授けておられるあわれみの何かに対して心を注ぐことよりも少ない。かのあわれな異教徒を眺めてみるがいい。彼らは、その神でもない神々を用いている。彼らは木切れか石を据えては、それを神と呼び、いかにそれを用いることか! 雨が降らなくなると、人々は寄り集まって、自分たちの神が雨を与えてくれるとの確固たる、だが愚かしい希望をもって雨乞いをする。戦いがあれば、彼らの神が高々と掲げられる。それは、ふだん住まいとしている社から引き出され、彼らに先立って出て行かされ、彼らを勝利に導けるようにされる。しかし、私たちが主の御手から助言を求めることの何とまれなことか! いかにしばしば私たちは、神の導きも求めないまま仕事に取りかかることか! 悩みのうちにあるとき、いかに私たちは絶えず自分の重荷を自分でになおうと苦慮し、主にそれらを投げかけて主から支えていただこうとはしないことか! だがこれは、そうしてならないからではない。主はこう云っておられるように思われる。「わたしはあなたのものだ。魂よ。来て、わたしをあなたの思う通りに用いるがいい。あなたは、いつでもわたしの貯蔵庫のもとに来てよいのだ。また、それが度重なれば度重なるほど、歓迎されるのだ」、と。あなたは神を、いたずらにあなたのかたわらに放り出してこなかっただろうか? あなたの神を他の神々のようにしてはならない。見せかけだけのために仕えるのであってはならない。あなたが神を有しているということを、名ばかりのこととしてはならない。神があなたに許しておられる以上、このような友を有しているあなたは、このお方を日ごとに用いるがいい。私の神は、あなたの欠けたものすべてを満たしてくださる。あなたが神を有している限り、決して欠乏すべきではない。あなたが神を有している限り、決して恐れたり、おじけてはならない。あなたの宝物庫に行き、必要なものを何でも取り出すがいい。そこには糧も、衣服も、健康も、いのちも、あなたの必要とするすべてのものがある。おゝ、キリスト者よ。神をあらゆることとし、あなたの神から糧と、水と、健康と、友と、安楽を作り出すすべを身につけるがいい。神はこうしたすべてであなたを満たすことがおできになる。あるいは、それよりも良いことに、神は、こうしたすべての物の代わりに、あなたの食物となり、あなたの着物となり、あなたの友となり、あなたのいのちとなることがおできになる。こうしたすべてを、神はこの一言、「私はあなたの神である」、であなたに告げられた。そして、ここに立ってあなたは、天から生まれたひとりの聖徒が以前云ったように云うことができるのである。「私には夫がいませんが、やもめではありません。私を造ったお方が私の夫です。私には父も友人もいませんが、みなしごでも、友なき者でもありません。私の神が、私の父であり、私の友であられます。私に子どもはいませんが、神は私にとって十人の子ども以上のお方ではないでしょうか。私に家はありませんが、住まいがあります。《いと高き方》を私の住まいとしたからです。私はひとりきりですが、孤独ではありません。私の神は私にとって良き連れです。神とともに私は歩くことができ、神によって甘やかな助言を与えられ、甘美な安らぎを見いだすことができます。眠るときも、起きるときも、家にあっても、道を歩くときも、私の神は常に私とともにおられます。神とともに私は旅をし、住まい、泊まり、生き、永遠に生きることになります」。おゝ! 神の子どもよ。ぜひ強く勧めさせてほしい。あなたの神を活用するがいい。祈りにおいて神を活用するがいい。私は切に願う。神のもとにしばしば赴くがいい。神はあなたの神だからである。神が別の人の神であり、あなたの神ではないとしたら、あなたが神をうんざりさせることもあるかもしれない。だが神はあなたの神なのである。もし神が私の神であってあなたの神でないとしたら、あなたは神に近づく何の権利もないであろうが、神はあなたの神なのである。神はご自分をあなたに譲り渡しておられるのである。もしこのような表現を用いることが許されるとすれば(そして、私たちは許されると思うが)、神はその子どもたち全員の積極財産となっておられ、神がお持ちのあらゆること、神がそうあられるところのあらゆることは彼らのものなのである。おゝ、子どもたち。あなたは、必要があるときも、自分の宝をむなしく横たえているままでいいだろうか? 行くがいい。行って、祈りによってそれを引き出すがいい。

   「悩める者みな 主にたよれ
    汝が最良(よ)き友なる 唯一(ひとり)の主に」。

神に逃れ行くがいい。あなたのすべての欠けを申し上げるがいい。信仰によって、いついかなるときも、絶えず神を用いるがいい。おゝ! 私は切に願う。もし何か暗い摂理があなたにのしかかったときには、あなたの神を太陽として用いるがいい。神は太陽であられるからである。もし何らかの強敵が出て来てあなたに立ち向かうときには、あなたの神を盾として用いるがいい。神はあなたを守る盾だからである。もしあなたが人生の迷路の中で道を見失ったときには、神を案内人として用いるがいい。大いなるエホバはあなたに道を教えるからである。もしあなたが嵐の中にあるときには、荒れ狂う湖を黙らせ、波に向かって、「静まれ」[マコ4:39]、と仰せになる神として神を用いるがいい。もしもあなたが悲惨な状態にあり、途方に暮れているとしたら、神を羊飼いとして用いるがいい。主はあなたの《羊飼い》であられ、あなたに乏しいことはないからである[詩23:1]。何をしていようと、どこにいようと、神こそまさにあなたに必要なお方であること、神こそまさにあなたが必要とするところにおられることを思い出すがいい。では私は切に願う。あなたの神を活用するがいい。あなたの悩みの中で神を忘れるのではなく、あなたの苦悩の最中にあって神のもとに逃れ行き、こう叫ぶがいい。

   「被造(つくられ)し川 みな干(かわ)くとき
    御いつくしみぞ つゆ変わらざる。
    かく我がのぞみ 満ち足りてあり
    高き御名をば 誇り歌わん!

   「被造(つくられ)し者の 与うるめぐみ
    汝れに欠けたる ものはなきなり。
    われはすべてに 満ち満ちてあらん
    神ぞわが身の 神たるうちは」。

 最後に、キリスト者よ。もう一度強く勧めさせてほしい。この日、神をあなたの楽しみとするがいい。たといあなたに試練があろうとなかろうと、神をあなたの楽しみとするがいい。この祈りの家から外へ出て、主にあってこの日を幸いに過ごすがいい。これが命令であることを思い出すがいい。「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」[ピリ4:4]。そこそこに幸せなだけで満足していてはならない。至福の高みへと舞い上がり、地上で天国を楽しみ、神に近づくことを求めるがいい。そうすれば天国に近づくであろう。それは現世における太陽とは違う。それは、高く登れば登るほど、冷え冷えとしてくる。高山には太陽の光を反射するものが何もないからである。だが神の場合、みもとに近づけば近づくほど、明るくあなたを照らし、そのいつくしみを反射する他の被造物が何もなくとも、神の光はいやまさって明るくなるであろう。絶えず、ねばり強く、自信をもって神のもとに行くがいい。「主をおのれの喜びとせよ。主が成し遂げてくださる」*。「あなたの道を主にゆだねよ。主は、あなたをさとして導き、後には栄光のうちに受け入れてくださる」*[詩37:4-5; 73:24]。

 これが、この契約の第一のことである。第二のことも、それと同じように大切である。私たちはそれを別の安息日に考察しよう。そして今、願わくは神があなたがたをその祝福をもって解散させてくださるように。アーメン。

 

契約における神[了]

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