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地上のカナン

NO. 58

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1855年12月30日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於サザク区、ニューパーク街会堂


「なぜなら、あなたが、はいって行って、所有しようとしている地は、あなたがたが出て来たエジプトの地のようではないからである。あそこでは、野菜畑のように、自分で種を蒔き、自分の力で水をやらなければならなかった。しかし、あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地は、山と谷の地であり、天の雨で潤っている。そこはあなたの神、主が求められる地で、年の初めから年の終わりまで、あなたの神、主が、絶えずその上に目を留めておられる地である」。――申11:10、11、12  


 一般に考えられてきたところ、イスラエル人たちのヨルダン渡河は死を象徴しており、カナンは天国にぴったり当てはまる表象であるという。私たちも、ある意味でこれは正しいと思う。ヨルダンの波浪(なみ)越えて、カナンの岸に安けく立たんという、耳になじんだ賛美歌の言葉は実になつかしく思われる。だが、私たちの考えるところ、この寓意は妥当なものではない。ヨルダンは死を正しく表わすものではなく、カナンの地は、キリスト者が死後、大水の彼方で得る甘やかな国を正しく描き出すものではない。というのも、注意してほしいが、イスラエル人はカナンに入った後で敵と戦わなくてはならなかったからである。それは、外敵に満ちた国であった。彼らは自分たちの入る町という町を、強襲によって攻め落とさなくてはならなかった。例外は、奇蹟によって防壁が取り除かれた場合しかなかった。彼らは、カナンの地においてさえ、戦士となり、自分たちの相続地を戦い取らなくてはならなかった。各部族はそれぞれの領地を区画されてはいたものの、巨人のようなアナク人を征服し、カナン人の恐ろしい軍勢と対決しなくてはならなかった。しかし私たちが死の河を越えたときには、戦うべき何の外敵もなく、対決すべき何の敵もいない。天国は、すでに私たちにためにあつらえられている場所である。そこから、悪い者らはとうの昔に叩き出されており、そこには兄弟たちが晴れやかな顔で私たちを待ち受けており、親切な手が私たちの手を握りしめ、愛に満ちた言葉だけが聞かれるはずである。天国では、私たちが戦いの雄叫びをあげることは決してない。私たちは、剣をその鞘もろともに投げ捨てる。そこには、いかなる戦士たちとの戦いも、いかなる血染めの平原も、いかなる盗人たちの住まう山々も、いかなる鉄の戦車を持っている住民もない。それは、「乳と蜜の流れる地」である。それは古のカナンの敵兵たちのことを夢にも見ることがない。教会は、ヨルダンが死を意味していると受け取ることによって、聖書の美しさを取り落としてきたと思う。それよりも、はるかに高く深い意味が、ヨルダンに関連した真の寓意にはあると思う。先日あなたがたに述べたように、エジプトは、神の子らが罪の律法[ロマ7:23]の奴隷となっている際の状態を象徴している。そこでは、彼らは間断なく働かされながら、何の報いも利得も受けることなく、むしろ不断に苦痛を味わっていた。また、私たちが語ったように出エジプトは、神の民のひとりひとりが受け取っている解放の型であった。それは、彼らが信仰によって自分のかもいと門柱にイエスの血を刻印し、過越の子羊を霊的に食べるときに彼らのものとなった解放である。また、私たちは今あなたがたにこう告げることができよう。荒野を越えて旅することは、私たちがエジプトを出てから完全な信仰の確信に到達するまでの期間に通常経験する、希望や、疑い、動揺、不安定さ、疑念の状態を象徴するものである、と。

 私の愛する方々。あなたがたの中の多くの人々は真にエジプトを出てきている。だが、あなたはまだ、荒野の中をさまよっている。「信じた私たちは安息にはいる」[ヘブ4:3]。だが、あなたは、イエスをすでに食したにもかかわらず、安息のカナンに入るほどにはイエスを信じていない。あなたは主の民だが、確かな信仰、確信、希望というカナンに入ってはいない。そこでは、私たちの格闘はもはや血肉に対するものではなく[エペ6:12]、キリスト・イエスにおいて天の所にありながら[エペ2:6]、主権や力に対して行なうものとなる。――そのとき私たちは、もはや、果たして自分が救われるかどうか疑わしいことはなくなり、自分が救われていると感じている。私の知っているある信仰者たちは、何年もの間、自分が受け入れられていることについて、ほとんど何の疑いもなく過ごしている。こうした人々は、イエスにより頼むだけでよい、甘やかで幸いな境地を楽しんでいる。そうした人々はカナンに入っているのである。かの地の純良な古の穀物を食糧として生きているのである。彼らは今や、「御手に身(み)ゆだね みこころのみ知る」者である。彼らは、そのほむべき主イエスと、あまりにも甘やかに一体となっているため、一日中その御胸に頭をもたせていて、ほとんどいかなる夜も感じない。ほとんど常に昼間に生きている。というのも、彼らは、主の完璧な姿へと達したわけではないが、自分が主ご自身と如実に一体となっているのを感じており、疑うことができず、あえて疑おうとも思わないのである。彼らは安息に入っている。カナンに入っている。これが、経験的に1つの進歩した段階に達した神の子どもの状態である。その人は、神が恵みに恵みを加えてくださったために、こう云える。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです」[詩23:4]。

 私たちはもう一度この箇所を読んでみよう。これが何を意味していると私が理解しているかを念頭に置くがいい。それが示しているのは、私たちキリスト者が、こうした神に対する信仰と確信に達した後の状態である。もはや、この世の事がらには気を遣わず、自分の力で地に水をやることがなく、天の雨で潤っている地に来ている状態である。「あなたが、はいって行って、所有しようとしている地は」、――キリスト者の高く聖なる特権の地は、――「あなたがたが出て来たエジプトの地のようではないからである。あそこでは、野菜畑のように、自分で種を蒔き、自分の力で水をやらなければならなかった。しかし、あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地は、山と谷の地であり、天の雨で潤っている。そこはあなたの神、主が求められる地で、年の初めから年の終わりまで、あなたの神、主が、絶えずその上に目を留めておられる地である」。私たちが今朝、注目したいのは、まず第一に、キリスト者の現世的な状況と、エジプト人たる世俗の子らの状況との違いである。第二に、カナンに入った者たちに与えられている格別な特権である。――すなわち、その地には、「年の初めから年の終わりまで」、あなたの神、主が、絶えずその上に目を留めておられる。

 I. 真のキリスト教信仰は、ある人の内側ばかりでなく、ある人の状況にも違いを生じさせる。その人の心だけでなく、その人の状態にも――その人の性質だけでなく、その人の社会的立場にも影響を及ぼす。あなたの神、主は、イスラエルばかりでなく、イスラエルの住むカナンをも気遣ってくださる。神は、選民を顧みるだけでなく、彼らの居住地をも顧み、そればかりか、彼らのあらゆる営みと環境を顧みてくださる。私が神の子どもとなる瞬間には、私の心が変わり、私の性質が新しくされるばかりでなく、私の立場そのものが異なるものとなる。野の獣すら私と盟約を結び、野の石すら和平を求める。私の住む地は今やエホバによって守られている。私のこの世における立場はもはや素寒貧の乞食のようなものではない。――私は有閑紳士となっている。――神の摂理に養われる年金受給者となっている。私の立場は、かつてはエジプトにある奴隷でしかなかったが、今や、カナンの相続人となっている。こうした、キリスト者と世俗の子らとの状況の違いについて、私たちは3つのことを指摘したいと思う。

 第一に、キリスト者の現世的な状況は、世俗の子らのそれとは異なっている。というのも、世俗の子らは、種々の第二原因に目を向けるが、キリスト者は天に目を向けているからである。キリスト者はそこから自分の種々のあわれみを得るのである。この聖句を読んでみるがいい。「あなたが、はいって行って、所有しようとしている地は、あなたがたが出て来たエジプトの地のようではないからである。あそこでは、野菜畑のように、自分で種を蒔き、自分の力で水をやらなければならなかった」。エジプトの地は決して天から雨が降らず、常に地上の水源によって潤されていた。特定の時期になるとナイル川がその河岸を越えて氾濫し、全土を覆った。そのとき人工の貯水池には水が貯蔵され、その後それが運河によって放流されては、平野全体に張り巡らされた小水路を巡り流されるのである。彼らが頼りにしていたものはみな地上の水源であった。彼らは、ナイル川を自分たちの豊かさすべての源とみなしており、それを礼拝さえしていた。しかし、あなたが行こうとしている地は川によって潤されてはいない。それは「天の雨で潤っている」。あなたがいかに肥沃になるかは、運河や水路といった人工的な源まかせではない。あなたは天から下る雨によって養われるのだ! 見ての通り、これは何と美しく世俗の子らとキリスト者とを描き出していることか。世俗の人を見るがいい。何がその人の頼りだろうか? それはみな下界の水である。その人が目を向けるのは、この世の川から流れてくる水でしかない。「だれかわれわれに良い目を見せてくれないものか」[詩4:6]。ある人々は、いわゆる運により頼んでいる。――(ナイルの水源と同様、全く未知の源から流れる川である)。そして、何度失望させられても、この未知の流れに信頼することをやめようとしない。他の人々は、もう少し分別があり、自分の勤勉な働きと誠実さに信頼を置く。そうした人々は、その川の源に目を向け、その源流を、労働の像によって飾られた、直立せる人間であるとする。あゝ! その川も、やはりあなたを裏切るかもしれない。それは、その河岸を越えて氾濫せず、あなたが飢えることになるかもしれない。しかし、おゝ、キリスト者よ。何にあなたは頼るのか? その地は「天の雨で潤っている」。あなたの種々の恵みは、運まかせではない。あなたの日々の糧は、あなたの勤労の実という以上に、あなたの天の御父のご配慮から出たものである。あなたは、あらゆるあわれみの上に、天の刻印が押されているのを目にし、あなたのもとにやって来るあらゆる祝福には、神がその賜物を分け与えておられる象牙の宮の軟膏と甘松香と没薬の香りがしみこんでいる。ここに、確信をもったキリスト者と、ただの世俗の子らとの違いがある。一方は天然の原因により頼んでいる。――もう一方は、「天然を通して、天然の神を見上げて」おり、自分への種々のあわれみが、天から清新に下ってくるのを見てとっているのである。

 愛する方々。この思想をさらに活用するために、あなたがたにその偉大な価値を示してみよう。あなたは、自分への種々の恵みが地上からではなく天からやって来るのを見てとっている人を知っているだろうか? そのあわれみの、いかにいやまして甘やかなことか! 寄宿学校の児童にとって、この世のいかなるものにもまして甘美な味がするのは、自分の家から届いたものにほかならない。その学校の住み込み職員たちは、その子に常に良いものを作ってやっているかもしれない。だが、その子が何よりも尊ぶのは、家から送られてきたものである。キリスト者も、それと同じである。その人へのあらゆるあわれみが、いやまさって甘やかなのは、それらが故郷から来たあわれみだからである。私は地上における神のご愛顧を愛している。というのも、私が食べて、飲むすべてのものには、故郷の味がするからである。そして、おゝ! こう考えることは何と甘やかなことか。「このパンは、御父の手で練られたのだ。この水は、御父の手が優しい雨として滴らせたものなのだ」、と。私は、あらゆるものが御父の手からやって来るのを見てとれる。私が暮らしている地は、川で養われるエジプトの地のようではない。むしろ、それは「天の雨で潤っている」。私が受けるすべてのあわれみは、上から来る。愛する方々。あなたは、自分の受けるあらゆるあわれみに、あなたの御父の指紋を見たいとは思わないだろうか? あなたも聞いたことがあるであろうが、ある種の鱈には、ペテロの親指の跡がついているという! もちろんこれは作り話である。だが、私たちが摂理の海から得るあらゆる魚には、確かにイエスの指の跡がついているに違いない。幸いなことよ。あらゆるものを神から来たものとして受け取り、自分の御父にそれらすべてについて感謝している人は! すべてが天から来ていると知るとき、すべては甘やかなものとなる。

 また、こうした思想には、私たちをこの世の圧倒的な愛から引き離しておく大きな傾向もある。私たちは、自分へのすべてのあわれみが天から来ていると考えるならば、それらが土壌の自然な産物であると考える場合よりも、この世を愛したいとは思わないであろう。あの斥候たちはエシュコルまで来て、そこに生っていた大きな葡萄の房を持ち帰った[民13:23]。だが、人々がこう云ったとは記されていない。「これは立派な果物だ。では、ここにとどまろうではないか」。否。彼らは、この葡萄がカナンから発したものであることを見てとって、こう云ったのである。「先へ進もう。そして、それらを手に入れよう」、と。それと同じく、私たちが豊かなあわれみを得るとき、私たちは、それらがこの地上の天然の土壌から出たものだと思えば、こう感じるであろう。

   「ここにぞわれは とわに留(と)まらん」。

しかし、それらが異国の地から出たものだと知っているとしたら、私たちは切に行こうとしたがるであろう。

   「愛する神が その葡萄園(その)守り
    あらゆる房の 稔れる土地へ」。

キリスト者よ。ならば、喜び、喜ぶがいい! あなたへの種々のあわれみは天から来る。それらはいかに小さくとも、それでも御父の賜物なのである。その1つとして御父の知らぬまに、御許しなく来るものはない。それゆえ、主をほめたたえよ。あなたがカナンに来ていることについて。そこでは、あなたの地は「天の雨で潤っている」!

 私の愛する方々。ここで、しばし立ち止まるがいい。もしあなたが困難の中にあるとしたら、自分を慰めるがいい。「おゝ!」、とある人は云う。「私は自分が何をすればいいかわからない。どこへ向かえばいいかわからない」。あなたは、近くに座っているあなたの兄弟のようではない。彼には資産がある。彼には頼りになるエジプトの川がある。あなたには何もない。それにもかかわらず、それでも大空がある。もしあなたが、お百姓に、「あなたには、あなたの土地を潤す川が何もありませんね」、と告げるとしたら、その人は云うであろう。「そうさな。どうせ川などいらんよ。あそこに雲が浮かんでおるし、雲があれば十分さな」、と。そのように、キリスト者よ。たといあなたが地上では何も頼るものがないとしても、目を上に向けて云うがいい。「私が入って行って、所有しようとしている地は、私が出て来たエジプトの地のようではないのだ。あそこでは、野菜畑のように、自分で種を蒔き、自分の力で水をやらなければならなかった。しかし、私が、渡って行って、所有しようとしている地は、山と谷の地であり、天の雨で潤っているのだ」、と。

 2. しかし、ここで二番目の区別を考えてみよう。それは、両者の暮らしの難儀さにおける違いである。世俗的な人は、エジプトにおけるイスラエル人と全く同じように、自分の力で水をやらなければならない。その箇所を読んでみるがいい。「あなたが、はいって行って、所有しようとしている地は、あなたがたが出て来たエジプトの地のようではないからである。あそこでは、野菜畑のように、自分で種を蒔き、自分の足で水をやらなければならなかった」 <英欽定訳>。おそらくここで暗に示されているのは、国土が潅漑された東方諸国全域で行なわれていた農耕方法であろう。そこでは、一定量の水を水路に流すと、すでに畑に掘られていた小さな水溝から、その水を地面の個々の部分に行き渡らせていた。時々、そうした水溝の1つが壊れたかもしれない。すると畑で栽培する者は、壊れた箇所に足で土を詰めて、水が正しい水路へ流れるようにしたのであろう。いずれにせよ、これはエジプトの地が、途方もない労働によって潅漑され、不毛にならないようにされていたことを意味している。「しかし」、とモーセは云う。「あなたがたが行って所有しようとしている地は、自分の力で水をやらなければならないような土地ではない。水は自然とやって来るのだ。その地は、天の雨で潤っているのだ。あなたがたは、おのおの自分の葡萄の木の下や、無花果の木の下に座っていることができる[ミカ4:4]。神ご自身があなたのために潅漑してくださる。あなたは黙って座っているだけであろう。そして、『あなたがたは、落ちついていることで、自分のいのちを勝ち取ることができよう』*[ルカ21:19参照]」。さて、ここに敬虔な人と不敬虔な人の違いがある。――不敬虔な人は難儀な仕事をする。かりに、その人が野心を目的としているとする。その人は、労苦して、労苦して、労苦して、いのちをすりへらして、ついに自分の願う絶頂に達する。かりに、それが富だとする。いかにその人が自分のからだをやつれさせ、肉体に必要な睡眠も削り、からだが要求する栄養も与えず、蓄財に励むことか! そして、かりにそれが学問だとすると、いかにその人は自分の熱い願望の炎によって眼を焼き、あらゆる知識を理解しようとすることか。真夜中まで寝ずにいることで、いかに自分のからだがやつれても、衰えても、青白くなってもかまわず、ついには夜のともしびを自ら肉から出た油で灯し、自らの骨の髄をして霊の明かりとしさえすることか! 人々はこのようにして労苦し、辛苦し、苦闘する。しかし、キリスト者はそうではない。否。神は「その愛する者には、眠りを備えてくださる」[詩127:2 <英欽定訳>]。その人の「力は何もしないことにある」[イザ30:7 <英欽定訳>]。その人は、このパウロの命令を守ることがいかなることか知っている。「あなたがたが思い煩わないことを私は望んでいます」[Iコリ7:32]。私たちは物事を神が与えられるままに受け取り、こうした辛苦だの労苦だのを一切しない。私がしばしば素晴らしいものと思ってきたのは、古のキネアスがピュロスに与えた助言である。古い物語によると、[古代ギリシヤの]エペイロスの王ピュロス[318?-272 B.C.]が、その企図するイタリヤ遠征への軍備をしつつあったとき、哲学者キネアスが適当な折をとらえて彼にこう云ったという。「伝え聞くところ、ローマ人は非常な尚武の民で負け知らずだといいます。だが、もし神が彼らを打ち負かすことを私たちにお許しになったとしたら、その勝利を私たちはいかに役立てましょうか?」 「わかりきったことを尋ねるものよ」、とピュロスは云った。「ひとたびローマ人を打ち負かしたなら、いかなる町もわれらには抵抗すまい。そのときわれらはイタリヤの主人となるのだ」。

 キネアスは云い足した。――「では、イタリヤ征服の後で、私たちは何をしましょうか?」 ピュロスは相手の意図にまだ気づかないまま答えた。「次にはシチリアが両腕を差し伸べて、われらを受け入れるであろう」。「それは、まことにありえそうなことです」、とキネアスは云った。「ですが、シチリアの領有をもって戦争は終わりましょうか?」 「願わくは神がそれに成功させたまわんことを」、とピュロスは答えた。「それからは、こうした勝利を、さらに偉大なものへの先駆けとするのみよ。その期に及べば、リビアやカルタゴがたちまちわれらのものとなろう。そして、こうしたことが成し遂げられれば、われらのいかなる敵も、それ以上抵抗することはできまい」。「まことに仰せの通りです」、とキネアスは云った。「というのも、そうなれば私たちは易々とマケドニアを取り戻し、ギリシヤを決定的に征服できましょうから。さて、こうした諸国がすべて私たちのものとなりましたら、そのとき私たちはどうしましょうか?」 ピュロスは微笑みながら答えた。「どうするかとな、わが友よ。そのときは、われらはのんびり暮らし、毎日を楽しみ、愉快な四方山話でもして面白おかしく過ごすであろうよ」。「よろしゅうございますな」、とキネアスは云った。「では、なぜ私たちは、今そうしてはならないのですか? そうすれば、それほど労多くして不確かな事業の散々な苦労や危険を冒さなくともよいではありませんか」。愛する方々。それと同じことをキリスト者も云うのである。世俗的な人は云う。「私は行って、これをしよう。あれをしよう。何百万ポンドも貯め込もう。大金持ちになろう。そうすれば、私は左団扇でのんびり暮らせるだろう」。「否」、とキリスト者は云う。「私には、なぜそのようなことをしなくてはならないのかわからない。なぜ私はいま神を私の隠れ家としてはならないのだろうか? なぜ私はいま慰めと平安を楽しみ、幸せになってはならないのだろうか?」 キリスト者は自分の地に自力で水をやりたいとは思わない。むしろ穏やかに座っていると、その地は「天の雨で潤っている」。私が怠惰さを説いていると云ってはならない。決してそうではない。私が云っているのはただ、あなたが早く起きるのも、遅く休むのも、悩みの糧を食べるのも、むなしいのだ。「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい」[詩127:1-2]のだから、ということである。しかし、もし「主がその愛する者には、眠りを備えてくださる」のだとしたら、彼らは主のうちに安らうのである。彼らは辛苦を知らない。すなわち、もし彼らが完全な確信に達し、神への完全な信頼というカナンへと渡りきったならば、である。彼らは、幸福を求めて世をさまよいたいとは思わない。むしろこう云う。「神は私の常にそこにある助け、神にあって私の魂は満ち足りる」。彼らは神のうちに満足して安らう。彼らの地は天の雨で潤されているのである。

 私は、ひとりの若い弁護士の話を思い出す。職業上の名声を得ようと、彼は法律のあらゆる奥義と曲がりくねった変則を理解しようとして心血を注ぎ、法廷で雄弁に話せるような雄弁術を身につけようとした。十年間、彼は他の人々から引きこもって暮らした。家庭的な習慣によって勉強に嫌気がさしてはいけないと思ったからである。彼は毎晩毛布をかぶっては、蔵書の一冊を取り、それを頭の下に入れた。彼は美食を拒み、一日にパンを数切れしか口しなかった。消化不良により、精神の機能が損なわれないようにするためである。不信心者ではあっても、彼は神を信じており、一日に何度も頭を垂れては、自分の知的能力を失うくらいなら何を失ってもいいと祈った。「私を巨人になさせ給え!」――これが彼の云い回しであった。そして、彼のあわれな母がもっとからだを大事にしてほしいといくら懇願しても、彼は頑として譲らず、その禁欲と自己否定の生き方に固執した。ところがある日、蔵書の一冊を読んでいた彼は、この箇所が目に入った。「すべてが得られるとき、いかに僅かしか自分のものとならないことか! だがしかし、その僅かを得るために、いかに多くを失うことか!」 彼はがばと立ち上がり、狂人のようにわめいた。自分がこの十年もの間、辛苦し、身を衰え果てさせてきたことは無であったと思い至ったからである。彼は、自分の生き方のむなしさを見てとった。絶望にかられ、斧をつかむと、自分の弁護士の看板を叩き割って云った。「こんなことは、もうやめだ」。同じ書に目を向けた彼は、それが、倦み疲れた魂の安息としてキリスト教を推薦していることに気づいた。そして彼は、その安息をキリスト教のうちに見いだし、キリストについて深い理解に達し、ついには福音の説教者にまでなった。彼は、この聖句について痛切に説き教えることができるはずである。――「あなたが、はいって行って、所有しようとしている地は、あなたがたが出て来たエジプトの地のようではないからである。あそこでは、野菜畑のように、自分で種を蒔き、自分の力で水をやらなければならなかった。しかし、あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地は、山と谷の地であり、天の雨で潤っている。そこはあなたの神、主が求められる地で、年の初めから年の終わりまで、あなたの神、主が、絶えずその上に目を留めておられる地である」。

 3. ここから、今朝、私たちが注目したい三番目の、また最後の違いに目を向けよう。すなわち、不信者や、ヨルダンを渡って完全な確信に達していない人は、神の摂理がすべてに及んでいることを理解しないが、確信を得ているキリスト者はそれを理解している。あなたは、このことが本日の聖句の中に縮約されていることに気づくであろう。エジプトにおいて、地はほとんど全く平らであった。そして、平らでない土地で何かが育つには、もちろんその土地が、何らかの人工的な潅漑方法により、相当な苦労とともに水をその高地に押し上げ、潤さない限り不可能である。「しかし」、とモーセは云う。「あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地は、山と谷の地である」。エジプト人は、山の上で水を得ることができなかったが、あなたがたにはできる。その山々は、谷間の沃野と同様、天の雨で潤っているからである。さて、世俗の子らに目を向けてみるがいい。この人に慰めを与えてみるがいい。繁栄を与えてみるがいい。おゝ、この人は非常に幸せになれる。その人が望む通りのあらゆるものを与え、その人の行く道をすべて平らにし、全くの低地、平地としてみるがいい。その人はそれを肥やし、水をやることができよう。だが、その人に山のような困難を与えてみるがいい。友人を喪わせるか、繁栄を取り去るかしてみるがいい。――山をその道の真ん中に置いてみるがいい。その人は、それに水をやることができない。いくら注水器を漕いでも、その全力を傾けても、それはできない。しかし、キリスト者は「山と谷の地」に住んでいる。喜びも悲しみも等しくある地に住んでいる。しかし、その山々は、谷間と同じように潤されている。私たちは山頂に水をやるために登る必要はない。私たちの神は山々と同じくらい高いからである。いかに私たちの悩みが険しくとも、いかに私たちの困難が山なすほどのものとなることがあっても、私たちはそれらを肥やすために衰え果てた足を引きずって登る必要はない。というのも、それらはみな、ともに働いて私たちの益とさせられるからである[ロマ8:28]。行くがいい、エジプト人よ。お前は平らな国に住むがいい。そして、その贅沢を楽しむがいい。お前には、お前のパピルスがあり、その上に種々のあわれみを書きつけているが、それは虫の餌となる。私たちには、食べれば現世のことを忘れるという蓮など何もないが、パラダイスに咲く一輪の花がある。そして、私たちは私たちへのあわれみを、草っぱにではなく、岩に刻んでいる。おゝ! 甘やかなカナン、天の地よ。そこに私は住まい、あなたも住まっている。私の兄弟キリスト者たち。それは、「天の雨で潤っている」地である!

 II. 私たちはしばらくの間、《格別なあわれみ》について考察しなくてはならない。「そこは……年の初めから年の終わりまで、あなたの神、主が、絶えずその上に目を留めておられる地である」。さて私たちは今、寓意からは完全に離れて、この格別なあわれみ、神の民だけが受け継ぐあわれみに目を向けなくてはならない。

 「年の初めから年の終わりまで、あなたの神、主が、絶えずその上に目を留めておられる」。すなわち、すべてのキリスト者ひとりひとりの境遇に目を留めておられる。愛する方々。私たちは今、また一年の終わりを迎えようとしている。――また1つの時の区切りの境界に立とうとしている。荒野を横切る旅する一年をまた行進してきたことになる。さあ、来るがいい! この節を読むとき、あなたはこれにアーメンと云えるだろうか? 「年の初めから年の終わりまで、あなたの神、主が、絶えずその上に目を留めておられる」。あなたがたの中のある人々は云う。「私は今年、深い悩みがあった」。「私は友人を喪った」、とだれかが云う。「あゝ!」、と別の人が叫ぶ。「私は今年貧乏になってしまった」。「私は中傷を受けた」、と別の人が叫ぶ。「私ははなはだしい悩みと嘆きを感じてきた」、と別の人が云う。「私は迫害されてきた」、と別の人が云う。よろしい。だが、愛する方々。この年を全体として――白も黒も、悩みも喜びも、山も谷もひっくるめて――取り上げてみるがいい。そのとき、あなたは何と云うだろうか? あなたはこう云えるであろう。「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来ました。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう」*[詩23:6]。あなたは一年のうちの一日をつまみ上げて、それを悪い日だと云ってはならない。むしろ、一年のすべてを巡り来させて、それをそのあらゆる壮麗さな様相を回転させてみるがいい。十二宮のすべてをあなたの前に現出させてみるがいい。「私は巨蟹宮にずっと長くとどまっていた」、と云ってはならない。むしろ、それをすべてを通り抜け、天秤宮の中に入り、異なる物事を判断してみるがいい。そのとき、あなたは何と云うだろうか? 「あゝ! 主をほめたたえよ! この方のなさったことは、みなすばらしい。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ!」*[マコ7:37; 詩103:1] そして、あなたは、なぜすべてのことが良いものであったかを知っている。それは、一年中、主が絶えずあなたの上に目を留めておられたからである。おゝ! もし主の畏るべき御目が、夜であれ昼であれ、一瞬たりとも閉じられることがあったとしたら、私たちは今どこにいただろうか? 左様。私たちは全くいなくなっていたであろう。はかない夢のように無へと拭い去られていたであろう。神はその御民のひとりひとりを、世界中にその人しかいないかのように見張っておられる。そして神は、あなたのことを見張っておられた。それで、何か悩みがやって来ると、神は、「悩みよ、去れ!」、と云われた。「あなたがたのあう試練はみな人の知らないようなものではありません」*[Iコリ10:13]。また、あなたの喜びが、あなたを包み込んで、飽きが来るようなときには、神はこう云われた。「喜びよ、引き下がれ! わたしはお前が彼を甘やかしすぎることを望まない。彼はお前にだまされてしまう」。「年の初めから年の終わりまで」、主は、絶えずあなたに「目を留めておられる」。「そうでしょうか」、とある人は云う。「私の一年については、そうしたことは云えませんが」、と。ならば私は、あなたにはそうしたことを云えない。私はキリスト者に向かって語っていたのである。そして、もしあなたが、自分の一年について、「まことに、いつくしみと恵みとが私を追って来た」、と云えないとしたら、残念ながらあなたは神の子どもではないのではないかと思う。神の子どもであれば、すべてを振り返って見たとき、こう云うだろうと思うからである。「主なる神が約束されたすべての良いことは、一つもたがわず、みな実現した」*[ヨシ21:45]。

 さて、私の兄弟たち。私は一言あなたがたに、主が教会としての私たちの上に目を留めておられたことについて云うことができるではないだろうか? 私たちは、主のみわざを繰り返し述べることもせずに、この年を送るべきだろうか? 主は、きわめて豊かに私たちとともにおられ、私たちを栄えさせてくださったではないだろうか? 今年一年、私たちの集会には常に大勢の人が集ってきた。――今年一年、この目は聖日に私たちの言葉に耳を傾ける、おびただしい数の人々を見てきた。エクセター公会堂に滞在した時期のことは、まだ忘れていないであろう? あの数箇月の間に、主はご自分の選びの民の多くを引き寄せてくださり、その時まで救われていなかった大勢の人々が天来の恵みによって召され、群れに入れられた。神はいかにそこで私たちを守ってくださったことか! いかなる平安と繁栄を私たちに与えてくださったことか! いかに神は、私たちの境界を広げ、私たちの数を増やしては、私たちが少数でないようにし、私たちを多くしては、私たちが弱くないようにされたことか! 実際、私たちは、主のいつくしみに対して、十分感謝をささげなかったのではないかと思う。主はあの場所へ私たちを連れて行き、私たちの教会では役立たなかった、あれほど多くの人々を私たちに与えてくださったのである! 今年、いかに多くの場所であなたがたが神を礼拝してきたか思い出してみるがいい。この場所は建て増されて、より多くの人々が建物の中に入れるようになった。今やここでは、以前にまして多くの人々が福音の声に耳を傾けられるようになっている。そして神はこう云っておられるかのようである。「行け。前進せよ。さらに前進せよ」。主のいつくしみは、私たちの歩みとともに増し加わってきた。私はしばしば、人々がこの家を見限ってしまうのではないかと恐れ、建て増した後には、ここが満員になるほどの人は来ないのではないかと恐れた。だが、主はなおも、押し寄せるような会衆を送ってくださり、なおもその福音を宣べ伝える恵みを私たちに与えておられる。いかに私たちは感謝すべきことか! 確かに、「年の初めから年の終わりまで」、主は、絶えずこの教会の上に「目を留めて」おられた。私たちには平安があった。腐った平安ではなく、神の平安であったと思う。私たちの落ちつきを乱すようなことは何も起こらなかった。この教会は、神の恵みにより、恵みの諸教理に忠実であり続けてきた。あゝ! 私たちの教会員たちが罪に陥らないよう守られてきたのは、何という祝福であろう! 私たちが無事に新しい年に至らされるとは何と栄光に富んだことであろう! ある古の著述家がこう云っている。「キリスト者がキリスト者であり続ける毎時毎時は、奇蹟の時間である」、と。それは正しい。そして、教会が全く教会として守られる毎年毎年は、奇蹟の年である。

 今年は奇蹟の年であった。それを広い、広い世界に告げるがいい。至る所で告げ知らせるがいい。「年の初めから年の終わりまで」、主は私たちの上に目を留めて」おられた。今年は、二百十人の人々が私たちの教会の交わりに加入した。それだけで、教会が1つ形成できそうな人数である。ロンドン中の教会の半分は、それほど多くの教会員を有してはいない。だがしかし、主は、そのような大人数を私たちの真ん中にもたらしてくださった。そして、今なお人々は来つつある。なおも来つつある。私が神に回心した人々と面接する機会があるときは常に、あまりにも大勢の人々がやって来るため、多くの人々をそのまま帰さなくてはならない。それでも彼らはやって来る。なおもやって来る。そして、私が確信するところ、この会衆の中には、今年中に主イエス・キリストを身に着ようと進み出るはずの人々が、なおも多くいるであろう。今年は、いかにたびたび、この神聖な浸礼漕が開かれたことであろう! 私たちは、いかに甘やかに聖餐台の回りに集まったことであろう! いかに尊い時を月曜夜の祈祷会で有してきたことであろう! そして、交わりのしるしとして右手を差し出すことによって[ガラ2:9]、兄弟また兄弟を、姉妹また姉妹に挨拶するとき、それはいかに栄光に富むことであったろう! 私たちの行く道すべてにおいて、私たちは主を認めてきたし、主は私たちの通り道を指し示してくださったと信じたい。主をほめ歌え。主は奇しいみわざをなされた。御名をほめたたえよ。神は奇蹟を行なわれた。その恵みを賛美せよ。主は御民を高く引き上げてくださった。この方に誉れが、とこしえに、とこしえにあらんことを。そして、よく聞くがいい。兄弟たち。この教会は、エジプトを出るとはいかなることを大いに鼓吹してきた。私たちは甘言をもって労苦してはこなかった。私たちには、ふさわしくない人を教会に引き込みたいとの何の願望もなかったと信じたい。私は、福音を宣べ伝えるに際して、一切自分の力で労苦したりしてこなかった。――決して律法的な説教をせず――よくある、人の心を興奮させるような説教をせず――自分の足で辛苦するようなことを何もせず、むしろ、天の雨のほか何にも関わらなかった。私たちは肉的な情動を一切かき立てようとは労苦してこなかったし、あなたを宗教的熱情に駆り立てようと説教したこともない。剛毅な古のカルヴァン主義は、私たちにそういうことをさせるものではない。私たちは、アルミニウス主義者たちなら語れるような説教を語ることができない。この地は、天の雨で潤っている。私たちは、時として教会の回りにたちこめる、あの致命的に有害な霧に包まれることが全くなかった。よく云われることだが、どこであれ、信仰復興運動家が通り過ぎた後にはペンペン草も生えないという。彼らの前にはエデンがあるが、彼らの後にあるのは砂漠にほかならない。彼らはどこに行こうと、燃え木のように地を焦土と化す。何百人も神に回心したかのように見えるが、彼らは以前よりも十倍も暗黒な罪へと回心しており、その最後は最初よりもさらに悪いものとなる*1。私たちは、生まれながらの人に訴えることによって、ちょっとした熱狂的な激情を引き起こしたいとは思わない。天の雨という水を飲むことこそ善を施すものである。私は、それがここではなされてきたと信じたい。そして、「年の初めから年の終わりまで」、主はあなたがたの上に「目を留めて」おられたと信じたい。

 そのように、愛する方々。私はこう云える。教役者として、今年、主は私の上に目を留めておられた、と。今年、何度となくみことばを宣べ伝えることができたのは私の特権であった。私は四百回以上も講壇に立って主の真理を証言してきたし、主は私の上に目を留めておられたと思う。主の御名はほむべきかな! 東西南北いずこに行こうと、私は一度として会衆に欠けることはなかった。また、一度説教したことがある場所に出かけて行って、そこで魂が回心していたと聞かされないことは一度もなかった。私は、いずこの村、あるいは町であれ、そこを二度目に訪れたときに、そこで真理の言葉を聞いたがゆえに神をほめたたえる人々に出会わなかったことを思い出せない。前回ブラッドフォードに行ったとき、私は講壇で、同地における私の説教を通して魂が回心したと聞いたことが全くないと述べた。すると、そこの善良な信徒席案内人が、ドーソン兄弟のもとにやって来て、「スポルジョン氏の説教で、何某さんが教会に加わったと氏に教えてあげてはいかがでしょうか」、と云ったのである。そこで、すぐさま、この親愛なる神の人は、私にその喜ばしい知らせを告げてくれた。私たちは今年、多くの反対に出会ってきた。ありがたいことに、教職にある私たちの兄弟たちからは、大して助けが得られなかった。私たちは、彼らすべてに対してこう云うことができている。「糸一本でも、くつひも一本でも、あなたから私は何一つ取らない。それは、あなたが、『彼を富ませたのは私だ。』と言わないためだ」*[創14:23]。しかし、かつて見られた偏狭さのいかに多くが鎮静したことか! 一時はあれほど普通だった軽蔑の多くが、いかに今は消え去ったことか! むしろ今の私が恐れているのは、彼らのしかめ面よりは彼らの微笑みである。――そのどちらであろうと、大したことはないような気はするが。Cedo nulli こそ、当初の私の座右の銘であったし、私はそれをもう一度取り上げる。われ何者にも屈さじ。むしろ、神の恵みによって私は神の真理を宣べ伝えるし、なおも、神の御助けあらば、私は進み続ける。そして、《三一の神》に永遠の誉れがあらんことを。アーメン。

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地上のカナン[了]

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*1 この時期以後の信仰復興運動家たちは、通常は真の福音に仕える説教者であって、私たちが心からの共感を覚える人々である。私たちの指摘は、特定の米国のアルミニウス主義的熱狂者たちについてであり、彼らは多くの害をもたらしてきた。[本文に戻る]

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