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自由意志――奴隷

NO. 52

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1855年12月2日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於サザク区、ニューパーク街会堂


「それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません」。――ヨハ5:40


 これは、アルミニウス主義者の胸壁の上に据えられた、最大の大砲の1つであって、しばしば轟音とともに発射される。その標的となる哀れなキリスト者をカルヴァン主義者という。私が今朝行ないたいのは、その火門を塞ぐこと、あるいは、むしろ、それをぐるりと回して敵の方に向けることである。というのも、それは決して彼らのものではなかったからである。これは、決して彼らの鋳造所で鋳られたものではなく、むしろ、彼らの主張とはまさに正反対の教理を教えるためのものであった。普通、この聖句が選ばれると、次のような区分がなされる。第一に、人間には意志がある。第二に、人間は完全に自由である。第三に、人間は自分でキリストのもとに来る意欲を起こさなくてはならず、さもなければ救われない。さて私たちは、決してそのような区分は行わない。むしろ、この聖句をずっと冷静に眺めるよう努めるであろう。そして、たまたまここに、「何々しようとする」とか「何々しようとしない」といった言葉があるからといって、それが自由意志の教理を教えている、などという結論に飛びついたりしないであろう。すでにいかなる議論の余地もないほど証明されているように、自由意志は愚にもつかないたわごとである。意志に自由がありえないことは、電気に秤量性がありえないのと全く変わらない。それらは全くの別物なのである。自由な行為者がいることは信じられても、自由な意志などというのは全く馬鹿げている。周知のように、意志は理性によって方向づけられ、種々の動機によって動かされ、魂の他の諸部分によって導かれる、二義的なものたらざるをえない。哲学も、キリスト教信仰も、双方ともに、自由意志などという思想そのものを一蹴している。そして私は、かの強烈な主張をしたマルチン・ルターとさえ同意見である。ルターは云う。「もしも誰かが、救いの一部を人間の自由意志から出たものとするとしたら、たとえそれが、ごく小さな一部であったとしても、その人は恵みについて何も知らず、イエス・キリストを正しく知ってはいない」。これは辛辣な言葉に聞こえるかもしれない。だが、人間は自らの自由意志によって神に立ち返るのだ、と魂の底から信じているような人は、神から教えられているはずがない。というのも、神が私たちをお取り扱いになるとき最初に教えてくださる原則の1つは、私たちには何の意志も力もなく、その両方とも神が与えてくださる、ということだからである。神こそ人間の救いにおいて「アルファであり、オメガ」なのである。

 今朝私たちは、4つの点について学びたい。――第一に、あらゆる人は死んでいる。なぜなら、この聖句はこう云うからである。「あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません」。第二にイエス・キリストのうちにはいのちがある。――「あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません」。第三に、イエス・キリストのうちには、それを求めてやって来るあらゆる人のためのいのちがある。――「あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません」。ここには、来さえすれば、誰でもいのちを得られる、ということが暗示されている。そして第四に――これこそこの聖句の要諦であるが――、いかなる人も生まれながらには決してキリストのもとにやって来ることはない。この聖句はこう云うからである。「あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません」。こういうわけで、人間は自分の意志でそうすることがある、などと主張しているどころか、これは、はっきりきっぱりそれを否定しているのである。「あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに《来ようとはしません》」。愛する方々。私はほとんど叫び出したいような気がする。なぜ自由意志を云い立てる人々は、そろいもそろって霊感にたてつくほど無知なのだろうか? 恵みの教理を否定する人々は、みな何の分別もないのだろうか? 彼らは、この聖句からこじつけて自由意志を証明しようとするほど神から離れているのだろうか? ここに、「あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに《来ようとはしません》」、と語られているというのに。

 I. さて、第一に私たちの聖句から読みとれるのは、《人間は生まれながらに死んでいる》、ということである。いかなる存在であれ、自らのうちにいのちがある限り、いのちを得ようとする必要などない。この聖句は非常に力強く語っている。「あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません」。あからさまに、そうした言葉は使っていないにせよ、これは実質的にこう断言しているのである。人間は、いまの自分が有している以上のいのちを必要としている、と。話をお聞きの方々。私たちはみな、新しく生まれさせられ、生ける望みを持つようになるまで、死んでいるのである。第一に、生まれながらの私たちは、ひとり残らず、律法的に死んでいる。――「それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」、と神はアダムに仰せられた[創2:17]。そしてアダムは、その瞬間に、物理的には死ななかったが、律法的に死んだ。すなわち、彼は死すべき者であると記帳されたのである。オールドベイリー[中央刑事裁判所]では、裁判官が天鵞絨の黒帽子をかぶって死刑宣告を下すや否や、被告は法律上は死んだ者とみなされる。ことによると、彼が絞首台の上に引き出されて、法の処罰を受けるまでには一箇月ほど間があくかもしれないが、にもかかわらず、法は彼を死者とみなしている。彼は、いかなる取引も行なうことができない。財産を相続することも、遺贈することもできない。彼は無である。――死者である。国は、彼を全く国内で生きている者とは考えない。選挙がある。――だが死者と考えられている彼には、誰も投票するよう頼みはしない。彼は死刑囚監房に閉じこめられている。死んでいるのである。あゝ! そして、あなたがた、キリストにあるいのちを全く持たない不敬虔な罪人たち。あなたがたは、死刑執行延期令状によって、今朝は生きている。だが、自分が法的には死んでいることを知っているだろうか? 神があなたをそのような者とみなしておられること、あなたの父祖アダムがあの木の実に触れた日に、また、あなた自身が実際に罪を犯したときに、《永遠の裁判官》なる神が、黒帽子をかぶり、あなたに死刑宣告を下されたことを知っているだろうか? あなたは、自分自身の評判のよさや、善良さや、道徳性について大いに述べ立てている。――だが、どこにそれがあるのか? 聖書は、あなたがたが、「すでにさばかれている」、と云っているのである[ヨハ3:17]。あなたがたは、最後の審判の日になってから有罪と宣告されるのではない。――それは、その宣告が執行される日である。――あなたがたは、「すでにさばかれている」。あなたが罪を犯した瞬間に、あなたがたの名前はみな、裁判所の前科者名簿に記載されたのである。そのとき、あらゆる人が神によって死刑宣告を受けたのである。人がキリストというお方のうちに、自分の罪のための身代わりを見いださない限り、その事実は変わらない。もしもオールドベイリーの中に入って、死刑を宣告された犯罪者が独房の中で笑ったりはしゃいだりしているのを見たとしたら、あなたは何と思うだろうか? こう云うであろう。「この男は馬鹿だ。死刑を宣告され、いつ刑が執行されるかわからないというのに、このはしゃぎぶりはどうだ」、と。あゝ! では、死刑宣告が記されているというのに、はしゃぎまわり、陽気に暮らしている世間の人々の何と愚かなことか! あなたは神の宣告が無効だと思っているのか? 鉄の筆によって永遠に岩に書き留められたあなたの罪に、何の恐怖も伴っていないと思うのか? 神は、あなたがすでにさばかれていると云われる。それを感じとろうとしさえするなら、あなたの甘美な喜びの杯には、苦味が混ぜ合わされるであろう。自分がすでにさばかれていると思い起こすとき、あなたの踊りはやみ、あなたの笑いは途絶えて嘆息となるであろう。生まれながらの私たちが神の御前で何のいのちも持っていないことを、魂に銘記しさえするなら、私たちはみな泣くべきである。私たちは、現実に、はっきりと断罪されている。死が罰として記されている。今の私たちは、神の御前では、現実に地獄に投げ込まれているのと同じくらい死んだものとみなされている。今ここで、罪によってさばかれている。刑はまだ受けていないにせよ、死罪に当たると記されており、法的には死んでいる。そして――後で語るが――キリストというお方のうちに法的ないのちを見いださない限り、何のいのちも見いだすことができない。

 しかし私たちは、法的に死んでいるだけでなく、霊的に死んでもいる。というのも、その死刑宣告は記録の上で下されたばかりでなく、心の中にも下ったからである。それは良心の中に入り込んだ。魂に、識別力に、想像力に、すべてに働きを及ぼした。「それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」、ということは、死刑宣告が記されることによって成就しただけでなく、アダムの内側で生じたことによっても成就した。この肉体が死ぬときには、ある特定の瞬間に血液が止まり、脈が停止し、息がもはや肺から出て来なくなるが、それと全く同じように、アダムがあの実を食べた日に、彼の魂は死んだのである。彼の想像力は、天界の物事へと翔け登り、天国を見てとる、その強大な力を失い、彼の意志は、良いことを常に選びとるその力を失い、彼の識別力は、善悪を迷いなく過たずに判断する、すべての能力を失った。良心の中になけなしのものが残ったとしても関係ない。彼の記憶は汚染され、えてして悪い物事をいつまでも覚えておき、正しい物事を段々と忘れさせるものとなってしまった。彼のあらゆる力は、その道徳的な活力という点では、死に絶えた。善良さは、彼のあらゆる力の生命源だった。――それが離れ去ったのである。美徳、聖さ、高潔さ、こうしたものが人間のいのちだった。だが、これらが離れ去ったとき、人間は死んでしまった。そして今、あるゆる人は、霊的な事がらに関する限り、霊的には、「自分の罪過と罪との中に死んで」いるのである[エペ2:1]。魂もまた、肉的な人のうちにあっては、墓に葬られた肉体と同然に死んでいる。現実に、徹底的に――ものの譬えとしてではなく――死んでいる。パウロは比喩によってではなく、「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた」、と確言しているからである。しかし、話をお聞きの方々。私はさらに、あなたがたの心についても、この件に関して伝えられたらと思う。私は死がすでに記帳されたと述べた。それだけでも十分に悲惨な状態である。だが、私が今から云いたいのは、その死が、あなたの心の中で現実に起こってしまった、ということなのである。あなたがたは、かつてそうであったような者ではない。アダムにあってそうであったような者、創造されたばかりときのような者ではない。人間は、きよく、聖なる者として造られた。だがあなたがたは、一部の人々が豪語するような完璧な被造物ではない。あなたがたは完全に堕落した者、道をはずれた者、腐敗し、汚れ果てた者なのである。おゝ! 人間の道徳的尊厳だの、救いにおける人間性の大いなる向上だのについて吹聴する、海精の歌声に耳を傾けてはならない。あなたがたは完璧ではない。あなたの心には、かの大いなる言葉、「破滅」が刻み込まれている。また、あなたの霊には、死が刻印されている。おゝ、定命の人間よ。自分の道徳堅固さによって神の御前に立てるだろうなどと思ってはならない。あなたは、律法主義という防腐処理をされた死体でしかないからである。それは、美々しい衣装で飾られた死骸ではあっても、神の御前では、やはり腐っている。また、おゝ、自然宗教の持ち主よ! あなた自身の力や精力によって、自分を神に受け入れられる者にできると考えてはならない。なぜなら、人よ! あなたは死んでいるのである! そして、死人をどれほど麗々しく飾り立てても、それは真面目くさった冗談であろう。そこにクレオパトラ女王が横たわっている。――その頭に王冠を載せ、王服を装わせ、堂々と着座させてみよ。だが、その脇を通り過ぎる人は、何と背筋も凍るようなおぞましさを覚えることであろう。彼女は死んでもなお美しい。――だが、死骸のわきに立つのは、たとえ絶世の美貌のために名にし負う女王であっても、何とぞっとすることであろう! そのようにあなたは、見た目は美しく、素晴らしく、凛々しく、立派で、愛らしいかもしれない。頭には正直さの王冠を載き、廉直さの衣で身を覆いつくしているかもしれない。だが、神があなたを生かしてくださらない限り、おゝ、人よ! 御霊があなたの魂を取り扱ってくださらない限り、冷えきった死体があなたにとって厭わしいのと同じように、神の御前であなたは厭わしいものなのである。あなたは、死体をあなたの卓子に座らせたまま暮らそうとはしないであろう。神もあなたを御目に入れることを愛しはしない。神は日々あなたに対して怒りを発しておられる。あなたが罪のうちにあるからである。――あなたは死のうちにある。おゝ! これを信ずるがいい。それを魂に留めるがいい。しかと自分のものとするがいい。あなたが霊的にも法的にも死んでいることは、この上もなく真実だからである。

 第三の種類の死は、他の2つの死の行き着く果てである。すなわち、永遠の死にほかならない。それは、法的宣告の執行である。霊的死の極致である。永遠の死は魂の死である。それは肉体が墓に横たえられ、魂が肉体を離れた後で生ずる。法的な死がすさまじいものだとしたら、それは、それが招く結果のゆえである。また霊的な死がぞっとするようなものだとしたら、それは、それに続いて起こることのゆえである。ここまで語ってきた2つの死は根であり、やがて来たるべき死はそこに咲く花である。おゝ! 永遠の死がいかなるものであるか、今朝、少しでもあなたの前で描き出せる言葉があったならどんなによいことか! そのとき魂は、すでにその造り主の前に出て、かの書物が開かれ、宣告が発されてしまっている。「離れ去れ。のろわれた者ども」、との声が宇宙を揺るがし、天空そのものすら、その創造者の渋面によって蒼白になってしまっている。魂はすでに深淵の中へと離れ去り、他の幾多の魂たちとともに、永遠の死の中で住むようになり果てている。おゝ! 今やその立場は、何と身の毛もよだつものであることか! その寝床は炎の寝床である。それが目にする景色は、その霊を縮み上がらせる破壊的なものである。それが耳にする音は、金切り声、呻き声、恨み声、唸り声である。それが体に感ずるのは、耐えがたい苦痛だけである! それが有しているのは、言語を絶する苦悩と、情け容赦のない悲惨である。その魂は上を見上げる。希望は消えている。――失せている。怯えと恐れのあまり、うつむいて下を見る。自責の念にとらわれる。右側を見てみる。――すると運命が不動の壁となって迫り、責め苦の中から決して出られないようにしている。左側を見てみる。――すると紅蓮の炎が累壁をなし、いかなる攻城梯子をかけようと、夢にも脱出できる望みなどない。自らの内側を眺め、何か慰めはないか探してみる。だが、魂を囓るうじ虫がすでに食い入っている。自らの周囲を眺めてみる。――助けとなる何の友もなく、何の慰めもなく、責め悩ますものだけがごまんとある。解放される望みは全くない。それは、すでに運命の永遠の鍵が、その恐るべき鍵穴をがちゃりと回す音を聞いてしまった。神がその鍵を手にとり、二度と見つからない永遠の深淵の中に、渾身の力を込めて投げ込むのを見てしまった。そこに希望はない。脱出の道はない。解放される見込みはない。死を喘ぎ求めるが、死はそこに出てくるほど甘い敵ではない。無の存在に呑み込まれたいと願うが、この永遠の死は、ただの消滅よりもたちが悪い。労務者が安息日を喘ぎ求めるように自らの絶滅を喘ぎ求め、古代帆船の櫓漕ぎ奴隷が自由を願ったのと全く同じように無に呑み込まれたいと願うが、それはやって来ない。――それは永遠に死んでいる。永遠が、そのおびただしい数の永遠の周期を循環し終えても、まだ死んでいる。永劫には何の終わりもない。永遠にとって代わるのは永遠でしかない。それでも魂は、自らの頭上に、「永遠に断罪されし者」と刻印されているのが見える。永久に続く咆哮が聞こえる。消えることのない炎が見える。情け容赦ない苦痛を感じる。そこに聞こえる宣告は、鳴り響いては静寂に戻る地上の雷鳴とは違う。――いつまでも、いつまでも、いつまでも、その永遠の反響を鳴動させ続ける。――そのすさまじい大音響の、身の毛もよだつような雷鳴によって、何万年もの歳月を震撼させ続ける。――「離れ去れ! 離れ去れ! 離れ去れ! のろわれた者ども!」 これが永遠の死である。

 II. 第二に、《キリスト・イエスのうちにはいのちがある。》というのも、主はこう云っているからである。「あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません」。父なる神のうちには、罪人のためのいかなるいのちもない。御霊なる神のうちには、イエスを抜きにすると、罪人のためのいかなるいのちもない。罪人のためのいのちは、キリストのうちにある。もしもあなたが、御子を抜きにして御父にすがるなら、確かに御父はその選民を愛し、彼らが生きることを聖定しておられるが、それでもいのちはその御子のうちにしかない。もしあなたが、イエス・キリストを抜きにして御霊なる神にすがるなら、確かに御霊こそ私たちに霊的ないのちを与えるお方ではあるが、それでもそれは、キリストのうちにあるいのち、御子のうちにあるいのちである。私たちは、のっけから父なる神に、あるいは聖霊なる神に、霊的いのちを与えてくださいと願い出ることはあえてしないし、できもしない。神が私たちをエジプトから連れ出されるとき、私たちがまず第一に行なうよう導かれるのは、過越の食事をとることである。――それが真っ先に来べきことである。私たちがいのちを得るための第一の手段は、御子なる神の肉と血によって養われることによってである。主のうちに生き、主により頼み、主の恵みと力を信ずることによってである。そこで私たちが第二に考えたいこと、それは、――キリストのうちにはいのちがある、ということであった。ここから私たちは、死には3つの種類の死があるように、キリストのうちにあるいのちには3つの種類のいのちがあることを示したいと思う。

 第一に、キリストのうちには法的ないのちがある。あらゆる人が生まれながらにアダムにおいて、アダムの罪の瞬間に、とりわけ自分自身が最初に罪を犯した瞬間に、死刑宣告を下されたのと全く同じく、私は、もし信仰者ならば、またあなたは、もしキリストにより頼んでいるならば、イエス・キリストが行なってくださったことによって、法的な無罪放免宣告が云い渡されているのである。おゝ、死刑宣告された罪人よ! あなたは今朝、ニューゲート監獄にいる囚人のように死刑を宣告されたまま座っているかもしれない。だが、この日が過ぎ去る前に、天上の御使いたちと同じくらい咎なく潔白な者となることができるのである。キリストのうちには法的ないのちというものがあるのであり、神はほむべきかな! 私たちの中にはそれを受けている者があるのである。私たちは自分の罪が赦されたことを知っている。キリストがそのための罰を受けられたからである。私たちは、自分が決して自分では罰を受けることがありえないことを知っている。キリストが私たちの代わりに苦しまれたからである。過越の羊は私たちのためにほふられている。かもいと門柱には血が塗りつけられており、滅びの御使いは私たちに指一本ふれることができない。私たちにはいかなる地獄もない。それがすさまじい炎を吹き上げて燃え盛っていようと関係ない。すでにトフェテが備えられ、そこに火と煙がうずたかく積まれていようと[イザ30:33]、私たちは決してそこへ至ることがない。――キリストが私たちに代わって私たちのために死なれたのである。おぞましい責め苦の拷問があるとしたら、どうなるだろうか? 身の毛もよだつ恐ろしい轟音を響かせる宣告があるとしたら、どうなるだろうか? それでも、いかなる拷問も、地下牢も、轟きも、私たちには起こらない! キリスト・イエスにあって私たちは、今や解放されているのである。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある私たちが罪に定められることは決してありません。肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちには」*[ロマ8:1、4]。

 罪人よ! あなたは今朝、法的に死刑宣告を受けているだろうか? あなたはそれを感じているだろうか? ならば、あなたに告げたい。キリストを信ずる信仰によって、あなたは、自分が法的に無罪放免されたと知りうるのである。愛する方々。私たちが自分の罪ゆえにさばかれていることは、空想でも何でもなく、現実である。それと同じく、私たちが無罪放免されることも、空想でも何でもなく、現実なのである。今まさに絞首刑になろうとしている人が、完全な特赦を受けたとしたら、それを身にしみて現実に感ずるであろう。彼は云うであろう。「私は完全に赦された。今や誰も私に指一本ふれることはできないのだ」、と。それこそ、まさに私の感じていることにほかならない。

   「罪より放たれ 安けく歩まん
    主の血ぞ われの自由の証し
    御足のもとに われくつろぎて
    かつての咎びと 永久に仕えん」

兄弟たち。私たちは、キリストのうちにある法的ないのちを得ているのであって、その法的ないのちを決して失うことはない。かの宣告は、かつて私たちに下された。――今それは、私たちのもとから取り去られている。こう書かれている。《今は、罪に定められることは決してありません》。そして、そのは、いま私を放免しているのと全く同じく、五十年後にも私を放免しているであろう。私たちの生涯のいついかなる時であろうと、こう書かれているであろう。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」。

 また第二に、キリスト・イエスのうちには霊的ないのちがある。人が霊的に死んでいるために、神は、人のための霊的ないのちも持っておられる。イエスが満たせない必要は何もなく、キリストに埋められない心の空虚さは何もないからである。主は、いかなる廃墟も住民で一杯にし、いかなる砂漠も薔薇のように花咲かせることができる。おゝ、あなたがた死んだ罪人たち! 霊的に死んだ者たち。キリスト・イエスのうちにはいのちがある。というのも、私たちは死者が生き返る姿を見たからである。――しかり! この目で見たからである。魂が全く腐れ果てていた人間が、神の力によって義を求めるようになった。考え方が肉的で、情欲が強大で、情動につき動かされていた人間が、突然、天からの抗しがたい力によって、自らをキリストにささげ、イエスの子どもになった。私たちは、キリスト・イエスのうちに、霊的な秩序のいのちがあるのを知っている。しかり、さらに私たち自身、自分でも、霊的いのちがあるのを感じている。私たちは、かつての自分が祈りの家で、自分の座っていた座席も同然に死んで腰かけていたときのことを思い出せる。福音の音に、長い長い間、耳を傾けてきても、何の効果も及ぼされなかったのに、突如として自分の耳がどこかの強大な御使いの指によって押し広げられたかのように心に1つの音が入ってきた。イエスがこう云っているかのように思えた。「聞く耳のある者は聞きなさい」。抗しがたい手が私たちの心をわしづかみにし、1つの祈りをしぼり出させた。そのような祈りを、私たちは一度も祈ったことがなかった。私たちは叫んだ。「おゝ、神さま! こんな罪人の私をあわれんでください」。私たちの何人かは、何箇月もの間、自分の魂の中で、1つの手が自分を万力で締め上げているかのように圧迫し、魂が苦悶の血の汗を流すのを感じていた。その苦痛は来たるべきいのちの兆しだった。人々は、溺れている最中よりは、救助されつつあるときの方が激しい苦痛を感ずるものである。おゝ! 私たちは、自分の魂がキリストのもとへ行くときに感じた苦痛を、呻きを、生々しい葛藤を覚えている。あゝ! 自分の霊的いのちを与えられたときのことを覚えている。墓の中で息を吹き返した人が、それを思い出せるくらい思い出せる。ラザロは自分が復活したときのことを、その状況のすべては覚えていなくとも、覚えていたであろう。そのように私たちも、大方は忘れてしまっていても、自分をキリストにささげたときのことは覚えている。私たちは、あらゆる罪人に云うことができる。あなたがいかに死んでいても、キリスト・イエスのうちにはいのちがある、と。あなたが墓の中で腐って腐敗していようが関係ない。ラザロをよみがえらせたお方は、私たちをもよみがえらせてくださった。そしてあなたにも、「ラザロよ! 出て来なさい」、と仰せになることができる。

 第三のこととして、キリスト・イエスのうちには永遠のいのちがある。そして、おゝ! もし永遠の死がすさまじいものだとするなら、永遠のいのちは素晴らしいものである。というのも、主はこう云われたからである。「わたしがいる所に、わたしの民もいるべきです」*。「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。わたしの栄光を、彼らが見るようになるためです」。「わたしは、わたしの羊に永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがありません」*、と[ヨハ12:26; 17:24; 10:28]。さて、その聖句から説教しようとするアルミニウス主義者はみな、ゴム製の唇を二枚買わなくてはならない。というのも私の確信するところ、その人は、口を驚くほどひん曲げる必要があるだろうからである。その人は、この聖句のまわりを、この上もなく謎めいたしかたで曲がりくねらなくては、すべての真実を語ることは決してできないであろう。永遠のいのち――いつか失いかねないいのちではない、永遠のいのち。もし私がアダムにあっていのちを失ったとしたら、私はそれをキリストにあって得たのである。自分自身を永遠に失ったとしたなら、イエス・キリストにあって自分自身を永遠に見いだしたのである。永遠のいのち! おゝ、何とほむべきことか! 自分が永遠のいのちを持っていると考えると、私たちの目は喜びで輝き、私たちの魂は陶酔感に燃えるであろう。星々よ、消え去るがいい! 神がその指でお前を押しつぶすがいい。――だが、私の魂は至福と喜びのうちに生き続けるであろう。おゝ太陽よ、その目をふさぐがいい!――だが、私の目は、お前の目によって緑の大地が笑わなくなった後も、「麗しい王を見」るであろう[イザ33:17]。そして、月よ、血に変わるがいい!――だが、私の血は決して無には変わらない。この霊は、お前が存在をやめた後も存在し続けるであろう。そして、お前、大いなる世界よ! あぶくが、それを浮かべた波濤の下に一瞬にして沈み込むように、ことごとく沈み込んでみよ。――だが、私には永遠のいのちがある。おゝ、時よ! お前は巨大な山々が死んで墓の中に没するのを見るかもしれない。熟れすぎたいちじくが木から落ちるように星々が落ちるのを見るかもしれない。だが、お前は決して、決して私の霊が死ぬのを見ることはない。

 III. ここから第三の点に移る。すなわち、《永遠のいのちは、それを求めてやって来るすべての人に与えられる。》

 永遠のいのち、法的ないのち、霊的ないのちを得ようとキリストのもとに来た者のうち、ひとりとして、ある意味、それをあらかじめ受け取っていなかった者はなく、その人にとって、自分がそれを受け取っていたことは、やって来た後すぐに明らかになる。1つか2つ聖句を取り上げてみよう。――「主はご自分のもとに来る人々を、完全に救うことがおできになります」*[ヘブ7:25]。キリストのもとに来る、あらゆる人は、見いだすであろう。キリストは自分を完全に救うことができる、と。――少しだけ救うのではなく、少々の罪から解放するのではなく、少々の試練から守るのではなく、少々連れて行って、その後でふり落とすのではなく――自分の罪の極限まで、自分の試練の極限まで、自分の悲しみの深さの極限まで、自分の存在する極限まで、救うことがおできになる、と。キリストはご自分のもとにやって来るあらゆる人に云われる。「来るがいい。哀れな罪人よ。あなたはわたしに救う力があるかどうか問う必要はない。わたしは、お前がどの程度まで罪に陥っているか問いはしない。わたしはお前を完全に救うことができる」。そして、神の「完全」を越えられる者は地上に誰ひとりいない。

 さて、もう1つの聖句は、「わたしのところに来る者を(こうした約束が、ほとんど常に、来る者たちへのものであることに注意されたい)、わたしは決して捨てません」、である[ヨハ6:37]。来る者はみな、キリストの家の扉が――またキリストの心の扉が――開かれていることに気づくであろう。来る者はみな――みな、というのは、最大限に広い意味でである――キリストが自分のためのあわれみを有しておられることに気づくであろう。この世で最も馬鹿げているのは、聖書に記されている福音よりも幅広い福音を持ちたいと願うことである。私は、信ずる者は誰でも救われる、――来る者は誰でもあわれみを見いだす、と宣べ伝えている。だが人々は私に尋ねる。「しかし、かりに選ばれていない人が来るとしたら、その人は救われるのか?」 たわけたことを云うものだ。私はあなたに答えを返すつもりはない。ある人が選ばれていないとしたら、その人は決して来ないであろう。その人が来るとき、それはその人が選ばれていたという確かな証拠である。ある人は云う。「かりに、キリストのもとに来た誰かが、御霊によって召されていない者だったらどうするのか」。待ってほしい。兄弟よ。そんな考えをいだく権利は、あなたには全くない。というのも、そのようなことは起こりえないからである。そのようなことを云われれば頭がこんがらがるだけである。あなたは、まだそうしたくはないであろう。私は云う。誰でもキリストのもとに来る人は救われる、と。私はこのことを、カルヴァン主義者だとしても、超カルヴァン主義者だとしても、あなたと同じくらいはっきりと云うことができる。私は、あなたが持っているよりも狭い福音は持っていない。ただ、私の福音は堅固な土台に立っているが、あなたの福音は、もろもろと崩れる砂地にしか立てられていない。「だれでもわたしのもとに来る者は救われます。父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできないからです」*[ヨハ6:44]。「しかし」、とある人は云う。「かりに世界中の人々がやって来たとしたら、キリストは彼らを受け入れるだろうか?」。もちろんである。もし全員が来るとしたら主はそうなさる。だのに、彼らは来ようとしないのである。私はあなたに告げる。やって来るすべての者らを――しかり、たとえ彼らが悪鬼のように悪くても、彼らをキリストは受け入れなさるであろう。たとえ彼らの心にあらゆる罪と汚れが、あたかも全世界の汚水溜ででもあるかのように流し込まれていたとしても、キリストは彼らを受け入れなさるであろう。別の人は云う。「私は残りの人々について知りたい。私は出て行って彼らに、イエス・キリストはあなたがたすべてのために死んだのだ、と告げてもよいものだろうか? 私は云ってもいいだろうか? あなたがたすべてのためには義があるのだ、あなたがたすべてのためにはいのちがあるのだ、と」。否、そうしてはならない。あなたは、来る人すべてのためにはいのちがある、と云ってもよい。だが、もしあなたが、信じようとしない者ひとりびとりのためにもいのちがある、と云うなら、あなたは危険な嘘を口にしているのである。もしあなたが彼らに、イエス・キリストはあなたがたの罪のために罰されたのだ、だがしかしあなたがたは失われるであろう、と告げるなら、あなたは勝手きままな偽りを告げているのである。神がキリストを罰すると同時に彼らをも罰することができるなどと考えること――私は、よくも厚かましくそのようなことを云えるものかと思う! ひとりの善良な人が、ある説教の中で、天国には彼の会衆ひとりひとりのための竪琴や王冠がある、と語った。それから彼は、きわめて厳粛に話をしめくくった。「愛する方々。多くの人々は、こうしたものが用意されていながら、そこに到達することがないであろう」。実際その人は、それがいかに惨めなことかを、真に迫ったしかたで話した。だが私は、その人が誰のために泣くべきであったかを教えよう。――その人は天国の御使いたち、またすべての聖徒たちのために泣くべきだったのである。なぜなら、それは天国を徹底的にぶちこわしにするだろうからである。もし降誕祭のときに家族全員が集合しても、あなたの兄弟のデーヴィドが死んで、その席が空いていたとしたら、あなたは云うはずである。「ああ、いつも楽しく過ごしてきた降誕祭なのに、今年はその楽しさもだいなしだ。――可哀想なデーヴィドが死んで墓に入っているのだもの」、と。では御使いたちがこう云うところを考えてみるがいい。「あゝ! これは美しい天国だが、あそこの蜘蛛の巣が張った王冠を見たくはないものだ。あの無人の町通りには耐えられない。向こうにある、空っぽの王座を眺めるには忍びないよ」、と。それから、あわれな魂たち。彼らは互いに云い交わして、こう云うかもしれない。「私たちは誰ひとり、ここでは安全ではないのだ。というのも、約束によれば、――『わたしはわたしの羊に永遠のいのちを与えます』、と云われていたのに、神が永遠のいのちを与えると約束した者のうちの多くが今では地獄にいるのだもの。キリストがその血潮を流したはずの者の多くが、穴の中で焼かれているのだもの。もし彼らがあそこに送られることがありえるなら、私たちだってそうならないとも限らない。1つの約束が当てにならないとしたら、別の約束だって当てにできないよ」、と。こうして天国は、その土台を失い、瓦解するであろう。こんな馬鹿げた福音は叩き出すがいい! 神が私たちに与えた福音は、安全で堅固なものであり、契約の行ないと契約の関係の上に建てられ、永遠の目的と確かな成就を基としているのである。

 IV. ここから私たちは第四の点に至る。《いかなる人も生まれながらには決してキリストのもとにやって来ることがない。》この聖句はこう云っているからである。「あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません」。私は、この聖句から出た聖書の権威に立って主張する。あなたがたは、いのちを得るためにキリストのもとに来ようとはしないであろう、と。私はあなたに告げる。私が永遠にあなたに説教し続けようと、デモステネスやキケロの雄弁を借りようと、あなたがたはキリストのもとに来ようとはしないであろう。私が膝まづき、目に涙を浮かべてあなたに懇願し、あなたに向かって地獄の恐怖と、天国の喜びと、キリストの豊かさと、あなた自身の失われた状態を示そうと、それでもあなたがたのうち、ひとりたりとも、自力でキリストのもとに来ることはないであろう。キリストの上にとどまった御霊があなたがたを引き寄せない限り、そうであろう。確かにすべての人は、生まれながらの状態にあっては、キリストのもとに来ようとはしない。しかし、このおしゃべりたちが尋ねる声が聞こえるような気がする。「しかし、人は望みさえすれば、来ることができるのではないか?」 愛する方々。私はもう一度あなたに答えよう。それは、今朝問題となっていることではない。私が語っているのは、果たして彼らが来ようとするかどうかであって、彼らに来ることができるかどうかではない。自由意志について語り出すといつでも、二秒と経たぬうちに、あわれなアルミニウス主義者が能力について語り出し、区別しておくべき2つの主題を混ぜこぜにするものである。私たちは2つの主題を一遍に取り上げはしない。同時に二手で戦うのは、ごめんこうむりたい。別の日になれば私たちは、――「父が引き寄せられないかぎり、だれも来ることはできません」*――、という聖句から説教するであろう[ヨハ6:44]。しかし、いま私たちは、意志についてのみ語っているのである。そして確かに人々は、いのちを得るためにキリストのもとに来ようとはしない。このことは、多くの聖書箇所から証明できようが、今は1つのたとえ話を取り上げてみよう。あなたも覚えているように、あるたとえ話の中で、ひとりの王が王子のために祝宴を開き、大勢の人を招いた。雄牛も太った家畜もほふられた後で、王はその晩餐に出るよう多くの人々にしもべらを遣わした。彼らはその祝宴に出席しただろうか? あゝ、否。彼らはみな同じように断わり始めた。ある者は、結婚したので行くことができません、と云った。妻も同伴すればよかっただろうに。別の者は、ひとくびきの雄牛を買ったので、それをためしに行くところだった。だが、祝宴は夜開かれるのである。暗闇の中で雄牛をためすことはできない。別の者は、畑を買ったので、それを見に行きたいと云った。だが角灯をぶらさげて見に行ったとも思われない。こうして彼らはみな口実を設けては来ようとしなかった。よろしい。王はぜがひでも祝宴を開こうと決意した。それで彼は云った。「街道や垣根のところに出かけて行って、人々を」招いてきなさい?――否。招いて、ではない。――「無理にでも連れて来なさい」[ルカ14:23]。というのも、垣根の所にいる破れ着の連中ですら、無理矢理連れて来られなければ、決してやって来ようとしなかったからである。もう1つのたとえ話を取り上げてみよう。――ひとりの人が葡萄畑を持っていた。定めの季節に彼は、しもべたちのひとりを遣わして地代を受け取ろうとした。彼らはそのしもべをどうしただろうか? 袋だたきにした。別のしもべを遣わしたが、石を投げつけた。別のしもべを遣わすと、殺してしまった。そこで、とうとう彼は云った。「私は自分の息子を遣わそう。これなら、敬ってくれるだろう」。しかし彼らは何をしただろうか? 彼らは云ったのである。「あれはあと取りだ。あれを殺して、ぶどう園の外に投げ捨てようではないか」*[マコ12:1-8]。そのように彼らはした。これは、生まれながらのあらゆる人も同様である。神の御子がやって来られたが、人々は彼を拒絶した。「あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません」。これ以上聖書の証拠を引いたら、いくら時間があっても足りまい。しかしながら私たちは、堕落という偉大な教理に言及したい。人間の意志が完全に自由であるとか、人間がそれによって救われうると信ずる人はみな、堕落を信じてはいないのである。私が時々あなたがたに告げるように、キリスト教の説教者のうち、堕落の教理を徹底して信じている者はほとんどいない。さもなければ、彼らの考えるところ、アダムは堕して落ちたときに小指を折っただけであって、自分の首根を折りも、自分の種族を滅ぼしもしなかったのである。だが、あゝ、愛する方々。彼の堕落は、人間を木っ端微塵に粉砕したのである。それは、ただの1つの力をも損なわれないまま残しはしなかった。人間の諸力はみな破壊され、低下させられ、汚された。どこかの壮大な神殿のように、柱はあるかもしれない。尖塔も、円柱も、片蓋柱もあるかもしれない。だが、それらはみな砕かれている。その何本かが元の形や位置の名残をとどめていても関係ない。人間の良心も、時にはその敏感さの多くを保っていることがある。――それでも、それは堕落しているのである。意志も例外ではない。たとえそれが、バニヤンの呼ぶように「人霊の《市長》」であっても何であろうか。その《市長》は間違った方角に向かっているのである。《迎意卿》は常に誤ったことをしていた[バニヤン『聖戦』]。堕落したあなたの性質は変調をきたし、あなたの意志は、他の物事と一緒に、きれいさっぱり神から離れ去ってしまっている。だが私は、その最上の証明となるであろうことを告げたい。それは、今までのあなたの人生で、あなたが出会ったことのあるキリスト者のうち、ひとりとして、自分はキリストが自分のもとに来てくださらないうちからキリストのもとに行った、などと告げる者はいなかった、という大いなる事実である。あなたは、これまで非常に多くのアルミニウス主義的な説教を聞いてきた。だが、あえて云う。あなたは決してアルミニウス主義的な祈りを聞いたことはない。――祈っている最中の聖徒たちは、言葉においても、行ないにおいても、思いにおいても、1つであるように見受けられるからである。膝まづいて祈っているアルミニウス主義者は、絶望的なまでにカルヴァン主義者のような祈りをするであろう。彼が自由意志について祈ることはできない。そのようなものの入る余地はない。彼がこのように祈ると考えてみるがいい。「主よ。私は、あのあわれな思い上がったカルヴァン主義者たちのようではないことを感謝します。主よ。私は素晴らしい自由意志を持って生まれ、私には生まれながらに、自力であなたのもとに立ち返れる力がありました。私は自分の恵みを活用しました。もしもすべての人が私のしたように自分の恵みを生かしていたら、彼らもみな救われたはずです。主よ。私は、私たちが自分で意欲を起こさない限り、あなたが私たちに意欲を起こさせることはないと知っています。あなたはあらゆる者に恵みを与えておられます。ある人々はそれを活用しませんが、私は活用しました。地獄に行く人々の中には、私と同じようにキリストの血によって買い取られた人々がたくさんいることでしょう。彼らは私と同じくらい大きく聖霊を与えられていました。私と同じくらい良い変化をこうむり、同じくらい祝福されていました。私たちの運命を変えたのはあなたの恵みではありません。それが多くのことをしたのは知っていますが、それでも私こそが事を決したのです。私は自分に与えられたものを善用し、他の人々はそうしませんでした。――それが私と彼らの違いなのです」。これは悪魔の祈りである。悪魔以外誰もこのような祈りをささげはすまい。あゝ、彼らが非常にゆっくりと説教し、語っているときには、間違った教理も口から出てくるかもしれない。だが、祈る段になるや、口が滑って本音をもらす。それはどうしようもないことである。人は、ゆっくり慎重に話すときには、洗練されたしかたで語るかもしれない。だが、急いて話すと、生まれ育ったお国訛りが顔をのぞかせるものである。もう一度問う。あなたは、「私は御霊の力などなくともキリストのもとにやって来ました」、などと云うキリスト者に一度でも会ったことがあるだろうか? そのような人に会ったことがあるとしたら、あなたは何のためらいもなくこう云うに違いない。「私はそのお言葉を全く信じますよ。――そしてあなたが、やはり御霊の力なしに離れて行ったことも信じますよ。また、あなたがこのことについて何も知っていないこと、あなたが苦い胆汁と不義のきずなの中にいることも信じますよ」、と。私はキリスト者の誰かが、「私は、イエスが私を探し求める前に自分からイエスを探し求めました。私が御霊のもとに行ったのであって、御霊が私のもとに来たのではありません」、などと云うのを聞くだろうか? 否、愛する方々。私たちは、誰しもみな、自分の胸に手を当てて、こう云わざるをえない。――

   「恵みが 私の魂に祈りを教えた。
     私の目に涙を あふれさせた。
   恵みこそ 今日まで私を保ってきたもの
     私をとらえて決して離さないもの」

この場に誰か――老若男女を問わず――、「私は、神が私を捜し求める前から神を探し求めていました」、などと云うことのできる人がいるだろうか? 否。アルミニウス主義気味のあなたでさえ、こう歌うであろう。――

   「おゝ、しかり! われイエスを愛す。
    そは主がまずわれを 愛せしゆえなり」

 それから、もう1つ問おう。私たちは、自分がキリストのもとに来た後でさえ、自分の魂が自由でなく、キリストによって支えられていることに気づいていないだろうか? 今でさえ、意志が思い通りにならないことに気づくことはないだろうか? 私たちのからだの中には異なった律法があって、それが私たちの心の律法に対して戦いをいどんでいるのである[ロマ7:23]。さて、もし霊的に生きている者たちでさえ自分の意志が神に逆らっているのを感じるとしたら、「罪過と罪との中に死んで」いる人について何と云うべきだろうか? 両者を同列に置くなど途方もなく馬鹿げたことである。それよりはるかに馬鹿げているのは、死んでいる者を生きている者の上に置くことである。否、この聖句は正しい。経験によって私たちの心には、その焼き印が押されている。「あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません」。

 さて、次に私たちは、なぜ人々がキリストのもとに来ようとしないのか、という理由を告げなくてはならない。第一に、生まれながらのいかなる人も、自分がキリストを必要としているなどとは考えないからである。生まれながらの人は、キリストなど必要ないと考える。自分には自分の義の衣がある。自分は着物を着ている。裸ではない。キリストの血で洗われる必要などない。自分は黒くも緋色でもない、と考える。そして、聖霊が赦しの必要を啓示してくださらない限り、いかなる人も赦しを求めようとはしない。私がキリストを永遠に宣べ伝え続けても、あなたは、キリストを必要と感じない限り、決してキリストのもとに来はしないであろう。どんなに薬品棚の充実した医者がいても、薬の必要を感じなければ誰もそれを買いはしない。

 次の理由は、人々はキリストが彼らを救うやり方を好まないからである。ある人は云う。「私がそれを好まないのは、キリストが私を聖くするからだ。もし救われたら、酒を飲むことも、悪態をつくこともできないではないか」。別の人は云う。「救われたら私は、堅苦しくて、四角四面な生き方をしなくてはならない。だが私はもう少し勝手に生きていたいのだ」。別の人がそれを好まないのは、それが非常に屈辱的なことだからである。「天国の門」が自分の頭には低すぎて、頭を屈めるのが気にくわないのである。それこそあなたがたがキリストのもとに来ようとしない主たる理由にほかならない。なぜなら、あなたがたは頭を傲然と上げてキリストのもとに行くことはできないからである。キリストは、あなたがやって来るとき、あなたの身を屈めさせなさる。別の人は、救いが徹頭徹尾、恵みであることを好まない。その人は、「おゝ! もう少し私が体面を保てさえするなら」、と云う。しかしその人が、キリストがすべてとなるか全くキリストにあずからないか、キリストをことごとく有するか全く有さないかの二者択一であると聞くとき、その人は、「自分は行かないことにしよう」、と云い、踵を返して離れ去るのである。あゝ! 高慢な罪人たち。あなたがたはキリストのもとに来ようとしない。あゝ! 無知な罪人たち。あなたがたはキリストのもとに来ようとしない。なぜなら、キリストのことを全く知らないからである。そして、それが第三の理由である。

 人々はキリストの価値を知らない。知っていさえすれば、主のもとに来ようとしたはずだからである。なぜ船乗りたちはコロンブスが行く前は、アメリカに行かなかったのか? アメリカなどというものがあると信じなかったからである。コロンブスには信念があった。だから彼は行った。キリストを信ずる信仰を有する人も、キリストのもとに行く。しかし、あなたはキリストを知らない。あなたがたの多くは、主の美しい御顔を一度も見たことがない。いかに主の血が最も罪人にふさわしいものであるか、いかに主の贖いが大いなるものであるか、いかに主の功績がすべてを満ち足らわすものかを、一度も見てとったことがない。それゆえ、「あなたがたは、いのちを得るために主のもとに来ようとしない」。

 そして、おゝ! 話をお聞きの方々。最後に考えたいのは厳粛なことである。私はあなたがたが来ようとしないと語ってきた。しかし、ある人は云うであろう。「彼らが来ないのは、彼らの罪なのだ」、と。《その通りである。》あなたは来ようとしない。だが、ならば、あなたの意志は罪深い意志なのである。ある人は、こうした教理を説くとき私たちが、「みなの手首に呪法のひもを縫い合わせ」ている[エゼ13:18]と考える。だが、そうではない。私たちは、これを人間の元々の性質の一部と云っているのではなく、その堕落した性質に属したものだと云っているのである。罪こそ、あなたをキリストのもとに来ようとしない状態に陥らせているものにほかならない。もしあなたが堕落していなかったなら、キリストが宣べ伝えられた途端に、あなたはキリストのもとに来ようとしたであろう。だが、あなたが来ないのは、あなたの罪深さと罪悪とのゆえである。人々は、自分に悪い心があるからといって弁解する。それは、この世で最も薄っぺらな弁解である。盗みや泥棒は悪い心から出てくるのではないだろうか? では、こそ泥が裁判官に向かって、「あっしには仕方がなかったんす。あっしの悪い心のせいなんす」、と云ったと考えてみるがいい。裁判官は何と云うだろうか。「このごろつきめ! お前には悪い心があるだと? ならばお前の判決をずっと重くしてやろう。お前は正真正銘の悪漢に違いないのだからな。お前の弁解など屁にもならん」。《全能者》は「笑う。主はその者どもをあざけられる」[詩2:4]。私たちがこの教理を宣べ伝えるのは、あなたを弁護するためではなく、あなたをへりくだらせるためである。悪い心を有しているのは、私のすさまじい不幸であると同時に、私の落ち度なのである。それは、人々に常に責任が問われるであろう1つの罪にほかならない。彼らがキリストのもとに来ようとしないとき、罪こそ彼らを遠ざからせているものである。それを説教しないような者は、神と自分の良心に忠実ではないのではないかと思う。では、こう考えつつ家に帰るがいい。「私は生まれながらにゆがんだ性質をしているため、キリストのもとに行こうとしないのだ。私のその邪悪なゆがんだ性質は、私の罪なのだ。私はそのために地獄に落とされて当然なのだ」、と。そして、もしそう考えても、御霊がそれをお用いになっても、あなたがへりくだらないというなら、何をもってしてもあなたをへりくだらせることはできない。今朝の私の説教は、人間性を持ち上げるものではなく、叩き落とすものである。神が私たちすべてをへりくだらせてくださるように。アーメン。

自由意志――奴隷[了]

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