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人間の無能力

NO. 182

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1858年3月7日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません」。――ヨハ6:44


 「キリストのところに来る」という言葉は、聖書の中で非常によく見受けられる語句である。それは、私たちが自分を義とする思いと、自分のもろもろの罪とを一挙に捨て去り、主イエス・キリストのもとに飛んで逃れ、その義を受けて自分を覆うものとし、その血を受けて自分の贖罪にするという、魂の一連の行為を表わすために用いられる。ということは、キリストのところに来ることには、悔い改めと、自己否認と、主イエス・キリストを信ずる信仰が含まれており、そうした重大な心の状態1つ1つに必然的に伴うすべての事がらが折り込まれているのである。例えば、真理を信ずること、神への真剣な祈り、魂を神の福音の種々の戒めに従わせること、そして、魂の中で救いの兆しが見えるときに伴うあらゆる事がらがそれである。キリストのところに来るということは、罪人の救いにとって欠かせない唯一のことにほかならない。キリストのところに来ない者は、何をしようと、あるいは、いかなる考えをいだいていようと、なおも「苦い胆汁と不義のきずな」[使8:23]の中にいるのである。キリストのところに来ることは、まさに新生によって最初にもたらされる効果である。魂が生かされるや否や、それはたちまち自らの失われた状態を悟り、そのためぞっとするような恐怖に駆られて、逃れ場を探し、キリストこそふさわしい逃れ場であると信じて、キリストのもとへ飛んで逃れ、キリストに頼るのである。このようにキリストのところに来ることがない場合、魂がまだ生かされていないことは確実である。生かされていなければ、その魂は罪過と罪との中に死んでおり[エペ2:1]、死んでいる以上、天の御国に入ることはできない。私たちがいま前にしているのは、非常に驚くべき、また、人によっては虫酸が走ると云われる告知である。キリストのところに来ることは、一部の人々によっては世界で最も容易なことと述べられているが、本日の聖句が宣言するところ、御父がキリストのもとに引き寄せられない限り、いかなる人にも絶対に、また、完全に不可能なのである。さて私たちはこれから、この宣言について詳しく物語っていこうと思う。疑いもなく、それは常に、肉的な性質にとっては癇に障ることに違いないが、それにもかかわらず、人間の性質を怒らせることは、時として、それを神の前に額ずかせるための最初の一歩となることがある。そして、たといこれが痛みを伴う過程だとしても、種々の栄光に富む結果がもたらされるときには、その痛みを忘れて喜べるのである。

 私が今朝、努めて注目したいのは、まず第一に、人間の無能力である。それは何に存しているのだろうか。第二に、御父の引き寄せである。――それは、何を指していて、いかに魂の上に及ぼされるのだろうか。それから、しめくくりに注目したいのは、この、一見すると不毛で、ぞっとしない聖句から引き出すことのできる甘やかな慰藉である。

 I. では第一に、《人間の無能力》である。この聖句は云う。「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません」。この無能力は何に存しているのだろうか?

 まず、それはいかなる物理的な欠陥にも存してはいない。もしキリストのところに来る際に、からだを動かしたり、足で歩いたりすることが何らかの助けになるとしたら、確かに人は、その意味ではキリストのところに来物理的な力を有している。私は、ひとりの非常に愚かな無律法主義者がこう大見得を切るのを聞いたことを覚えている。すなわち彼は、御父が引き寄せられない限り、いかなる人にも神の家へ歩いて行く力があるとは信じないというのである。さて、その人は明らかに愚かであった。なぜなら彼は、人が生きていて二本の足を持っている限り、サタンの家に歩いて行くのと同じくらい簡単に神の家に歩いて行くのを見てきたに違いないからである。もしキリストのところに来ることが祈りを口にすることを含んでいるとしたら、人は、おしでもない限り、その点で物理的な欠陥を有してはいない。人は冒涜を口にするのと同じくらい容易に祈りを唱えることができる。シオンの歌を1つ歌うのは、卑俗で好色な歌を歌うのと同じくらい容易なことである。物理的な力についていかなる欠けがありえようとも、疑いもなく人には何1つそうした欠けはない。物理的な力に存する面では、人は救いのいかなる部分をも、神の御霊からの助けなしに、完全に、余す所なく行なうことができる。さらにまた、この無能力は、いかなる精神的な欠けにも存していない。私は、他のいかなる本を真実であると信ずる場合にも全く劣らないくらい容易に、この聖書を真実であると信ずることができる。キリストを信ずることが精神の行為である限りにおいて、私は、他の誰かを信じることができるのと同じくらい、キリストを信ずることができる。キリストの言明が正しく云い表わされているとしたら、私にはそれを信じられないなどというのは駄弁である。私はキリストがお語りになる言明を、他のいかなる人の言明を信ずることができる場合とも全く同じように信ずることができる。精神には何か欠けた機能があるわけではない。ただの精神的な行為としては、精神は罪が悪であることを、暗殺が悪であると認識するのと同じくらい認識することができる。私にとって、神を求めるという精神的な観念を働かせることは、大望をいだくという考えを働かせるのと同じくらい可能なことである。救いに精神力が必要だというのであれば、私には、必要とされうる精神の強さと力がことごとく備わっている。しかり。この世のいかに無知な者といえども、自分の知性の足りなさを申し立てて、福音を拒絶した弁解にすることはできない。ならば、その欠陥は、からだに存しているわけでも、あるいは、神学的に云えば精神と呼ばざるをえないものに存しているわけでもない。そうした部分には何の欠けも不足もない。とはいえ、精神の汚染、また、その腐敗や滅びこそ、結局のところ人間の無能力のまさに精髄ではあるのだが。

 人間のこの無能力が実はどこに存しているかを示させてほしい。それは、人の性質の中に深く存しているのである。堕落によって、また、私たち自身の罪によって、人の性質はあまりにも卑しいもの、堕落したもの、腐敗したものとなってしまった。そのため、人は聖霊なる神の助けなくしてキリストのところに来ることが不可能なのである。さて、人がいかにその性質によってこのようにキリストのところに来られなくなっているかを明示するためには、次のようなたとえを用いさせてもらうしかない。あなたには一頭の羊が見える。それが何と喜んで牧草を食べることか! 腐肉を渇望する羊のことなど聞いたことがない。羊は獅子の食べ物では生きられないであろう。さて、あなたが私のところに一匹の狼を連れて来て、こう尋ねたとしよう。果たして狼は草を食べることができるでしょうか、羊のようにおとなしく飼い慣らせるでしょうか。私は否と答える。その性質が全くそれに反しているからである。あなたは云うであろう。「よろしい。それには耳と足があります。それは牧者の声を聞き分けて、牧者の連れて行く所にはどこにでもついていくことができるではないでしょうか?」 私は答えよう。確かに、物理的に狼がそうできない理由は何1つないが、それはその性質からして無理であり、それゆえ私は、狼にそれはできないと云うものである。それを馴致することができるだろうか? その獰猛さを取り除けるだろうか? おそらく、見た目は飼い慣らされたかに見えるほどおとなしくされることはあるであろうが、それと羊との間には常に際立った区別があるであろう。性質に区別があるからである。さて、人がキリストのところに来ることができない理由は、肉体的に、あるいは、単に精神的に来ることができないためではない。むしろ、その性質があまりにも腐敗しているため、御霊によって引き寄せられない限り、キリストのところに来る意志も力も持ち合わせていないためである。しかし、一段とすぐれたたとえを示させてほしい。あなたには、腕に赤子をかかえたひとりの母親が見える。彼女の手に短刀を握らせ、その赤子の心臓を一刺ししろと云ってみよ。彼女は、「私にはできません」、と云うであろう。そして、それはまぎれもない真実であろう。さて、彼女の肉体的な力に関する限り、そう望めば彼女にはそれができる。そこには短刀があり、子どもがいる。その子には何の抵抗もできず、彼女には即座にその心臓をえぐるだけの力が十分にある。しかし、自分にはできないと云う彼女は完全に正しい。ただの精神上の行為としてなら、彼女がその子の殺害を考えることは全く可能である。だが彼女はそのようなことを考えることができないと云う。そして、その言葉に嘘はない。というのも、彼女の母親としての性質が彼女にそうしたことを絶対に行なわせないからである。彼女の魂がすさまじく反発するからである。単に彼女がその子の親であるというだけで、彼女はその子を殺せないと感じるのである。罪人もそれと同じである。キリストのところに来ることは、人間の性質にとってあまりにも不快なことである。物理的、また、精神的な諸力に関する限り(そして、これらは救いにおいては、ごく小さな部分しか占めていないが)、人々はそう望めばやって来ることはできる。だが、キリストを遣わした御父が引き寄せられない限り、彼らは来ることができず、来ようともしないというのはきわめて真実である。この主題にもう少し深く入って、この人間の無能力がどこに存しているか、さらなる詳細をつまびらかにしてみよう。

 1. まず、それは人間の意志の強情さに存している。「おゝ!」、とアルミニウス主義者は云うであろう。「人々は望みさえすれば救われますよ」。私たちは答える。「親愛なる方々。私たちはみなそのことは信じている。だが、その望みさえすればこそ困難なことなのだ。私たちは、いかなる人も引き寄せられない限りキリストのところに来ようとはしないと主張する。否。私たちがそう主張するのではない。キリストご自身がそう宣言しておられる。――『あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません』[ヨハ5:40]。そして、聖書の中に、その『来ようとはしません』が記録されている限り、私たちは、人間の意志の自由を説くいかなる教理をも信ずるつもりはない」。奇妙なことに、人々は自由意志について語っているとき、自分でも全く理解していないことについて語っているのである。「さあ」、とある人は云うであろう。「私は人々が望みさえすれば救われることができると信じます」。親愛なる方々。それは全く問題ではないのである。問題はこうなのである。生まれながらの人々が、キリストの福音の屈従的な条件に服そうなどと望むことがあるだろうか? 私たちは聖書の権威に立ってこう宣言する。人間の意志は、あまりにもはなはだしい害毒にむしばまれており、あまりにも堕落しており、あまりにもあらゆる悪に傾いており、また、あまりにもあらゆる善なるものに気乗りがしていないために、聖霊の力強く、超自然的で、不可抗の影響力がない限り、いかなる人間意志もキリストに向かわされはしないであろう、と。あなたは答える。人々も時には聖霊の助けなしにそれを望むことがありますよ、と。では私は答える。――あなたは、今までひとりでもそのようにして望むようになった人と会ったことがあるだろうか? 私は、様々な意見をいだく数十人、数百人、否、数千人もの老若のキリスト者と話をしてきたが、いまだかつて、自分は引き寄せられることもなく自分ひとりでキリストのところに来ましたなどと確言することのできる人には、ひとりも出会ったことがない。あらゆる真の信仰者は、異口同音にこう告白している。――「私は知っています。神の囲いからさまよい出して流れ者になった私を、イエス・キリストが捜してくださらなかったとしたら、私は今のこの時に至るまで、キリストから遠く離れてさまよっていたことでしょう。キリストのはるか遠方にいて、そのように遠くにいることを喜んでいたことでしょう」。あらゆる信仰者は、例外なしにこの真理を確言する。人々は、キリストを遣わした御父が引き寄せられない限り、キリストのところに来ることはないのである。

 2. さらに、意志が強情なばかりでなく、知性が暗くなっている。それについては、有り余るほどの聖書の証拠がある。私はいま単なる主張を行なっているのではなく、聖書で断定的に教えられている教理、またあらゆるキリスト者の良心で知られている教理を言明しているのである。――すなわち、人の知性はあまりにも暗くなっているために、その知性が開かれない限り、いかにしても神に属することを理解することはできない。人は生まれながらに内側では盲目である。あれほどの栄光を満載し、魅惑にきらめいているキリストの十字架は、決してその人を魅了することがない。盲目で、その美しさが見えないからである。被造世界の驚異について人に語り、天空にかかる光彩陸離たる橋梁を示し、ある風景の美しさを見せてやるとき、人はこうしたすべてを眺めることはできる。だが、恵みの契約の驚異について語り、キリストにある信仰者の安泰さについて告げ、《贖い主》のご人格の数々の麗しさについて口にすると、人はあなたのあらゆる描写に対して完全につんぼになってしまう。あなたは見事な音楽を奏でている者のようである。それは確かである。だが、人はそれを顧みない。つんぼであり、何も理解できない。あるいは、先の聖書朗読で非常に特別な注意を払った節に戻れば、「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです」[Iコリ2:14]。そして、人が生まれながらの人間である限り、神に属することをわきまえることはできない。「よろしい」、とある人は云うであろう。「私は、神学の問題においては、相当程度に高い見識に達したと思います。私はほとんどあらゆる点を理解していると思います」。確かに、その文字についてはそうであろう。だが、その精神においては、また、それを真に魂に受け入れること、また、それを本当に理解することにおいては、あなたが御霊によって引き寄せられていない限り、あなたがそこに達していることはありえない。というのも、聖書が真実なものである限り、また、肉的な人々が霊的な事がらを受け入れられない限り、確かにあなたは、更新されも、キリスト・イエスにある霊的な人になってもいない場合、そうしたことを受けてはいないに違いない。ならば、意志と知性という2つの大きな扉の双方は、私たちがキリストのところに来ることを塞いでいるのである。そして、《天来の》御霊の甘やかな影響力によって開かれない限り、それらは永遠に、少しでもキリストのところに来ることに対して閉ざされているに違いない。

 3. さらに、人の非常に大きな部分をなしている感情が堕落している。人は、神の恵みを受け入れる前の状態にあっては、いかなることを愛していようと、霊的な事がらだけは愛することがない。もしあなたがたがその証明を欲するとしたら、自分の周囲を見回してみるがいい。人間の感情の堕落ぶりの記念碑には事欠かない。あなたの目を至る所に向けてみるがいい。――このすさまじい真理の悲しい証拠を帯びていないような町通りは、家は、否、心は、1つとしてない。なぜ人々は安息日にあまねく神の家に群がっていないのだろうか? なぜ私たちはもっと規則正しく聖書を読んでいないのだろうか? いかにして祈りという義務は、ほとんどあまねくないがしろにされているのだろうか? なぜキリスト・イエスはこれほど僅かしか愛されていないのだろうか? なぜ信仰を告白してキリストに従う者たちでさえ、キリストに対するその愛情においては、これほど冷淡なのだろうか? どこからこうしたことは生ずるのだろうか? 確かに、愛する兄弟たち。その源泉として辿れるのはこのこと、感情の腐敗と汚染しかない。私たちは、憎むべきものを愛し、愛すべきものを憎んでいる。この人間の性質、堕落した人間性によってこそ、人はこの今の世を、来たるべき世にまさって愛するのである。この堕落の結果によってこそ、人は罪を義よりも愛し、この世の道を神の道にまさって愛するのである。そして、またもや繰り返すが、こうした感情が御父の恵み深い引き寄せによって更新され、清新な経路に流し込まれない限り、いかなる人にとっても主イエス・キリストを愛することは不可能なのである。

 4. だが、さらに云うが――良心もまた堕落によって打ち負かされてしまっている。私の信ずるところ、神学者たちの犯している誤りの中でも何にもまして言語道断な誤り、それは、良心を魂の内側における神の代理人であると人々に告げることである。また、良心は今も名残をとどめる魂の古の威厳の1つであって、その同輩たちが堕落した中でも直立し続けている、と告げることである。私の兄弟たち。あの園で人が堕落したとき、人間性は完全に堕落したのであり、人間性という神殿の中の支柱のうち、一本たりとも直立したものなくなったのである。確かに良心は滅ぼされはしなかった。その支柱は粉砕されはしなかった。それは倒れた。一本の柱として倒れ、人間のうちにある、かつては完璧であった神のみわざの最も力強い残存物として横たわっている。しかし、その良心が堕落していることは確かである。人々を見るがいい。彼らのうちの誰が「神への正しい良心」*[Iペテ3:21]を有しているだろうか? あなたは、もし人々の良心が常に彼らに対して大声で明瞭に語るとしたら、彼らは日々、闇が光に対立するのと同じくらい善に反するような行為にいそしんでいると思うだろうか? 否。愛する方々。良心は私に私が罪人であると告げることはできるが、私が罪人であると感じさせることはできない。良心は私に、これこれのことが間違っていると告げはするかもしれないが、それがどのくらい間違っているかは良心そのものにも分かっていない。これまで誰かの良心が、御霊に照らされもしていないまま、その人に向かって、その人のもろもろの罪は断罪に値するものだと告げるようなことがあっただろうか? あるいは、もし良心がそうしたことをしたとしても、それはこれまで誰かに罪としての罪への嫌悪を感じさせたことがあるだろうか? 実際、これまでに一度でも良心が誰かを自己否認へと導き、その人に徹底して自分自身を、また自分の行ないを忌み嫌わせ、キリストのところに来させるようなことがあっただろうか? 否。良心は、死んではいないものの、損なわれている。その力は傷ついている。それは、堕落の前に有していたような澄み切った目も、力強い手も、鳴り轟く声も有していない。むしろ、大部分にわたって、《人霊》の町の中でその大権を振るうことをやめてしまっている。ならば、愛する方々。まさにこの理由によってこそ、すなわち、良心が堕落しているからこそ、聖霊が乗り込んでくることが必要になっているのである。私たちにひとりの《救い主》が必要であることを示し、私たちを主イエス・キリストへと引き寄せるために必要なのである。

 「それでも」、とある人は云うであろう。「これまでのお説による限り、あなたの考える、人々がキリストのところに来ない理由は、彼らにそれができないというよりも、彼らがそうしたがらないことにあると思われるのですが」。その通り。まさにその通りである。私の信ずるところ、人間が無能力である最大の理由は、その意志の強情さである。それがいったん克服されたとしたら、その墓所からは大きな石が転がり外されたのであり、戦いの最難関がすでに勝ち取られたものと考える。しかし、もう少し先に進ませてほしい。本日の聖句は、「だれも来ようとはしません」、と云ってはおらず、「だれも来ることはできません」、と云っているのである。さて多くの解釈者は、ここの「でき(る)」の伝えている意味を、「〜しようとする」という言葉の強意形でしかないと信じている。私は、それは正しくないと確信している。人のうちには、救われたいという意欲がないだけでなく、キリストのところに来ることのできない霊的な無力さがある。そして私はこのことを、少なくともあらゆるキリスト者に対しては証明するであろう。愛する方々。私は、すでに天来の恵みによって生かされているあなたがたに語りかけたい。あなたの経験がそうあなたに教えていないだろうか? あなたには神に仕えたいという意志があるのに、その力がない時期があるではないだろうか? あなたは時として、こう云わざるをえなかったではないだろうか? 自分は信じたいと願ってきたのに、「主よ、不信仰な私をお助けください」[マコ9:24]、と祈らざるをえないことがあった。なぜなら、神の証しを受け入れるに足るほどの願いは有していながら、あなた自身の肉的な性質はあなたには手強すぎ、あなたには超自然的な助けが必要だと感じたからである。あなたは、自分の好む時にはいつでも自分の部屋に入り、膝まずき、こう云えるだろうか? 「さあ、今の私の意志は、私が祈りにおいて非常に真剣になること、また、神に近づくことなのだ」、と。私は尋ねたい。あなたは自分の力が、自分の意志にかなうものであることに気づくだろうか? あなたは、神ご自身の法廷においてさえ、こう云えるであろう。私は私の意欲については間違っていないと確信しています、私は全く献身の思いにひたりたいと望んでいます、私の魂が主イエス・キリストへのきよい黙想からさまよい出ないことが私の意志です、と。だが、あなたは自分がそうできないことに気づく。自分に望みがあってさえも、御霊の助けがなくてはそうできないのである。さて、もし神の生かされている子どもが霊的な無能力に気づくとしたら、罪過と罪との中に死んでいる罪人はいかにいやましてそうであろう。もし、三、四十年もの年季を積んだキリスト者でさえ、時として、望んでいながら無力であることに気づくとしたら――もしそうした経験をしているとしたら――、まだ信じていないあわれな罪人が、意志の欠けと同じく力の必要を見いだすとしても、理の当然とは思われないだろうか?

 しかし、さらにまた別の根拠がある。もしもキリストのところに来る力を罪人が有しているとしたら、私には知りたいことがある。私たちが神の聖なるみことばの中で絶えず出会う、あの罪人の状態の描写をどう理解すべきだろうか? さて、罪人は罪過と罪との中に死んでいると云われている。あなたは、死には、意志の欠如以上のものが何も含まれていないと確言しようというのだろうか? 確かに屍には意欲が欠けているのと同様に、力も欠けているに違いない。あるいはまた、誰であれ、意志と力には区別があることを見てとらないだろうか? たといその屍が、意志を有するに足るだけは生かされたとしても、手足の一本も持ち上げることができないほど無力であるということはありえるではないだろうか? 私たちは一度もそうした症状を見たことがないだろうか? 人々が生きているという兆候を示すほどには蘇生しているが、それでも、ほんのちょっとした動作も行なえないほど半死半生である場合である。意志を与えることと、力を与えることとの間には明確な区別があるではないだろうか? しかしながら、意志が与えられているところで、力が後に続くことは全く確かである。ある人に意欲を持たせれば、その人は力強くされるはずである。というのも神は、そうした意志を与えるとき、できもしないことを願わせてその人をじらすようなことはなさらないからである。それにもかかわらず、神は意志と力とを截然と区別し、その両方とも全く明確に主なる神の賜物であるとみなされるようにされるのである。

 それから私は、もう1つの問いを発さなくてはならない。もしも必要なのは人に意欲を持たせることだけだったとしたら、その瞬間にあなたは聖霊の価値をおとしめてはいないだろうか? 私たちは、自分にもたらされた救いの栄光を、すべて御霊なる神に与えることを常としてはいないだろうか? しかし今、もし御霊なる神が私に対してなされることが、こうした事がらを私が自分で行なうような意欲を持たせることだけでしかないとしたら、私は相当な程度において、聖霊とともに栄光にあずかる者となるではないだろうか? そして、大胆に立ち上がってこう云えるではないだろうか? 「確かに御霊は私にそれを行なう意志を与えてくださったが、それでも私はそれを自力で行なったのであり、それを私は誇りとしよう。というのも、もし私がこうしたことを上からの助けなしに自分で行なったのだとしたら、私が自分の冠を主の足元に投げ出すことはないからだ。それは私自身の冠だ。私の努力の賜物だ。私はそれを手放すまい」。だが聖霊が聖書の中においては常に、みこころのままに私たちのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださる方であると述べられている限り[ピリ2:13]、私たちはこう推論することが正当であると主張するものである。すなわち、御霊は、単に私たちに意欲を持たせる以上の何かを私たちに対して行なわれるに違いなく、それゆえ、罪人の中には意志の欠如の他にも何かがあるに違いない。――絶対的な、また現実の力の欠けがあるに違いない。

 さて、この言明を後にする前に、しばしあなたに語りかけさせてほしい。私はしばしば、多大な害をもたらすような教理を説教しているとして非難される。よろしい。私は、そうした非難を否定すまい。というのも、私はこの件について、腫れ物に触るような答え方はしていないからである。この場には、私が説教してきたことが多大な害をもたらしてきたことを証明する私の証人たちがいる。だが、それは道徳にも、神の《教会》にも害をもたらしてこなかった。その害を受けたのはサタンの側であった。今朝は、ひとりやふたりではなく、何百人もの人々が、神に自分が近づけられたことを喜んでいる。卑俗な、安息日を破る者たち、酔いどれたち、あるいは、世俗的な人間たちだった彼らは、主イエス・キリストを知り、愛するように導かれた。そして、もしこれが何らかの害だとしたら、神が無限の御あわれみによって、その一千倍もの害を私たちに送ってくださるように。しかしさらに、この世にある真理という真理の中で、そこからわざわざ害をもたらそうとする人に害を与えないで済むような真理があるだろうか? あなたがた、一般救済を説く人たちは、最後の瞬間に至るまで神のあわれみはあるという大いなる真理を宣布することを非常に好んでいる。しかし、なぜあなたは、そうしたことをよくも宣べ伝えられるのだろうか? 多くの人々は、それによって害をもたらしている。恵みの日を先送りにし、今すぐではなく最後の最後になってからでも間に合うと考えることによってそうしている。何と、もしも人が誤用しかねず、濫用しかねないものを何1つ宣べ伝えないとしたら、私たちは永遠に口をつぐんでいなくてはならない。それでも、ある人は云うであろう。「よろしい。ならば、もし私が自分自身を救えないとしたら、またキリストのところに来ることができないとしたら、私はじっと座り込んでいなくてはならず、何もしてはいけないのですね」。もし人々がそのようなことを云うとしたら、彼らの破滅の責任は彼ら自身の頭上に帰される。私たちは非常に平易にあなたがたに告げてきた。あなたにも行なえる多くのことがある、と。神の家に欠かさず出席することは、あなたにできることである。勤勉に神のことばを学ぶことは、あなたにできることである。あなたの外的な罪と縁を切り、あなたのふけっている種々の悪徳を捨てて、自分の生活を正直で、慎み深く、正しいものにすることは、あなたにできることである。こうしたことについて、あなたは聖霊からの助けを全く必要としていない。これらすべてをあなたは自力で行なうことができる。だが、キリストのところに真に来ることは、聖霊によってあなたが更新されるまで、あなたにできることではない。しかし、よく聞くがいい。あなたに力が欠けていることは、何の弁解にもならない。あなたに来ようとする願いが全くなく、意図的に神に反逆しながら生きているからにはそうである。あなたの力の欠けは、大部分が性質の強情さに存している。かりに、ある嘘つきがこう云ったとしよう。私には本当のことを話す力がないんですよ、あんまり長い間嘘ばかりついてきたので、もうそれをやめることができないんですよ、と。それは彼の弁解になるだろうか? かりに、情欲に長いことふけってきたある人が、あなたにこう云ったとしよう。私の情欲は、鉄の網のように私を縛り上げているので、それを取り除くことができないんですよ、と。あなたはそれを弁解として受け取るだろうか? まことに、それは何の弁解にもならない。もしもある酔いどれが、あまりにも下劣な酔いどれとなり、居酒屋の前を通れば立ち寄らずにはすまなくなっているとしたら、あなたはそのために彼を勘弁してやるだろうか? 否。というのも、彼が自分を改善できない無能力は彼の性質に存しているからである。彼が抑制したいとも、打ち勝ちたいとも願っていないからである。なされていることと、なされているそのことを引き起こしていることとは、両方とも罪という根から出ているのであり、いずれも互いの弁解になりえない2つの悪なのである。クシュ人がその皮膚を、ひょうがその斑点を、変えることができない[エレ13:23]からといって何だろうか? あなたは、悪を行なうことを身につけてしまったがゆえに、今では善を行なうことを身につけられないのである。それゆえ、あなたをただ座らせて勘弁してやる代わりに、あなたの怠惰の座の下に雷電を入れさせてほしい。それによってあなたが驚愕し、覚醒されるためである。覚えておくがいい。ただ座していることは、永劫に断罪されることなのである。おゝ! 聖霊なる神がこの真理を、それとは非常に異なったしかたで活用してくださるならどんなに良いことか! 私は、この話を終える前に、あなたにこう示すことができるはずである。いかにこの、一見すると人々を断罪し、閉め出している真理が、結局のところ、人々の回心にとって祝福となってきた大いなる真理であるかを。

 II. 私たちの第二の点は、《御父の引き寄せ》である。「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません」。ならば、いかにして御父は人々を引き寄せられるのだろうか? アルミニウス主義者の神学者たちは一般にこう云う。神は福音の宣教によって人々を引き寄せられるのだ、と。まことにその通りである。福音の宣教こそ人々を引き寄せる手段である。だが、そこには、このこと以上の何かがあるに違いない。尋ねさせてほしい。キリストはこのことばを、誰に向かって語りかけられただろうか? 何と、カペナウムの人々である。主がしばしば説教しておられた場所、主が悲哀を込めて律法の災いと福音の招きを口にしてこられた場所にいた人々である。この町で、主は多くの力あるわざを行ない、多くの奇蹟を起こしておられた。事実、主は、ご自分が彼らにお与えになった教えと奇蹟的な主張の素晴らしさのあまり、もしもツロやシドンがこうした特権で祝福されていたとしたら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう、とさえ宣言された[マタ11:21]。さて、もしキリストご自身の宣教によっても、こうした人々をキリストのところに来させることができなかったとしたら、御父の引き寄せということで意図されていることが、みな単なる宣教でしかないということは不可能である。しかり。兄弟たち。あなたはやはり注目するに違いない。主は、教役者が引き寄せない限り、誰もご自分のところに来ることはできない、と云っているのではなく、が引き寄せられない限り、と云っておられるのである。さて、世には福音によって引き寄せられ、教役者によって引き寄せられていながら、神によっては引き寄せられていないということがありえる。明らかに、ここで意味されているのは天来の引き寄せ、《いと高き神》による引き寄せである。――最も栄光に富む《三位一体》の《第一位格》が、《第三位格》、すなわち聖霊を遣わして、人々をキリストのところに来させることである。他の人は背を向けて、せせら笑いながらこう云うであろう。「ではあなたは、キリストが人々をご自分のもとに引き寄せると考えているのですか? 彼らにそうする意欲がないのを見ていながら!」 私は、一度ある人と出会ったことを覚えている。その人は私にこう云った。「先生。あなたはキリストが人々の髪の毛をつかんで、ご自分のもとに引きずって行くと宣べ伝えているのですよ」。私は彼に、あなたは私がそのように異様な教理を説いた説教の行なわれた日付をあげられだろうか、と尋ねた。彼にそうできたとしたら、たいそう感謝なことだったからである。しかしながら、彼にそうすることはできなかった。しかし、と私は云った。キリストは人々の髪の毛をつかんでご自分のもとに引きずって行こうとはしていないが、私の信ずるところ、あなたの戯画が示唆するのと同じくらい強力に、心をつかんで人々を引き寄せられるのである。注意するがいい。この御父の引き寄せには、全く何の無理強いもない。キリストはいかなる人をも決してその意志に反して無理矢理ご自分のところに引き寄せたことはない。もしもある人が救われる意欲を有していないとしたら、キリストは彼の意志に反して彼を救うことはなさらない。ならば、いかにして聖霊はその人を引き寄せるのだろうか? 何と、その人に意欲を持たせることによってである。確かに御霊は「道徳的説得」を用いはしない。御霊は、心に達するのにもっと近い方法をご存知である。御霊は心の隠れた泉に赴く。そして、いかにすれば、ある神秘的な働きによって、その意志を逆転させることができるかを知っておられる。そのようにして人は、ラルフ・アースキンが逆説的に云い表わしたように、「自分の意志に反した完全な同意をもって」救われる。すなわち、彼の古い意志に反して救われる。しかし、彼は完全な同意をもって救われるのである。というのも、神の力の日に彼は喜んで仕えるようにされるからである[詩110:3 <英欽定訳>]。人が自分をつかんだ手にずっと逆らいながら、もがいたり、じたばたしたりながら天国に入るだろうと想像してはならない。人が、《救い主》のもとから逃げ去ろうとあらがっている間に、《救い主》の血の池へ投げ込まれるなどと思い描いてはならない。おゝ、否。そもそもの最初から、人が救われたがっていないということは全く正しい。聖霊がその影響力を心に入れられるとき、この聖句が成就するのである。――「私を引き寄せてください。私は急いでまいります」*[雅1:4]。私たちは、御霊が私たちを引き寄せてくださる間はついて行き、かつては蔑んでいた御声に喜んで従うのである。しかし、肝心な点は意志の転換にある。いかにしてそれがなされるかは、いかなる人も知らない。これは事実としては明確に悟られるが、その原因はいかなる舌も告げることができず、いかなる心も推測できないという神秘の1つである。しかしながら、聖霊がお働きになる、その明らかなしかたなら、私たちもあなたに告げることができる。聖霊がある人の心に入るとき最初に行なわれるのは、このことである。御霊はその人が自分のことを非常に高く評価していることに気づかれる。そして、自分自身への高い評価ほど、人がキリストのところに来る妨げとなるものはない。何と、と人は云う。「私はキリストのところになど来たくない。私は、人として願える限りの善良さを有している。私は天国に歩いて行ける十分な権利があると感じている」。聖霊はその人の心をむき出しにし、そこに巣くっている忌まわしい癌が自分のいのちをむしばんでいることを見させ、その地獄のはきだめ――人間の心――にある暗黒さと汚れのすべてを暴かれる。そのとき、その人は愕然とさせられる。「私は自分がこんな者だとは一度も考えたことがなかった。おゝ! 私が些細なことと考えていた罪は、途方もない高さに膨れ上がった。私がもぐら塚と思っていたものは、山になってしまった。それは以前は壁をつたうヒソプだったのに、今ではレバノンの杉のように育ってしまった。おゝ」、とその人は自分の内側で云う。「私は改善してみよう。この暗黒の行為を洗い流せるだけの善行を行なおう」。そこへ聖霊がやって来て、それが彼にはできないことを示し、その人の空想上の力や強さをことごとく取り除き、その人が苦悶して膝まずき、こう叫ぶようにさせる。「おゝ! かつて私は、自分の善行で自分を救えると思っていた。だが、今や私は悟っている。

   『燃ゆる熱心(おもい)も
    たぎつ涙も
    罪あがなえじ
    主のみ救わん』」。

そのように、その心は考え、その人は今にも絶望しそうになる。そして彼は云う。「私は決して救われることはできない。何も私を救うことはできない」。そのとき、聖霊がやって来て、その罪人にキリストの十字架を示し、彼の目に、天的な目薬を塗り、こう云われるのである。「彼方にある十字架を見るがいい。あの《人》は罪人たちを救うために死なれたのだ。あなたは自分が罪人だと感じている。あの方はあなたを救うために死なれたのだ」。そして御霊はその心が信じて、キリストのところに来られるようにしてくださる。そして、この甘やかな御霊の引き寄せによってキリストのところに来るとき、その心は、「人のすべての考えにまさる神の平安が、自分の心と思いを私たちの主イエス・キリストにあって守ってくれる」*[ピリ4:7]のを見いだす。さて、あなたははっきり悟るであろう。こうしたすべてが、いかなる無理強いもなしに行なわれうることが。人は、あたかも全く引き寄せられていないかのように、喜んで引き寄せられるのであり、完全な同意をもって、キリストのところに来るのである。それは、あたかも何ら隠れた影響力が自分の心に行使されたことなどないかのような完全な同意である。しかし、その影響が行使されない限り、いかなる人も決して主イエス・キリストのところに来ることも、来たいと思うこともなかったし、今後もないであろう。

 III. さて今、しめくくりに、また結論として私たちは、この教理を1つ実際的に適用してみることにしよう。それは、慰めに満ちた適用になると思う。「よろしい」、とある人は云うであろう。「もしこの人が説教していることが正しいとしたら、私のキリスト教信仰はどうなるであろう? よいか。私は長い間ずっと試してきたのだ。そして、人には自分を救えないなどという話は聞きたくないのだ。私は人にはそうできると信ずるし、私はやり遂げるつもりだ。だがもしあなたの云うことを信じなくてはならないとしたら、私は何もかもご破算にして、一から出直さなくてはならないではないか」。私の愛する方々。もしあなたがそうするとしたら、それは非常に幸いであろう。たといあなたがそうするとしても、私が少しでも驚くと思ってはならない。覚えておくがいい。あなたが行なっているのは、砂の上に自分の家を建てているようなものであり、もし私があなたのためにそれを少し揺さぶることができるとしたら、それは愛の行為にほかならない。神の御名によってあなたに請け合わせてほしい。もしあなたのキリスト教信仰があなた自身の強さ以上にまともな土台を有していないとしたら、それは神の法廷においてあなたを立たせはしないであろう。永遠に残るものは、永遠からやって来たもののほかにない。永遠の神があなたの心の中で良い働きをなさっておられない限り、あなたが行なってきたかもしれないすべてのことは最後の精算の日にはばらばらにならざるをえない。あなたが自分の隣人たちに対して正直であろうと、あなたの生き方において良い評判を得ていようと、すべてはむなしい。もしあなたがこうした事がらによって救われたいと思っているなら、あなたがそれらに頼ることはみなむなしい。行くがいい。自分にできる限り正直になるがいい。常に安息日を守り、できる限り聖なる者となるがいい。私はあなたがこうしたことを行なうのを思いとどまらせようとしているのではない。決してそうではない。こうした事がらにますます進むがいい。だが、おゝ、これらにより頼んではならない。というのも、もしこうした事がらにより頼むとしたら、あなたはこれらが、最も必要な場面であなたを裏切ることに気づくであろうからである。そして、もしあなたが、天来の恵みの助けなしに自力でできると見いだしたことが何かあるとしたら、それを土台としているような希望は、早めに取り除くに越したことはない。というのも、肉に行なえる何かに頼みを置くのはとんでもない迷妄だからである。霊的な天国に住めるのは、霊的な人々しかいない。そして、そのための備えは、神の御霊によってなされなくてはならない。「ですが」、と別の人が叫ぶであろう。「私がずっと話を聞いてきた牧師先生は、人は自分の選択によって悔い改めて、信ずることができるのだと云っていました。それで私は、それを毎日先延ばしにしてきたのです。私は、キリストのところにきょう行こうが明日行こうが同じだと思っていました。『主よ。私をあわれんでください』、と云って信じさえすれば良いのです。そうすれば、私たちの主は救ってくださるのです。ところが先生はこうしたすべての希望を私から取り除いてしまいました。先生、今の私は、もう驚きと恐れで一杯です」。もう一度、私は云う。「愛する方よ。私はそれを聞いて非常に嬉しく思う。これこそ、私が生み出したいと願っていた効果なのだ。私は、あなたがそうしたことを、より深く感じられるように祈りたい。あなたが自分で自分を救うという希望を全くなくしたときこそ、神があなたの救いを始められたという希望があるのである。あなたが、『おゝ、私はキリストのところに来ることができません。主よ。私を引き寄せ、私を助けてください』、と云うや否や、私はあなたについて喜ぶであろう。意志を得た人は、その力はなくとも、心の中で恵みが始まったのであり、神はそのみわざが完成するまでその人からお離れにならないであろう」。しかし、無頓着な罪人よ。あなたの救いがいま神の御手の中にあることを学ぶがいい。おゝ、覚えておくがいい。あなたは全く神の御手の中にあるのである。あなたは神に対して罪を犯してきた。そして、もし神があなたを罪に定めようとお望みになれば、あなたは罪に定められるのである。あなたはそのみこころに逆らうことも、そのご計画の裏をかくこともできない。あなたは神の御怒りに値しており、もし神がその御怒りのすべてをあなたの頭上にぶちまけることをお選びになるとしたら、あなたはそれを逆戻りさせることが全くできない。それとは逆に、もし神があなたを救うことをお選びになるとしたら、神はあなたを完全に救うことがおできになる。しかし、あなたは神の御手の中にある。あなたがその指で押さえつけている夏の蛾も同然である。このお方は、あなたが日々深く悲しませている神であられる。こう考えることは、あなたを身震いさせないだろうか? あなたの永遠の運命は、今や、あなたが怒らせ、憤らせてきたお方の意志にかかっているのである。これはあなたの膝をがくがくと震わせないだろうか? あなたの血流を凍らせないだろうか? もしそうだとしたら、私はそれを喜ぶ。それは、御霊があなたの魂の中で引き寄せておられる最初の効果でありえるからである。おゝ、このことを思っておののくがいい。あなたが怒らせてきた神こそ、あなたの救いを、あるいは、あなたの断罪を完全に意のままにすることのできる神であられるのである。おののきつつ、「御子に口づけせよ。主が怒り、おまえたちが道で滅びないために。怒りは、いまにも燃えようとしている」[詩2:12]。

 さて、思い巡らすべき、慰めに満ちたことはこのことである。――あなたがたの中のある人々は今朝、自分がキリストのところに来つつあることを意識している。あなたは悔悟の涙を流し始めてはいないだろうか? あなたの私室は、あなたが祈り深く神のことばを聞くための備えをしたのを目撃しなかっただろうか? そして、今朝の礼拝の間、あなたの心はあなたの内側でこう云わなかっただろうか? 「主よ。私を助けてください。私は滅びそうです。私には自分を救えませんから」、と。また、あなたは今、その座席から立ち上がって、こう歌えるではないだろうか?

   「主権(たか)き恵みよ、わが魂(たま)屈しぬ。
    手を引かれ行かん 勝ち誇りつつ。
    われは望みて 主のとりことなり
    誉れ歌わん、主のみことばの」。

そして、私自身、あなたが自分の心の中でこう云っているのを聞いたではないだろうか?――「イエス様、イエス様。私の全心はあなたのうちにあります。私は、自分自身のいかなる義も、私を救えないと知っています。救えるのはただあなただけです。おゝ、キリストよ。――乗るにせよ反るにせよ、私はあなたに身をねだねます」。おゝ、私の兄弟。あなたは御父によって引き寄せられている。というのも、御父があなたを引き寄せられなかったとしたら、あなたがそこまで来ることはありえなかったからである。甘やかな思いよ! そして、もし御父があなたを引き寄せられたとしたら、あなたはその最も喜ばしい推論が何か分かっているだろうか? ある聖句を繰り返させてほしい。そして、それがあなたを慰めてくれるように。「主は遠くから、私に現われた。『永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたを、恵みによって引き寄せた』」[エレ31:3 <英欽定訳>]。しかり。私のあわれな涙する兄弟よ。あなたが今キリストのところに来つつある限りにおいて、神はあなたを引き寄せておられる。また、神があなたを引き寄せておられる限りにおいて、それは神があなたを世界の基の置かれる前から愛しておられた証拠である。あなたの心を胸のうちで躍り上がらせるがいい。あなたは神の民のひとりなのである。あなたの名前は《救い主》の御手の上に、それがあの呪われた木に釘づけられる前から書き記されていたのである。あなたの名前は、きょう、かの偉大な《大祭司》の胸当ての上できらめいているのである。左様。そして、それは明けの明星がその場所を知り、数々の惑星がその軌道を走る前からそこにあったのである。主にあって喜ぶがいい。あなたがた、キリストのところに来た人たち。そして、喜び叫ぶがいい。あなたがた、御父によって引き寄せられた人たち。というのも、これこそあなたの証拠、あなたの厳粛な証言だからである。あなたは、永遠の選びによって、数ある人々の中から選ばれていたのであり、信仰により、神の御力によって守られており、やがて現わされるように用意されている救いをいただくのである[Iペテ1:5]。

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人間の無能力[了]

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