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「この儀式はどういう意味ですか」
---- 私たちは、この世のすべてを贖いに照らして眺めるべきである。そうすれば、正しい見方ができるであろう。《摂理》を人間の功績という観点から眺めるか、十字架の根元から眺めるかでは、天と地ほどにも違う。何かを真に見てとりたければ、イエスが私たちの光でなくてはならない。万物はこの硝子――贖罪のいけにえという紅玉の硝子――を通して眺められるとき、その真の姿を現わす。この十字架という遠眼鏡を用いるがいい。そうすれば、はるか遠方を明瞭に見ることができよう。十字架を通して罪人たちを見るがいい。十字架を通して聖徒たちを見るがいい。十字架を通して罪を見るがいい。十字架を通してこの世の喜び悲しみを見るがいい。十字架を通して天国と地獄を見るがいい。《過越》の血がいかに際立たされるべきものであったかを見てとり、そのすべてから学ぶがいい。イエスのいえにえを重視すること――しかり。すべてとすることを。キリストこそすべてだからである。
申命記6章8節には、主の教えについて次のように記されている。「これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい」[申6:8-9]。では律法が、血の記念の間近にくっきりと記されたことを見てとるがいい。スイスのプロテスタント教徒の村々では、門柱の上に聖句が書いてある。私は、英国にもそうした習慣があれば良いのと半ば本気で願うものである。キリスト者である人々の玄関先に聖書のことばが下がっているとしたら、歩行者たちに対して、いかに福音の多くの部分が宣べ伝えられることであろう! それはパリサイ人的だと嘲弄されるかもしれない。だが、私たちはそれを克服できるであろう。近頃では、キリスト教信仰に熱心になりすぎるあまり、そうした非難を受けるような人はほとんどいない。私は、聖句を私たちの家々で、あらゆる部屋の中に、天井蛇腹に、また壁に見たいと思う。だが、玄関の外側にあるとしたら――何と見事な広告を福音は安上がりに手に入れることであろう! しかし、注意するがいい。ユダヤ人が自分の門柱に何らかの約束を、あるいは何らかの戒めを、あるいは何らかの教理を書き記したとき、彼は、血で染まった表面に書かなくてはならなかった。そして、翌年の《過越》が巡って来たときには、その書きつけの真上からヒソプで血を振りかけなくてはならなかった。神の律法を、贖罪のいけにえとの関連で考えることは、私にとって非常に喜ばしく思われる。このいけにえこそ、律法を大いなるものとし、誉れあるものとしているのである。神の命令は、贖われた人のようにして私のもとにやって来る。神の約束は、私にとって血で買い取られた人のようである。神の教えは、贖罪が成し遂げられた人のように私を教え導く。キリストの御手の中にある律法は、私たちを殺す剣ではなく、私たちを富ませる宝石である。十字架との関連において受けとられたあらゆる真理は、その価値が大いに高められる。聖書そのものが、主に贖われたものとして私たちのもとにやって来るのを見るとき、また、私たちのために木に釘づけられた愛しい御手のしるしをそのあらゆる頁に帯びているのを見るとき、七倍も親愛なものとなる。
今やあなたにも、分かるであろう。主がエジプトから連れ出された民に、《過越》の子羊の血を高く評価させるために、いかに考えうる限りのあらゆることがなされたかが。そして、あなたや私も、自分に考えられるあらゆることを行ない、キリストの贖罪の犠牲という尊い教理を全面に押し出し、人々の前に永遠に保っておかなくてはならない。キリストは、罪を知らない方だったのに、私たちの代わりに罪とされた。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためである[IIコリ5:20-21]。
さて今、私はあなたに、《過越》の記念に関連したこのならわしのことを思い起こさせよう。「あなたがたの子どもたちが『この儀式はどういう意味ですか。』と言ったとき、あなたがたはこう答えなさい。『それは主への過越のいけにえだ』」[出12:26-2]。
私たちは、子どもたちの思いの中に問いかけを喚起すべきである。おゝ、子どもたちに神の事がらに関する問いを発させることができたらどんなに良いことか! 彼らの中のある者らは、非常に幼いうちから問いを発し、他の者らは大人らとほとんど同じような無関心という病にかかっているように見える。どちらの状態の精神をも私たちは扱わなくてはならない。子どもたちに対して、「主の晩餐の定め」を説明するのは良いことである。というのも、これはキリストの死を象徴で明らかにしているからである。私は子どもたちが今よりも頻繁にこの儀式を見られないことを残念に思う。バプテスマと主の晩餐は両方とも若い世代の見えるところに置いておくべきである。それは、彼らがそのとき私たちに、「これはどういう意味ですか?」、と尋ねるようになるためである。さて、主の晩餐は永久の福音説教であり、おもに罪のためのいけにえに目を向けている。人は贖罪の教理を講壇から追放することはできるかもしれないが、それは常に主の晩餐を通して教会の中で生き続けるであろう。あの裂かれたパンと葡萄の実で満たされた杯を説明するには、私たちの主の贖罪の死に言及しないわけにはいかない。「キリストのからだにあずかること」[Iコリ10:16]を説明するには、私たちの立場を引き受け、私たちの代わりに死なれたイエスを、何らかの形で持ち出さないわけにはいかない。ならば、あなたの小さい者たちに主の晩餐を見せてやるがいい。そして、それが何を示しているかを明確に告げてやるがいい。主の晩餐ではなくとも――というのも主の晩餐は、かの栄光に富む事実そのものではなく、その影でしかないからだが――、私たちの《贖い主》の苦しみと死とを大いに、また、しばしば彼らの面前で詳しく説明するがいい。彼らにゲツセマネのことを、また、ガバタ[ヨハ19:13]のことを、また、ゴルゴタのことを考えさせ、それから彼らに、私たちのためにご自分のいのちを投げ出したお方について、哀調に満ちた調子で歌うことを学ばせるがいい。苦しみを受けられたのはどなたか、また、それはなぜかを彼らに告げるがいい。しかり。この賛美歌は、一部の表現においてはとても私の好みにかなうものではないが、やはり子どもたちにこう唄ってほしいと思う。――
「みやこのそとの とおいみち
みどりのおかに たてられた」そして、私は彼らがこのような節を学んでほしいと思う。
「主は知りぬ、われらが咎を、
御神(みかみ)の罰の 罪に下るを。
そをあわれみて イエスは云いぬ、
われ罰を負わん、その身代わりに」。そして、この最上の主題に注意が喚起されたときには、神が義でありつつ、なおも罪人が義と認められることになる、かの大いなるやりとりについて説明できる用意をしておくがいい。子どもでも、償いとしてのいけにえという教理はちゃんと理解できる。それは、ごく幼い者のための福音となるようにされているのである。代償の福音は、奥義ではあるが単純明快である。私たちは、私たちの小さい者たちが、自分たちの完成された《いけにえ》を知り、それに信を置くまで満足してはならない。これは不可欠な知識であり、他のあらゆる霊的教えに通ずる鍵である。願わくは、私たちの愛する子どもたちが十字架をわきまえ知るようになるように。そうすれば、彼らは幸先の良い出だしを切るであろう。彼らが何をつかむにせよ、まず、このことの理解をつかむように。そうすれば、彼らには正しい土台が据えられるであろう。
このことによりあなたは、子どもに、彼がひとりの《救い主》を必要としていると教える必要が出てくるであろう。この必要な務めを差し控えてはならない。子どもは天真爛漫な性質をしているのだ、だから、それを発展させるだけで良いのだ、などという欺きに満ちたたわごとで、子どもにへつらってはならない。子どもには、新しく生まれなくてはならないと告げるがいい。子どもが無垢だなどというお伽噺でつっかいをしてはならない。むしろ、その子に自分の罪を示すがいい。その子が陥りがちな幼稚な罪を言及し、その子の心と良心のうちに聖霊が罪の確信を作り出してくださるように祈るがいい。年少の者をも、年長の者を扱うのとほとんど同じように扱うがいい。彼らに対しては徹底的に正直であるがいい。薄っぺらなキリスト教信仰は、若い者にとっても年寄りにとっても良いものではない。この男児や女児たちは、私たちの中のいかなる者とも同じくらい確かに、かの尊い血による赦罪を必要としている。ためらうことなく、その子に、自分の滅びを告げるがいい。そうしなければ、その子は救済されたいと願わないであろう。また、その子に罪の罰について告げ、その恐ろしさについて警告するがいい。思いやり深く、だが、真実であるがいい。年若い罪人から真理を隠してはならない。その子が責任のとれる年になっている以上、もしキリストを信じないとしたら、最後の大いなる日は、その子にとって不都合なことになるであろう。その子の前に審きの座を提示し、そこでは肉体にあってしたことについて申し開きをしなくてはならないことを指摘するがいい。良心を覚醒させるように努めるがいい。そして、あなたを通して聖霊なる神が働くように祈るがいい。ついにその心が柔らかくなり、その理性が大いなる救いの必要を悟るときまでそうするがいい。
子どもたちは十字架の教理を学ぶ必要がある。自分が即座に救いを見いだせることを学ぶ必要がある。神に感謝すべきことに、私たちの《日曜学校》では、子どもが子どものまま救われていると信じる。いかに何度となく私は喜ばされたことか。男子や女子が前に進み出てはキリストを信ずる自分の信仰を告白してきたのである! そして、やはり私は云いたいが、これまで私たちが受け入れた中でも最上の回心者、最も明確な回心者、最も聡明な回心者は、年若な者たちであった。そして非常に喜ばしいことに、通常私たちは、彼らが神のことばの知識において、また、恵みの諸教理の知識において何らかの欠けがあるどころか、キリストの大きな枢要な諸真理に精通していることを見いだしてきた。こうした愛する子どもたちの多くは、心の大きな喜びと、知性の力とをもって神の事がらについて語ることができている。進み続けるがいい。愛する教師たち。そして、神があなたの生徒たちをお救いになると信ずるがいい。ひょっとして後年発達するかもしれない諸原理を蒔くだけで満足するのではなく、即座の回心のために働くがいい。あなたの子どもたちが子どもであるまま、彼らの中に実が結ばれるのを期待するがいい。彼らが世の中に突入し、外的な罪の種々の悪に陥ってから、折れた骨をかかえて《良い牧者》のところに戻ってくるようなことがないように祈るがいい。むしろ、彼らが神の豊かな恵みによって無法な者の道を避け、キリストの囲いの中で成長し、最初はその群れの子羊として、やがてはその御手の羊となるように祈るがいい。
1つのことを私は確信している。それは、もし私たちが子どもたちに最も取り違えようのない言葉遣いで贖罪の教理を教えるとしたら、私たちは自分自身に善を施すことになるということである。私は時として、神がご自分の教会の信仰を復興させ、教会をその古の信仰へと回復させるために、子どもたちの間における恵み深いみわざを用いていただきたいと希望することがある。もし神がわが国の諸教会に、若い人々の非常な流入をもたらしてくださるとしたら、無精な者や眠たげな者たちのものぐさな血液をいかに奮い起こすこになるであろう! 子どものキリスト者には、家を生き生きとさせる傾向がある。おゝ、彼らの数がもっと多ければどんなに良いことか! もし主が、子どもたちを教えることを助けてくださりさえしたら、私たちは自分自身を教えることになるであろう。教えることにまさる学びはない。そして、あなたは何事かを人に教えられるようになるまで、それを知ってはいないのである。あなたは、ある真理を子どもの前に提示し、それを悟らせるようになるまで、その真理を徹底的に知ってはいないのである。小さな子どもに、贖罪の教理を理解させようとすることによって、あなたは自分でもそのより明確な見解を得るであろう。それゆえ、私はこの聖い務めを実践するようあなたに勧めるものである。
もし私たちの子どもたちが徹底的にキリストによる贖いの教理に土台を置くようになるとしたら、それは何というあわれみであろう! もし彼らがこの悪い時代の偽りの福音に対して警告されるとしたら、また、もし彼らが完成されたキリストのみわざという永遠の岩により頼むように教えられるとしたら、私たちは自分たちに続く世代が信仰を保ち、その父祖たちにまさるものとなることを希望できるであろう。あなたがたの《日曜学校》は称賛に値するものである。だが、もしその中で福音が教えられないとしたら、それは何のためのものだろうか? あなたは子どもたちを集めて、一時間半ほど静かにさせておいてから、家に帰らせる。だが、それが何になるだろうか? そうすることで彼らの父母には多少の静寂がもたらされるであろうし、ことによると、それこそ彼らが子どもたちを教会学校に送ってよこす理由かもしれない。だが、真の益は、ことごとく子どもたちに教えられることの中にある。最も根本的な真理こそ、最も顕著なものとされるべきである。そして、それは十字架でなくて何であろう。一部の人々は子どもたちに向かって、良い男子、良い女子になること等々について語る。つまり、彼らは律法を子どもたちに説教しているのである。彼らが成人に対しては福音を説教していようが関係ない。これは正直なことだろうか? 賢明なことだろうか? 子どもたちには福音が必要である。完全な福音、混ぜ物のされていない福音が必要である。彼らには福音が教えられるべきであり、神の御霊によって教えられるなら、彼らも円熟した年の人々と同じくらいそれを受け入れることができるのである。小さい者たちに教えるがいい。イエスが死なれたことを。正しい方が悪い人々の身代わりとなったことを。それは、私たちを神のみもとに導くためであったことを[Iペテ3:18]。まことに、まことに、確信をもって私はこの働きを教会学校の教師たちの手にゆだねる。私の知る限り、これほど高貴なキリスト者の男女はどこにもいない。というのも、彼らは《昔からの福音》に対するその愛着の熱心さにおいては、魂をかちとる真剣さにひけを取らないからである。勇気を出すがいい。あなたの生徒たちのこれほど多くを救ってきた神は、これからも非常に多くの生徒たちをお救いになる。そして、私たちは、何百人もの子どもたちがキリストのみもとへ導かれるのを見て、大きな喜びを得るであろう。
[了]
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