HOME | 目次 | NEXT

----

幼子テモテとその教師たち

----

 最近の世界には――悲しいかな!――あまりにもキリスト者の母親や祖母の数が乏しいがために、教会は、その助成部門でなされる教育によって、家庭での訓育を補ってやることを賢明であると考えている。むろん、そうした親を持たない子どもたちに対して、教会はその母親的な配慮を差し伸ばしている。これは非常にほむべき制度だと思う。多くの兄弟姉妹が、自分の聖日をささげ、また大部分の人は平日の夜の相当な部分をもささげて、他人の子どもたちの教育にあたり、そのうちに、わが子同然の情愛を注ぐようになっていく。私はこうした兄姉に感謝するものである。彼らは、自分の両親からないがしろにされている子どもたちに対して、父親や母親のなすべき義務を果たそうと神のゆえに努力している。そして、その点でよくやっている。だが、いかなるキリスト者の両親も、思い誤らないでほしい。《日曜学校》は、彼らの個人的な義務を軽減するためのものではない。物事の第一にして、最も自然な状態は、キリスト者の両親が、自分で自分の子どもたちを、主の教育と訓戒によって育て上げることである[エペ6:4]。聖なる祖母や、恵みに満ちた母たちは、その夫たちとともに、自分の家の男の子や女の子たちが、《主の書》においてよく教えられるように気を配るがいい。そのようなキリスト者の親がいない場合には、良き代理として、敬虔な人々が賢く介入すべきである。本来なすべき側が義務をほったらかしにしている際に、他の者らがそれを引き受けるのはキリストに似た働きである。主イエスは、ご自分の小羊を飼い、ご自分の赤子に乳を飲ませる者たちを喜び眺めてくださる。「この小さい者たちのひとりが滅びること」は、主のみこころではないからである[マタ18:14]。テモテは、本来なすべき義務を果たす人々によって教えられるという大きな特権を有していた。だが、そうした大きな特権が得られないところでは、私たちはみな、神の御助けに従って、努めてその子どもたちが忍んでいる大きな損失の埋め合わせをしてやろうではないか。前に進み出るがいい。熱心な男女よ。自分自身をこの喜ばしい奉仕のために聖別するがいい。

 この命令の主題に注意するがいい。「あなたは……幼いころから聖書に親しんで来た」[IIテモ3:15]。彼[テモテ]は、神の書を大きな崇敬の念をもって接するように指導されてきた。私は「聖書」という言葉を強調したい。《日曜学校》の第一の目的の1つは、この聖なる書物、この霊感された聖書に対する大きな崇敬の念を教えることであるべきである。ユダヤ人は旧約聖書を何物にもまさる、きわめて貴重なものとして尊重していた。そして、確かに不幸にも彼らの多くは文字に対する迷信的な崇敬に陥り、その精神を失ってしまったとはいえ、それでも彼らは、この聖なる神託に対するその深い尊敬という点で賞賛に値している。特にこの尊崇の念こそ最近必要とされるものである。私は奇妙な見解をいだいている人々に出会うことがままあるが、私が彼らの見解よりも、また、その奇妙さよりも、ひときわまさって危惧するのは、そうした新奇な考え方の背後に匂う、あることである。私が彼らの見解が非聖書的であると証明しても、彼らがまるで聖書に頓着しないためにその証明が無益であるのを見いだすとき、私は単なる教理的な「へま」をはるかに越えて危険な原理を見いだしているのである。この聖書に対する無関心さこそ、今時の教会の大いなる呪いにほかならない。私たちは、この《法令全書》[聖書]に従おうという誠実な意図が察知できる限り、互いに異なる種々の意見にも寛容でいられる。しかし、もしこの《書》そのものがあなたにとって、ほとんど何の権威も有していないというようなことだしたら、それ以上討議する必要はない。私たちは、陣営を異としているのである。そのことを認めるのが早ければ早いほど、関係者全員にとって幸いであろう。いやしくも神の教会をわが国に有するというのであれば、聖書は聖なるものとみなされなくてはならず、畏敬とともに扱われなくてはならない。この聖書は、聖なる霊感によって与えられたものであり、茫漠とした神話だの、あやしげな伝承だのの成果ではない。また、人間の生み出した最上の書物の1つとして、適者生存の原理によって流れ下ってきたものではない。聖書は、いと高き聖なる神の無謬の啓示として、私たちの子どもたちに与えられなくてはならず、私たちもそのようなものとして受け入れなくてはならない。このことを大いに強調するがいい。あなたの子どもたちに教えるがいい。主のみことばは混じりけのないことば。土の炉で七回もためされて、純化された銀である、と[詩12:6]。このような《神の書》に対する尊重は、最高の程度まで高めるがいい。

 さらに注目したいのは、テモテが教えられたのは、聖なる物事一般をあがめることだけでなく、特に聖書を知ることだったということである。彼の母と祖母による教えは、聖書の教えであった。考えてもみるがいい。もし私たちが日曜日に子どもたちを集めて、彼らを面白がらせたり、その時間を楽しく過ごさせたりするとしたら、あるいは、私たちが平日に行なっているように、道徳教育の諸要素を教えたりするとしたら、私たちは何をしたことになるだろうか? 私たちは、その日にふさわしいこと、あるいは神の教会にふさわしいことを何1つしなかったであろう。考えてもみるがいい。もし私たちが子どもたちに対して、私たちの教会の規則や決まりを特に綿密に教えておきながら、彼らを聖書のもとに連れて来ないとしたら――もし私たちが彼らの前に私たちの教会の基準として定められている本を持ち出しながら、聖書については軽く触れるだけですますとしたら――、私たちは何をしたことになるだろうか? 上記の基準は正しいかもしれないし、正しくないかもしれない。それゆえ、私たちは自分の子どもたちに真理を教えたかもしれないし、過誤を教えたかもしれない。だが、もし私たちが聖書を堅く守るとしたら、わき道にそれることはありえない。このような基準があれば、私たちは自分が正しいことがわかる。この《書》は神のことばなのである。そして、もし私たちがそれを教えるとしたら、私たちは、主が受け入れて祝されるであろうことを教えているのである。おゝ、愛する教師の方々。――そして、私はここで自分に対しても語るものだが――、私たちの教えを、いやまさって聖書的なものとしようではないか! 自分の学級が、私たちの云うことを忘れても苛立ってはならない。だが、主が云っておられることだけは覚えておくように彼らに求めるがいい。願わくは、罪と、義と、来たるべき審きについての《天来の》真理が彼らの心に書き記されるように! 神の愛と、私たちの主イエス・キリストの恵みと、聖霊の働きに関して啓示された真理を、彼らが決して忘れることがないように! 願わくは彼らが、私たちの主の贖いの血の功徳と必要、主の復活の力、主の再臨の栄光を知ることができるように! 恵みの諸教理が、鉄の筆を用いたかのように彼らの思いに刻みつけられ、金剛石の尖りで記されたかのように彼らの心に書きつけられて、決して消されることがないように! こうしたことがなされたとしたら、私たちは生きてきた甲斐があるというものである。いま支配している世代は、神の永遠の真理から離れ去ろうと決心しているように見受けられる。だが、次代の若者たちの記憶に福音が銘記されているとしたら、私たちが絶望することはないであろう。

 この点についてさらに云うと、幼少の頃のテモテは、この教えが実際に効力のあるものであると教えられていたように思われる。「あなたは……聖書に親しんで来た」、とパウロは云う[IIテモ3:15]。ある子どもが「聖書に親しんで」いると云われるのは、大したことである。あなたは云うであろう。「私は子どもたちに聖書を教えてきました」。だが、それと彼らが聖書に親しんでいることとは全くの別物である。あなたがた、成人した人々の全員は聖書に親しんできているだろうか? 残念ながら、一般的な知識は増し加わっているものの、聖書の知識はずっとまれではないだろうか? もし私たちがいま試験をするとしたら、おそらくあなたがたの中のある人々は、結果的にはほとんど冴えない成績をおさめることになるのではないかと思う。しかし、ここに聖書に親しんでいる子どもがいるのである。尋常ならざるほど聖書に精通している子どもがいるのである。子どもたちは、自分でも、それが決して達成不可能なことではないとわかるものである。愛する方々。神があなたの努力を祝福してくだされば、あなたの子どもたちは、その救いに必要な聖書のすべてに親しむことができるであろう。自分の母親と同じくらい真実な罪観をいだけるであろう。自分の祖母と同じくらい明確な贖罪観をいだけるであろう。私たちのいずれにも劣らぬくらいはっきりとしたイエスを信ずる信仰を持てるであろう。私たちの平安のために役立つ事がらは、いかなる経験の厚みも必要とせずに受け取れるものである。それらは、単純きわまりない思想の中にあるからである。それらを読む者は走れるであろう。また、走れるようになった子どもなら、それらを読めるであろう。福音の中には子どもたちに受け入れられないような真理がある、などという意見は、子どもたちを妨げる大間違いである。年長の人々は小さな子どものようにならなければ御国に入れない。子どもたちには、良い土台を作ってやるがいい。《日曜学校》の務めをないがしろにしてはならない。それをぞんざいに行なってはならない。子どもたちを聖書に親しませるがいい。聖書が他のどの人間の書にもまして開かれ、事を調べられるようにするがいい。

 この務めを活気づかせるのが、救いに至る信仰である。聖書が人を救うことはないが、それは人に知恵を与えて救いを受けさせることができる。子どもたちは聖書を知りながらも、神の子らとなっていないことがありえる。イエス・キリストを信じる信仰は、即座に救いをもたらす恵みである。多くの愛する子どもたちは、ごく幼少のうちに神から召されるので、正確にいつ自分が回心したのか指摘できない。だが彼らは回心したのである。何らかの時点で死からいのちへ移ったのである。あなたは今朝、いくら目をこらしていても太陽がいつ昇ったかを告げることはできなかったであろうが、太陽が昇ったことは確実である。そして、太陽が地平線の下にあった時があれば、それが地平線の上に昇っていた時もあるのである。私たちの目につこうがつくまいが、ひとりの子どもが真に救われる瞬間とは、その子が主イエス・キリストを信ずるときにほかならない。ことによると、何年もの間、ロイスとユニケは、彼女たち自身がイエス・キリストを知る前から、テモテに旧約聖書を教えていたのかもしれない。だとすると、彼女たちは本体なしの予型を――解答なしの謎を彼に教えていたのである。だが、それらすべてにもかかわらず、それは良い教えであった。それはみな彼女たちがそのとき知っていたすべての真理だったからである。しかしながら、私たちの務めは何といやまさって幸いなことか! 私たちには、旧約聖書の説明となる新約聖書があり、主イエスをはっきり教えることができるからである。私たちは、私たちの愛する子どもたちが、テモテよりも幼い時期にさえ、キリスト・イエスが聖書の要約であり実質であるとの考えをつかめると期待してよいではないだろうか。また、主を信ずる信仰によって神の子どもとなる特権を受けられると期待してよいではないだろうか。私が単純にそう云うのは、すべての教師たちにこう感じてほしいからである。すなわち、たとい彼らの子どもたちがまだ聖書のあらゆる教理を知ってはおらず、たとい彼らの精神ではまだ把握できない高遠で、深遠な真理がいくつかあるとしても、それでも、子どもたちは、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせる知恵を与えられるや否や、救われることができるのだ、と。聖書で述べられている通りの主イエスを信ずる信仰は、確実に人を救うものである。「もしあなたが心底から信じるならば、よいのです」、とピリポはあの宦官に云った[使8:37 <英欽定訳>]。そして私たちは、同じことをあらゆる子どもに云いたい。もし君がイエス様を信ずると告白できる本当の信仰を少しでも持っているなら、君の信仰を告白していいのだよ。もし君が、イエス様がキリストであると信じ、そのようにしてイエス様に自分をおまかせするのなら、君は白髪頭の年取った人と同じくらい本当に救われているのだよ、と。

 キリスト・イエスを信ずるこの信仰によって、私たちは救いのうちを歩み続け、前進し続ける。キリストを信ずる瞬間に私たちは救われる。だが私たちは、やがてそうなるほどには、また、自分の望むほどには、いきなり賢くなるわけではない。私たちは、いわば、愚鈍なまま救われることがありえる。――もちろん、これは比較的な話である。だが、望ましいのは私たちが、自分のうちにある希望について説明を求める人には弁明でき[Iペテ3:15]、救いに至る知恵を与えられることである。信仰によって子どもたちは小さな弟子となり、信仰によって彼らはより熟練した者たちとなっていく。いかにして私たちは知恵に進むことができるだろうか? 信仰の道を捨てることによってではない。むしろ、すでに学び始めたキリスト・イエスを信ずるその同じ信仰を堅く保つことによってである。恵みの学び舎において、信仰は偉大な教員であり、それによって私たちは知恵に進むのである。もし信仰によってあなたがイ、ロ、ハを云うことができているとしたら、信仰によってニ、ホ、ヘを云うようになるのでなくてはならない。そのようにして、四十八文字の最後に至り、この《知恵の書》の専門家となるのでなくてはならない。もし信仰によってあなたが、単純な信仰という綴り字教本を読めるのだとしたら、同じキリスト・イエスに対する信仰によって、完全な確信という古典書を読み進め、御国の弟子となった学者[マタ13:52]とならなくてはならない。それゆえ、屈することなく信仰を実践し続けるがいい。この道から多くの人々がわきへそれていった。近頃の人々は、彼らのいわゆる思想によって、進歩を遂げようとしている。彼らは、むなしい空想や思弁のことをそう云うのである。だが、私たちは疑惑によっては一歩も先に進むことができない。私たちの進歩は、唯一、信仰によってのみなされる。「私たちの死んだ自我の飛び石」などというものは、実際、死と滅びへと下っていく飛び石のほか何もない。いのちと天国に至る唯一の飛び石は、私たちの信仰に啓示された神の真理においてのみ見いだされる。神を信ずるがいい。そうすれば、あなたは進歩するであろう。それで、私たちの子どもたちのために祈りをささげようではないか。絶えず彼らがより多く知り、信じていくようにと。というのも、聖書は彼らに知恵を与えて救いを受けさせることができからである。だが、それは唯一、キリスト・イエスに対する信仰によってなされる。信仰こそは目指すべき成果である。任命され、油注がれ、高く上げられた《救い主》に対する信仰こそ目当てである。これこそ、私たちがこの小舟たちを導いていく停泊地である。ここで彼らは完全な安全のうちにとどまるからである。

 健全に教えられた聖書は、生きた信仰によって活性化されるとき、堅固な人格を作り出す。幼い時から聖書に親しんで来た人は、キリストを信ずる信仰を得るとき、変わることなき神のことばという恒久的な原則の上に基礎を置いた、確固たる人となるであろう。

 おゝ、教師の方々。あなたに何ができるか見てとるがいい。あなたの日曜学校には、未来の伝道者たちが座っているのである。その幼稚科には、どこか遠方の国に赴く使徒が座っているのである。愛する姉妹。あなたの指導のもとにやって来るのは、未来のイスラエルの父祖かもしれない。愛する兄弟。あなたの教鞭のもとにやって来るのは、いずれ激戦地で主の旗印を支えることになる者たちであろう。時代は、あなたの学級が開かれるたびに期待の目を注いでいる。おゝ、願わくは神があなたを助けて、あなたの務めをしかるべく果たさせてくださるように! 私たちは1つの心、1つの魂をもって祈るものである。主イエス・キリストが、きょうのこの日から再臨なさるそのときまで、私たちの《日曜学校》とともにいてくださるように、と。

[了]

HOME | 目次 | NEXT