HOME | TOP | 目次 | BACK


4.
キルマコルムの教区民へ

私たちの主イエス・キリストにあって愛するみなさん。

 恵みとあわれみと平安がありますように。あなたがたの手紙を受けとったのは、これ以上ないほどの激務が私に押し迫っているときでした。今、私たちの教会は、私たち全員が公に助けを与えなければならない状態にあるからです。けれども、両方のお手紙の題目には答えざるをえないでしょう。ただ、これ以後は、私が手紙を書けるときを選んでいただければ、と思います。

 こうした問題については、みなさんのところにも有能な方々がおられるのですから、私を気軽に手紙で答えてくれる人というふうに思い込まれては困ります。いくら有能な人でも力が足りないことはわかります。しかし、イエスの御霊のみこころは、枯木の一本を通してその芳しい風を吹き送り、このうつろな葦が何の栄光も持たないようにすることなのです。しかし、牧師はそのような風を自分で起こすことはできません。それが吹き抜ける通路を貸すことすら、まずできないのです。

 この御霊の風は、時として強く、激しく吹いて、鉄の扉をも突き通すほどになる時があることを知っていてください。そして、それは他のどんなときよりもキリストのために苦しみを受けるときによく起こるのです。病んでいる子らはキリストの慰めと楽しみを受けます。キリストはご自身苦しみを受けられたので、苦しむ者に対して最も優しくあられるのです。おゝ、苦しむ者の小卓子から落ちるパンくずをいただけたらどんなにいいかと思います。ですが、このことはこれくらいにして、お手紙に答えましょう。

 I. あなたがたは、自分たちには神への誓いが重くのしかかるように感じられ、安逸をむさぼる心は強く、弱い者らには生来の心に近い思いが忍び込んで来ている、と云います。答えましょう。

 1. 天国にはいるまでは、どれほどすぐれた者でさえまどろんだ思いを持っていることは明らかです[雅5:2; 詩30:6; ヨブ29:18; マタ26:43]。天性は怠惰なもので、信仰に励むことをいといます。ですから私たちは、病が去り、快方に向かっていると知り、熱が下がってきたことがわかるまで、安らぎを受けるべきではないのです。安逸のうちにあるときこそ、私たちは信仰によって腐敗に対する勝利を得、静けさと安息を楽しむべきです。それは、もし眠るのならば、キリストの胸の中で信仰の眠りを楽しみたいと願うようになるためです。

 2. 熟睡している者は眠気を訴えないということも知っておきなさい。魂のまどろみを悲しむ思いは、どこかで霊が目覚めている証しです。しかし、この思いはすぐに放縦に変わってしまいます。内側の恵みは、あまりにも乱用されるのです。ですから、油断せず目を覚ましていなくてはなりません。さもないと、注意していても私たちは眠ってしまうでしょう。また罪を警戒するのと同じくらい、恵みをも警戒する必要があります。満ち足りた人はすぐに眠りに落ちます。そして、それは飢えた人が眠るよりも早いのです。

 3. 盗人のように忍び込んでくる安逸の思いを遠ざけられずにいる弱さについては、2つのことを云いましょう。(1) 弱さを嘆かずにいられるのは天国のありさまであり、罪を犯さない御使いたちのものです。地上でキリストの軍勢に属するキリスト者にあることではありません。弱さこそ、私たちを贖われた者たちの教会とし、仲保者キリストの働かれる場としてくれるものだと思います。地上に何の病気もなければ、地上で医者は必要ないでしょう。もしキリストが弱さをけなすのであれば、ご自分の使命をけなしたことになるのです。しかし弱さは私たちの仲保者の世界であり、罪こそキリストの唯一の市場であり交易場です。だれも弱さや病を喜ぶべきではありませんが、はれものただれには、ある種の喜びを感じていいのではないかと思います。そうしたものがなければ、(殺された主としての)キリストの指が私たちの膚に触れることは決してなかったでしょう。私は自分に感謝しようなどとは思いませんが、神の摂理の深さに感謝をささげます。神はその賢きご配慮によって、私の生きる限り、私の内側にあるもののためにキリストが私を訪れ、薬と癒しの香油を携えて来てくださるようにしてくださったのです。おゝ、罪人にとって自分の弱さをキリストの力強い御手の上に置くことは何と素晴らしいことでしょう。病んだ魂をこのような医師にゆだね、その前で弱さを打ち明け、泣いて懇願し、祈ることができるとは、何と甘やかなことでしょう。私たちが口を開けないときも、弱さは言葉を発し、泣くことができます。「わたしがあなたのそばを通りかかったとき、あなたが自分の血の中でもがいているのを見て、わたしは血に染まっているあなたに、……『生きよ。』と言った」*(エゼ16:6)。そのときの教会は、キリストに向かって一言も語ることができませんでした。しかし、血と罪深さが声の限りに叫び立てて、キリストのあわれみを引き出し、いのちと愛のことばを語らしめたのです。(2) 弱さについてですが、私たちに弱さがあるのは、この弱さゆえにキリストの力を私たちが楽しむためです。弱さは私たちを何よりも強くしてくれるものです。それはすなわち、私たちが自分の力は何もなく、キリストに背負われ、いわばキリストの御足の上を歩いているという時のことです。私たちの罪深い弱さがふくれ上がって空の雲にまで達するときにも、キリストの力は太陽にまで達し、天の天をも越えて広がることでしょう

 II. 新しく信じた人を強めるために助言がほしいとのことですが、これにはほとんど何も云えません。自分でもあまり良い始め方をしたわけではありませんから。けれども誠実に歩みはじめる人が、麗しき主イエスご自身によって養われることは知っています。主は、光と闇の間で戦う貧しい者のほの暗い蝋燭を決して消されません。もし新しく信じたその人がキリストにすがり、自分の魂を注ぎ出し、一口でもその甘美な愛を楽しむことを執拗に求めるのであれば、確かにその人は正しい求め方をしたのです。ひとたびキリストの麗しい愛の中に足を踏み入れた人は、再び自由になろうと思っても、なれるものではありません。もしだれか新しく信じた人でキリストから離れ、キリストを見失ってしまうような人がいるなら、その人はキリストをキリストとして拠り所としたのではないのです。それは、イエスに似た偶像であり、それをキリストと取り違えていたにすぎません。

 III. あなたがたは、自分たちの地区では死んだような牧会しかなされていないと不平を云っています。しかし、自分たちの間にある聖書が結婚契約書であることを思い出すべきです。また、キリストがその愛をあなたがたの心に伝える方法は、生き生きとした説教だけに全く依存しているわけではありません。人間の唇を通してでなければ回心がありえず、神のいのちが絶えてしまうなどということはないはずです。エルサレムの娘たちは、しばしば夜回りたちにもできなかったことをなしとげました[雅5.8-]。キリストをあなたがたの牧会者としなさい。キリストは野の岩地の方でも魂を追い求めることができます。たとえ群れが羊飼いの天幕の中にかれを求めざるをえなくさせられていても、かれは私たち人間を必要とするわけではありません。群れを養うことを心にかけないしもべたちのもとでさえ、キリストを形づくろうという思いは成長します。おゝ、人を越え、講壇を越えてキリストを仰ぎ見ることのできる魂は幸いです。私たちがみな死んで腐ったような牧会しかできなくとも、キリストは心の奥底に語り聞かせることがおできになるのです。

 IV. あなたがたの自分に対する不満は、内におられる主の御霊を正しいと認める限りにおいて、神の正しさを認めるものとなります。なぜなら人は、自分の内側のサタンの働きや罪に対して逆らい立つよりは、自分のうちなる神のみわざに対して逆らい立つことの方が多いからです。神の民のうち、ある者らは、不平を訴えつぶやくみじめな者どものよくするように(「自分には何もない。すべてなくなってしまった。地面からは雑草と麦がらしか生えてこない」、というように)、自分の魂の中で働く神の恵みをけなすのです。実は彼らには豊かな収穫があり、銀行には貯蓄があるのですから、それは嘘なのです。しかし、おゝ私についてはどうでしょう。このような罪を犯しているとは思いません。それほどの才覚はありませんから。けれども私は忠告します。キリストの美しさと甘やかさをたたえ、自分たちに対するかれの恵みについてたたえるようにしなさい

 V. 光はあっても勤勉に励むことができない、とあなたがたは云います。こうした不平が新約聖書に記されていないか見てみなさい。そこにはこうあります。「私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがない」(ロマ7:18)。しかし、このようにつぶやく人がみな、パウロの心を持っているわけではありません。なぜなら私たちの不平は、しばしば卑屈さから、魂におけるキリストの新しいみわざをけなし、中傷しているにすぎないことがあるからです。けれども、こうした不平の件については、もし、目に見られ、人に知られた主を愛し、喜び、頼りにするなら、私たちは完全に栄光の主に従っていると云えましょう。しかし、その光は土でできた肉体の手の届くところにはありません。地上にとどまっている限り、この光は、私たちのかぼそく無価値な従順など及びもつかぬ広大無辺の極みであるからです。ですが、もしそこに光があり、なさねばならないとわきまえ知っていながら不完全にしか実行できないことを責め、悲しむ思いが常に途切れることなく、しっかりと(軍隊用語で云えば)後詰めの援護を受けているなら、主は、行なっていない悲しみを、行なったものとして受け入れてくださいます。私たちの正直な悲しみと真摯な志こそ、私たちの行ない得たところを受け入れ、行ない得ないところを赦してくださるようにと神に求めるキリストのとりなしとともに、私たちが境を越えて別の国に入るときまで、私たちのいのちでなくてはなりません。天に至って初めて、律法は完璧な魂によって全うされるのです。

 VI. キリストの御臨在がないときには、恵みの手段を用いようという思いはあっても、形ばかりの浅薄な行為を行なった後、重苦しさだけが残るということです。私も、キリストの御臨在がないときは行ないがにぶることを認めます。しかし、あなたがたの云うのが、慰めの欠けや、主の甘やかな臨在感の欠如ということなら、それは私たちのキリストに対する罪ということではなく、単にキリストが私たちをためしておられるのだと思います。ですから、たとえ私たちの従順が喜びによって甘みをつけられなくとも(喜びとは子どもがいつもほしがる砂糖菓子です)、少ない喜びにもかかわらず意欲をもって従えば、それだけ私たちの従順は、形式的なものでなくなるのです。たとえ、そうは思えなくともです。というのは、多くの人は、魂が西から追い風を受け、喜びと臨在感を一杯に帆に受けて、順風満帆で進む船のようにならなければ、形式的で生気のない従順でしかないと考えるようだからです。けれども私はそうは思いません。しかし、もしご臨在の欠如ということを、主の恵みの働きが引き上げられてしまったという意味で用いているのだとしたら、そのような状態にあって、どして恵みの手段を用いようなどという心が起こってくるでしょうか。ですから、そうした従順における重苦しい気持ちについてはへりくだり、意欲が与えられていることについては感謝しなさい。なぜなら、花婿はしばしば花嫁が半分眠っているうちに、彼女を飾り立ててくださっているのです。あなたがたの主は、あなたがたが目にするところ以上に働いておられ、助けを与えておられます。また、たとえ従順において気の重さを感じるとしても、形式だけを重んじたり、死んだような状態にあるよりは、ずっとよいことだと思います。死んだようになるよりは、あなたがたの望む限り、なしうる限り、落ち込みなさい。そして、あなたがたの霊における従順を導きもせず、活発にもしない、どんよりと沈滞した罪の屍を押しとどめなさい。おゝ、腐敗と罪のからだに対して提出された起訴状、苦情は、うるわしき主イエスにとって何と甘やかなものでしょう。云ってよければ、私はこのような場合、キリストが私たちの叫びによって悩まされ、耳をふさがれてしまえばいいとさえ思うのです。使徒も同じようにしています。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」(ロマ7:24)。あなたがたのうちにある罪の律法に対する抗議こそ、罪があなたがたに対して何の支配権も持っていないという法的根拠です。あなたがたの抗議を検討し、判断するよう努力しなさい。そうすれば、キリストがあなたがたの訴えを支持していてくださることがわかるでしょう

 VII. キリストには心からの奉仕をささげるか、さもなければ何の奉仕もしてはならない、とあなたがたは考えています。もしそれが、偽善者のささげるような偽りの心や偽りの奉仕をキリストがお受け取りにならない、ということなら、私もキリストは誠実を受けるか何も受けないかのいずれかであると認めます。しかし、キリストが少しでも気おくれの混じった奉仕を全く受けつけないということであれば、私は天における私の分と、地上における私の一切のものにかけて、それが正しいと認めるわけにはいきません。もしだれかが、天国への道行きを、何のこむらがえりも起こさず、何の曲がり角もなしに歩いていこうとするなら、ひとりぼっちで歩かなくてはならないでしょう。主は私たちの不純なところも欠陥もみなご存知です。そして私たちが、主への従順において弱く、いのちのないことを、喜ぶのではなく十字架として負うとき、主は私たちをあわれんでくださいます。

 VIII. あなたがたの手紙にもあるように、かの偽り者(ヨハ8:44)は、私たちの行ないを形式的であるといって非難します。しかし、あなたがたは、自分の保証人を尊ぶことも、かれが据えてくださった土台を重んずることもできず、ある程度の確信があるとさえ云えないでいます。これに対しては次のように云いましょう。

 1. サタンに代わって、あなたがた自分を責めること、少なくとも自分を吟味し、とがめることは何の罪でもありません。けれども、サタンがあなたがたを非難する目的については警戒しなさい。かれはキリストと私たちの仲を裂こうとしているからです。
 2. キリストに対する信仰を心から喜んで受け入れなさい。キリストは私たちが自分の魂を汚し、自分から忌まわしいものになっても、なお私たちを洗ってくださいます。大きな過ちについても小さな過ちについても、常に贖いの血潮を求めなさい。泉へ至る門を心得ておき、そのかたわらで休みなさい。
 3. 自分の確信を大事にしなさい。これがあなたがたの錨を固定してくれるのです

 IX. 感情が乱れ騒ぐと、落胆してしまい、以前いだいたような御霊による歓喜と慰めとに、再び今生で達することができるかどうかわからなくなる、とあなたがたは云います。したがって問題は、ひとたび確信を受け、罪を抑制した後で、神の子らは絶えざる臨在感と喜びとによって養われるのかどうか、ということでしょう。お答えします。スタートの時点でゴールが見えさえするなら、競技の途中で走者にゴールが見えなくなることがあるとしても、十分ではないでしょうか。何の不都合もないと思います。知恵に富みたもう私たちの主は、私たちが常にキリストの胸元で遊びたわむれているべきではないと思っておられるのです。私たちの愛するお方は、花嫁を競技の終わりへといざなうのにふさわしいと思うだけ、彼女と愛を語り、いとおしまれるのです。けれども、次のようにするなら、新たな慰めを求めてよいと思います。

 1. 慰めを受けるとを主にゆだねて満足する、服従の心をもって求める。
 2. 賛美へ向かって心をわきたたせ、確信を強め、主を求める願いを研ぎ澄ますために求める。
 3. 自分の気分や生まれながらの性質を喜ばせるためにではなく、天国の前味・手付けとして求める。そして私が思うに、多くの人は、自分の罪を殺すとき、前よりも大きな慰めを受けるようです。しかし、私たちの主は、ここでも自由な主権をもって歩むお方であって、ご自分の子らのうちに誰に対しても、寸分違わぬ同じ扱い方をなさることはありません。

 あなたがたとともにいる主の民については、大したことを云って聞かせることはできないと思います。私は、キリストがあなたがたの間で新しい魂をとらえていてくださることを非常に喜んでいます。しかし回心においても、初め良ければ終わり良し、という格言は正しいのです。というのも、多くの人々は、偽りの土台を据えて、適当に回心し、キリストを自分のものとすると、あとはほとんど何もせず、罪のために眠れぬ夜を過ごすことなどとはまるで無縁で、つまりは、締まりのないものを建てるからです。ぜひとも基礎は深く掘るようにしてください。地獄の真上の、地獄に触れんばかりの間近に、地獄の恐れと紙一重のところに建てられたキリストの宮、キリストの新しい住まいほど堅固なものはありません。このような、地獄の上に基礎が置かれ、築かれた天国は、何よりも確かで、冬の嵐にも押し流されません。信仰を告白した人々は、分別のつく前に莫大な財産を手に入れた若い相続人のようではない方がいいのです。そうした人々は、居酒屋やかるた遊びや遊女によって、自分が何をしているかも気づかないうちに、富をすってしまいます。鞭打ちによってかちとられたキリストほど甘やかなものはありません。

 個人的な集まりでは、互いに相談と祈りに励むよう勧めます。その裏づけとして、以下の聖句を参照してください。イザ2:3; エレ50:4、5; ホセ2:1、2; ゼカ8:20-23; マラ3:16; ルカ24:13-17; ヨハ20:19; 使12:12; コロ3:16; 4:6; エペ4:29; Iペテ4:10; Iテサ5:14; ヘブ3:13; 10:25。多くの炭は、火を勢いよく燃え立たせますが、聖徒の交わりにも、それと似たところがあります。

 私はあなたがたと、あなたがたの教区内のキリスト者のご友人に願わなくてはなりません。どうか祈りのうちに私を覚えてください。また、私の群れと牧会のため、また私の転任と異動のためにも祈ってください。そして神とともに、私たちの母なる教会のため熱心を尽くしてください。時間がないため、1つの手紙の中で何もかも述べました。私たちの主イエス・キリストの豊かな恵みが、あなたがたすべてとともにありますように。

[了]

HOME | TOP | 目次 | BACK