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3. 私的判断
----プロテスタント宗教改革という戦いで勝利をかちとった3つの大いなる教理、あるいは原則がある。その3つとは、(1) 聖書の十分性と至高性、(2) 私的判断の権利、(3) 律法の行ないによらない、信仰のみによる義認、である。
この3つの原則は、宗教改革者たちとローマ教会との論争全体を解く鍵であった。もし私たちが、ローマカトリック教徒と論じ合う際にこれらを堅く握っているならば、私たちの立場は難攻不落である。ローマ教会が私たちに対して考案しうるいかなる武器も、物の役には立たないであろう。だが、もし私たちがこれらの1つでも手放すならば、私たちに勝ち目はない。髪の毛を剃り上げられたサムソンのように、私たちの力は去ってしまう。テルモピュライで裏切られたスパルタ人たちのように、私たちは側面に回り込まれ、包囲されてしまう。私たちは自陣を支えることができない。抵抗しても無駄である。早晩私たちは、武器を捨てて、無条件降伏せざるをえないであろう。
このことを注意深く覚えておこう。ローマカトリック論争が、再び私たちの上に臨みつつある。私たちは、自分の信仰を覆されたくなければ、古の武具を身につけなくてはならない。聖書の十分性、私的判断の権利、信仰のみによる義認、――これらは、私たちが常にすがりつかなくてはならない3つの大原則である。これらを堅く握り、決して手放さないようにしよう。
私が言及した3つの大原則のうちの1つは、この論考の冒頭に掲げた聖書の節の中で、際立って示されていると思われる。これから私が語っていきたいと思うのは、その原則についてである。
聖霊は、聖パウロの口によって私たちにこう語っておられる。「すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい」。この言葉の中には、2つの大きな真理が示されている。
I. 私的判断を行なう権利と、義務と、必要性。「すべてのことを見分け……なさい」。
II. 真理を堅く握りしめるべき義務と必要性。「ほんとうに良いものを堅く守りなさい」。この論考で私は、こうした2つの点の双方について多少とも詳しく述べてみようと思う。
I. 最初に、私的判断を行なう権利と、義務と、必要性について語りたい。
私が私的判断を行なう権利と云うときに意味しているのは、あらゆる個々のキリスト者は、自分に向かってキリスト教信仰の真理であると提示されたことが、果たして神の真理であるかどうかを、神のことばによって自分で判断する権利を有している、ということである。
私が私的判断を行なう義務と云うときに意味しているのは、神は、個々のキリスト者に向かって、いま私が述べたような権利を用いるように要求しておられ、人間の言葉や人間の著作を神の啓示と比較し、自分が偽りの教えによって欺かれも、たぶらかされもしていないのを確かめるように要求しておられる、ということである。
私が私的判断を行なう必要性と云うときに意味しているのは、自分の魂を愛し、欺かれたくないと願う個々のキリスト者は、いま私が言及したような権利を行使し、その義務を果たすことが絶対に必要だ、ということである。それは、経験が示すように、私的判断をおろそかにしたキリスト教会には、常に途方もない悪が引き起こされてきたことを思えば当然である。
さて使徒パウロは、こうした3つの点すべてに私たちの注意を強く引きつけようとして、次のような尋常ならざる言葉を用いている。「すべてのことを見分け……なさい」。この表現には、格別な注意を払ってほしいと思う。あらゆる点から見て、これはこの上もなく重要な、教えに富むことである。
ここで私たちが思い出さなくてはならないのは、使徒パウロが、テサロニケ人に宛てて手紙を書いていた――彼自身が設立した教会に宛てて書いていた――ということである。霊感を受けた使徒はここで、未熟な、また、経験に乏しいキリスト者たちへの手紙を書いていた。ある特定の町で信仰を告白している教会全体、平信徒も教職者層も含む人々に宛てて書いていた。また、この聖句の直前の節――「預言をないがしろにしてはいけません」――からわかるように、特に教理と説教の問題を念頭に置きつつ書いていた。だがしかし、彼が何と云っているか注目してみるがいい。――「すべてのことを見分け……なさい」。
彼はこうは云っていない。「あなたがたに向かって使徒たちが、伝道者たちが、牧師たちが、教師たちが、あなたがたの監督たちが、あなたがたの教役者たちが告げることは何でも真理であって、あなたがたはそれを信じるべきである」。否! 彼は、「すべてのことを見分け……なさい」、と云っている。彼は決して、「普遍教会が正しいと宣告していることは何でも正しく、あなたがたはそう信ずるべきである」、とは云っていない。否! 彼はこう云っているのである。「すべてのことを見分け……なさい」、と。
ここで規定されている原則は、こういうことである。「すべてのことを神のことばによって見分けるがいい。あらゆる教役者を、あらゆる教えを、あらゆる宣教を、あらゆる教理を、あらゆる説教を、あらゆる著作を、あらゆる意見を、あらゆる行為を、――すべてのことを神のことばによって見分けるがいい。すべてのことを聖書という尺度によって測るがいい。すべてのことを聖書という基準と比較するがいい。すべてのことを聖書という秤で量るがいい。すべてのことを聖書という光で吟味するがいい。すべてのことを聖書というるつぼで試すがいい。聖書の火に持ちこたえるものは受け入れ、奉じ、信じ、従うがいい。聖書の火に持ちこたえられないものは拒否し、退け、否定し、打ち捨てるがいい」、と。
これこそ私的判断である。これこそ、もし私たちが自分の魂を愛するなら、行使しなくてはならない権利である。私たちはキリスト教信仰に関わる物事を、単に教皇や枢機卿たちによって云われたからというだけで信じるべきではない。単に教会や、公会議や、教会会議や、教父たちや、ピューリタンたちや、宗教改革者たちによって云われたからというだけで信じるべきではない。私たちは、「これこれのことは正しいに違いない。あのような人々がそう云っているのだから」、と論ずるべきではない。そのようなことをすべきではない。私たちは、神のことばによってすべてのことを見分けなくてはならない。
さて、こうした教理がある人々の耳には驚くべきものと聞こえることは私も承知している。しかし、私はこのことを熟慮の上で書き記しており、このことは論駁不可能であると信じている。もし私が、無知な増上慢か、無知な傲慢さにとらわれているだれかを勇気づけるとしたら残念に思う。私は、自分の聖書をめったに読まないくせに、自分の教役者の説教に、やたらとけちをつけるような人をほめはしない。新約聖書のごく僅かな聖句しか知らないくせに、神の子らのうち最も賢い人々をも困惑させてきたような神学上の問題に決着をつけようとしゃしゃり出るような人をほめはしない。しかしそれでも私は、ビルソン主教(1575年)とともにこう主張するものである。「すべての聴衆は、誘惑者を識別し、用心すべき責任があり、それをしない者らにはわざわいあれ」。また私はダヴナント主教(1627年)とともにこう云うものである。「私たちは、教会の中で教職に就くすべての人を信ずべきではなく、注意を払い、真剣な吟味によって、彼らの教理が健全なものかどうかを評価すべきである」*1。
ある人々が、この私的判断の教理を信じようとしないことは私も承知している。だが、私が確信をもって主張するところ、このことは絶え間なく神のことばの中で教えられているのである。
これは預言者イザヤによって規定された原則である。思い出すべきだが、彼の言葉が書き記されたのは、神が今よりも直接的にご自分の教会の《王》であり、今よりも直接的にその御意志の伝達をしておられた時代であった。それらが書かれた時代は、神から啓示を受けたと表明する人々が地上に何人もいた時代であった。だがイザヤは何と云っているだろうか? 「人々があなたがたに、『霊媒や、さえずり、ささやく口寄せに尋ねよ。』と言うとき、民は自分の神に尋ねなければならない。生きている者のために、死人に伺いを立てなければならないのか。律法とあかしに尋ねなければならない。もし、このことばに従って語っていないとしたら、それは彼らに光がないためである」(イザ8:19-20 <英欽定訳>)。もしこれが私的判断でないとしたら何だろうか?
また、これは私たちの主イエス・キリストによって山上の説教で規定された原則でもある。教会の《かしら》はそこでこう云っておられる。「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます」(マタ7:15-16)。もしも人々が、こうしたにせ預言者たちを見分けることができるとしたら、それは人々が彼らの実がいかなるものかについて、自分の私的判断を行使するからでなくて何だろうか?
これは、『使徒の働き』の中で、ベレヤ人たちがほめられていた行為である。彼は使徒パウロが彼らのもとに宣教しにやって来たとき、その言葉を額面通りには受け取らなかった。彼らは、「みことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた」、と書かれている。そして、「そのため、彼らのうちの多くの者が信仰にはいった」、と書かれている(使17:11、12)。もう一度云うが、これが私的判断でなくて何だろうか?
これは第一コリント10:15で与えられている助言の精神である。――「私は賢い人たちに話すように話します。ですから私の言うことを判断してください」。また、コロサイ2:8でもそうである。「あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい」。また、第一ヨハネ4:1でもそうである。――「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです」。また、第二ヨハネ10でもそうである。――「あなたがたのところに来る人で、この教えを持って来ない者は、家に受け入れてはいけません」。もしうこした箇所が私的判断の活用を推賞していないとしたら、言葉に何の意味があるのか私にはわからない。私の思うところ、これらは、あらゆる個々のキリスト者に対して、「すべてのことを見分けなさい」、と云っているように思われる。
私的判断に反対して人々が何と云おうと、私たちは確信してよいであろう。それをおこたれば、魂を途方もない危険に陥れずにはすまない、と。私たちはそれを好まないかもしれない。だが私たちは、それを用いようとしないとき、自分がどうなるか皆目見当もつかないのである。もし私たちが神によって要求されていることを行なわず、「すべてのことを見分ける」ことをしないとしたら、私たちがいかなる偽りの教理の深みに落ち込むか、何人にも見当がつかないであろう。
かりに、私的判断を恐れるあまり、教会が信じていることは何でも信ずることに決めたとしよう。過誤に対して、私たちはどれほど安全だろうか? 教会は無謬ではない。かつては、キリスト教界のほぼ全域がアリウス派の異端を信奉し、主イエス・キリストが御父とあらゆる点で同等であることを認めていなかった時期があるのである。宗教改革前には、鼻をつままれてもわからぬほどの暗闇がヨーロッパ全土を覆っていたのである。教会全体の公会議は無謬ではない。何らかの総会議に、教会全体が結集するとき、第二十一箇条は何と云っているだろうか?
これらの会議は、過ちを犯すことがありえるし、神に関わる事がらについてすら、何度か過ちを犯したことがあった。それゆえ、こうした会議によって救いに必要であると制定された物事も、それが聖書から引き出されていると明らかに示されえない限り、何の力も権威も有していない。
ある特定の地方教会は無謬ではない。そのうちの1つたりとも過ちを犯さないものはない。そうしたものの多くは、はなはだしく堕落したか、一掃されてしまった。今日エペソの教会はどこにあるだろうか? 現在サルデスの教会はどこにあるだろうか? アフリカはヒッポのアウグスティヌスの教会はどこにあるだろうか? カルタゴのキュプリアーヌスの教会はどこにあるだろうか? それらはみな消滅してしまった! それらは1つ残らず痕跡すらとどめていない! それでは私たちは教会が間違いを犯すからというだけで、自分も得々と間違いを犯していてよいだろうか? 集団で間違いを犯したからといって、それが何の弁解になるだろうか? 教会とともに過ちを犯すからといって、自分の魂に対する責任が除かれるだろうか? 確かに人は、孤立していて救われる方が、教会とともに過ちを犯して滅びに至るよりも一千倍もましであるに違いない。「すべてのことを見分けて」天国へ行く方が、「私は自分の考えなど持つまい」、と云って地獄へ行くよりもましである。
しかし、かりに私たちが、手っ取り早く、自分の教役者の信じることは何でも信ずることに決めたとすればどうだろうか。もう一度私は云う。――過誤に対して、私たちはどれだけ安全だろうか? 教役者は、教会と全く同じく無謬ではない。彼らは全員神の御霊を有しているわけではない。彼らの最良の者らといえども、ただの人間にすぎない。その呼び名が主教であれ、司祭であれ、執事であれ、あなたの好むいかなる名であれ、彼らはみな土の器である。私は単に、すさまじい迷信の数々をばらまき、忌まわしい生活を送ってきた教皇たちについてのみ語っているのではない。私がむしろ指摘したいのは、最良のプロテスタント教徒たちのことであり、こう云いたいのである。「彼らを無謬とみなさないように用心するがいい。いかなる人間であれ(また、それが何者であれ)、過ちを犯すことがありえないなどとは考えないように用心するがいい」、と。ルターは共在説を奉じていた。――それは大きな間違いであった。ジュネーヴの改革者カルヴァンは、セルヴェトゥスの火刑を勧めた。――それは大きな間違いであった。クランマーとリドリは、祭服に関する些細な議論のために、フーパーを投獄するように云い張った。――それは大きな間違いであった。ホウィットギフトはピューリタンたちを迫害した。――それは大きな間違いであった。前世紀のウェスレーとトプレディは、カルヴァン主義について激越な争いを演じた。――それは大きな間違いであった。こうしたすべての事がらは、もし私たちが受け取りさえするなら警告となる。そのすべては云っているのである。「人間をたよりにするな」、と(イザ2:22)。これらすべてが示しているように、もし人のキリスト教信仰が、神のことばではなく、教役者――それが何者であれ――を頼りにしているなら、いたんだ葦を頼りにしているのである。私たちは、彼らがキリストに従っている限りにおいて彼らに従おう。だが、それ以上先には髪の毛一筋ほどにも従わないようにしよう。彼らが聖書から私たちに示すことは何でも信じよう。だがそれ以上には一言も信じないようにしよう。もし私たちが私的判断の義務をおこたるなら、私たちは、このホウィットビの言葉の真実さを思い知って、ほぞをかむことになるであろう。「最良の監視者も、時として看過者となることがある」。私たちは、主がパリサイ人たちについて云われたことの真実さを、身をもって体験することになりかねない。「もし、盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです」(マタ15:14)。これは絶対に確信して良いことだが、いかなる者も、聖パウロの命ずるところに立って行動しない限り――神のことばによって「すべてのことを見分ける」のでない限り――、過誤に対して安全ではない。
私は、私的判断の行使をおこたることから生ずる悪について過大評価することは不可能であると語ってきた。ここから私は先に進んで、私的判断が、この世と教会の双方に対して授けてきた祝福について過大評価することも不可能であると語っていこう。
さて私が読者の方々に思い起こしてほしいのは、科学および哲学における幾多の最高の発見は、あらゆる論争の余地なく、私的判断を用いることから生じた、ということである。私的判断のおかげでガリレオは、地球が太陽の回りを動いているのであって、太陽が地球の回りを動いているのではないことを発見した。私的判断のおかげでハーヴィーは、血液の循環を発見した。私的判断のおかげでコロンブスは、アメリカ大陸を発見した。私的判断のおかげでジェンナーは、種痘法を発見した。私的判断のおかげで私たちは、印刷機や、蒸気機関や、力織機や、電信機や、鉄道や、瓦斯の恩恵に浴している。これらすべての発見について私たちは、「自分で考える」ことをあえてした人々に恩義をこうむっているのである。彼らは、先人たちの轍を踏むだけで事足れりとはしなかった。彼らは、自分の先祖たちが何の疑いもなく正しいと信じていたことを、当然のこととみなすだけで満足しはしなかった。彼らは、自分で実験してみた。古くからの理論を証明してみようとした。そして、それが無価値なものであることに気づいた。彼らは、新しい体系を宣告し、人々に向かって、ぜひそれを吟味し、それが正しいことを試してみてほしい、と呼びかけた。彼らは、誹謗や嘲笑の嵐にも動じなかった。古い伝統を愛する人々の偏見に満ちた怒声にも、ひるまなかった。そして彼らは、その行動において成功し、やり遂げた。私たちは今それを目にしている。そして十九世紀に生きている私たちは、彼らが私的判断を行使した成果を収穫しているのである。
そしてこれは、科学の場合と同様、キリスト教信仰の歴史においても変わらなかった。時代に抗してひとり立ち、その血を流した殉教者たちこそ、キリストの福音を世界中に広めた種子であった。ひとり、またひとりと力強く立ち上がり、ローマ教会との戦いに加わっていった宗教改革者たち――彼らがあのような事業を行ない、あのような苦しみを忍び、あのような使信を宣告したのは、例外なく、ただ彼らが自分の私的判断を行使して、何が教会の真理であるかを考えたためにほかならない。私的判断によって、ワルド派や、アルビ派や、ロラード派の人々は、ローマ教会の教理を信ずるくらいなら、いのちも惜しいとは思わなくなった。私的判断によってウィクリフは、わが国で聖書を調べ、ローマカトリックの托鉢修道士たちとそのあらゆる詐欺行為とを糾弾し、聖書を民衆の言語に翻訳し、「宗教改革の明けの明星」となったのである。私的判断によってルターは、テッツェルの忌まわしい免罪符の信仰体系を、みことばの光に照らして吟味した。私的判断によって彼は、一歩ずつ、また一項目ずつ、同じ光に導かれ、ついには彼とローマとの間の深淵が越えがたいまでになり、ドイツにおける教皇の権力は完全に打ち砕かれたのである。私的判断によってわが英国の宗教改革者たちは、自分たちがその中で生まれ育った、腐敗した教会制度の真の性質について、自分で吟味し、自分で探求した。私的判断によって彼らは、忌み嫌うべきローマカトリック教を振り捨て、聖書を平信徒層に流布させた。私的判断によって彼らは、私たちの信仰箇条を聖書から引き出し、私たちの《祈祷書》を編集し、今ある通りの英国国教会を設立した。彼らは伝統という足枷を打ち砕き、あえて自分自身で考えることをした。彼らはローマの勿体ぶった触れ込みや主張を鵜呑みにすることを拒否した。彼らは、それらすべてを聖書によって吟味し、それらがその吟味に耐えなかったために、ローマと完全に袂を分かった。英国におけるプロテスタント主義のあらゆる祝福、いま現在私たちが享受しているあらゆることは、私的判断を正しく行使した人々のおかげなのである。確かに私たちが私的判断を尊ばないとしたら、私たちは実際、感謝を知らぬ忘恩の徒にほかならない!
ともすれば私的判断を行なう権利は濫用されがちである、というような、よくある議論には動じないようにしよう。――私的判断は多大な害を及ぼしてきたため、危険なものとして避けるべきだ、とよく云われる。だが、これほどみじめな議論はどこにもない! これほど脱穀後に籾殻ばかりであるとわかるようなものは、どこにもない!
私的判断が濫用されてきたとは! 私はそうした反対者に問うてみたい。神の良い賜物のうち、濫用されなかったものが何かあるだろうか? 数ある気高い原理のうちで、一度も最悪の目的のために用いられなかったようなものをあげられるだろうか? 強さは、強者が弱者を脅すために用いられるとき暴虐となりえる。だが、強さは正しく用いられれば祝福である。自由は、だれもが他者の権利や感情などおかまいなしに好き勝手なことをするときには放縦となりえる。だが自由は正しく使われれば大きな祝福である。多くの事がらは不適切に使われることがありえるが、だからといって私たちはそれらを全く打ち捨てるべきだろうか? 阿片を不適切に使用する人々がいるからといって、それはいかなる場合にも薬剤として使われるべきではないのだろうか? 金銭を不適切に使う人々がいるからといって、あらゆる金銭は海に投げ捨てるべきだろうか? この世界では、善を得ようとする場合、必ず何らかの悪が伴うものである。私的判断を行なおうとする場合、必ず何らかの濫用や不具合が伴うものである。
しかし人々は云う。私的判断によっては、善よりも害の方が多くなされてきた!、と。だが私は知りたいと思う。キリスト教信仰の問題において、私的判断を怠ることによってもたらされた害悪にくらべれば、私的判断を行なうことによって、いかほどの害悪がなされてきたというのか? 一部の人々が好んで私たちに告げるところ、私的判断を許すプロテスタントの間には多くの不一致があるが、私的判断が禁じられているローマ教会には何の不一致もないという。だが、そうした反対者に対して容易に示せるように、ローマカトリックの一致は、現実には見せかけのものにすぎない。ホール主教は、『ローマの平和』というその著書の中で、ローマ教会内に存在する300以上もの意見の不一致を数え上げている。容易に示せることだが、プロテスタント教徒たちの不一致は過度に誇張されており、そのほとんどは、さほど重要でない点に関するものである。いわゆる「プロテスタント信仰の相違」がいかほど存在しているにせよ、それでもプロテスタント教徒の間には、莫大な数にのぼる、根本的な一致と実質的な合意があることを私は示すことができる。『プロテスタント信条の調和』を読めば、だれにでもそれはわかるはずである。
しかし、かりに私的判断が不一致をもたらし、相違を引き起こしてきたと認めてみよう。私は云うが、そうした不一致や相違は、私的判断を断じて許さないローマ教会の行為から生じてきた忌み嫌うべき物事の奔流にくらべれば、ほんの水一滴にすぎない。それらの悪を2つの秤皿に乗せてみるがいい。――私的判断から生じてきた悪と、だれにも自分では考えさせないことから生じてきた悪とを。その重みをくらべてみるがいい。どちらが重いか、私には何の疑いもない。確かにローマカトリック教の一致を有するよりは、プロテスタントの不一致を、それがもたらす成果とともに有する方がましである。ボシュエ*2のごとき人物が何と云おうと、プロテスタントの不一致の方が、ローマカトリック教の無知や、ローマカトリック教の迷信や、ローマカトリック教の暗黒や、ローマカトリック教の偶像崇拝よりもましである。英国とスコットランドにおけるプロテスタント教徒たちの相違の方が、そこにいかなる不利益があろうと、イタリア半島における知的、霊的双方での死んだような状態よりはましである。この2つの体系を、その実によってためしてみよう。――「すべてのことを見分けなさい」、と云う体系と、「自分自身の意見を持とうなどとしてはいけない」、と云う体系とを。――それらが人々の心と、知性と、生活と、あり方の全般において結ぶ実によってためしてみるがいい。その結果について私には何の疑いもない。
いずれにせよ私たちは、私的判断を許さず、自分の意見など持たないのが謙遜であるとか、自分で考えることをしないのが真のキリスト者の分である、などといった、もっともらしい議論で動じないようにしよう!
私は人々に何はばかることなく告げたい。そのような謙遜は偽りの謙遜であり、そのほむべき名に値しない謙遜である、と。むしろそれは怠惰、無為、ものぐさと呼ぶがいい。それは人間から、そのあらゆる責任をはぎとり、自分の魂に関するあらゆる義務を、教役者と教会の手に投げ渡すことである。それによって人間は、単なる代理宗教に陥る。自分の良心と、自分のすべての霊的関心事を、他人に世話してもらう宗教である。その人は自分について悩まなくともよい! もはや自分で考えなくともよい! 安全な船で乗り出し、魂を安全な水先案内人にゆだねたのだから、そのうち天国に行き着ける! おゝ、これが謙遜の名に値するなどという考えに用心しようではないか! それは、神が私たちに与えてくださった賜物の行使を拒否することである。私たちの手でふるわせるべく神が鍛えてくださった御霊の剣を用いるのを拒否することである。神はほむべきかな、私たちの先祖たちは、そうした原則に立っては行動しなかった! もし彼らがそうしていたとしたら、決して宗教改革など起こらなかったであろう。もし彼らがそうしていたとしたら、私たちは今この瞬間にも、処女マリヤの像を拝礼していたか、みまかった聖人たちの霊に祈りを捧げていたか、ラテン語で行なわれる礼拝に参列していたであろう。そのような謙遜から、いとも良き主よ、私たちを常に救い出したまえ!
私たちは生きる限り、自分の魂という重大問題に関しては、自分で読み、自分で考え、自分で聖書を判断しようではないか。自分自身の意見を持つことにしよう。「これは正しいと思います。聖書にそう書いてありますから」、また、「これは間違っていると思います。聖書にはそう書いてありませんから」、と云うことを、決して恥じないようにしよう。私たちは、「すべてのことを見分け」、それも神のことばによって見分けるようにしよう。
私たちは生きる限り、現代の多くの人々が推賞するような、めくら滅法な体系に用心しようではないか。どこかの指導者につき従い、自分自身の意見は何も持たないような体系、実質的に、こう云っているに等しい体系に用心しよう。「自分の教会にただ集うがいい。秘跡をただ受けるがいい。自分の上に置かれている、叙任された教役者の告げることをただ信ずるがいい。そうすれば、すべては良くなるであろう」。私は警告するが、このようなものは何の役にも立たない。こうした種類の信仰で満足する場合、私たちは自分の不滅の魂を危険にさらしているのである。地上のいかなる教会でもなく、地上のいかなる教役者でもなく、聖書をこそ私たちの信仰の基準にしよう。神のことばによって、「すべてのことを見分け」よう。
何にもまして、私たちは生きる限り、大いなる最後の審判の日を不断に待ち望もうではないか。私たちひとりひとりが、キリストの審きの座の前に立って行なわなくてはならない厳粛な弁明のことを考えよう。私たちは教会ごとに審かれるのではない。会衆ごとに審かれるのではない。ひとりひとり個人的に審かれるのである。その日になってから、こう云ったところで何になるだろうか? 「主よ。主よ。私は教会によって告げられたあらゆることを信じてきました。叙任された教役者たちが私の前で示したあらゆることを受け入れ、信じてきました。私は教会や教役者たちが云うことは正しいに違いないと思っていました」。このようなことを云ったとしても、もし私たちが何か致命的な過誤を信じてきたとしたら、それが何になるだろうか? 確かに御座の上に着かれたお方の声はこう答えるに違いない。「お前には聖書があったはずだ。お前には、子どものような心で読み、調べさえすれば、はっきり容易にわかる一冊の本があったはずだ。なぜお前は、『すべてのことを見分け』て、過ちから遠ざかろうとしなかったのか?」 もし自分の私的判断を行使することを拒否するというなら、その恐るべき日のことを思って用心するがいい。
II. さて、次に私が語りたいのは、神の真理を堅く握りしめるべき義務と必要性である。
この件に関して使徒は、すっぱり力強い言葉を語っている。彼は云う。「ほんとうに良いものを堅く守りなさい」。あたかも彼は、私たちにこう云っているかのようである。「あなたが自分で真理を見いだしたなら、また、それがキリストの真理である――聖書が説いている真理である――と得心したなら、それを堅く握りしめ、つかみとり、心におさめ、決して手放さないようにするがいい」、と。
聖パウロのこの言葉には、彼がいかにキリスト者全員の心を熟知していたかが示されている。彼は、私たちの福音把握が、いかに最善を尽くしても、非常に冷淡なものであることを知っていた。私たちの愛がすぐにかすかなものとなること、私たちの信仰がすぐにふらつき出すこと、私たちの熱心がすぐに衰えること、キリストの真理に慣れ親しむことによってしばしばそれを何かしらぞんざいに扱うようになること、イスラエルのように自分の旅路の長さに落胆しがちであること、また、ペテロのように眠りこけたかと思うと次の瞬間には戦い出す者であること、――しかし、ペテロのように、「目をさまして、祈って」いる[マタ26:41]備えができていないこと、こうしたすべてのことを、聖パウロは覚えていた。それで、忠実な見張り人のように彼は聖霊によって叫んでいるのである。「ほんとうに良いものを堅く守りなさい」、と。
あたかも彼は、福音の良き訪れがすぐに腐敗し、だいなしにされ、テサロニケの教会から奪い去られることを御霊によって予見したかのように語っている。彼は、サタンとその手先のすべてがキリストの真理を打ち倒そうと全力をふりしぼろうとするのを予見しているかのように語っている。彼は、まるでこの危険について、前もって人々に警告しようとでもいうかのように書き、また叫んでいる。「ほんとうに良いものを堅く守りなさい」、と。
この忠告は常に必要である。――世界が立ち続ける限り必要である。人間の立てる制度には、いかに最良のものであれ、腐敗していく傾向がある。目に見える最良のキリスト教会も、堕落する危険性から免れてはいない。それは、過ちを犯しがちな人間たちによって成り立っている。そこには常に最初の愛から離れ去る傾向がある。私たちは、使徒の時代においてさえ、悪のパン種が多くの教会にもぐりこみつつあるのを目にしている。コリントの教会には悪があり、エペソの教会には悪があり、ガラテヤの教会には悪があった。こうしたすべての事がらは、この終わりの時代に警告とするためのものである。これらはみな、教会がこの使徒の言葉、「ほんとうに良いものを堅く守りなさい」、を覚えておくべき大きな必要を示している。
それ以来、多くのキリスト教会が、この原則を覚えておかなかったために脱落していった。そうした教会の教役者や会員たちは、サタンが常に偽りの教えを持ち込もうとやっきになっていることを忘れてしまったのである。彼らは、サタンが光の御使いに変装できること、――暗闇を光であるかのように、また光を暗闇であるかのように思わせ、真理を偽りに見せかけ、偽りを真理に見せかけることができることを忘れてしまったのである。キリスト教を滅ぼすことができない以上サタンは、それを腐らせようと努める。見えるところの敬虔さを妨げることができない以上、その実を諸教会から奪い取ろうと努力するのである。こうした事がらを忘れて、「ほんとうに良いものを堅く守りなさい」、という使徒の命令を心に留めていないいかなる教会も、安全ではありえない。
教会が真理を堅く保つかどうかが試されている時代が一度でも世にあったとしたら、それは今の時代であり、その教会とはわが国のプロテスタント諸教会である。わが国の旧敵であるローマカトリック教は、今日、怒涛のように私たちに押し寄せてきつつある。私たちは、外部の公然たる敵たちによって攻撃され、内部の偽りの友たちから絶えず裏切られつつある。ローマカトリック教の教会や会堂や学校や修道院や修道施設の数は、私たちの周囲で絶えず増加しつつある。毎月のように、英国国教会の中のだれかれがローマ教会に寝返ったと報じられている。すでにローマ教会の聖職者層は、来たるべき事態について、云いたい放題のことを口にしつつあり、遅かれ早かれ、英国は再び、かつて離れた軌道に舞い戻り、カトリック制度の中に場所を占めることになるだろうと豪語している。すでに教皇は、わが国をいくつかの司教管区に分割しており、徐々に戦利品を分かち与えることができようと夢想しているかのような口をきいている。すでに彼は、英国が聖ピエトロ大聖堂の教会財産のようになり、ロンドンがローマのようになり、聖ポール大寺院が聖ピエトロ大聖堂のようになり、ランベス宮がヴァチカンそのものになるときを予見しているかのように思える。確かに今このときをおいて、私たちがみな目を覚まし、「ほんとうに良いものを堅く守」るべきときはない。
ことによると私たちは――私たちの中のある人々は――、私たちの盲目さのゆえに、ローマ教会の力は消滅したのだと考えていたかもしれない。私たちは愚かにも、宗教改革はローマカトリック論争にとどめをさしたのだ、たとえローマカトリック主義が残存しているとしても、ローマカトリック主義は全く様変わりしたはずだ、と夢想していた。もしそう考えていたとしたら、私たちは、自分が途方もなく重大な間違いを犯したことを自分の目で確かめる羽目に立ち至っているのである。ローマは決して変わらない。常に同じであることはローマの誇りなのである。この蛇は殺されていない。それは宗教改革の時代に生殺しにされたが、息の根を止められはしなかった。ローマカトリックという反キリストは死んではいない。彼はエトナ山の下に埋められたという伝説の巨人のように、一時は打ち捨てられたが、その致命的な傷はいやされて、墓は再び口を開き、反キリストが出て来つつあるのである。ローマカトリック教という汚れた霊は、自分の場所に横たえられたままにはなっていない。むしろ彼はこう云っているかのようである。「英国にある私の家は、今や私のために、掃除されて、きちんとかたづいている。出て来た自分の場所に帰ろう」。
それで、問題はいま、果たして私たちが、ただおとなしく、拱手傍観して、この攻撃に何の抵抗もしないつもりか、ということである。私たちは本当に、時をわきまえているだろうか? 私たちは、私たちの訪れの日を知っているだろうか? 確かにこれは、私たちの教会史および英国史における一大危機である。これは、果たして私たちが自分の特権の価値を知っているか、それとも私たちが、アマレク人のように「国々の中で首位のもの。しかしその終わりは滅びに至る」[民24:20]のかが、まもなく明らかになろうとしている時代である。これは、私たちが自分の燭台が取り去られるにまかせるか、それとも悔い改めて、自分たちの初めの行ないをし、だれにも私たちの冠を奪われないようにするかどうかが、まもなく明らかになろうとしている時代である。もし私たちが万人に開かれた聖書を愛しているなら、福音の宣教を愛しているなら、だれからも四の五の云われずに聖書を読める特権、だれにも禁じられずに福音の説教を聞ける特権を愛しているなら、市民としての自由を愛しているなら、信教の自由を愛しているなら、――もしこうした事がらが私たちの魂にとって尊いものであるなら、私たちは、すべてをなしくずしに失うことがないように、「堅く守る」決意を固めなくてはならない。
もし私たちが「堅く守る」つもりがあるなら、あらゆる教区、あらゆる会衆、あらゆるキリスト者の男女は、真理のための戦いにおいて、自分の分を果たさなくてはならない。私たちはみな、ひとりひとりが、あたかも純粋な福音が保たれるか否かが自分ひとりにしかかかっていないかのように働き、祈り、労すべきである。主教はこの問題を司祭にまかせてはならず、司祭はこの問題を主教にまかせてはならない。平信徒はこの問題を教職者層にまかせてはならず、教職者層はこの問題を平信徒にまかせてはならない。議会はこの問題を国にまかせてはならず、国はこの問題を議会にまかせてはならない。富者はこの問題を貧者にまかせてはならず、貧者は富者にまかせてはならない。私たちは、全員が働かなくてはならない。生きている人にはみな、自分の影響力を及ぼせる範囲がある。では、自分の持ち分を果たすがいい。生きている人はみな、福音のはかりに、何がしかの重みを積み上げることができる。では、福音のためにそれを積むがいい。だれもがみな、この件における自分個人の責任を知るがいい。そうすれば、神の助けによって、すべてが好転するであろう。
もしも私たちが「ほんとうに良いものを堅く守」ろうというなら、私たちは決してキリストの福音の純粋な教理でないような、いかなる教理をも寛大に扱ったり、目こぼししたりしてはならない。憎しみの中には、純然たる愛であるものがある。――それは、誤った教理に対する憎しみである。不寛容の中には、純然たる賞賛に値するものがある。――それは、講壇における偽りの教えに対する不寛容である。一体どこのだれが、自分に少量の毒薬が毎日与えられていくのを寛大に見逃したりするだろうか? もし私たちのもとにやってくる人々が「神のご計画の全体」[使20:27]を宣べ伝えようとせず、キリストをも、罪をも、聖さをも、滅びをも、贖いをも、新生をも説教せず、あるいは、こうした事がらを聖書的なしかたで説教しない場合、私たちはこうした人々の話を聞くのをやめるべきである。私たちは、旧約聖書で聖霊によって与えられた命令に従って行動すべきである。「わが子よ。知識の言葉を離れて人を迷わせる教訓を聞くことをやめよ」(箴19:27 <口語訳>)。私たちは、ガラ1:8で使徒パウロによって示されたような精神を実践すべきである。「私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです」。もし私たちが、キリストの真理をぶちこわしにされたり、それにまぜ物がされたりするのを聞いても我慢できるというのであれば、また、もし私たちが、別の福音でしかないものに耳を傾けることに大した害はないと考えられたり、自分の耳にキリスト教のまがいものが流し込まれている間も安閑と座っていられたり、その後いい気分で帰宅でき、聖なる憤りを燃やさずにいられたりするならば、――もし私たちがこのようにしているとしたら、私たちがローマに抵抗する際に大きな成果を上げられる見込みはほとんどないであろう。もしイエス・キリストがその正当な立場につかされずにいるのを聞いても満足していられるとしたら、私たちはキリストのために大きな奉仕をなし、キリストの側に立って勇敢に戦えることが見込める男女ではない。過誤に対抗して熱心に反対しない者が、真理のために熱心になる見込みはない。
もし私たちが真理を堅く守ろうというなら、私たちは心から真理と主イエス・キリストへの愛をいだくすべての人々と、喜んで一致協力しなくてはならない。すべての小さな問題は、二義的な重要性しかないものとして、喜んでわきに置かなくてはならない。国教会か非国教会か、典礼式文を使うか使わないか、白衣を着るか着ないか、主教を立てるか長老を立てるか、――こうした点や意見の不一致はみな、いかにそれなりの場所と程度とにおいては重要であるとはいえ――、すべては二義的な問題とみなされるべきである。私は、いかなる人にも、こうした点に関する、個人的意見を捨てるように求めはしない。だれにも、自分の良心を圧伏するように願いはしない。私が云っているのは単に、こうした問題は、信仰の土台そのものが危機に陥っている際には、木であり、草であり、わらであるということである。ペリシテ人が私たちを襲撃しつつあるのである。私たちは団結して彼らに当たることができるだろうか、できないだろうか? これこそ私たちが考察すべき唯一の点である。確かに、私たちが天国で永遠をともに過ごすと期待している人々と、地上でほんの数年間も協同して働けないなどということは間違っているに違いない。何の協力もないとしたら、同盟や合同などについて語っても無意味である。共通の敵がいる場合、小さな意見の違いを大々的に取り上げることはなくすべきである。私たちは、「ほんとうに良いものを堅く守」るつもりがあるなら、一致して守らなくてはならない。
人によっては、「それは厄介なことだ」、と云うかもしれない。人によっては、「なぜじっと黙っていてはいけないのか?」、と云うかもしれない。人によっては、「おゝ、論争などぞっとする! これほど大騒ぎをする必要がどこになるのか? なぜ私たちは、こうした意見の違いについて気を遣わなくてはならないのか?」、と云うかもしれない。だが私は問うものである。面倒もなしに手に入れられるもの、手元に留めておけるものが一体何かあるだろうか? 黄金は、英国の麦畑に転がっているのではなく、カリフォルニアの河床や、オーストラリアの石英鉱の奥底にあるのである。真珠は、英国の生垣になるものではなく、インド洋の深海で採れるのである。種々の困難は、決して苦闘なしに克服されるものではない。山に登って疲労しないなどということはめったにない。大洋を横断して波浪にもまれないなどということはない。平和が戦争なしに得られることはまれである。そして、キリストの真理も、労苦や苦闘や厄介なしに国民の所有物となり、国民の所有物としてとどまることはめったにない。
「厄介」などと語る人は、私たちに告げてみるがいい。私たちの先祖たちが厄介を引き受けてくれなかったとしたら、私たちが今日いかなる状態にあったかを。もし殉教者たちがそのからだを焼かれるために引き渡さなかったとしたら、英国における福音はどうなっていただろうか? クランマーや、ラティマーや、フーパーや、リドリや、テイラーや、彼らの兄弟たちに、私たちがどれほどの恩義をこうむっているかだれに測り知れようか? 彼らは、「ほんとうに良いものを堅く守った」のである。彼らはキリストの真理の一点一画たりとも譲り渡そうとはしなかった。福音のためなら自分のいのちを少しも惜しいとは思わなかった。彼らは労苦し、苦難を身に負い、私たちはその労苦の実を得ているのである。もし私たちが、彼らがこれほど気高く勝ち取ったものを手元にとどめておくために、多少の厄介をも引き受けようとしないとしたら、私たちは恥知らずである! 厄介であろうとなかろうと、苦痛があろうとなかろうと、論争があろうとなかろうと、――1つのことだけは確実である。すなわち、キリストの福音以外の何物も、私たち自身の魂に善を施すことはありえない。他の何物も私たちの教会を保つことはありえない。他の何物もわが国に神の祝福を下らせることはありえない。それゆえ、もし私たちが自分自身の魂を愛するなら、あるいは、わが国の繁栄を愛するなら、あるいは、自分の教会の立場を保つことを愛するなら、私たちは使徒の言葉を覚えておき、福音をしっかりと「堅く守り」、それを手放すのを拒否しなくてはならない。
私は2つのことをはっきりとした言葉で述べてきた。1つは、私的判断を行なう権利と、義務と、必要性である。もう1つは、真理を堅く握りしめるべき義務と必要性である。後は、こうした事がらを読者の方々ひとりひとりの良心に適用するために、しめくくりの言葉をもう少し述べるだけである。
(1) 1つのこととして、もしも「すべてのことを見分け」るのが私たちの義務であるとしたら、私は英国のすべての国教徒の方々に懇願し、勧告したい。ぜひとも書かれた神のことばの徹底的な知識で自分を武装するがいい。私たちは、自分の聖書を規則正しく読むようにし、その内容に通じるようにしよう。いかに信仰的な教えも、それが私たちの前に提示されたときには、聖書によって調べるようにしよう。ほんの少しの聖書知識では十分ではない。キリスト教信仰を聖書で見分けたければ、人は自分の聖書に通暁していなくてはならない。また聖書に通暁したければ、それを規則正しく読まなくてはならない。聖書知識を得る王道はない。忍耐強く、毎日、組織的に聖書を読まない限り、聖書はわからない。ある人が奇抜な云い回しで、しかし真実にこう述べている。「義認は信仰によって得られるが、聖書知識は行ないによってしか得られない」[チャールズ・シメオン]。悪魔は聖書を引用できる。彼は私たちの主のもとに来て、主を誘惑しようとしたとき、聖句を引用することができた。人は、聖書が間違って引用されたり、歪曲されたり、誤って適用されたりするのを聞くとき、欺かれたくなければ、こう云えなくてはならない。「とも書いてある」、と[マタ4:7]。私の見るところ、自分の聖書をないがしろにする人が、ローマカトリック教徒や、アリウス主義者や、ソッツィーニ主義者や、ユダヤ人や、トルコ人の教義体系を弁舌爽やかに主唱する人と出会ったとき、そのいずれかにならずにすます歯止めは何1つない。
(2) 別のことして、「すべてのことを見分け」ることが正しい以上、私たちは、だれによって唱えられたものであれ、いかなるローマカトリック教の教理も、書かれた神のことばによってためすように、特別の注意を払おうではないか。聖書によって証明できない限り、いかにもっともらしく提言されても何物をも信ぜず、いかに重々しい権威とともに持ち出されても何物をも信ぜず、いかにすべての教父たちによって支持されていても何物をも信じないようにしよう。聖書だけが無謬である。それだけが光である。それだけが真理と偽りをはかる神の基準である。「たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです」[ロマ3:4]。あのニュージーランド人が、最初に彼らの間にやってきたローマカトリック教の司祭たちに返した答えは、決して忘れられるべきではない。彼らは、この司祭たちが彼らに処女マリヤの礼拝を促すのを聞いた。彼らは、死んだ聖人たちへの祈りや、聖像の使用や、ミサや、告解が推賞されるのを聞いた。ローマ教会の権威や、教皇の至上性や、カトリック教派の古さについて語られるのを聞いた。彼らは聖書を知っており、こうしたことすべてをじっと聞いた後で、この単純だが、忘れられない1つの答えを返したのである。「それは正しいはずがありません。聖書にはそう書いてありませんから」。この世のありったけの学識を集めても、これほどすぐれた答えを出すことは決してできなかったに違いない。ラティマーも、ノックスも、オーウェンも、決してこれにまさる壊滅的な答えをすることはできなかったであろう。ローマカトリック主義者や、半ローマカトリック主義者から攻撃されるときには、これを私たちの規則にしよう。御霊の剣を堅く握っていよう。そして、彼らの議論のすべてに対してこう答えよう。「それは正しいはずがありません。聖書にはそう書いてありませんから」。
(3) 最後の最後に、「すべてのことを見分け」ることが正しい以上、私たちはひとりひとり、自分がキリストの真理を、自分自身で、個人的につかんでいるかどうかを確かめようではないか。たとえあらゆる論争に通じ、偽りという偽りを見破ることができても、それで救われることはない。頭だけの知識では決して天国に行くことはできない。ローマカトリック教徒と議論できても、教皇の大勅書や司教教書の過誤を見抜くことができても、それで私たちが救われることはない。私たちは、自分たちがひとりひとり自分で、自分の個人的な信仰によって、イエス・キリストをつかむようにしよう。私たちはひとりひとり、キリストの栄光の福音において私たちの前に置かれている望みを捕えるためにのがれるようにしよう。このことをしようではないか。そうすれば、他の何が悪化しようと、私たちについては、何も問題はなくなるであろう。このことをしようではないか。そうすれば、すべては私たちのものとなる。教会は衰えるかもしれない。国家は滅亡へ向かうかもしれない。あらゆる体制の土台が揺るがされるかもしれない。真理の敵どもは、ひとときの間、勝ちをおさめるかもしれない。しかし、私たちについては、何の問題もないであろう。私たちはこの世では平安を有し、来たるべき世では、永遠のいのちを有するであろう。というのも私たちはキリストを有しており、キリストを有しているからには、すべてを有しているからである。これは、真に「良いもの」であり、永遠に残る良いものであり、病における良いものであり、健康における良いものであり、生において良いものであり、死において良いものであり、時の間において良いものであり、永遠において良いものである。他のすべての事がらは不確かなものでしかない。それらはみな擦り切れていく。薄れていく。しおれていく。枯れていく。腐っていく。それらを持っていればいるほど、無価値なものと思われ、下界におけるあらゆるものは、「むなしいこと……風を追うようなもの」[伝1:14]であると得心するようになる。しかし、キリストにある望みについては、それは常に良いものである。それを長く用いれば用いるほど、良いものに思えてくる。それを自分の心にいだいていればいるほど、それは輝かしく見えてくる。それは私たちが最初に有したときに良いものである。私たちが成長するときに、さらに良いものである。試練の日にも、死の時にも、やはり良いものである。そしてそれは、最後の審判の日に、何もまして良いものであることがわかるであろう。
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*1 「神の民は真理を試し、善悪を判断し、光と闇を判断するように召されている。神は彼らに、その御霊を与えると約束し、ご自分のことばを残された。ベレヤの人々は、パウロの説教を聞いたとき、毎日聖書を開き、果たして彼らに教えられたことがその通りかどうかを調べ、彼らのうちの多くの者が信仰にはいった。あなたもそのように行なうがいい。教えられることに心を留めるがいい。だがしかし、すべての事がらを証明もなしに受け入れてはならない。それらが神のことばの健全な教理と矛盾していないかどうか吟味するがいい」。ジューエル主教、『英国教会の弁明』の著者、1583年。[本文に戻る]
*2 Jacques Benigne Bossuet(1627-1704)。フランスのカトリック司教・説教家。『プロテスタント諸教会の相違』という著書がある(1688年)。[本文に戻る]
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