目次 | BACK | NEXT

----

2. 救いの唯一の道
----

 天国への路は1つ以上あるのだろうか? 人間の魂が救われることのできる道は、1つ以上あるのだろうか? これこそ、私がこの論考で考察しようと思う問題である。その考察を、私は聖書の一聖句の引用によって始めたい。「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです」(使4:12)。

 この言葉は、それだけをとっても印象的なものである。だが、それがいつ、だれによって語られたかに注目すると、一層印象深いものとなる。それを語ったのは、貧しい、知るべなきひとりのキリスト者であり、それが語られたのは、迫害を加えつつあるユダヤ人議会のただ中であった。それは、キリストに対する勇壮な信仰告白であった。

 それを語ったのは使徒ペテロの唇であった。これは、数週間前にはイエスを見捨てて逃げ出した人物であった。これは、自分の主を三度も否んだ当の人物であった。だが彼のうちには別の霊が宿っていた! 彼は、祭司やサドカイ人たちの前に大胆に立ち、彼らに面と向かって真理を告げている。「『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった。』というのはこの方のことです。この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです」。

 さて、よく事情に通じた読者の方には、ほとんど告げる必要もないことだが、この聖句こそ、英国国教会の第十八箇条の根拠とされている、主たる土台の1つにほかならない。同箇条には以下のように記されている。

すべての人は、自ら告白する律法あるいは宗派によって救われるのであって、その律法および自然の光に従って、自分の生活を勤勉に築きあげるべきである、などと思い上がって云うような者らも呪われるべきである。というのも、実際に聖書は、人々が救われなくてはならない名としては、イエス・キリストの御名しか私たちに説いていないからである。

 これほど強烈な主張は、《三十九信仰箇条》の全体を通じて、ほとんどない。わが国教会のこの偉大な信仰告白を隅から隅まで眺めても、そこで国教会が宣告している呪詛は、これしかない。トリエント公会議は、その教令の中で絶え間なく呪いを発している。だが英国国教会が呪詛あるいは呪いを用いているのは一度であり、ただ一度だけしかない。そこで私は、国教会がしかるべき根拠に立ってそうしているのだということを示すために、この使徒ペテロの言葉を吟味したいと思う。

 この厳粛な主題を考察するにあたり、私は3つのことを行ないたい。

 I. 第一に、私はここで使徒によって規定されている教理を説明したい。
 II. 第二に、私はなぜこの教理が真実に違いないかといういくつかの理由を供したい。
 III. 第三に、私はこの教理から自然に生じてくるいくつかの論理的帰結を示したい。

 I. まず第一に、聖ペテロによって規定されている教理を説明したい。

 私たちは、使徒の意味しているところを、自分が正しく理解しているか確かめよう。彼はキリストについて、「この方以外には、だれによっても救いはありません」、と云っている。さて、これはいかなる意味だろうか? このことを明確に見てとるかどうかで、非常に重大な違いが生ずる。

 彼が意味しているのは、いかなる人も、イエス・キリストによらない限り、罪から――その咎と、その力と、その種々の結果から――救われることはできない、ということである。彼の意味するところ、いかなる人も、イエス・キリストの贖いと仲介を通してでなければ、父なる神との平和を得ることも、この世で赦しを得ることも、来世で必ず来る御怒りから逃れることもできないのである。

 キリストのうちにのみ、罪人のための救いという神の豊かな備えは貯えられている。キリストによってのみ、神の豊かなあわれみは天から地上に下り来たっている。キリストの血潮のみが、私たちをきよめることができる。キリストの義のみが、私たちを覆うことができる。キリストの功績のみが、天国に入る資格を私たちに与えることができる。ユダヤ人と異邦人、知識人と無学者、国王と貧者――すべての人がみな同じように、主イエスによって救われるか、永遠に失われるか、2つに1つである。

 そして使徒は力を込めてこう付言している。「世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです」、と。キリスト以外に、父なる神によって罪人たちの《救い主》となるべく使命を与えられ、認証され、任命された者はひとりもいない。《生》と《死》の鍵は、このお方の手にゆだねられており、救われたいと願う者はみな、この方のもとに行かなくてはならない。

 地上に大洪水がやって来たときに、安全な場所はただ1つ、ノアの箱舟しかなかった。それ以外の場所や手段はみな――山も、塔も、筏も、小舟も――同じように役立たずだった。それと同じように、神の怒りという嵐から逃れようとする罪人にとって隠れ場は1つしかない。その人は、自分の魂をキリストに預けなくてはならない。

 ききんのときに、食物を求めたエジプト人たちが行くことのできた人はひとりしかいなかった。彼らはヨセフのもとに行かなくてはならなかった。それ以外の人のもとに行くのは時間の無駄であった。それと同じように、永遠の滅びを避けたいと思う飢えた魂が行かなくてはならないお方はひとりしかいない。彼らは、キリストのもとに行かなくてはならない。

 エフライム人がギルアデ人と戦い、ヨルダンの渡し場を攻め取られたとき、彼らが命を救うために云える言葉は1つしかなかった(士12)。彼らは、「シボレテ」、と云うか死ぬしかなかった。それと全く同じように、私たちが天国の門の前に立つとき、私たちに役立つ名前は1つしかない。私たちは、イエスの御名を自分の唯一の希望としてあげるほかなく、さもなれば永遠に打ち捨てられる。

 こうしたことが、この聖句の教理である。「イエス・キリストによるほか、いかなる救いもない。キリストにあっては潤沢な救い、完全な救い、罪人のかしらにさえ達する救いがあるが、キリストを離れては、いかなる救いも全くない」。これは、聖ヨハネの福音書に記されている私たちの主ご自身のことばと完璧に調和している。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」(ヨハ14:6)。これと全く同じことを、パウロもコリント人に告げている。「というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです」(Iコリ3:11)。また、これと同じことを聖ヨハネはその第一の手紙で私たちに告げている。「神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません」(Iヨハ5:12)。こうした聖句はみな、全く同一の点に行き着いている。――イエス・キリストによるほか救いはないのである。

 先に進む前に、自分がこのことを理解しているかどうか確かめておこう。とかく人々はこう考えるものである。「これは、みんな古くさい話だ。かびが生えたような事がらだ。そんな真理を知らない者がいるだろうか? もちろんわれわれは、キリストによるほか救いがないと信じているとも」。しかし、私は読者の方々に、私の云うことをよく注意してほしいと思う。自分がこの教理を理解していることを、よくよく確かめるがいい。さもないと、やがてあなたは、これから私が云うことにつまづき、腹を立てることになるであろう。

 私たちは自分の魂の救いを、一切キリストに、そしてキリストにだけ預けるべきである。そして、それ以外の希望や期待を完全に、ことごとく手放すべきである。決して、部分的にはキリストにより頼み、部分的には自分にできる一切のことにより頼み、部分的には自分の教会通いにより頼み、部分的には聖餐を受けることにより頼む、などということがあるべきではない。キリストがすべてとなるべきである。これこそ、この聖句の教理にほかならない。

 天国は私たちの前にあり、キリストだけがそこに入るための扉であられる。地獄は私たちの下にあり、キリストだけがそこから救い出すことがおできになる。悪魔は私たちの背後におり、キリストだけがその瞋恚と非難をかわすための避け所である。律法は私たちに逆らい立っており、キリストだけが私たちを贖い出すことがおできになる。罪は私たちを押しつぶそうとしており、キリストだけがそれを取り除くことがおできになる。これこそ、この聖句の教理にほかならない。

 さて、私たちはこのことを見てとっているだろうか? 望むらくはそうあってほしいと思う。しかし、残念ながら、そうしていると考えている人々の多くは、この論考を読み終える頃には、自分がそうしていなかったことに気づくのではないかと思う。

 II. 第二のこととして、なぜこの聖句の教理が真実に違いないかという、いくつかの理由をあげてみたい

 私は、この主題のこの部分を、1つの議論ですっぱり打ち切ることもできるであろう。「神がそう仰っておられるからである」、と。ある古の神学者はこう云っている。「1つの平明な聖句は、一千もの理由づけと同じくらい強い」。しかし、そうはすまい。私は、この教理に対して、多くの人の心の中でたちまち生ずるであろう数々の反論に応じたいと思う。そのため、この教理がいかに強固な根拠に基づいているかを指摘しよう。

 (a) まず1つのこととして云いたいのは、この聖句の教理が真実に違いないのは、人間が今あるような存在だからである

 さて、人間とはいかなる存在だろうか? 全人類にあてはまる、1つの広大で包括的な答えがある。人間は、罪深い存在である。この世に生まれ出たアダムのすべての子らは、その名前や生国のいかんを問わず、神の御目にとっては腐敗した、よこしまな、汚れた者らである。彼らの思いも、言葉も、生き方も、行ないも、そのすべてが、多かれ少なかれ欠陥のある、不完全なものである。

 地球上のいかなる国々を見ても、罪が支配していない国などあるだろうか? 無垢の人々が見いだされるような幸いな谷間や、人目につかない孤島があるだろうか? 文明や貿易や金銭や火薬や奢侈や書物から隔絶した、道徳と心のきよさが支配しているような部族が地上にあるだろうか? 否! そのようなものは1つもない。コロンブスからクックに至り、クックからリヴィングストンに至るまでの、手に入る限りの航海記や旅行記を眺めてみるがいい。あなたは私の主張の正しさを見てとるであろう。太平洋のいかに孤立した島々――他の全世界から切り離された島々、ローマやパリやロンドンやエルサレムについて、だれひとり知る者がいないような島々――も、それらが最初に発見されたときには、道徳的不潔と、残虐さと、偶像礼拝が満ちあふれていることがわかったのである。悪魔の足跡は、あらゆる国で見いだされてきた。創世記3章の真実さは、至る所で立証されてきた。蛮族たちは、他の何について無知であると発見されたにせよ、罪について無知であるとは決して発見されたことがない。

 しかし、この性質の腐敗を免れているような人は、世界中にひとりもいないのだろうか? 時たまは、完全無欠な人生を送った、高潔で気高い人々がいたのではないだろうか? たとえごく少数ではあっても、神が求めておられるすべてのことを行ない、そのようにして罪なき完全さが可能であることを証明した人がいたのではないだろうか? 否! そのような人はひとりもいなかった。この世で最も聖い生涯を送ったキリスト者たちの伝記や言行録をことごとく眺めてみるがいい。キリストの民のうち、最も輝かしい最良の者らといえども、いかに自分自身の欠陥や腐敗を常に痛感していたかに注目するがいい。彼らは、自分の数々の短所についてうめき、嘆き、嘆息し、涙を流している。これこそ彼らの共通項の1つである。族長たちも使徒たちも、教父たちも宗教改革者たちも、監督派も長老派も、ルターもカルヴァンも、ノックスもブラッドフォードも、ラザフォードもホール主教も、ウェスレーもホイットフィールドも、マーティンもマクチェーンも、――自分の罪深さを感ずる点ではみな同様に一致していた。彼らは光を有すれば有するほど、へりくだり、自己卑下していったように思われる。聖くなればなるほど、自分の無価値さを実感していったように思われる。

 さて、これらすべては何を証明しているように見えるだろうか? 私にとって、これらがみな証明しているように思えるのは、いかなる人も、その人間性の極度の汚染と腐敗ぶりのため、自力で救われることはできない、ということである。人間という病人は、救い主がいなくては――それも、力強い救い主がいなくては――絶望的な状態にあると思われる。これほど貧しく罪深い存在を神に受け入れさせるためには、ひとりの仲介者が、贖罪が、弁護者がなくてはすまされないに違いない。そして私は、そのようなお方を、イエス・キリスト以外に、どこにも見いださないのである。全能の贖い主を有さない人にとっての天国、天来のとりなし手を有さない人にとっての神、永遠の救い主を有さない人にとっての永遠の生―― 一言で云えば、キリストなしの救い――、これらはみな同じように、人間性に関するあからさまな事実の数々を前にするとき、全くの不可能事であると思われる。

 私はこうした事がらを、ものを考える人々の前に置き、それらを熟考するよう求めるものである。そうするのが、この世で最も困難なことであることは承知している。罪の罪深さを悟ることほど難しいことはない。私たちがみな罪人であると云うことと、罪が神の御目にとっていかなるものであるに違いないかという観念をいだくこととは、全くの別物である。罪は、あまりにも私たちの一部分となっているため、罪の真の姿を見抜くことは至難の業である。私たちは自分の道徳的な奇形さを感じない。私たちは、ある種の動物のようなものである。そうした動物は、人間の目には汚らしく厭わしく感じられるが、自分では自分のことを、また互い同士のこともそうは思わない。それらの厭わしさは、それらの本性であって、自らはそれを悟らないのである。全く同じように、私たちの腐敗は、私たち自身に組み込まれた一部分であって、いかに力を尽くしても、私たちは、その強烈さをごく微弱にしか理解できない。

 しかし、このことだけは確信してよい。――もし私たちが自分自身の生活を、一度も堕落したことのない御使いたちの目で見ることができたとしたら、私たちはこの点を一瞬たりとも決して疑わないであろう。一言で云えば、いかなる人も、人間がいかなる存在であるかを本当に知るならば、私たちが前にしている聖句の教理の真実さを見てとらざるをえないのである。私たちは使徒ペテロの結論の前で口をつぐまざるをえない。キリストによる以外いかなる救いもありえない。

 (b) もう1つ云わせてほしい。私たちが前にしている聖句の教理が真実に違いないのは、神が今あるような存在であられるからである

 さて、神とはいかなる存在だろうか? これは実に深遠な問いである。私たちは神の種々の属性についてある程度は知っている。神は、その被造世界において、ご自身のことを証ししないでおられたのではない。神はあわれみ深くもご自分について多くのことを、そのみことばの中で私たちに啓示しておられる。私たちは、神が霊であること――永遠の、目に見えない、全能の霊であること――、万物の《創造者》、万物の《保持者》であること、――聖く、義なる、すべてをご覧になっており、すべてを知っており、すべてを覚えておられるお方であること、あわれみと、知恵と、きよさにおいて無限の方であることを知っている。

 しかし、悲しいかな、神がいかなるお方であると私たちが信じているかを紙に書き表わしてみるとき、結局、私たちの最高の観念といえども、いかに低俗で、下卑たものであることか! 自分でもその完全な意味を探りきわめられないような言葉や表現を、いかに多く私たちは用いていることか! 自分の思いの中ですら、まるで想像もつかないような事がらを、いかに多く私たちは神について語っていることか! 神について私たちは、いかに僅かなことしか知りえないことか! この広壮な世界を無から造り出し、一日も千年のようであり、千年も一日のようであるというお方について、何らかの観念を伝えるものとして、私たちの言葉のいかに卑しく、いかにつまらないものであることか! そのみわざのすべてにおいて完璧であられるお方について、何らかの概念を形成するものとして、私たちのひ弱な知性は何と虚弱で、何と不適切なものであることか!――このお方は、極大のものにおいてと同様、極小のものにおいても完璧なのである。木星が、そのすべての衛星を引き連れて太陽の回りを公転する日数と、時間数と、分数と、秒数を定めることにおいて完璧であられ、私たちの小さな地球のほんの数フィート四方をはいずりまわる、ちっぽけな昆虫を形作ることにおいても完璧であられる! 私たちのような、せわしなく無力な存在が、天と地のあらゆるものを、その普遍の摂理によって常に定めておられる存在を、いかに僅かしか理解できないことか。そのお方は、ニネベやカルタゴのような国家や王朝の興亡を定め、アレクサンドロスや、ティムールや、ナポレオンのごとき人々が、その征服を拡大する正確な期間を定め、ご自分の民のうちの、最もつまらぬ信仰者の、最も小さな一歩をも定めておられ、それらすべてを同時に、すべてを絶え間なく、すべてを完璧に――、すべてをご自分の栄光のために行なっておられるのである。

 盲人は、ルーベンスやティツィアーノの絵画を絶対に鑑定できない。聾者はヘンデルの音楽の美しさに無感覚である。グリーンランド人は、熱帯気候について、おぼろげな観念しか持ちえない。南洋諸島の人々は、いかに懇切丁寧に説明しても、蒸気機関についてごくかすかな観念しか思い描くことができない。彼らの精神には、そうした物事を取り込むことのできる機能が欠けているのである。彼らは、そうした物事を理解できる思考様式を有していないのである。それらをつかみとることのできる精神的な手指を持ち合わせていないのである。そして、まさにそれと同じように、人間が神について思い描きうる最良の、最も明察に富んだ観念も、いつの日か私たちが目にすることになる真実にくらべれば、実に微弱でかすかなものでしかない。

 しかし、1つのことだけはきわめて明確であると思う。そして、それはこのことである。人は、神が真実いかなる方であるかを冷静に考察すればするほど、神と自分自身との間の測り知れない懸隔を感ぜざるをえない。瞑想すればするほど、その人は、自分と神との間に、到底越えられない深淵が口を開いていることを悟らざるをえない。その人の良心は、本音を語ることを許されさえするなら、こう告げるはずである。すなわち、神は完全であり、自分は不完全である。神は非常な高みにおられ、自分は非常な低きにある。神は栄光に輝いておられるが、自分はあわれな虫けらである。そして、もし自分が審かれる際に慰めをもって神の前に立とうするつもりなら、だれか強大な助け手がいなくてはならず、さもなければ自分は救われることはないだろう、と。

 そして、これらすべては、まさに私がこの論考の冒頭に示した聖句の教理そのものではないだろうか? これらすべては、私が読者の方々に対して力説している結論に沿うものでなくて何だろうか? このような神に弁明せざるをえない私たちには、強大な救い主がいなくてはならない。このように栄光に富む神との平和を与えられるためには、私たちは、全能の仲介者、友、弁護者に自分の側に立ってもらわなくてはならない。――私たちの非を問うあらゆる告発に答えることができ、神と対等の立場に立って私たちのために弁ずることのできる弁護者がいなくてはならない。私たちは、最低限こうしたことを必要としているのである。漠然としたあわれみの概念など、決して真の平安を与えることがない。そしてそのような救い主、そのような友、そのような弁護者は、イエス・キリストというお方以外どこにも見いだすことはできない。

 私はこの理由も、ものを考える人々の前に置くものである。私は、人々が他のあらゆることについてと同様、神についても間違った考え方をしていること、また自分の目を真理に対して閉ざしていることを百も承知している。しかし私は大胆に、また確信をもって云うが、いかなる人も本当に神がいかなるお方であるかについて高潔な、また栄誉ある見方をしているならば、私たちの前にある聖句の教理が正しいとの結論を逃れることはできないはずである。私たちは使徒ペテロの宣言の前で口をつぐまざるをえない。キリストによる以外、到底いかなる救いもありえない。

 (c) 第三のこととして云いたいのは、この教理が真実に違いないのは、聖書が今ある通りの存在だからである。もし私たちがこの教理を信じないとしたら、私たちは信仰の唯一の基準としての聖書を投げ捨てなくてはならない。

 創世記から黙示録に至るまでの聖書全体を通して、人が救われなくてはならない道については、唯一、単純な説明しかない。それは常に同じである。それは、主イエス・キリストのおかげによって――信仰を通して――でなければならず、私たち自身の働きやふさわしさによってではない。

 最初それは薄ぼんやりとしか啓示されていない。それは、ごく僅かな約束の霧のかなたに、おぼろげに見えるだけである。だが、それはそこにある。

 後にそれは、もう少しはっきりとしてくる。それは――養育係の時代――モーセの律法という象徴や表象によって教えられている。

 やがてそれは、さらに明確になってくる。預言者たちは幻によって、来たるべき《贖い主》について多くの詳細を見てとった。

 そして、ついにそれは、新約聖書の歴史という陽光の中で、完全に明らかにされる。受肉したキリスト、十字架にかけられたキリスト、よみがえるキリスト、世界中に宣べ伝えられるキリストである。

 しかし、一本の黄金の鎖が聖書全巻を貫いている。イエス・キリストによるほか救いなし、である。堕落の日に予告された、蛇の頭が砕かれること、私たちの最初の両親たちが皮の衣を着せられたこと、ノアやアブラハムやイサクやヤコブがささげたいけにえの数々、《過越》、そしてユダヤ教律法のあらゆる細則――大祭司、祭壇、日ごとの小羊の奉献、血によってしか入れない至聖所、アザゼルのやぎ、のがれの町――これらすべては、この聖句で述べられている真理を示す、数多くの証しである。すべてが異口同音に宣べ伝えている。イエス・キリストによる以外に救いはない、と。

 実際、この真理こそ聖書の大目的であるように思われ、この書物のあらゆる異なる部分と箇所とは、それに光を投ずるためのものであるように思われる。私は聖書から、この真理との関わり以外に、いかなる赦しや、神との平和の観念をも得ることができない。もし私が、聖書の中にひとりでも、《救い主》への信仰を抜きにして救われた人の話を読むことができたとしたら、ことによると、これほど自信たっぷりに語ることはなかったかもしれない。しかし私は、キリストに対する信仰(来たるべきキリストか、十字架につけられたキリストのいずれかに対する信仰)が、天国に行ったあらゆる人の信仰生活の顕著な特徴であるのを見てとるとき、――聖書の一方の端で、アベルがその「すぐれたいけにえ」[ヘブ11:4]によってキリストを認めており、聖書のもう一方の端で、ヨハネの幻に現われる栄光に包まれた聖徒たちがキリストを喜んでいるのを見てとるとき、――敬虔で、神を恐れかしこみ、施しをなし、祈りをしていたコルネリオのような人物が、お前はすべてを成し遂げた、もちろんお前は救われるだろう、と云われる代わりに、ペテロのもとに使いを遣わしキリストについて聞くように命じられているのを見てとるとき、――こうしたすべての事がらを見てとるとき、私は云うが、この聖句の教理こそ全聖書の教理であると信ぜざるをえないと感ずるのである。神のことばが公平に吟味され解釈されたとき、私は、使徒ペテロの規定した真理の前で口をつぐまざるをえない。イエス・キリストによる以外、いかなる救いも、いかなる天国への道もありえない。

 こうした理由によって、この論考の主題をなしている真理は確証されているように見受けられる。人間がいかなる存在であるか、神がいかなる存在であられるか、聖書がいかなる存在であるか、――そのすべてが、同じ偉大な結論へと至らせているように思える。キリストを離れては、到底救いはない。この点についてはここまでとし、先へ進むことにしよう。

 III. さてこれから、第三のこととして、聖ペテロによって宣言された教理から当然出てくる、いくつかの論理的帰結を示してみよう

 この主題のうちいかなる部分も、これにまさって重要なものはないと云ってよいであろう。私が読者の方々の前に示そうとしてきた真理は、人類の非常に大きな割合の人々の状態に、はなはだしく関わっているため、それについて何も云わないですますとしたら、それはただの気取りでしかないと思う。もしキリストが救いの唯一の道だとしたら、私たちは世界の多くの人々についてどのように感ずるべきだろうか? これこそ私が今から取り上げたい点にほかならない。

 私の信ずるところ、多くの人々は、これまでのところは私の意見に同意していても、これから私が述べることには同意しようとしないであろう。彼らは私の議論の前提は許容しても、私の結論には全く同調しないであろう。彼らは、他の人々を非難するようなことを少しでも云うのは愛のないことだと考える。私としては、そのような愛を理解することはできない。それは私には、隣人が効き目の遅い毒を飲んでいるのを見ながら、絶対に相手をさえぎって止めようとしないような種類の愛と思われる。移民たちが水漏れのするぼろ船に乗り込んでいくのにまかせ、彼らをさえぎって妨げないような種類の愛と思われる。盲人が断崖の近くへ歩み寄っていくのを見ながら、叫び声をあげて危ないと云うのは間違っていると考えるような種類の愛であるように思われる。

 最も大きな愛とは、最も多くの真実を告げようとするものである。私たちが今考察している聖ペテロの言葉の論理的な帰結を包み隠したり、自分の目をそれらから閉ざしたりするのは、愛でも何でもない。そして私は、キリスト以外に何の救いもないと――また、世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も与えられていないと――本気で信じているあらゆる人に厳粛に求めたい。これから話すことによく注意してほしい。私は今から、私たちが考察している教理に含まれている、すさまじい論理的帰結のいくつかを示していこうと思う。

 私は福音について一度も聞いたことのない異教徒について語るつもりはない。彼らの最終的状態は、非常な神秘であり、いかに強力な精神の持ち主といえども、いまだかつてそれを探りきわめたことはない。私は、このことに触れないでおくことを恥とはしない。私はただ1つのことだけ語っておく。もし異教徒のだれかが、異教徒のまま死んだのに救われるとしたら、私の信ずるところ、彼らの救いは、いかに墓のこちら側では彼ら自身、僅かしかわきまえていなくとも、キリストのみわざと贖いとに負っているのである。私たちの間の嬰児や精神異常者たちが、キリストを一度も知らなかったとしても、最後の日には、キリストにすべてを負っていることを見いだすだろうように、私の信ずるところ、もし異教徒のだれかが救われるとしたら、その人数の多寡に関わらず、それは同じことであろう。いずれにせよ私は、このことは確信している。――すなわち、被造物の功績などというものはない。私の個人的な意見では、いかに高位の大天使といえども(むろん私たちとは非常に異なるしかたと程度においてだが)、その立場を何らかの意味でキリストに負っていることがやがてわかるであろう。また、天国にある物事は、地上にある物事と同じく、究極的には、ことごとくイエスの御名の恩恵を受けているとわかるであろう。しかし私は、天国のことは他人にまかせて、より身近な問題について語っていくことにしよう。

 (a) さて、この聖句から学びとれるように思われる、1つの大きな論理的帰結は、この論考の要旨をなしていること、すなわち、キリストを抜きにしたキリスト教信仰の完全な無益さである。

 今日のキリスト教国に見られる多くの人々は、こうした類のキリスト教信仰を有している。彼らは理神論者と呼ばれたがらないであろうが、実のところ理神論者なのである。神がいること、彼らが喜んで《摂理》と呼ぶものがあること、神があわれみ深いこと、死後に何らかの状態があること、――こうしたことが、彼らの信条のおおよその要約であり実質にほかならない。そして、キリスト教の特徴的な諸教義については、彼らは全くそれらを認めていないように見える。さて私は、そうした宗教体系を砂上の楼閣であると糾弾するものである。――そこで一見土台のように見えるものは人間の空想であり、その希望は全くの迷妄である。こうした人々の神は、彼らがでっちあげた偶像であって、聖書の栄光の神ではない。――彼ら自身の示すところによっても、みじめな不完全なしろもの――聖さもなく、義もなく、漠然とした見境のないあわれみのほか、いかなる属性も持たない存在である。そのようなキリスト教信仰は、もしかすると生きている間のおもちゃにはなるかもしれないが、死ぬ間際の頼りとするには非現実的すぎる。これは人間の良心の欲求を全く満たすことができない。これはいかなる救済も差し出さない。私たちの足の裏にいかなる休み場も提供しない。これは慰めることができない。救うことができないからである。いのちを愛するというなら、こうしたものには用心しよう。キリスト抜きのキリスト教信仰に用心しようではないか

 (b) この聖句から学びとれるもう1つの論理的帰結は、キリストが第一の位置を占めていないキリスト教信仰の愚劣さである。

 読者の方々には、いかに多くの人々がこうした類の宗教体系を奉じているか思い出させる必要はないであろう。ソッツィーニ主義者によれば、キリストは単なる人間であったという。キリストの血は、他の人間の血と同様、何の効力もなかった。十字架上におけるその死は、人間の罪の贖いでもなだめでも何でもなかった。そして結局のところ、信ずることではなく、行なうことこそ、天国への道であるという。私は厳粛に宣言するが、私の信ずるところ、こうした宗教体系は人間の魂にとって破滅的なものである。私には、それが、聖書で神の啓示しておられる救いの計画の全体の根幹を攻撃するもの、また、実質的に聖書の大部分を無効にするものであると思われる。それは主イエスの祭司性を覆し、キリストからその職務をはぎとってしまう。それは、いけにえや儀式に関わるモーセ律法の全体系を無意味な形式に変えてしまう。それは、カインのささげ物もアベルのささげ物と全く同じくらい良いものであったと云っているように思われる。それは、天来の仲介者の完成したみわざを人間の足元から奪い取ることによって、人を不確実性の大海へと漂い流させる。いのちを愛するというなら、理神論と同じくらい、こうしたものにも用心しようではないか。キリストのご人格と、職務と、みわざを少しでも軽視し、過小評価しようとするような試みに用心しようではないか。私たちが救われることのできる唯一の御名は、他のいかなる名にもまさる名であり、その御名の上に浴びせられたいかに小さな軽蔑といえども、《王の王》に対する侮辱なのである。私たちの魂の救いは、父なる神によってキリストの上に置かれており、何者もそれに代わることはできない。もしキリストがまさに神ご自身でなかったとしたら、キリストは決してそれを成し遂げられなかったであろう。そして、いかなる救いも全くありえなかったであろう。

 (c) 私たちが前にしている聖句からもう1つ学びとれる論理的帰結は、救いに必要であるとして、キリストに何かをつけ加える人々の犯している大いなる過ちである。

 人は、《三位一体》を信じ、私たちの主イエス・キリストをあがめると告白してはいても、何かを希望の土台として簡単にキリストに付加してしまい、そのことによって、この聖句の教理を、頭から否定するのと同じくらい現実に、また完全に、覆してしまうことがありえる。

 ローマ教会は、このことを組織的に行なっている。ローマ教会は、福音の要求するところを越えて、自らがこしらえあげた物事をキリスト教につけ加えている。ローマ教会は、まるでキリストの完成したみわざが罪人の魂にとって十分な根拠ではないかのように語り、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも救われます」[使16:31]、と云うだけでは足りないかのように語っている。ローマ教会は、人々を司祭や聴罪司祭のもとに送り、悔悛や赦罪のもとに送り、ミサや終油のもとに送り、断食や苦行のもとに送り、処女マリヤや諸聖人のもとに送る。――あたかも、こうした事がらが、キリスト・イエスのうちにある安全さを増加させるかのようにしてそうする。そして、そのようにすることによってローマ教会は、神のことばの教えに対して尊大に罪を犯すのである。私たちは、いかなる方面から来たものであろうと、福音の単純な道につけ足しをしようとする、ローマカトリック教的な渇望に用心しようではないか。

 しかし残念ながら、この点で問題なのは、ローマ教会だけではないと思う。残念ながら、信仰を告白するおびただしい数のプロテスタント教徒が、むろん非常に異なる程度ではあるものの、同じ方向でしばしば過ちを犯していると思う。彼らは、もしかするとそれと気づかぬうちに、キリストの御名に他の事がらをつけ足すか、本来与えてはならないような重要性をそうした事がらに与えるという道に入り込んでいる。神の契約されたあわれみは監督制と分かちがたく結びついていると考える英国の過激な国教徒、高位聖職制と筋の通った福音知は矛盾しているとしか考えられないスコットランドの過激な長老派教徒、その隣にいる、平信徒による聖職者推挙権と生きたキリスト教とはほとんど両立しがたいと考えている過激な自由教会教徒、国教会にあるあらゆる悪をその国家との関連に起源があるとし、任意寄付制以外の何も語ることのできない過激な非国教徒、成人のバプテスマという自分の特定の見解を受け入れられないあらゆる人を主の食卓から閉め出す過激なバプテスト教徒、あらゆる知識は自分自身の団体に属していると信じ、外部のあらゆる人々をあわれな弱い幼子として断罪している過激なプリマス・ブレズレン教徒、これらはみな、私は云うが、いかに意図せずとはいえ、私たちの前にある聖句の教理に何かをつけ足そうという、はなはだ厄介な傾向を明示しているのである。これらはみな、実質的には、救いは単純にかつ、唯一キリストにおいてのみ見いだされるべきものではないと宣言しているように思われる。これらはみな、実質的には、人間が救われるべき名として、イエスの御名に別の名――すなわち、彼ら自身の党派や宗派の名――をつけ足しているように思われる。これらはみな、実質的に、「救われるためには、何をしなければなりませんか?」、との問いに対して、単に「主イエスを信じなさい」[使16:31]、と答えるだけでなく、「来て私たちに加わりなさい」、とも答えているように思われる。

 さて私はあらゆる真のキリスト者に、こうした過激な意見に用心するよう求めるものである。いかなる形に傾くかは関係ない。こう云うからといって誤解しないでほしい。私は、あらゆる人が教会に関する事がらについて確固たる自分の意見を持ってほしいし、自分たちの正しさを完全に確信していてほしい。私が願うのはただ、人々がこうした事がらを、キリストの位置にまつりあげたり、キリストの近くのどこかに位置づけたり、これらのことを、あたかも救いに必要なものででもあるかのように語るようなことをしない、ということである。いかに自分の特定の見解が自分にとって大切なものであっても、それらを罪人と《救い主》との間に押し込まないように用心しようではないか。神のことばの事がらにおいて、常に覚えておくべきこと、それは、つけ足すことは、差し引くことと同じくらい大きな罪だということである。

 (d) 私たちの前にある聖句から学びとれると思われる最後の論理的帰結は、ある人が「熱心」で「真摯」でありさえすれば、その人の魂の状態について申し分ないと考えることの完全な馬鹿らしさである。

 これは実際、非常によくある異端であり、私たちがみな警戒すべき必要のあるものである。今日は、次のようなことを云う、おびただしい数の人々がいる。「私たちは、他の人々の意見などにかかずらいたくない。ひょっとすると彼らは間違っているかもしれない。むろん彼らが正しく私たちが間違っている可能性だってあるが。だが、もし彼らが真摯で熱心であるならば、彼らは、私たちと全く同じように救われるはずだと私たちは希望している」。そして、こうしたことはみな寛大で、愛があるように聞こえ、人々は自分自身の見解がそのようなものであると空想するのを好みさえする! この間違った観念は、次のような極端なところまで、とめどなく突き進む。すなわち、多くの人々はキリスト者を、ただ「熱心な人」として描写することで満足し、この漠然とした定義で全く十分と考えているようなのである!

 さて私の信ずるところ、このような概念は、他に何と云えるにせよ、聖書とは完全に矛盾するものである。聖書のどこを見ても、人がただの真摯さによって天国に行き着けたとか、自分の考え方を熱心に主張していさえすれば神に受け入れられたなどということは見いだせない。バアルの祭司たちは熱心で真摯だった。剣や槍で血を流すまで自分たちの身を傷つけた。だが、それにもかかわらずエリヤは、彼らを邪悪な偶像礼拝者として扱うように命じた。ユダの王マナセは疑いもなく熱心で真摯だった。彼は自分の子どもたちを火で焼いてモレクにささげた。だが、そうすることによって彼が自分の身に大きな咎を招いたことを知らない者がいるだろうか? 使徒パウロはパリサイ人だったとき熱心で真摯に教会を荒らした。だが彼の目が開かれたとき、彼はこれを格別に邪悪なこととして嘆いた。私たちは一瞬たりとも真摯さがすべてであるとか、人がその意見を熱心に主張していさえすれば、その意見のゆえに、その霊的状態について悪く云う権利はないなどとは認めないように用心しよう。そのような原則に立てば、ドルイド僧による供儀も、ジャガナート像の車に轢き殺されて極楽往生することも、インドで夫の死体とともに妻が生きながら焼かれることも、インドの絞殺強盗団員による組織的殺人も、スミスフィールドでプロテスタント教徒が焼き殺されたことも、それぞれみな擁護できよう。だが、そのようなことはありえない。聖書の吟味には耐えられない。そのような概念を正しいと認めたが最後、私たちは聖書をみな投げ捨てた方がよい。真摯さはキリストではない。それゆえ真摯さは罪を取り除くことができない。

 私のあえて確信するところ、こうした種々の論理的帰結は、読者の方々の一部にとっては非常に不愉快に聞こえるであろう。しかし私は冷静に、また熟慮の上で云う。キリスト抜きのキリスト教信仰、キリストから何かを取り除いたキリスト教信仰、キリストに何かをつけ足したキリスト教信仰、真摯さをキリストの位置にまつりあげているキリスト教信仰、――これらすべては危険なものである、と。これらすべては避けるべきである、と。なぜなら、これらすべてはみな同じように聖書の教理に反しているからである。

 読者の一部はこれを好まないかもしれない。私はそれを残念に思う。彼らは私のことを愛がなく、不寛容で、狭量で、頑迷といったふうに考える。それならばそれでよい。しかし、彼らは、私の教えていることが神のことばの教理ではないとも、私が教役者として務めている英国国教会の教理ではないとも云わないであろう。その教理とは、キリストにあれば完全な救いを得ることができるが、――キリストを離れては何の救いもない、ということである。

 私は、私たちが生きている時代の精神に対して厳粛な反証をあげるべき義務、その悪い感化に対して人々に警告すべき義務を感じている。今の時代に私が最も恐れているのは無神論ではなく、汎神論である。何も正しくはないと云う宗教体系ではなく、すべてが正しいと云う宗教体系である。《救い主》などひとりもいないと云う宗教体系ではなく、救い主はたくさんおり、平和への道もたくさんあると云う宗教体系である! それは非常に寛大な宗教体系で、何事をも偽りであるとは云おうとしない。それは非常に愛に満ちた宗教体系で、何事であれ正しいと認めようとする。それは、私たちの主イエス・キリストだけでなく他の者らにも喜んで栄誉を帰そうとしているように見え、それらを全部ひっくるめて考え、それらに全部好感をいだいているように見える。孔子もゾロアスターも、ソクラテスもマホメットも、インドのバラモンもアフリカの悪魔礼拝者たちも、アリウスもペラギウスも、イグナティウス・ロヨラもソッツィーニも、――すべてが敬意をもって扱われるべきである。だれひとり非難されてはならない。それはあらゆる信条、あらゆる宗教体系に対して慇懃な微笑みを向けるよう命ずる宗教体系である。聖書も、コーランも、ヒンドゥー教のヴェーダも、ゾロアスター教のゼンドアヴェスターも、おしゃべりな老婆のおとぎ話も、ユダヤ教のラビ文献も、教父伝承のたわごとも、ユニテリアン派のラコウ教理要綱も、《三十九信仰箇条》も、エマーニュエル・スヴェーデンボリーの啓示も、ジョーゼフ・スミスのモルモン経も、――すべてが、1つ残らず、傾聴されるべきなのである。いかなるものも虚偽として糾弾されるべきではない。それは、他の人々の感情に非常に気を遣う宗教体系で、私たちは決して相手を間違っていると云うべきではないのである。それは非常に寛大な宗教体系で、だれかが「私は自分の考えが正しいと知っている」と云おうものなら、その人を頑迷であると呼ぶのである。こうした宗教体系こそ、こうした感情の風潮こそ、私が今日恐れているものであり、この宗教体系こそ、私が力を込めて反証し、糾弾したいと願うものにほかならない。

 これらすべては、1つの大いなる偶像、もっともらしく寛大さと呼ばれている偶像の前に額づくことでなくて何だろうか? これらすべては、へたな愛の偽物の祭壇に真理を犠牲としてささげることでなくて何だろうか? これらすべては、影や、幻影や、非現実を礼拝することでなくて何だろうか? 「熱心さ」があれば十分だと公言し、自分が何について熱心であるかについてはわからない、などということほど馬鹿げたことがあるだろうか? この迷妄によって押し流されないように警戒しよう。主なる神は聖書の中で私たちに語っておられるのか、語っておられないのか。神は救いの道をその聖書の中ではっきりと明確に私たちに示しているのか、示していないのか。その道から離れているすべての者らの危険な状態を神は私たちに宣告しているのか、宣告していないのか。私たちは心を引き締め、こうした問いに公正に直面し、正直な答えを返そうではないか。聖書の他に何か霊感された書物があるというなら、そう云うがいい。そうすれば私たちもどう対応すればよいかがわかるであろう。しかし、一瞬でも聖書が、聖書全体が、他の何でもない聖書だけが、神の真理であると認めたが最後、私は、いかにすればこの聖句の教理を免れることができるのかわからない。願わくは、だれもが正しいと云う寛大さからも、また、だれかを間違っていると云うのを禁ずる愛からも、また、真理を犠牲にして買われた平和からも、――願わくは、いとも良き神が私たちを救い出してくださるように!

 率直に告白するところ私としては、徹底的に明確な福音主義的キリスト教と、徹底的な不信心との間に、他の人々がどう考えようとも、いかなる休み場も見つけることができないのである。それらの中間に位置するような、いかなる宿場も見つけられないのである。さもなければ、私の疲れ切った魂の宿り場にはできない、屋根なしの家しか見つけられないのである。私は、いかにあわれに思われても、不信心者のうちには一貫性を見てとることができる。また、福音主義的な真理の徹底した主張のうちにも一貫性を見てとることができる。しかし、その二者の中間を行こうとする道筋については、――それを見てとることができない。そのことは、はっきり云っておく。それを不寛容であるとか愛がないとか呼びたければ呼ぶがいい。私は聖書の中以外のどこにも神の声を聞くことができないし、聖書の中に見てとれる、罪人のための救いは、イエス・キリストによるもののほかにない。キリストにあるとき私は豊かに満たされるが、キリストを離れて私は無一文である。そして、キリストが全くおられないようなキリスト教信仰をいだく人々については、それがいかなる人々であれ、私はその安全についてこの上もなく居心地悪いものを感ずる。私は一瞬たりともそうした人々のうちひとりも救われることはないと云いはしない。だが私は云いたい。救われる人々は、自分自身の諸原則との不一致によって、自分自身の宗教体系に反する形で救われるであろう、と。「生活の義しき人に誤りの あるべきはずも故もなければ」、という有名な一節を書いた人物[アレグザンダー・ポープ]は、疑いもなく偉大な詩人ではあったが、神学的には無知にひとしい。

 この論考のしめくくりにあたり、適用という形でいくつか言葉を述べさせてほしい。

 (1) まず第一に、もしキリストによるほか何の救いもないとしたら、私たちは、自分がその救いにあずかっているかどうかを確かめようではないか。真理を聞き、賛同し、同意するだけで、それ以上進まないようなことで満足しないようにしよう。この救いに個人的にあずかることを求めよう。イエスが差し出している神との平和を、自分が実際にわがものとしていること、また、キリストが自分のものとなっており、自分がキリストのものとなっていることを知り、感じるまで安心しないようにしよう。もし天国に行き着くための道が2つか、3つか、それ以上あるというなら、この問題を強調する必要はないであろう。しかし、もし唯一の道しかないとしたら、私がこう云うのを不思議がる人がいるだろうか? 「あなたがそこに立っていることを確かめるがいい」。

 (2) 第二に、もしキリストによるほか何の救いもないとしたら、キリストを《救い主》として知っていないあらゆる人々の魂に、努めて善を施そうではないか。おびただしい数の人々は、このみじめな状態にある。――外国にいるおびただしい数の人々、わが国にいるおびただしい数の人々、キリストに信頼していないおびただしい数の人々はそのような状態にある。私たちがもし真のキリスト者であるなら、彼らに同情してしかるべきである。彼らのために祈るべきである。まだ時間のあるうちに、彼らのために働くべきである。私たちは本当にキリストが天国への唯一の道であると信じているだろうか? ならば、そう信じているかのような生き方をしよう。

 自分の親戚や友人の範囲を見渡し、ひとりひとり数え上げて、そのうち、いかに多くの者がまだキリストのうちにいないか考えてみるがいい。何らかのしかたで努めて彼らに善を施し、自分の友人が危険に陥っていると信じている者が行動するように行動しよう。彼らが親切で、人好きがし、優しく、気立てが良く、道徳的で、礼儀正しいというだけで満足しないようにしよう。むしろ、彼らがキリストのもとに来て、キリストに信頼するまで、彼らを哀れに思うようにしよう。こうしたことがみな、熱狂主義的で狂信的に聞こえることは承知している。私はこうしたことがより多く世にあればいいと思う。私の確信するところ、いかなるものであろうと、他人の魂についての平然たる無関心、だれもが天国への道を辿っているかのようにおっとり構えた無関心よりはましである。私の思うところ、私たちの信仰の小ささを何にもまして証明するのは、身の回りにいる人々の霊的状態に対する私たちの薄情さにほかならない。

 (3) 第三に、もしキリストによるほか何の救いもないとしたら、私たちは、いかなる者らであれ、主イエスを心から愛し、自分の《救い主》として称揚しているすべての人々を愛そうではないか。他の人々があらゆる点であなたと意見の一致を見ていないからといって、彼らから身を退いたり、うさんくさそうに眺めたりしないようにしよう。その人が自由教会派であれ独立派であれ、ウェスレー派であれバプテスト派であれ、もしキリストを愛し、キリストにその正当な立場を認めているとしたら、その人を愛するようにしよう。私たちがみな先を急いでいる旅路の果てでは、教会政治の名前や形式など何の意味も持たず、キリストがすべてとなられるのである。その場所にふさわしい者となるために、遅くならないうちに、そこへ至る道を辿っているすべての人々を愛するようにしよう。

 真の愛とは、聖書の教理が奉じられ、キリストが称揚されている限り、すべてを信じ、すべてを期待することである。キリストこそ、すべての意見を測るべき唯一の基準でなくてはならない。キリストを尊ぶすべての人を尊ぼう。だが、愛について書いた同じ使徒パウロが、こう云っていることも決して忘れないようにしよう。「主を愛さない者はだれでも、のろわれよ」[Iコリ16:22]。もし私たちの愛と寛大さが、聖書のそれよりも幅広いとしたら、そこには全く何の値打ちもない。見境のない愛は愛でも何でもなく、あらゆる宗教的意見を見境なく是認することは、不信心の新しい名前である。主イエスを愛するすべての人に私たちの右の手を差し出そう。だが、それ以上のことをしていないかどうかに用心しよう。

 (4) 最後に、もしキリストによるほか何の救いもないとしたら、福音の教役者たちがキリストについて大いに説教するとしても驚かないようにしよう。彼らは、すべての名にまさる御名についていくら語っても十分ではない。私たちは、キリストについていくら聞かされても十分ではない。説教の中で論争について聞きすぎるということはあるであろう。――行ないや、義務や、形式や、儀式や、礼典や、典礼について聞きすぎることはあるであろう。――だが、私たちが決して聞きすぎるということのない主題が1つある。私たちは決してキリストについて聞きすぎるということはない。

 教役者たちがキリストについて説教することに飽き飽きするとき、彼らはにせ教役者である。人々がキリストについて聞くことに飽き飽きするとき、彼らの魂は不健全な状態にある。教役者たちが一生キリストについて説教しても、キリストの素晴らしさの半分も語られずに終わるであろう。聴衆がキリストの現われの日に顔と顔を合わせてキリストに会うとき、彼らはキリストのうちに、自分の心に一度も思い浮かばなかったものを見いだすであろう。

 この論考の最後に、ある古の著者の言葉をあげたい。私もへりくだりつつ、その言葉に同意したいと思う。

私の認める唯一の宗教、それはキリスト教以外にない。私の認める唯一のキリスト教、それはキリストについての教理以外にない。キリストの神聖なご人格、その神聖な職務、その神聖な義、その神聖なる御霊について、キリストの民全員が受け取っている教理以外にない。私の認める唯一の教役者、それはイエス・キリストを、救い主として十分な恵みと栄光を持つお方として、人々の信仰と愛に向けて推奨することを、神に召された務めと任ずるような者ら以外にない。私の認める唯一のキリスト者、それは信仰と愛によってキリストに結び合わされ、福音的な聖潔の美しさによってイエス・キリストの御名のご栄光を高めようとする者ら以外にない。こうした思いの教役者とキリスト者こそ、長年にわたって、私の兄弟であり同伴者であったし、これからも、主の御手がいかように私を導かれようとも、そうあり続けたいと願う人々なのである。(ロバート・トレイル)

救いの唯一の道[了]

HOME | TOP | 目次 | BACK | NEXT