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もはや なくことはない

「(かみは)かれらの目のなみだを すっかり ぬぐいとってくださる。もはや し もなく、かなしみ、さけび、くるしみも ない。なぜなら、いぜんのものが、もはや すぎさったからである」。 もくしろく21:4

 あいするみなさん。このページの一ばん上には、せいしょの おことばが一つかかれています。どうか、それを 二かい よんでみてください。わたしが いま ねがっているのは、いまから おはなしすることで、あなたが、このおことばを いっしょう、わすれないようになることです。

 わたしは、せいしょが たくさんのことを おしえている、三つのばしょについて、おはなししようと おもいます。もちろん、ばしょの中には、ほとんど しらなくとも、べつに かまわない ばしょもあります。けれども、いまから おはなしする 三つのばしょについて しっておくことは、とても たいせつです。

 さいしょに、あるばしょには、とてもたくさん なくことがあります。二ばんめに、あるばしょには、なくことしかありません。三ばんめに、あるばしょには、まったく なくことがありません。

 さて、よく みみをすませてください。わたしは、しっておけば とてもとても やくにたつことを おしえてあげましょう。

 1. まずさいしょに、あるばしょには、とても たくさんの なくことがあります。

 そのばしょとは、なんでしょうか? それは、あなたや わたしが いきている、このせかいのことです。もちろん、このせかいには、うつくしいものや、よろこばしいものが たくさんあります。――ひるまには、たいようが かがやき、よるには、ほしが ひかります。みどりの おかは、てんにそびえ、うねる おおうみは、みちたり、ひいたりしています。みずうみは、ひろく、おだやかで、おがわは、やすむことなく、さらさらと ながれています。はるには、はなが さきほこり、あきには、はたけが みのった ほなみ でいっぱいになります。とりたちは、もりでうたい、こひつじたちは、みどりの ので あそびます。――これらはすべて、うつくしいことです。わたしは、こうしたものを なんじかんながめていても あきることなく、「なんと うつくしいせかいだろう!」、と いうことができます。けれども、それでも このせかいには、たくさんの なくことがあります。これは、おおくの なみだでいっぱいのせかいなのです。

 せいしょのじだいにも、なくことはありました。ハガルは、イシュマエルがしにそうだと おもったとき、なきました。アブラハムは、サラがしんだとき、なげきました。ヨセフは、おにいさんたちによってエジプトにうられたとき、なきました。ダビデは、アブシャロムがころされたとき、なきました。りっぱな おうさまだった ヨシヤが、たたかいにいって しんだとき、エルサレムでは、おおくのなみだが ながされました。ベツレヘムでは、ヘロデおうが、二さいの小さな子どもたちをぜんいん ころしたとき、なみだが ながされました。こうしたことがら、そして、これらとおなじような、おおくのことがらが、あなたの せいしょの中には かかれているでしょう。

 いまも、なくことは、せかいじゅうの いたるところに あります。小さいあかちゃんたちは、なにか ほしいものがあったり、どこかがいたいときに、なきます。男の子や女の子たちは、けがをしたり、こわくなったり、しかられたりすると、なきます。おとなも、なくことがあります。なやみごとがあったり、じぶんの あいする人々がしぬのをみたりすると、なきます。つまり、かなしみや、いたみがあるところには、どこにでも、なくことがあるのです。

 もしかすると、あなたは、くろいふくを きている人だけが きょうかいにきているのを みたことがあるかもしれませんね。それを、「もふく をきている」といいます。この人たちの、しんせきか、おともだちのだれかがしんだのです。それで、この人たちは、くろいふくをきているのです。よろしい。おぼえておいてください。もふくをきている人たちをみかけたら、だれかがないていたのだ、ということを。

 もしかすると、あなたは、きょうかいのうらの おはかをみたことがあるかもしれませんね。そして、人は しんだら、そこに うめられるのだ、ときいたことがあるかもしれませんね。おはかの中には、みなさんよりも せのひくい、とても小さなおはかが あります。よろしい。おぼえておいてください。そうしたおはかがつくられたときには、そして、小さな かんおけが その中におろされたときには、なくことがあったのだ、ということを。

 みなさん。あなたは、こうした なくことが、ぜんぶ、どこからきたのか、かんがえたことがあるでしょうか? あなたは、なくことが、一ばんさいしょには、どのようにして はじまったのか、かんがえたことがあるでしょうか? なくことや、なみだが、どのようにして このせかいに はいりこんだのか、きいたことがあるでしょうか? もちろん、かみさまが、なくことを つくったのではありません。――それは たしかです。かみさまが おつくりになったものは、すべて、「ひじょうに よかった」からです。よく きいてください。なくことが どのようにして はじまったのかを、これから おはなししましょう。

 なくことが、せかいに はいりこんだのは、つみのためです。つみこそ、せかいじゅうの なくことと、なみだと、いたみの ぜんぶの げんいんなのです。すべての なくことは、アダムとエバが、たべてはいけない きのみ をたべて、つみびとになったときに、はじまりました。つみこそ、せかいに いたみと、びょうきと、し を、つれてきたものです。つみこそ、せかいに、わがままと、いじわると、ふしんせつと、けんかと、ぬすみと、たたかいを つれてきたものです。もし、ねじまがったこころが なにも なかったとしたら、なみだをながすことは ぜんぜんなかったはずです。もし、つみが まったく なかったとしたら、なくことは ぜんぜんなかったはずです。

 では、あいするみなさん。みてごらんなさい。どれほど あなたは つみを にくまなくてはならないことでしょうか。せかいにある、すべての ふしあわせは、つみから やってきました。つみを よろこべる人がいるとは、なんと ふしぎな、おどろくべきことでしょう! あなたについては、そのようなことが ないようにしてください。つみには ようじんしてください。つみと たたかってください。つみを さけてください。つみのいうことを きかないようにしてください。パウロせんせいの ちゅうこくを きいてください。「あくを にくみなさい」。ソロモンおうさまの ちゅうこくを きいてください。「つみびとたちが あなたを まどわしても、かれらに したがってはならない」。まいあさ、じぶんにむかって こういうようにしてください。「つみによって、人は なかされます。だから、わたしは つみをにくみます」、と。

 また、みてごらんなさい。あいするみなさん。このよの中で、かんぜんにしあわせになろうと きたいすることは、なんとおばかさんな ことでしょう! それは、ありもしないものを あてにすることです。このせかいは、たくさんの なくことがあるせかいであり、ものごとが、かならずしも、よろこばしく すすんでいかない せかいです。たくさんの男の子や女の子たちが、大きくなったら いろいろ たのしいことがあるよ、といっているのを きくことがあります。子どもたちが、そのように はなしているのをきくとき、わたしは かわいそうにおもいます。その子たちが まちがっていることを、わたしは しっているからです。その子たちが、やがて がっかりすることになるのを、しっているからです。その子たちは、大きくなったとき、じぶんが たくさんのなやみごとや、しんぱいごと なしには、よの中を くぐりぬけていけないことに きづくでしょう。とげのない ばら は、ありません。くらく、あめのふる日のない としは、ありません。そして、なくことや、なみだなしに、このちじょうで いきていられる人はいません。

 2. さて、みなさんにおはなししようと やくそくした、二ばんめのばしょについて、おしえてあげましょう。あるばしょには、「なくこと」しかありません。

 このばしょとは、なんでしょうか? それは、わるい人たちが しんだとき、ぜんいん いくばしょです。それは、せいしょが じごく とよんでいるばしょです。じごくには、なんの わらいごえも、ほほえみも ありません。そこには、「なきさけんだり、ないて はぎしりしたりする」ことしかありません。じごくには、なんの しあわせもありません。そこにいく人たちは、よるも ひるも、やすむことなく なきつづけます。なんの やすらぎも あたえられません。ねむりこんでから、しあわせな きぶんで目をさますことは、けっしてありません。じごくでは、その人たちは、けっして なくのをやめることがありません。

 あいするみなさん。ざんねんなことですが、じごくにいく人たちは たくさんいる、と いわなくてはなりません。「ほろびに いたる……みちは ひろいからです」。そして、そこを いくものが おおいのです。おそろしいことに、おおくの子どもたちは じごくに むかっているのではないでしょうか。わたしが目にしている たくさんの男の子や女の子たちは、たいへん わるいことばかりしていて、おぎょうぎがわるく、ぜったい てんごくに はいるのに ふさわしくない、とおもえるほどです。ですが、もしその子たちが てんごくに はいるのに ふさわしくないとしたら、しんだとき、どこに いくことになるでしょうか? その子たちが いけるばしょは、ほかには一つしかありません。その子たちは、じごくに いかなくてはなりません。

 みなさん。こうしたことをいうのは、かなしくなることです。男の子や女の子たちが、なくことしかないという、その すさまじいばしょに むかっていると かんがえるのは たえられません。わたしが、みなさんについて、こころからねがい、また かみさまにおいのりしているのは、あなたが じごくにいかないようになることです。けれども、もしあなたがじごくに いきたくなければ、あなたには、いくつかのことを こころに とめておいてほしいとおもいます。よく きいていてください。わたしは あなたに いくつかのことを しつもんしてみます。

 一つのこととして、わたしは しつもんしましょう。「あなたは、イエス・キリストをあいしていますか?」 あなたは、イエスさまを あいしていなくてはなりません。イエスさまは、あなたのつみのために、じゅうじかの上で しにました。それは、あなたを じごくから すくいだすためだったのです。イエスさまは、じぶんから、おはか という くらい ろうやの中に とじこめられてくださいました。それは、あなたのつみがゆるされ、あなたが えいえんに[いつまでも]じごくに くさりでつながれるようなことが ないようにするためだったのです。みなさん。このことを かんがえてごらんなさい! もしあなたが、あそびや、たべものや、のみものや、きれいなふくや、ものがたりのごほんしか あいしておらず、キリストをあいしていないとしたら、あなたは ただしいみちに たってはいません。きをつけることです。もしあなたが きにしないままだと、さいごには、あなたは、なくことのほか、なにもないばしょへ いくことになるでしょう。

 わたしは あなたに、べつのしつもんもしましょう。「あなたは、つとめてキリストを およろこばせしようと していますか?」 あなたは そうしなくてはなりません。せいしょには、イエス・キリストが こういわれたと、かいてあります。「もしあなたがたが わたしを あいするなら、あなたがたは わたしの いましめを まもるはずです」。また、「わたしが あなたがたに めいじることを あなたがたがおこなうなら、あなたがたは わたしの とも です」。みなさん。このことを、かんがえてごらんなさい! もしあなたが、わがままだったり、すぐ かっとなったり、うそをついたり、たがいに けんかをしたり、いいつけられたことを しなかったりするなら、あなたは キリストの ともだちではないのです。きをつけることです。もしあなたが きにしないままだと、あなたは さいごには、なくことのほか、なにもないばしょへ いくことになるでしょう。

 わたしは あなたに、べつのことも しつもんしましょう。「あなたは、にちようびを きよく まもっていますか?」 あなたは そうしなくてはなりません。かみが、それを めいじておられますし、それは、あなたのためになることなのです。わたしは まえに、にちようび、きょうかいから まっすぐおうちにかえるかわりに、こおりの上であそびにいった、小さな男の子のはなしをきいたことがあります。その子のおかあさんは いいました。「トミー。どうして おまえは、そんなことをしたの?」

 トミーは いいました。「おかあさん。きょうが にちようびだってことを、わすれてたんだよ」。

 「トミー」、と おかあさんはいいました。「それこそ、かみさまが おまえに いいつけておられることなのよ。かみさまは、四ばんめのいましめで、こうおっしゃったの。『あんそくにちを おぼえて、これを せいなる日とせよ』」。

 みなさん。このことを かんがえてごらんなさい! もしあなたが、一しゅうかんのうちの一日を、かみさまにおささげするのをいやがるとしたら、あなたのこころは ただしくありません。きをつけることです。もしあなたが きにしないままだと、あなたは さいごには、なくことのほか、なにもないばしょへ いくことになるでしょう。

 べつのことも しつもんしましょう。「あなたは おいのりをしていますか?」 あなたは そうしなくてはなりません。もしかみさまが、あなたにとって ともだちだとしたら、あなたは、かみさまにおはなしすることも、わたしのたましいをまもってください と おねがいすることも、わたしを よい子にしたくださいと おねがいすることもない、などということは、ぜったいに ないはずです。もしあなたが ぜんぜん おいのりしようとしなかったり、おいのりしても、かんがえなしだったりするなら、あなたのこころは、すぐに いたずらや、つみで いっぱいになるでしょう。こころは、一日も、からっぽのままでいることはありません。わたしは まえに、はなが いっぱいにさいた かだんをもらった男の子のことをきいたことがあります。けれどもその子は、かだんのために なにもしませんでした。一ども つちをおこしたり、ざっそうを ぬいたりすることがありませんでした。なんしゅうかんかするうちに、ざっそうがおいしげり、はなは ぜんぶ かれてしまいました。みなさん。このことを かんがえてごらんなさい! もしあなたがかみさまに、どうか せいれいさまを わたしのこころにいれてください、とおいのりしなければ、あくまはすぐに、こころをつみで いっぱいにするでしょう。ようじんすることです。もしあなたが きにしないままだと、あなたは さいごには、なくことのほか、なにもないばしょへ いくことになるでしょう。

 さいごに もう一つだけ しつもんしましょう。「あなたは せいしょをよんでいますか?」 あなたは、そうしなくてはなりません。この うつくしいごほんは、あなたが じごくにいかないように あなたをまもり、あなたのまたしいをすくうことができます。もしあなたが せいしょを ただしくつかっているなら、あなたは あくまから きずつけられることはないでしょう。

 わたしは まえに、アフリカにいた ひとりの小さな男の子のはなしをきいたことがあります。その子は、おとうさんといっしょに、たきびをたいた そばの のはらでねむっていました。ところが、まよなかに目をさますと、大きなライオンが じぶんのちかくにいるのが みえたのです。ライオンは、いまにもその子に おそいかかろうとしているようでした。その小さな男の子は、たきびから、火のついた まき をとると、ライオンのかおのまえに それをつきだし、ライオンをおいはらいました。みなさん。このことを かんがえてごらんなさい! あくまは ほえたけるライオンのように、くいつくすべきものをさがしもとめながら、あるきまわっています。けれども、あくまは、もしあなたが せいしょをただしくつかっているなら、あなたをきずつけることはできません。もしあなたが あくまを おいはらいたければ、あなたは じぶんのせいしょを よまなければなりません。もしあなたが、じ は よめるのに、せいしょを むししているとしたら、あなたは たいへんなきけんの中にいます。ようじんすることです。もしあなたが きにしないままだと、あくまは あなたをさらって、なくことのほか、なにもないばしょへ つれていくでしょう。

 あいするみなさん。わたしの五つのしつもんを おぼえておいてください。それを なんどもなんどもかんがえて、じぶんのこころを それでためしてみてください。わたしが あんしんして みていられる子どもたちは、イエスさまをあいし、イエスさまを およろこばせしようとし、にちようびをきよくまもり、おいのりをし、せいしょをよんでいる子どもたちです。わたしは、そうした子たちがしんだとき、じごくにいくのではないか、と おそれはしません。けれども、わたしがしんぱいになる子どもたちは、こうしたことがらについて、ぜんぜん きをつかっていない子どもたちです。わたしは、その子たちは、たいへんなきけんの中にいるとおもいます。

 3. さてわたしは、あなたにおしえてあげるとやくそくした、三ばんめのばしょについておはなしすることにしましょう。あるばしょには、ぜんぜん なくことがありません。

 このばしょは なんでしょうか? それは てんごくです。よい人々がぜんいん、しんだときに、いくことになるばしょです。そこでは、なにもかもが、よろこびと しあわせです。そこでは、一てきも なみだは ながされません。そこには、かなしみも、いたみも、びょうきも、し も、けっして はいりこむことが できません。てんごくには、なんの なくこともありえません。そこには、かなしみをひきおこすようなものが、なにもないからです。

 みなさん。てんごくには、もう おべんきょうはないでしょう。ぜんいんが ものしりになっていることでしょう。がっこうは とじられるでしょう。むちも、ばつも、えいえんに うちすてられるでしょう。そこには、えいえんのおやすみがあるでしょう。

 てんごくには、もう つらいしごとはないでしょう。にんげんが、ごはんをたべるために はたらくひつようは、もう なにもないでしょう。あたまは、かんがえすぎて いたくなることが もうないでしょう。私たちの て は、もう はたらきすぎて かたくなったり、ひに やけたりすることがないでしょう。かみさまのものである人々には、えいえんの やすらぎがあることでしょう。

 てんごくには、なんの びょうきもないでしょう。いたみも、びょうきも、よわさも、し も、あじわう人は いなくなるでしょう。そこにすんでいる人々は、もう「わたしは びょうきです」、とは いわなくなります。その人たちは、いつもげんきでいることでしょう。えいえんに、けんこうと つよさのほか、なにもないでしょう。

 てんごくには、なんのつみもないでしょう。かんしゃくも、ふしんせつなことばも、いじわるなおこないも ぜんぜん ないでしょう。あの、わるいことをそそのかす、あくまは、そこに はいることも、そのしあわせを だいなしにすることも ゆるされないでしょう。そこには、きよさと あい だけが、いつまでも あるでしょう。

 なによりも よいことに、しゅイエス・キリストが、てんごくの まんなかにおられるでしょう。イエスさまのものである人々は、とうとうイエスさまと、かおと かおをあわせて あうことができ、イエスさまのまえから、二どと でていくことがないでしょう。イエスさまは、その こひつじたちを みむねに あつめて、その目から すべてのなみだを ぬぐってくださいます。イエスさまのおられるところには、よろこびが みちていて、イエスさまのみぎには、たのしみが とこしえに[いつまでも]あります。

 みなさん。あなたは、てんごくに いきたくはありませんか? わたしたちは、いつまでも、このよで いきていることはできません。やがて いつかは、さきにしんだ おとしよりの人たちとおなじように、しななくてはならないでしょう。みなさん。あなたは、じぶんがしんだとき、てんごくに いきたいとおもいますか? では、よくきいていてください。あなたが、あるかなくてはならないみちについて、すこしおはなししましょう。

 てんごくに いきたければ、じぶんのつみをゆるされ、こころをあたらしく、よいものにしてもらわなくてはなりません。それをできるおかたは、ひとりしか いません。しゅイエス・キリストです。かみさまは、イエスさまに、つみびとたちの《ともだち》になる やくめを、おあたえになりました。イエスさまは、あなたのつみを、ごじぶんのたっとい[とてもたいせつな]ち で、あらいながすことができます。イエスさまは、あなたのこころに せいれいさまを いれて、こころを あたらしくすることができます。イエスさまは、てんごくに はいるための《みち》であり、《もん》です。イエスさまは、そのかぎを、てにもっておられます。みなさん。もしあなたがてんごくに いきたければ、あなたは、イエス・キリストに、わたしをはいらせてください、とおねがいしなければなりません。

 いのって、イエスさまにおねがいしましょう。まったく なくこともない せかいに、わたしのための ばしょをよういしてください、と。おねがいしましょう。わたしのなまえを イエスさまのいのちの しょ[ほん]にかきとめて、わたしを イエスさまのものである人々のひとりにしてください。わたしを じぶんのすべてのつみからきよめて、わたしのこころに せいれいさまを いれてください。わたしに つみと、この よ と、あくまとにたいする たたかいを たたかう ちからを あたえてください。どうかわたしに めぐみをあたえて、わたしが、小さなときにも よい子になり、大きな おにいさん、おねえさんになっても よい人であり、おとなになってからも よい人になれるような めぐみをあたえてください。いきているあいだは ぶじにまもられ、しんだときには、えいえんに しあわせになれるようにしてください、とおねがいしましょう。

 みなさん。イエス・キリストは、こうしたことすべてを、あなたが おねがいしさえすれば、いつでも よろこんで してくださいます。イエスさまは、いままでにも、たくさんの人々に そうしてくださいました。いまのこのときにも、あなたのために そうしようと、まっておられます。イエスさまにおねがいするのを こわがってはいけません。イエスさまに、こういいましょう。わたしは、あなたが ちじょうにおられたとき、人々に とてもしんせつであった とききました。どうか、わたしにも しんせつにしてください。じゅうじかの上で、しんでいくところだった、どろぼうにも、あなたが どんなにしんせつであったか、おもいだしてください。「しゅイエスさま。わたしを おもいだしてください。わたしは、てんごくに いきたいのです。しゅよ。わたしのことを こころに おぼえてください。しゅよ。わたしに せいれいさまを あたえてください。しゅよ。わたしのつみをゆるし、わたしに あたらしいこころを あたえてください。しゅイエスさま。わたしを おすくいください」、と。

 さて、みなさん。わたしは、やくそくをまもりました。わたしは、あなたに三つのことを おはなししました。

 わたしは あなたに、あるばしょには、なくことしかない と おはなししました。わたしは、みなさんのうち だれもそこに いってほしくない、とおもいます。

 わたしは あなたに、あるばしょには、なくことが まったくない、と おはなししました。わたしは、みなさんがぜんいん、そこに いってほしい、とおもいます。

 わたしは あなたに、あるばしょには、とてもたくさんの なくことがある、と おはなししました。そのばしょとは、あなたがすんでいる、このせかいのことです。

 さいごのさいごに、あなたは、このよで しあわせになるための一ばんのみちが なんであるか、しりたいとおもいますか? よく きいてください。わたしが それをおしえましょう。

 このよで一ばん しあわせな人たちは、せいしょを そのせいかつの きまりにしている人たちです。その人たちは、じぶんのせいしょを なんどもなんども よみます。せいしょがいっていることを しんじます。せいしょが おしえている《すくいぬし》、イエス・キリストを あいしています。せいしょが いいつけていることに、したがおうとします。こうした人たちほど しあわせな人はいません。こうした人たちにも、びょうきや、なやみごとがやってくることはあります。けれども、その人たちは、せいしょから、そうしたことを しんぼうづよく がまんすることを おそわっています。みなさん。もしあなたが、このよで しあわせに すごしたければ、せいしょを あなたの一ばんのともだちにしてください。

 わたしは、まえに、小さな男の子と せいしょについて、一つのおはなしをきいたことがあります。それを おはなししましょうか。それは、わたしがいままで いってきたことを、あなたがおぼえておく たすけになるかもしれません。わたしは、ここまでかいてきたことばが、あなたのこころで、けっして なくならずに、のこっていてほしいのです。

 ある日、この小さな男の子はいいました。「おとうさん。せいしょなんか よんでも、なんのやくにも たたないんじゃないの。せいしょをよんで、ためになる人がいるなんて、かんがえられないよ」。

 小さなジョニーは、ふてくされたような、ふくれっつらをして、こういいました。それで、ジョニーのおとうさんは、りくつは いわないほうがいい、とおもいました。「ジョニー」、と おとうさんはいいました。「ぼうしを おかぶり。おとうさんと そとに おさんぽにいこう」。

 おとうさんは、まずジョニーを、とてもびんぼうな、としよりの女の人がすんでいる おうちに つれていきました。そして、その女の人に、そのくるしい くらしむきについて おはなししました。けれども、そのおとしよりの女の人はいいました。「だんなさま。わたしは、ぐちは いいませんよ。せいしょの中には、『わたくしは、どんな きょうぐう にあっても みちたりることを まなびました』、とかいてあるのを、よんでいますからね」。

 「ジョニー」、と この小さな男の子の おとうさんはいいました。「この おとしよりの女の人のいうことを よく おきき」。

 ふたりは、こんどは、とても おもいびょうきにかかっている、わかい女の人がすんでいる おうちに いきました。その女の人が よくなるみこみは、ぜんぜん ありませんでした。ジョニーのおとうさんは、その人に、しぬのがこわくは ありませんか、と ききました。「いいえ!」、と その女の人はいいました。「せいしょの中には、こう かいてありますわ。『たとい、し の かげの たにを あるくことがあっても、わたくしは わざわいを おそれません。あなたが わたくしと ともにおられますから』」。

 「ジョニー」、と この小さな男の子の おとうさんは また いいました。「この わかい女の人のいうことを よく おきき」。

 みなさん。ジョニーと おとうさんが、その日のごご、おさんぽから かえってきたとき、おとうさんは ジョニーに一つ しつもんしました。「ジョニー。おまえは、せいしょをよむことが、なんのやくにも たたないとおもうのかい? せいしょをよんで、ためになる人がいるとは、かんがえられないのかい?」

 さて、あなたは、ジョニーが なんと いったとおもいますか? おしえてあげましょう。ジョニーは、下のほうをむいて、なにも いいませんでした。けれども、かおが まっかになり、とてもとても はずかしそうにみえました。

 みなさん。その日から、ジョニーは もう二どと、「せいしょなんか よんでも、なんのやくにも たたないよ」、とは いわなくなりました。

 あいするみなさん。わたしの おわかれの ことばを、おぼえておいてください。このよの中で、できるだけ なくことを すくなくして すごすためのみちは、せいしょをよんで、せいしょをしんじて、せいしょでおしえられていることについて いのり、せいしょにしたがって いきることです。

 このように せいかつしていく人は、このよの中で、なくことが一ばん すくないでしょう。そして、なによりもよいことに、つぎの よの中では、ぜんぜん なくことがないでしょう。

もはや なくことはない[了]

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