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あそぶ男の子や女の子

「まちのひろばは、ひろばであそぶ男の子や女の子でいっぱいになろう」。 ゼカリヤ8:5

 みなさん。このおことばには、これからあとでおこることがかかれています。かみさまは、いつの日かエルサレムのひろばで なにがおこるかを、わたしたちに、おしえてくださっているのです。

 みなさんもしってのとおり、エルサレムは、とてもゆうめいなところです。そこは、ユダヤで一ばんのまちでした。ダビデや、ソロモンが すんでいたまちでした。イエスさまが、じゅうじかの上でしなれ、よみがえられたまちでした。せいしょをよんでいる男の子や女の子なら、だれでも少しはエルサレムのことをしっているはずです。

 エルサレムは、むかしはとてもりっぱで、ゆたかなまちでした。ユダヤ人が、かみさまをおそれかしこんでいたころには、せかいじゅうで、これほどすばらしいまちは、ありませんでした。でも、ユダヤ人がつみをおかしたので、エルサレムはほろぼされてしまいました。それは、いまでは、まずしくて、あれはてた、みすぼらしいところになっています*1。それをみると、だれでもかなしくなります。

 でも、いつの日か、エルサレムがもう一ど、りっぱで、うつくしいところになる日がやってきます。ユダヤ人は、いつの日か、くいあらためて、キリストにおつかえするようになり、じぶんたちのくにに もどってきます。そのとき、エルサレムのすばらしいじだいが、また、はじまるのです。エルサレムは、もう一ど、大きくて、ゆたかで、なんでもあるまちになることでしょう。そしてそのとき、このせいしょのおことばが、ほんとうになるのです。「まちのひろばは、あそぶ男の子や女の子でいっぱいになろう」。

 みなさん。わたしはあなたが、このおことばから二つのことをおそわってほしいとおもいます。かみさまは、エルサレムが一ばんきよくて、一ばんしあわせなじだいには、たくさんの男の子や女の子がひろばであそぶようになる、といっておられます。かみさまは、男の子や女の子がひろばであそぶのは、わるいことだ、とはいっていません。では、ここから、なにがわかるでしょうか。

 1. 一つのこととしておしえられたいのは、かみさまが、男の子や女の子のことをかんがえておられ、その子たちがなにをしているのか、目にとめておられる、ということです。かみさまがかたっておられるのは、エルサレムのおとなたちのことだけではありません。「男の子や女の子」たちのことを、わざわざかたっておられるのです。かみさまは、男の子や女の子たちがたくさんいるのは、よいじだいだ、また、その男の子や女の子たちがたくさんひろばであそんでいるのは、よいじだいだ、といっておられるのです。

 ある人たちは、子どもたちのことなど目もくれません。また、よの中には子どもがおおすぎる、などといったりします。そういう人たちと、かみさまはちがいます。てんの大いなるかみさまは、子どもたちをあいしておられます。かみさまは、ごぞんじなのです。もし、いま子どもがいなければ、だんだんおとなの人もすくなくなっていく、ということを。かみさまは、しへん127へん5せつで、こういっておられます。「さいわいなことよ、やづつを その や[子どもたち]でみたしている人は」、と。男の子や女の子をすきになれない人、いつも子どもをおこってばかりいる人は、じぶんも、むかしは子どもだったことをおもいだすべきです。

 せいしょには、子どものことがたくさんかかれています。イシュマエルや、イサク、ベニヤミン、モーセ、サムエル、アビヤのものがたりをよんでごらんなさい。ソロモンのしんげんをよんでごらんなさい。あのかしこいソロモンおうさまが、どんなにくりかえしくりかえし、子どもたちについてかたっていることでしょう。ふくいんしょをよんでごらんなさい。イエス・キリストが、どんなに小さい子どもたちを目をとめて、そのみうででだきかかえ、しゅくふくなさったことでしょう。しとパウロのしょかん[てがみ]をよんでごらんなさい。どんなふうにパウロが、子どもたちについてかたっていることでしょう。こうしたことは、すべてわたしたちをおしえるために かかれたのです。

 みなさん。こうしたことをぜんぶおぼえておき、わすれないようにしてください。たとえあなたが、どんなにおさなくても、どんなに小さくても、かみさまの目にとめてもらえないようなことは、ぜったいにありません。あなたは、どんなにおさなくても、どんなに小さくても、かみさまのことを、かんがえはじめることができます。あなたは、もういたずらができるくらい大きくなっていますか? それなら、たしかにあなたは、もうよい子でいられるくらい大きくなっているはずです。あなたは、もうおはなしができるくらい大きくなっていますか? それなら、たしかにあなたは、もうおいのりができるくらい大きくなっているはずです。あなたは、もうわるいことばをおぼえられるくらい大きくなっていますか? それなら、たしかにあなたは、もうみことばをあんしょうできるくらい大きくなっているはずです。あなたは、もうおかあさんがどういう人かわかり、あいせるくらい大きくなっていますか? それなら、たしかにあなたは、もうイエスさまかどういうおかたかわかって、あいせるくらい大きくなっているはずです。イエスさまは、あなたのたましいをすくうためにしんでくださったのです。

 みなさん。まず、このたいせつなおしえをおぼえておきましょう。かみさまは、あなたのことを心にかけておられます。あなたも、かみさまのことを心にかけるようにしてください。

 2. このおことばから、もう一つおしえられたいのは、かみさまが、男の子や女の子があそぶのを ゆるしておられる、ということです。かみさまは、けっして、エルサレムのひろばが、なにもせず、だまって、ぶらぶらしている男の子や女の子でいっぱいになる、とは いっておられません。かみさまは、男の子や女の子たちがあそぶようになる、といって、あそびがわるいことではない、とおしえておられます。

 まじめな人たちの中には、子どもたちが ぜったいに あそぶべきではない、とおもっているようにみえる人がいます。その人たちは、どんなゲームも、みなつみぶかいものだ、といい、男の子や女の子が、いつも しかつめらしいかおをして、ぜったいに わらったり、はしゃいだりすべきではない というのです。でも、そんなことをいうのは、大まちがいです。かみさまは、これからやってくるエルサレムのよいじだいには、「ひろばであそぶ男の子や女の子」がたくさんいる、といっておられます。ということは、ほどよくあそぶのは、わるいことではないはずです。

 あそぶのは、男の子や女の子のとしごろに、ふさわしいことです。子どもは、いつもべんきょうばかりしていたり、いつもおてつだいばかりしていることはできません。子どもは、それほどきもちがつよくないので、そのようにすることはできないのです。子どもとおとなはちがいます。子どもには、まいにち、やすんだり、うんどうしたりするじかんがなくてはなりません。

 あそぶのは、子どもたちがけんこうで、つよくなるのにやくだちます。もし子どもが、あさからばんまでなにもせず、つったっているだけだとしたら、子どものからだは、けっして、げんきでいられないでしょう。大きくなったときに、けんこうなおとなになりたければ、小さいうちから、からだぜんたいで うんどうしていることがひつようです。子どもがあそぶのは、しぜんなことです。あそぶのがきらいな男の子や女の子は、たいてい、げんきな子ではありません。

 あそぶのは、子どもたちにがまんや、にんたいをおぼえさせ、がっかりしても、ぐっとこらえることをおしえてくれます。子どもは、いつもゲームにかったり、いつもじぶんのおもいどおりにすることはできません。あそぶことによって、子どもはかっぱつになり、あたまのかいてんがはやくなり、なにがおこってもあわてない子になります。ぼーっとしていたら、てぎわよく たたかわなくてはならないゲームで かつことはできません。あのえらいウェリントンこうしゃくは、よくこういっていました。じぶんがワーテルローのたたかいにかてたのは、イートンこうこうの うんどうじょうで あそんでいたときに、かちかたをおぼえたからだ、と。

 あそぶことによって、男の子や女の子は、あそびのあとで、ずっとよくべんきょうできるようになります。あそびがおわってから、べんきょうにもどってくる子は、一にちじゅうすわっていて、よんだり、かいたりしていた子よりも、あたまがすっきりしていて、きびきびかんがえることができ、おはなしがよくわかるようになります。あたまも、きぶんも、こころも、あそぶことによって、げんきになるのです。

 どんなしゅるいのあそびでも、ぶらぶらしているよりはましです。「サタン[あくま]は、ぶらぶらしている人に、いつもわるさをさせようとする」、といいます。男の子や女の子が、がっこうのあとで、なにもするゲームがないとしたら、してはいけないことをするようになるにちがいありません。

 みなさん。もうわかったとおもいますが、わたしは、みなさんのあそびのみかたです。わたしはそれを、ぜんぜん はずかしいとはおもいません。かみさまが、あそんでもいい、といっておられるのですから。かみさまは、つみでなければ、なにをすることも、ゆるしてくださいます。そして、ほどよくあそぶことは、つみぶかいことではないのです。

 さてここで、おはなしのしめくくりに、小さなちゅういを四つ、男の子や女の子にきいてほしいとおもいます。ぜひ、そのことをよくかんがえて、わすれないようにしてください。

 1. どんなあそびをしているときも、かみさまの目とみみのことをおぼえていなさい。かみさまは、なんでもみておられ、なんでもきいておられます。みなさん。かみさまにきかれたくないようなことは、けっして いわないようにしましょう。かみさまにみられたくないようなことは、けっして しないようにしましょう。

 2. どんなあそびをしているときも、かんしゃくをおこさないようにしなさい。たとえゲームでまけても、ぷりぷりしたり、ふくれっつらをしたり、わがままになったりせず、にこにこしていましょう。みなさん。けっして かっとならないようにしてください。なにをしてあそぶときも、かんしゃくをおさえましょう。

 3. あそびばかりしていて、べんきょうや、おてつだいを、なまけないようにしなさい。どんなあそびも、あなたが、がっこうやおうちの中で、もっとよくべんきょうのできる、もっとよい子になるために、やくだてましょう。「はたらいてばかりで、あそばければ、たいくつな子になる」、というのは、ほんとうにちがいありません。でも、あそんでばかりで、はたらかない子は、おばかさんで、やくにたたないおとなになる、というのも、おなじくらいほんとうのことだ、とわたしはおもいます。

 4. さいごに、どんなにたのしくあそんでいても、ぜったいにわすれないでほしいこと、それは、ほんとうのしあわせは、ぜんぶキリストからやってくる、ということです。もしあなたが、しあわせな子どもになりたければ、キリストをあいして、キリストを一ばんのおともだちにしましょう。キリストは、こころをあかるくし、きもちをやすらかにしてくださいます。このよで一ばんしあわせな子どもは、キリストを一ばんあいしている子どもなのです。

    みやこのそとの とおいみち
    みどりのおかに たてられた
    じゅじかで イェスさま しにました。
    わたしたちをみな すくうため。
    
    イェスさま うけた おくるしみ
    いたみ かなしみ わかりません。
    でもしんじます しゅは じゅじか
    わたしのために かかられた。
    
    イェスさま じゅじかで しんだので
    わたしは ゆるされ かえられた。
    それは てんごくに ゆけるため。
    たっとい しゅの ちに すくわれて。
    
    ほかのだれにも できません
    つみのだいかを はらうのは。
    ただ イェスさまが てんごくの
    とをあけ わたしを はいらせる。
    
    なんと大きな ふかいあい
    わたしも イェスさま あいします。
    そのあがないの ちにすがり
    みわざのてつだい いたします。

あそぶ男の子や女の子[了]


*1 このほんは、19せいきにしゅっぱんされました。[ほんぶんに もどる]



本章の翻訳にあたっては、東京聖書教会の S・N 兄がすでに翻訳しておられた訳文を参考にさせていただきました。S・N 兄に感謝いたします。

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