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第11通

兄弟愛


拝啓、

 使徒は、「兄弟たち。世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません」、と述べた後ですぐ言葉を継いで、「私たちは自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは兄弟を愛しているからです」、と云います。こうした使徒の云い方を見ると、ここに十分示唆されているのは、主が心に植えつけてくださらぬ限り、この愛ほど世に欠けたものはないので、もし私たちにこの愛があるなら、主が私たちにその御霊を賜ったこと、私たちをさばきから救い出してくださったことは確かだということです。しかし、心は欺きやすく、人間が自分について下す判断はおそろしく誤ったものとなりえるので、それでは自分は死からいのちへ移っているのだ、と使徒の云う結論を引き出し、自分に都合のいい証拠とする前に、まず兄弟を愛するということを私たちが正しく理解しているか、しっかり確かめておく必要があります。どうか少しの間、この主題について私とともに注意を払っていただきたいと思います。

 この兄弟への愛には、いくつかまがい物があり、恐ろしいことに、それがしばしば本物と取り違えられて、人を惑わし、実は何者でもないのに自分を何かすぐれた者ででもあるかのように思わせるということがあります。たとえば、

 兄弟に対する生まれつきの愛というものがあります。人は兄弟の中にいる自分の身内や友人や恩人を心から愛するかもしれませんが、それでもなお使徒の云う霊的な愛を全く知らないということもあります。だからオルパはナオミに強い愛情を持っていましたが、それはルツとともに喜んで生まれ故郷と偶像の神を捨ててついて行くほどに強い愛ではなかったのです。生まれつきの愛は、個人的な愛着以上のものではありません。それで、このような愛で兄弟を愛し、それ以上の理由を持たない人はしばしば、真の兄弟愛が互いを愛する主な根拠とするようなものを兄弟の中に見出すとき、胸を悪くさせられるのです。

 同じように、利益のための愛というものもあります。主の民は優しく、平和を好み、情け深く、聞くに早く、語るにおそく、怒るのおそい人々です。彼らは自分の救い主である神の教えをあがめ、自分を喜ばせず他人に善を行なうための人生を送られたお方にならう者であることを示すのに熱心です。こうしたことから、自分のことしか考えず、自分の思い通りにふるまうことを愛する人たちは、主の民とともにいることを好むことがあります。彼らといる方が、自分と同じような人間といるよりも、わがままを通すことができますし、反対されることも少ないからです。しばらくの間ラバンはヤコブを愛しました。ヤコブは勤勉でたよりになり、主が自分を富ましてくださったのはヤコブのおかげだとわかったからです。しかしヤコブが裕福になるのを見、自分を離れてひとりでやっていこうとしていることに気づいたとき、ラバンの愛情はたちまち終わりを告げました。それは単に自分の利益にもとづく愛だったからです。

 党派愛もまたよくあるものです。この愛の対象は、自分と同じ意見を持つ人、自分と同じように礼拝する人、あるいは同じ牧師に愛着を持つ人々です。このように偏狭で、他を容れぬつながりによって結ばれている人々は、暖かい愛を示し合っているかもしれませんが、真にキリスト者の愛の証しを立てているとはいえません。このような愛でよければ、信仰告白をしたキリスト者のみならず、ユダヤ人やイスラム教徒もやはり互いに愛し合っているといえるでしょう。確かに信仰者が部分的にであれ新しい者とされていることは間違いありません。しかし、彼らが兄弟に対して抱く愛は、程度が落ちて利己的な愛を混ぜ合わせていることがあまりにも多いのです。

 真の兄弟愛の原動力は、神への愛です。この愛は従順をもたらします(Iヨハ5:2)。「私たちが神を愛してその命令を守るなら、そのことによって、私たちが神の子どもたちを愛していることがわかります」。人が好き勝手に仲間や友人を作っていくときには、好みが同じだからという理由で交際します。しかし、ここで語られている愛は霊的な愛です。こういうわけで互いに兄弟との交わりの中に立つ神の民は、大して重要でもない点で悲しむべき意見の違いが多くあるものの、天におられる御父と救い主イエス・キリストに対する至上の愛において一致するのです。もちろん罪を憎み、罪を避ける点も同じです。罪は彼らが愛し礼拝する神のみむねと御命令とに逆らうものだからです。こうしたことによって彼らは互いに愛し合い、同じ心でいるのです。また彼らの住むこの世界では、おびただしい数の人々が彼らに立ち向かい、彼らの愛するお方に何の尊敬も払わず、そのお方の恵みが憎むようにと教えてくれた数々の罪深い行ないの中に生きています。したがって神の民が生きている状況もまた、互いの愛を増すものといえます。彼らは同じ血によって洗われ、同じ恵みによって支えられ、同じ敵によって反対を受け、同じ天を仰ぎ見ています。こういうわけで、彼らはきよい心を持って熱く互いに愛し合うのです。

 この愛が、無知や頑迷さによって妨げられずに働くときには、その性質上、天から出てきたものであることがすぐにわかります。この愛は主イエス・キリストを真実に愛する人すべてに対するもので、教派の枠に閉じこめられたり、自分に最も親しい人々だけにとどまることはできません。この愛は優しくて、簡単には腹を立てません。すべてを望み、弱さを赦し、頼み事を喜んで聞き入れます。親切で、あわれみ深く、言葉だけでなく心底から苦しんでいる人に同情し、力に応じて貧しい人を救います。そして主として、愛する者のうちにあるキリストのかたちを敬うので、最も霊的であると判断した人々に対しては、格別に深い愛着を感じるのです。もちろん、そうは云っても、真に福音の恵みのうちにある人であれば、どれほど足りない人であっても軽んじたり、さげすんだりすることはありませんが。

 このように兄弟を愛している人は幸いです。このような人は死からいのちへ移っており、希望の基なる主に向かって誇るようなことはもちろんしませんが、サタンが御約束に対する権利を疑わせようと誘惑するようなときには、この恵みの性質を盾にとって、サタンに立ち向かうことができます。しかし、何と悲しいことでしょう。先にもそれとなく云った通り、この愛が本当に植えつけられているときでさえ、その働きは、信仰者にまとわりついている腐敗の残滓によって、はなはだしく妨げられるのです。兄弟愛のたぐいない働きを弱め、そのことにより私たちが死からいのちへ移っているという証拠をあいまいにするような気質に対しては、あらん限りの努力をして用心しなくてはなりません。私たちの生きているこの時代は、控えめに云っても多くの人(それも最上の人とみなされるような人々)の愛が冷たくなってしまった時代です。考え方が狭く、懐疑的で、批判的な利己心が、福音信仰を告白している人々の間でどのような影響を及ぼしているかは、あまりにも明らかであると云わねばなりません。私たちの間にあふれる、こうした類のつまづきの種について詳しく述べていくなら、きっと私は今まで述べてきたことを引っ込めるか、主を知っていると告白する多くの人々が(大多数の人が、とは云わないまでも)力もなく、敬虔そうな見せかけで自分を欺いているのだと主張するかしなくてはならないでしょう。というのは、そういう人々は知識と賜物に満ちていて、キリスト者の経験という主題について多くのことを云えるかもしれませんが、真のキリスト教の最も偉大で、最もたぐいない、最も不可欠な基準、すなわち兄弟愛に欠けているように見えるからです。これがなくては、他のもっともらしく見える長所や造詣は、みな何の役にも立ちません。一体どうすればこのジレンマから逃れることができるでしょう。

 神の愛に強く感じている方々ならば、私とともに自分の不完全さを嘆かれることと思います。私たちが律法の下ではなく、恵みの下にあるのはありがたいことです。なせなら、自分を聖所の基準で検査してみるとき、私たちはいかなる点においても、「おゝ主よ、あなたのしもべをさばきにかけないでください」、と云わざるをえないからです。私たちが神の真理の美しさとたぐいなさに大して抱く確信と、そうした真理が私たちの心を支配している力との間には、まことに驚くべき、身をへりくだらされるような隔たりがあります。私たちは、主への愛によって燃え立たされる最も幸いなときには、主の民に対する熱烈な愛を感じます。私たちは、いつもそうありたいと望むのですが、いかんせん貧しく矛盾した生き物であるため、主の恵みによって力を与えられなければ、なすべきことを何もできないことに気づくのです。しかし私たちは間違った行ないを続けたいとは思いません。そして確かに、無知と偏見とから誤った方向へ行くこともありますが、心の中では兄弟を愛していて、彼らを地上で最もすぐれた人々とみなし、現在も永遠においても、彼らと同じ取り分、同じ相続分にあずかりたいと願っています。私たちは、彼らに対して抱く愛が主のためのものであると知っています。そして、主がいかに彼らを気遣っておられるかを考え、自分がいかに主に対して負い目のある者か考えるとき、私たちは彼らをこの程度しか愛していないことに恥じ入り、悲しまされるのです。

 もしも、このようなことさえ心の底から云えないようなら、自分が本当に安心できる立場にいるのか疑ってみた方がいいでしょう。聖書は偽ることがなく、神の恵みがしかるべき実を全く結ばないということはないからです。やがて私たちは御前に立つことになりますが、私たちのさばきをなさる私たちの救い主は、愛こそご自分の弟子たちの特徴であると云われました。もし、これが私たちの心の支配的な性質であるという証拠が全くないのなら、主を神と呼ぶことは何の慰めにもならないでしょう。もっとも、私たちが神に受け入れられるのが私たちの内側にある何かで左右されるかのように、これを律法的な義務とはみなさないでください。いま問題としているのは、神に受け入れられる方法ではなく、神に受け入れられたしるし、というか、その結果として生ずる実のことなのです。そうした実の中でも最も如実なものが、私たちの主の明確なことばによれば、兄弟愛なのです。「もしあなたがたの互いの間に愛がなるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです」。これ以上に明白なことばはないでしょう。そして、いかに信仰者にとって厳しいものであろうと、その結果の方も同じように明らかです。それは、たとえ御使いの異言を語る力を持ち、あらゆる奥義に通じていて、奇蹟を行なう力があろうと、また、真理を守るためには、からだを焼かれるために渡すほどの情熱を持っていようと、兄弟を愛していなければ、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じだということです。それは教会の中で、またこの世の中で、大きな音で鳴り響くかもしれません。今はやりの言葉でいえば、博識で有能な人材かもしれません。流れるようによどみなく祈り、また説教するかもしれません。しかし神の目から見れば、そうした人の信仰は死んだものであり、そうした人の宗教はむなしいのです。

敬具

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