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第10通

キリスト者の性格を傷つけるいくつかの欠点

「すべての真実なこと、すべての誉れあること……に心を留めなさい」 ピリピ4:8


拝啓、

 私のモットーであるこの戒めは、講壇では仲々とりあげられない多くの事に適用できます。世には、キリスト者にふさわしくない行ないがあります。普通は厳しく糾弾されるほどの欠点でないとされていますが、罪であることにかわりはありません。そうした欠点は、聖書のあからさまな命令には背いていないように見えても、私たちの信仰告白にふさわしい配慮と細心さとは正反対だからです。キリスト者たるもの、その高貴な召しの本筋を考えれば、大体の行動が正しいというだけでなく、人に愛され、人をひきつけ、できる限りあらゆる点で言行の不一致・欠点のない者であるべきです。用いられる人々の中には、性格的にやや難のある人がいます。もっと影響力をもてるはずなのに、比較的小さな欠点が妨げとなるのです。しかし欠点は欠点です。もし彼らが、その欠点を示され、その悪影響を知って用心深くなり、熱心に戦い、祈るようになればよいと思います。それを説明する最上の方法は、いくつかの人物描写を大まかにまとめてみることでしょう。生き写しの人が現実にいるのではないかと思います。私は読者に「これは近所の誰々に違いない」などと詮索してほしくありません。むしろ注意深く吟味し、自分にもこんな部分がないかどうか探ってほしいと思います。また私は男性についてのみ語りますが、こうした人物の女性版がそこここに存在していることは間違いありません。堕落した本性の欠陥と害悪は、男女を問わず、人間に同じように伴っているからです。

 厳島 巌(いつくしま いわお)氏は堅実で模範的なキリスト者です。氏には豊かな経験による、深く広い信仰の知識があります。信念を決して曲げず、妥協せず、ただひとり決然と時流に抗して立ち、脅そうがすかそうが決して義務を捨てません。氏は無限の価値を秘めたダイヤの原石に似て、磨けばきらめく輝きを放つはずの人です。しかし日々みことばを学び、約束のみならず命令をも幾千の金銀にもまさって尊ぶ氏であるのに、1つの命令だけは見過ごしているようです。すなわち使徒の「謙遜でありなさい」との戒めです。厳島氏は、あの柔和で心へりくだったイエスの弟子と公言する者に当然期待される優しさや謙遜さより、厳格な態度をとることが多く、尊敬されはしても愛されることはまれです。氏を本当に愛する人さえ、氏のそばでは楽しさより気づまりを感じます。氏と最も親しい友達は、氏が決して真のへりくだりと無縁な人でないと知っていますが、そうした人はわずかです。他の人は氏を高慢で独善で尊大だと思っています。この偏見を取り除くには、氏が不幸にも身につけてしまった斜に構えた態度を捨てるしかありません。

 大空純生(おおぞら すみお)氏は寛容で情深い人です。すぐ感情をおもてに表わし、気持ちを隠すことができません。氏ほど、けちくささや利己主義から離れた人もいません。氏はイエスへの愛に燃えており、自分の救い主を愛する人なら誰でも両手を広げて受け入れます。しかし、その正直さと愛想よさから誰からも好かれ、誰からも良い人と呼ばれる氏ですが、友人としては少し困る点を持っています。たとえば、さほど悪質な部類ではないにせよ、氏はある面で自分の舌を制することができません。氏には、何の証人も証文もなく巨額な黄金を託したとしても安心していられます。しかし1つでも秘密をもらせば、それは公然の事実となったのと同じです。氏がわざと裏切るというのではなく、それが氏の弱点なのです。秘密を守るすべを知らないのです。自分でも知らないうちに、秘密をもらしてしまいます。事実関係についても同じです。ごく重要で、氏も事情に通じていることなら氏ほど正確な人はいません。しかし日常の細々としたことについては、軽信からか、弁解の余地ないずぼらさからか、しばしば事実に反することを云うのです。こうして氏が心を打ち明ける人々は、同じような信頼を氏に報いることができません。時と次第では氏の一言に生命もかけるだろう人が、氏の話をうのみにできないと思うのです。これほどの人に、このような欠点があるとは何と嘆かわしいことでしょう!

 金田賢治(かねだ けんじ)氏は、生来気前がいい方ではありませんが、神の恵みにより広い心と、愛と善行にはげむ思いが与えられています。氏は人に見せる慈善は行ないません。しかし氏の善行と経済状態を最もよく知る人々なら、氏への非難が大方根も葉もないものであることがわかるでしょう。というのも金田氏は非常な締まり屋だからです。金田氏は好んで人に損害を与えたりしませんが、正直なやり方でなら、びた一文でも無駄にすまい、一銭でも多く儲けてやろうという執念にとりつかれています。このけちくささが氏の信仰告白を大きく傷つけます。氏は契約はきちんと果たしますが、人と取引する段になると、非常に厳格で、疑り深くなります。また衣服やさまざまな物入りについても、神の摂理が与えた身分をはるかに下回るもので満足しています。氏が、ひそかにどれほど貧しい人々に施しているか知らない人々が見ると、まるで氏は汚らわしい金の亡者そっくりです。さながらあの、あらゆる悪の根であり、神への愛・聖徒への愛と両立しえないと聖書が宣言する金銭愛のとりこのように見えるのです。

 村木由礼雄(むらき ゆれお)氏は、自分で本当に重要だと思うときには、きちんと約束を守ります。まかせてくれと自分から云うようなときには、人の期待を裏切りません。おそらく氏は、他の約束をするときも、同じくらい真面目に守るつもりで約束するのでしょう。しかし仕事の管理がずさんなために、氏は常にあわてており、常に期限を守らず、常にできもしない約束をいくつもかかえています。にもかかわらず氏は、そうした仕方をいつまでも続け、自分をも他人をも絶えず失望させているのです。氏は、同時にできるはずのない頼み事を考えもせずに引き受け、ことによると、とうてい同じ時間にいられるはずもないような遠く離れた場所にいることを約束してしまいます。長年このようにしてきたため、もはや氏が約束の時間を守るだろうと信ずる人は誰もいません。その他の点では、氏は善良な性格の人です。しかし、時間と約束に対するこの徹底したルーズさが、公私を問わず、氏のかかわることすべてをめちゃくちゃにしてしまいます。村木氏は、何とか弁解しようとします。往々の場合、自分はたいして重要な約束を破ったわけじゃないさ、と云い立てようとします。けれども約束は神聖なものであり、避けがたい不測の事態でもない限り、どれほど小さな事であっても守らなくてはならないのだということを肝に銘じておくべきでしょう。このように不誠実な性格をもつ人は、全くの未信者であっても軽く見られるようになるでしょう。それがキリスト者であれば、なおさら大きな欠陥というべきです。

 田井満太郎(たい まんたろう)氏には、世の気遣いや俗事にかまけて、どうしても必要なことをないがしろにしているという非難は当たりませんが、氏は社会人としての義務に殆ど気をつかいません。もし人生が聖書を読み、祈り、説教を聞き、信仰的な会話をすることだけだったら、氏は傑出したキリスト者で通ったかもしれません。氏がこうした勤めに一心に励むのも、真理を心から熱愛しているためと信じたいものです。しかし実行動を見ると、氏が、キリスト者の召しについてきわめて不十分で、狭く、 偏った考えしか持っていないことは明らかです。私たちが個人的に、また公に神に仕えるのは、市民としての義務を免除されるためではなく、その義務を果たすにふさわしく教えられ、強められるためなのです。氏にはこの点が抜けています。この怠慢さのため氏の仕事は混乱し、家族も関係者も大変な迷惑をこうむります。氏は自分が世俗的でないと神に感謝します。しかし社会人としては怠惰・不誠実で、真理の道に泥を塗っているのです。こうした人について使徒ははっきりと、「働きたくない者は食べるな」と命じています。

 根掘羽織(ねほり はおり)氏は、概して正直で立派な身持ちの人です。キリスト者体験も豊かで、人の徳を建てる良い証しができます。ただ玉に疵なのは、どんな人の内情も知りたがるという不作法な癖です。小耳にはさんだことさえ一から十まで知りたがるのです。このため氏は、始終どうでもいい不躾けな質問を発して、人の気をとがらせています。それで心を開く友もできません。氏は、赤の他人にさえあれこれ質問し、その家族構成・職業・生きがい等をことごとく知るまで離しません。この無益な好奇心のため氏は、余計なお節介者とレッテルを貼られ煙たがられます。氏を高く買う人も、なぜ他にすべきこともあるのに全然関係ないことに首を突っ込みたがるのか理解に苦しみます。礼儀作法が妨げなければ、氏のような人はどこでも厳しくやりこめられている筈です。氏も、相手の曖昧で素気ない答え(あるいは、せめて相手の表情)に気づきさえすればわかるはずです。悪気はなくとも自分は憎まれ者となっており、自分の質問が人迷惑であることを。

 ……キリストに仕えたいと願う人々の影響力をそぎ、信仰告白を傷つける悪い行ないとしては他にも例をあげることはできますが、今はこれで十分でしょう。

敬具

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