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第6通

律法を正しく用いる

拝啓

 「律法は……正しく用いるならば、良いものです」(Iテモ1:8)という言葉の意味について知りたいとの由、喜んでお答えします。むろんこの聖句から説教をするつもりはありません。しかしこの問題については、たとえ友人相手の手紙であっても、少しは筋道を立てて述べた方がよいでしょう。大部分の場合、誤った信仰の根底には、律法の性質と目的に対する無知があります。律法についての無知から、自己義認や福音への軽視が生じ、多くの人があいまいで、筋の通らない生き方をしているのです。そうした人は、教師であると云いながら自分の云っていることも、強く主張していることも理解していません。そこでまず、ここの律法とは何のことか、またどうすれば律法が良いものとわかるのかを明らかにしたいと思います。その後なら、何が律法を正しく用いることになるのか容易にわかることでしょう。

 律法は、旧約聖書の多くの箇所では 詩1:2や19:7のように、啓示された神のみこころ全体を指しています。しかし厳密な意味では、福音と対比して区別されるもののことを云います。ロマ書やガラテヤ書で使徒が詳しく考察しているのは、その意味の律法です。お尋ねの箇所で使徒は、明らかにモーセの律法について語っていると思われます。しかし問題をより明確に理解するため、それ以前の時代も振り返った方がよいでしょう。

 神の律法、あるいは神のおきてとは、最も広い意味では、神がご自分の被造物の様々な性質や力に応じて、造られた目的にかなうよう定めた法則、または規定の道筋のことです。ですから無生物もこのおきての対象となります。風や嵐も神のことば、すなわち神のおきてに従います。神は季節のために月を造られました。太陽はその沈む所、昇る所を知っており、造り主の意志のままに天を巡ります。もし太陽に知性があったとして、光を放つことを拒否したり、神が定めた位置からさまよい出したりするなら、それは神のおきてに背くことになるでしょう。しかし自然界ではそうした不法行為は起こりません。この意味で神の律法(多くの人は自然法則と呼びます)は、万物を存在し続けさせ、初めからみこころのままに動かしている神の力の刻印にほかなりません。なぜなら、「まことに、主が仰せられると、そのようになり、主が命じられると、それは堅く立つ」からです。

 理性を持たぬ動物も、神のおきての下にあります。神は、おのおのの種族ごとに本能を与え、種の保存のため、動物が常にその本能に従うようにされました。人のどんな小細工もはるかに超えた知恵が野生の生活を律していることは、鳥の巣のつくりや、蜜蜂の巣の精密さを見ればわかります。しかしこの知恵の範囲は狭く限定されています。動物は何も見境もなく行動し、道徳的な意味での善や悪を行なうことができないのです。

 人間を造られたとき神は、野の獣、空の鳥より、はるかに多くのことを人間に教えられました。神は人をご自分のために形造り、不滅の霊を吹き込み、単なる被造物では決して満足できない性質を与え、理性と意志と感情を賦与して、彼が造物主の知識と奉仕と交わりの生活を送るにふさわしい者とされたのです。ですから人間に関する神のおきてとは、そのように形造られた被造物が自らを律していくべき、心と行ないの規範のことです。その規範に従うことによって、人は自分の造られた目的を果たし、神の知恵を自らのうちに、自らを通して現わすことができるのです。しかし人間がこの正常で幸福な状態にとどまり続ける必然性はありませんでした。理性の機能を何も持たない被造物なら、当然何の選択の余地もなく、神の力の直接的な働きの下に行動するしかありません。けれども人は自分が造られたままの状態にとどまることも、その状態を捨てることも自由にできたのです。そして人はそれを捨てることを選び、禁断の木の実を食べて罪を犯しました。私たちは、この禁止命令がアダムに与えられた唯一のおきてであったとか、善悪を知る実を食べさえしなければ、彼は他の点では(いわば)好き放題にしてよかったとか考える必要はありません。この禁令は彼の従順をためす試験だったのです。この命令を尊重している限り、彼の性質は聖であって、聖以外のものを欲することはありえませんでした。しかし、その命令を破ったとき、彼はすべてのおきてを破り、偶像礼拝、冒涜、反逆、人殺しの罪を負って立つことになりました。魂のうちにあった神の光はかき消され、内側の神のかたちは醜く歪み、彼は自分の従ったサタンに似た者となり、幸福と結びついていたあのおきてを守ることが不可能となってしまったのです。それでもなお、神のおきては有効であり続けました。神には常に、ご自分の知的被造物からの尊崇と愛と服従が当然ささげられるべきであり、ほむべき神がそれらを受ける権利を失うことなどありえませんでした。しかしこうしてアダムは違反者となり、その罰を受けました。死です。しかし、あわれみに富む神は、その永遠のご計画に従い、女の裔の約束を啓示されました[創3:15]。そして、いけにえの制度を定め、罪の贖いの型としました。それは、時満ちるにおよんで、神が自らをいけにえとして成し遂げるはずの贖いを指し示すものでした。

 堕落した後のアダムは、もはや公的な人物ではなく、恵みにより信仰を通して救われました。しかし彼が人間性にもたらした腐敗はなくなりませんでした。彼の子ら、また彼の全子孫は、彼と同じ罪深いかたちに生まれ、律法を守る力も気持ちもなく、たちまち地は暴虐で満ちました。しかし引き続く時代の間、僅かな人々が恵みによって保たれ、神の約束への信仰を保ちました。アブラハムは恵みの契約についてより詳しく明確な啓示を授かり、キリストの日を見て喜びました。モーセの時代、神はご自分のため特別な民を取り分けることをよしとされました。そしてシナイ山上で、非常な厳粛さをもってその民にご自分の律法を発布されました。この律法は2つの部分から成っており、同じ権威によって命じられながら、双方のめざす目的は非常に異なっていました。

 まず神ご自身の声により発せられた十戒は、もともと人間が創造されたとき置かれていた、あの原初のおきての要約でした。しかし、イスラエル人も他の人類と同じく罪によって堕落しており、ありとあらゆる悪を犯す強い傾向があったため、禁止の形で発布されました。この律法は、人間が義とされるために服従すべき契約であったはずがありません。律法発布のはるか以前に、アブラハムに対して福音が告げられていたからです(ガラ3:8)。むしろ律法がはいって来たのは、罪が増し加わるためでした[ロマ5:20]。罪の広がり、罪の邪悪さ、そして罪に対する報いを知らせるためでした。なぜなら律法は、心の最も隠れた思いにも達して、絶対的で不断の服従を要求し、律法にとどまらない者すべてに呪いを宣告しているからです。

 これに加えて儀式律法、すなわちレビ記律法が、さまざまな制度や浄め、犠牲について規定していました。旧約時代、こうした規定に従うことは神を礼拝するため絶対に必要でした。その服従によってイスラエルの民は、彼らに約束された数々の祝福を受ける法的権利を保ったのです。それは国民としてのイスラエルに与えられた祝福であり、霊的な礼拝者だけに限られたものではありませんでした。ところが、それと同時にこれらの規定は、真に神を畏れ、自分の罪に悩む人々を、信仰によって、真の偉大ないけにえ、神の子羊を待望させるよう導くための定めであり、助けでした。その子羊こそ、時満ちるに及んで、自分自身をいけにえとすることにより罪を取り除くことになるお方でした。キリストの死は、この双方の点において、儀式律法を廃棄しました。ユダヤ人は神の特別な民ではなくなりました。またイエスが罪の贖いをなしとげ、死に至るまで忠実であられたその永遠の義をもたらされたので、他のいけにえはみな不必要で無駄なものとなりました。福音が儀式律法にとってかわったのです。それも、のぼる太陽の輝きが星々のまたたきや月光の仄明かりを押し隠し、とってかわるようにです。古の信者は、キリストを指し示すもろもろのいけにえによって、道徳律法の峻厳さから救われました。福音の下にある信者は、契約の血潮に直接よりたのむことによって救われます。両者とも決して、義と認められるため道徳律法によりたのもうとはしません。道徳律法については、仲保者の御手のうちで生きるべき規範として受け入れます。そしてその規範に誠実に----完全ではなくとも----従えるようにされるのです。

 もしあるイスラエル人が、自分は十分道徳律法に服従していると云って、儀式律法の定めを捨てるようなことをしたら、民から断ち切られたに違いありません。同じように、キリスト者として召された者が、自分の道徳的義務に満足するあまり、キリストだけを自分の希望とすることをやめたりしたら、いのちを得ようと頼みにした律法そのものが死の手段となることでしょう。キリストが、キリストだけが、その御名への信仰によって、律法の呪いから私たちを解放してくださるのです。キリストご自身が私たちのため呪いとなられたからです。

 第二の問いは、私たちにどうして律法が良いものであるとわかったかということです。なぜなら生来人は律法が良いものだとは思わないし、思えないからです。神の敵である者が、神の律法を好ましく思うなどということはありえません。むしろ人は律法のせいで神を嫌うのです。自分を審く律法の命令は厳しすぎ、刑罰は苛酷すぎると感じるからです。それで人はできる限りこの律法をねじまげようとします。律法はわれわれにできる範囲のことだけ要求すればよいのだ、もっと自由でよいのだ、特に違反者を永遠の滅びなどという刑罰で脅さない方が絶対によいというのです。これを如実に示すのが、光を受けていない罪人が決まって口にする弁解です。ある人は、「自分より悪い奴はいくらだっているじゃないか」、と云います。つまり、神はそれなりに考慮するはずだ、自分にもまともなところはある、それを認めてくださるはずだ、というのです。別の人は、「もしこの私があわれみを受けられないとしたら、世の中の大多数の連中はどうなるんだ」、と云います。はっきり云えば、そんなに大勢の人々を罰する神は無慈悲だ、不公平だ、というのです。また自分の罪に理由をつけて何とか罰を免れようとする人もいます。昔ヨナタンが、「少しばかりの蜜を味見しただけで死ななければならないのか」、と云ったように、「私には生まれつきこういう欲望があるのだ。それに従ったからといって死ななくてはならないのか」、と云うのです。つまり律法の霊的で厳格な性格、罰の厳しさ、そして、うわべの違いをみな同じ水準に引き下げ、あらゆる口を区別なくふさぐ「平等」性こそ、生まれながらの人がどうしても良いとは認めがたい三大特質なのです。

 こうした律法に対する偏見は、聖霊の力によらなければ取り除くことができません。良心を照らし、罪を確信させるのは聖霊の働きです。私たちの直面すべき神の尊厳、聖、義、権威を示し、そのことにより罪の邪悪さと報いを悟らせるのは聖霊です。そのとき罪人は、自分の空虚なうぬぼれを全く剥ぎとられ、私は罪人だ、たとえ罰を下すとしても私を審く方は正しい、と認めざるをえなくなるのです。また救い主の恵みと栄光を明示するのも聖霊です。聖霊は、この救い主がすでに私たちのために律法を成就してくださったこと、そしてご自分を信ずる者も律法に従えるようにすると約束しておられることを示します。そのとき判断の逆転が起こり、罪人にも律法が聖く、正当で、良いものであると納得できます。そのとき律法は聖いものだと認められます。律法は神の聖を示します。律法に従うことでこそ人間性は完成されます。神の律法に感化されていなければ、人間には何の美点もなく、むしろ生来の才能が大きければ大きいほど、忌まわしい有害な者となるのです。また律法は正当であることがわかります。神がご自分の被造物に対して疑う余地ない権利と権威を持つこと、被造物が常に神に依存していること、またもともと神が人間に与えられた能力のことを考えると、それは全く当然です。人間の能力は罪によって失われたとしても、神の権利は決して失われていません。ですから神が違反者を罰すのは正当なのです。また律法は神にとって正当であると同じく、人にとって良いものです。律法に従い、そこにある神のいつくしみを楽しむことこそ人間の本当の幸福です。他のものでは決して幸せになれません。ただ先に述べたように、罪人には、これらのことは福音によってのみあてはまります。罪人が主イエス・キリストを信じて新しい関係に入っている場合にだけあてはまります。主イエスは彼らのかわりに律法に服従し、罪の贖いをなしとげました。それで彼らは、主を通して罪の罰から逃れ、主の服従によるすべての恩恵を受け取ることができるのです。同様に、彼らにとって主の律法は、主ご自身の模範と、言葉に尽くせぬ贖いの愛への恩義で強められたおきてとなります。ですから服従は喜ばしく、主から引き出す力によって容易にされるのです。

 そこで最後に、律法を正しく用いるとはどういうことか問いたいと思います。ということは、律法を間違って用いることもありうるということです。実際、律法を間違って用いる人があまりにもたくさんいるのです。律法の間違った用い方の1つは、律法に服従することで義とされよう、神に受け入れられようとすることです。なぜならそれは律法が定められた目的にも、私たちの現状にもそぐわないからです。その試み自体が、不遜にも神の知恵と善を非難することにほかなりません。もし義が律法によって得られるなら、キリストの死は無意味だからです(ガラ2:21; 3:21)。ですからそうした期待は事実無根であるばかりか罪です。福音の光を受けてもなお頑固にそう主張し続けるのは、神の恵みを故意に拒否することにほかなりません。また律法を間違って用いるもう1つの方法は、律法を----律法と福音を----乱用して、「キリストが律法を成就した以上、律法というおきてに従う義務はない」、などと云うことです。このような主張は邪悪であるばかりか、馬鹿げた、到底ありえないことです。律法は、造物主と被造物の関係に基づいています。その関係が存続する限り、何が起ころうと決して無効になるはずありません。神が神であり、私たちが被造物である限り、何があろうと、いかに状況が変わろうと、神には私たちの尊崇と愛と信頼と奉仕と服従をお受けになる絶対的な権利があります。真の信者なら誰一人、故意に、神への服従の義務から解放されることを思ったり、望んだりしないはずです。むしろ、そんな考えにぞっとして跳びすさることでしょう。しかしサタンは、不安定な魂を1つの極端から別の極端に走らせようと画策し、あまりにしばしば、それが功を奏します。救いをつかみとるため律法を守ろう守ろうとする人々がいます。そして、その空しい努力に疲れ果てると、やがて福音など無力だという考えにとらわれ、しまいにはキリスト者の誉れとも、本質的性質ともいうべき律法への服従を軽蔑し、神の恵みを放縦に変えてしまうのです。しかし私たちは、キリストのことを、このようには学びませんでした。

 それでは肯定的に語ることとして、律法を正しく用いるとは、まずそれを罪の確信の手段として用いることです。そのためにこそ律法はシナイで宣布されたのです。律法がはいって来たのは、罪が増し加わるためです。人をより邪悪にするためではなく(もっとも中には律法を乱用してますます邪悪になる者もいますが)、人に自分がどれほど邪悪な者か悟らせるためです。神の律法を手にした以上、もはや私たちは、善を悪と呼び悪を善と呼ぶような、この世の処世訓や慣例で物事を判断することはできません。どんな原則も、どんな心の動きも、どんな習慣も、みなこの基準に照らして見るべきです。人々もそうすることを承知しさえすれば、すぐ福音に熱心に耳を傾けるでしょうに。実際、神の御霊は、ある人々に対してそのような働きかけをなさいます。そしてそのとき彼らは、あの看守の問いを真剣に発するのです。「救われるためには、何をしなければなりませんか?」、と。ここに恵みのわざが始まります。そして罪人は、自分自身の良心によって断罪され、いのちを求めてイエスへ引き寄せられるのです。

 また律法は、神の栄光を眺める鏡として用いるとき、正しく用いられているといえます。神の栄光は、何よりもキリストのうちに現わされています。しかしその栄光の大部分は律法との関係において現わされ、律法なしには見分けられないものです。主の生涯には律法の気高さ美しさが完璧に映し出されています。神は、主が人として捧げた服従によって栄光を受けられました。何という完全な性格を主は示されたことでしょう! ですが、それは律法の引き写しにすぎないのです。もし律法が支障なく守られていたなら、アダムとその子孫はみなこのような性格だったことでしょう。ですから律法は、人が生きるべきであった、またそのようにして自分の造られた目的を果たすべきであった行ないの完成した姿を余すところなく示す、賢く聖い定めだとわかります。また私たちは、律法の侵しがたい厳格さを主の死のうちに見ます。ここで神の栄光は、律法によって比類なく明らかにされました。たとえ愛する御子であっても、たとえ個人的に完璧な従順を捧げておられても、主が罪の贖いのため私たちの立場をとられたとき、神は容赦されなかったのです。ゲッセマネと十字架上で主が受けられた苦しみを思うとき私たちは、この恐ろしい一節の意味を学ぶのです。「罪を犯す者は死ななければならない」。

 律法のもう1つの正しい用い方は、私たちの心と生活を整えるための規準、規範として、常に参照することです。私たちは、信仰によって神の恵みを受け入れるとき、原則的には喜んで神に服従しようとする者にされますが、いまだ残る無知と盲目さのため、大部分の細かい点についてはどうしてよいかわかりません。ですから私たちは律法に向かわされ、私たちを御自分の王国と栄光へと招いてくださった神にふさわしく歩む道を学ばされるのです。どの戒めにも、それぞれ適切な意味と役割があります。

 最後に律法は、恵みの働きをはかるために用いるとき、正しく用いられているといえます。信者は、もとの自分や他の大多数の人とは著しく異なっています。そのため、律法を正しく用いることをしないと、今の自分と以前の自分、または他の人々をくらべて、この自分の進歩はどうだと、度を越してうぬぼれがちになります。しかしこの基準に立ち返るとき私たちは、たちまち塵の中に打ち伏し、ヨブと同じ言葉を発するのです。「ああ、私はつまらない者です。あなたには、何一つ口答えできません」。

 ここから、どのようにして律法が、それを正しく用いる者にとって良いものとなるか、手短にまとめてみましょう。律法を正しく用いるとき私たちは、神のみこころ全体を正確にとらえることができます。また自分のなすべき義務を正しく知ることができます。律法を学ぶ人には、事の善悪を常にみきわめることのできる霊的感覚が身につきます。訓練をつんだ信者は、熟練した職人と同じく、自分の手に物差しを持っており、あらゆるものを正確に測定することができるのです。しかし他の人々は、何事もいわば目測ではかるようなもので、あてずっぽうの見当をつけることしかできません。そして、たいてい間違った判断をくだすのです。また同じように律法は、信者に自分の欠陥と短所を思い出させ、そのことによってへりくだらさせ、常に謙遜な心を持つ者とします。律法は、そのための、きよめられた手段なのです。さらにまた律法は私たちに、律法を成就された方、イエスを心から慕わしく思わせます。自分はこの方に対して恩義があり、一瞬たりともこの方に全くよりたのまずに生きることはできない、と常に思い起こさせてくれるのです。

 もしここに述べたようなことで、あなたの疑問にお答えできたのなら、嬉しく存じます。また私がこの手紙を公開の手紙という形にしたのは、これで他の人々も主から祝福を受けられるようにと願ってのことです。律法の問題は非常に重要です。これを正しく理解するなら、近ごろ問題になっているいくつかの激しい論争に決着をつけることができるかもしれません。律法と福音の区別、関係、調和を明確に理解すること、またこの2つが互いに互いを例証し、互いに互いを確立させるのに役立っていることを明確に理解すること、これは私たちの無類の特権であり、私たちの魂を、右の過ちにも左の誤りにも陥らせないための幸いな手段なのです。

敬具

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