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第5通

霊的盲目

拝啓

 最近まで私は、あなたのご質問について、ずっと考えておりました。すなわち、恵みによって魂が変えられていくときに起こる、最もいちじるしい、最も際立った特徴は何か、ということです。この点について、ご満足のいただけるような説明ができれば、幸いこれにまさるものはありません。

 生まれながらの人間が、霊的な真理を全然さとりえないのは、霊的真理を認識する機能が、すっぽり欠け落ちているためです。これを良く示しているのが、主から新生について聞かされたニコデモが見せた、とんちんかんな反応でしょう。この霊的機能が、聖霊の働きによって超自然的に伝達されることこそ、私たちが今さぐり求めようとしているものの独特、かつ変わらぬしるしであろうと思われます。聖書には、福音の真理を光にたとえている箇所がありますが、それが私の云わんとするところをわかりやすく示してくれるでしょう。人間は、この霊的な光に対しては生れつき盲目なのであって、恵みによって悟りの目が開かれるのです。盲人の中にも、他の者より手先が器用で、頭のよい人がいるでしょう。視力を必要としないような学問や職業では、大方の目明きの人より、ずっとすぐれた技能を身につけるかもしれません。しかし光や色の性質については、みな同じです。盲人でも、頭がよく探求心が強ければ、光や太陽や虹について、見える人の口ぶりを真似して話せるようになるでしょう。しかし、それらの本当の姿を思い描くことは、(少なくとも生れつきの盲人には)不可能です。伝え聞きでどんな知識を得ようと、少しでも長く話させてみれば、こうしたものについて全く無知であることを暴露するはずです。よく引用される話ですが、ロック氏の述べたある盲人は、多くの研究と熟考の結果、ついに緋色がどんなものか突きとめたと信じたそうです。ではどういうものか、と聞かれて彼は、「思うに緋色とは、トランペットの響きに似たものに違いありません」。 ニコデモが霊的な光について知っていたことは、この盲人が自然の光について知っていたことと大同小異でしょう。この世の知識・学問がどれほどあっても、心の目が開いていなければ、決して神の真理を正しくとらえることはできないのです。しかしいったん心の目が開けば、たちまちそれを認識できます。

 実際この[盲人と光という]たとえは、天性と恵みがいかにかけ離れたものであるかを実によく示しています。それだけでなくこれは、神の御霊によって光を受けたと云う人々が、なぜ目の見えない罪人たちからあれほど憎まれ、さげすまれるのかを説明しています。盲人が、目の見えない者だと云われても気分を害さないのは、周囲の人が一人のこらず同じ証言をしているためでしょう。自分以外のだれもが見えると云い、また見えると云う人々が、自分にできないことをたくさんできると、経験から知っているためでしょう。福音が宣べ伝えられ、人々を救いに至らせる神の力とされているときには、これと同じような確信を多くの人が抱きます。神の民の態度やふるまいを見るとき、何がどうとは云えなくとも、これには何かあると確信せざるをえなくなるのです。しかし、もしもです。ここに国民全員が盲人の国があったとして、その中のひとりかふたりが、いきなり自分は目が見えると云い出したらどうなるでしょう。そして、見えると云うくせに、視力というものについて、みなが納得できるような説明をするどころか、その主張を裏づける証拠すら挙げられなかったら、どうなるでしょう。まず間違いなく彼らは、いまイエスを信ずる者が盲目の大衆からしばしば受けるのと同じような仕打ちを味わうはずです。盲目の人々は、この生意気な嘘つきめ、われわれにないものをお前らが持っているとでもいうのか、といって憎み、さげすむにちがいありません。人々は彼らを気違い扱いし、光だの視力だのはないと証明するために議論を山ほど持ち出すでしょう。今日の多くの人々と同じく、「もしそれが本当なら、一体なぜわれわれには全然わからないのか」と云うでしょう。そうです。たぶん人々は彼らに逆らって立ち、ペテン師め、狂信者め、社会の平安を乱す者めとののしり、「こんな奴らは、地上から除いてしまえ。生かしておくべきではない」と云うでしょう。しかし、さらに想像を進めて、もしそうした大論争の真っ最中に、その盲人たちのある者らが、突然目をひらかれたらどうなるでしょうか。彼らに関する限り、その論争はけりがつくでしょう。彼らは、自分はまちがっていた、石頭だった、以前馬鹿にしていたあの人々は正しかった、と告白するでしょう。そしてもちろん、盲目の兄弟たちから同じような仕打ちを受けるのです。いえ、世間の和を乱す裏切り者として、ずっとひどい目に合わされるでしょう。

 もしこのたとえが、いま考えている問題にあてはまるとしたら、ここからいくつかのことを推論として云えると思います。それは、神のことばでもはっきり教えられていることを確認する助けになるでしょう。

 まず第一にわかるのは、新生、すなわち、これなしに神の国を見ることはできないというあの劇的な変化をひきおこすのは、まさに全能の神の御力にほかならないということです。教育も、努力も、議論も、決して盲人の目をひらくことはできません。神だけです。世の初めに光を「やみの中から輝き出」させた神だけが、私たちの心を照らし、「キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせ」ることができるのです。人は本を読んだり説教を聴いたりすることによって、霊的な真理について何らかの人間的な考えに達するかもしれません。そして自分ではわかったつもりになるかもしれません。経験をつんだキリスト者のような口をきくようになるかもしれません。しかし、そういう人は自分が何を云っており、何を主張しているのか全くわかっていないのです。盲人が「赤」や「青」ということばは口にできても、目で色を区別できる人にとってそれらの言葉がどんなイメージを喚起するか想像もつかないのと同じように、彼らはそうした言葉の本当の意味を全くつかめないのです。そしてここから私たちは、恵みの効力ということばかりでなく、主権性ということも推論することができます。なぜなら、客観的な光、すなわち神のみことばがすべての人にひとしく差し出されているわけでないのは明らかであり、そればかりか同じその外的な手段を受けている者が、必ずしも同じ受け取り方をするわけでないのもまた明らかだからです。世の中に昼日中つまづくような者が大勢いるのは、光がないためではなく、目が見えないためなのです。そしていま見える者らも、かつては他と同じく盲人だったのであり、自分の目をひらく力も意志も持っていなかったのです。しかし、人が自分の盲目さを感じとることはできるということ、そして主の定めたもうた手段を通して御力の現われを待ちのぞむようになりうるということ、これは1つの憐れみです。主が世に来られたわけ、ご自分の福音を宣べ伝えておられるわけは、目の見えない者が見えるようになるためです。そして、心に霊的な視力を願い求める思いがあるなら、主は最もふさわしいときに答えてくださるのです。

 同じようにここから、福音の説教が果たす役割りと意味についての正しい見方がわかります。福音説教は、盲目の目をひらくために聖霊がお用いになる大きな手段です。しかしそれはモーセの杖と同じく、すべての力を神の定めと約束に負っています。教役者は自分の職務を果たすのに、どれほど熱心であっても熱心すぎるということはありません。彼は適切なことばを見つけ出し、神のご計画の全体を宣べ伝えるために、全心全霊を傾けて勤勉に準備すべきです。しかし、そのすべてをなし終えたとしても、語ることばに御霊の力と現われがともなっていなければ、すべて無意味です。この祝福がなければ、使徒といえど何の成果もあげられません。しかし、愛をもって平易に真理を語る者、成功を与えることのできる唯一のお方にへりくだってよりたのむ者なら、程度の差は多少あれ必ずこの祝福を受けることができます。こう考えると、忠実な教役者でありさえすれば賜物や才能に差があるように見えても、ほとんど大差ないわけです。情熱的に、生き生きと話す才能がある人は、聴衆の耳をひきつけ、感情的な高揚をひきおこすことができるでしょう。しかし、それでは心にとどく説教になりません。むしろ祝福は、口達者な説教者よりもへりくだった説教者に伴うと考えてよいと思います。

 さらに云えるのは、天性で到達できる最高の境地と、恵みの最低の段階の間には、本質的な違いがあるということです。真に光を受けなくとも、罪を自覚する人は大勢います。決して罪を邪悪だとは思わなくとも、罪の結果を恐れる人はいます。自分の悲惨さ、イエスの気高さを真に霊的には認めなくとも、救われたい様子を見せる人はいます。彼らはしばらくは喜んでみことばを聞き、信者のような歩みをするでしょう。しかしそれが長続きしなくとも驚くにはあたりません。根がないのです。そうした者が何人脱落しても神の土台は微動だにしません。私たちは、みことばの保証により確信をもって云えます。一度は世の汚れから逃れながら、再びそれに巻き込まれ常習的に汚れを行なう者、また一度は罪のため悩みながら、自分の義を立てることで満足し、キリストへ至らずに終わる者、「すべて信ずる者に義を得させるために、律法の終りとなられた」キリスト[ロマ10:4 <口語訳>]へ至らずに終わる者、こうした者は、どんな証しをしていたにせよ、実は決して福音の救いの麗しさも栄光も受け入れることができなかった者なのです。逆に神によって目をひらかれた人の場合はどうでしょう。初めのうちは、人を見て木が歩いているようだ、と云った人のように[マコ8:24]、自分の魂の状態や福音についてはっきりわからず、混乱した見方しかできないかもしれません。しかし、この光はあけぼのの光のようで、最初はかすかで弱々しいのに、やがて輝きを増して真昼となるのです[箴4:18]。これは神のみわざです。神のわざは、進み方はゆっくりでも、質的には完全です。神は、ある日を小さな事としてさげすんだり捨てたりしません[ゼカ4:10]。働きはじめたなら、必ず目的を達されます。またその人は、自分がどれほど弱く、貧しく、無価値なように思われても、贖い主の栄光のきらめきを一度でもとらえたことがあるなら、すなわち、キリストが私たちにとって、神の知恵となり、義と聖めと贖いとになられたことを確信し[Iコリ1:30]、彼の御名を尊び、彼に望みをかけるようになっているなら、希望を捨てる理由、信仰を捨てる理由は何もありません。あのマノアの妻と同じように、「もし私たちを殺そうと思われたのなら、主は……これらのことをみな、私たちにお示しにならなかったでしょう」と云えるのです[士13:23]。

 そして最後に、この霊的な視覚は、信仰者のうちに根ざした第一の資質であるといえます。信者のうちに、恵みや慰めや力のたくわえはありません。絶えず新たに受けつづけることが必要です。どれほど長くキリスト者として戦ってきた者であっても、主が御顔を隠されるなら、信じたばかりのころと同じように弱く、未熟な者です。暗闇の中では、目は差し当り何の役にも立ちません。光なしには見えないからです。しかし、再び光が差し込んだとしても、盲人には何の得にもならないでしょう。信者は、非常に長く闇の中で過ごすかもしれません。しかし、霊的な視力はのこるのです。恵みの働きは不活発でも、彼は自分を知り、主を知り、恵みの御座に近づく道を知っています。気分や感じ方は変わるでしょう。しかし、彼が一度受けた救い主イエスの御人格、職務、恵みの力についての知識は、決して取り去られません。そして異なる福音を宣べ伝ようとする者には、御使いであっても立ち向かうはずです。なぜなら、彼は主を「見た」のですから。ここで紙数がつきました。ペンを置かなくてはなりません。願わくは主が、あなたの心、そちらの方々の心のうちにある光をますます強めてくださいますように。

敬具

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