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第3通

C段階の人。もしくは、「穂のうちにある充実した実」マルコ 4.28

拝啓

 前回私は、区別上A段階の人には「切望」という特徴、B段階の人には「戦い」という特徴があると申しましたが、Cの段階を一言で云い表わすには「考え深さ」ということばがうってつけであろうと思われます。このCの人のすぐれた点は、Aの人より感情的に燃えているとか熱烈であるということではありません。この点にかけては、多くの立派な信者が一抹のさびしさをもって昔を振り返るものです。たしかにそのころは右も左もわからず、福音の真理もぼんやりとしか理解していませんでした。しかし心は熱く燃えていたのです。それを思い出すと今の自分がはずかしく思われ、身が引き締まるような思いにさせられます。でも二度と同じ思いには返れません。また、この人とBの人の違いは、厳密には、御子に受け入れられている実感があるとか、神を父と呼ぶことができるとかいうことではありません。その段階まではBの人も十分達していたはずでした。(もっとも恵みはどの面でも成長するものですから、Cの人は長年の経験を通して福音に対しても、主の忠実さといつくしみ深さに対しても、よりしっかりとした見方を持っています。ですからこの人があらゆる罪の宣告から解放されたことを知らされたあの最初の時期よりも数段堅固で、数段純粋な確信を持っているとはいえます。)さらに厳密にいうと、Cの人は、Bの人はもとよりAの人とくらべてさえ、内側にある力や恵みの蓄積がまさっているわけではありません。今でも彼はただひたすら神にたよるだけの存在です。キリスト者になったばかりのころと全く同じく、自分では何1つ霊的な行為ができません。自分の力ではどんな誘惑に抵抗することができません。ただしある意味では、Cの人は強いといえないこともないでしょう。AやBの人とは違って自分の弱さを始終身にしみて感じているからです。主は、長期間にわたるさまざまなお取り扱いによって、この教訓を彼の骨の髄まで叩き込まれました。今や彼は恵みによって、このように多くの苦しみに会ったことはむだではなかった、と云うことができます[詩119:71]。自分の心にはいやというほど裏切られていますから、そんなものにたよる気持ちはまるでなくなっています。だから当然失望することも少ないのです。また他の助けのたよりなさにもほとほと懲りていますから、今では何かあると直ちに主のもとに飛んで行き、「恵みをいただき、おりにかなった助けを受ける」ようになっています[ヘブ4:16]。だからCの人は強いのです。自分自身の力ではなく、キリスト・イエスにある恵みのうちにあって強いということです。

 しかし、Cの人の本当の喜び、またBの人に大きく立ちまさる点は、ここにあります。すなわち彼は、祈ったり、聖書を読んだり、説教を聴いたり、という恵みの手段を用いる際に注がれた主の祝福により、また主のうちに、そして自分の心のうちに見いだした真実を日々のくらしの中で正しく役立てていくことにより、贖いの愛の奥義について、より明確で、より深い、そしてより広い理解を得ているということです。彼は、主イエスの栄えに富む卓越性が、その御人格や、成し遂げられた職務、その恵み、その忠実さのうちに輝いていることを理解しています。神のすべての完全さが、主のうちにあって、また主によって、比類なき調和と栄光をもって教会にあかしされていることを理解しています。聖書のゆるぎもない堅固さ、美しさ、十全性、確かさを、またキリストにある神の愛の高さ、深さ、長さ、広さを理解しています[エペ3:18]。このように、たとえ感情的にはA段階のころより燃えていないように見えても、堅固な識別力、安定した心、そして幕の内側にある奥義を思い巡らす深さにおいてははるかにまさっているのです。彼が何よりも望むことはキリストにある神の栄光を仰ぎ見ることであり、仰ぎ見ることによって彼は主と同じ姿へと変えられていき、見事な義の実を一斉に結ばせます。その実によって、イエス・キリストは神の栄光を現わし、神をたたえてくださるのです。彼の「考え深さ」は学者ぶった不毛な思索ではありません。そこには真の力があり、キリスト者の性格が本当に素晴らしいものだと力強く、不断にあかしすることができます。これは現在のような状況にあっては、AやBの人には望めないことでしょう。それがどういうことか、ここで具体的にあげてみます。

 I. へりくだり。この恵みは真のキリスト者なら誰でも少しは持っているはずですが、表にあらわれる度合は、キリストと自分の心の中をどれだけ知っているかによります。Cの人は、日ごとに、主に導かれてきた今までの道のりを思い返します。そして、その辻々に立ててきたエベン・エゼル[助けの石(Iサム7:12)]を見返すとき、同時に目に映るのは、それと同じくらいある、自分のねじけた退歩ぶり、何千何万回となく、主の善に対して悪を報いたことを記す石碑の列です。これを見くらべる彼は、気どりでなく使徒と同じことばで、自分こそ「聖徒たちのうちで一番小さな者、罪人のかしら」であると云えます[エペ3:8;Iテモ1:15]。Aの人もBの人もへりくだりが必要であることは知っています。けれどもCは本当にへりくだっているのです。前回引用した聖句(エゼ16:63)が、本当に身にせまるのを感ずるのです。さらに彼は自分を最もよく知っているだけでなく、主を最もよく知っています。無限の栄光と無限の愛が1つになっているこのお方の前では、ちりの中に消え入るしかありません。この恵みを活用することから、彼はさらに2つの恵みを引き出します。キリストにある者の心に映える非常に美しい、立派な恵みです。

 1つは、神の意志に服するということ。自分の邪悪さ、小ささ、愚かさ、また神の主権、知恵、愛を知った彼は、いかなる状況にあっても満足し、あの苦しみの中にあったダビデのことばにならって、定められた苦しみの分をじっと耐え忍ぶことができます。「私は黙し、口を開きません。あなたが、そうなさったからです」[詩39:9]と。

 もう1つは、まわりのキリスト者に対する優しさです。もちろん彼が人の行動を判断する基準はみことばです。しかし心情的には、世の陥罠やサタンの狡猾さをよく知っているので、許される限りの事情を考えてやり、柔和な心で、適切にその人を訓戒し、立ち直らせることができるのです。普通ここで間違った方向に行くのがAです。彼の情熱は、まだ自分の不完全さを実感しておらず十分矯正されていないので、人の批判ばかりする人間になりがちです。しかしCはこのAにも忍耐をもって接することができます。自分もかつてはそうでしたし、まだ青い実に完熟することを求めたりしないのです。

 II. 霊的であること。霊的なものを好み、キリストにある神の知識と愛にくらべればすべては卑しく空しいと感じる心、これは真のキリスト者なら誰でも持っています。世を愛する思いでキリスト者の心が完全にふさがれることは決してありません。Iヨハ2:15。しかし私たちはすべてが新しくされてはおらず、世のものに不当な執着をしがちです。心では良くないと判っているのに、くずにしがみつくのです。また思うに主は普通、御民にこの悪の原理を大きく克服させる前に、まずこれがどれほど深く心に根を張っているか思い知らせなさるようです。こうして多くの人々が、その疑うべくもない誠実さにもかかわらず、世を愛する罪にからみつかれ、難儀しています。特に、思いもかけぬ人生の変転が突然訪れて今までと全く違う状況になるようなとき、この傾向が顕著に現われます。ですから私たちの試練の大部分は、私たちをそうした性癖から引き離すため定められた恵みです。主はあるときは被造物の空しさを示し、あるときはご自身の素晴らしさ、すべてを満たす豊かさを示すことにより、次第にこの悪の性質を弱められるのです。Cも、この点では完全ではありません。しかし、こうした執着が良くないことはよく判っており、これを自らへりくだり、警戒し、かなり自由になっています。まだ足枷は感じますが、解放されたいと願うのです。自分に許す欲望は一定の限度内に抑えます。そして真に重要であると考えるのは、神との交わり、また聖潔に進むことだけです。外的な状況がどれほど変わろうと、多くの場合Cの人は以前と全くかわりません。使徒と同様、貧しさの中にいる道だけでなく、(多分より困難なことですが)豊かさの中にいる道も知っています[ピリ4:12]。主がいなくては宮殿も牢獄であり、主がおられれば牢獄も宮殿です。ここから彼には主への安らかな信頼が生まれます。すべてのものを御手に委ね、すべてを捨ててただみこころのままにしていただこうと日々つとめます。ですから彼は悪い知らせを恐れません。むしろ他の人々の心が木の葉のように震えるときも、ゆるがずに主に信頼します。主にはあらゆる損失を埋め合わせ、あらゆる苦味を甘くし、あらゆる物事を定めて益とする力、御意志があると信ずるからです。彼は時が短いことを知っており、栄光の前味によって生きています。だから死も、その他いかなる些事も省みず、ただ自分の走路を喜びをもって走り通そうとするのです。

 III. 心が神の栄光と御意志にかたく結ばれていること、これもまたCの魂の尊い特質です。神の栄光と御民の幸福は分ちがたく結びつけられています。しかし何よりも気高く何よりも大切なのは、神の栄光の方です。他のすべては、最終的にこの偉大な目的へ帰着するのです。さて私たちは、神のもとへ近づくにつれ、思うところも、欲するところも、目指すところも、神の意志に沿うようになり、神の栄光が心の中で最も高い位置を占めるようになります。初めは違います。せいぜいその思いが芽生えかかったというだけでしょう。私たちが考えるのは、もっぱら自分のことだけです。それは避けられません。初めて罪を自覚した人は、救われるには何をしたらいいのか問います。信じたばかりの人は、心慰められる体験を身もだえするほど求めます。身の永遠の安泰を確信してさえ、世で会うだろうあまたの困難を予想しては、早めに解放されたい、安息のうちに憩い、日々の労苦と重荷から逃れたい、としきりに思うのです。しかしCは、より広い視点に達しています。わが身のことだけ考えるなら、世を離れキリストとともにいるのが何より望ましいことでしょう。けれどもCの最大の願望は、自分が生き、または死ぬことによって、自分のうちに神の栄光をあらわすことです。彼は自分自身のものではなく、自分自身のものになりたいとも思いません。自分によってイエスの力が顕示されさえするなら、病床にあろうと、困窮にあろうと、誘惑のうちにあろうと喜べます。天国を慕う気持ちに嘘はありませんが、自分の行なうこと、耐え忍ぶことによって、少しでも神の栄光とみこころが推進されるなら、メトセラほどの年月を地上で送っても満足なのです。また彼が主を愛し、あがめるのは、主が彼のために大きなことをなし、彼のために苦んで、彼を救い出し、高く上げてくださったからですが、今や彼は、いわば自分を忘れて、より単純に、ストレートに主を愛しています。主が無限にすぐれた、完全無欠なお方、主であられるから愛するのです。キリストにあって神が万物にまさって偉大であること、また世々賛美されることこそ、心底からの喜びです。彼の思い描きうる最大の望みは、神の聖にして賢き至高のみこころが、自分のうちになり、全被造物のうちに実現することです。この大原理のもとに彼は祈りをささげ、計画し、行動します。こうしてCはすでに天使のようになっています。堕落した天性の抜き難い残滓は別にすると、彼によって神の意志は地上でも天におけるのと同様に尊重されるのです。

 Cの人のうちにある恵みの力を示す状況は千差万別です。Cは金持ちかもしれませんし、貧乏人かもしれません。学者かもしれませんし、無学な人かもしれません。陽気で活発な人かもしれず、おとなしくて引っ込み思案な人かもしれません。比較的順調な人生を送る人もいれば、一生荊の道を歩む人もいます。牧師もいれば、平信徒もいます。こうした様々な状況によって、恵みのみわざは一見異なった風に見えます。けれども、みわざ自体は全く同じです。ですから人の信仰生活を正しく評価するには、こうした表面上の違いをあげつらったり、状況の差を考えず同じ基準を一律にあてはめたりするようなことは極力排するべきです。恵みの外見は、単なる生れつきの性質、例えば、冷静さとか、センスの良さとか、世情に通じているとかいう多くのことによって、素晴らしくも引き立っても見えるものです。逆に、別段罪でなく、自分でも仕方のないことで、恵みの力はかげって見えることがあります。例えばふさぎこみがちな気質や、目立った才能に恵まれないこと、激しい誘惑の圧迫などによってです。誘惑などは、同じことを経験しない人には、そのすさまじさは見当もつきません。人に倍する妨げと戦う人には、いってみれば真の恵みが人の倍備わっているのに、妨げの方が目につかなかったり見落とされたりすると、それがなかなかわかってもらえません。ところが、ごく小さな恵みも大した障害に会わなければ、大きな力があるように見えます。ですから、私たちは決して互いを正しくさばくことはできません。人の問題の裏表をくまなく知りつくすことなどできないからです。しかし、あわれみ深い偉大な大祭司はすべてをご存じです。私たちの成り立ちを知り、「私たちがちりにすぎないことを心に留めておられます」[詩103:14]。恵みに満ちた理解を示し、誤りなき判断によって私たちを憐み、 赦し、受け入れ、認められます。行き巡る日の下でCほど高潔で、尊敬に値する存在はありません。家は狭い借家かもしれず、地位も名声もないかもしれません。しかし彼こそは神の愛を受け、神の愛のうちに住み、天使らに守られつつ、永遠の栄光めざして日々成熟している人です。何と幸いな人でしょう。その労苦も、苦しみも、労働も、まもなく終わりを告げるのです。待ち望んできたことがまもなく成るのです。そして彼を愛して、ご自分の血で彼を贖われたお方が、彼をふところに抱いて云われるでしょう、「よくやった。良い忠実なしもべだ。主人の喜びをともに喜んでくれ」、と[マタ25:21]。

 もしも、今まで述べてきたことが聖書の教えにかなったものであるなら、福音を信ずると告白しながら、その福音が信者の心にもたらすはずの変化をまるで知らない者、この世的精神、この世的生き方にどっぷりつかって流されていく者、きよめられていない感情のおもむくまま、名声を得るため死に物狂いで争う者、くだらない気まぐれを追及し、飲み食い歩きにうつつを抜かす者らは、この世で最も愚かな者、最もあわれむべき者ではないでしょうか。願わくは主の恵みによって、私たちが日ごとに成長し、聖ヤコブの云う上よりの知恵、すなわち、「第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないもの」であるところの知恵[ヤコ3:17]を体得することができますように。

敬具

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