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第2通

B段階の人。もしくは、「穂のうちにある恵み」マルコ 4.28

拝啓

 御民の心の内側で主がどのように働かれたか、その跡をたどるのは容易なことではありません。もちろん主が働いておられるということ自体は、みことばによって確かな事実ですし、立派に証明できることではありますけれども、いざこれを口に出して説明しようとすると、まあおおざっぱなところを語れるだけで、あとはこのおびただしい数の信者たちの様々に異なった体験を一体どうまとめてよいものかと、ただただ途方にくれるのです。けれども前回は信じたばかりの人をA段階の人として、どうにかそうした性格描写を試みてみました。さてこのたびは、この人をB段階の人という名で考えたいと思います。

 このBという段階がはじまるのは、魂が、移りかわる感情の変化にゆさぶられて希望と恐れをこもごもに味わう状態を過ぎて、イエスのうちに安らうことが許されたときであろうと考えます。それはイエスこそ、より頼むすべての者にとって全く十分な、またあらゆる必要を満たす知恵であり、義であり、聖めであり、贖いである、と霊的に悟ることによって生じます[Iコリ1:30]。そのとき人は、自分のものとされた信仰によって「彼は私のもの、私は彼のもの」と云えるようになるのです[雅2:16]。確かに、この確信にもさまざまな程度があります。これは次第に成長してゆく性質のものであり、私たちがこの世にとどまるかぎりは常に成長しうる余地があるからです。けれども、もしこれが救い主の恵みと御威光を単純に受け入れるところからわき上がり、私たちのちょっとした感情や気分の揺れ動きにも左右されず、たとえ不信仰な思いやサタンからどのように否定されても、使徒パウロのごとく、「罪に定めようとするのはだれですか。死んで下さった方、いや、よがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです」、と、このように答えることができるのであれば、それは救いの確信と呼んでよいでしょう。もちろん、Bの人の信仰がAの人よりも本物だということではなく、(ですから、そういう意味でこれが信仰の核心であるとは云えませんが)、ここに至ってはじめて信仰は堅く立つのです。

 さてこのように信仰が強められると、取り組むべき問題も困難の度を増します。A段階の人の特徴を一言で云い表わすならば「切望」であり、B段階の人のそれは「戦い」であると思います。たしかにB段階の人から切なる求めの心がなくなってしまったわけでも、A段階の人に戦いが無縁であるわけでもありません。けれども、A段階の頃のような熱心さ、激しさが後になるとめったに見られないのと同じように、通常B段階の人が経験する試練、訓練は、A段階の人がさらされているような、というよりも(実は)A段階の人に耐えられるような試練とは、質においても激しさにおいても相当に異なったものなのです。Aの人は、あのイスラエルと同様、大いなる力と伸べられた腕をもって[申9:29]エジプトから救い出されました。多くの敵による追撃に脅かされ、もう駄目だ、もうおしまいだと絶望したことが何度となくありました。でも、ようやく自分の敵たちが滅ぼされたのを見、モーセと子羊の歌を紅海のほとりで歌いました。その上でB段階へと進んだのです。おそらく彼はイスラエルと同じように、困難なことはもう終わった、あとは約束の国へ行き着くまで楽しいことばかりだ、と思うことでしょう。ところが何たることか! 苦しいことは、ある意味で始まったばかりなのです。行く手には思いもよらず荒野が広がっているではありませんか。ここで主は、この人をへりくだらせ、試み、おのが心のうちに何があるか悟らせるのにふさわしい心の状態をつくりだそうとしておられるのです。そうされてこそ、後になってこの人が良いお取り扱いを受けたとき、主の無償の恵みにすべての栄光が帰されることでしょう。

 主は罪を憎んで忌みきらい、愛する御民にもご自分と同じように罪を憎めと教えられるお方です。これを考えると、人が罪の咎と支配力から解き放たれたならば、すぐさま内側に巣くう罪の汚染からも完全に救い出され、全く主に従えるような者とされるのが望ましいように思われます(主には何事であれ簡単におできになるはずです)。しかし、主の知恵はそうはお定めになりませんでした。もっとも上に挙げた2つのこと、つまり主が罪を憎み、御民を愛しておられることを考え合わせると、次のことは確実に云えます。すなわち、主はたとえ信者の中に罪を残しておかれるにせよ、やがては必ずそれを抑えつけて支配されるはずですし、そのことによって主の素晴らしい恵みと知恵はより輝かしく現わされ、御救いは魂にとってより尊いものとされるにちがいありません。

 しかしながら、罪を警戒し罪と戦うことは神の御命令であり、したがってそれは信徒の義務です。いえ、神が与えてくださった新しいいのちからしても、それは信ずる者の願いであるはずです。それはすなわち、罪のからだ全体を死に至らしめ、心のうちの聖潔を押し進めようとすること、それを生涯の大事業とみなして常に心がけ、いっときも気をゆるめないことにほかなりません。このような道筋の上をBは歩きはじめます。さて私たちが神に受け入れられており、キリストにあって永遠に捨てられることがないという知識それ自体には、現在この地上においても、天国へ行ってからのものと変わらない力があるはずで、その確証の強さと理解の明瞭さに比例して、不断の愛、喜び、平安、感謝、賛美を生み出すはずです。ただしそれは何も私たちの邪魔をするものがない場合のことであって、私たちには堕落した性質が今なおこびりついており、天性の腐敗の種が今なお心の中に何種類も何種類も残されています。そればかりか、私たちの生きる世界はそうした腐敗の種をたくみに発芽させようとする罠や機会でいっぱいです。また私たちの周囲には、嘆きと痛みをもって自ら経験する以外には知りようのない力とずるがしこさを持った目に見えない霊的な敵がうようよ存在しています。Bは、一般論としてはキリスト者としての戦いの性質がどのようなものであるか知っています。また自分の義と力をイエスに求める権利があることも知っています。イエス・キリストの良い兵卒として困難に耐える覚悟もあり、くずれ折れてしまいそうなくらい激しく傷ついたときも、主が味方としてそばにいてくださることを信じています。彼は自分の心が「何よりも陰険で、それは直らない」[エレ17:9]ことを知っています。しかし初めのうちは、この言葉のうちに実際どれほどの意味が籠められているかは知りませんし、知ることができません。けれども、もしBが自分のうちに宿る邪悪な性質、ペテロのように前もって予告されていたとしても[マコ14:29]とうてい信じられなかっただろうような腐り切った自分の性質に信仰生活の中で次第に気づかされていくならば、主の栄光は高められ、結果的には主の恵みと愛がよりすぐれて尊いものとされることでしょう。

 そしてまた実際、心の内側にひそむ真のいやらしさ、汚らわしさ、おぞましさは、Bのように主の恵み深いことを体験し、み救いを喜んだあとになってはじめてその全貌を明らかにするのです。罪の極度の罪深さがあらわになるのは、罪が脅しと命令による抑制をかなぐり捨てるときではなく、私たちが、受けた光と愛に逆らってまでも罪を犯せることが明らかになるときなのです。これをよく示しているのがヒゼキヤ王の場合です。ヒゼキヤは長年の間、忠実で熱心な主のしもべでした。しかし、病に倒れ床にふせっていたときほど彼が主と自分自身について深く知ったときはなかったであろうと思われます。セナケリブの手から彼をあざやかに救い出された主は、やはり同じように奇蹟によって彼を墓場の一歩手前から引き起こし、祈りに答えて寿命を引き延ばしてくださいました。病からの回復について彼が書き記した歌をみると、彼が自分の受けたあわれみにいたく感動していたことは明らかです。それにもかかわらず、彼の心の奥底には彼自身もあずかり知らぬものがひそんでいたのです。彼がそれに気づくことは主の栄光となることでした。だからこそ主は彼をひとりきりにしておくことをよしとされたのです[II歴32:31]。彼が捨てて置かれたと記されているのはこれが唯一の例であり、彼の行動が非難されているのもこのとき以外にありません。通常私たちはBの段階、すなわち主を知ってからしばらくした後で、自分の最もいとわしい邪悪な性質をまざまざと経験するようです。もとより、一見して如実なはなはだしい悪徳の中に落ち込むのでなくては、自分の心の中にあるものを知ることができないというわけではありません。たしかに、贖いの愛にふれ、真心から罪を退けようと決意をした人々のうち多くが、同じような決意をした他の人々は陥らないで守られた外的な罪に陥ったことは事実ですが。主はみこころのままに、子らのある者を他の者たちへの見せしめや警告となさいます。守られた者たち、すなわち自分の最もひどい過ちが主と自分自身の他には誰にも知られていない者らは、感謝すべき大きな理由があると云えましょう。私には確かにそうすべき理由があります。恵み深い主は、私が御民のうちに数えられるようになってから常に、そのようなひどい汚点で私の信仰告白が汚されることのないよう守ってくださいました。ですがそのことで自慢できる点は何1つありません。それは私の知恵とか、用心深さとか、霊的深さのせいでは全然ないのです。もとより主は大体において、私がそのような定めの手段を用いないで生きるようにはなさいませんでしたが。私は、人々の前であからさまに極悪非道な罪を犯したことはありません。しかしそれと同じくらいなさけないことをたくさん主の前でしています。ですから私はそれらのことを一生覚えつつ、へりくだって生きていきたいと願わさせられるのです。それでも自分が神の愛する御子に受け入れられているかどうか疑ったことは、この数十年間でほんの十数分もあったかなかったかでしょう。しかし、おお何たることか! 私のたびかさなる馬鹿さかげん、恩知らず、短気さ、反抗心については、私の良心が証人です。誰でも自分の心の苦々しさはよく知っているもので、他の主の民と話していてもよく同じような嘆きを耳にします。そうした人の中には本当に恵みに満ち、すばらしく霊的であるように見える人もいるのですが。もちろんBの人はこうしたことをはじめから経験するわけでも、毎日のように経験するわけでもありません。主は私たちの魂をためす時と機会をお定めになっておられます。そのときどきの状況と心の状態によって、試みに会うのが特にふさわしい場合があります。私たちの内心がどれほど邪悪であるか知らせるために、ときに主は退いてサタンが私たちに近づくのを許されます。私たちは霊的高慢に陥りやすく、自分に悪い自信を持ちやすく、根拠もなく自分に安心しやすく、神ならぬ被造物やさまざまな悪に心奪われやすいのです。またしばしば主は、私たちの罪深い性質を次から次へとあばきだされます。ときに主はご自分が私たちのために何ができるか、私たちのうちで何ができるかをお示しになり、ある時には私たちが何と何もできない者であるか、ご自分がいなくてはひとりで立つこともできない者であることをお示しになります。

 このようにさまざまな訓練を与えられたBは、すべてをつかさどり聖徒の徳を建て上げる聖霊の影響力によって、自分自身と主を知る知識を日々増し加えていき、鍛えられていきます。彼はますます自分の心を信用しないようになり、一歩一歩の歩みの中に罠がないかどうか絶えず警戒することを学びます。自ら自分の上に招き寄せたあの暗欝な時間を何度も経験しているだけに、神の御顔の光はよけいに素晴らしいものに感じられます。また神の御霊を悲しませたり、御霊を再び退けたりするかもしれないようなことは何であろうと怖じ気をふるうようになります。何度も何度も繰り返して赦しを受けたため、彼は神が主権的に結んでくださった救いの契約、そしてその豊かに満ちあふれる恵みをますます賛美し、ますます感謝するようになります。多くが赦されました。ですから彼は多く愛するのです。ですから彼は人を赦し人に同情することができるのです。もちろん彼は理と非、正と邪をあいまいにしたりはしません。しかし自分の経験から、人に優しくし、忍耐し、寛大になることを学んでいるのです。過ちにおちいった人に対して物柔らかに接するお方の心を彼は身にしみて知っており、そのような人を立ち直らせようとする彼の態度は、主が彼に対して取られたお取り扱いそのままとなります。つづめて云えば、このBの人の普段の心構えが次のみことばといつでも一致するようになったとき、Bとしての人格は完成に達し、C段階の人になったといえるでしょう。「わたしが、あなたの行なったすべての事について、あなたを赦すとき、あなたはこれを思い出して、恥を見、自分の恥のためにもう口出ししない……(自慢したり、愚痴を云ったり、人を非難したりしない)----神である主の御告げ。----」(エゼキエル書 16:63)

敬具

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