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2. 聖書の内的証拠は、聖書を信ずるための適切な根拠である

 聖書は神の権威に基づいて信仰を要求しており、その権威は聖書の真理の力と卓越性のうちに明らかに示されている。これは聖書そのものがはっきり告げていることである。聖書は常に、信仰は正しい道徳的感覚の影響と証拠であり、不信仰は道徳的霊的盲目の帰結であるとしている。主イエスはユダヤ人に云われた。「だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか……がわかります」(ヨハ7:17)。「神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです」(ヨハ8:47)。また別の際にはこう云われた。「あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。わたしの羊はわたしの声を聞き分けます」(ヨハ10:26、27)。使徒も同じように語る。「人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。……私たちは神から出た者です。神を知っている者は、私たちの言うことに耳を傾け、神から出ていない者は、私たちの言うことに耳を貸しません。私たちはこれで真理の霊を偽りの霊とを見分けます」(Iヨハ4:2、6)。同様にパウロも云う。「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができなせん。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです」(Iコリ2:14)。また、「私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々のばあいに、おおいが掛かっているのです。そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。……[なぜなら]『光が、やみの中から輝き出よ。』と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです」(IIコリ4:3、6)。これら類似の章句の教理を一言でまとめるとこうなる。神のことば、特にイエス・キリストの人格と性格のうちには、神の栄光が驚くべき仕方で明確に現わされている。この現われに対して生まれながらの人は盲目であり、それゆえ信じられない。しかし神の御霊をもつ人はその栄光を見分けることができ、それゆえ信じるのである。

 そう考えると、不信仰があれほど重い罪と云われ、信仰があれほど大切な義務と云われているのもうなづける。無神論は、聖書では常に罪悪とされている。神が存在しておられる証拠は至るところにあるからである。それは私たちの上にも、まわりにも、内側にもある。これらの証拠は、人間の道徳的な部分にも理性的な部分にも訴えかけている。これを受け入れまいとするのは、人としてなすべき道を命ずる良心の声を無理やり押しつぶすことである。それは悪を善と呼び、善を悪と呼ぶにひとしい暴挙である。それゆえ聖書はいつも、不信仰は神に対する罪であると云う。世がさばかれるのは、特にこの罪のためである。「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている」(ヨハ3:18)。「偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否認する者、それが反キリストです。だれでも御子を否認する者は、御父を持た」ないのです(Iヨハ2:22、23)。聖書に啓示された御子イエス・キリストを信じないのは、神を否定するのと同じ罪悪である。いずれの場合も、啓示された至高の卓越性を無視するのである。主イエスもほぼ同じことを云っておられる。「わたしを憎んでいる者は、わたしの父をも憎んでいるのです」(ヨハ15:23)。逆に信仰は、最も気高い服従の行ないであり、神の目に最も喜ばしい道徳的行為とされる。「イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです」(Iヨハ5:1)。「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」(ヨハ1:12)。主イエスも、ユダヤ人の問いを受けて云われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです」(ヨハ6:29)。これらのことばを見るとき、信仰の根本的な土台は決して他人の証言にはないことがわかる。他人の証言は、私たちの道徳性にまで訴えるものではない。また他人の証言に同意したからといって、心の深い部分が何か変わったわけでもない。ところが、私たちがイエスを信じなければならないのは、彼のうちに御父のひとり子としての栄光が示されているからだとしたらどうであろう。聖書を受け入れなければならないのは、聖書のうちに神のたぐいない完全性が刻印されているからだとしたらどうであろう。事は全く明らかである。これが信仰の土台なら、確かに不信仰は1つの犯罪にほかならない。それはかたくなに知恵と聖さを認めることを拒み、はっきり示された神の卓越性を否定することなのである。

 信仰の土台をこのように考えるべきであるのは、信仰という恵みがどのような実りをもたらすと云われているかを考えてもわかる。聖書では、信仰は愛によって働き、心をきよめ、世に打ち勝ち、平安と喜びを生み出すものだと云われている。もちろん、自分の利害にかかわる何かが起こったと確信する人は、どういう仕方で確信したにせよ、何が起こったかによって、恐れや、悲しみや、喜びなどの感情を覚えるであろう。しかし人が何らかの道徳的あるいは宗教的真理を信じるというとき、そこに他人の証言だけしか根拠がなければ、その真理が感情を完全に支配してしまうとは考えられない。人は、権威づくで、あるいは単なる合理的な根拠にもとづいて、自分が神の道徳的支配のもとにあると信ずることはあるかもしれない。自分をしばる律法が聖く、正しく、良いものであると信ずるかもしれない。しかし、そうした信仰に対しては、どうしても反発が生ずるものである。人は、議論や奇蹟によって神の存在を確信するかもしれない。しかし、そのような信仰から愛が生ずることはない。それゆえ、聖書の云うような信仰の実が生ずるためには、信仰者自らが真理を霊的につかむことが必要なのである。

 信仰が神の賜物と呼ばれるのはこのためである。むろん証拠はすべての人に示されている。そうでなければ、すべての人に信じる義務があるなどとは云えない。しかし人間は道徳的に盲目である。心の目が開かれない限り、決して神からの無代価の恵みを理解できない。それで使徒は、信仰の兄弟にこう告げている。「あなたがたには聖なる方からの注ぎの油があるので、すべてのことを知っています。このように書いて来たのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、真理を知っているからであり、また、偽りはすべて真理から出てはいないからです。……あなたがたの場合は、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、----その教えは真理であって偽りではありません。----また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです」(Iヨハ2:20、21、27<新改訳聖書欄外注参照>)。ここで教えられていることは、先に引用した他の聖句と同じである。すなわち信者とは、聖なる方から力を、あるいは注ぎの油を受けた者であり、その力が彼らに真理を確信させ、悟らせ、知らしめたのである。だからパウロは、自分の「宣教……は、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われ」であったと述べ、それは彼の聴衆の信仰が「人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるため」であったと云う。つまり彼らが信ずるようになったのは、なにか言葉たくみに言いくるめられたためではない。真理を霊的に感じとり、体験したためなのである。

 このことは、聖書の著者たちが常にどういう語り方をしているかを見てもわかる。確かに彼らは、自分の教えの正しさを証明するため、あらゆる種類の証拠を用いた。しるしと不思議、さまざまな奇蹟、聖霊の賜物に訴えた。しかし彼らが信ぜよと命ずるとき、彼らは決してそうした外的なしるしを、絶対無二の、あるいは中心的な根拠とはしなかった。多くの聖書著者(例えば何人かの預言者)の場合、一度も奇蹟らしきものを行なったことがないにもかかわらず、彼らは信仰を要求している。さらにしばしば信仰は、奇蹟を一度も見たことのない人々に対して求められているのである。ユダヤ人がしるしを求め、ギリシャ人が知恵を求めるときに使徒たちが宣べ伝えたのは、十字架につけられたキリストであった。十字架につけられた方を彼らは、救いを得させる神の力、神の知恵として宣べ伝えたのである。彼らは常に、ただ真理を明らかにすることによって、神の御前で自分をすべての人の良心に推薦しようとしていた。そしてそれでもなお彼らの福音におおいが掛かっているとしたら、それは滅びる人々の場合におおいが掛かっているのだとした[Iコリ1:22-24; ロマ1:16; IIコリ4:2-3]。

 したがって、これは聖書そのものの明らかな教えである。みことばは、そこに神の権威、神の絶対的な力がはっきり示されているからこそ信じるべきなのである。自然の造化の中に神の完全性が見てとれるように、聖書には神の権威と力がはっきりとしるされている。神の永遠の力と神性は被造物によってはっきりと知られ、異教徒にすら弁解の余地はないとパウロは教えている。異教徒らの不信仰の原因は、証拠の欠けによるものではなく、彼らが神を思いの中にとどめておきたがらなかったためなのである[ロマ1:20-23]。もしそうだとすれば、いわんや被造物などよりもはるかに明らかに神の完全性を示している聖書は、はるかに厳しく絶対的な権威をもって信仰を要求していても当然であろう。

 これは、あらゆる時代、あらゆる国の真のキリスト者に共通した経験である。彼らの信仰の土台は、自分自身で真理を霊的に感じとり、身をもって体験したということにある。なぜ聖書を神のことばと信じるのかと聞かれれば、多くのキリスト者は答えに困るであろう。にもかかわらず、その信仰は力強く、筋の通ったものである。たとえ口で説明はできなくとも、彼らはどこに自分の信仰の土台があるのか気づいている。内側から証しするものがあるのである。別に彼らは他人が信じているから信じているのではない。どこかの学者がキリスト教の真実性を確証するような事実を証明したから信じているのではない。彼らがキリストを信ずるのは、神を信ずるのと同じ理由からである。そして彼らが神を信ずるのは、彼らが神の栄光を見、神の権威と力を体験したためなのである。

 もしそのように神の真理が本質的に神の卓越性の啓示をふくむものだとすれば、不信仰の罪は非常に大きな罪ということになる。神がはっきりと啓示されているのに信仰をもたないということ、これは被造物が造物主に対して犯しうる最大の犯罪である。私たちの性質に最もふさわしい仕方で伝えられた神の証しを信用しないということ、これは創造主に対する私たちの忠誠を打ち捨てることである。イエス・キリストにある真理と卓越性の証拠を無視すること、これは真理と卓越性に対する最大の侮辱である。こうした罪は広く世にいきわたっており、そのため世では軽く見られている。人間は、自分も罪ありとされるような悪徳については、なかなかその下劣さに気づかないものである。むろん人は自分よりも悪人ぶりがはなはだしい者らの欠点については目ざとい。だから神の御子を信ぜずにいながら何の気のとがめも感じない者も、「イエスなど悪質のイカサマ師だ」と公言する者らにはおぞ気をふるう。相手の弁明や弁解を聞くまでもない。いやしくも聖書に親しんだことのある者が、神の御子についてそのような判断を下すことができるという事実だけで、否定しようもない腐り果てた心の持ち主であることは明らかである。しかしながら、そのような判断を下しうる心と、キリストの約束や警告を無視し、その御告げを信じようとしない心との間に、どれほどの違いがあるだろうか。キリストをおとしめるとは、キリストの告げられたことを本当のこととは思わず、作り話のようにみなす心ではないのか。したがって、人がどのように軽く考えようと、信仰の欠如は、その人の犯したありとあらゆる罪のうちでも最も重く、最も非道な罪と数えられることになる。それは、最高の証拠に対する無神経さ、冷淡さを意味し、神が人に差し出された最高の贈り物----罪の赦し、罪からの聖め、永遠のいのち----を拒んだことになるのである。



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