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神のことば・聖書

チャールズ・ホッジ


1.聖書が神のことばであるという内的証拠

 福音を聞く人が、それが本当に神のことばなのかどうか疑うということはよくあることである。幼少のころから聖書は神の啓示だと教えられ、特にそれを否定する理由もなく過ごしてきた人なら、一応はその主張に同意している。しかしそういう人でも、聖書がうまく考え出された作り話ではないということを、よりよく確信したいというときがある。その点さえ完全にはっきりするなら、すぐに福音のどんな命令にでも従うのだが、と思うのである。

 さてこのような疑いが出てくるのは、聖書の神的権威を示す証拠に何か欠陥があるためではない。またそうした証拠をいくら積み上げても、それで疑いが消えるわけでもない。こうした疑いは心の状態から生ずるのである。たとえキリスト教を弁証する最も重要な証拠であっても、聞く人の心が神の目に正しい状態になっていなければ、決してその真価が認められることはない。同じ真理を示しても、ある人は揺るぐことない確信へと至るのに、別の人は疑惑と不信の状態のままである。さらに同じ人の心でさえ、外的証拠そのものには何の変化もないのに、しばしば(何の脈絡もなく、というわけではないが)急激に、懐疑的態度から信仰の立場に変わる。

 したがって単なる外的証拠がどれほどあろうと、真実な信仰を生み出すことはできない。イスラエル人は、エジプトの地で何度も不思議なしるしを目にし、紅海では真二つに分かれた水の中をくぐり抜け、シナイ山上では神の威光の顕現に身を震わせた。にもかかわらず彼らは、その山の面前で黄金の子牛を造って自分たちの神としたのである。人々は毎日のようにキリストの行なわれる奇蹟を目にしていた。にもかかわらず彼らは、主を「十字架につけろ! 十字架につけろ!」、と叫んだのである。だから私たちの救い主は云われた。「もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない」。それゆえ私たちは、確かにこう結論することができる。いま福音を信じようとしない者は、たとえキリストが行なわれたすべての奇蹟を目にしようと、聞き入れようとはしないであろう、と。

 大切なのは、この事実に気づくことである。すなわち、人がキリスト教に疑いを持ち、なかなか信仰を持てないのは、真理の証拠に何か欠陥があるためではなく、本人の道徳的状態に問題があるのである。使徒は云う。「私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々のばあいに、おおいが掛かっているのです。そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです」(IIコリ4:3、4)。

 いま述べた教理は、私たちの日常の経験からも簡単に察しがつくことである。どんな真理でも、受け取る側にかみ合うものがなければ、決して正しく理解されることはない。抽象的、観念的な真理でさえ、それが真実であるとみなされるためには、受け手の側にその真理をつかみきるだけの理解力がしかるべく啓発されていなければならないのである。芸術作品にしても、その作品と美の基準との間の対応を感じとれない人には、何が素晴らしいのか全くわからないであろう。まして道徳的な真理、宗教的な真理については、心がそれらを受け取るにふさわしい状態になくてはならないことは明らかである。もし私たちの道徳的感覚が、罪によって完全に破壊されていたとしたら、私たちは何が道徳的にすぐれたことか全く認識しえないであろう。もし私たちの道徳的感覚が汚され、腐敗しているのであれば、たとえそれ自体真実で、心のきよい人にとっては真実であるものがあったとしても、私たちにはとても真実とは思えないであろう。罪の邪悪さを十分感じとれない人間には、神の正義は決して信じられない。しかしそんな者でも、ひとたび良心が目覚めれば、証拠や証明などの手続きを経なくても、すぐさま自分の罪を確信するのである。

 聖書を読むときだれでも気づくのは、聖書が、それを読む者に即座の、絶対的な信仰を要求しているということである。それは哲学者の書斎で埃をかぶって眠っているかもしれない。失業中の船員の衣類箱に押し込まれているかもしれない。まだ現地語を解さない宣教師から異教徒の原住民に手渡されたものかもしれない。しかしどういう状況であれ、ひとたび開かれるや、聖書は同じ静かな声で語りかける。「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる」、と(ヨハ3:36)。もしこれが、教育を受けた人にだけ求められているとしたら、これは教育を受けた人しか理解できないような証拠に基づいていると思ってもよいであろう。あるいはもしこれが、正式に任命された牧師から聖書を説き明かされる人々にだけ語られたものであったとしたら、これは教職者の権威に基づいていると思ってもよいであろう。しかし、そんなわけへだてはされていない。この要求は、みことばそのものと分かちがたく結びついている。たとえ子どもが異教徒の群衆の前で読み聞かせたものであろうと、大聖堂で大司教が朗々と読み上げたものであろうと、聖書が読まれるとき、この信ぜよという命令から逃れることのできる者はひとりもいない。しかしもしこの信仰の要求が、聖書のおもむく所どこにでもついてくるとしたら、これは、みことばそのものにふくまれている証拠に基づいたものに違いない。信仰は、その証拠が示されなかった人々に対してまで求められはしない。したがって、聖書の外的証拠を理解できない者には信ずる責任も信仰の恵みもない、というのでもない限り、聖書の証拠は聖書そのもののうちにあると認めざるをえない。

 他の人々の証言を、キリスト教真理を信じるための根拠とすることは、2つの明白な理由から認めることができない。第一に、上で述べたように、人の証言が届く範囲には限りがある。他人の証言を聞けない多くの人々にも、信ずる義務は課せられているのである。第二に、人間の証言はおよそ不適切なものである。少数の学識者の証言だけを根拠に、おびただしい数の人々に向かって、その現世における行動と、来世における運命を左右するような宗教を信ずるよう要求するなどということがあってよいはずがない。それに学識者には、聖書が真理だと云う者もいれば、コーランが真理だと云う者もいる。だから他人の証言は、信仰の適切な根拠とはなりえない。真理を擁護するため主張される証言もあれば、偽りを擁護するため主張される証言もあるのである。なぜ学識あるキリスト者の証言は安心して信頼でき、学識あるイスラム教徒の証言は退けるべきであるのか理解するよう要求するのは、普通の人々にとっては、キリスト教の歴史的証拠をすべて精密に検証せよと告げるにひとしい苦行を課すことである。したがって、聖書が万人に対して、うむを言わせず、即座の信仰を要求していることを納得いくよう説明する唯一の道は、聖書自身のうちにその神的起源の証拠がふくまれていると認める以外にない。

 そんな証拠があるとは思えないという人に対して、この証拠の性質がどのようなものか適切に示すことは、容易ではないであろう。もしかすると不可能かもしれない。しかしこの証拠が、聖書を黙って信頼するに足る、理にかなった根拠であると示すのに十分なだけのことは云えると思う。工芸品であれ芸術品であれ、どんな作品にも作者の個性的な特徴が刻み込まれているものである。人間の間でさえ、別の人の作品をそっくりに模造するにはたいへんな困難が伴う。いわんや神の造られた作品に、その造物主の模倣しがたい刻印が刻み込まれているとしても、何の不思議があるだろう。天は神の栄光を語り告げていないだろうか。昆虫の体節のしくみは、神の精妙な手ぎわをはっきり証ししていないだろうか。では神のみことばが、その神的起源の独特な証拠をふくんでいることを、なぜ信じがたいと思われるのだろうか。もし聖書が神の作品であるなら、確かに聖書は神のご性質の刻印を帯びているはずであり、それが神から来たものであることを証ししているに違いない。

 しかし、私たちにはこうした証拠を判断する能力がない、と反論する人があるかもしれない。確かに、もしここで必要とされているのが、文学作品の優劣を鑑定するような洗練された知性や、著作の真贋を判定できるほど著者の特徴について知悉することだとしたら、誰が神について十分な知識があるなどと云えるだろう。誰が、自分は神の御手のわざとしてふさわしいもの、ふさわしくないものを判別できる、などと云えるだろう。もし聖書の内的証拠が、聖書の知的卓越性のうちに示されているとしたら、これは致命的な反論となったはずである。しかしながら、この卓越性がもっぱら道徳的なものであり、善にはそれ自体善である証拠が伴っていることを思い起こすとき、この反論は力を失う。この種の証拠を理解するには、知識や教養はさほど必要ではない。正しい道徳的感覚さえあればよい。その感覚があれば、善が善である証拠は即座に理解され、圧倒的な力を持つのである。私たちが聖書を神から出ていると信ずるのは、それが人間以上の技巧をもって書かれているからでも、その際立った特徴や雄弁さが人の力を越えてすぐれているからでもない。こうしたことについて、一般の人々のほとんどは判断を下すことができない。しかしここで問題となっているのは、どれほど無学な神の子にも理解できるような証拠である。その証拠には、否定的な部分と、肯定的な部分がある。まず第一に、聖書には、神的起源と矛盾するようなものが全くないということがある。聖書には、理性と矛盾するもの、善と矛盾するものが何もない。もし聖書が、理性や正しい道徳的感覚に反することを少しでもふくんでいたとしたら、それを神から出たと信ずることは不可能であろう。そう信ずるには、著者である神に愚かさや罪があるとしなくてはならないからである。この否定的な証拠は、私たちがしばしば想像するよりも、はるかに大きな意味を持っている。神のことばと称する数ある書物の中で、この証拠によって裏づけられるものは聖書以外に一冊もない。聖書と他の怪しげな書物の間には、この越えがたい隔たりがある。他の宗教書の主張はどれも、それが真実ではありえない叙述をふくんでいるという事実によって無効にされてしまうのである。

 しかしながら、聖書の主張に力と権威を与えるのは、神的権威の肯定的な内的証拠である。この証拠は主に2つの部分からなっている。それはまず聖書が完全に聖いということ、次に、神、人間、救い、未来の状態について聖書の述べていることがみな、私たちの公正な判断と、自然な道理と、個人的経験のすべてに合致しているということである。心の目がひらかれるとき、聖書のこの聖さは、はっきり見えるようになる。神のみことばの定める義務の規準が、いかに良心の声と正確に一致しているかが悟られてくる。みことばが人間性について述べていることが、いかに私たちの実情と符合しているかが悟られてくる。聖書に示される数々の真理が、いかに魂をきよめ、慰め、支えてくれるかが感じとれるようになる。そうしたとき、私たちが聖書を信じざるをえなくなるのは理の当然である。このような書物が偽りであり、作り事であるなどと考えるのは矛盾である。人間の心は本質的に、明らかな証拠を感じとるとき、その証拠に同意せざるをえないようにできている。私たちは、道徳的に立派であることをさまざまな点で明らかに、かげひなたなく示している人がいるとき、その人を信頼せずにはいられない。その善良さを目にし、感じていながら、その人をペテン師だとか、偽善者だと信ずることはできない。それと同じように私たちは、聖書の卓越性を目にしながら、それを真赤な虚偽の固まりであるなどと信ずることはできない。聖書は神のことばであると主張している。神の名をもって語り、神の権威をとなえている。もしこうした主張が偽りであるならば、どうして聖書はこれほど聖いのであろうか。完全な卓越性の中に、どうして虚偽がまじりこんでいるなどということがありえようか。ある人の合法的な証言に対する信頼を揺るがす唯一の方法は、その人が悪人であると示す以外にない。もし相手を善良な人と認めるのなら、その人のことばに信を置かずにいることはできない。ことに、相手の云うことが自分の体験によってことごとく裏づけられ、自分の良心と理性が納得させられるときはそうである。それと同じように私たちも、聖書の卓越性を悟り、聖書が自分の経験と必要に合致していることを感じるとき、それでもなお聖書が真実でないと思うことは不可能なのである。

 あのサマリヤの女が自分の町の人々に、「イエスという方は私のしてきたこと全部を私に告げました」、と伝えたとき、彼らのうちの多くの者が信じた。しかし、やがて彼らは、自分自身でイエスの教えを聞いたとき、その女に云った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです」(ヨハ4:42)。キリスト者ならだれでも、この大胆な発言に驚いたりしないはずである。話を聞いただけでキリストを信じるなど非理性的だ、狂信的だ、などと考えたりしないはずである。この救い主の御顔や、物腰や、教えには、初対面の人々にも全幅の信頼を置かせるほどの云いしれない優しさ、善良さがあふれていたのであろう。その影響を素直に受けた者は、彼の言葉をみな信じないではいられなかったのである。この方こそはキリストであり、この方が来られたのは、失われた人を捜して救い、ご自分の羊のためにいのちを捨て、多くの人のための贖いの代価として、ご自分のいのちを与えるためだということを、いやでも信じざるをえなかったのである。救い主が善良であるということ、その教えが気高く、聖く、力あること、またそれが私たちの性質や、経験や、欠けと、ぴったり一致しているということ、こうしたものがあれば信仰の根拠として十分ふさわしいといえないだろうか。キリスト教には、それがすべてそろっているのである。聖書を読む人には、それがわかるはずである。ここに救い主は、おかしがたい尊厳と気高さをもって立っておられる。聞く耳のある者に、永遠のいのちの言葉を語りかけておられる。ご自分がどこから来たか、何をするため来たか、何のため生まれ、何のため死んだかを宣言しておられる。そして、ご自分を通して神に近づこうとする者には、罪の赦しと永遠のいのちを差し出しておられる。その主張と行ないは完全に一致している。その教理と、私たちが知りまた必要としていることとは、完全に一致している。この方を信じないということは、この方がインチキな詐欺師だと信ずることにひとしい。そしてそう信ずるということは、私たちが自分自身の直観を信じないということである。なぜなら私たちは、何が善であるかを知っており、善は人をだまさず、神は嘘をつけないということを知っているからである。

 直接、救い主の姿や声を見聞きするか、聖書を通して、救い主のご性格や教えにふれるかは、この種の証拠の力にとっては、たいした違いではない。なぜなら肝心な点は、救い主の善良さと、その教えの性質にあるからである。それは、今の時代に聖書を読む私たちにとっても、かつて救い主の口から直接教えを聞いた人々にとっても、全く同じである。だからもし私たちが主の教えを拒むなら、それは、主の羊に属していなかったために----つまり、主のうちにある恵みとまことの、逆らいがたい影響力に無感覚だったために----主を信じなかった、あのユダヤ人たちと同じことをすることになるのである。理性の声と義務の声を、むりやり押しつぶすことになるのである。「聖書がでっちあげられた作り話でないということが、どうしてわかるのか」、と問う人がいるだろうか。そういう人は、聖書を偽りであるとすることが、どういうことを含んでいるか、よく考えていただきたい。それは、聖書の著者たちが途方もない愚者であったとするか(これはニュートンが低脳であったと信じるのと同じく、とうてい信じられないことである)、彼らが卑劣な悪漢であったとする(これもまた、何が善であるか知っている者なら、決して信じられない)ことなのである。だから聖書は、世界のどこで読まれようと、(注意を傾け、真剣に受け取ろうとするなら)、動かしがたい証拠をともなっているといえる。その著者たちが、お人よしの間抜けでも、人をあざむく陰謀家でもなかったことは明らかだからである。

 そう云うと、疑問に思う人がいるかもしれない。もし聖書が神のことばであるというそれほど明白な証拠があるというのなら、なぜ信じる人がこれほど少ないのか、と。

 それには、こう答えることができよう。証拠から確信が生ずるためには、2つのことが必要である。第一に、その証拠に注意を払わなくてはならない。どんな証拠も、人から無視されるなら、あってなきがごときものである。キリスト教国に住む何百万人もの人々のうち、聖書に真剣な注意を払う人はほんのわずかしかいない。こうした人々が不満足な信仰しか持っていないとしても何の不思議があるだろうか。学びもしないことを知っている道理はないのである。

 また証拠を受け入れるために必要な第二の条件は、その証拠を理解することである。その真価を認識することである。もしこの証拠が知性に訴えるものなら、その内容や意味をつかむためには、相当の知的水準が必要であろう。しかしもしこれが道徳的感覚に訴えるものなら、その真価を認めるために必要とされるのは、道徳的感性である。盲人の目には、どれほど明るい光も何の意味も持たない。そして聖書の中に示されているのは、もっぱらこの道徳的な感覚に訴える証拠なのである。

 この種の証拠は3つのことからなっている。まず聖書の完全な聖さである。人は、腐敗していればいるほど、こうした種類の証拠に対して盲目になる。そうした人は、どれほど明々白々な証拠を目の前にしようと、まるで気づきもしない。もう1つのことは、聖書と人々の宗教的体験が一致しているということである。もちろん、そうした体験をしていなければ、この一致はわからない。3つめの部分は、神の力を通して手にはいる。それは、罪を抑え、感情をきよめ、心に平安と喜びをわきあがらせる神の力を味わい知ることである。この力を一度も感じたことのない者に、この種の証拠の真価がわかるはずがない。だから、世界でこれほど多くの人々が聖書を信じていないという事実は、決して聖書に十分な証拠がないということを意味してはいない。むしろ、聖書が人間の道徳的状態について教えていることと、ぴったり一致しているのである。

 このような信仰の根拠の考え方に対して別の反論があげられる。そうした考えは熱狂主義に通じ、真の宗教と偽りの宗教の区別をなくしてしまう。狂信者はみな、自分の信ずる(いわゆる)啓示ほど素晴らしいものはないと思うではないか、というのである。これには、こう問うだけで答えになると思う。字余りのざれ歌の著者たちが多数の賛美者を集めているからといって、文学上の精華といわれる詩歌を研究する学者が、自分の題材の卓越性を少しでも疑う理由になるだろうか。好色で、利己的で、残虐な性格のマホメットがトルコ人の目に好ましく見えるからといって、イエス・キリストの無比の気高さの前に尊敬と崇拝の思いをもってひれ伏す人々を狂信者だと証明することにはならない。異教世界が、天や自然の運行の中に、自分たちの神々の存在の証拠を見てとるからといって、神の作品であるこの世界の中に無限の力と知恵と慈愛を見てとる人々が狂信者だということにはならない。他の人々が過誤と悪徳を気高い真理だとしているからといって、本当の真理と気高さの力を感じてならないなどということはない。そんな考え方は途方もない思い違いである。他人が信じないからといって、真実な良いものを信じてならないなどということはない。人の性質はそのようにはできていない。たとえ全世界が否定しても、証拠さえあれば、その人にとっては十分なのである。

 では何を基準にすればよいのか。どのような基準をもってすれば、自分が良いと信じたものが本物だと確実にわかるのか。その原則は人間性のうちにあるといえる。私たちは、意地悪よりも親切の方が良いことだと知っている。うそをつくよりも正直であること、高慢よりも謙虚であることの方が良いと知っている。それと同じ原則によって私たちは、キリスト教の方がヒンズー教よりも良いと知るのである。私たちのほむべき救い主の方がアラビヤのペテン師よりも良いと知るのである。これほど確かな判断はない。これほど真にせまる説得力を持つもの、これほど強く、これほど理にかなった確信はない。だから、たぶらかされ正気を失った人々が愚劣で邪悪なものを素晴らしいと云っているからといって、決して聖書の卓越性を認めるのは間違いだということにはならないのである。



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