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Edwards and the New England Theology

エドワーズとニューイングランド神学*1


 聖徒にして形而上学者、信仰復興説教者にして神学者であるジョナサン・エドワーズは、植民地時代のアメリカの知的世界において、真の偉大さを有する人物として屹立している。文明社会の辺地で生まれ、育ち、その全生涯を送った彼が発した声は、人間がその思考の対象にできる2つの最も大きな主題――神と魂――に思いが馳せられる場所では、いずこにおいても響き渡っている。エドワーズが主として関与した事がらに毛ほども好意を寄せていない、一フランス人哲学者もこう書き記している*2

 18世紀の人物の中で、ジョナサン・エドワーズほど並びなき名声を得た者はほとんどいない。現代に至るまで批評家や歴史家たちは、この著者の旺盛な論理構築力を熱烈に賛美し、彼を(マッキントッシュや、デュガール・スチュアートや、ロバート・ホールや、フィヒテすらもがしたように)アメリカの生んだ最大の形而上学者であるとしている。かりにこの独創的な天才が、あのように哲学や科学の伝統からかけ離れた半未開国に生まれず、われわれの旧世界で生を受け、現代精神の刺激を直接受けとっていたとしたら、どれほどの高みに達したか、だれに知れよう? こう彼らは問うのである。ことによると彼は、不朽の思想体系の創始者のひとりとして、ライプニッツやカントの間に位置を占めていたかもしれない。だが、そうするかわりに彼は、自分が残した業績を、崇高にして粗野な神学――私たちの理性を驚倒させ、心を憤慨させ、私たちの嫌悪と賞賛を同時に引き出す神学――へと引き下げてしまったのである。

 しかしながらエドワーズの偉大さは、単にそのような憶測にとどまるものではない。彼は決して「沈黙せる、無名のミルトン」などではなく、だれよりも明晰に自分の思想を表現した人物であった。また、確かに彼は、犀利な形而上学者である一面を示してはいるが、私たちが彼に与えている最大の賛辞は、形而上学者としての彼に対するものではない。形而上学者としての彼を主として世に認めさせている、その存在論的な思索は、非常な若年の頃の彼の手になるものであり、ほとんどの人々がそうした問題を探求し出す年令になった頃に彼は、そうした思索を決然と過去のものとしていたのである。事実リヨンが示唆している通りに、彼がその少壮期から円熟期に至る長い年月と探求の思索とを捧げたのは神学、特に罪と救いに関する種々の問題であった。また、これらの問題に対する彼の取り組み方は、純理論的なものではなく、際立って実際的なものであった。したがって彼は、単なる思索家ではなく、行動家でもあり、自分が生きた時代において、いくつかの勢力を生み出し、それを動かし続けた。そしてその勢力は今に至るまでも、その力を失っていない。それゆえ、より正確に彼を描写しているのは、わが国の一哲学者の次のような言葉である。この人物もリヨンその人と同じくらい彼の主たる関心事に好意を寄せてはいないのだが、F・J・E・ウッドブリッジはこう云っている*3

 彼はまぎれもなく偉大な人物であった。彼が云い現わしたのは単に時代の思想ではなく、彼も単に自分が受け継いだ伝統精神によって時代に対応したのではなかった。彼はそれをくいとめて、形成したのである。ニューイングランドの思想はすでに、後々それを特徴づけることとなる、精彩を欠いた神学へと向かいつつあった。それを彼はせき止めたのである。それまでのニューイングランド思想は決定的にアルミニウス主義的であった。彼はそれをカルヴァン主義的にした。……彼の時代によって彼を説明することはできない。

 エドワーズには尋常ならざる哲学的な傾向があった。しかし彼には、それ以上に尋常ならざる、天来の事物に対する感覚と嗜好があった。そしてそれゆえ(ウッドブリッジが、少なくともある程度の正しさをもって結論づけているように)、「私たちが彼を覚えているのは、アメリカ最大の哲学者としてではなく、アメリカ最大のカルヴァン主義者としてである」。


I. エドワーズの準備期間

 1703年10月5日にエドワーズが生まれた頃のニューイングランドは、非常に頽廃的な状態にあった。清教徒の移民たちが新世界に携えてきた宗教的熱情は、その三代目や四代目の世代に伝わる頃には、ゆがんだ形にならないですますことはできなかった。すでに1678年の段階で、インクリース・マザーの嘆くところによれば、「若い世代の大部分は、情けない、滅びに向かいつつある、未回心で、(主がその御霊を注いでくださらない限りは)絶望的な世代」であった*4。この時代はキリスト教圏の全域にわたって、御霊のいのちを衰えさせようとする種々の一般的な影響力が働いており、それはニューイングランドでも感じとらずにはいられず、むしろ未開地で生活する状況の困難さが、そうした影響力に拍車をかけていた。思考においても生活においても、いかなる面でも下降曲線をたどっていた。単に霊的な面ばかりでなく、明確な道徳からしてどこか減退しつつあった。各地の教会では、自分たちの伝統であった高い理念を取り下げざるをえないと感じ、上品な暮らしはしていても心が変化した告白を全くしていない人々を教会員として迎え入れ、聖餐式にあずからせつつあった。もし彼らがバプテスマを受けていさえするなら、彼らの子どもたちをバプテスマにあずからせるよう促され(いわゆる「半途契約説」)、彼ら自身は聖餐式に参加するよう促された(それは、「回心の機会となる儀式」と考えられた)。しかしながら、エドワーズの生まれた家庭は、世間にはびこっていた悪習の多くから彼を守っただけでなく、彼の霊的かつ知的生活に力強い刺激を与えた。彼は6歳の時にラテン語の学習を始め、13歳の時には、当時の大学教育課程の一部をなしていた「学問の三言語」――ラテン語、ギリシャ語、ヘブル語――を、ほとんど不自由ない程度に習得していた。14歳になる前に彼は、「コネティカット大学」(後のイェール大学)に入学した(1716年9月)。大学2年目に彼は、ロックの『人間悟性論』(Essay concerning Human Understanding)と出会い、自ら記すところによれば、「世界一の守銭奴が、新たに発見した宝物から両手一杯の金銀をかき集めるよりも」大きな満足と喜びをもって、それを研究したという*5。1720年、17歳にもならない年齢で彼は、学年の首席で卒業したが、それから(当時の習慣に従い)もう2年間大学にとどまり(1722年の夏まで)、神学の研究に励んだ。1722年の夏に彼は、説教する「認可を受け」、1722年8月から1723年4月まで、ニューヨーク市の小さな長老派の群れの教会で説教の任に当たった*6。実家に帰った彼は、1724年6月にイェール大学の講師に任ぜられ、同大学の歴史の上でも最も困難な時期に二年間(1726年9月まで)、傑出した有能さでこの職を務めた。彼がその講師職を辞することになったのは、祖父であるソロモン・ストッダードの協力牧師かつ後継者として、マサチューセッツ州ノーサンプトンの教会に招聘されたからであった。こうして彼は、1727年2月15日、叙任を受けて就任した

 ノーサンプトンに就任したことによって、エドワーズの準備期間は幕を閉じた。彼の準備は、その広さにおいても深さにおいても、尋常ならざるものであった。生まれながらの書き手であったエドワーズは、物心つくかつかないかの頃からペンを手にしていた。そのごく幼少期から彼は、心に思い浮かぶ豊富な思想を最初から最後までたどっては逐一紙に書き記すのが常であった。彼の観察や内省による初期の書き物のいくつかはまだ現存しているが、その早熟ぶりはほとんど信じがたいほどである*7

 こうした若書きの中でこそ、エドワーズはその観念論的な形而上学を提示しているのであって、主としてそれらを根拠として彼は、わが国の哲学史上に地位を占めているのである。彼の思想体系は、すでに彼が16歳になる前に書いた『存在について』という小論の中に、実質上すべて含まれている。また、こうした青年時代の論述の中で開陳した種々の意見を一度でも彼が撤回したと信ずべき理由は何もないが――否、むしろ、その最晩年の著述においてすら、そうした意見が、時としてまだ彼の頭脳の背後に見え隠れしていると示唆しうるものすらあるが――、イェール時代(1727年まで)の後には彼は、決して正式にはそうした意見に立ち戻ることがなかった*8。したがって、彼がそうした主題に取り組んでいたのは、明確に彼の人格形成期だけに限られており、それ以後の彼は、積極的な伝道活動と、そうした活動から直接喚起されるような種々の思考活動へと没頭するようになっていったのである。その人格形成期において彼は、明らかにバークレーとは独自に*9、また明らかに外部からの示唆といえば、ニュートンの光と色彩についての説明、および感覚を種々の観念の源泉とするロックの論考から引き出したもの以外に何もないまま、自分ひとりの力で、観念論の完全な一体系を編み出したのである。その観念論は、単なる現象論と紙一重のところにとどまっており、もしも彼が生ける神を強く認知していなかったとしたら、彼を汎神論に至らせかねないものであった。彼は明言している。「何よりも厳密に云うと、世には神ご自身以外にいかなる真の意味における実体もない」。宇宙が存在する場所は、「神の精神(Divine mind)以外のどこにもない」。これがあてはまるのが、「物質的肉体だけのことか」、あるいは有限な霊たちにも同様にあてはまるかについて、当初彼は揺れ動いていたように思われる。究極的に彼はより広くを包みこむ意見に達した*10

 だがエドワーズは、そうした思索を巡らしている間も、自分の霊の必要をないがしろにしていたわけではない。こうした人格形成期の間中、彼は何よりもまず第一にキリスト教信仰の人であり続けた。彼は、少年時代のごく初期から、深い宗教的な印象を何度となく受けてきており、この準備期間の間、自分のキリスト教信仰の性質を一心不乱に錬磨することに励んだ。彼は自らこう告げている。「私は自分の救いを求めることを人生の主たる務めとした」*11。しかし、大学を卒業する頃になって(1720)、1つの変化が彼に訪れ、それが彼の内的苦悩の緊張を軽減することとなった。子どもの頃から彼の精神は、神の主権ということに対して反発してきた。「それは私にとって常に、身の毛もよだつような教理であった」。だが今や、このすべては知らぬ間に過ぎ去った。そして次第に、自分でもたどれないような過程によって、まさに同じこの教理が彼にとっては、単に当然そうあるべきことというだけでなく、喜びの種となっていったのである。「この教理は非常にしばしば、この上もなく喜ばしく、輝かしく、甘やかなものと思われた。絶対的な主権こそ、私がぜひとも神に帰したいと願うものである」。ある日彼はIテモ1:17を読んでいた。「どうか、世々の王、すなわち、滅びることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄えとが世々限りなくありますように。アーメン」。そして、読んでいるうちに、「御神のご栄光の感覚」が彼をとらえた。それは、彼が「かつて経験したいかなるものとも全く異なる、新しい感覚」であった。彼は、「天におられるこの方に魂を奪われ、いわば永遠にこの方のうちに呑み込まれてしまいたい」とさえ願った*12。その瞬間から、天来の事物に対する彼の理解は増し加わり、神を喜ぶ思いは大きくなっていった。そうした経験が、心の落胆によって幾度となく中断したことに疑いはない。しかし、全体として見たとき、彼は着実に向上を続け、彼の献身は日増しに完全なものとなっていった。心のうちに主を喜ぶ思いをいだく、この敬虔な青年こそ、1727年の早春に、前途洋々たる学究生活に背を向け、その哲学的思索を永久に放棄して、ノーサンプトンで牧師として働き始めた人物だったのである。

II. 牧師エドワーズ

 エドワーズは、1727年2月15日、祖父の協力牧師として叙任され、その二年後には、祖父の死を受けて、その教区の責任を単独で担うことになった。ノーサンプトンは、他と比して非常に重要な土地であった。それは郡の中心都市であり、その郡は州面積の半分を占めていた。それゆえノーサンプトンは、いわば一種の小首都であり、その住民は自分たちの文化と活気と独立独歩の気風とに高い誇りをいだいていた。町には1つしか教会がなく、それはおそらく、ボストン以外では、州内で最も大きく、最も強い影響力を有する教会であった。それは決して心の絆で結ばれた教会ではなく、しばしば派閥争いで分断されることがあった。しかし、ソロモン・ストッダードの力強い説教のもとで、それは何度となく信仰復興の訪れを経験してきた。こうした覚醒の時期は、エドワーズが牧師として在任した期間も、間欠的に繰り返され続けた。ノーサンプトン教会は、そうした信仰復興が生ずるということで名高く、その教会員は幾度もの信仰復興によって、ふくれあがり続けた。一時など、その教会員は六百二十人を数え、町の成人人口のほぼ全員をふくんでいた。ストッダードは、人を教会の種々の儀式にあずからせる資格はゆるやかにすべきであるとの見解の主唱者であり、世紀初頭には、全く回心の告白をしていない者らをも主の晩餐に参加させることをノーサンプトン教会の慣例とするに至っていた。この慣行について、エドワーズは当初、不本意ながらも従っていたが、それが誤りであることを確信するようになってからは、ずっとその是正を要求し続けた。これが、ついには彼自身に災厄をもたらすことになるのである。その間、この慣行によってノーサンプトンの教会員層は、いわば信仰者と未信者の入り混じった大群衆といった様相を呈し続けていた。それに拍車をかけたのが、教会員の多くが、度重なる信仰復興に伴う宗教的興奮によって教会に加入した者だったという状況であった。

 この有力な会衆を牧会し、指導することに、エドワーズはひたむきに没頭した。確かに彼が専念していた働きの中に、精力的な戸別訪問という項目は含まれていなかったが、これは彼が無頓着であったとか、怠慢であったということを意味してはいない。これは彼が自分の特別な賜物と得手不得手を入念に判断した結果であった。また、たとえ彼が、病気や特別な必要によって呼ばれたとき以外は教会員の家庭を訪問しなかったとしても、彼から教会員の方へは、何の遠慮もなく自分のもとを訪れるように勧めていたし、彼は会衆それぞれの必要に答えるためとあらば、いかなる手間暇も惜しまなかった。もちろん彼は研究の徒でもあり続け、通常は毎日13時間から14時間を自分の書斎で過ごしていた。この働きは、彼の牧会上の奉仕からかけ離れたものではなく、むしろ緊密にそうした奉仕に従ったものであった。彼は、イェールであれほど深く従事していた純粋に学問的な種々の思索に決然と背を向けただけでなく、ノーサンプトンの牧師として在任していた全二十三年間、純然たる神学的な著作はただの一冊も生み出すことがなかった。この時期における彼の著作は、説教集の類を除くと、実践神学に関わる数編の論文に限られていた。そうした論文のおもだった主題は、彼がその説教によって非常に用いられた数々の大きな宗教的覚醒から生じてきた種々の問題であった*13

 説教こそ、エドワーズの絶えざる努力の最も豊かな成果であった。彼はその公の訓育を行なうためには、いかなる労も惜しまなかった。彼は教会の正規の任務を忠実に果たすばかりか、骨惜しみせず特別講演や特別講義を行ない、「宗教的な関心」が高まった時期には、しばしば近隣の諸教会の支援に出かけた。最初から彼は、非凡な説教者として認められていた。深い教えに富むばかりでなく、人の心をとらえ、目覚めさせる説教者であるとみなされていた。罪は神のご威光に逆らい、神の愛を侮辱するものであると考え、その憎悪すべきおぞましさを自ら心底深く感じていた彼は、自分の聴衆をも覚醒させ、神のご不興の対象であるという状態の恐怖と、彼らを救うために介入してくださった神の信じがたいご慈愛とを悟らせようと力を尽くした。それゆえ彼は、キリストにおける神の愛と、神との交わりの幸いな祝福とを何よりも感動的に描き出す説教と並べて、それに劣らぬ真に迫った描写で、罪を赦されずにいる危険と滅びの状態の恐怖とを指し示し、最も驚くべき効果をあげた。こうした説教が、真摯きわまりない確信の力を込めてなされた結果は、圧倒的なものであった。1735年の年末に教会内で始まった大きな覚醒では、三百人以上もの回心者が起こされ*14、コネティカット渓谷の諸教会全体に広まった。1740年には、ホイットフィールドの訪米に伴い、再び宗教的白熱状態が巻き起こったが、今度はニューイングランド全土に広まるまで、勢いを失うきざしを見せなかった。この時期、エドワーズほど善に入り混じった悪を見分けることに長けていた者はいなかった。彼は倦むことなく行き過ぎを抑え、熱心に殻と麦を分離しようと務めた。しかし、エドワーズほど、殻と麦をもろともに捨てることに強く抗議した者もいなかった。彼は、自分の関わった信仰復興現象のすべてを、綿密きわまりない分析的研究にかけた。そして、悲しいことに自己欺瞞でしかない多くの場合がありえること、にせの「熱狂主義」があまりにも容易に野放しにされがちなことは認めつつも、彼が熱心に主張したのは、純粋な恵みのみわざによっても、精神的な――時には肉体的な――興奮が表出することはありえる、ということであった。こうした信仰復興から思いがけず生まれた成果の1つこそ、先に述べたように、宗教的な種々の興奮現象について彼が世に問うた一連の論考である。この問題に関して、これほど徹底的な吟味がなされたことは、おそらくいまだかつてないであろう。そして疑いもなくその最大の成果は、かの名著『宗教感情論』であって、そこには、「霊的診断学」という印象的な名で呼ばれてきたものが、最も完全な一体系となってまとめられている

 二十三年にわたってエドワーズは、ノーサンプトンにおけるその実り豊かな牧会活動に従事した。彼の指導の下で教会は、万人の目が向けられる、山の上にある町となった。しかし、1740-1742年の信仰復興への反動の中で生じてきた状況は、彼が非常に心深く探らされるものであり、究極的には彼とその会衆との分離を招くものであった。この信仰復興では、事実上、町の全成人人口が教会の中に繰り入れられた。彼らは時代の興奮のもとで、またストッダードが1704年という昔に導入した決定によって、教会への加入を認められた。その決定とは、主の晩餐をふくむ教会のあらゆる儀式を、「回心の機会をもたらす儀式」とみなし、心の変化を前提とするものから、心の変化をもたらすものへと改変することであった。だが時の経過とともに、まざまざと明らかになってきたのは、既存の教会員の相当部分が、キリスト者として欠かせない資質である心の変化を経験していないということであった。そして実際、彼らはそんな心の変化をこうむったとは全く公言していなかった。この問題について自ら真剣な研究を積んだ結果、エドワーズは、聖餐式への参加を許されてしかるべきなのは、真の「回心」を告白している者たちだけであるとの確信を固めた。牧師として、また自分の会衆の導き手としての彼の義務は、聖餐式を濫用から守ることであり、彼は、はっきり認識した義務を果たさずにすませることのできない人物であった。彼の見るところ、2つの明らかな措置をとるべきであった。――ふさわしくない教会員を戒規によって除名すること、また教会への入会を申し出た者を受け入れる際には、今まで以上に厳密な注意を払うことである。疑いもなく戒規は、教会が当然実行できる権利として主張していた務めの1つであった。しかし、教会員として求められる資格が人々の思いの中で下落していた結果、実際に戒規が実行されることは絶えて久しかった。逆に、主の晩餐への陪餐許可は、正式な形で、だだっ広く開かれていた。そしてこのゆるやかな方針は、半世紀もの間、存続してきており、伝統となっていたのである。エドワーズが行なわざるをえないと感じたことは、理論と実践において、元来の会衆派教会の綱領に立ち返ることであると目されるであろう。その綱領で教会とは、言葉の厳密な意味において、「召しによる聖徒たちの集まり」であると考えられており、その中にはきよい物以外の何物も入れることが許されるべきではなかった*15。このことは、本来彼の力となってよかったはずであり、究極的には彼がニューイングランド中の教会で幕を切って落とした運動に勝利を与えたものではあった*16が、彼自身の個人的な場合においては、彼の弱点となった。それによって彼が唱道した改革は、彼自身の意図を越えて、はるかに急進的な様相を呈することとなったからである。1744年に生起した戒規上の一問題に関する論争や、その後の、主の晩餐の陪餐資格に関する種々の困難(1748-1749)の詳細に立ち入る必要はないであろう。結果的にエドワーズは、二年間にわたる激しい論戦の後で、1750年6月22日に、その牧師職から解任された。

III. 神学者エドワーズ

 47歳の年に、ノーサンプトンの教会から解任されたことによって、エドワーズの人生の第二期――精力的な牧会的労苦の時期――は、唐突な幕切れを迎えた。数箇月後に彼は、ストックブリッジという小さな開拓地の村(そこに住んでいた白人は12家族しかいなかった)に移り住み、「ニューイングランドおよび近隣諸地域における福音伝播のための在ロンドン協会」の宣教師として、そこに集まっていたフーサトニック族インディアンへの宣教および白人入植者の集う小さな教会の牧師職の任に就くことになった。この異郷の生活において彼が望んだのは、当時はびこっていた「アルミニウス主義」に対してカルヴァン主義体系を擁護する書物を執筆する余暇を見いだすことであった。彼は、そうした数々の著作の構想を長年暖めており、すでに膨大な準備をしていたのである。だが、平穏無事な日々はやって来なかった。のっけから彼は、インディアンに恩恵を施すために企図された基金の管財人たちの腐敗や貪欲に異を唱えるという、厄介きわまりない戦いに巻き込まれたからである。しかし彼は、やすやすとは得られなかった必要な余暇を、自分で作り出した。このストックブリッジにおいてこそ彼は、神学者としての彼の名声を確固ならしめた数々の論文を執筆したのである。すなわち、大著『意志論』(1753年執筆、1754年出版)、『原罪論』(1758年に彼が死んだ時点で印刷中)、そして印象的な小論である『神が世界を創造した目的』および『真の美徳の性質』(彼の死後1765年出版)、そして未完の『贖いの歴史』(1772年出版)である。疑いもなく彼は、前々から集めておいた資料をこうした著作に利用したに違いない。彼は事実上、指からペンを離すことのない生涯を送り、膨大な量の手記――彼の「最良の思想」と、楽しげに呼ばれてきたもの――を蓄積してきたからである。実際、『意志論』そのものが、長い間執筆を続けられてきたものであった。すでに1947年の初頭には、彼がそのために熱心な研究をしていたことがわかっている*17。また、この著述が長い間隔を置いて、何度となく中断されたことは確かだが*18、彼が告げているところ、ノーサンプトンを離れる前に彼はすでに、「相当程度の準備を積んでおり、この企図の追求に深く従事していた」*19。それゆえ、この本が1753年に、ほんの数箇月を費やしただけで、あっという間に完成したことは、はた目に見えるほど驚くべき早業というわけではない。それにもかかわらず、ストックブリッジにおけるこの7年間こそ、神学書の著述家としてのエドワーズにとっては、豊穣な年月と呼ばれるに値する時期である。その年月が遮られたのは、1757年の秋のことであった。プリンストンにあるニュージャージー大学の学長に、彼の女婿アーロン・バーの後任として就任してほしいとの招聘状が届いたのである。彼はきわめて不承不承この要請を受け入れた。これは彼にとっては、自分の畢生の著作となると考えていた仕事――すなわち、アルミニウス主義論争のあらゆる部分の集大成たる数巻本の執筆――を妨害する恐れがあると思われたからである*20。しかし、プリンストンの大学は、彼がその生涯を捧げてきた、熱い心の信仰復興的敬虔さに共感する人々によって創設され、運営されてきた施設であり、いかんとも拒否しがたい力をもって彼を招き寄せていた。それゆえ彼は、数名の友人たちが協議して出した助言に沿って*21、その招きを受け入れ、その新しい義務に携わるために、1758年の1月、プリンストンに転居した。そこで彼は、2月13日に天然痘の予防接種を受けたが、まさにその天然痘のため3月22日に死去し、その55年の生涯を閉じたのであった。

 エドワーズの神学的著作を独特のものとしている最大の特色は、そこでは、際立って豊かな信仰的情操が、限りなく高い知力と一体化しているという事実にある。何よりもまず彼は、信仰の人であった。そしてこれこそ、彼の全生涯と、その全所産を染め抜く性格であった。しかし、彼の熱い信仰的感情は、最高級の精神力と論理的明敏さを自由自在に操ることができた。彼は深甚に情緒的な人物であると同時に、エズラ・スタイルズの呼び方にならえば、「強靱な論証家」であった。おそらく彼ほど緻密な分析的考察に秀でていた者は、いまだかつてひとりもいないであろう。しかし、彼がそれに加えて併せ持っていたのは、キリスト教信仰の全真理を一望のもとにおさめる広大な理解であった。それによって彼は、キリスト教信仰を1つの総体として見ることができ、個々の部分をいささかも誇張することなく、おのおのについて、それが全体系に対していかなる位置関係にあるかを見失うことなく考察できた。彼が真摯に信奉し、全力をあげて擁護した体系――また彼が全力をこめて抵抗した当時の様々な趨勢がむしばみつつあった体系――は、カルヴァン主義にほかならなかった。この体系から、決して彼は、意識的に離れようとはしなかった。彼の信仰は、いかなる本質的要素においても、この体系の代表的主唱者らが解説した通りのものであった。その古典的な解説者らの著作を通して彼が、いかにこの体系に通暁していたか、いかに精通していたか、またいかに自分の思想にこの体系を完全に取り込んでいたかは、しばしば過小評価されている。確かに彼が学識の人よりは思索の人であったということは正鵠を射ている。18世紀半ばの西部マサチューセッツには、その住人が利用できるような大図書館は1つもなかった。また、自分の思惟に思い浮かんだ主題を、自分で推論して解決しようとする彼の生来の性向に拍車をかけたのが、その研究上の習慣である。彼は、自分が着目したあらゆる重要な論題を紙の上で、その究極の論理的結果に至るまで、展開させていくのが常だった。彼は「理性の時代」に生きており、この点ではまさに時代の子であった*22。さらに、彼が手がけたような課題においては、権威に訴えても全く無駄だったに違いない。理性の法廷こそ、彼がカルヴァン主義的体系の敵たちを引っ立てていくことのできる唯一の法廷であった。こういうわけでエドワーズは、『宗教感情論』という、どちらかといえば教訓的な著作――論争的な著作ではないという意味で――の中でしか、前時代の著述家たちの文章を縦横に引用して、自分の立場を補強しようとはしていないのである。しかし読者は、ここで錯覚に陥らないよう用心しなくてはならない。エドワーズは決して、自分が前代の著述家たちの支持を受けていることに無自覚であったわけではない*23。たとえば彼は、自分が擁護している思想体系の大家たちについて、幅広く詳細な知識を有していた。エイムズとヴォレプが大学における彼の教科書であった。精選された書物が並ぶイェール大学の図書室を、彼が徹底的に渉猟したことはまず間違いない。彼は、その神学課程の最後の頃には、「教理的な書物か、論争に関する書物」を読むことを、あたかも日課であるかのように語っている*24。当然予期されるであろうように、彼は、偉大な清教徒神学者たちの書物を貪り読み、それを自分の思想形成の糧とするばかりか、自分の生活を律する基準としていた。たとえば彼は、青年時代に、マントンの『詩篇119篇講解』を霊的手引きとして愛読していたことがわかっている。また彼は、その著作中に見られる数少ない典拠への言及において、ウィリアム・パーキンズ、ジョン・プレストン、トマス・ブレーク、アンソニー・バージェス、スティーヴン・チャーノク、ジョン・フラヴェル、テオフィルス・ゲイル、トマス・グッドウィン、ジョン・オーウェン、サミュエル・ラザフォード、トマス・シェパード、リチャード・シブス、プラトン主義者のジョン・スミス、アリウス主義者のサミュエル・クラークといった多くの著述家に親しんでいたことを垣間見せている。彼は、自分と同時代の人々の著作にも通じており、その真価を評価していた。アイザク・ウォッツやフィリプ・ドッドリジはむろんのこと、トマス・ボストンについては、その『恵みの契約観』の考え方は理解できないと告白しながらも、その『人間の四重の状態』を「この上もなく好ましく思った」*25。彼は、カルヴァンの言葉に盲従しようとはしなかったが*26自分の蔵書のカルヴァンを隅から隅まで読み尽くしていたことは間違いない。同じように、蔵書のトゥレティーニも徹底的に読み込んでおり、「かの偉大なるトゥレティーニ」と呼んでいる*27。それと同時に、ファン・マスリヒトのことを彼は、トゥレティーニよりも「数段まさる」、と断言している。「あるいは」、と彼は幾分熱を込めて、「私の意見では、聖書を除く世界の他のいかなる書物よりもまさっている」、と云い足している*28。それゆえ、彼の教えが、カルヴァン主義に立つ最良の卓越した神学者たちの教えと緊密に一致していたのは、意識的かつ自覚的なことなのである。彼が彼らに言及しなかったからといって、彼らについて無知であったり侮っていたことにはならない。それは彼の習慣的な手法と、彼が手がけていた特殊な課題によって、偶々そうなったにすぎない。要するに、彼が教えているのは、徹底して「標準的な」カルヴァン主義なのである

 むろん自主独立の思索家として彼に特異性がなかったわけではない。彼の着想には、その表現方法に劣らず個性的なものがあった。人類のその首長との同一性に関する彼の説明は、個人の同一性が、その連続する一瞬一瞬を結束させる「神の自由裁量による制定」によって成り立つとする教えに基づいていたが、これは彼独特の思想であった*29。原罪の教理への反論に答えるにあたって彼は、ある点ではスタファーに訴え、彼に従って、いわゆる「間接転嫁」という形態の教理で用いられている言語で語っている*30。しかし、これは、ただ、全人類は、一個人のいのちが連続する瞬間ごとに同一であるのと同じように、真に同一であり、また、個人の生を常に同一のものとしている神の制定と同じ種類の神の制定によって同一であるという彼自身の見解を説明するためにほかならない。その直接的文脈においてさえ、彼は「間接転嫁」の教理を教えておらず、むしろアダムと彼の子孫は、最も厳密な意味で同一であるので、彼においてと同様に彼らにおいても、「最初にあった腐敗した性向から生じる罪責」は、「アダムの最初の罪の罪責」と全く区別することができないと主張しているのである。そして、その論文の中の他の箇所では、一般的なカルヴァン主義的教理の見地から語っている*。しかしながら、彼の特異性を最も際立たせているのは、神学の領域ではなく、哲学の領域である。小論『真の美徳の性質』において彼は、あらゆる美徳は究極的には自己愛に帰着されるという見解に反対するにあたり、美徳の主たる特質は存在一般に対する愛であるという、一風変わった理論を展開している。しかし、確かにこれは次世代のニューイングランド神学をはらませるもととなりはしたが、この件についても私たちは、彼の著作の他のいかなる箇所にも見ることがない。いずれにせよ、このような特異性は、決して彼の教えを特徴づけているものではない。彼は自分の独創性をひけらかそうなどとは全くしていない。確かに彼は、自分は自主独立の思索家であると主張したし、たとえば、「カルヴァンに対してすら」、単に「自分の奉じている種々の教理は、カルヴァンが信じており教えていたからと云う理由で信ずる」、というような意味では、「いかなる依存をも否認していた」*31。しかしながら、この否認そのものが、彼とカルヴァンとの一致を明白に示すものである。確かに彼は、「一切合切をカルヴァンが教えたように信じていた」というわけではないが。彼が求めてやまなかったのは、自分がカルヴァンの盲目的な追従者ではなく、自覚的な確信を持ったカルヴァン主義の擁護者として考えられたいということだけであった。それに従って、彼の唯一の関心は、カルヴァン主義の偉大な解説者たちが説き明かした体系を改良することではなく、一般に理解されているカルヴァン主義体系の主要な要素に難癖がつけられないようにすることであった。それゆえ、彼の驚異的な創意が用いられたのは、ただそうした種々の要素を弁護するために、考えうる限り最も十分にして最も説得力のある論陣を発見し、展開することにおいてのみであった。こうした事情は、かの偉大な『意志論』においてすら変わらない。この書物は、一般に彼の論文中、最大のものと目されているものであり、その一般の判断はここでは正しい*32。しかし、この論文の教理はまさしくカルヴァン主義学派のものである。すでに相当以前に語られた名言にある通り、「この論文の新奇さは、それが唱えて、擁護している立場にではなく、その立場を主張するためにあげられている証拠の膨大さと、議論の豊富さと執拗さにある」のである*33。このようにエドワーズの独創性の主たる特質は、彼の思想の内容というよりは、その思考形式にほかならない。彼は、自分に伝えられた偉大な伝統に没入し、「それに自分の個性を注入して、それを生きたものとし」、また、「彼の思想の生命力が、その所産に独特の創造物という価値を与えている」のである*34。エドワーズの労苦の効果は、まさしく彼が目指した目的にかなっており、彼の偉大さに釣り合うものであった。国中を覆いつくそうとしていた反カルヴァン主義の運動はくい止められ、ニューイングランドの思想上の決定的要因としてのカルヴァン主義を抹殺することは、彼が執筆していた時点では目前に迫っていたにもかかわらず、それから百年以上も先延ばしにされたのである*35

IV. ニューイングランド神学

 エドワーズの不幸は、彼の名が1つの党派の名前とされてしまったことであった。しかもその党派は、種々の教理的概念において、決して彼と完全に一致したことはなく、あげくの果てには、(ある気のきいた云い回しによると*36)「それを粉砕することで彼がその主たる名声を得たような一連の意見」の熱心な主唱者となり果ててしまったものである。この党派とエドワーズとの関連は非常に直接的なものであった。G・P・フィッシャーは、この系譜をたどりつつ、こう云っている*37。「ベラミ……およびホプキンズは、エドワーズの弟子であった。ホプキンズからウェストは自分の神学を引き出した。スモーリはベラミと同窓であり、エモンズはスモーリと同窓であった」。しかし、この党派がエドワーズから継承したものは、教理的な面よりは実際的な面において、はるかに色濃く現われていた。この党派に属する人々は、エドワーズの信仰復興主義的な情熱と、その魂を覚醒させるような説教を受け継いでいた。また彼らは、規律と、主の晩餐にあずかる資格の厳格化によって教会をきよめようとするエドワーズの試み―― 一言で云えば、教会を聖徒の集会とする清教徒的な理想の回復――をも見習った*38。追従者にしばしば見られるように、こうした両方の点を極端にまで押し進めることによって、この「エドワーズ派」あるいは「《新神学》派」の人々は、しだいに勢力を増し加えていった。その間、彼らの教理的な教えは絶え間ない変化をこうむっていた。フィッシャーが云い表わしているように(p.7)、「確立された信仰を擁護する過程において、彼らはそれを新しい形に作り直し、その様相を変化させてしまったのである」。ただし彼らは、単に自分たちが受け継いだ信仰の形や様相を変質させ続けただけでなく、その実質をも変質させてやまなかった。これに従って、フィッシャーがさらに説明しているように、この方面で彼らに共通する性格を形作っていたのは、共通の教理というよりは、共通の手法であった。「事実は、彼らの種々の見解が個々人の内省の成果であり、哲学的な根拠に立って主張されていた」、ということである。この点においても、やはり彼らはエドワーズの追従者であった。しかし、エドワーズのように堅固な思想史的訓練も持たずに、その合理的な手法を誇張した彼らは、過去との連続性を失い、「ニューイングランド神学」なるものの創始者となったのである。それは、率直に云って、地方的なものとしか云えない神学である*39

 それは、カルヴァン主義者のジョナサン・エドワーズからはほど遠い思想であった。エドワーズは、その無類の推論力のありったけをこめて、意志は決定されているという教理を擁護し、美徳については、それと一般的な仁愛とを同一視する理論を推賞したが、ペラギウス化主義者のナサニエル・W・テイラーは自分の思想体系の基本原理をそれとは相反する力の教理に置き、あらゆる美徳を究極的には自己愛によって成り立つとしたのである。テイラーの教えは、事実上、多くの点でエドワーズの教えと全く正反対のものであり、後者がその畢生の務めとして抵抗した種々の趨勢を、きわめて巧みに寄せ集めて再現したものであった。それでもテイラーは自分を「エドワーズ派」であるとみなしていた。だが彼こそ、この長年にわたる発展の成果が、その最初の適切な呼称――「ニューヘイヴン神学」――を与えられた当の人物だったのである。この連綿として続いた神学の諸段階がひとくくりにされたのは、疑いもなく、それらを教えた人々が一般的には、ニューヘイヴンで神学的訓練を受けていたという外的な事情によるものにほかならない

 ニューイングランドの神学思想界において、この《新神学》が成長し、「ニューイングランド神学」と呼ばれるに値するほど興隆するまでの道のりは、多少急速な進展はあったものの、漸進的なものであった。サミュエル・ホプキンズの告げるところ、最初――1756年――には、ほんの四、五人しか、「後に『エドワーズ派』や『新神学派』と呼ばれるようになる見解、そして、その後ある程度の発展を経た後で、『ホプキンズ派』や『ホプキンズ主義』と呼ばれるようになった意見を信奉していた人々はいなかった」*40。1777年になっても、小エドワーズは彼らのことを少数派と呼んでいる*411787年に、エズラ・スタイルズは、彼らの影響力の増大にいらだって、また彼ら自身の間における見解の相違が広がりつつあることに着目して、彼らの最後が近づきつつあるのを目にしているものと思った*42。この点で彼は間違っていた。《新神学》は、イェール大学の学長としてスタイルズの後を襲ったティモシ・ドワイトという人物において、またその後の長い年月を通して、代々の学生たちのうちに注入されていった*43。しかしながら、スタイルズが述べている「混乱」は、現実のものであった。あるいは、それはむしろ、いわゆるエドワーズ派が、元々は彼らと対立していたような思想傾向に譲歩していく過程と云った方がよいかもしれない*44。小エドワーズは、「エドワーズ学長および彼の思想方向に従う人々の作り上げた神学に対する改善」と彼が思う点について丹念な説明を(10項目)書き上げた*45。そのうち最も基本的な3つの点を彼は、エドワーズが提示したものとはしていない。それらは単に、彼がエドワーズの「追従者」と呼ぶ人々のものとされている。その3つとは、まず贖罪における満足の教理を、政治説(グローティウス的な)という教理によって置き換えたこと――この教理の確立については、ベラミおよびウェストという部分的に先駆的な働きに加えて、小エドワーズ自身に主たる責任があった。また、罪の転嫁の教理を放棄し、人間は自分自身の個人的な罪だけのために断罪されるとしたこと――この見解は、ナサニエル・エモンズが、あらゆる道徳的資質を自由意志による行為だけに限定するという極端な形で主張し、後にはナサニエル・W・テイラーの神学体系の主要要素となったものである。そして、エドワーズが「天性的な」無能力と「道徳的な」無能力との間につけた区別を歪曲し、サミュエル・ホプキンズによって導入された流儀に従って*46、新生していない人々の「天性的な」能力の上に基づき、「御霊を抜きにした、種々の潜在力と義務との理論を打ち建てたこと――この理論こそ、後にナサニエル・W・テイラーの手により、新型のペラギウス主義的な体系の中核となったのである。

 ニューイングランドにおける《新神学》の外的な勝利を万人の目に明らかにしたのは、疑いもなく、イェール大学学長へのティモシ・ドワイトの選出(1795)であったに違いない。そして確かに、《新神学》を穏健な立場の人々に対して推奨するのに、これほどうってつけの人物はいなかったであろう。おそらく、神学体系の書物としてドワイトの『説教集』ほど広く好評を博したものは類例がなかった*47。しかしドワイトの後にはテイラーがやって来た。そして後者の教えにおいて《新神学》の下落運動は、とうとう、ペラギウス主義的な種々の教理に基づく体系へと落ちついたのである。その主張によれば、人類は生まれながらの状態では罪がなく、罪人には自分の魂を刷新できる十全の能力があり、自己愛または幸福への願望こそ、あらゆる自発的行動の源泉であるとされた。こうした極論は、何らかの反発を引き起こさずにはいられなかった。そして、いわゆる「ニューイングランド神学」の歴史は、エドワーズ・A・パークの唱えた穏健な反発によって幕を閉じる。パークは、ホプキンズやエモンズ、ウッズらに発する神学的系譜につながる人物だったが、彼に先立つ過去の一世紀におけるニューイングランド神学の成果(と彼に思われるもの)を、テイラーそのひとの極端な立場も含め、ことごとく自分の神学体系に組み込もうとした。ことによると、多少は、より決定論的な意志の教理にさえ立ち返るほどテイラーから遠ざかることによって、彼はその選びや新生の教理においてテイラーを越えることができた。また彼が代表していた思想の一般的な形に、もう一世代分の余命を与えることができた。しかし、1900年のパークの死とともに、「ニューイングランド神学」の歴史は終幕を迎えたと思われる*48

エドワーズとニューイングランド神学[了]

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*1 Reprinted from the "Encyclopaedia of Religion and Ethics," edited by James Hastings, M.A., D.D., v.1912, pp.221-227. Used by permission of the publishers, Charles Scribner's Sons.[本文に戻る]

*2 Georges Lyon, "L'Idealisme en Angleterre au XVIII siecle," Paris, 1888, pp.406f.[本文に戻る]

*3 The Philosophical Review, xiii. 1904, p.405.[本文に戻る]

*4 H. M. Dexter, "Congregationalism ... in its Literature," New York, 1880. p.476, note 36.[本文に戻る]

*5 ドワイトが自分の編集したエドワーズ『全集』の冒頭に冠した「伝記」より。第1巻、1829、p.30。[本文に戻る]

*6 E. H. Gellett, "History of the Presbyterian Church," revised edition, Philadelphia, pp.28f.[本文に戻る]

*7 実際それを理由として、たとえばリヨンは、そうした草稿の真正性を否定している。パスカルという例を証拠として提示しても無駄だ、と彼は云いきっている。そんな比較では到底おさまりがつかない。少年エドワーズは一身の中に何人分ものパスカルを結び合わせているどころか、それに倍する奇跡として、ガリレオやニュートン級の人物をはるかに凌駕する才能を併せ持っていたのである。私たちが信ずるように求められているのは、十代の少年であった彼が、バークレイのそれに酷似した形而上哲学の一体系を独自に編み出したばかりか、以後一世紀の間になされた最高の科学的発見のほとんどを予測していたということなのである。
 だがリヨン自身、自分の論にやや誇張の気味があると認めていることは、覚えておいてよい点である。というのもリヨンが、そしてその後はA. V. G. Allenが要求した、エドワーズの自筆草稿の再調査によって、それらの論考が若年のエドワーズによるものであることは完全に立証されたからである(特に、"Proceedings of the American Antiquarian Society," New Series, x. 1896, pp.212ff.; 23d October, 1895に収録されているEgbert C. Smyth, "Some Early Writings of Jonathan Edwards, 1714-1726"を参照されたい。また、The American Journal of Theology, i. 1897, p.951および H. N. Cardiner, "Jonathan Edwards: a Retrospect," 1901も参照)。たとえば、エドワーズが10歳であった1714年から1715年の間に書いた、冗談めいた手紙がある。魂の非物質性について記されたこの手紙には、疑いもなく幼稚な部分が多々あるが、それに負けず劣らず前途有望な部分も多々ある。それだけでなく、蜘蛛がその巣をかけるしかたに関する、非常に鋭い観察記録が数編残されているが、それらは現代の研究結果の種々の結果を先取りしたものである(これらの観察記録については、Egbert C. Smyth, The Andover Review, xiii. 1890, pp.1-19およびHenry C. McCook, The Pressbyterian and Reformed Review, i. 1890, pp.393-402を参照されたい)。これらは、少なくとも彼が13歳になる前に書かれたものである。何にもまして、「存在について」、「原子について」、「想像力の先入観について」といった形而上学的論考がある。これらは、少なくとも彼の大学3年の年、つまり16歳の年までには書かれていた。こうした論考の中で、彼の観念論的な哲学の根本的原理は十分詳細にわたって述べられている。そして、これらの見解を突きつめていった、その他の多数の論考に加えて、種々の鋭敏な示唆に満ちた、自然科学に関する一連の膨大な手記が残されている。これらはイェール在学中のものでしかありえない。これはみな、疑いもなく、非常に尋常ならざることである。しかしこれは、エドワーズが尋常ならざる若者であったことを示しているにすぎない。[本文に戻る]

*8 President T. D. Woolsey, "Edwards Memonrial," Boston, 1870, pp.32-33、上記引用のE. C. Smyth, "Proceedings of the American Antiquarian Society, " p.232、H. N. Gardiner, p.117を参照のこと。[本文に戻る]

*9 E. C. SmythおよびH. N. Gardinerの意見。上記引用文参照。現在では、彼がバークレーを1730年以前には読んでいなかったことが知られている(F. B. Dexter, "The Manuscripts of Jonathan Edwards," Cambridge, 1901, p.16)。[本文に戻る]

*10 彼は新しい思想の起源についてこう書くことができた。「もし私たちの意味するところが、その思想の側に何らかの実体があって、その思想を生み出しているというのだという場合、もしそれが神であるとするなら、私もこれを認める。しかし、もしそこで意味されているのが、それ以外の、何の特性も持たない何かだとしたら、私にはばかげたことに思える」(American Journal of Theology, i. 1897, p.957)。「ありとあらゆる従属的な存在」について、彼は、最終的には以下のように確言することとなった。それは、「絶えざる変転のうちにあり」、「一瞬ごとに新たにされている。さながら物体が、それを照らす光によって一瞬ごとにその色彩を新たにしているのと同じである。そして、光が太陽から絶えず注がれているのと同じように、すべては絶えず神から発しているのである」("Original Sin": "Works," 4 vol. edition, New York, ii. 1856, p.490)。しかしながら、このことによって決して彼は、宇宙を「影」に純化しようとしていたのではない。彼は単に、宇宙には神以外にいかなる基礎もないことを宣言しようとしていたにすぎない。宇宙の実在性と持続性の根拠となっているのは、決して何か神秘的な「固体性(substance)」が根元的な特性として造られているためではなく、「無限に精密かつ正確な《神の意図(Divine Idea)》が、それに応じた完全に精密で、正確で、永続性のある《意志(Will)》とともに、《造られた精神(Created Minds)》に対して相応の伝達と、種々の効果をそれらの精神(their minds)に及ぼしている」がためであると云うのである(ドワイト、第1巻、p.674)。云い換えれば彼は、純粋に存在論的な研究論文を執筆していたのであり、彼の論点は単に、神はあらゆる有限な存在のcontinuum(連続体)である、ということにすぎない。彼は決して、そうした有限な存在たちの実在性、あるいは持続性をいささかも否定してはいない。それらは彼にとって実在の「被造物」であった。それらは、神の固定的な目的と、確立された制定との具象であるからである(エドワーズの初期の観念論については、特にEgbert C. Smyth, American Journal of Theology, i. 1897, pp.959f.; G. P. Fisher, "Discussions in History and Theology," New York, 1880, pp. 229f.; H. N. Gardiner, 前掲書、pp.115-160; Philosophical Review xi. 1902収録のJ. H. MacCracken, "The Sources of Jonathan Edwards's Idealism," pp.26ff.; G. Lyon, 上記引用文中; I. W. Riley, "American Philosophy: the Early Schools," New York, 1907を参照されたい)。[本文に戻る]

*11 ドワイト、第一巻、p.59。[本文に戻る]

*12 前掲書、p.60[本文に戻る]

*13 たとえばそれは、1736年に出版された『驚くべき数々の回心の物語』であり、1742年に出版された『1740年のニューイングランドにおける信仰復興に関する考察』であり、1746年に出版された『宗教感情論』という、宗教的な動機から興奮状態に至った魂の動きを徹底的に究明した論考である。さらに、それらと同種の著作である、1749年に出版された『信仰復興を求める異例の祈りという明示的な合意および可見的な一致を神の民の間に押し進めるべきささやかな試み』、および同年に出版された、短い『デイヴィド・ブレイナード師の生涯の記録』がある。この他の著作として残っているのは、1749年に出版された『神の可見教会における完全な陪餐資格として求められる資質について神のみことばが定める種々の規則に関するささやかな照会』である。これと合わせて言及されるべきは、この立場をソロモン・ウィリアムズに向かって擁護した、『虚説の訂正および真実の擁護』である。こちらの方は、もう少し後になるまで出版されなかったが(1752)。疑いもなくこの二十有余年の間には、これよりはるかに多くの文章が書かれていた。エドワーズは常にその大量の草稿の宝庫に加筆していたからである。そして、これらの膨大な「所見」の一部は、それ以後の時期に印刷に付されたが、それらの大部分は、彼がそれらを書き綴った帳面類の中に眠ったままなのである。[本文に戻る]

*14 エドワーズの牧師在任期間中、ノーサンプトン教会の会員は五百五十人以上も増加した(Solomon Clark, "Historical Catalogue of the Northampton First Church," 1891, pp.40-67参照)。[本文に戻る]

*15 会衆派諸教会の基本法(『ケンブリッジ綱領』)によると、「召しによる聖徒」とは、「単にキリスト教信仰の諸原理に関する知識を得ているだけでなく、自分の信仰と悔い改めを告白し、それに加えて、実際に、非難されるところなくみことばに従って歩む者たち」なのである。[本文に戻る]

*16 H. N. Gardiner, "Selected Sermons of Jonathan Edwards," New York, 1904, p.xii 参照。[本文に戻る]

*17 1747年1月15日付けのジョウゼフ・ベラミ宛の手紙。F. B. Dexterの印刷による『The Manuscripts of Jonathan Edwards』("Proceedings of the Massachusetts Historical Society," March 1901からの再販)、p.13; 1747年1月22日付けのジョン・アースキンへの手紙。この手紙は、Dwight、第1巻、p.240-250で復元されているが、その後で発見された("Exercises Commemorating the Two-Hundredth Anniversary of the Birth of Jonathan Edwards, held at Andover Theological Seminary, October 4 and 5, 1903," Andover, 1904, p.63 of the Appendices)。[本文に戻る]

*18 Dwight、第1巻、p.251, 270, 411。[本文に戻る]

*19 前掲書、p.411, 507, 532, 537。[本文に戻る]

*20 前掲書、p.569。[本文に戻る]

*21 ドワイト(第1巻、p.576)は、この協議に関するすべての事実を確認することはできなかった。Ezra Stilesの "Literary Diary," New Yourk, iii, 1901, p.4では、興味深い詳細が補足されている。[本文に戻る]

*22 Cf. the discussion of Edwards' "rationalism," by Jan Ridderbos, "De Theologie van Jonathan Edwards," 1907, pp.310-313.[本文に戻る]

*23 ホプキンズはこう告げている。「彼には巨大な知識欲があり、知の追求のためならいかなる代価も労力も惜しまなかった。彼は、入手できる限りのあらゆる書物、特に神学を論じた書物を貪り読んだ。真理を発見する助けとなるものを、少しでもそこから引き出したいと期待したからである」。しかしながら彼は、若年の頃から学識のひけらかしを嫌っていた。「文体には多くの慎み深さが見られるようにせよ」、という、ごく若いうちから彼が座右の銘としていたものの隣に、彼はもう1つこう書き加えている。「自分が読書家であるとか、多くの書物に通じているとか、学問の世界に通じているとかいう素振りは見せないようにせよ」、と(Dwight、第1巻、p.41以降)。[本文に戻る]

*24 ドワイト、第1巻、p.93。[本文に戻る]

*25 前掲書、p.242。[本文に戻る]

*26 『意志論』への序文、ドワイト、第2巻、1829、p.13。[本文に戻る]

*27 "Works," 4 vol. edition, iii, 1856, p.123, note.[本文に戻る]

*28 1747年1月15日付けのジョウゼフ・ベラミ宛の手紙。F. B. Dexterの印刷による前掲書中、p.13。[本文に戻る]

*29 "Works," 4 vol. edition, ii, 1856, pp.489ff.; ドワイト、第2巻、pp.555f..[本文に戻る]

*30 "Works," 4 vol. edition, ii, 1856, pp.483f.; ドワイト、第2巻、pp.544f..[本文に戻る]

* (訳者注)ジョン・マーレイは、「原罪の教理への反論に答えるにあたって」から始まる、このウォーフィールドの文章を、著書『The Imputation of Adam's Sin』の中で引用し、さらにエドワーズの『原罪論』の内容にまで踏み込んで検証を加えた上で、決してエドワーズがチャールズ・ホッジの主張するような間接転嫁支持者ではなかったことを立証している。この文章の翻訳にあたっては、松田一男師訳のジョン・マーレイ著『罪の転嫁』(聖恵授産所出版部、1982)の該当個所(p.70-71)の訳文を参考にさせていただいた。[本文に戻る]

*31 ドワイト、第2巻、p.13[本文に戻る]

*32 Cf. F. J. E. Woodbridge, in The Philosophical Review, xiii, 1904, p.396; and G. Lyon, op. cit., p.412.[本文に戻る]

*33 Lyman H. Atwater, The Biblical Repertory and Princeton Review, xxx. 1858, p.597.[本文に戻る]

*34 H. N. Gardiner, "Selected Sermons," 1904, p.xviii.[本文に戻る]

*35 Cf. Williston Walker, "Ten New England Leaders," 1901, p.232.[本文に戻る]

*36 Lyman H. Atwater, p.589; cf. J. Redderbos, pp.320f.[本文に戻る]

*37 "A Discourse Commemorative of the History of the Church of Christ in Yale College during the First Century of its Existence," New Haven, 1858, p.36.[本文に戻る]

*38 「教会政治」および「規律」における新神学派の人々の「厳格さ」については、Ezra Stilesの "Diary," iii. 1901, pp.273f., 343f., 358f.に見られる興味深い詳細を参照されたい。[本文に戻る]

*39 Cf. Woodbridge, in The Philosophical Review, xiii. 1904, pp.394f。この神学的変移をもたらした人々は、高潔な人格と、高度な知的才幹と、旺盛な知的活力と、破滅的と云えるほどの論理的才能の持ち主であった。いかなる国民も、ほんの一世紀ほどの間にジョウゼフ・ベラミ(1719-1790)や、サミュエル・ホプキンズ(1721-1803)や、スティーヴン・ウェスト(1735-1819)や、ジョン・スモーリ(1734-1820)や、ジョナサン・エドワーズ・ジュニア(1745-1801)や、ナサニエル・エモンズ(1745-1840)や、ティモシ・ドワイト(1752-1817)や、エリエイザ・T・フィッチ(1791-1871)や、ナサニエル・W・テイラー(1786-1858)ほどの「強靱な論証家」たちを陸続と輩出したことは誇りにしてよいであろう。――彼らはみな、小エドワーズひとりを例外とすれば、イェール大学の卒業生であった。これ以外にも、思想的系譜からするとより傍系にはなるが、同等の知性の人々として、レナード・ウッズ(1774-1854)、ベネット・タイラー(1784-1858)、エドワード・D・グリフィン(1770-1837)、モウゼズ・ステュアート(1780-1852)、ライマン・ビーチャー(1775-1863)、チャールズ・G・フィニー(1792-1875)、レナード・ベイコン(1802-1881)、ホリス・ブッシュネル(1802-1876)、エドワーズ・A・パーク(1808-1900)がいる。[本文に戻る]

*40 E. A. Park, "Memoir of the Life and Character of Samuel Hopkins, D.D.," Boston, 1854, p.237; Fishre, "A Discourse," as cited, p.80.[本文に戻る]

*41 Ezra Stiles, ii. 1901, p.227; Fisher、前掲書、p.80.[本文に戻る]

*42 「この三十年というものの」、と彼は書いている(Ezra Stiles, iii. pp.273-275)。「あるいは過去の一世代というものの、神学生には、聖書と、エドワーズ学長と、ベラミ博士と、ホプキンズ氏の著作を読むよう指導することが流行だった。――そして、これらを読むだけでかなりの程度事は足りていた」。しかし今や、「《新神学》派の紳士たちは混乱に陥っており、それぞれに異なる意見に立ち至っている」。「年弱だが、まだ鼻息の荒い階層は、自分たちの方がこうした託宣者たちよりもはるかにものがよく見えると思っており、自分自身が託宣者になって、神学書を書き、その自分の本が流行することを願っている」。彼はこうした「混乱」を、最後の始まりと考えたのである。[本文に戻る]

*43 若年のセオドア・D・ウルジは1822年には、「ホプキンズ派」について、それは「いかなるものをも捕らえる一種の網であって、それに捕まらないのは、ぬるぬる滑る長老派の鰻しかいない」、と語ることができた。彼は云う。それは、「アルミニウス主義者ではなく、かつ、贖罪についてトゥレティーニと意見を異にするすべての者を包含する一般用語である」、と(Yale Review, i. 1912 [January], p.246)。[本文に戻る]

*44 私たちの着目するところ、ホプキンズはすでにエドワーズの教えからの逸脱を意識していた。――その逸脱を彼は「改善」と呼んでいるが。エズラ・スタイルズが私たちに告げているところ(iii. pp.273f.)、1787年に《新神学》派の人々は「キリストの贖罪における、現実の代償的な受苦を否定する」ことを始め、「概して云えば、原罪義認の双方における転嫁の教理を捨てる」ようになりつつあった。そして彼らの一部は、「無私の仁愛から後退し、あらゆる聖い動機は、究極のところ個人的幸福に帰着するように働くとの観念へと向かいつつあった」。――これは、実際に起こっていた流れの方向を非常に公正に述べたものである。[本文に戻る]

*45 ドワイト、i. pp.613ffで公表されている。[本文に戻る]

*46 Cf. G. N. Boardman, "A History of New England Theology," New York, 1899, p.50.[本文に戻る]

*47 Cf. G. P. Fisher, "A Discourse," 前掲書、p.37。「組織神学の書物として、ドワイト博士の説教集ほど、英国において――少なくとも英国国教会以外のものとして――流通し、権威を持っている書物はない。その国において、この説教集は四十版以上も版を重ねているのである」。[本文に戻る]

*48 Cf. F. H. Foster, "A Genetic History of the New England Theology," Chicago, 1907, pp. 543-553 ("Conclusion")。そこでは、この事実が十分に認められている。その理由としてあげられているものについては疑問が残るが。[本文に戻る]



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