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Christ's Humiliation in His Incarnation

受肉におけるキリストの謙卑

トマス・ワトソン


「確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です。キリストは肉において現われ」 Iテモ3:16

問27:キリストの謙卑は、いかなることに存するか。

答え:キリストの謙卑は、彼が身分卑しく、律法の下にある者としてお生まれになり、この世の生活の悲惨さと、神の御怒りと、呪われた十字架の死を忍ばれたことに存している。

 キリストの謙卑は、彼の受肉と、肉体をおとりになったことと、お生まれになったことにある。キリストがおとりになったのは現実の肉体であった。それは(マニ教徒らが誤って考えたように)体の幻影ではなく、真の体であった。それゆえ彼は「女から生まれた者」と云われている(ガラ4:4)。パンが小麦粉から作られ、葡萄酒が葡萄から作られるように、キリストは女から生まれた。彼の体は、処女の物質的な肉体の一部であった。これは偉大な奥義である。「キリストは肉において現われ」た。天地創造において、人間は神のかたちに造られた。だが受肉においては、神が人間のかたちにされたのである。

キリストはなぜ人となられたのか

 それは御父の特別な任命によることであった。「神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者……となさいました」(ガラ4:4)。父なる神が、特別のしかたで、キリストは受肉すべきであるとお定めになったのである。ここからわかるのは、責任の重い、重要な役目につくには、いかに召命が必要であるか、ということである。召命もなく行動する者は、祝福を受けることがない。キリストも召命を受けなかったならば、受肉することも、仲保者の職につくこともなかったであろう。「神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者……となさいました」。

しかし、罪に沈んだ人類を回復するためには、神が人となるより他にも方法があったのではなかろうか?

 私たちは、神のみこころに対して理由づけを求めてはならない。神の契約の箱の中をのぞき込むのは危険である。私たちのすべきことは議論ではなく、あがめ、ほめたたえることである。私たちを贖うには、キリストの受肉が最善の道であると、ただおひとり賢くいます神が判断されたのである。神の正義のさばきを満足するには人間以外の何者をもってしても不十分であった。また、神以外の何者にもそれは不可能であった。それゆえ、この贖いのわざを引き受けるためには、神であり人であるキリストが最もふさわしいお方だったのである。

キリストはなぜ女からお生まれになったのか

 (1.) 神が創3:15の御約束を果たされるためである。「女の子孫は蛇の頭を踏み砕く」*。(2.) キリストが女からお生まれになったのは、蛇の誘惑に屈して女が身に招いたそしりを取り除くためであった。キリストはご自分の肉体を女性から取られたことによって、女性全体の恥を雪いだのである。元始、女は人間を罪人としてしまった。しかし今、その償いをするために、女は人間に救い主をもたらしたのである。

キリストはなぜ処女からお生まれになられたのか

 (1.) その品位のためである。神が処女以外の母から生まれるなどふさわしくないし、処女が神以外の子を産むなどふさわしくない。

 (2.) その必要があったからである。キリストは、もっともきよく、もっとも聖なる大祭司となるべきお方であった。そのお方が、通常の自然の営みを通して生まれるようなことがあったなら、キリストは汚れを負っていたであろう。なぜなら、すべてアダムの腰から出る者は罪の臭味を帯びているからである。しかし、「キリストの本質がきよく、無原罪のものとしてある」ために、彼は処女からお生まれになったのである。

 (3.) 型を成就するためである。メルキゼデクはキリストの型であったが、彼は「父もなく、母もなく」と云われている[ヘブ7:3]。処女からお生まれになったキリストは、その型を成就されたのである。キリストには父もなく、母もなかった。彼は、神として母がなく、人間として父がなかった。

処女の血と肉からお生まれになったというのならば、キリストはどうして罪なくあられることができたであろうか? いかにきよらかな処女といえども、原罪によって汚されているはずである。

 聖書は、この難問を解いている。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます」(ルカ1:35)。「聖霊があなたの上に臨み」というのは、すなわち、聖霊は、処女の肉体の中でキリストの宿られる部分を聖別し、きよめられたということである。あたかも、錬金術師が黄金から金滓を抽出し、分離していくように、聖霊は処女の肉体のその部分を精練し、浄化し、罪から分離させたのである。確かに、処女マリヤ自身は罪を持っていた。しかし、キリストが宿ったその部分の肉体だけは、罪がなかったのである。さもなければ、キリストの受胎は汚れたものとなったであろう。

聖霊の力が処女マリヤをおおったとはどういうことか

 聖バシリウスは云う。「それは、聖処女の肉体の、キリストを形造る部分が、聖霊の祝福を受けたということである」。しかし、ここには、さらに深い神秘がある。処女の体内でキリストを形造られた聖霊は、驚嘆する以外にないしかたで、キリストの人性と神性を結び合わせ、2つを1つの人格へと融合されたのである。これこそ、御使いも知ろうとしてあこがれ求めている神秘である[Iペテ1:12]。

キリストが受肉されたのはいつか

 とき満ちるに及んでである。「時の満ちるに及んで、神は御子を女から生まれさせ、おつかわしになった」(ガラ4:4 <口語訳>)。とき満ちるに及んで、とは、tempus a patre praefinitum(父によってあらかじめ定められた時)のことである。アンブロシウスも、ルターも、ラピドゥスのコルネリウスも、そのように、これを神の予定された定めの時と解釈している。さらに具体的に云うと、この、とき満ちたときというのは、メシヤの来臨を告げたすべての預言が実現したときのことであった。キリストの型としてあった、すべての律法の影や象徴が廃止されたときのことであった。これは、私たちにとって大きな慰めであろう。神の教会は現在、自分が願う通りの平和ときよさを持ってはいない。しかし、とき満ちるに及んで、神の時が到来し、あわれみが熟したならば、解放が沸き起こるのである。そして、神が救いの戦車に乗ってやってこられるのである。

イエス・キリストはなぜ肉において現われたのか

 (1.)最大の理由(causa prima)にして、最もあずかって力があった理由は、無代価の恵みである。父なる神は愛ゆえにキリストをお遣わしになり、キリストは愛ゆえに受肉されたのである。愛こそ、まず第一の原因であった。キリストが神-人となられたのは、キリストが人を愛するお方であったためである。キリストは私たちに対する憐びんといつくしみゆえに、世に来られたのである。non merita nostra, sed misera nostra、すなわち、「私たちの功績のゆえではなく、私たちの惨めさのゆえに」、キリストは肉のかたちを取ってくださった、とアウグスティヌスは云う。キリストに肉のかたちを取らしめたのは、無代価の恵みのなせるわざであって、純粋に愛から出たことである。全能の神ご自身も愛には勝てなかった。受肉のキリストは、まさに肉につつまれた愛そのものにほかならない。キリストが私たちと同じような人性を取られたのは、知恵の極みであるばかりでなく、無代価の恵みが成し遂げた偉業である。

 (2.)キリストが私たちの人性をお取りになったのは、ご自身において私たちの罪を背負うためであった。ルターによれば、キリストは maximus peccator、すなわち最大の罪人であった。彼の上には、全世界の罪の重みがのしかかっていた。キリストは私たちの罪をにない、神の御怒りをなだめるために、私たちと同じ肉のかたちを取られたのである。

 (3.)キリストが肉のかたちを取られたのは、人性を神にとって愛すべきものとし、神を人にとって愛すべきものとするためでもあった。

 (i)それは、人間性を神にとって愛すべきものとするためであった。神から背き去って堕落して以来、私たちの性質は神にとって厭わしいものとなった。いかなるゴキブリ・ダニ・シラミといえども、神にとっての私たちほど厭わしくはない。私たちが無垢の無罪性を失って以来、人間性はあたかも癩に膿み崩れた体のごとく、ただれた腫物からにじみ出る腐汁のごとく、神の目にとって正視に絶えぬものとなったのである。それがあまりにおぞまわしいものとなりはててしまったので、神は私たちを見ることができないほどであった。しかし、キリストは私たちの性質を身にまとわれて、この人間性を神の目に愛すべきものとしてくださったのである。グラスに日光が当たればきらめく光沢に輝くように、私たちの肉をまとわれたキリストも、人間性を輝かしてくださり、神の目に愛すべきものとしてくださったのである。

 (ii)キリストは、私たちの肉を身に着て人間性を神にとって愛すべきものとしてくださったのと同様に、神のご性質を人間にとって愛すべきものともしてくださった。純粋な神性を直視することは恐ろしいことである。神を目にして生きていられる者はない。しかしキリストは、私たちの肉を身に着てくださり、神性をより愛すべきもの、より喜ばしいものとしてくださった。キリストの人性を通してならば神性を見ることも恐ろしくはない。古代の羊飼いたちは羊毛の衣を着るのを常としていた。その方が羊たちにとって安心だったのである。それと同様にキリストは私たちの肉を身に着てくださり、私たちが神性に対してより安心できるようにしてくださった。キリストの人性に映し出されて初めて私たちは、神の愛と知恵と栄光とを明瞭に見てとることができるのである。キリストの人性というランタンを通して初めて、私たちは神性の光を見つめることができるのである。受肉のキリストがおられるからこそ、神性は私たちにとって耐えがたいものとはならず、むしろ喜ばしいものとされているのである。

 (4.)イエス・キリストがご自身を人間に結びつけられたのは、「人が神に近く引き寄せられる」ためである。以前は罪のために、私たちにとって神は敵であった。しかしキリストは、私たちの肉を取ってくださり、私たちを神にとりなし、神のご愛顧のうちに導き入れてくださった。あたかも国王の勘気をこうむった臣下の娘を、皇太子がめとることによって、その臣下と王との間を取り持ち、王の怒りを解き、臣下は再び王の愛に浴するように、キリストも、父なる神が私たちに対して御怒りを燃やしておられたときに、私たちの人性と結ばれて、今、御父と私たちの間を取り持って、私たちが再び神の友となれるように、また神が私たちを愛すべきものとしてご覧になれるようにしていてくださるのである。ヨアブがアブシャロムのためにとりなし、ダビデ王のもとに彼を連れてきたとき、ダビデがアブシャロムにくちづけしたように、イエス・キリストは私たちのためにとりなし、私たちを神の愛とご恩顧のうちに入れてくださった。それゆえキリストが和解者と呼ばれるのは至当なことである。彼は私たちの肉を身にまとい、そのことによって私たちと神との間に平和をうちたててくださったのである。

適用1:教えとして。(1.)私たちはここで、神の無限の愛が、あたかも鏡に映し出されているかのように示されているのを知らなくてはならない。見よ、神は、私たちが自業自得で罪に沈んでいたそのときに、ご自身の測りがたい御恵みの豊かさから、ひとり子をお遣わしになり、女から生まれさせ、私たちを贖い出してくださった。そして見よ、キリストの測りがたい愛を。キリストはそのように身を卑しめて、私たちの性質をとることをいとわれなかった。御使いたちですら、人間の肉を身にまとうことを恥としたに違いない。そのようなことは、まさしく彼らにとって汚名にほかならなかったであろう。一体どのような国王が錦糸の王服の上にぼろ布を着たいと思うだろうか。しかしキリストは、私たちの肉を身にまとうことを恥とはされなかった。何というキリストの愛であろう。キリストが肉において現われなかったならば、私たちは呪われたままであった。キリストが受肉されなかったならば、私たちは虜囚として永遠に牢獄の住人であったろう。御使いが先立って喜びの訪れを告げ知らせたのも当然である。「今、私は素晴らしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」。さらに次のように考えてみるとき、受肉のうちにあるキリストの愛は、より大きなものとして私たちの目に映るに違いない。

(i)キリストはどこから来られたのか。彼は天から来られた。しかも、天の中でも、最も甘い蜜のしたたる芳醇な場所、すなわち父のふところから来られたのである。

(ii)キリストはいかなる人々の待つ所へ来られたのか。彼の友人たちの所へか。否、彼は罪深い人類のもとへ来られた。そこは、神のかたちを醜悪なものと変え、神の愛をふみにじった人間たち、ご自身に反逆し謀反人となった人間たちが待つ場所であった。それにもかかわらず、キリストは人のもとへ来られて、彼らのかたくなさを寛容によって克服しようとなされた。同じ身をへりくだらせるなら、なぜ堕落した御使いたちのもとへ行かれなかったのか。「主は御使いたちを助けるのではなく」(ヘブ2:16)。御使いは人間よりも、より高貴な生まれ、より高い知性を持つ、より奉仕に力ある被造物ではなかろうか。確かにその通りである。しかし、キリストの愛を見よ、キリストは堕落した御使いの所へではなく、人類の所へ来てくださった。磁石には不思議な性質が多々あるが、中でも最大の不思議は、金や真珠といった価値ある宝石類には目もくれず、ありふれた卑金属の鉄を引き寄せることである。キリストもそのように御使いたちではなく、あの金とも真珠ともたとえるべき高貴な被造物を見過ごして、貧しく罪深い人のもとへ来て、ご自身の抱擁で包んでくださったのである。

(iii)キリストはどのようなしかたでやって来られたのか。王のように威風あたりを払いながら、近衛の近習たちに取り囲まれつつやって来たのではない。貧しさのうちに来られた。天国の王位継承者のようにではなく、市井の平民の小せがれのようになって来られた。王都エルサレムにではなく、草深いちっぽけな村落ベツレヘムでお生まれになった。旅籠屋で、家畜の餌箱をゆりかごにしてお生まれになった。くもの巣が壁のカーテン、動物どもが小姓たちであった。キリストは貧しい両親のもとにお生まれになった。誰しも、キリストが世に来られるときは、どこかの女王か身分のある高名の人から生まれるはずだと考えていたに違いない。しかしキリストは、卑賎の目立たぬ両親のもとにお生まれになった。マリヤとヨセフの貧しかったことは、彼らのささげものからわかる。「山ばと一つがい」(ルカ2:24)は普通貧しい人々がささげたものである(レビ12:8)。キリストは金持ちとなられたことがなかった。神殿税を要求されたときには、奇蹟を行わなれた(マタ17:27)。死んだとき、彼は何の遺言状も残さなかった。彼は貧しくこの世に来られたのである。

(iv)キリストはなぜ来られたのだろうか。私たちと同じ肉をとり、私たちを贖うためである。私たちを王として支配させるためにである。彼が貧しくなられたのは、私たちを豊かにするためであった(IIコリ8:9)。彼が処女からお生まれになったのは、私たちが神から生まれるためであった。彼が私たちの肉をおとりになったのは、私たちに彼の霊を与えるためであった。彼が飼いばおけの中に横たわったのは、私たちが天国で横たわるためであった。彼が天から降りてこられたのは、私たちを天へ連れのぼるためであった。これを愛と呼ばずしてなにを愛というのか。このキリストの愛に感動しないような者は、鉄のように冷たい心をしているに違いない。見よ、人知を超えたこの愛を(エペ3:19)。

(2.)さらにここで私たちは、キリストの類いもないへりくだりをさとらなくてはならない。キリストは肉において現われなされたのである。アウグスティヌスは云う。O sancta humilitas, tu filium Dei descendere fecisti in uterum, Mariae Virginis[何という聖なるへりくだりよ、神の御子が処女マリヤの胎に下られたとは!]。キリストは、地べたの土塊の一部にすぎない私たちの肉を身にまとわれた。おゝ、何という無限のへりくだりであろう! キリストが、この私たちと同じ肉をとられたということは、キリストの謙卑の中でも最も卑しい部分の1つである。キリストにとって処女の胎に宿られたことは、十字架に懸かったことよりもなお一層自らを卑しくしたことであった。人が死ぬことはさほど大きなことではない。しかし、神が人となられたこと、これこそ驚倒すべきへりくだりの極みである。「キリストは……人間と同じようになられたのです」(ピリ2:7)。なぜなら、キリストが肉において現われたことは、御使いが虫けらになることよりもさらに卑しいことだからである。ヘブ10:20では、キリストの肉体が垂れ幕と呼ばれている。「ご自分の肉体という垂れ幕を通して」。キリストのまとわれた肉体は垂れ幕のように彼の栄光を覆い隠していた。神と等しくあられたお方が肉となられるとは、おゝ、何というへりくだりであろう! 「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで」(ピリ2:6)。キリストは神と全く同等のお方であられ、御父と同一の本性、同一の本質を持っておられた。そうアウグスティヌスやアレクサンドリアのキュリロス、そしてニケーア公会議は述べている。それにもかかわらず、キリストは肉のかたちをとられた。ご自分の栄光の王服を脱ぎ捨てて、私たち人間の性質というぼろで身をつつまれたのである。黄金で飾り立てた神殿であってさえ、なおソロモンが、神は人の造った建物のうちにお住まいになるだろうかと慨嘆しているとすれば、神が、か弱く脆弱な人間性のうちに住まわれたことに私たちはどれほど驚くべきであろう! 否、さらになおへりくだったことがある。キリストは単に人間の肉体をとられただけではない。人間性が最悪の屈辱の中にあったとき、その人間のかたちをとられたのである。あたかもそれは、重い反逆の罪に問われた貴族の従僕が、その家中の仕着せを着るのと同じであった。そして、こうしたすべてのことに加えてキリストは、私たちの肉体のあらゆる弱さをになわれた。この弱さには二種類あって、罪深いが困苦を伴わないものと、困苦を伴うが罪ではないものとがある。最初の方については、キリストは、貪婪や野心などの罪深い弱さは持たなかった。しかしキリストは、困苦を伴う弱さをになわれた。すなわち(i)飢え。キリストは何か食べようとしていちじくの木に近づかれたのである(マタ21:18、19)。(ii)疲労。ヤコブの井戸のかたわらに座って疲れをいやしておられたときがそうであった(ヨハ4:6)。(iii)悲しみ。「わたしは、悲しみのあまり死ぬほどです」(マタ26:38)。(iv)恐れ。「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔さのゆえに聞き入れられました」(ヘブ5:7)。さらに大きなキリストのへりくだりは、キリストが単なる肉体をおとりになったのではなく、罪深い肉と同じようなかたちをおとりになったということである。「神は、罪を知らない方を、罪とされました」(IIコリ5:21)。キリストは罪人と同じようなかたちになられた。キリストの上には全世界の罪が負わされていた。しかし、キリストのうちにはいかなる罪も宿っていなかった。「彼は、そむいた人たちとともに数えられた」(イザ53:12)。聖三位一体の位格のおひとりと数えられたお方が、「多くの人の罪を負う」と云われているのである(ヘブ9:28)。これこそキリストの謙卑の中でも最低のものである。罪人として刻印を押されたキリストこそ、へりくだりを教えてくれる偉大な模範である。御使いたちにさえ罪あることをお許しにならないキリストが、ご自身に帰された罪を黙って忍ばれたのである、これは空前にして絶後のへりくだりと云うべきである。

 こうしたことすべてから、私たちはへりくだりを学ばなくてはならない。キリストが自らをへりくだらせておられるのを見たあとで、どうして高慢でいられるものか。キリストの御姿を映し出しているのは、へりくだった聖徒である。キリスト者よ、自分の毛並みの良さを誇ってはならない。自分は広い土地を持っていると思っているか。高ぶってはならない。あなたの足元の大地はあなたよりも富んでいるのだ。大地の内蔵には金や銀の鉱脈がつまっている。自分は美しいと思っているか。高ぶってはならない。それは空気とちりの合わさったものにすぎない。自分には才能があると思っているか。へりくだるがいい。暁の明星ルシフェルはあなたよりもはるかに知識豊かである。自分には恵みがあると思っているか。へりくだるがいい。それは自分の力で得たものではなく、借り物にすぎない。借り物の指輪を自慢するのはばかげたことではないか(Iコリ4:7)。あなたのうちには恵みよりも罪の方があるではないか。麗質より傷の方が多いではないか。おゝ、キリストを見上げるがいい。この素晴らしい模範を見て、へりくだるがいい。神ご自身がへりくだっておられるそばで、人が鼻高々にしているのは見ばよいものではない。救い主がへりくだっていて、罪人が高ぶっているのは見苦しい。神は、高慢のそぶりすら憎んでやまないお方である。神は穀物のささげ物に蜜を入れてはならないと云われた(レビ2:11)。確かに、パン種には発酵した酸性臭があるから、ささげ物にパン種を入れてはならないというのはわかる。しかし、なぜ蜜がいけないのか。それは、肉や小麦粉は蜜と混ぜ合わされると、ふくれあがって、かさを増すからである。だから、蜜を入れてはならないのである。神は、増長したり、そりかえったりという高慢の罪に似たものを憎まれるのである。たとえ目立った才能はなくとも、また御霊の慰めを欠こうとも、へりくだりを持っていた方がよほど良い。アウグスティヌスは云う。Si Deus superbientibus angelis non pepercit、すなわち、「もし神が高慢になった御使いをも我慢できないというのであれば、ちりと腐敗のかたまりにすぎない人が高ぶるのを忍ばれるだろうか」?

(3.)私たちはここで、1つの聖なる謎もしくは逆説に直面している。神が、「肉において現われた」のである。人が神のかたちに造られることすら1つの驚異である。しかし、神が人のかたちをとられるとは驚愕に堪えぬ不可思議と云わねばならない。かの年を経た古きお方が、がんぜない赤子としてうぶごえを上げ、雷鳴を轟かして天を引き裂かれるお方が、ゆりかごの中で泣かれたのである。Qui tonitruat in caelis, clamat in cunabulis; qui regit sidera, sugit ubera。星々の運行をつかさどるお方が、乳房を口にふくまれたのである。処女が身ごもったのである。キリストを生み落とした女は、キリストご自身がお造りになった被造物だったのである。枝から葡萄の木が出てきたようなものである。母は自分の生んだ子よりも幼く、子は自分を宿した母の胎よりも大きかったのである。人間の性質は神にはならずして、なおかつ神と1つであったのである。これは驚異(mirum)というだけでは足りない。奇蹟(miraculum)である。キリストが肉体をとられたという神秘は、私たちが御国に入るそのときまで決して完全に理解されることがないであろう。そのとき初めて、私たちの光は私たちの愛と同じく真に明瞭なものとされるだろうからである。

(4.)今まで見てきたように、「肉において現われた神」、処女からお生まれになったキリスト、これは本質的に不可解なばかりではない、不可能事である。ここから私たちは、神には不可能なことが1つもない、ということを悟るべきである。神は自然の営易からは生み出されないようなことを生じさせることがおできになる。神によれば鉄が水に浮かび、岩が水を迸らせ、火が溝になみなみと満たされた水をなめつくしてしまう(I列18:38)。水が火を消火することこそ自然であって、火が水を焼きつくしてしまうなどというのは自然の運行からは不可能である。しかし神は、こうしたことすべてを生じさせることがおできになる。「あなたには何一つできないことはありません」(エレ32:17)。「もし、これが、あなたの目に不思議に見えても、わたしの目に、これが不思議に見えるだろうか。----万軍の主の御告げ。----」(ゼカ8:6)。一体どうして神が人の肉体と結合できようか。私たちにとっては不可能としか思えない。しかし、神にとってはそうではない。神は理性も信仰も超越したことを行なうことがおできになるのである。私たちの思いを越えて働くことのできぬようなものは、私たちの神ではないであろう(エペ3:20)。神は相矛盾することを調和させることがおできになる。何と私たちは、表面的に不可能な事柄によって失望落胆することが多いことか。物事が私たちの思いや理性に反して進むとき、何と絶望しがちなことか。私たちは、あのII列王記7:1、2に出てくる侍従のような言葉を口にしがちな者である。「たとい、主が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか」。いまは飢饉のときではないか、なのに極上の小麦1セアが1シェケル、銀半オンスばかしで売られるという、どうしてそのようなことがありえよう、と。そのように、主の民も、物事が期待に反して進んだり、うまく行かなくなると、すぐに、これでは何をしても駄目だ、と云い出すのである。神の教会という星座の中でもひときわ大きく輝く巨星、神の人モーセもまた、見かけ上の不可能事によってしばしば落胆したことであった。「モーセは申し上げた。『私といっしょにいる民は徒歩の男子だけで六十万です。しかもあなたは、彼らに肉を与え、一月の間食べさせる、と言われます。彼らのために羊の群れ、牛の群れをほふっても、彼らに十分でしょうか。彼らのために海の魚を全部集めても、彼らのために十分でしょうか』」(民11:21、22)。あからさまに云えば、これほどおびただしいイスラエルの民を一月もの間、どうして満ちたらわせることができるのですか、と申し上げたのである。「主はモーセに答えられた。『主の手は短いのだろうか』」(23節)。老いさらばえ死んだようになった体からイサクを生み出させ、処女の胎から救い主をもたらされた神に不可能なことがあろうか。おゝ、たとえ見た目は不可能なことに取り巻かれていようと、神の全能の御腕に信頼して安らおうではないか。神を信じようではないか。「神にとって不可能なことはありません」。このことを忘れてはならない。神はおごり高ぶった心を屈服させることがおできになる。神は死にかけた教会をよみがえらせることがおできになる。キリストは処女からお生まれになった! この奇蹟をなしとげた不思議を行なう神は、どれほど不可能に見えるようなことをも実現させることがおできになる。

適用2:勧めとして。(1.) キリストが私たちの肉体をとり、処女からお生まれになったと知った私たちは、キリストが私たちの心の中にも霊的にお生まれになるように努めようではないか。キリストがこの世にお生まれになったとしても、もし彼が私たちの心の中で生まれておらず、私たちの人格と結び合わされていないとしたら、何の役に立つだろうか? キリストがあなたがたの心の中に生まれなくてはならない、と云う言葉に驚いてはならない。「あなたがたのうちにキリストが形造られるまで」(ガラ4:19)。さて、それでは、キリストがあなたがたの心の中に生まれておられるかを調べてみよう。

それはいかにして知ることができるのか

 出産の前には陣痛があるだろうか? そのように、心にキリストがお生まれになる前にも霊的な激痛がある。良心の痛み、罪を深く確信した心の痛みである。「人々は……心を刺され」(使2:37)。むろん私も、新生において、あらゆる者が同程度の悲しみやへりくだりの痛みを感ずるのではない----recipere magis et minus[ある者は多く受け、ある者は少なく受ける]----ことは認める。だが、痛みを覚えない人はいないのである。もしキリストがあなたの心の中に生まれておられるなら、あなたは罪のために深い苦しみを感じているはずである。痛みを感じていない心にキリストは決して生まれておられない。多くの人々は、自分が何の霊の悩みも感じたことがなく、常に平穏な気分でいられたことを神に感謝している。だがこれは、キリストがまだ彼らのうちに形造られていないしるしである。

 キリストがこの世にお生まれになったとき、彼は肉において現われた。そのように、もし彼があなたの心の中に生まれておられるなら、彼はあなたの心を肉の心としておられる(エゼ36:26)。あなたは肉の心をしているだろうか? 以前それは、岩だらけの心であって、神に従いも、みことばに感動しようともしなかった。durum est quod non cedit tactui[触れても屈さぬは硬きものなり]。今それは、肉の心となり、溶けたろうのように柔らかになり、御霊のいかなる刻印も受けることができる。このように私たちの心が肉の心となり、涙と愛とで和らぐときこそ、キリストがそこに生まれておられるしるしである。キリストが肉において現われたとしても、彼があなたに肉の心を与えておられないとしたら、それが何になるだろうか。

 キリストがお宿りになったのが処女の胎内だったように、もし彼があなたの中に生まれておられるとしたら、あなたの心は処女のごとく真摯できよいものとなっている。あなたは罪への愛からきよめられているだろうか? もしキリストがあなたの心に生まれておられるなら、それはSanctum Sanctorum、すなわち至聖所となっているはずである。もしあなたの心が罪への愛に満たされ汚れされているなら、そこにキリストがお生まれになっているなどと決して考えてはならない。キリストはもう二度と馬小屋には横たわらない。もし彼があなたの心に生まれておられるなら、それは聖霊によって聖別されているはずである。

 もしキリストがあなたの心に生まれておられるなら、それはあなたにとって誕生のときのようなものである。そこには、いのちがある。信仰はprincipum vivensである。魂の生命にかかわる器官である。「いま私が、この世に生きているのは……神の御子を信じる信仰によっているのです」(ガラ2:20)。そこには食欲がある。「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい」(Iペテ2:2)。みことばは、母乳のようにきよく、甘く、滋養に富んでいる。そしてキリストが形造られてつつある魂は、この母乳を慕い求めるのである。ベルナルドゥスがその独白録の1つで自分の慰めとしているのはこのことであった。すなわち、自分は確かに新しく生まれているに違いない、なぜなら自分の心にはこれほど強い神への憧れと渇きがあるのだから、と云うのである。キリストが心の中にお生まれになった後では、荒々しい動きがある。そこには狭い門に押し入ろうという動きがあり、天国に激しく攻めこもうという動きがある(マタ11:12)。これにより私たちは、キリストが私たちのうちに形造られつつあるかどうかがわかる。キリストがこの世にお生まれになったように、私たちの心の中にも生まれておられるということ、また私たちの肉に結び合われたように、私たちの人格とも結び合わさっておられるということ、これこそ唯一の慰めである。

 (2.) キリストが私たちのかたちになって現われてくださったように、私たちも彼のかたちを現わすように努めよう。キリストは受肉することによって私たちと同じようになられたが、私たちも彼と同じようになるよう努めよう。私たちには、キリストと同じようになるべき点が5つある。(i) 気立てにおいて。彼は、この上もなく甘やかな気立てをしておられ、deliciae humani generis[人間性の喜び]であられた(ティトス・ウェスパシアーヌス)。彼は罪人たちを招いてみもとに引き寄せられた。彼には私たちへのあわれみに満ちた胸があり、私たちを養う乳房があり、私たちをおおうつばさがあった。彼は、あわれみによる以外に私たちの心をくじこうとはしなかった。キリストは私たちと同じかたちにされただろうか? では私たちも、その甘やかな気立てにおいてキリストと同じようになろうではないか。気難しい性分であってはならない。ナバルは、「よこしまな者ですから、だれも話したがらないのです」、と書かれている(Iサム25:17)。ある人々は、まるでダチョウの血縁ででもあるかのように粗暴で、福音書中の「悪霊につかれ」、「墓から出て来」たふたりのように「ひどく狂暴」である(マタ8:28)。私たちは、キリストのように穏やかで甘やかな気立てをしていよう。自分の敵たちのために祈り、彼らを愛によって勝ちとろう。ダビデの親切はサウルの心を和らげた(Iサム24:16)。凍てついた心も愛の火によって溶かされていく。

 (ii) 恵みにおいてキリストのようになること。彼は私たちと同じ肉体を持つことによって私たちと同じようになられたが、私たちも彼と同じ恵みを持つことによって彼のようになろうではないか。私たちは、へりくだりにおいてキリストのようになるよう努めるべきである。「キリストは……自分を卑しくし」(ピリ2:8)。彼は、その栄光に輝く王衣を脱ぎ捨て、私たち人間の性質というぼろ布を身にまとってくださった。何と驚異的なへりくだりであることか! 私たちもこの恵みにおいてキリストのようになろうではないか。ベルナルドゥスによれば、へりくだりはcontemptus propriae excellentiae、すなわち、「自己優越に対する蔑み」であり、一種の自己滅却である。これこそキリスト者の栄光にほかならない。私たちは、自分自身の目に真っ黒く映るときほど神の目に美しく見えることはない。このことにおいて私たちはキリストのようになっていこう。真のキリスト教信仰はキリストにならうことである。そして事実私たちは、自分の内側を、自分の下を、そして自分の上を眺めるとき、何とへりくだるべき理由があることか!

 もし私たちがintra nos、すなわち私たちの内側を眺めるなら、ここで私たちは、自分の罪が良心の鏡に映し出されているのを見るであろう。情欲、ねたみ、激情。私たちの罪は魂にうじゃうじゃと巣くう害虫のようなものである。「私の不義と罪とはどれほどでしょうか」(ヨブ13:23)。私たちの罪は海の砂のようにおびただしく、海の岩礁のように重い。アウグスティヌスは叫んでいる。Vae mihi faecibus peccatorum polluitur templum Domini、すなわち、「神の宮であるところのわが心は、罪で汚染されているのだ」、と。

 もし私たちがjuxta nos、すなわち私たちの周囲を眺めるなら、そこには私たちをへりくだらせるものがあるであろう。私たちは、太陽が他の惑星を圧倒して輝くように、賜物においても恵みにおいても、自分を凌駕する他のキリスト者たちを目にするであろう。他の人には実がたくさんなっているのに、ことによる私たちには、自分が良質の木であることを示すオリーブの実は、ほんのちらほらとしか、なっていないであろう(イザ17:6)。

 もし私たちがinfra nos、すなわち私たちの下を眺めるなら、そこには私たちをへりくだらせるものがあるであろう。私たちは、自分たちが出てきた母なる大地を目にするであろう。土は最も卑しい元素である。「彼らは土よりも卑しい者たちだ」(ヨブ30:8 <英欽定訳>)。鎧の盾をかかげ、その紋章を誇らしげに示すあなたは、自分の系図を見るがいい。あなたはpulvis animalus、すなわち、歩く灰にすぎない。それであなたは誇るのか? アダムとは何者か? ちりの子にすぎない。そしてちりとは何か? 何の子でもない。

 もし私たちがsupra nos、すなわち私たちの上を眺めるなら、そこには私たちをへりくだらせるものがあるであろう。天を見上げれば、そこには神が高ぶる者に敵対しておられるのを見るであろう。Superbos sequtur ultor a tergo Deus[神は高ぶる者を追って報いをする]。高慢な人間は神が矢を放つ的であり、神がその的を外すことは決してない。彼は高ぶったルシファーを天から投げ落とし、高ぶったネブカデネザルを王座から放逐し、草を食べさせた(ダニ4:25)。おゝ、ではキリストのようにへりくだるがいい!

 (iii) キリストは私たちと同じ肉体をとられただろうか? 彼は私たちと同じようになられただろうか? では私たちも熱心において彼のようになろう。「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす」(ヨハ2:17)。彼は御父の栄誉が汚されたとき激された。この点で私たちはキリストのようになり、神の真理と栄光のために熱心になろう。真理と栄光の2つこそ、天の王冠を飾る極上の真珠である。熱心は、いけにえに塩が、祭壇に火が必要であるのと同じくらい、キリスト者に必要である。熱心なだけで思慮がなければむこうみずとなり、思慮があっても熱心がなければ臆病となる。熱心がなれば、いかに神に仕えても受け入れられることはない。熱心は、リュートの弦にとっての松やにのようなもので、それなしには音楽を奏でられないのである。

 (iv) 世を軽蔑することにおいて、キリストと同じようになること。キリストが私たちと同じ肉体をとられたとき、彼は肉の誇りとともにやって来たのではなかった。キリストは王族や貴族の跡継ぎとして生まれるのではなく、卑しい生まれの者として来られた。称号や栄誉などに汲々としてはおられなかった。他の人々のようにこの世の尊厳や偉大さを追求することを拒否なさった。人々が彼を王にしようとしたときには、それを退けられた。戦車を蹴たてて入城するよりは、ろばの子に乗ることを選ばれた。そして黄金の冠を戴くよりは、木の十字架にかけられることを選ばれた。彼はこの世のきらびやかさや栄光を蔑まれた。俗事にかかずらおうとはしなかった。「いったいだれが、わたしを……裁判官……に任命したのですか」(ルカ12:14)。彼の務めは、民事問題の調停ではなかった。彼が世に来られたのは、統治者となるためではなく、贖い主となるためであった。彼ははるかな高空で軌道を描く星のように天のことにだけ打ち込まれた。キリストは私たちと同じようになられただろうか? では私たちも天に思いを致し世を蔑むことにおいて彼と同じようになろうではないか。この世的な名誉や立身などに汲々としないようにしよう。世のものを手に入れるために、きよい良心を売り渡さないようにしよう。金持ちになろうとして破滅する賢人の何と多いことか。財産を蓄えようとして魂を下落させる者の何と多いことか。世に対する聖い軽蔑においてキリストに似た者となるがいい。

 (v) 生き方においてキリストと同じようになること。キリストは受肉されただろうか? 私たちと同じようになられただろうか? では私たちも生活の聖さにおいて彼と同じようになろうではないか。いかなる誘惑も彼をとらえることはできなかった。「この世を支配する者が来るからです。彼はわたしに対して何もすることはできません」(ヨハ14:30)。キリストにとって誘惑は、大理石の柱に対する火花と同じく、滑って消えるものでしかなかった。クリュソストモスは云う。キリストの生涯は陽光の光よりも輝いていた、と。私たちもこの点で彼と同じようになろうではないか。「あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい」(Iペテ1:15)。アウグスティヌスは云う。私たちは奇蹟を行なうことでキリストのようになるのではなく、聖い生き方においてキリストのようになるべきである、と。キリスト者は磁石とダイヤモンドの両方になるべきである。他の人々をキリストに引き寄せる磁石になり、自分の生活において聖潔の輝きをきらめかせるダイヤモンドになるべきである。おゝ、では私たちは常に公正な取引をし、常に約束を守り、礼拝において常に敬虔で、生活において常に非難されることがないようにして、自分がキリストの歩く似姿となるようにしよう。このようにして、キリストが私たちと同じ姿になられたのと同じように、私たちもキリストと同じ姿になるように努めようではないか。

 (3.) もしイエス・キリストが私たちのためにこれほど身を低め、黄金と泥を混ぜ合わせるように、ご自分にとって不名誉でしかない私たちと同じ肉体をとってくださったのなら、私たちも喜んでキリストのゆえに卑しめられようではないか。もしこの世がキリストのために私たちを非難するなら、忍耐強くそれを耐えようではないか。使徒たちは、「御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら」、議会を立ち去った(使5:41)。不名誉を与えられるという誉れを喜んだのである。アウグスティヌスの言葉は至言である。Quid sui detrahit famae, addet mercedi sua、すなわち、「聖徒の名声を取り上げる者は、彼の報いを高める」。そして彼らが相手の誉れをせっせと軽くしている間に、彼の栄冠はどんどん重くなっていくのである。おゝ、キリストは私たちのために卑しめられ、蔑まれることに甘んじ、私たちと同じ肉体を、しかもそれが恥辱の状態にあるときにおとりになっただろうか? では私たちもキリストのために卑しめられることで騒ぎ立てないようにしよう。ダビデは云う。「もしこれが卑しいことなら、私はもっと卑しめられよう」*(IIサム6:22)。私の主キリストに仕えること、私の良心をきよく保つことがもし卑しいことならば、私はもっと卑しめられよう。

適用3:慰めとして。イエス・キリストは、私たちと同じ肉体をとられ、私たちの性質を気高いものとなされた。naturam nostram nobilitavit. 私たちの性質は今や、かつての無垢の時代をはるかに越える尊貴さと特権を身に帯びている。以前の無垢の時代、私たちは神のかたちに造られていた。しかし今や、キリストが私たちの性質をとられたために、私たちは神と1つにされているのである。私たちの性質は、御使いたちの性質を越えて気高くされている。キリストは私たちと同じ肉体をおとりになって、私たちを御使いたちよりもみそばに近づけてくださった。御使いたちは彼の友であるが、信仰者たちは彼の肉の肉であり、彼の肢体である(エペ5:30; 1:23)。キリストの人間性に着せられているのと同じ栄光が、やがて信仰者たちにも着せられることになるのである。

受肉におけるキリストの謙卑[了]

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