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Christ the Mediator of the Covenant

契約の仲介者キリスト

トマス・ワトソン


「新しい契約の仲介者イエス」 ヘブル12:24

 イエス・キリストは福音の核心であり、精髄である。御使いたちの驚異、聖徒らの喜び、勝利である。キリストの甘美な御名は、耳には妙なる調べのように響き、口には蜜のように甘く、心をリキュールのように暖め、強くする。

 さてここではひとまず文脈はおき、現在かかわりのある部分についてだけ語ることにしよう。先に恵みの契約について述べたので、今度はその契約の仲介者について述べようと思う。すなわち、堕落した罪人を回復してくださる「新しい契約の仲介者イエス」である。

 聖書は、人類の偉大なる回復者キリストに対して、何種類かの名前と称号を冠している。[1]まずキリストは救い主と呼ばれる。「その名をイエスとつけなさい」(マタ1:21)。「イエス」の原語であるヘブル語には、救い主という意味がある。キリストは、地獄からお救いになる人々を罪からお救いになる。救い主であるキリストは、聖め主でもあられる。「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」(マタ1:21)。この方の他に救い主はない。「この方以外には、だれによっても救いはありません」(使4:12)。世界を大洪水から救うものが箱舟しかなかったように、罪人を地獄の滅びから救うのは、イエスおひとりだけである。ナオミは嫁たちに、「息子たちが、まだ、私のお腹にいるとでもいうのですか」(ルツ1:11)と云ったが、そのように、私たちの救いとなる神の子が、まだ神の永遠の聖定の中にいるであろうか。「知恵はどこから見つけ出されるのか。深い淵は言う。『私の中にはそれはない』。海は言う。『私のところにはない』」(ヨブ28:12、14)。救いはどこから見つけ出されるのか。天使は云う。私の中にはそれはない。定命の人間は云う。私の中にはない。礼典は云う。私の中にはない。キリストだけが、いのちの源泉である。礼典は救いを伝える伝達管にすぎない。キリストが救いを供給する泉なのである。「この方以外には、だれによっても救いはありません」。

 [2]時としてキリストは贖い主と呼ばれる。「シオンには贖い主が来る」(イザ59:20 <英欽定訳>)。ある者はこれをクロス王のことと解し、ある者は御使いのことと解す。しかし古代ユダヤ教の大多数の学者たちは、これは選民の贖い主、キリストのことであると解釈していた。「私を贖う方は生きておられる」(ヨブ19:25)。贖い主と訳されたヘブル語には、抵当にはいった物件を買い戻す(贖う)権利を持つ近親者という意味がある。そのようにキリストも、私たちの長兄として私たちの近親者であり、私たちを贖い出す最上の権利を持っておられるのである。

 [3]この箇所でキリストは「仲介者」と呼ばれている。「新しい契約の仲介者キリスト」(ヘブ12:24)。仲介者というギリシャ語には、決裂した2つの党派の間に立って、和解の労を取る仲裁人という意味がある。神と私たちは、罪によって敵対関係にあった。しかし今やキリストは、神と私たちの間に立って、仲裁の任に当たっていてくださる。キリストは、その血潮によって私たちを神と和解させてくださる。だからキリストは仲介者と呼ばれているのである。仲介者を立てず、また仲介者の働きによらずして、神と人間の間には交わりも交流の道もない。キリストは、私たちのうちの敵意を取り除き、神の御怒りを取り去って、そこに平和をつくられる。さらにキリストは、和解の仲介者というだけでなく、とりなしの仲介者でもある。「キリストは、……手で造った聖所にはいられたのではなく、天そのものにはいられたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現われてくださるのです」(ヘブ9:24)。いけにえを屠った祭司は、その血を携えて祭壇および恵みの御座の前に出て、その血を主に見せることになっていたのである。さてここでは、私たちのほむべき仲介者キリストについて2つのことを考えよう。I. キリストの御人格。II. キリストの恵み。

I. キリストの御人格。キリストの人格はまことに愛すべきである。彼は完全に愛と美とから成り立っておられる。キリストは御父の肖像であり、「神の本質の完全な現われ」である(ヘブ1:3)。ここで以下のことを考えてみよう。

[1]キリストの人格には2つの性質がある。(1.)まず、受肉の結果キリストが持たれた人としての性質に目をとめよう。ウァレンティノス派の異端はキリストの人性を否定するが、ヨハネ1:14にはこう書いてある。「ことばは人となった」。これは約束のメシヤたるキリストのことを語っているのである。キリストは私たちの肉体をお取りになった。それは、罪を犯したのと同じ性質のものが苦しみを受けるためであった。そして、「ことばは人となった」。それは私たちが、このキリストの人性という鏡を通して神を見ることができるようになるためであった。

なぜキリストはことばと呼ばれるのか

 それは、頭で考えていることを通訳するものが言葉であるように、また胸の思いを明かすものが言葉であるように、イエス・キリストは御父のみ思いを私たちに明かし、人類の救いという大いなる事柄を私たちに伝えてくださるからである(ヨハ1:18)。もしキリストの人性がなかったならば、神を見るなどということは私たちにとって恐ろしいことだったにちがいない。しかし、キリストの肉体を通してなら、私たちは恐怖しないで神を仰ぎ見ることができる。さらにキリストが私たちと同じ肉体をお取りになったのは、どのようにすれば私たちを憐れむことができるかお知りになるためであった。キリストは、疲れや、悲しみや、誘惑にあうことがどういうことかご存じである。「主は、私たちの成り立ちを知っておられる」(詩103:14 <英欽定訳>)。またキリストが私たちと同じ肉体をお取りになったのは、(アウグスティヌスが云うように)私たち人間の性質を栄誉で飾るためであった。キリストは私たちの肉をめとることによって、それを御使いの性質より高く上げてくださったのである。

 (2.)次に、キリストの神としての性質に目をとめよう。まさしくキリストは、あの地から天まで届いていたヤコブのはしごにたとえることができる(創28:12)。キリストの人性はそのはしごの足であり、地についている。キリストの神性は、はしごの天辺であって、天に達している。これは私たちの信仰箇条の中で最も偉大な部分の1つであるから、もう少し詳しく述べておこう。たしかにアリウス派やソッツィーニ派やエビオン派は、キリストの王冠からその最も美しい宝石を奪い取り、キリストの神性を否定する。しかし、使徒信条やニカイア信条やアタナシオス信条は、キリストの神性を確言している。これは、ヘルベチア(スイス)の教会、ボヘミアの教会、ヴィッテンベルクの教会、トランシルヴァニアの教会その他が認めていることである。聖書はこのことについて一点の疑念も残していない。キリストは「力ある神」と呼ばれる(イザ9:6)。「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が……宿っておられます」(コロ2:9)。彼は御父と同一の性質、本質のお方である。そのように、アタナシオス、バシレイオス、クリュソストモスも語っている。父なる神は全能と呼ばれているが、キリストもそうである。「全能者にして主なる神」(黙1:8 <口語訳>)。父なる神は心をわきまえ知るお方と呼ばれているが、キリストもそうである。「イエスは……人のうちにあるものを知っておられた」(ヨハ2:25)。父なる神はどこにでもおわすと呼ばれているが、キリストもそうである。「天にいる人の子」(ヨハ3:13 <新改訳欄外注>)。キリストが人として地上におられたとき、神としてのキリストは天におられたのである。

キリストは永遠に存在しておられるのか

 キリストは永遠の父である(イザ9:6)。この点は、ケリントス派の異端に対してはっきり主張することができよう。彼らは神としてのキリストの先在性を否定し、処女マリヤにより存在するようになるまで、キリストは存在していなかったと云うのである。

 神への礼拝は、聖三位一体の第一位格にささげられるべきだというが、キリストに対してもそうである(ヨハ5:23)。「神の御使いはみな彼を拝め」(ヘブ1:6)。天地を創造したのは神おひとりであるというが、世界の創造はキリストの王冠を飾るひときわ大きな飾りである。「万物は御子にあって造られた」(コロ1:16)。祈祷は神にのみささげなくてはならないというが、キリストに対しても祈祷がささげられている。「主イエスよ。私の霊をお受けください」(使7:59)。心の安らぎと平安は父なる神にのみ求められるべきだというが、それはキリストに対しても帰せられている。「あなたがたは……神を信じ、またわたしを信じなさい」(ヨハ14:1)。キリストは神でなくてはならなかった。神の御怒りのもとに滅び去る運命にあった人類を助け出すためばかりではない。それはご自分の苦しみに価値と重みを与えるためである。

 キリストが神である以上、彼の死と苦しみは私たちのための功績となる。キリストの血は sanguis Dei(神の血)と呼ばれている(使20:28)。なぜなら、ここで犠牲としてささげられたお方は、人であるのと同様に神であられたからである。これは信仰者の心にとって途方もなく力強い支えである。罪に対して怒っておられるのは神であるが、その怒りをなだめてくださったのもまた神なのである。このようにキリストの人格は2つの性質を持っている。

 [2] 次に、キリストの2つの性質が、神-人なるひとりの人格のうちにあることを考えよう。「キリストは肉において現われ」た(Iテモ3:16)。キリストは、神と人との二重の本質を持っておられた。しかし二重の存在であったわけではない。双方の性質が、ひとりのキリストを形造っていたのである。若枝は別の木に接ぎ木することができる。たとえば梨の小枝をりんごの木に接ぐと、その木には別々の実がなる。しかし、それは同じ一本の木なのである。そのように、キリストの人性は、言葉では云い表わしえない仕方で、神性と結合している。キリストのうちにあるこの2つの性質の結合は、変化によるものではない。神の性質が人の性質に変化したり、人の性質が神に変化したりしてできたものではない。またこれは、混合によるものではない。葡萄酒と水を混ぜ合わせたようなものではない。キリストの2つの性質は、全く異なる別のものでありながら、別個の2つの人格を形造るのではなく、1つの人格をなしている。キリストの人性は神ではなく、なおかつ神と1つとなっているのである。

II. 私たちの仲介者キリストを、その数々の恵みという点から考えてみよう。これはキリストの甘やかな香油のかおりであり、それで乙女らは彼を慕うのである[雅1:3]。私たちのほむべき仲介者キリストは、「恵みとまことに満ちておられた」(ヨハ1:14)。彼は御霊の油注ぎを無限に与えられていた(ヨハ3:34)。キリストのうちにある恵みは、人間の聖徒には及びもつかないほど卓越した、栄光あるものである。

 [1]私たちの仲介者キリストは、あらゆる恵みを完全なかたちで持っておられる(コロ1:19)。彼はすべての恵みを一分の隙もなく身につけた方、恵みの徳を無尽蔵に秘めた宝庫である。地上の聖徒は、決してこのような完全さには達することができない。何か1つの恵みにおいては卓越しているかもしれないが、すべてにおいて卓越している者はいない。アブラハムは信仰において、モーセは謙遜において抜きん出ていた。しかし、キリストはあらゆる恵みにおいて卓越しておられるのである。

 [2]キリストのうちには決して尽きることのない恵みがある。聖徒のうちにある恵みには満ち欠けがあり、常に同じ高さ、同じ強さを保つことはできない。ダビデの信仰は、あるときは強くても、あるときは微弱になり、息絶えたかと思われるほどであった。「私は……言いました。『私はあなたの目の前から断たれたのだ。』と」(詩31:22)。しかしキリストのうちにある恵みは決してなくなることがなく、常に満ち満ちている。その聖潔の程度は決して下落することがなく、少しも失われない。創49:23でヨセフに対して云われたことは、よりよくキリストにあてはまる。「矢を射る者は……彼を射て、悩ました。しかし、彼の弓はたるむこと」がない。人々と悪霊どもは彼を射て悩ました。しかし彼の恵みは常に力を失わず、強かった。「彼の弓はたるむこと」がないのである。

 [3]キリストのうちにある恵みは、人に分かち与えることのできるものである。彼の恵みは私たちのためのものである。御霊の聖なる油が、このほむべきアロンの頭に注がれたのは、その油が私たちのもとへしたたり落ちるためであった。聖徒は、他人に授けることのできるような恵みは持っていない。あの愚かな乙女たちが、隣の乙女たちに向かって、「油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです」、と云って油を買おうとしたとき(マタ25:8)、賢い乙女たちは答えた。「いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません」。聖徒は、他人のために恵みを取っておくようなことはできないのである。しかしキリストは、その恵みを他の人々にふんだんに分け与えてくださる。聖徒たちの恵みは、器に入った水のようなものだが、キリストにある恵みは、泉からわき出る水である。「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた」(ヨハ1:16)。蒸留器の下にコップを置くと、一滴一滴しずくがたまっていく。そのように聖徒らも、キリストの恵みのしたたりと力が注がれているのである。これは、恵みを全く持たない者、持っていても貯えの乏しい者にとって、何と豊かな慰めであろう。彼らはキリストのもとへ行けばいいのである。私たちの仲介者、恵みの宝庫であられる方のもとへ、こう云って行けばいいのである。主よ、私は貧しい者です。けれども、この空の器を携えて行くべきところは、つきぬ泉であられるあなた以外にありません。「私の泉はことごとく、あなたにある」(詩87:7)。私は罪深い者ですが、あなたには私を赦す血潮があります。私は汚れていますが、あなたには私を清める恵みがあります。私は死病にかかった者ですが、あなたには私を癒すギルアデの香油があります。ヨセフはエジプトのすべての穀物倉をあけて人々に小麦を与えた。キリストは私たちのヨセフである。彼は恵みの宝庫をすべて開け放ち、それを私たちに与えてくださる。彼は蜜のように甘く優しいだけでなく、蜜のしたたりを与えてくださる。私たちの仲介者キリストのうちには、豊饒の角があり、すべての恵みが満ち満ちているのである。そしてキリストは、私たちが恵みを求めてみもとへ行くことを望んでおられる。赤子に乳をやるまで、母親が乳房に痛みをおぼえるように。

適用1:私たちは、この仲介者の栄光をあがめ、たたえよう。彼は 神-人である。彼は御父と本質的に同等の栄光を持っておられる。人となって地上におられたキリストを見たユダヤ人たちは、だれひとり彼の神性を悟らなかった。その人を見た者の中で、そこにメシヤを見た者はひとりもいなかった。ソロモンの神殿の内側は黄金で飾り立てられていた。通りすがりの旅人は、神殿の外側を見たであろう。しかし神殿の内側にきらめく栄光を見ていたのは、ただ祭司たちだけであった。そのように、神に対して祭司とされた者、すなわち信仰者たちだけが、キリストのうちにあふれる栄光、人性を通して照り輝く神性を見ることができるのである(黙1:16)。

適用2:もしキリストが一人格にして 神-人であるならば、救いはイエス・キリストだけに求めよう。神性のうちには私たちの希望をかけるべきものがあるにちがいない。キリストのうちでは、神性と人性が本質において結合している。たとえ私たちが涙を川のように流し、モーセをしのぐほど断食し、几帳面に道徳的な生活を送って、律法に関しては非難の余地がなく、この世で達し得る限り最高の聖潔に到達したとしても、それらはどれも決して私たちを救うものとはならない。救いは、神であられる方の功績にたよる以外にないのである。私たちの救いの根拠となるのは、天において持つであろう私たちの完璧な聖潔ではない。イエス・キリストの義こそ救いの根拠である。それゆえ、ここにこそパウロは、祭壇の角にすがるように逃れるのである。「(私は)自分の義を持つのではなく、キリストの中にあるものと認められたい」(ピリ3:9 <英欽定訳>)。確かに、私たちの恵みは救いの証拠としてたよることができる。しかし救いの根拠としてたよるべきものは、ただキリストの血潮のみでなくてはならない。ノアの洪水のとき、山や木々にたよって箱舟にたよろうとしなかった者はみな溺れ死んだ。「イエスから目を離さないで」いることである(ヘブ12:2)。イエスから目を離してはならない。そうすれば、彼は私たちの性質と結合しておられるばかりでなく、私たちの人格とも結合してくださる。それは、「あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである」(ヨハ20:31)。

適用3:イエス・キリストは神と人が1つの人格となっているお方である。ならばこれは、「満ち満ちた神の本質を宿らせ」ておられる、史上最も偉大な人物と親しく結びついているという信仰者の栄誉を示すだけでなく(コロ1:19)、言葉につくせない大きな慰めを表わすものである。キリストの2つの性質(神性と人性)が1つとされている以上、キリストは、信仰者のためになることならば、そのどちらの性質によることであれ、すべて行なってくださるであろう。人としての性質によってキリストは信仰者らのために祈り、神としての性質によって、彼は彼らのための功績となってくださるのである。

適用4:私たちは、私たちの仲介者キリストの愛をあがめよう。彼が身を低めて私たちの肉を取り、私たちを贖ってくださったことをあがめよう。信仰者は、花嫁がそうしたように、キリストを胸の間に抱くべきである(雅1:13)。イグナチウスについて云われたことは、あらゆる聖徒にとって真実でなくてはならない。彼の心にはイエスの御名が書き込まれていたと云われる。そのように聖徒たちも、心にキリストを刻みこんで生きるべきなのである。

契約の仲介者キリスト[了]

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