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Profitable Bible Reading

聖書の有益な読み方

トマス・ワトソン


I. 神のみことばに近づくこと。

 これから私は1つの壮大な問題について語ろうとしている。それは、私たちはいかにして聖書を読めば、最も霊的に益を得ることができるか、ということにほかならない。これはゆゆしき問題である。

 この問題の解決として、私は聖書を読む際の規則もしくは指針をいくつか規定しようと思う。

 まず聖書を読んで益を得ようとする者は、益を得る妨げとなるものを取り除かなくてはならない。

 1. いかなる罪への愛も除き去りなさい。どれほどすぐれた医薬を処方しようと、患者が毒を飲んでいるなら、薬の効き目はさまたげられ、何の効果もないであろう。聖書はきわめてすぐれた医薬を処方する。しかし、住みついた罪はすべてを台なしにしてしまう。体は熱にうかされていては成長できない。同様に、魂も肉欲の熱にうかされていては成長できない。プラトンは罪を愛することを「大いなる魔物」(magnus daemon)と呼ぶ。ばらの花が内側で繁殖する癌腫病によって枯れてしまうように、人の魂も内部に住みついている罪によって滅ぼされるのである。

 2. 読んだみことばをふさぐいばらに注意しなさい。私たちの主はこのいばらを「この世の心づかい」であると説き明かされた[マタ13:22]。「心づかい」とは貪欲のことであり、貪欲な人とは二心を持つ人である。そういう人は、あまりに多くの世俗的な仕事にかかずらっているために読む時間もない。たとえ読む時間をとったとしても、何とだらけた読みかたであろう。目は聖書の上にありながら、心は世のことに向けている。使徒の手紙よりも会計簿の方に関心があるのである。このような者が益を得られようか? もしこのような者が聖書から益を引き出せるなら、石から油とシロップを絞り出すこともたやすいにちがいない。

 3. みことばを冗談に用いないように気をつけなさい。それは火をもて遊ぶことである。神に向かって悪態をつかないと陽気になれない人々がいる。心が沈むときには、聖書のことばを冗談めかして持ち出して、悪霊を追い払う立琴がわりにするのである。だが自分の王冠が冗談の種にされることにがまんのならなかった国王エドワード4世は、おれの息子を王座の後継者にしてやろうと云った男を死刑にした。なおのこと神は、御自分のみことばが冗談の種にされることをお許しになるまい。エウセビオスは、ある聖句を冗談に仕立てた男が、神に打たれて狂人になってしまったという話を伝えている。神がこのような者どもを「卑しい思い」[ロマ1:28]に引き渡されるのも当然である。

 益を得ようとする者は、みことばを読むための心を整えなさい。心は調律を必要とする器械である。「あなたがたの心を整え、主に向けなさい」[Iサム7:3]。これには、以下の2つの備えがある。(1) 心の思いを集中させて、これからはじめる厳粛なつとめにあたること。心はふらふらとあちらこちらをうろつくものである。だから、これを1つにまとめなさい。(2) 読む気をなくさせるような汚れた感情を一掃すること。蛇はえものを呑み下す前に、自分の毒を吐き出すという。この点で、私たちは「へびのようにさとく」なるべきである。私たちは、この「いのちの泉」に来る前に、汚れた感情という毒を捨て去らねばならない。多くの人々は、あまりにも軽率にみことばを読み出す。備えもしないでやって来るとしたら、益を受けずに去っていかねばならないとしても不思議ではない。

 聖書は恐れをもって読みなさい。自分の読んでいる一行一行は、神の個人的な語りかけであると考えなさい。律法のおさめられた契約の箱は純金でおおわれ、レビ人が触れることのないように棒を通してかつがれた[出エ25:10-15]。なぜか。民に恐れの思いを生じさせるためにほかならない。エフデが神のお告げを知らせにきたと云ったとき、異教徒の王エグロンでさえ自分の王座から立ち上がった[士師3:20]。聖書に書かれていることばは、エホバの神から私たちにあてたメッセージなのである。私たちは、これをどれほど深い尊敬の念をもって受け取るべきか!

 聖書は順序立てて読みなさい。もちろん、そうした読みかたから余儀なくはずれることもあろう。しかし、一貫して聖書を着実に読んでいくには、この読みかたが最善の方法である。秩序は記憶を助ける。友人からの手紙を真中から読み出す者はいない。

 聖句の正しい理解を得なさい。「どうか私に、悟りを与えてください。私があなたの仰せを学ぶようにしてください」[詩119:73]。聖書に難解な箇所があるのは事実である。それらは容易に解決がつくわけではない。しかし、救いに関する本質的なことがらについては、聖霊がわかりやすく教えてくださっている。聖句の意味に関して知識を得ることは、益を得るための第一歩である。聖句と聖句を読みくらべ、つきあわせ、最良の注解書を用いて、可能な限り知識を得なさい。知識がなければ、聖書は封印された書物である。どの行も私たちの手に負えない。そしてみことばは、私たちの知性を打つのでなければ、決して私たちの心を打ちはしない。 みことばは真剣に読みなさい。エラスムスは云う。「聖書はざっと読むだけでは、ほとんど益を得ることができない。しかし、真剣に読むならば、これは《いのちの香り》である」と。また、もし私たちがこの聖なる書物におさめられている真理の重要性を思うならば、十分真剣になるべき理由はあるであろう。「これは、あなたがたにとって空しいことばではなく、あなたがたのいのちであるからだ」[申32:47]。自分の全財産がどうなったか書いてある手紙の封を切り、それをこれから読もうという人は、どれほど真剣に読むだろう! 聖書には、私たちの救いがかかわっている。キリストの愛という、きわめて重大な主題を扱っている[テト3:4]。キリストは御使いたちよりも、堕落した人類を愛してくださった[ヘブ2:16]。磁石が、金や銀には目もくれず、卑しい鉄を引き寄せるように、キリストは御使いたちには一顧だにせず、人類をみもとに引き寄せられた。キリストは御自分のいのちにもまさって私たちを愛してくださった。否、御自分の死にさえ手を貸した私たちを、キリストは、み思いの中にとどめておられるのである。これは「人知を越えた愛」[エペ3:19]である。いったい誰がこれを面白半分に読むことができよう。聖書は私たちに信仰の奥義を語り、永遠の報いを語り、救われる人が少ないことを語る。「選ばれる者は少ない」[マタ22:14]。全ローマ皇帝のうち、その性善良な者の名は、小さな指輪の裏表にもれなく刻みこむことができるほどであるという。いのちの書に記されている名前も多くはないであろう。聖書は私たちに、焼けつく苦しみからのがれようとする者のように天国に「押し入れ」と命じている[ルカ13:24]。「約束の安息」からもれることのないように警告し[ヘブ4:1]、地獄で味わう苦しみを「うじと火」と表現している[マコ4:48]。このようなことばを読んで誰が真剣にならずにいられよう。軽薄で浮わついた心の者らは、過越の羊を大急ぎで食べたイスラエルのように、重大きわまりない真理を急いで読み飛ばしてしまう。そしてその結果、みことばから益を受けることがないのである。だから聖書は、厳粛な落ち着いた思いをもって読みなさい。真剣さは、キリスト者がつまらぬ物事によってひっくりかえされないための重しである。

 読んだことを忘れないように努力しなさい。サタンは人の心からみことばを盗もうとしている[マタ13:4、19]。それは別に、自分も益を得ようなどという殊勝な思いからではない。私たちがそのみことばを用いないようにするためである。私たちは自分の記憶力を、律法のおさめられた契約の箱のようにしなければならない。「私は、あなたのとこしえからの定めを思い出しました」[詩119:52]。ヒエロニムスの書くところによると、ポーラという敬虔な婦人は聖書をほとんど全部暗唱できたという。私たちは、私たちのうちにみことばを「住まわせる」ように命じられている[コロ3:16]。みことばは、内なる人を飾る宝石である。それを記憶せずにおくというのか。「おとめが自分の飾り物を忘れるだろうか」[エレ2:32]。食べたものをすぐに吐き出してしまう病気にかかって衰弱していく人々がいる。みことばも、思いのうちにとどまらなければ益とはならない。ある者らは聖書を一行おぼえるよりも、新聞記事を1つ覚える方が得意のようだが、そのような記憶力は、蛙が住んでも魚は死んでしまう沼のようなものである。

 読んだことについて瞑想しなさい。「私は、あなたの戒めに思いを潜めます」[詩119:15]。ここで「思いを潜める」と訳されたことばは、ヘブル語では「心の中で熱心になる」という意味である。瞑想においては、私たちの思いをその対象に集中させねばならない。処女マリヤは、それらのことを「思い巡らした」とある[ルカ2:19]。瞑想は聖書を練り上げることである。聖書を読むことは、真理を頭の中におさめること、聖書を瞑想することは、真理を心の中におさめることである。読むことと瞑想することは、双子座の兄弟カストルとポルックスのごとく、常に相伴っていなくてはならない。読まないで瞑想しては誤謬におちいるし、読んでも瞑想しなければ実を結ばない。蜜蜂は花を吸ったあと、巣の中でそれをよく練り上げて蜜にする。私たちも、聖書を読んでみことばの花を吸い、瞑想することによって、それを思いの中で練り上げ益とするべきである。瞑想は、私たちの感情をかきたてるふいごである。「私がうめく間に、火は燃え上がった」[詩39:3]。私たちがみことばを読んだあとでかくも冷ややかなのは、瞑想の火で暖まることをしないためである。 へりくだった心をもって読みなさい。みことばを通して神にお会いするなどという特権に、自分がいかにふさわしくない者であるか認めなさい。神の奥義は、へりくだった者とともにある。益を受けようという者にとって、高ぶりは敵である。孔雀が腰を下ろす地面は、ちり1つないやせた地面だという。高ぶりが腰をすえる心もやせた不毛の地であろう。傲慢な人間は、みことばの忠告を蔑み、みことばの叱責を憎む。このような者が益を得ることができようか。「神は、へりくだる者に恵みをお授けになる」[ヤコ4:6]。最も偉大な聖徒たちは、常に自分のことを取るに足りない者とみなしてきた。天頂にのぼった太陽のごとく、彼らは最も高い所にいたときに自分を最も小さく見せたのである。ダビデは「すべての師よりも悟りがあった」[詩119:99]。しかし、何と彼はへりくだっていたことか。「私は虫けらです。人間ではありません」[詩22:6]。

 正しい心をもって読みなさい。キリストは、「正しい、良い心」について話された[ルカ8:15]。正しい心でみことばを読むとはどういうことだろうか。

 (1) 神がのぞんでおられることをすべて知ろうという心で近づくこと。良い心は、どんな真理でも隠されたままにしておこうとはせず、ヨブのごとくに「私の見ないことをあなたが私に教えてください」と云う[ヨブ34:32]。真理のえりごのみをする者は、みことばの一部は実行するが、ほかのみことばには従おうとしない。これは良くない心であり、聖書から益を得ることはできない。彼らは、薬用シロップを添えて苦い薬を処方された患者に似ている。甘いシロップだけは飲むが、薬を飲もうとはしないのだ。

 (2) また、正しい心でみことばを読むとは、そのみことばによって、より良くなろうとして読むことである。みことばは、きよめのための手段であり、きよめを助けるものである。みことばを読むのは、単に啓発されるためではない。きよめられるためである。「あなたの真理によって彼らを聖め別ってください」[ヨハ17:17]。ある人々は、花を摘みに庭に出るように聖書に近づく。すなわち、新奇な思想という花を求めて来る。回心前のアウグスティヌスも、アンブロシウスの説教を聴きにきたのは、霊的な事柄のためというよりは、彼の弁舌がたくみで思想が奇抜だったためであったと、後になって告白している。これは、顔は化粧しながら健康状態には無関心な婦人のごときものである。しかし、正しい心を持つというのは、らい病がいやされることを願ってヨルダン川へ赴くナアマンのごとく聖書に近づくことなのである。そのような者はこう云うであろう。「おお、願わくはこの御霊の剣が、かたくなな私の心をつらぬき、この尊いみことばが、あのねたみの水[民5:27-28]のように私の罪を殺し、私を、恵みのうちにあって実を結ぶ者としてくれますように」、と。

II. 神のみことばを適用すること。

 聖書を適用することを学びなさい。みことばはすべて自分に向けて語られたものと考えなさい。みことばが罪を激しく非難している箇所では、「これは私のあの罪のことが云われているのだ」、と思い、なすべき義務が力説されている箇所では、「神は私に、この義務を果たせと云っておられるのだ」、と思いなさい。多くの人々は、聖書がまるで書かれた当時の人々以外には関係ないかのように考えて、聖書を頭からしりぞけている。しかし、もしみことばによって益を得ようと思うのであれば、みことばを真心から受け入れなさい。薬は、飲まなければ何の役にも立たない。古の聖徒らは、まるで名指しで自分に語られたかのようにみことばを受け入れた。ヨシヤ王は、神の書にしるされていた神の憤りについて聞いたとき、それを他人事とは思わず、衷心より「主の前にへりくだり、自分の衣を裂いた」のである[II列22:11、19]。

 みことばの約束だけ見るのでなく、その命令にも従いなさい。命令のうちには、なすべき義務が教えられている。約束のうちには、慰めが示されている。約束を受けて慰めを得るだけでなく、命令に従って自分の務めを果たしなさい。命令を無視して約束にだけ目をとめる者が、みことばによって建て上げられることはない。義務を捨てて慰めを求めてはならない。そのような者は、ダフネを抱くつもりで月桂樹を抱いたアポロンのように、本当の慰めを取り違えているのだ。食事をしなくても、息を吸い込んだだけで腹はふくれる。人は、純粋なほんとうの慰めでなくても、偽りの慰めで満ち足りることができるものである。

 聖書の中でも、特に重要な箇所に思いを潜めなさい。蜂は、一番甘い蜜が手に入る花のところから離れないであろう。確かに聖書はすべて優れて良いものだが、中には特に重点が置かれており、ひときわ強く人の心を打つ箇所がある。12部族の名前を読んだり、族長たちの家系をたどったりするのもいいが、信仰のことや「新しい創造」の方が重要である。まず「重みのある教え」(magnalia legis)を心にかけなさい[ホセ8:12 <英欽定訳>]。自分の好奇心を満足させることしか考えずにみことばを読む者は、どんなにせっせと読んでも益を得ることがない。この世におけるキリストの一時的な支配について余りにせんさくする者は、自分の魂のうちにおけるキリストの霊的支配を弱めるのではなかろうか。

 みことばと自分をくらべてみなさい。みことばとあなたの心が一致しているかどうか調べてみなさい。この太陽とあなたの日時計は一致しているか。あなたの心は、云ってみれば、みことばの複写、みことばの反映となっているだろうか。みことばはへりくだるように求めているが、あなたはへりくだっているだろうか。単に自分を卑下しているというだけでなく。みことばは新しく生まれるように求めているが[ヨハ3:7]、あなたは自分のうちに聖霊の証しと証印を持っているだろうか。あなたの心は変えられているか。ちょっと道徳的に変わったというばかりでなく、霊的に変えられているか。からだは元のままだとしても、魂はまるで別の魂が住みついたかのような、そんな変化をこうむっているだろうか。「あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、あなたがたは洗われ、聖なる者とされたのです」[Iコリ6:11]。みことばは聖徒たちを愛するように求めているが[Iペテ1:22]、あなたは神の恩寵を受けているすべての人を愛することができるか。金持ちの信者だけでなく、貧乏人の信者をも愛することができるか。たとえ粗末な額縁に入れられていても、息子は父親の肖像画を愛するものだ。私たちは、たとえまだ精練されていなくとも、本物の金なら貴重に思う。では同じように、内側に神の恵みを有する人ならば、たとえ多少の欠点はあろうと愛することができると云えるだろうか。みことばの示す標準と自分の心とをつきあわせてみて、2つが一致しているかどうか調べてみなさい。それは非常に有益である。そうすることによって私たちは、自分の魂が真実どのような状態にあるか、また天国へ入るためのいかなる証しを持っているかを知ることができるのである。

 現在自分が直面している問題について語りかけるみことばを、特に心にとめなさい。肺病を病む人がガレノスやヒポクラテスの著書を読むならば、何をおいても真っ先に、肺病について何と書かれているかを見るであろう。人は、現在の問題に最も適合するみことばの箇所に深い注意を払うべきである。ここでは、ほんの3つだけ例を挙げておこう。それは、1. 患難、2. 霊的な渇き、3. 罪、の3つである。

 第一に、患難。神があなたの足かせを重くされたときには、次のみことばを引いてみなさい。「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです」[ヘブ12:7; 他にも ヨブ36:8、9; 申8:15; I列11:39; 詩89:30-33; ヘブ12:10、11; 詩37:39; ロマ8:28; Iペテ1:6、7; II歴33:11-13; 黙3:19; IIコリ4:16; ヨブ5:17; ミカ6:9 を参照]。「ヤコブの不義は、これによって、あがなわれる。これによって結ぶ実は彼の罪を除く」(イザ27:9 <口語訳>)。「あなたがたの悲しみは喜びに変わります」[ヨハ16:20]。フランスには、uve de spine「茨の葡萄」と呼ばれる木の実があるという。神が悲しみのうちから引き出してくださる喜びもまた、茨の葡萄である。「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです」[IIコリ4:16]。画家は暗い色調の上に金色を重ねる。神もまず患難という暗い色を塗ってから、栄光という黄金の色を塗り重ねるのである。

 第二に、霊的渇き。あなたの霊的慰めが取り去られたときには、以下の箇所を読んでみなさい。「怒りがあふれて、ほんのしばらく、わたしの顔をあなたから隠したが、わたしは永遠に変わらぬ愛をもって、あなたをあわれむ」[イザ54:8; また 哀歌3:31-33; 詩106:6、9; 103:9; マコ15:34; イザ8:17; 49:15; 50:10; 54:10; IIコリ7:6 を参照]。太陽は、雲間に隠れることはあっても、天空から消え去ることはない。神は御顔を隠されるかもしれないが、その契約を捨て去りはしない。「わたしはいつまでも争わず、いつも怒ってはいない」[イザ57:16]。神は、音楽家にも似て、そのリュートの和弦をきつく張りつめることはなさらない。切れることのないためである。「光は、正しい者のために、種のように蒔かれている」[詩97:11]。聖徒の慰めは、地面の下の種のように隠れているかもしれない。しかし最後には、喜びの収穫となって生い出づる。

 第三に、罪。1. 肉欲があなたを引きづっていこうとするときには、ガラテヤ5:24; ヤコブ1:15; Iペテ2:11 を読みなさい。「魂に戦いを挑む肉の欲を遠ざけなさい」。肉欲は抱擁によって人を殺す。「すると、遊女の装いをした女が彼を迎えた。彼はほふり場に引かれる牛のように、ただちに女につき従い、ついには、矢で肝を射通された」[箴7:10、22、23]。「他国の女の口車は深い穴のようだ。主の憤りに触れた者がそこに落ち込む」[箴22:14]。聖所の流れのもとに来て、肉欲の火を消しなさい。

 2. 不信仰の思いに圧倒されそうなときには、イザヤ書26:3を読みなさい。「あなたに心を定める者を、あなたは全き平安[shalom、shalom、平安の平安]のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです」。ボルトン氏は、病床にあったとき、次のみことばから大きな慰めを受けたという。「主のみことばは純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾」[IIサム22:31; また ゼパ3:12; 詩34:22; 55:22; 32:10; マコ9:23; Iペテ5:7 を参照]。「信ずる者はみな、彼にあって永遠のいのちを持つ」[ヨハ3:15]。不信仰は神を侮辱する罪である。「神を信じない者は、神を偽り者とするのです」[Iヨハ5:10]。またこれは魂を殺す罪である。「御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる」[ヨハ3:36]。

 このように、みことばを読む際には、自分が今かかえている特定の問題に関連したみことばを心に留めなさい。もちろん聖書はすべて読むべきだが、現在の状況にはっきりあてはまる聖句には、特に星印をつけておくようにしなさい。

 みことばの中の実例に特に注意を払いなさい。他の人々の例を、自分に対する生きた説教とするのである。

 1. 罪人にのぞむ神のさばきを戒めとしなさい。神は高慢な人間をいかに厳しく罰されたことか。ネブカデネザルは草をむさぼり食う者にされ、ヘロデは虫にかまれて死んだ。神は偶像を拝む者どもをいかに厳しく疫病で打たれたことか[民25:3-5; I列14:9-11]。欺く者をいかに素早くさばかれたことか[使徒5:5、10]。こうした数々の実例は、私たちが避けるべき道しるべとして記されたのである[Iコリ10:11; ユダ7]。

 2. 聖徒に対する神のあわれみを心にとめなさい。土牢に投げ込まれたエレミヤも、火の炉の中の3人も、獅子の穴の中のダニエルも神は守ってくださった。これらの例は、信仰をささえる支柱であり、聖潔へとかりたてる拍車である。

 心が暖められるまで読むのをやめないようにしなさい。「私はあなたの戒めを決して忘れません。それによって、あなたは私を生かしてくださったからです」[詩119:93]。みことばは、単に歴史としてだけ読むのではなく、そこから影響を受けるように努めなさい。みことばの知識をふやすだけでなく、みことばによって燃え立たされなさい。「わたしのことばは火のようではないか----主の御告げ」[エレ23:29]。あのふたりの弟子とともに「私たちの心は燃えていたではないか」[ルカ24:32]と云えるようになるまで、みことばの前から離れないようにしなさい。

 読んだことを実行に移しなさい。「私はあなたの仰せを行なっています」[詩119:166]。医学生は、医学の体系や大要をひととおり学び終えたとしても、それで満足はせず、その医学を実践したいと思うであろう。信仰の精髄はこの実践の部分にある。したがって、みことばは云う。「一生の間、これを----このみおしえを----読まなければならない。それは、このみおしえのすべてのことばとこれらのおきてとを守り行なうことを学ぶためである」[申17:19]。キリスト者は、生きた聖書でなくてはならない。クセノフォンは云う。「リュクルゴスの法典を読む者は多いが、それに従おうとするものはほとんどいない」。書かれたみことばは、学ぶべき教えというだけでなく、従うべきおきてである。私たちの目を正し、私たちの歩みを正すべきものである。ダビデは神のみことばを「私の足のともしび」と呼ぶ[詩119:105]。ダビデにとってこの光は、単に目がものを見るために必要なだけでなく、足元を照らして歩んでいくために必要であった。知識のタラントを商って、それを収益に変えるには、実践し実行することである。みことばの禁ずる罪から遠ざかり、みことばの命ずる義務を受け入れてはじめて、私たちは良い読み方をしていると云える。ただ読むだけで実行しない者は、明かりをつけたまま地獄へはいっていく愚か者と云われても仕方あるまい。

 預言者として働かれるキリストによりたのみなさい。キリストは「ユダ族から出た獅子」であり、神の「巻き物を開いて、七つの封印を解くことができる」お方である[黙5:5]。キリストは、いのちを与えるお方であると同時に、教えを与えるお方でもある。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、いのちの光を持つのです」[ヨハ8:12]。大哲学者アリストテレスは、「光と熱は相伴って強くなる」、と語っている。それはこの場合にもそのまま当てはまるであろう。キリストが御自分の光を伴って魂のうちにおはいりになると、そこに熱い霊的ないのちも宿るのである。キリストは私たちに「みことばの味わい」を与えてくださる。「あなたは私を教えられました。あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう」[詩119:102、103]。神のみ約束を読むことと、それを「味わう」ことは別である。聖書を真に深く読みたいと願う者は、キリストを師として迎えなさい。「そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いた」[ルカ24:45]。キリストは聖書を開かれたばかりでなく、彼らの心(理解力)をも開いてくださったのである。

 教会の門をしばしばくぐりなさい。正式に任命された牧会者のもとへ忠実に通いなさい。「幸いなことよ。日々わたしの戸口のかたわらで見張り、わたしの戸口の柱のわきで見守って、わたしの言うことを聞く人は」[箴8:34]。というのも、牧師は神のみことばの解説者だからである。聖書の中の明瞭でない箇所を説き明かすのが、そのつとめである。聖書の中には、「つぼと、つぼの中にかくされたたいまつ」の話が載っている[士師7:16]。確かに牧師は「土の器」である[IIコリ4:7]。しかし、この器の中には、暗闇の中にいる魂をあかあかと照らし出すたいまつがかくされているのである。

 益を受けることができるように神に祈りなさい。「わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教える」[イザ48:17]。ダビデと同じように祈りなさい。 「私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください」[詩119:18]。みことばの上にかけられたおおいを取りのけ、自分にみことばを理解させてくださるよう神に祈りなさい。聖い生き方の規範としてのみことばだけでなく、聖い生き方の原動力となる恵みをも与えてくださるように祈りなさい。神の御霊の導きを乞い求めなさい。「あなたは、彼らに悟らせようと、あなたのいつくしみ深い霊を賜わりました」[ネヘ9:20]。航路を定める羅針盤を備え、錨索や滑車を完全装備した船であっても、何よりもまず順風に恵まれなくては航海することはできない。それと同じように、たとえみことばが羅針盤として道を示してくれ、私たちが自分の努力という錨索や滑車を働かせるとしても、もしそこで神の御霊が私たちを押し出してくださらなければ、実を結ぶ有益な航海はできない。しかし、もし全能の神が私たちにとって「露」となってくださるなら、私たちは「ゆりのように花咲き」、私たちの「美しさはオリーブの木のようになる」[ホセ14:5、6]。聖霊の油注ぎを懇願しなさい[Iヨハ2:20]。日時計の文字盤を見ることはいつでもできる。しかし、太陽に照らされなくては時間を知ることができない。私たちも聖書の中の多くの真理を読むことはできる。しかし、神の御霊が魂を照らしてくださらぬ限り、それを救いの真理として知ることはできない[IIコリ4:6]。御霊は「知恵と啓示の御霊」である[エペ1:17]。ピリポを馬車の隣の席に乗せてはじめて、あの官宦はみことばを理解した[使徒8:29-35]。御霊がともに働いてくださってはじめて、みことばは救いのために十分な力を持つのである。

 もしここに挙げた規則を守るならば、書かれたみことばは、神の祝福によって「心に植えつけられたみことば」[ヤコ1:21]となるであろう。良い若枝をたちの悪い台木に接ぎ木すると、それが台木の性質を変えてしまい、甘い実を豊かに実らせるようになる。そのように、みことばも救いへ至るように人の心に接ぎ木されると、心をきよめ、甘い「義の実」[ピリ1:11]を結ばせる。

 いかにして聖書を読めば、最も霊的に益を得ることができるか、という問いに対する答えは、これにつきる。

 最後に、上のことから必然的に導き出されるであろう2つのことを述べて終わろう。

 1. 聖書は、ただのっぺらぼうに読むだけで満足してはならない。少しでも霊的に向上し、益を受けるようにしようと努力しなさい。みことばを自分の心に書き写しなさい。「彼の心には神のみおしえがある」[詩37:31]。自分がみことばと同化するまで、みことばから離れてはならない。神の書を読んで益を受けることのできる人々こそ、この世で最もすぐれたキリスト者である。なぜなら、彼らは神の払われた代価に十分答え、キリスト教信仰の重みを増し、自分の魂を救うからである。

 2. 聖なるみことばを読んで益を受けたなら、神の素晴らしい恵みをあがめなさい。神があなたに光を注いでくださったばかりでなく、その光を見ることができるようにあなたの目を開いてくださったことに感謝しなさい。神がその秘宝の扉を開き、あなたを救いの知識で富ませてくださったことをたたえなさい。みことばを持たないために滅んでいく人々もいるが、みことばを自分の役に立てようとしないために滅ぶ者もいる。神は世の何百万という人々を顧みず、その大いなる選びの愛をあなたひとりに注いでくださった。あの雲の柱のように、他の人々には暗い方の側を見せているみことばが、あなたには明るい方を見せている。他の人々にとっては「死んだ文字」であるみことばが、あなたにとっては「いのちの香り」となっている。キリストはあなたの前に現われてくださったばかりか、あなたのうちに御自身を現わしてくださった[ガラ1:16]。こうしたもろもろのことを覚えるとき、あなたは聖なる驚きにわれを忘れて、神への愛に燃えるセラフィムの心を求めないだろうか。天をゆるがさんばかりに神をたたえる御使いたちの声を求めないだろうか。

 反論:しかし信者の中には、自分のような者がみことばを読んでも益を受けるでしょうか、と云う人がいるかもしれない。

 答え:肉体の失神時と同様に、気力がなえてしまったときや、「心の弱るとき」には、強心剤が必要である。そこで、自分は駄目だという思いに心ひしげそうな人のために、ほんの少しだけ強心剤を差し上げよう。

 1. たとえ他の人々より劣っているとしても、みことばを読んで益を受けることはできる。30倍の実しか結ばなかった地もまた「良い地」ではあったのである[マタ13:8]。他の傑出した聖徒らと同じ歩幅で歩けないからといって、自分は駄目だなどと云ってはならない。あの三勇士には及ばなかった者らも、ダビデの勇士たちのうちに数えられているではないか[IIサム23:19、22、23]。

 2. たとえそれほど理解が早くなくとも、みことばを読んで益を受けることはできる。自分は血の巡りが悪いから駄目なのだと自らを責める人がいる。しかし、私たちのほむべき主が御自分の受難を予告されたときには、使徒たちですら「そのみことばを理解できなかった。それは彼らから隠されていたのである」[ルカ9:45]。ヘブル人への手紙の著者も、ある人たちは「耳が鈍い」と語っているが[ヘブ5:11]、そういう人たちもまた選びの民であることにかわりはなかった。それほど鋭い判断力を持っていない人も、神を愛する思いにおいてはだれにも負けないかもしれない。レアは目が弱かったが、たくさんの子を生んだではないか。確かに、あるキリスト者の知性が、他の人よりも弱くて鈍いということはありえる。しかし、その乏しいみことばの知識でさえ、罪から遠ざかるためには十分である。近眼の人でも、かすかな視力があれば水たまりに落ち込まずにすむのである。

 3. たとえそれほど優れた記憶力を持っていなくても、みことばを読んで益を受けることはできる。自分はもの覚えが悪くて……と愚痴る人は少なくない。

 キリスト者よ、あなたは自分の記憶力の乏しさを嘆くのか。では、慰めとしてこう申し上げよう。

 (1) たとえ、もの覚えが悪くとも、良い心を持つことはできる。

 (2) たとえ読んだことを全部覚えていられなくても、最も重要なこと、自分に最も必要なことは覚えることができる。宴席についたとき、私たちは出された料理をことごとく平らげはしない。最も舌を喜ばせ、栄養があるものを食べるであろう。良いキリスト者の記憶はランプのようなもので、たとえ油をなみなみと満たしてはいなくても、火をともすだけの油ははいっているのである。あなたは、神への愛を燃やすだけのみことばは保っているであろう。だから元気を出しなさい。あなたは読んだことから益を受けることができる。そして、次のみことばの励ましを心に留めなさい。「助け主、すなわち聖霊は、あなたがたにすべてのことを思い起こさせてくださいます」[ヨハ14:26]。

聖書の有益な読み方 [了]

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