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キリストは本当に目に見える形で再臨するのでしょうか?

 その通りです。イエス・キリストご自身が肉体をもって、目に見える形でこの地上に戻ってこられるということほど聖書ではっきり教えられていることはありません。使徒1:11では、イエスが天へ上げられるのを目にした後、じっと天を見上げていた弟子たちのそばに白い衣の二人の人が立ち、こう云いました。「あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります」。今、彼らはイエスご自身が目に見える形で天に上げられたのを見ました。まさにそれと同じように、主は戻ってこられるというのです。

 主が自ら戻ってこられることを否定する人々は、「同じ有様で」を「同じように確実に」、という意味であると云おうとします。しかし、「同じ有様で」と訳されたギリシャ語をそのように解釈することはできません。この言葉は決してそのような意味で用いられることのないものです。これを文字通り訳すと、「まさにそれと同じ仕方で」となり、これは、ある事がなされる正確な仕方を云い表わすため以外には、決して用いられません。イエス・キリストは、その天に上られるのを弟子たちが見たのとまさに同じような仕方で、ご自身、肉体をもって、目に見える形で戻ってこられます。

 同じ真理は、ヨハネ14:3やIテサロニケ4:16、17他の多くの箇所で教えられています。ヘブル9:28ではこう語られています。「キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです」。ここで、「来られる」、と訳された言葉は、文字通りには、「現われる」、ということです。これは目で見ることにだけ用いられる言葉です。黙示録1:7にはこうあります。「見よ。彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く」。

 これらの約束は非常に明白であって、健全な解釈法に従う限り、どう考えても、一部の人々の云うように、聖霊においてキリストがやって来られることを指しているとは考えられません。確かに聖霊においてキリストがやって来られることは、ある意味では、まさにキリストが戻って来られることにほかなりません(ヨハネ14:15-18、21-23参照)。しかし、それとこれらの箇所で言及されているキリストの再臨とは違います。神の明白なみことばをねじまげるのでない限り、そのような解釈はできません。

 またこれらの箇所で述べられているキリストの来臨は、信者の死のときにキリストがお迎えにやって来られることでもありません。細かい部分を見ていくと、これが信者の死にあてはまらないことは明らかです。

 さらにこれらの箇所は、エルサレムの破壊[A.D.70]におけるキリストの訪れを指すものでもありません。ある意味で、エルサレムの破壊は、時代の終末に行なわれるさばきの前兆であり、預言であり、予型でした。それでマタイ24章とマルコ13章では、エルサレム破壊と終末のさばきという2つの出来事が、互いにからみあいながら述べられています。しかし、エルサレムに対する神のさばきは、明らかに先の箇所で言及された出来事とは違います。ペンテコステにおける聖霊降臨の後の、エルサレム陥落の後では、イエス・キリストの再臨こそ教会の大いなる希望であると新約聖書は何度も何度も語っており、それはまだ未来のことに属すると云われているのです(例えば、ヨハネ21:22、23; 黙示1:7; 22:20 参照)。

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