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切迫した必要

NO. 3557

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1917年3月29日、木曜日発行の説教
説教者:C・H・スポルジョン
於ニューイントン、メトロポリタン・タバナクル
1870年7月31日、主日夜


「今が、主を求める時だ。ついに、主は来て、正義をあなたがたに注がれる」。――ホセ10:12


 ホセアは、農作から引き出した数多くの比喩を用いている。この節の前半では、主を求めることとは、耕し、種を蒔き、耕地を開拓することだと述べている。このことによって彼は、こう述べようと意図していたのだと思う。すなわち、罪の確信や、魂のへりくだりは耕すこと、イエス・キリストを信ずる信仰によって福音の真理を受け入れることは種を蒔くことである、と。これによって生ける種は魂に持ち来たらされるからである。そして彼はここで、なぜこの、主を求めるという問題に即座に心を傾注すべきであるかについて、2つの理由を示している。彼の第一の理由は、時期である。「今が、主を求める時だ」。第二は、神が正義を私たちに注がれるという、非常に恵み深い期待である。まず第一に、この預言者はこう論ずる。私たちが主を求めるべきなのは、今が――

 I. 《神を求める時》だからである。

 「今が、主を求める時だ」。最初にあなたに思い巡らしてほしいのは、私たちにはまだ時間がある、ということである。そうでない場合もありえたであろう。私たちが、自分のもろもろの罪の中で断ち切られていたこともありえた。私たちの隣人や知り合いの多くの人々は死んでしまった。そして、その中の一部の人々は、私たちの知っていることからすると、残念ながら自分の不義の中で死に、一打ちで取り去られてしまったのではないかと思う。私たちも数々の危険をくぐり抜けてきた。ある者は難船から救い出された。ある者は事故に遭ったが間一髪で免れた。私たちの中のある者らは、重い病気にかかり、死の顎そのものの中に入り込んだことがある。私たちはほとんど、あるいは、全くこう歌うことができよう。――

   「主よ。われいまだ 生きてあり、
    苦しみおらず 地獄(よみ)になく、
    なお汝が御霊 争えり、
    この罪人の かしらとも」。

私たちにはまだ時間がある。生きている人は誰も、自分には時間がないと云ってはならない。いのちが保たれている間は、希望も保たれている。「のろわれた者ども。離れて行け」*[マタ25:41]との宣告は、まだキリストの口からあなたに下ってはいない。その宣告を自分で自分に下してはならない。自分の場合は絶望しかないと決めつけたり、それを本当に絶望的なものにしてはならない。むしろ、信ずるがいい。いま神の民の集会の中にいて、神の恵みの証しに耳を傾けている以上、自分は今なお神に祈り、神に訴えることのできる立場にあるのだ、自分にはまだ主を求める時間が与えられているのだ、と。いかに年老いた者も、絶望する必要はない。いかに咎ある者も、自分の恵みの日は尽きたと決めつける必要はない。あの鉄の閂が扉を締めつけ、あなたが底知れぬ所に永遠に閉じ込められるまで、お前には望みがないのだ、と云うサタンに説得されてはならない。この福音の調べは、今なお恵み深い招きという銀の喇叭から鳴り響いている。「耳のある者は聞きなさい」[マタ11:15]。その間は、あなたがたにはまだ時間がある。――主を求めるための時間が。

 この時間があなたに与えられているのは、まさにそのためである。ことによると、あなたはこう考えているかもしれない。自分に長命が与えられているからには、自分は種々の計画を仕上げることができよう。仕事上の過ちを正すことができよう。もっと多くの金銭を貯め込むことができよう、と。あるいは、ことによると、増長のあまり、こう考えているかもしれない。時間の最善の用い方は、そこから地上の快楽を得て、動物のような情欲や欲望にふけることにあるのだ、と。あゝ! 方々。そうではない。時間というこの賜物をあなたがいかに用いようと、神の忍耐はあなたの救いなのである[IIペテ3:15]。それによって神はあなたに、生きることを許されている間に悔い改めるよう教えておられる。神の忍耐は、あなたがさらに神を怒らせるためのものではなく、あなたが神を怒らせるのをやめるためのものである。神が木を切り倒さないのは、その役に立たない枝を伸ばさせ、よりひねこびたしかたで土地をふさがせるためではなく、むしろ、もう少し長く回りを掘って肥やしをやり続ければ、それが実を結ぶようになるかもしれないためである。それこそまさに、かの《とりなし手》が嘆願しておられる動機である。「どうか、ことし一年そのままにしてやってください」[ルカ13:8]。神があなたをそのままにしているのは、あなたが地上を去る用意ができるまで、あなたが去らないようにするためである。神があなたに猶予を与えておられるのは、罪のためではなく、悔い改める機会としてである。ずっとひどい違反を犯させるためではなく、あなたの悪い道から立ち返らせるためである。見る目がありさえしたら、あなたの時間には、この目印がついている。「悔い改めよ! わたしはあなたに猶予を与えている。悔い改めよ。それを無駄にしないよう用心せよ」、と。次のように考えることには、あらゆる未回心の人々に対する励ましがある。もしもあなたにこの時が与えられているのが、その間に悔い改めるためだとしたら、確信して安心するがいい。悔い改めてイエスを信ずるとき、あなたは受け入れられるであろう。もし裁判官が犯罪人の扉の前に立ち、「あなたが私の与える赦罪を受け入れたくなるまで、私は待っているよ」、と云いながら待っているとしたら、また、その犯罪人がその赦罪を受けたくてたまらないとしたら、障害になる妨げは何もありえない。裁判官がその扉の前で待っていること自体、彼がその判決を執行したくないことを証明している。――彼が願うことは、ただ何らかの改悛の徴候を、また、悪の道から立ち返っているという何らかのしるしを見ることであり、もしもそうしたしるしが明らかになるようなことがあるとしたら、猶予を与えることなのである。ならば、聞くがいい。おゝ! あなたがた、まだ回心していない人たち。ならば聞くがいい。そして、あなたに許されている猶予を軽くあしらわないようにするがいい。今が、主を求める時だとこの聖句は云う。確かに、いいかげんにそうすべき時である。ただの時というだけでなく、いいかげんにそうすべき時である。いいかげんに主を求めるべき時である。あなたがた、若い人たち。というのも、サタンがあなたに虎視眈々と目を注いでいるからである。果たして、あなたの不用心な足が悪の通り道におびき寄せられるようなことはないかと、目を注いでいるからである。――その悪は、もしそこから救い出されなければ、生涯最後の時にいたるまで、その道を踏んだことを後悔せざるをえないほどの悪である。おゝ! もしあなたが仕掛けられた罠にかかりたくなければ、あなたがた、若い人たち。今が、主を求める時である。――いいかげんにそうすべきである。今、あなたが母上の屋根の下から離れようとしているとき――父上の優しい導きから遠くに行こうとしているとき、今が主を求める時である。私はこのことを、いま実社会に踏み出そうとしつつある、あるいは、その結婚に、あるいは、その仕事に踏み出す前の、この場にいるあらゆる若者の心に突き入れたいと思う。――今が、主を求める時である。家を建てる前に、神の祭壇を立てるがいい。また、自分の商売を始める前に、自分と自分の財とを神に聖別するがいい。あなたを祝福することができ、祝福することを望んでおられる神に。しかし、おゝ! あなたがた、今や中年に差しかかりつつある人たち。あなたがたは四十年を罪の中で過ごしてきただろうか? あなたがたは、いいかげんに主を求めるべきである。あなたの最上の日々は主を怒らせることのためにささげられてきた。残りの時は、たとい切れ端のようなものでしかなくとも、主への奉仕のためにささげたくはないだろうか? おゝ! 願わくは主の御霊があなたを強いてそうさせてくださるように。そして、あなたがた、杖にすがっている人たち。人の生の果てる間際に近づいてる人たち。いいかげんに主を求めるべきではないだろうか? 私には、あなたの太陽が没しつつあるのが見える。空はほとんど明るさを失い、その赤光は太陽が自らを隠しつつある証しである。おゝ! 暗く暗くなる前に、終わりのない夜がやって来る前に、主を求めよ。お会いできる間に[イザ55:6]。これほど長く容赦されてきたことに感謝するがいい。おゝ! これほど長い寿命をことごとく罪のために用いるほど忘恩であってはならない。というのも、思い出すがいい。さもないと、すべてはあなた自身の破滅のために用いられたことになるからである。あなたは十分に長く愚か者であった。白髪頭に愚かなふるまいはそぐわない。あなたは十分に長く地獄の瀬戸際で遊び散らしてきた。そこから逆戻りすることを始めたくはないだろうか? 神の寛容と忍耐にかけて、私は切に願う。今が、いいかげんに主を求めるべき時であることを思い出してほしい。そして、あなたがた、頬に危険な斑点を浮かべ、その下に虫が巣くっていることを明らかにしている人たち。異様にぎらついた目が、内側に燃える肺病の証しとなっている人たち。今は、あなたがたが主を求める時である。また、あなたがた、からだがぼろぼろになっているか、節々が痛んでいるか、筋がゆるんでいるか、神経がぶるぶる震えているかして、すべてが自分の肉体の虚弱さを、また、それがいかにたやすく塵へと再び崩れ落ちてしまいかねないかを示している人たち。――こうした主からの徴候は、あなたの上にのしかかっている。――今は、あなたがたが主を求めるべき時である。主はまだ優しく戸を叩き、あなたに警告しておられる。用心するがいい。じきに主はやって来ては、悪人の家、不敬虔な者の天幕を取り除くであろう。そして、あなたの魂は主の審きの座の前に立たなくてはならない。あなたがたは、いいかげんに主を求めるべきである。そして、おゝ! あなたがた、すべての不敬虔な人たち。私の声に耳を傾けている、また、あまりにも長く耳を傾けてきた人たち。私は主に求めてきた。何とかしてあなたの心に達するような説教ができるように教えてくださいと求めてきた。そのすべを、私はまだ学んでいないように思われる。願わくは、主の御霊が来られ、とげつきの軸がついた正しい言葉を与えてくださるように。それが、あなたの武具を打ち割って耕し進み、あなたの心の一切のかたくなさを貫いて、ついには良心を打ち砕き、あなたを傷つけ、あなたにあわれみを泣いて求めさせるように。何と! この長い歳月のすべて――パーク街の日々、エクセター公会堂での日々、また、サリー公園の時代、そして、このタバナクルが建って以来のすべての時を過ごしてきていながら、まだ救われていないとは! 今が、主を求める時である。あなたの座っている座席そのものが、あなたを、あなたがたの中のある人々を非難して叫び声をあげている。そして私は、そう語りたくはないが、たちまち、あなたがたの中のある人々を非難する証人とならなくてはならない。というのも、私は自分の最大限の能力を尽くして、キリストを指し示してきたからである。危険から離れよとあなたに警告してきたし、あなたの大きな危難について告げてきたし、罪のすさまじい罰について警告してきたし、イエスのもとに逃れ行くよう懇願してきたからである。今が時である。あなたがた、福音に対して鉄面皮になっている人たち。あなたがたは主を求めるべきである。もしあなたの情欲が神ならば、それに仕えるがいい。だが、この日、決定して選ぶがいい。そして、願わくは神があなたに代わって、誰に仕えることにするかを選んでくださるように。今は、単に主を求める時であるばかりでなく、いいかげんにそうすべき時である。

 また、やはり思い起こすがいい。――そして、ここには厳粛な、だがそれと同時に甘やかなものがある。――今は、神の時なのである。というのも、これは、預言者の口に授けられた神のことばだからである。今が、主を求める時である。神が、「今が時だ」、と仰せになっているのである。神が今は時であると仰っておられるのである。何と、ならば、私がやって来るとき、私が退けられることはありえない。神は、「今が時だ」、と云っておられる。ならば、私が行かなければ、私は神を怒らせることになる。この言葉を聞くがいい。あなたがた、耳の鈍い人たち。また、あなたがた、心が分厚いかさぶたで覆われている人たち。というのも、エホバはこの日あなたに語りかけておられるからである。「きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない」[ヘブ3:15]。「きょう」――神は時を限定しておられる。「きょう」、もし御声を聞くならば、心をかたくなにしてはならない。さもないと、来たるべき日に主は、ご自分の民イスラエルを扱われたようにあなたを扱うことになるであろう。彼らは、長いこと主を怒らせたあげくに、これを主の答えとして自分たちの顔に叩きつけられたのである。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない」[ヘブ3:11]。主は、まだそのようには語っておられない。だが、やがてそうなさるであろう。そして、ソロモンの箴言の中にある、あの恐ろしい御声があなたのもとにやって来るであろう。「わたしが呼んだのに、あなたがたは拒んだ。わたしは手を伸べたが、顧みる者はない。それで、わたしも、あなたがたが災難に会うときにあざけり、あなたがたを恐怖が襲うとき、笑おう」*[箴1:24、26]。「今は恵みの時、今は救いの日です」[IIコリ6:2]。

 もう一言だけ云いたい。今が、主を求める時であり、それは時でしかない。一時でしかない。あなたがたには、主を求めるために永遠が与えられているわけではない。それは時であり、その時は限定されている。まだ時はあるが、それは限られている。あなたがたの中のある人々にとって、それは限られた時である。今が、主を求める時である。船が入り江の中にある。順風はその船を海へと押し出し、母港へと運んでいくであろう。だが、水夫は眠りこけている。船長は風に目を配っていない。帆は畳み込まれている。明日になれば風は変わっている。今や何をどうしようと、陸に閉ざされ、そこに留まるしかない。海に乗り出すことはできない。疾風に命令を下すことはできないからである。あなたもそれと同じである。時はあなたのもとから逃げ失せつつある。今が時である! それをなおざりにすれば、二度と帰って来ないかもしれない。それは一時でしかない。おゝ! このあわれみを良い潮時につかむがいい。どうか、取り逃さないでほしい。神が待っておられる間に、やって来るがいい。やがて来たるべき時に、あなたがたがいくらその扉を叩こうと、この声を聞くことになるといけない。「遅すぎる、遅すぎる。もはや今は入ることができない」。あゝ! このことをしかるべく云い表わせる力が私にあれば、そして、あなたにそれを実感させることができればどんなに良いことか。だが、もしかすると、あなたは、そうならずにすむように私が願っているような時に、それを実感することになるかもしれない。つまり、臨終の床においてである。清教徒たちは、ケンブリッジ近郊に住んでいたひとりの女が、その死の床で罪の確信を得たという話を語っている。彼女のもとには、何人もの教役者がやって来た。全員、求道中の魂を慰めることに熟練した人々である。だが彼女は、その五、六人から優しく、慰めに満ちたしかたで語りかけられた後で、かっとその目を開いて彼らを睨みつけては、ただこう云ったという。「時間を戻してよ、時間を戻してよ。さもなきゃ、地獄落ちだわよ」。そして、そのようにして彼女は死んだ。そして聞くところ、そのように云いかねない人はたくさんいるらしい。「もう時間がない! もう時間がない。もう取り戻せない!」 おゝ! 飛び去って行く時の翼を捕まえるがいい。まだ、主を求める時であるうちに。あなたがたも知っている話かもしれないが、ひとりの旅人が大草原にいたところ、遠くに火が見えたという。大草原が燃え盛っていたのである。そして彼には、生き延びる望みが1つしかないことが分かった。火には火で戦うことである。彼は自分の燐寸を探した。もし自分の回りに輪を作り、火がやって来ても延焼するものがないほど草を焼き払っておけば、助かるであろう。燐寸箱の中には、たった三本の燐寸しか見つからなかった。彼は一本を取ると、それなりに慎重に擦った。だが、悲しいかな! あらかじめ作っておいた口火にもう少しで火がつくというところで、燐寸は消えてしまった。彼はもう一本を手に取ると、今度は、非常に震えつつ、不安に満ちた神経質そうな様子でそれを擦った。そこに火が灯った。彼はこれで安全だと思った。だが、一陣の風がそれを吹き消してしまった。そして今や、すべては最後の燐寸にかかっていた。もしその燐寸が尽きてしまえば、彼は助けもなく、友に憐れまれることもないまま、黒こげになって死ななくてはならないのだ。彼はがばと突っ伏すと、囁き声でこう祈った。「神よ。助け給え。神よ。助け給え! この一本がうまく行きますように」。彼はそれを擦った! あなたにも予想はつくであろう。彼がいかに慎重にそれを回りの草の山の上に置いたことかを、また、途方もない危険を冒そうとするのがいやでたまらないといった様子で、いかにそれを擦ったかを。だが、彼は神をほめたたえた。見ると火がうまく燃えつき、彼のいのちは助かったのである。おゝ、罪人よ。あなたには、たった一本の燐寸しか残っていない。――火を灯せるのは、ただ一度である。――今が、主を求める時である。おゝ! 今、今晩、主を求めるがいい。この瞬間に、その座席の上で云うがいい。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください!」[ルカ18:13]、と。それがあなたの祈りだろうか? よろしい。神はそれを聞いて、かなえてくださる! しかし、いま私は、あなたの許しを願って、しばらくの間、この聖句の第二の部分について語らなくてはならない。主を求めるべきもう1つの理由があるのである。そして、それは――

 II. 《ほむべき期待》である。

 すなわち、いずれ時が来れば、主は私たちに正義を注いでくださるのである。このことを、私はこう理解している。耕し、種を蒔くことは私たちの義務だが、天の恵みの雨がなければ何も生じない。しかし、神は確かにそれを、時期が来れば送ってくださる。事実、私たちが耕し、種を蒔くことは、神の恵みの結果であり、しるしでなのである。そして、慰めの恵みは、へりくだりの恵みがすでにやって来ている所にやって来るであろう。これが「正義」と云うとき、それは私たちにこう確信させるためのものだと思う。すなわち、神は、正義の道によって、私たちに対して恵み深くあることがおできになるのである。私たちのもろもろの罪の罰を負われた、その愛する御子を通して、神は正義をもって罪人たちの上に雨を注ぐことがおできになる。さて、ほんのしばし語らせてほしい。あなたは、自分には恵みがないと云う。自分は、しかるべき生き方をしていないと云う。その通りである。しかし、主を求めるがいい。そうすれば、主はあなたに正義を注いでくださるであろう。注目するがいい。あらゆる恵みが主から来なくてはならないことを。雨は神からやって来る。神がそれを注いでくださる。あらゆる恵みの雫は天からやって来る。あなたがた、罪人たちは、神が与えてくださらない限り、いかなる恵みも得ることはできない。これを覚えておくがいい。そして、今それを求めて神を待ち続けるがいい。天からの恵みでなければ、それは恵みでも何でもないであろう。だが恵みはあなたのもとにやって来ることができる。地上には、雨が降らなければ、決して潤されるはずがない部分がある。誰も丘の頂上を灌漑しようなどとは考えない。しかし、神はその高殿から山々に水を注がれる[詩104:13]。私たちはあなたに恵みを与えることができない。あなたは、それほどに荒れ果てた、物寂しい、山岳地帯にいる。だが、神はあなたに達することができるし、達したいと願っておられる。神がいかにあなたに正義を注ごうとしておられるか見るがいい。ならば、雨なら荒野にさえも平らな道を通って来るように、神の恵みはあなたの砂漠の心にも平らな道を通って滴り落ちるのである。雨は、神のみこころの通りに、みこころの所で、みこころの時に主権的にやって来る。そして。程度や期間においても、それはみこころに沿っている。恵みもそれと同じである。ならば、それを求めてあなたの魂を神に掲げるがいい。そして、自分がそれに値しないことを感じて、頭を垂れるがいい。

 しかし、この雨という隠喩には、豊潤さという観念もある。神はあなたに正義を注いでくださる。もしあなたに何の恵みもなければ、神はあなたに多くの恵みをお与えになるであろう。もしあなたに大きな必要があれば、大きな満たしをお与えになるであろう。それを雨と降り注いでくださるであろう。神は、その愛において出し惜しみをなさらない。一滴や二滴ではなく、あわれみの大海をあなたに与えてくださる。「わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注……ごう」[イザ44:3]。さて、これは主を求めるべき良い理由ではないだろうか? あなたがたは、主以外のどこからも恵みを得られない。神はそれをふんだんにあなたに与えることがおできになる。みこころのままに与えるか与えないかは神の御手の中にある。おゝ! それを求めるがいい。神は星々を支え、雲を導き、嵐に翼をおつけになる。主の恵みを主に求めるがいい。主はそれをあなたにお与えになるであろう。他の誰からもそれがやって来ることはありえない。しかし、それはやって来るであろう。そのあわれみがある。そして、この聖句の中であなたは、それがやって来るまで求めるよう告げられている。恵みがやって来るまで主を求めるがいい。私の知っているひとりの罪人は、一度神に叫び求めただけで、たちまちあわれみがやって来た。だが、多くの場合、魂は何度も何度も叫び、長いこと経ってからのみ、答えを得た。私は、今晩ここに来る際にあることを見た。――それは一瞬のうちに起こった。――見ると、ひとりの小さな子どもが学校から帰って来たばかりであった。それは、ごく幼い子だったと思う。そして、その子は母親のいる家の扉を叩いたが、母親は出て来なかった。それでその子は、そうした場合に行なうべき最善のことをした。――自分にできる限りの大声で叫んだのである。すると母親が出迎えに出てくれた。もしあなたがたが、これまであわれみの扉を叩いてきたのに、あわれみがやって来ていないとしたら、それを叫び求めるがいい。おゝ! 呻きと、涙と、叫び、吐息は、あわれみの歩調を早めるであろう。神は罪人が叫ぶとき、愚図愚図していることがおできにならない。罪人が泣くとき、キリストはすぐにその人に情けをかけてくださるであろう。しかし、いずれにせよ、主が来られるまで続けるがいい。主が正義をあなたに注がれるまで、求めるがいい。エリヤは祈りによってたちまち火を得たが、雨はさほどすぐには得なかった。彼は、自分のしもべに、「さあ、上って行って、海のほうを見てくれ」[I列18:43]、と云わなくてはならなかった。そこにエリヤがいた。自分の顔をひざの間にうずめて、大いなる祈りをしていたが、一滴の雨も、一片の雲のしるしも見えなかった。「もう一度、もう一度」、が七度繰り返され、そのときに、人の手のひらほどの小さな雲[I列18:44]が見えたのである。罪人よ。あなたは祈ったことがあるだろうか? もう一度行くがいい。二度祈ったことがあるだろうか? もう一度行くがいい。三度来たことがあるだろうか? もう一度行くがいい。それが四度になっても、もう一度行くがいい。それは六度目になっているだろうか? もう一度行くがいい。祈りにおいては、何も切り詰めないようにするがいい。あなたは、神を十分に長くお待たせし続けてきた。神が今しばらくの間ゆっくりされても驚いてはならない。もう一度行くがいい。もう一度行くがいい。こう云うがいい。「私は決心しました。あなたがあなたの慰め、あなたの正義、あなたの恵みを私に注ぐまで、あきらめはすまい、と」。神は確かにそれを注いでくださるであろう。あなたは、いかに早くそうなるかは知らない。――いかに早くそうなるかを知らない。――あなたは慰めを得るであろう。そして、それがやって来るとき、それは一切の遅れを埋め合わせるであろう。あなたも知る通り、女は子どもが産まれてしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはや産みの苦しみを忘れてしまう。[ヨハ16:21]。そして、おゝ! キリストがあなたのものであるとき、あなたは自分の喜びと、踊るような歓喜の中で自分の苦しみを忘れてしまうであろう。私がたったいま考えているのは、コロンブスと彼の乗組員たちのことである。彼らは大西洋を長い間横断してきたが、黄金の国エルドラドを見いださなかった。そこで、水夫たちは引き返すことを語り合った。そして、彼はありとあらゆる手練手管を用いて、かの未知の岸辺へ向けて、もう少し彼らを先へ進めた。とうとう事は急場に達し、彼らは反乱を起こした。彼らはもう先へ進みたくはないと云った。二度とその国を探したくはないと云った。なぜ自分らは漂流して、永遠に遭難しなくてはならないのか? そこでコロンブスは云った。「もう三日だけ与えてくれ。それで、もし今から三日目までの間に、何の岸辺も見えなければ、われわれは舵を反転させよう」。その三日の間に、その船乗りたちの目の前には、新世界の麗しい岸辺が立ち現われたのである。かりに彼らが二日目に引き返して、故国に帰っていたとしたら、そしてそれを見つけなかったとしたらどうであろう。よろしい。私も、それがこの水夫たちにとって大きな意味を持ったかどうか分からない。誰か他の人がそれを発見していたことであろう。だが、あなたは、ことによると、今、後三日もすれば《愛する方》にあって受け入れられるばかりのところにいるのかもしれない。――もしかすると、後三時間のところまで来ているかもしれない。それが後三分のこととなるよう神に祈るがいい。そして、あなたはもう少し先まで行きたくはないだろうか? まだ叫びたくはないだろうか? 福音の一歩を踏み出したくはないだろうか? 主イエス・キリストを信ずる大きな一歩を踏み出したくはないだろうか? そうすれば救われるのである。そうすることで、あなたはエルドラドへ至るのである。かの黄金の国に、かの憐れみの国に、あのキリストの胸に、祝福された者たちの安泰さに、死後明らかに示される栄光の確固さへと。おゝ! 罪人よ。落胆せずに、主を求めるがいい。というのもあなたには、主があなたに見つけられるという主の約束があるからである。神のしもべたちの中のある人々でさえ、相当に長い間探していても、主を見いださないことがあった。あの親愛なるキリストの殉教者、グローヴァー氏は、牢獄に入っていたとき、非常に悲しい心の状態にあって、こう云った。「私は主を愛しているし、主のためなら喜んで焼き殺されよう。だが、おゝ! 主の御顔をほんの一瞥でもできたならどんなに良いことか」。そこで、彼とともに牢獄に入っている、彼とともに苦しんでいる人々は、彼にこう告げるのだった。「主はあなたに現われてくださいますよ。あなたは喜びをいだくでしょうよ」。しかし、日々、牢獄の中で費やされる物憂い時間を通じて、彼は絶えず云っていた。「私は主のものだろうか? 主は恵み深くすることをお忘れになったのだろうか? 主はご自分のあわれみの心を閉ざしてしまわれたのだろうか?」 「しかし」、とグローヴァーは云った。「もし主が二度と決して慰めに満ちたことばを私にかけてくださらないとしても、私は主の真理を知っている。主の福音を知っている。それで、私は主のために焼き殺されよう。主の恵みによって、決して離れ去らないであろう」。さて彼は、火刑に遭う朝がやって来たとき、自分の霊に何か重苦しいものを感じつつ目覚めた。彼が目を向けるいかなる約束にも何の慰めもないように思われ、祈りは何の慰藉ももたらさなかった。そこへ人々がやって来て、彼に鎖をかけると、彼を引き出した。そして彼は、火刑柱があり、薪束がある所に来て、服を脱がされ、焼かれるため自分の襯衣を着せられようとした。そのとき突然、彼は飛び上がって云った。「主が来られる! 主が来られる! 主が来られる! 主の御名に栄えあれ」。先に友人たちは彼に、彼の霊が息を吹き返した何らかのしるしを示すように求めていた。それで彼は、ほとんど火を感じていないかのように詩篇を歌り、祈りながら、立って焼かれた。そして、これは熱心に求めるあらゆる者にとって同じであろう。もし愛の御顔が何年もの間、一度もあなたのもとにやって来なかったとしても、あなたはこれからそれを得るであろう。というのも、信じた魂は安全であるに決まっているからである。ある者らは信じたが、慰めを得ないでいる。だが、彼らは安全である。慰めはやって来るであろう。ただ求めるがいい。主は正義をあなたに注いでくださるからである。

   「さらば わが手を ゆるめまじ
    御いつくしみの われ大胆(つよ)めれば。
    われ、など否を 受けうべき、
    イェスを頼みに 訴えおるに」。

おゝ! 罪人よ。決して手放してはならない。キリストにしがみつくがいい。そうすれば、キリストはあなたを投げ捨てることはおできにならない。というのも、これが主の約束だからである。「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」[ヨハ6:37]。来るがいい。願わくは主が、あなたを祝福してくださるように。アーメン、アーメン。

 

切迫した必要[了]

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